考古学一覧

第1400話 2017/05/18

前期難波宮副都説反対論者への問い(4)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 前期難波宮造営を天武期とする際の根拠である飛鳥編年に対して、大阪歴博等の考古学者による干支木簡や年輪年代測定、理化学的年代測定による実証的反論を紹介してきましたが、それとは別に論理的な批判が西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から寄せられましたので、紹介します。次の通りです。

 「日本書紀を正しいとして創られた飛鳥編年によって導き出された難波宮の造営時期が日本書紀の内容と矛盾する。これは飛鳥編年そのものが間違っている証拠。」(西村秀己)

 骨太の論証スタイルを好む西村さんらしいシャープな論断です。もちろん、わたしも同意見です。古田学派の研究者であれば、『日本書紀』の記事の暦年を無批判に信用できないとするのは当然のはずです。
 たとえば孝徳紀の「大化」についても九州年号「大化」と50年のずれがありますし、「白雉」も九州年号「白雉」と2年のずれがあることは古田学派であれば周知のことです。持統紀の「吉野」関連記事が34年移動されていることも古田先生が論証されたところです。ですから、『日本書紀』暦年記事を「是」として成立している飛鳥編年やそれに基づく緒論を無批判に支持、依拠することもまた、古田学派ではありえないと思うのです。(つづく)


第1397話 2017/05/14

「前期難波宮副都説」反対論者への問い(2)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 前期難波宮九州王朝副都説に対して、前期難波宮造営時期を天武期とする批判があります。その根拠は『日本書紀』の暦年記事を「是」として成立している一元史観の飛鳥編年です。その飛鳥編年の根拠が脆弱であり基礎データも間違っているとする服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論文(「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」『古代に真実を求めて』17集)が出されていることは既に紹介してきましたが、それ以外にも天武期造営説には次のような問題があることも指摘してきました。
 それは、もし天武が前期難波宮を造営したのであれば、なぜ『日本書紀』の天武紀に書かれずに、孝徳紀に書かれたのかという素朴な疑問に答えられないのです。『日本書紀』を編纂したのは天武の子や孫たちの世代であり、『日本書紀』で最も詳しく立派な人物として記されているのが天武であるにもかかわらず、国内最大規模で初めての朝堂院様式の前期難波宮の造営を天武紀に書かれていない理由を全く説明できません。
 一元史観の飛鳥編年が脆弱であることや、『日本書紀』の史料事実を副都説反対論者は説明できないまま、前期難波宮天武期造営説を主張するのは学問的に真摯な論争とは言い難いものです。(つづく)


第1394話 2017/05/12

前期難波宮出土百済土器の史的背景を問う

 今週、四国出張で高松市のホテルに宿泊しました。そのおり、高松市在住の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)と夕食をご一緒しました。話題は多岐にわたりましたが、特に前期難波宮九州王朝副都説への批判意見が脆弱すぎて、学問論争の体を為していないということで意見の一致をみました。
 確かに、わたしからの指摘や反論に答えないまま、前期難波宮九州王朝副都説の批判を続けるという姿勢はあまり学問的に誠実とは言えません。たとえば四年前に発表した下記の「洛中洛外日記」での指摘に対しても、無視されたままです。
 太宰府や北部九州ではなく、難波に百済や新羅の土器が濃密に出土しているという考古学的事実は、九州王朝説に立てば、前期難波宮九州王朝副都説以外ではうまく説明できないのではないでしょうか。
 学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深めると、わたしは考えています。是非、この指摘についてもご批判いただきたいと願っています。

【再録】古賀達也の洛中洛外日記
第562話 2013/05/26
難波宮出土の百済土器

 先日、久しぶりに大阪歴史博物館を訪れ、最新の報告書に目を通してきました。前期難波宮整地層から筑紫の須恵器が出土していたことを報告された寺井誠さんが、当日の相談員としておられましたので、最新論文を紹介していただきました。
 その報告書は『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)掲載の「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(寺井誠)です。難波(上町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られていますが、その出土事実に基づいて、その史的背景を考察された論文です。もちろん、近畿天皇家一元史観に基づかれたものですが、その中に大変興味深い記事がありました。

 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1〜2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」(18頁)

 百済や新羅土器の出土数が他地域を圧倒しているという考古学的事実が記されており、特に百済土器の出土が難波に集中しているというのです。この考古学的事実が正しければ、多元史観・九州王朝説にとっても近畿天皇家一元史観にとっても避け難く発生する問題があります。
 古代における倭国と百済の緊密な関係を考えると、その搬入品の土器は権力中枢地か地理的に近い北部九州から集中して出土するはずですか、近畿天皇家の「都」があった飛鳥でもなく、九州王朝の首都太宰府や博多湾岸でもなく、難波に集中して出土しているという事実は重要です。この考古学的事実をもっとも無理なく説明できる仮説が前期難波宮九州王朝副都説であることはご理解いただけるのではないでしょうか。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記された白雉改元の舞台に百済王子が現れているという史料事実からも、その舞台が前期難波宮であれば、同整地層から百済土器が出土することと整合します。従って文献的にも考古学的にも、九州年号「白雉」改元の宮殿を前期難波宮とすることが支持されます。すなわち、九州王朝副都説の考古学的傍証として百済土器を位置づけることが可能となるのです。


第1387話 2017/05/07

服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を

 『日本書紀』等の暦年記事を「是」として土器の相対編年とリンクさせて成立している、いわば一元史観による土器編年である飛鳥編年が、考古学界では不動の通念となっています。それに代わる九州王朝説・多元史観に基づく新たな太宰府土器編年を構築するべく、わたしは鋭意検討を進めています。
 他方、古田学派の中には未だ一元史観に基づく飛鳥編年により、前期難波宮の造営年代を660年以降と見なす論者もおられます。学問研究ですから様々な意見があってもかまわないのですが、飛鳥編年の根拠が脆弱で、基礎データにも誤りがあるとする論文が古田学派内から既に発表されていますので、改めてご紹介しておきたいと思います。
 それは服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)です。服部さんは金属工学がご専門で、データ解析処理なども得意とされています。同論文では飛鳥編年の根拠とされた須恵器の外径の測定値が誤っていることや、サンプル母集団の問題点などが具体的に指摘されています。あわせて『日本書紀』の暦年記事の年代の問題点も古田説など多元史観に基づいて批判もされています。
 同論文に先立ち、服部さんはその研究報告を「古田史学の会・関西例会」でも発表されていました。しかしその後、それに対する賛否も意見もないまま、飛鳥編年を「是」とする意見が出されています。自説への批判を求めた、facebookに寄せられた服部さんのメッセージの一部を転載します。前期難波宮造営時期を660年以降とする論者からの真摯なご批判を期待しています。

【服部さんのメッセージの転載】
 飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。
 白石氏の論考では、①山田寺下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
 氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。
 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)


第1384話 2017/05/06

飛鳥編年と難波編年の原点と論争

 このところ太宰府や北部九州の土器編年の勉強を続けていますが、それらが飛鳥編年に準拠しており、同編年の影響力の大きさを改めて感じています。
飛鳥編年の方法論と原点は、畿内の遺跡から出土した土器の相対編年を『日本書紀』の記事の暦年とリンクするというものです。それを基点に藤原京から出土した干支木簡などで追認されています。特に七世紀については須恵器の詳細な様式編年がなされており、土器により正確な暦年特定が可能と断定する論者もいます。すなわち、『日本書紀』の暦年記事は正しいとする立場(一元史観)です。

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を提起した後、難波編年について集中して勉強しました。特に大阪歴博の考古学者からは何度もご教示いただき、難波編年が文献(『日本書紀』孝徳紀、『二中歴』年代歴)との整合性もとれており、当初思っていた以上に正確であるとの印象を抱いたものです。その過程で、難波編年と飛鳥編年の考古学者間で激しい論争が続けられていることを知ったのです。

 それは前期難波宮整地層から極少数出土した須恵器(坏B)を根拠に、前期難波宮は天武期に造営された『日本書紀』に記録されていない宮殿であると、飛鳥編年に立つ研究者から批判が出され、それに対して難波編年に立つ研究者が出土事実(整地層や前期難波宮造営期の主要土器〔坏H、G〕、戊申年木簡〔648年〕の出土、前期難波宮水利施設からの出土木材の年輪年代〔634年〕、前期難波宮外周木柵の年輪セルロース酸素同位体比測定〔583年、612年〕など)を根拠に反論するという論争です。

 この論争経緯と内容を知ったとき、飛鳥編年により難波編年を批判する論者のご都合主義に驚きました。『日本書紀』の暦年記事を「是」として自らの飛鳥編年の正当性を主張しながら、前期難波宮整地層から自説に不都合な土器が出土したら、『日本書紀』孝徳紀の難波宮造営(652年)記事は誤りとするのです。理不尽(ダブルスタンダード)と言うほかありません。

 こうした理不尽な批判に対して、難波宮発掘を担当した考古学者は、『日本書紀』孝徳紀の記事を根拠に反論するのではなく、考古学者らしく出土事実と理化学的年代測定で反論を続けました。“孝徳紀の記事は間違っている”とする批判者に対して、“孝徳紀の記事は正しい”という反論では学問論争の体をなしませんから、考古学的事実の提示をもって反論するという大阪歴博等の考古学者の対応は真っ当なものです。ですから、わたしは彼らの方法や主張こそが学問的だと思いました。

 この論争はまだ水面下で続いているようですが、ほとんどの考古学者は大阪歴博が示した難波編年(前期難波宮の造営を7世紀中頃とする)を支持しているとのことです。もちろん、学問は多数決ではありませんが、この論争はどう贔屓目にみても難波編年がより正しいと言わざるを得ないのです。もし、難波編年が間違っているといいはりたいのなら、干支木簡でも年輪年代でも何でもいいですから、前期難波宮整地層や造営期の地層から明確に天武期とわかる遺物が出土したことを事実でもって示す必要があるでしょう。さらに指摘するなら、自らの飛鳥編年の根拠とした『日本書紀』の暦年記事は正しいが、孝徳紀の難波宮造営記事は誤りとする史料批判の根拠も示していただきたいものです。

 最後に、前期難波宮整地層出土の須恵器坏Bについてですが、大阪歴博の考古学者からお聞きした見解では当該須恵器は坏Bの原初的なタイプで、7世紀前半のものとみて問題ないとのことでした。報告書にもそのように記されていたと記憶しています。本年1月に開催した「古田史学の会・新春講演会」でも、講師の江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)におたずねしたところ、同須恵器は通常の坏Bよりも大型で、いわゆる坏Bとは見なせないとのご返答でした。坏Bについては大宰府政庁Ⅰ期からも出土しており、太宰府編年とも深く関わっていますので、只今、猛勉強中です。


第1372話 2017/04/19

肥後と薩摩の共通地名

 久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』を更に一月延長してお借りし、読みふけっています。考古学の専門家を対象読者としているだけに難しい内容なのですが、現場の考古学者により書かれた最先端研究の論文集ですので、九州王朝説から見ても貴重な情報が満載という感じです。
 今回、注目した論稿は松崎大嗣さん(指宿市教育委員会社会教育課)の「西海道南部の土器生産」です。わたしは南九州の土器について全く知りませんので同論稿を興味深く読みました。そこに注目すべき記述がありました。それは土器ではなく地名についてです。
 『続日本紀』和銅6年(713)三月条に豊前国から二百戸が隼人の領域(薩摩・大隅)に移民させられた記事があり、その痕跡として豊前・豊後の地名が大隅国桑原郡にあることが紹介されています。更に肥後の地名も薩摩にあることから、大和朝廷の政策として肥後からも薩摩に移民させられたとする説を紹介されています。その共通地名とは、薩摩国高城郡の6郷の内、合志・飽田・宇土・託万の4郷で、これらが肥後国の郷名と一致しているとのことなのです。
 松崎さんはこの郷名の一致を大和朝廷による律令体制の強化策と見られているようですが、わたしは九州王朝時代に肥後から薩摩への郷名移動(命名)がなされた可能性も考えたほうがよいと思いました。もちろん両方の可能性があるので、断定はできませんが、肥後と薩摩については『続日本紀』に有名な記事があり、両地域の関係が九州王朝の時代から深かったと考えられます。それは次の記事です。

 「薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督弖自美、また、肝衝難波、肥人等に従いて、兵を持ちて覓国使刑部真木を剽劫(おびやか)す。是に竺志惣領に勅して、犯に准(なず)らへて決罰せしめたまう。」『続日本紀』文武4年(700)6月条

 薩摩の比売を中心に九州王朝の地方官職名「都督・助督」を持つ衣評(鹿児島県頴娃郡)の長官と副官らが「肥人等」に従って、大和朝廷の使者を脅かしたという記事です。この九州王朝最末期の記事から、肥後と薩摩の結びつきは明らかです。しかも「肥人等」に従ったとありますから、上位者は薩摩比売ではなく「肥人」ということを示しています。ですから地名の「移動」も肥後から薩摩へと考えてよいかと思います。
 この地名「移動」が九州王朝の時代(700年以前)なのか、それよりも後の大和朝廷の時代なのか、にわかには結論は出せませんが、松崎さんの論稿により、こうした肥後と薩摩の共通地名の存在を知ることができました。
 「乞食と地名(研究)は三日やったら、やめられない」という言葉があることを古田先生からお聞きしたことがあります。それほどに地名研究は面白いものです。ただし、「歴史学としての地名研究」には資料や論証により地名成立の時間軸という視点をどのように明確にするのかという困難で重要な課題があります。こうした学問的手続きを欠いた「地名研究」は古田史学とは異質です。もちろん異質だからダメということではありません。


第1369話 2017/04/12

武部健一著『道路の日本史』を読む

 武部健一著『道路の日本史』(中公新書、2015年)を読んでいます。以前から書店で目にしていて、気になっていた一冊でしたので、今日、思い切って購入しました。
 著者の武部さん(1925-2015)は日本道路公団に勤務され、高速道路の建設に従事されていたと紹介されています。同書の出版は2015年5月25日で、著者が亡くなられたのが同年5月ということですから、著者最後の一冊のようです。同書で「交通図書賞」「土木学会出版文化賞」を受賞されたとありますので、もしかすると物故後の受賞なのかもしれません。著者の人生の集大成ともいうべき渾身の一冊ではないでしょうか。
 まだ読了していませんが、次の箇所が気になっています。多元的古代官道研究を進める上でヒントになりそうです。

 「図に見るように、都の位置は京都の平安京である。各道には、都からそれぞれ駅路が一本ずつ樹状につながった。西海道だけは別で、大宰府を中心にネットワークを形成していた。」
 「西海道は特にネットワーク性が強く、一カ所が不通になっても他の経路を使って迂回することが可能なように組まれていた。当時の国家が外敵の侵入に備えて、不時の場合でも対処できるように計画したものと推察される。」(45〜46頁)

 こうした指摘は、九州王朝の存在を裏付けるように思われました。
 また、「古代道路は幅12メートルの直線路」という指摘もされており、これなどは当時の「尺」単位が約30cmの「北朝系」であったことを指示しているのではないでしょうか。それですと12m÷0.3m=40尺の道路となりますが、「南朝系」の1尺約25cmでは、幅48尺道路となり、中途半端な数字です。もし、幅12mの古代官道が九州王朝によるものであれば、「北朝系」尺の採用を開始したと考えられる7世紀初頭以降ということになりそうですが、今後の研究課題です。


第1366話 2017/04/08

太宰府条坊跡出土土器の編年

 久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』には古代九州の土器編年について論じられた長直信さん(大分市教育委員会文化財課)の「西海道の土器編年研究 -7世紀における土器編年の現状と課題-」が掲載されています。かなり専門的な考古学論文ですが、太宰府条坊都市成立年代を考える上で示唆に溢れた論稿でした。
 主テーマは筑前における7世紀の土器の編年観ですが、そのことについて論文冒頭の「なぜ7世紀の土器編年が重要か」で次のように説明されています。

 「対象とする7世紀の土器編年は前後時代と比較して編年観・年代観の2点について研究者によって少なくないずれがある。このずれがなぜ問題なのかというと西暦601年から700年までの7世紀は日本史では概ね古墳時代後期・終末期とされる時代から奈良時代直前の時期に相当し、定型化した原理やシステムが未確立な古墳時代的な様相の中の律令的な様相(たとえば大化改新における諸政策、近江令・飛鳥浄御原令などの法整備やこれに伴う官僚制への移行など)が「段階的」に浸透していく時期であり列島における古代国家(律令国家)の成立がどの時点でどのように行われたかに関わる日本史上でも極めて重要な時期にあたる。」(13頁)

 この長さんの7世紀の重要性に対する認識は九州王朝説の視点からもほぼ同様と言っても過言ではありません。それは日出ずる処の天子・多利思北孤の時代に始まり、太宰府遷都や前期難波宮副都の造営、白村江戦での敗北、そして大和朝廷との王朝交代という、最も九州王朝が揺れ動いた時代だからです。従ってこの時代の土器編年の確立は重要なのですが、長さんによれば研究者によって判断のずれが少なくないということです。
 更にわたしが重視したのが次の編年観の解説です。

 「西海道における7世紀の遺跡を理解する上で重要な天智朝の土器とは筑前南部Ⅱ-2期からⅢ-1期への移行期にまたがる様相が考えられる。」(20頁)

 この「筑前南部Ⅱ-2期」「Ⅲ-1期」の代表的な土器は「筑前南部Ⅱ-2期」が須恵器坏G、「Ⅲ-1期」はGとBであり、それらの土器の様相を示す遺構が天智朝(660〜670年頃)時代とされています。この「Ⅲ-1期」の土器が太宰府条坊跡から出土していることも紹介されています(大宰府条坊跡98次 SX005)。
 この発掘調査報告書を読んでみたいと思いますが、もし条坊遺跡面の上からの出土であれば、太宰府条坊の造営は天智期(660〜670年頃)よりも早いことになります。もし条坊遺跡整地層からの出土であっても条坊造営が天智朝の頃となりますから、いずれにしても太宰府条坊の造営は井上説による7世紀末(藤原京と同時期)よりも早いということになります。この理解が妥当なのか、6月の井上信正さんの講演のときに教えていただこうと思います。


第1365話 2017/04/07

大宰府政庁造営年代の自説変更の思い出

 古代史研究において、自説の誤りに気づき、撤回したり変更することは悪いことではありません。そうした経緯をたどりながら学問や研究は進展するからです。ただ残念ながら、自説への批判を感情的に受け入れられなかったり、自説への思いこみが強く、自説が間違っていることに気づかない人が多いのも古代史研究ではよくみられることです。恥ずかしながら、わたし自身にもそうした経験がありますので、心したいと思います。
 わたしは大宰府政庁Ⅱ期造営年代について、自説を変更した経験があります。当初、太宰府条坊都市と大宰府政庁Ⅱ期は九州王朝の都として同時期に造営されたもので、その年代を7世紀初頭の「倭京元年(618)」が有力と考え、「よみがえる倭京(太宰府)-観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年6月)という論文で発表しました。しかし、この説には当初から問題点がありました。それは観世音寺が創建される白鳳年間まで、大宰府政庁Ⅱ期の東側に位置するその地が50年近く“更地”のままで放置されたことになるという点でした。この不自然な状況をうまく説明できず、わたし自身もその理由がわからなかったのです。もし、この点を誰かに指摘されたら、わたしは困ってしまったことでしょう。
 そうしたときに知ったのが、井上信正さんの大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建よりも条坊都市の成立が早いという新説でした。この井上説を知って、わたしは太宰府条坊都市はそれまで通りに7世紀初頭の造営、大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺は7世紀後半の白鳳年間とする現在の説に変更したのです。これにより、先の「観世音寺敷地の50年間更地」問題が回避されたのでした。
 この画期的な井上説はわたしの説だけではなく、大和朝庭一元史観に基づく考古学編年にも大きな影響を与えました。そしてそれ以降、一元史観では解決できない様々な矛盾が現れるのですが、そのことは別の機会にご紹介します。


第1363話 2017/04/05

牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市

 久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』を何度も熟読しています。同書は2017年2月18〜19日に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集で、久富さんがわざわざ参加されて入手された貴重なものです。
 主に九州の土器編年研究の成果や課題がまとめられており専門的で難しいのですが、九州王朝研究にとって避けては通れない重要な研究分野です。最新の考古学的成果がまとめられており、興味深い記述が随所にあり、まだ勉強途中ですが、ご紹介したいと思います。
 同書中、最も注目した論稿が石木秀哲さん(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)の「西海道北部の土器生産 〜牛頸窯跡群を中心として〜」でした。大野城市を中心として太宰府市・春日市に広がる九州最大の須恵器窯跡群として著名な牛頸窯跡出土土器を中心に北部九州の土器について解説された論稿ですが、わたしが着目したのはその土器編年と時代別の出土量の変遷でした。
 牛頸窯跡群は太宰府の西側に位置し、6世紀中頃から太宰府に土器を供給した九州王朝屈指の土器生産センターです。そして時代によって土器生産が活発になったり、低迷したことが報告されています。中でもわたしが注目したのは次の部分でした。

 「牛頸窯跡群の操業は、6世紀中ごろに始まる。当初は(中略)2〜3基程度の小規模な生産であったが、6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し、窯が作られる範囲も牛頸地区などに拡大し、7世紀前半にかけて継続する。」(44頁)
 「3.大野城・水城築造時期の牛頸窯跡群
 この時期にあたるのは牛頸窯跡群編年のⅤ期と呼ばれる時期である。生産される器種が最も少なくなる時期であり、古墳時代以来の主要土器であった蓋坏(坏H)は基本的に姿を消す時期とされ、法量も最も小型になる。(中略)
 この時期の窯跡は極めて少なく、調査されたものは5基程度と前代に比べて大きく減少する。」(45頁)
 「特に8世紀前半は最も多く窯が作られ、生産される器種も最も豊富な時期である。(中略)小型器種中心の生産が進められ、西海道一の大規模須恵器生産地となっていく。」(46頁)

 これらの記事からわかるように、牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数は一気に急増するとあり、まさにわたしが太宰府条坊都市造営の時期とした7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡と考えられます。
 また7世紀中頃に編年されているⅤ期に牛頸での土器生産が減少したのは、前期難波宮副都の造営に伴う工人(陶工)らの移動(「番匠」の発生)の結果と理解することができそうです。石本さんは朝鮮半島での戦争に牛頸の陶工たちが動員されたため、土器生産が減少したとされていますが、この理解も有力と思います。
 そして九州王朝滅亡後の8世紀になると、大和朝庭の大宝律令の下の西海道を治める「大宰府」としての機能が発展し、牛頸での土器生産は最盛期を迎えたようです。
 このように石本論稿に紹介された牛頸窯跡群の変遷は7世紀における九州王朝史に対応しているのです。これまで主に文献史学の研究成果によっていた九州王朝史復元作業や太宰府都城編年の諸仮説群が、考古学的発掘成果とも整合していることがわかりました。(つづく)


第1362話 2017/04/02

太宰府条坊の設計「尺」の考察

 「洛中洛外日記」1356話の「九州王朝の大尺と小尺」で紹介した先月の「古田史学の会」関西例会での服部静尚さんが発表された古代の「高麗尺」はなかったとするテーマに触発され、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により北朝尺(30cm弱)を採用したと考えました。その根拠として太宰府条坊区画(約90m=300尺)をあげましたが、大宰府政庁や観世音寺などの北部エリアの新条坊区画が太宰府条坊都市の区画と「尺」単位が微妙に異なる点についてはその事情が不明で、引き続き検討するとしました。
 使用尺が1尺何センチなのかは当時のモノサシの実物が存在していればはっきりするのですが、それ以外では大規模な条坊や条里の距離から推測する方法があります。宮殿や寺院など建築物の場合は、規模が小さく計測誤差や何尺で建築したのかは設計図でもなければ判断できませんので、あまり有効ではありません。
 幸い九州王朝の場合、大規模な太宰府条坊都市から条坊設計に用いられた「尺」が推測できます。太宰府の条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られています。条坊都市成立後にその北側に新たに造営された大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の条坊区画はそれよりもやや短い1尺29.6〜29.7cmが採用されており、この数値は「唐尺」と一致します。
 こうした推定「尺」から、太宰府条坊都市の設計に使用された「尺」は7世紀初頭に北朝の隋からもたらされたものではないかと考えています(とりあえず「隋尺」と呼ぶことにします)。7世紀後半(670年頃か)に造営された政庁Ⅱ期や観世音寺には「唐尺」が用いられたとしてよいと思います。その頃には唐軍が筑紫に進駐していますから、「唐尺」が用いられても不思議ではありません。
 また、6世紀以前は約25cmの「南朝尺」が九州王朝で採用されていたと思うのですが、それを証明できるような文物が存在するか、これから研究します。
 なお、服部さんの報告によれば、仮称「隋尺」(29.9〜30.0cm)に相当する下記のモノサシが国内に現存しています。
○正倉院蔵モノサシ5点(29.6〜30.4cm)


第1360話 2017/03/26

井上信正さんの問題提起

 井上信正さんは太宰府条坊と大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の遺構中心軸がずれていることを発見され、従来は共に8世紀初頭に造営されたと考えられていた条坊都市とその北側に位置する大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は異なる「尺」単位で区画設計されており、条坊都市の方が先に成立したとされました。すなわち、条坊都市は藤原京と同時期の7世紀末、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は従来説通り8世紀初頭の成立とされたのです。
 その暦年との対比は同意できませんが、条坊都市が先に成立していたとする発見は画期的なものと、わたしは高く評価してきました。そしてその優れた洞察力は前畑土塁や水城などの太宰府防衛遺構についても発揮されています。「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録された井上さんの「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論と紹介しましたが、その中でわたしが最も驚いたのが次の問題提起でした。

 「中国系都城での『羅城』は条坊(京城)を囲む城壁を指すが、7〜9世紀の東アジアには、条坊のさらに外側に全周巡らす版築土塁の構築例は無い。また仮に百済系都城に系譜をもつ『羅城』だったとしても、この中にもうける『居住空間』をこれほど広大な空間で構想した理由・必要性と、後の『居住空間』となる大宰府条坊はそれに比してあまりに狭く、大宰府の拡充に反して街域が縮小された理由も説明されなくてはならない。」(41頁)

 この井上さんの問題提起は次のようなことです。

1.水城や大野城・基肄城・前畑土塁などの版築土塁(羅城)で条坊の外側を囲まれた太宰府のような都城は、7〜9世紀の東アジアには構築例が無い。
2.これら版築土塁等よりも後に造営される太宰府条坊都市の規模よりもはるかに広範囲を囲む理由や必要性が従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
3.8世紀初頭、大宝律令下による地方組織である大宰府(政庁Ⅱ期)が造営されているのに、街域(条坊都市の規模)が縮小していることが従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
4.こうした問題を説明しなければならない。

 こうした井上さんの指摘と問題提起は重要です。すなわち、大和朝廷一元史観では太宰府条坊都市とそれを防衛する巨大施設(水城・大野城・基肄城・土塁)が東アジアに例を見ない様式と規模であることを説明できないとされています。考古学者として鋭く、かつ正直な問題提起です。
 ところがこれらの問題や疑問に答えられるのが九州王朝説なのです。倭国の都城として国内随一の規模を有すのは当然ですし、唐や新羅との戦いに備えて、太宰府都城を防衛する巨大施設が存在する理由も明白です。他方、701年の王朝交代以後は権力の移動により街域が縮小することも不思議ではありません。このように、井上さんの疑問や問題提起に九州王朝説であれば説明可能となるのです。