考古学一覧

第290話 2010/11/02

神籠石山城の固有名称

古代の山城や軍事施設には当たり前ではありますが固有の名称があったはずです。例えば大野城や水城は『日本書紀』(天智紀)に記されていますので、一応 は九州王朝内でもそのように呼ばれていたものと思われます。しかし、北部九州に点在する神籠石山城それぞれの固有名称は残念ながら文献には残っていませ ん。 失われた神籠石山城それぞれの名前を復原できないかと考えているのですが、久留米出身のわたしの土地鑑の範囲内で試案を考えてみました。まず杷木神籠石で すが、これはそのものズバリの「はき」あるいは「はぎ」ではないでしょうか。「き」は「城」ですから、語幹は「は」です。「は城」が後に杷木の字が当てら れたと考えています。「は」の意味はまだわかりませんが。
次に高良山神籠石ですが、高良山の旧名が高牟礼山(たかむれ)であること、古くからの地主神が高木神とされ、麓には高樹神社があります。ですから、高良山神籠石山城の固有名称は「高城」(たかき・たかぎ)ではなかったでしょうか。
今のところこの二つしか試案は出せませんが、他の神籠石山城も地元の地名や神社名から固有名称を類推できるのではないかと期待しています。どなたか調査研究されませんか。


第260話 2010/05/05

一元史観からの太宰府「王都」説

 わたしが注目した『古代文化』2010年3月VOL.61に掲載された赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」ですが、良く読むと最終的に主張したい結論が明確には記されていません。しかし、「朝倉橘廣庭宮の記憶」というサブタイトルに示されているように、従来通説では天智の頃とされていた大宰府政庁1期の遺跡(正確には1−1期)を斉明天皇の頃へと時代を引き上げようとされているのです。その論拠の一つとして井上信正説を「大変魅力的な説」として紹介されたのです。
 しかも、赤司氏の狙いはそれだけには留まっていません。大宰府政庁1−1期を斉明天皇の朝倉橘廣庭宮に関係するものと位置付け、従来朝倉市とされてきた朝倉橘廣庭宮の比定地に対して、大宰府を朝倉橘廣庭宮とする説や史料の存在にも触れ、あたかも大宰府が朝倉橘廣庭宮であるとしたいような筆致が見られます。恐らくは続稿ではそこまで進まれるのではないかと、わたしは予想しています。
 そのことは次の文からもうかがえます。斉明天皇の筑紫行きに対して「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。政庁1−1期の建物は、この遷都と何らかの関係があったとみられる。」とされ、更には「その軍事的な中心であった大野城の南麓に大宰府の官衙が威容をなす景観の出現を想像すると、その磁場の中心が筑紫大宰と解することにいささかの躊躇を覚える。」と、水城や山城に防衛された城塞都市太宰府を一地方長官の筑紫大宰の役所とすることに「躊躇」を示されています。そして、「7世紀末に筑紫大宰が、現在地で確立されたことは認められるが、溯って当初のマスタープランの端緒では核心的存在に相応しい権力の発現がなされたのではないだろうか。」とまで述べられているのです。
 「核心的存在に相応しい権力の発現」とはすごい表現だとは思いませんか。大和朝廷一元史観にとっての「核心的存在に相応しい権力」とは大和朝廷の天皇のこと以外にあり得ません。その「発現」が城塞都市太宰府だと言われているのです。すなわち、太宰府建設の基本計画は大和朝廷の天皇のための「王都」建設だと言っているのと同じなのです。ですから、先に紹介した「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。」などという表現が用いられているのも理由があったのです。
 わたしには赤司氏や太宰府当地の研究者が、こうした見解、太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至らざるを得ない理由はよくわかります。列島内に類例を見ない巨大防衛施設の水城、そして太宰府を取りまくように配置されている山城群(大野城・基肄城・阿志岐山城)を日夜目にしている現地の研究者であれば、その地が抜きん出たただならぬ地であることは一目瞭然だからです。
 たとえば、九州歴史学の重鎮、田村圓澄氏も率直に次のような疑問を呈されていました。
 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁1期の頃:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和六二年刊。
 太宰府現地の研究者が太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至ろうとしていることは学問的にも歴史的にも画期的な動きです。何故なら、太宰府「大和朝廷の王都」説は九州王朝説とほとんど紙一重の距離にまで近づいているからです。太宰府が大和の天皇のための都か、現地九州の天子のための都かという、その一線を越えられるか否かの位置にある仮説なのです。
 天動説から地動説へ移り変わった時代と同じように、大和朝廷一元史観から九州王朝・多元史観への一線を、勇気ある研究者が自らの良心に従い飛び越えようとする歴史的瞬間を間近にした時代をわたしたちは生きているのです。


第259話 2010/05/04

井上信正説の運命

 先日、京都府立総合資料館に行ったとき、目にとまった本がありました。『古代文化』2010年3月VOL.61です。同誌には「日本古代山城の調査成果と研究展望(上)」が特集されており、神籠石などを含む古代山城の最新研究動向(ただし大和朝廷一元史観)を概観する上で参考になります。また、近年発見された二つの神籠石(阿志岐城跡・唐原山城跡)の解説も掲載されており史料価値が高く、古田学派・多元史観の皆さんにもご購読をすすめます(定価2500円・税込み)。わたしも四条通のジュンク堂まで行って購入しました。

 同誌の中で最も注目した論稿が赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」でした。赤司氏は論文の中で、大宰府政庁2期や観世音寺よりも条坊が先行するとした井上信正説を紹介され、「大変魅力的な説」と賞讃されています。わたしも井上説は大変魅力的と考えていますが、井上説を論理的に突き詰めると藤原京よりも太宰府条坊が先だって成立したことになり、通説(大和朝廷一元史観)にとって致命的な「毒」を井上説は含んでおり、一元史観の学界においてどのように遇されるのか興味津々と「心配」を表明したことがありました(第219話 観世音寺創建瓦「老司1式」の論理)。そうした意味では、井上説が無視されることなく、福岡県内の研究者ではありますが赤司氏に評価されていることに安堵しました。

 しかし、問題はここからです。井上説を評価する赤司氏は、条坊都市太宰府が藤原京よりも先行して成立したとはされていないのです。両都市の先後関係を直接的には断定されておられませんが、「王都(藤原宮:古賀注)の整備と併行して、大宰府の造営もなされた」という文面からして、太宰府条坊と藤原京は同時期の成立と赤司氏は考えられておられるようです。
 これまでわたしが度々指摘してきましたように、観世音寺創建瓦の老司1式は藤原宮の瓦に先行するというのが、従来の考古学土器編年だったのですから、太宰府条坊成立が観世音寺よりも早いとする井上説を認めるのなら、太宰府条坊は藤原京よりも成立が早く、日本最初の条坊都市としなければならないはずです。 土器の相対編年を得意とする日本考古学界が、大和朝廷一元史観に不都合なこの土器編年の問題から目をそらし、井上説の都合の良い部分だけを「利用」するの学問的態度とは言い難いのではないでしょうか。もっとも、それでも赤司氏は太宰府条坊と藤原京が同時期成立とされているようなので、従来の学界の態度よりも半歩前進と評価すべきなのでしょう。(つづく)


第199話 2008/12/13

『高良山物語』

 拙宅の前の河原町通の銀杏並木も枝が切り払われ、いよいよ京都も冬支度の頃となりました。そんなある日、書庫を整理していると『高良山物語』という小冊子が目にとまりました。おそらく20年ほど前に購入したものですが、昭和9年に久留米市の菊竹金文堂から出版され、昭和 53年の復刻版です。著者は倉富了一とあります。
 神籠石で有名な高良山の古代から近世までの歴史や伝承、研究などが要領よくまとめられた一冊です。もちろん大和朝廷一元史観の立場から著されていますが、様々な史料や伝承などが紹介されており、高良山研究における貴重な文献と言えます。その中に大変気になる一節があります。
 それは神籠石を紹介したところで、高良山神籠石の他に女山・鹿毛馬・雷山・御所ケ谷など著名な神籠石と並んで、「八女郡串毛村田代」という神籠石が紹介されているのです。わたしはこのような神籠石の存在を聞いたことがありません。もしかして、未だ学界に報告されていない神籠石が八女郡にあるのかも知れません。どなたか、近郊の方で調査していただければ有り難いのですが。


第169話 2008/04/18

「丁亥年」刻書紡錘車の新視点

 昨年12月、佐賀県小城市の丁永(ちょうえい)遺跡から日本最古の刻書紡錘車が出土したことが、新聞などで報道されました。直径4.58cm、厚さ0. 75cmの紡錘車の片面に、「丁亥年 六月十二日 □(木へん+是)十□□」(□は判読困難な字)と刻書されており、一緒に出土した土器片などから、この 「丁亥年」は687年のことと考えられています。

 また、刻書紡錘車のほとんどが関東地方で出土していますから、関東地方特有の風習であり、小城市から出土したこの紡錘車も、関東からこの地に派遣された防人がもたらしたものと見てよいと思われます。新聞でもそのように報じられています。
 今回わたしは、刻書の内容とその史料性格に着目しました。刻書の前段は年月日、後段は人名と思われます。「亦(木へん+是)十万呂」(いて・とまろ)と 判読している新聞もありましたが、人名であることは確かと思われます。東京都日野市から、同じく刻書紡錘車で、「和銅七年十一月二日 鳥取部直六手縄」と、年月日と人名が刻書されたものが出土していますから、これと同類の史料性格なのです。
 それではこの「年月日+氏名」という文字情報は何を意味しているのでしょうか。思うに、人間にとって名前と同様に大切な年月日は生没年でしょう。特に生きている人間には生年が大切な日となります。したがって、この刻書紡錘車の年月日と氏名は、持ち主の名前と誕生日ではないでしょうか。この二つがあれば、 古代において出身地の戸籍と照合することにより、みずからの身分証明書の役割を果たすことができるのです。丁亥年(687)であれば、既に庚午年籍 (670)が完成している時期ですから。
 更に想像を逞しくすれば、この刻書は、母親が生まれたわが子の生年月日と名前を刻んだもので、ひもを通して子供の首に下げてあげたのかもしれません。やがて、その子が青年となり、防人として関東から九州へむかうことになった時、母親の形見として、そして自らの身分証明として刻書紡錘車を持参したのです。 おそらく、この防人は生きて故郷に帰れなかったものと思われます。佐賀県小城市で没したため、この地から紡錘車は出土したのでしょうから。
   なお、この刻書紡錘車出土のことは、福岡市の上城誠(本会全国世話人)より教えていただきました。


第155話 2007/12/16

藤原宮の冨本銭

 昨日の関西例会で、藤原宮から出土した地鎮祭用と思われる壺に納められた9枚の冨本線について、わたしの見解を述べました。飛鳥池工房跡から出土した冨本銭の発見は、古代貨幣研究に重要な一石を投じましたが、今回の藤原宮跡から出土した冨本銭も、更に貴重な問題を提起しました。

 飛鳥池の冨本銭発見は、『日本書紀』天武12年条の銅銭記事が歴史事実であったことを指し示したのですが、ならば同時に記された銀銭の存在も歴史事実と考えざるをえません。しかし、今回の地鎮祭で用いられたと思われる壺にあったのは銅銭の冨本銭でした。なぜ、より価値の高い銀銭ではなく、冨本銅銭が用いられたのでしょうか。
 それは、その銀銭が大和朝廷ではなく九州王朝の貨幣だったからと思われます。先の天武12年条の記事は銀銭の使用を禁じ、銅銭を用いるようにと命じた記事なのですが、これは九州王朝の銀銭に変わって、自らが飛鳥池で鋳造した冨本銭を流通させるという意味だったのです。このように考えることにより、『日本書紀』の記事や藤原宮出土の冨本銭の意味が明らかになるのです。
 持統らは自らの宮殿建設にあたり、九州王朝の銀銭に代えて、自ら鋳造した冨本銭を用い、王権の安泰と新たな列島の代表者たらんとする意志と願いを込めたのではないでしょうか。9枚の冨本銭と、一緒に入っていた9個の水晶玉は、九州王朝にかわり、自らが「九州」(日本列島)を統治するという政治的野心の現れと思われるのです。
   なお、関西例会の発表内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 淡海乃海・近江の道(豊中市・木村賢司)
  2). 岐須美々命と石窟の土蜘蛛(大阪市・西井健一郎)
  3). 「実測値」と「机上の計算値」(交野市・不二井伸平)
  4). 「明日香村発掘調査報告会2007/12/08」に参加して(木津川市・竹村順弘)
  5). 「丁亥年」刻字紡錘車の史料批判(京都市・古賀達也)
  6). トロイの木馬(相模原市・冨川ケイ子)
  7). 書紀から導かれる「斉明死去」以降の歴史の真実(川西市・正木裕)
  8). 沖ノ島5(生駒市・伊東義彰)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・天草の古名「苓州」・他(奈良市・水野孝夫)


第148話 2007/10/13


醒ヶ井神籠石を訪ねて

 
甲良神社に次ぐ、滋賀県湖東のドライブ後半の目的地は米原市醒ヶ井でした。そこは中山道をおさえる交通の要衝の地で、醒ヶ井から多和田にかけて古代の環状
列石があり、神籠石ではないかとする説もあって、一度訪ねてみたいと思っていました。というのも、わたしは「九州王朝の近江遷都」という仮説を以前発表し
たのですが、その考古学的痕跡として、近江京を守る神籠石がないだろうかと、常々思っていたからでした。

   ある本で、醒ヶ井の環状列石の存在を知ったのですが、九州の神籠石と異なり、規模が小さいこと、内部に水源を持たないことが気にかかっていたのです。そこで、現地に行き地元の人に聞いてみました。そして、納得しました。これはいわゆる神籠石ではないということを。
 その理由は次のようです。列石が山頂を取りまいているとはいえ、それは自然石で九州の神籠石のような直方体の切石ではないこと。その位置が中山道から山
一つ離れており、交通の要衝の地とは言えないこと。そして、そこからは琵琶湖が見えず、狼煙台としても不適切という点です。
   残念な結論でしたが、現地に足を運んで確認することができ、有意義でした。「歴史は足にて知るべきものなり」(秋田孝季)です。これで、湖東のドライブは一段落。次は湖北を目指します。そこにも、様々な古代伝説が待っています。


第125話 2007/03/15

エクアドルの甕棺墓

 エクアドルのバルディビア調査旅行から古田先生や大下さん(本会事務局次長)らが、多大な研究成果と共に無事帰国されました。そられの詳細な報告は別途報告会を企画していますが、その成果の一つに、エクアドルから出土していた甕棺(みかかん)墓があります。

 二つの甕棺の開口部どおしを繋ぎ合わせたもので、北部九州の弥生時代の甕棺墓に極めて類似した墓制です。ただ、北部九州のものは横に寝かされています が、エクアドルのものは縦に立てられています。年代も紀元前500年から紀元後500年と博物館によって説明がまちまちだったそうです。
 しかし、バルディビアの縄文式土器と共に、甕棺墓まで日本列島のものと類似していたとは、驚きでした。これらの類似は古代倭人が太平洋を渡ったとする『三国志』倭人伝の記述が正確であったことの証拠といえます。
 更に、いわゆる「邪馬台国」論争にも決定的な意味を持っていると思われます。何故なら、太平洋を渡った倭人は、甕棺墓という墓制を持った北部九州の倭人だったということになり、邪馬台国畿内説はますます成立困難となったからです。
 ご高齢をおしてのエクアドル調査旅行に、わたしは心配していましたが、こうした成果を携えて帰国された古田先生に、あらためて脱帽です。本当にすごい先生です。


第124話 2007/03/06

藤原宮の紀年木簡

  藤原宮出土の「評」木簡群と同様に注目されるのが、紀年木簡群です。紀年が書かれていますから、木簡制作年が判断でき、史料としてとても貴重です。藤原宮をはじめ、紀年木簡にはONラインを境に顕著な変化があります。700年以前は芦屋市出土の「元壬子年」木簡を除けば、すべて干支のみで紀年が表記され、九州年号は記されていません。
 この史料事実は、近畿天皇家が年号に無関心であったのではなく、強い関心を示していた証拠です。何故なら、701年以後の紀年木簡は近畿天皇家の年号を用いているからです。ONラインを境にして、紀年表記の形式が干支から年号へと見事に一変しているのです。
 すなわち、近畿天皇家は支配下に置いた諸国からの貢進物の荷札の木簡にさえ、九州年号を使用させず、自ら年号を制定した701年以後はその年号を使用させるという、極めて露骨な政策をとったとしか思えないのです。同時に、藤原宮などに貢進物を送った諸国は、そうした近畿天皇家の政策に忠実に従ったのであり、その結果が、現在までに出土している紀年木簡の姿と言えます。
 このように、紀年木簡の示す史料事実は、藤原宮時代の近畿天皇家の権力を推し量る上で貴重です。この時期、九州王朝は衰退の一途を辿っていたことも、同時に推測できるのではないでしょうか。


第107話 2006/11/11

弥生の高層建築
 本日の朝刊に、鳥取市の青谷寺地(あおやじち)遺跡から出土していた木柱が約7mであったことがわかり、弥生時代に高層建築が存在していた証拠である旨、報道されていました。その記事によれば、高さ10.5mぐらいの物見やぐらで、地上から床の高さまで6mあったとされています。
  この発見自体は素晴らしいことだと思いますが、わたしの「常識」では弥生時代に10m以上の建物があるのは当然で、ちょっと大騒ぎしすぎるような感じを受けました。と言うのも、本会会員で天文学者の難波収さん(オランダ・ユトレヒト在住)から、次のようなお話を聞いていたからでした。
  海岸に敵船発見などの為に物見やぐらを建てるなら、15m以上の高さがないと役に立たない。なぜなら、海上には陽炎が立ち上るので、その陽炎の上から見ないと船は発見できない。従って、物見やぐらは15m以上の高さが必要。というものでした。その上で、こうも言われました。だから、吉野ヶ里で復原された「物見やぐら」は低すぎる、と。
 わたしには専門的なことは判断できませんが、天文学者の難波さんの言葉だけに、説得力を感じました。同時に、古代人が見張りの役に立たないような低い「物見やぐら」をわざわざ造るようなことはしないとも思いました。なぜ、現代人は日本の古代建築や古代人を侮るのでしょうか。これこそ自虐史観だと思うのですが。


第97話 2006/09/09

九州王朝の部民制

 福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から、またまたビッグニュースが届きました。9月6日西日本新聞朝刊の記事がファックスされてきたのです。それには、大野城市本堂遺跡から「大神部見乃官(おおみわべみのかん)」とはっきりとした楷書体で刻まれた須恵器が出土したことが報道されていました。
 例によって、大和朝廷一元史観での解説で、大和朝廷の部民制の痕跡と解説されていますが、そうではなく当然九州王朝の部民制を記した金石文と見るべきでしょう。もちろん、現時点では実物を見ていませんから断定的な発言は厳禁ですが、九州王朝の制度を研究する上で貴重な文字史料であることは疑えません。
 ただ、新聞の記事を読んでいて、いくつか気になったことがあります。一つは、「7世紀前半から中ごろの須恵器」とされていますが、この時期の北部九州の須恵器編年は、C14などの科学的年代測定によれば百年くらい古くなる可能性がありますので、要注意です。
 二つ目は、「大神」を「おおみわ」と読んでいますが、九州では「神」を「くま」とも読みますから、「おおくま」や「おおがみ」と読む可能性も考慮すべきでしょう。
 また、「見乃官」も高良大社(久留米市)のある水縄(みのう)連山の地名との関係も考えられ、興味深い官名です。いずれにしても、7世紀以前の部民制の痕跡を有する文字史料が近畿ではなく、福岡県大野城市から出土したことは、九州王朝説にとって大変有利な事実といえるでしょう。


第88話 2006/07/07

筑後国府の不思議

 第87話で紹介した、久留米市の筑後国府跡から出土した大型建造物の柱穴について、この一週間検討を続けてきました。特に筑後国府に関する文献や発掘調査報告書を丹念に読み直したのですが、筑後国府には実に不思議な問題があることがわかりました。
 まず第一に、筑後国府跡は第一期から第四期まであり、通説でも第一期の国府(合川町古宮地区)は七世紀末の成立とされ、最古級の国府であること。なぜ、近畿ではなく九州の筑後国府が最古なのか、通説では説明困難です。
 第二に、律令体制が全国的に崩壊していた12世紀後半まで国府(第四期、御井町)が存続していたこと。このように500年も続いた国府は筑後国府だけです。
 第三に、第二期国府(合川町阿弥陀地区)は太宰府政庁と同じような配置を有していたこと。
 第四に、第三期国府(朝妻町三丁野地区)は全国最大希望の国府であったこと。
 第五に、第三期国府の東側に隣接して「曲水の宴」遺構が存在していたこと。
 第六に、国府跡の発掘調査報告を読むと、弥生時代の住居跡なども出土しているのに、古墳時代や飛鳥時代の遺跡がほとんど見当たらず、いきなり八世紀以後の遺跡となっていること。この地帯が古墳時代や飛鳥時代は無人の地だったとは考えられません。須恵器を中心とする土器編年がおかしいのではないでしょうか。

 以上、ちょっと考えただけでも不思議だらけなのです。おそらく、これらは九州王朝説に基づかなければ解決しないものと思われますが、それでも判らないことが多く、研究課題は山積しています。
 8月5日には愛媛県の松山市で講演しますが(古田史学の会・四国主催)、この問題をテーマにしたいと思います。それまでに、どれだけ解決している、今からワクワクするような研究テーマです。