考古学一覧

第426話 2012/06/15

最古の「戸籍」木簡、太宰府から出土

 もう皆さんはご存じのことと思いますが、ビッグニュースが届きました。13日の朝、出張先の名古屋のホテルで朝刊(中日新聞)に目を通していた ら、太宰府市から最古の「戸籍」木簡が出土したという記事がありました。本当に驚きました。駅のコンビニで全国紙3紙(読売・毎日・朝日)を購入し、急ぎ 目を通したのですが、その記事がいずれも1面に掲載されており、読売に至ってはトップ記事でした。このことからも、今回の木簡出土がいかに衝撃的な事件かがわかります。

 明日16日には現地説明会が開催されますが、古田先生も参加されるとのことです(古田史学の会・総務の大下隆司さんがアテンドされます)。古田史学にとっても新たな進展の予感がしています。

 新聞記事を読んでみると、専門家の様々なコメントやもっともらしい解説が掲載されていましたが、「何故、畿内ではなく九州太宰府から出土したのか」とい う本質的な疑問への説明は皆無でした。おそらく、古田先生の九州王朝説を知っている一元史観の学者にとっては、素晴らしい木簡が出土したことへの喜びと、 「よりによって太宰府から出土した(九州王朝説に有利)」ことへの「不安感(九州年号木簡などもう出ないで欲しい)」が交錯しているのではないでしょう か。

 今回出土した木簡に対する、わたしの見解発表は詳細な解説や報告を待ってからにしたいと思いますが、古代戸籍(主に大宝二年戸籍。正倉院文書)について は従来から西海道(九州)戸籍の「高度な統一性(用紙・体裁・記載様式)」が指摘されていました。わたしはこの西海道戸籍の「高度な統一性」こそ、九州王 朝が存在し、大和朝廷に先立って戸籍を造籍していたことの反映と理解していましたが、今回の「戸籍」木簡が他でもない九州王朝の都である太宰府近傍から出土したことにより、その「高度な統一性」が九州王朝に縁源することが証明されたのです。その意味でも、多元史観・九州王朝説にとっても画期的な出土史料な のです。

 この他にも、今回出土した木簡には様々な興味深い発見があるのですが、もう少し詳細な情報を得てから、紹介したいと思います。


第419話 2012/05/30

前期難波宮の「戊申年」木簡

 東京に来ています。昨日は足利市に行きましたが、途中で開業後初めて東京スカイツリーを間近で見ました。やはり大きいですね。おそらく、古代の人々が法隆寺や観世音寺の五重の塔を見上げたときも、同じような感慨を抱いたのではないでしょうか。今日はこれから福島市へ向かい、夜は山形市で宿泊予定 です。

 難波宮編年の勉強のために『大阪城址2』(2002、大阪府文化財調査報告研究センター)を読んでいますが、この発掘調査報告書にはわが国最古の紀年銘 木簡である「戊申年」(648)木簡の報告が掲載されています。この木簡の出土が、前期難波宮の時代特定に重要な役割を果たしたことは既に紹介してきたと ころですが、今回その発掘状況と史料性格(何のための木簡か)を詳しく知りたいと思い、大阪市立歴史博物館に行き、同報告を閲覧コピーしました。

 同報告書によれば「戊申年」銘木簡が出土したのは難波宮跡の北西に位置する大阪府警本部で、その谷だった所(7B地区)の地層の「16層」で、「木簡をはじめとする木製品や土器を包含するとともに、花崗岩が集積した状態で検出されている。出土遺物からみて前期難波宮段階の堆積層である。」(12頁)とされています。この花崗岩は化学分析等によって上町台地のものではなく、前期難波宮造営に伴って生駒山・六甲山・滋賀県田上山などから人為的に持ち込まれた とのことです。

 木簡の出土は33点確認されており、その中の「11号木簡」とされているものが「戊申年」銘が記されたものです。この他にも、「王母前」「秦人凡国評」や絵馬も出土しており、大変注目されました。

 これら花崗岩や木簡が出土した「16層」は前期難波宮の時代(整地層ではない)と同時期とされていますが、堆積層ですからその時代の「ゴミ捨て場」のような性格を有しているようです。土器も大量に包含されていますので、その土器編年について積山洋さん(大阪市立歴史博物館学芸員)におたずねしたところ、 「難波3新」で660~670年頃とのことでした。従って、「戊申年」(648)木簡の成立時期よりもずれがあることから、同木簡作成後10~20年たっ て廃棄されたと考えられるとのことでした。積山さんの推測としては、同木簡などは前期難波宮のどこかに保管されていたもので、660~670年頃に廃棄されたのではないかとのことでした。

この積山さんの見解を正木裕さんに話したところ、これは近江遷都と関係しているのではないかとのアイデアが出されました。近江遷都は『海東諸国紀』によれば白鳳元年(661)、『日本書紀』によれば天智6年(667)とされていますが、同木簡廃棄時と同時期です。もしかすると近江遷都にともなって難波宮にあった文物の引っ越しがあり、その時に不要な木簡類が廃棄されたのではないかと想像しています。


第418話 2012/05/27

土器「相対編年」と「絶対年代」

 難波宮土器編年の勉強を続けていますが、その主要課題の一つに、土器様式の前後関係に基づく「相対編年」が、どのように 「絶対年代」とリンクされているのかということがあります。今回、前期難波宮の発掘調査報告を閲覧し、七世紀の畿内における土器「相対編年」と「絶対年代」との関連について、考古学者が何を根拠にどのように判断しているのかが分かってきましたので、少し紹介したいと思います。
「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)によれば、難波宮遺跡の編年は難波1期(5世紀)から難波5期(8世紀前葉~9世紀初)までに分類されており、「難波3中」が前期難波宮の時代で7世紀中葉とされています。

 こうした土器「相対編年」の中で「絶対年代」を確定できた年代は「定点」と称されています。たとえば「難波2新」段階は6世紀後葉~7世紀初頭と編年さ れていますが、その根拠となった「定点」は、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年(年輪年代測定により616年とされている)から求められてます (狭山池調査事務所1998)。

 前期難波宮の時代の「難波3中」段階は、この土器と同様式の土器が出土している兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡SD01(兵庫県教育委員会1997)の「元壬子年」(652、通説では「三壬子年」と釈文されています)木簡の年代が「定点」として採用されています。

この他にも7世紀における「定点」資料・遺構があるのですが、年輪年代測定のような自然科学的分析で絶対年代を特定し、一緒に出土した土器の「相対年代」とリンクするという方法は論理的・科学的で説得力があります。わたしもこうした「定点」と土器「相対編年」の最新考古学の成果を知ることができ、九州 など他の地域への展開が必要と思われました。


第417話 2012/05/26

前期難波宮の「年輪年代」

 太宰府編年の小論を書き終わったので、今は難波宮考古学編年の勉強を続けています。先日も大阪市立歴史博物館に行き、二階の「なにわ塾」で発掘調査報告書を閲覧したり、同館学芸員の積山洋さんから難波宮編年についていろいろと教えていただきました。

 その積山さんから勧められて読んだのが、「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)でした。難波宮の北西に位置する旧大阪市中央体育館跡地の発掘調査報告なのですが、そこから出土した前期難波宮時代の水利施設遺構について大変重要な報告が記載されていましたのでご紹介したいと思います。

 その遺構は谷から湧き出る水を通す石造の施設で、そこには大型の水溜め木枠が設置されており、その木枠の伐採年が年輪年代測定により634年であると記 されていました。そしてその石造遺構の下層と石を固定する客土に大量に含まれていた土器が、前期難波宮整地層に含まれている土器と同様式で、共に七世紀中葉と編年されています。従って、この水利施設は前期難波宮の造営時から使用され、宮内に井戸がなかった前期難波宮のためのものであることが判明しました。

 この年輪年代測定による伐採年(634)が明らかな木枠と、同じく難波宮北方から出土した「戊申年(648)」木簡は、長く論争が続いた前期難波宮の年代について、相対編年による土器様式と絶対年代を関連付ける貴重な資料となったようです。

 同報告には、「今回得られた年輪年代のデータや、『戊申年』銘木簡などの暦年代のいくつかの定点を併せて検討すれば、前期難波宮の造営期は7世紀中葉に 明確に位置づけることができるであろう。」(85頁)、「前期難波宮がいつつくられたのか、長年の論争に対しSG301(石造水利施設のこと:古賀)の No.1の年輪年代は、遺跡、遺構を解釈する上で貴重な年代情報となるであろう。」(208頁)と記されています。

 今回、わたしは大阪市立歴史博物館を訪れて、前期難波宮の編年を確定した水利施設遺構や木枠の年輪年代の存在について知ることができ、大変よい勉強になりました。


第386話 2012/02/19

「丙子椒林剣」国産説

 第382話で四天王寺の丙子椒林剣について述べましたが、その際「日本刀」と「」付きで表記しました。その理由は、丙子椒林剣が国産かどうか判断できなかったことによります。国産でなければ日本刀と言えないからです。厳密な表記としては、製造地を特定しない上古刀と表記するべきという見解もあります。もっともな意見だと思います。
 先週、たまたま大阪西区にある市立中央図書館に寄る機会があったので、古代史コーナーを見ていたら、石井昌國・佐々木稔著『古代刀と鉄の科学』という本が目に留まり閲覧しました。
 同書に紹介されていた「兵庫県養父郡八鹿町箕谷2号墳の銅象嵌戊辰年銘大刀」が丙子椒林剣と同形で、「戊辰年五月□」という銘文から608年の作刀とさ れています。切っ先が「カマス」と称される直線的な形状をしており、丙子椒林剣と一致しています。丙子椒林剣の丙子が616年と見られますから、戊辰年銘大刀の様式が進化して丙子椒林剣になったとされています。
 この他にも同様式の大刀が七世紀初頭の古墳から出土していることも紹介されており、こうした史料状況(出土状況)から見て、四天王寺の丙子椒林剣は国産 と考えて問題ないようです。正倉院にも同類の大刀があるようですので、これらも九州王朝との関係を含めて見直す必要を感じています。
 なお、水野さん(古田史学の会・代表)から、丙子椒林剣は四天王寺にあった四天王像が持っていたのではないかとする説の存在を教えていただきました。面白い視点だと思いました。


第342話 2011/10/09

「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)

昨日行われた古田先生の記念講演会「俾弥呼とは誰か」(主催:ミネルヴァ書房)は大盛況でした。定員350名の会場に約430名が来場されたとのこと。 遠く山形県や九州から来られた人や、90歳の古田史学の会々員の方も、これが最後になるかもしれないと出席されていました。
講演終了後のサイン会には50名近くの人が列を作り、講演でお疲れのはずにもかかわらず古田先生は長時間かけて一人一人丁寧にサインされていました。ファンや読者を大切にされる古田先生のお姿を見て、あらためて本当に立派な先生だなあと感激しました。
会場には正木裕さん(会員)ご夫妻も見えておられ、正木さんから「庚寅鉄刀の正体がわかりましたよ。あれは四寅剣(しいんけん)です。」と貴重な情報をいただきました。正木さんによると、四寅剣は干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、 570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に作られたのであれば四寅剣になるとのことでした。これが、 月と日と時だけが寅の場合は三寅剣とよばれるそうです。
わたしは四寅剣のことは全く知らなかったのですが、この話しを聞いてなるほどと納得しました。それは銘文にある「時」という字が不要のように思われ、疑問点として残っていたからです。
わたしは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」という銘文を「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」と第 341話では読んだのですが、この「庚寅の日の時に」という読解にちょっと変な表現だなと感じていたのです。むしろ、「時」の一字がなければ「庚寅の日に」とすっきりした読みが可能となるからです。
ところがこれが四寅剣であれば、「大歳庚寅正月六日庚寅の日と時に」と読んで、四つの寅が重なったことを、すなわち四寅剣であることを示すために「時」の一字が必要不可欠となり、銘文としても過不足ないものとなるのです。
こうした理解から、この鉄刀は四寅剣、正確には「四寅刀」であることわかり、この鉄刀の史料性格がより明らかになったと思われます。朝鮮半島では古代から 中近世にかけて四寅剣が数多く作られたようで、四寅剣は国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです。この点、正木さんから関西例会や会報で詳細な報告がなされると思います。
今回なお残された問題として、この「大歳庚寅」四寅刀が朝鮮半島で作られたものか、日本列島で作られたものかというテーマがありますが、鉄の成分分析などで明らかになればと期待しています。また四寅剣の様式など、朝鮮半島のものとの比較も必要となるでしょう。引き続き調査検討を深めたいと思います。正木さんの御教示に感謝いたします。


第339話 2011/09/25

「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察

 出張先の名古屋のホテルで読んだ中日新聞(9月22日)に、福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀に象眼があり、エックス線写真によると、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」の文字が確認されたとのことでした(「練」は推定)。
 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。九州王朝中枢領域から出土した6世紀後半の金石文ですか ら、わたしも大変貴重な史料が出たと喜びました。その後、今日まで銘文について検討を行い、いくつかの興味深い問題が見えてきました。
 まず第一は、その年・日付干支から、九州王朝では『三正綜覧』などで復原された「長暦」が少なくとも6世紀後半から7世紀全般にわたって使用されていたという事実がわかります。たとえば、この他に九州王朝系金石文で年・日付干支の両方が判明するものとして、法隆寺釈迦三尊像光背銘「(壬午)二月廿一日癸酉」(622)、妙心寺銅鐘「戊戌年四月十三日壬寅」(698)の存在があり、いずれも「長暦」によることがわかっていました。こうした九州王朝中枢の金石文が指し示す史料事実から九州王朝使用暦が一層明確となったわけです。
 九州王朝説論者の中には、『三正綜覧』による暦日干支復原を否定し、妙心寺銅鐘の戊戌年を638年とする見解もあるようですが、それは無理であったことが今回の鉄刀の出土により更に明らかとなりました。
 第二に注目されるのが「大歳庚寅」という大歳干支表記です。この「大歳○○」(○○は干支)という表記方法は『日本書紀』に見られる独特のもので、各天皇の即位元年条末尾に記載されています。神武天皇など若干の例外はありますが、各天皇の即位年干支の表記方法なのです。この大歳干支表記について、岩波 『日本書紀』補注では百済からもたらされたものではないかと説明されています。
 しかし今回の出土で、大歳干支表記が九州王朝下で使用されていた ことが判明し、『日本書紀』はその九州王朝の大歳干支表記を採用したこととなり、しかも天皇即位年の表記に使用されているという『日本書紀』の史料事実から、これも九州王朝史書からの模倣の可能性があることから、九州王朝でも歴代天子の即位年記録に大歳干支を使用していたものと推察できるのです。
 そうであれば、この庚寅年の570年に九州年号が「和僧」から「金光」に改元されていることから、もしかすると前年の和僧五年(569)に九州王朝の倭王が没し、翌年の庚寅に次の倭王が即位したことから、鉄刀には「大歳庚寅」と象眼されたように思われます。このように九州年号の改元と一致していることは示唆的です。
 以上のように、今回出土した鉄刀銘文は九州王朝史研究にとっても貴重な金石文であり、更なる研究が必要です。なお、出土した古墳が7世紀中頃と編年されていますが、鉄刀銘文の庚寅年(570)と離れていることから、北部九州の古墳編年についても検討の余地が必要かもしれません。更に同古墳から出土した古墳時代では国内最大級の銅鈴の検討なども今後の課題です。


第335話 2011/08/23

初伝時の仏像と三角縁仏像鏡

 8月20日の関西例会で、竹村氏がわが国への仏教初伝時の仏像の様式を検討され、初伝時の仏教は中国南朝ではなく北魏からの影響が強いという説を発表されました。この考えは有力な仮説だと思います。

 わたしも、「倭国に仏教を伝えたのは誰か」(『古代に真実を求めて』1集、1996年)という論文の中で、初伝僧として糸島雷山千如寺の清賀上人を提起しました。そして、その千如寺の本尊である千手観音の中に清賀上人の持仏とされる小仏像が埋め込まれているのですが、目がつり上がったちょっと異様な仏像なのです。
 ところが、今から10年ほど前に仕事で上海に行ったとき、上海博物館を訪れたのですが、時代別に展示してあった仏像の中で、北魏の仏像が千如寺の体内仏に顔がそっくりだったのです。従って、清賀上人は北魏の、あるいは北魏経由の僧侶ではないかと考えていたのです。今回の竹村さんの発表はわたしの考えと一 致するものであり、興味深く傾聴しました。
 なお、竹村さんが調査された対象は「仏像」だけでしたので、古墳時代に出土している「三角縁仏像鏡」の存在を指摘し、これらも調査対象にされることを要望しました。今後の継続調査に期待しています。
 当日の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 仏教初伝時の仏像(木津川市・竹村順弘)
2). 『古鏡銘文集成』の裏文字銘文(京都市・岡下英男)
3). 河内戦争後の畿内–律令制の始まり(横浜市・冨川ケイ子)
4). 厳然として凛として立つ国・他(豊中市・木村賢司)
5). 古代大阪湾の新しい地図(豊中市・大下隆司)
6). 論争の提起に応えて(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
  古田氏近況・会務報告・三井寺の「白鳳八年」・平城京の観世音寺・他(奈良市・水野孝夫)


第290話 2010/11/02

神籠石山城の固有名称

古代の山城や軍事施設には当たり前ではありますが固有の名称があったはずです。例えば大野城や水城は『日本書紀』(天智紀)に記されていますので、一応 は九州王朝内でもそのように呼ばれていたものと思われます。しかし、北部九州に点在する神籠石山城それぞれの固有名称は残念ながら文献には残っていませ ん。 失われた神籠石山城それぞれの名前を復原できないかと考えているのですが、久留米出身のわたしの土地鑑の範囲内で試案を考えてみました。まず杷木神籠石で すが、これはそのものズバリの「はき」あるいは「はぎ」ではないでしょうか。「き」は「城」ですから、語幹は「は」です。「は城」が後に杷木の字が当てら れたと考えています。「は」の意味はまだわかりませんが。
次に高良山神籠石ですが、高良山の旧名が高牟礼山(たかむれ)であること、古くからの地主神が高木神とされ、麓には高樹神社があります。ですから、高良山神籠石山城の固有名称は「高城」(たかき・たかぎ)ではなかったでしょうか。
今のところこの二つしか試案は出せませんが、他の神籠石山城も地元の地名や神社名から固有名称を類推できるのではないかと期待しています。どなたか調査研究されませんか。


第260話 2010/05/05

一元史観からの太宰府「王都」説

 わたしが注目した『古代文化』2010年3月VOL.61に掲載された赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」ですが、良く読むと最終的に主張したい結論が明確には記されていません。しかし、「朝倉橘廣庭宮の記憶」というサブタイトルに示されているように、従来通説では天智の頃とされていた大宰府政庁1期の遺跡(正確には1−1期)を斉明天皇の頃へと時代を引き上げようとされているのです。その論拠の一つとして井上信正説を「大変魅力的な説」として紹介されたのです。
 しかも、赤司氏の狙いはそれだけには留まっていません。大宰府政庁1−1期を斉明天皇の朝倉橘廣庭宮に関係するものと位置付け、従来朝倉市とされてきた朝倉橘廣庭宮の比定地に対して、大宰府を朝倉橘廣庭宮とする説や史料の存在にも触れ、あたかも大宰府が朝倉橘廣庭宮であるとしたいような筆致が見られます。恐らくは続稿ではそこまで進まれるのではないかと、わたしは予想しています。
 そのことは次の文からもうかがえます。斉明天皇の筑紫行きに対して「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。政庁1−1期の建物は、この遷都と何らかの関係があったとみられる。」とされ、更には「その軍事的な中心であった大野城の南麓に大宰府の官衙が威容をなす景観の出現を想像すると、その磁場の中心が筑紫大宰と解することにいささかの躊躇を覚える。」と、水城や山城に防衛された城塞都市太宰府を一地方長官の筑紫大宰の役所とすることに「躊躇」を示されています。そして、「7世紀末に筑紫大宰が、現在地で確立されたことは認められるが、溯って当初のマスタープランの端緒では核心的存在に相応しい権力の発現がなされたのではないだろうか。」とまで述べられているのです。
 「核心的存在に相応しい権力の発現」とはすごい表現だとは思いませんか。大和朝廷一元史観にとっての「核心的存在に相応しい権力」とは大和朝廷の天皇のこと以外にあり得ません。その「発現」が城塞都市太宰府だと言われているのです。すなわち、太宰府建設の基本計画は大和朝廷の天皇のための「王都」建設だと言っているのと同じなのです。ですから、先に紹介した「遷都ともいうべき相当の覚悟があったと考えてよい。」などという表現が用いられているのも理由があったのです。
 わたしには赤司氏や太宰府当地の研究者が、こうした見解、太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至らざるを得ない理由はよくわかります。列島内に類例を見ない巨大防衛施設の水城、そして太宰府を取りまくように配置されている山城群(大野城・基肄城・阿志岐山城)を日夜目にしている現地の研究者であれば、その地が抜きん出たただならぬ地であることは一目瞭然だからです。
 たとえば、九州歴史学の重鎮、田村圓澄氏も率直に次のような疑問を呈されていました。
 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁1期の頃:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和六二年刊。
 太宰府現地の研究者が太宰府「大和朝廷の王都」説(あるいは王都予定地説)に至ろうとしていることは学問的にも歴史的にも画期的な動きです。何故なら、太宰府「大和朝廷の王都」説は九州王朝説とほとんど紙一重の距離にまで近づいているからです。太宰府が大和の天皇のための都か、現地九州の天子のための都かという、その一線を越えられるか否かの位置にある仮説なのです。
 天動説から地動説へ移り変わった時代と同じように、大和朝廷一元史観から九州王朝・多元史観への一線を、勇気ある研究者が自らの良心に従い飛び越えようとする歴史的瞬間を間近にした時代をわたしたちは生きているのです。


第259話 2010/05/04

井上信正説の運命

 先日、京都府立総合資料館に行ったとき、目にとまった本がありました。『古代文化』2010年3月VOL.61です。同誌には「日本古代山城の調査成果と研究展望(上)」が特集されており、神籠石などを含む古代山城の最新研究動向(ただし大和朝廷一元史観)を概観する上で参考になります。また、近年発見された二つの神籠石(阿志岐城跡・唐原山城跡)の解説も掲載されており史料価値が高く、古田学派・多元史観の皆さんにもご購読をすすめます(定価2500円・税込み)。わたしも四条通のジュンク堂まで行って購入しました。

 同誌の中で最も注目した論稿が赤司善彦氏(九州国立博物館)の「筑紫の古代山城と大宰府の成立について−朝倉橘廣庭宮の記憶−」でした。赤司氏は論文の中で、大宰府政庁2期や観世音寺よりも条坊が先行するとした井上信正説を紹介され、「大変魅力的な説」と賞讃されています。わたしも井上説は大変魅力的と考えていますが、井上説を論理的に突き詰めると藤原京よりも太宰府条坊が先だって成立したことになり、通説(大和朝廷一元史観)にとって致命的な「毒」を井上説は含んでおり、一元史観の学界においてどのように遇されるのか興味津々と「心配」を表明したことがありました(第219話 観世音寺創建瓦「老司1式」の論理)。そうした意味では、井上説が無視されることなく、福岡県内の研究者ではありますが赤司氏に評価されていることに安堵しました。

 しかし、問題はここからです。井上説を評価する赤司氏は、条坊都市太宰府が藤原京よりも先行して成立したとはされていないのです。両都市の先後関係を直接的には断定されておられませんが、「王都(藤原宮:古賀注)の整備と併行して、大宰府の造営もなされた」という文面からして、太宰府条坊と藤原京は同時期の成立と赤司氏は考えられておられるようです。
 これまでわたしが度々指摘してきましたように、観世音寺創建瓦の老司1式は藤原宮の瓦に先行するというのが、従来の考古学土器編年だったのですから、太宰府条坊成立が観世音寺よりも早いとする井上説を認めるのなら、太宰府条坊は藤原京よりも成立が早く、日本最初の条坊都市としなければならないはずです。 土器の相対編年を得意とする日本考古学界が、大和朝廷一元史観に不都合なこの土器編年の問題から目をそらし、井上説の都合の良い部分だけを「利用」するの学問的態度とは言い難いのではないでしょうか。もっとも、それでも赤司氏は太宰府条坊と藤原京が同時期成立とされているようなので、従来の学界の態度よりも半歩前進と評価すべきなのでしょう。(つづく)


第199話 2008/12/13

『高良山物語』

 拙宅の前の河原町通の銀杏並木も枝が切り払われ、いよいよ京都も冬支度の頃となりました。そんなある日、書庫を整理していると『高良山物語』という小冊子が目にとまりました。おそらく20年ほど前に購入したものですが、昭和9年に久留米市の菊竹金文堂から出版され、昭和 53年の復刻版です。著者は倉富了一とあります。
 神籠石で有名な高良山の古代から近世までの歴史や伝承、研究などが要領よくまとめられた一冊です。もちろん大和朝廷一元史観の立場から著されていますが、様々な史料や伝承などが紹介されており、高良山研究における貴重な文献と言えます。その中に大変気になる一節があります。
 それは神籠石を紹介したところで、高良山神籠石の他に女山・鹿毛馬・雷山・御所ケ谷など著名な神籠石と並んで、「八女郡串毛村田代」という神籠石が紹介されているのです。わたしはこのような神籠石の存在を聞いたことがありません。もしかして、未だ学界に報告されていない神籠石が八女郡にあるのかも知れません。どなたか、近郊の方で調査していただければ有り難いのですが。