考古学一覧

第2589話 2021/10/11

鬼ノ城と前期難波宮の使用尺が合致

 昨日の多元的古代研究会月例会では、鈴木浩さんが「倭五王王朝の興亡 朝鮮式山城・神籠石と装飾古墳」というテーマで研究発表されました。神籠石などの古代山城の多くは九州王朝の時代に築城されていることもあり、わたしも研究対象として注目してきました。そこで、同例会に先だって古代山城について予習しました。
 予習として最初に読んだのが向井一雄さんの『よみがえる古代山城』(注①)です。同書は大和朝廷一元論に基づいていますが、古代山城研究の第一人者と目される向井さんの著書だけに、考古学的出土事実に関する紹介は参考になり、古田学派の研究者にも注目して欲しい一冊です。そこに、次の興味深い指摘がありました。

 「古代山城の倉庫は、通常の郡衙倉庫が三〇平方㍍であるのと比べても大きく、特に大野・基肄城で採用されている三×五間の総柱礎石建物は六〇平方㍍とひときわ大きい。設計に使用された尺度は大野城では天平尺の二九・六㌢よりも若干長く国分寺建設期の一尺(二九・九㌢)と合致する(鏡山 一九八〇)。鬼ノ城では前期難波宮使用尺の二九・二㌢と合致する柱間が指摘されており、大野城倉庫の年代が八世紀代に下る可能性が尺度面からもうかがえる。」108頁

 最後の「大野城倉庫の年代が八世紀代に下る可能性が尺度面からもうかがえる。」には賛成できませんが、次の指摘部分は九州王朝説にとって、貴重な知見です。

(1)古代山城の倉庫は、通常の郡衙倉庫と比べて大きく、特に大野・基肄城で採用されている三×五間の総柱礎石建物は六〇平方㍍とひときわ大きい。
(2)大野城の設計に使用された尺度は一尺:二九・九㌢。
(3)鬼ノ城では前期難波宮使用尺の二九・二㌢と合致する柱間が指摘されている。

 上記(1)は、九州王朝の都(太宰府条坊都市)を防衛する南北の山城(基肄城・大野城)に「ひときわ大きい倉庫」があることは、九州王朝説に有利な事実です。
 (2)の大野城設計使用尺が29.9cmであることは、太宰府条坊設計尺(約29.9~30cm)に極めて近く、両者が同時期に設計・造営されたことをうかがわせる事実です。井上信正説(注②)によれば、太宰府条坊都市造営は太宰府政庁Ⅱ期に先行するとされており、大野城も太宰府条坊都市と同時期(七世紀前半~中頃)に設計・築城が始まったと考えられます。従って、使用尺を国分寺建設期(八世紀)のものとする向井さんの見解には賛成できません。
 そして、わたしが最も驚いたのが(3)の知見、鬼ノ城と前期難波宮の造営尺(29.2cm、注③)が同じという指摘です。前期難波宮九州王朝複都説(九州年号の白雉元年:652年造営)に立つわたしの視点からすると、同一尺を使用した鬼ノ城と前期難波宮の設計・造営時期はともに七世紀中頃と見なせます。それはとりもなおさず、鬼ノ城の築城者は九州王朝複都の前期難波宮造営尺を使用した勢力ということになり、北部九州や瀬戸内海地域に点在する神籠石山城を九州王朝(系勢力)による築城とみなした古田説を支持します。そして古田説が正しいとなれば、鬼ノ城と同一尺で設計された前期難波宮を九州王朝の複都とするわたしの説と整合するからです。

(注)
①向井一雄『よみがえる古代山城』吉川弘文館、2017年。
②井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』2001年
 井上信正「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
 井上信正「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
 井上信正「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
 井上信正「大宰府条坊論」『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)、高志書院、2018年。
③古賀達也「都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺―」『古田史学会報』158号、2020年6月。
 古賀達也「洛中洛外日記」2522話(2021/07/18)〝難波京西北部地区に「異尺」条坊の痕跡〟


第2554話 2021/09/03

弥生時代の「十進法」の痕跡

 昨日、久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりメールが届き、新聞報道によると、須玖岡本遺跡から出土した弥生時代の権(分銅)に関する展示が「奴国の丘歴史資料館」のサイト(注①)で見られるとのこと。本来は同館の企画展だったのが、コロナ禍で中止となったのでネット上での公開となったそうです。
 新聞報道(注②)によれば、「弥生時代の10倍権が確認されたのは国内初」で、「弥生時代から国内でも10進法が使われていたことを証明する重要な発見」とあります。物的証拠(出土事実)を重視する考古学的にはその通りなのかもしれませんが、文献史学では弥生時代の「十進法」使用は当然のことと思われます。
 たとえば『三国志』倭人伝には倭国(壹與。三世紀)からの献上品として、「男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」(注③)と記載されており、「三十人」「二十匹」は倭国での十進法使用を前提とした数と考えざるを得ません。
 古田先生が紹介された室見川の銘板(注④)にも「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」とあり、「延光四年五」とは後漢の年号「延光四年(125年)」の「五月」のことですから、十進法による中国の年号や暦法を二世紀の倭人は知っていて、この銘板に刻字したわけです。
 以上のような史料根拠により、文献史学では弥生時代の倭国では「十進法」が使用されていたと考えざるを得ないのです。

(注)
①「発見!!弥生時代の権」オンライン展示室
https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1002191/1009102.html
②毎日新聞web版 2021/9/2。本稿末に転載、
③「壹與、遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」『三国志』倭人伝
④古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

【毎日新聞web版 2021/9/2】
弥生時代に10進法利用か 基準10倍の分銅発見 国内初

 福岡県春日市の須玖(すぐ)遺跡群・須玖岡本遺跡の出土物から、弥生時代中期(紀元前2世紀~同1世紀)とみられる石製の分銅「権(けん)」(最大長5センチ、最大幅4.15センチ)が新たに確認された。1日、市教育委員会が発表した。朝鮮半島南部で発見された権と共通の規格で作られたとみられ、基準となる権(約11グラム)の約10倍の重さだった。同規格の弥生時代の10倍権が確認されたのは国内初。市教委は「弥生時代から国内でも10進法が使われていたことを証明する重要な発見」と話している。
 遺跡群からは2020年、国内最古級となる弥生時代中期前半~後期初め(紀元前2世紀~紀元1世紀)の権8点が確認された。これらは韓国・茶戸里(タホリ)遺跡の基準質量の▽3倍▽6倍▽20倍▽30倍にあたり、権に詳しい福岡大の武末純一名誉教授(考古学)は10進法が使用されていた可能性を指摘していた。今回の発見で、その可能性がより高まった。


第2552話 2021/08/30

11月14日、八王子セミナー2021 発表原稿の作成

―「倭の五王」時代(5世紀)の考古学―

 前話で紹介した久留米大学公開講座用論文の採用決定通知が同大学担当者より届きました。字数制限を大幅に超えていたのですが、まずは一安心です。
 ところが、今度は11月13~14日に開催される〝八王子セミナー2021〟の発表原稿の締め切りが近づいてきました。一応は完成させたのですが、こちらも更に字数が増え、A4で35枚(資料込み)を越えてしまいました。引き続き、字数削減と修正を行います。
 現時点でのテーマと小見出しは次の通りです。

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学

1.「筑後川の一線」の論理
2.古墳時代の最大都市、大阪上町台地
3.須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」
4.九州最大の西都原古墳群(日向国)
5.考古学の実証(出土事実)と論証(出土解釈)
6.西都原古墳群の事実と解釈
7.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「衆夷」
8.倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」
9.倭王武「上表文」と大阪上町台地倉庫群
10.「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳
11.古田説の変遷とその論理構造
(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。
(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和60年(1985)。
(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。

【資料Ⅰ】
古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第4集、新泉社、1999年
一、玉垂命と九州王朝の都
二、高良玉垂命と七支刀
三、高良玉垂命の末喬
四、多利思北孤の都
〈追記〉『九躰皇子』異論
《高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)》
高良玉垂命(初代)――┬―斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら) |
          ├――朝日豊盛命(あさひとよもり)→草壁(稲員)氏へ続く
          ├――暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
          ├――渕志命(ふちし)
          ├――渓上命(たにがみ)
          ├――那男美命(なをみ)
          ├――坂本命(さかもと)
          ├――安志奇命(あしき)
          └――安楽應寳秘命(あらをほひめ)

【資料Ⅱ】
古賀達也「大宰府政庁「倭の五王」王都説の検証」『多元』165号、2021年9月。
一、九州大学「坂田測定」の検証
二、「坂田測定」サンプルの試料性格
三、水城堤防出土サンプルの由来
四、水城出土物の放射性炭素年代測定値
五、「水城出土杭」、もう一つの可能性
六、内倉さんの「太宰府・筑後」王都説

【資料Ⅲ】
古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
一、前畑遺跡土塁の炭片の年代
二、前畑遺跡土塁に地震の痕跡
三、「羅城」「関」「遮断城」?
四、井上信正さんの問題提起
五、木樋による水城の造営年代
六、敷粗朶による水城の造営年代
七、敷粗朶の出土状況
八、敷粗朶のサンプリング条件
九、おわりに


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2549話 2021/08/24

「倭の五王」時代の九州の古墳(1)

 「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つかりませんので、視点を変えて、倭国王の陵墓にふさわしい大型古墳について検討してみます。とりあえず、九州島内に限定して考察します。
 場所にこだわらず規模だけを見れば、宮崎県西都原古墳群の九州最大の前方後円墳、女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)が年代とともに「倭の五王」の陵墓候補に最もふさわしいと思います。同じく隣接する男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)も国内最大の帆立貝式前方後円墳で、これも「倭の五王」の陵墓候補にふさわしいものです。同県にはこの他にも次の五世紀頃の大型前方後円墳(墳丘長100m以上)があります。

○児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原
○松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納
○菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市

 さらに、生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭では九州最大規模の古墳です。続いて3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半の古墳ですが、四世紀代を通じて九州最大です。そして五世紀には同じく九州最大の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳へと続きます。
 このように宮崎県では、四~五世紀にかけて九州最大規模の古墳造営が続いています。更に、全県的に多数の古墳があり、大和(奈良県)や両毛(群馬県・栃木県)とともにわが国で最も古墳の多いところといわれており、古墳が全く見当たらないのは二~三町村にすぎないとされています(注①)。
 古田先生も宮崎県について、『失われた九州王朝』第五章「九州王朝の領域と消滅」の「遷都論」において次のように述べておられます(注②)。

 「九州王朝の都は、前二世紀より七世紀までの間、どのように移っていったのだろうか。少なくとも、一世紀志賀島の金印当時より三世紀邪馬壹国にいたるまでの間は、博多湾岸(太宰府近辺をふくむ)に都があった。(中略)また、同様に、南下して宮崎県の『都城』といった地名も、同県の古墳群とともに、注目されねばならぬ。」『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版475~476頁

 この指摘を重視するのであれば、宮崎県の西都原古墳群を筆頭とする四~五世紀の九州最大の古墳群の濃密分布と、当地に今も濃密分布する「阿万」姓の人々の存在(注③)などから、この地と「倭の五王」との関係を九州王朝史の視点から考察すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①日高次吉『宮崎県の歴史』山川出版社、1970年。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973年)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「洛中洛外日記」2543~2548話(2021/08/19~23)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)~(4)〟


第2548話 2021/08/23

「あま」姓の最密集地は宮崎県(4)

 宮崎県に集中分布する「あま」姓と「阿毎多利思北孤」(『隋書』イ妥国伝)の「阿毎」との〝一致〟、それと「あま」姓最密集分布地域(西都市・他)と九州最大の西都原古墳群の地域が重なるという二つの事実により、「阿万」「阿萬」姓の分布状況が古代の九州王朝に由来するとしたわたしの仮説は、更に傍証を得て有力仮説となるのですが、その傍証について説明します。
 わたしが白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)からのメールで、「阿万」「阿萬」姓が宮崎県に濃密分布していることを知ったとき、文献史学と考古学の二つの研究が真っ先に脳裏に浮かびました。その一つは、西井健一郎さん(古田史学の会・前全国世話人、大阪市)の論稿「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」(注①)で、『三国史記』新羅本紀の文武王八年(668年)条冒頭に見える記事「八年春、阿麻來服。」の「阿麻」を、白村江戦(663年)で敗北した九州王朝(倭国)の元天子とする仮説です。もう一つは、近年、韓国から発見が続いた前方後円墳の形状が宮崎県西都市やその近隣の前方後円墳とよく似ているという考古学的事実でした(注②)。
 まず西井さんの研究により、『三国史記』の不思議な記事〝阿麻が新羅に来て、服した〟のことがずっと気になっていました。「阿麻」という名前はいかにも倭人の名前らしく、九州王朝の王族に繋がる有力者ではないかと考えていたのです。
 また、韓国で発見された前方後円墳(注③)の形状は〝前「三角錐」後円墳〟とも言いうるもので、方部頂上が三角錐のようにせり上がっており、この特異な形状の古墳が宮崎県にも分布(注④)していることから、韓国で前方後円墳を造営した勢力と南九州(宮崎県)の勢力とは関係があったのではないかと考えてきました。
 この一見無関係に見える事象、『三国史記』の「阿麻來服」と韓国・宮崎の前「三角錐」後円墳とが、宮崎県西都市を中心とする「阿万」「阿萬」姓の分布事実が結節点となり、「あま」姓を名のる九州王朝(倭国)の支族が、宮崎県(日向国西都原)と韓国(恐らく任那日本府を中心とする領域)に割拠し、独特の前方後円墳(前「三角錐」後円墳)を造営したとする仮説へと発展しました。
 白石さんから届いたメールをヒントに、南九州と韓半島を結ぶ九州王朝史の一端に迫る仮説を提起したのですが、はたしてこの仮説が歴史の真実に至るものかどうか、皆さんのご判断に委ねたいと思います。(おわり)

(注)
①西井健一郎「新羅本紀『阿麻來服』と倭天皇天智帝」『古田史学会報』100号、2010年10月。
②古賀達也「前『三角錐』後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年4月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1127話(2016/01/23)〝百済王亡命地が南郷村の理由〟
③韓国の代表的な前方後円墳として月桂洞1号墳(光州広域市光山区)がある。全長は36.6m(推定復元45.3m)、後円部の高さ4.8m(推定復元6.1m)、方部の高さ4.9m(推定復元5.2m)。造営年代は6世紀前半頃で、九州の前「三角錐」後円墳と同時期。石室の構造には九州系横穴式石室の要素が指摘されている。
④宮崎県西都市の松本塚古墳。墳長104mで、五世紀末から六世紀初頭頃の「前方後円墳」とされている。
 熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳も、墳長102mmの前方後円墳で五世紀中頃の築造と説明されており、その形状が似ている。
 宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳も同様で、墳長94mの六世紀代の「前方後円墳」とされている。『祇園原古墳群1』(1998年、宮崎県新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ている。
○百足塚古墳 墳長76.4
○機織塚古墳 墳長49.6m
○新田原五二号墳 墳長54.8m
○水神塚古墳 墳長49.4m
○新田原六八号墳 墳長60.4m
○大久保塚古墳 墳長84.0m


第2547話 2021/08/22

太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)

 牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注①)を読んでいて不思議な記述があり、わたしの太宰府土器編年研究が中断してしまいました。それは須恵器杯の様式名に、既存編年の名称とは異なる表記が散見されたからです。具体例二点を紹介します。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋には「つまみ」はないが、23頁の説明ではそれらを「杯G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、36頁の説明ではそれを「杯B」とする。

 須恵器様式については既に説明(注②)してきたところですが、それとは異なり、「つまみ」がない須恵器蓋を杯Gや杯Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、大野城市ホームページの「問い合わせ」コーナーから、上記の点について質問しました。まもなくすると、同市ふるさと文化財課の上田さんから丁寧な回答が届きました。要約して紹介します。

《大野城市ふるさと文化財課の上田さんからの回答》
【質問1】26頁第16図73・74の「杯G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「杯G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「杯G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「杯G」と表現しています。

【質問2】37頁第24図83の「杯B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「杯B蓋」には「つまみ」があり、杯身には「足=高台」を有しています。
 「杯G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「杯B」と表現しています。

【参考資料】
 大野城市では、奈良文化財研究所の須恵器分類を採用しております。参考までに『牛頸窯跡群総括報告書Ⅰ』の「例言」を添付しておりますますので、参考にしていただければと思います。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、杯G蓋・杯B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。
 簡単ではございますが、以上を回答とさせていただきます。何かご不明な点がございましたらご連絡いただければ幸いです。

 上記の丁寧な回答が寄せられました。資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋杯については、奈良文化財研究所が使用している名称杯H(古墳時代通有の合子形蓋杯)、杯G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、杯B(高台付きの杯)、杯A(無高台の杯)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 こうした説明を受けて、わたしもようやく事情が飲み込めてきました。すなわち、蓋に「かえり」(注④)が付いているものは「つまみ」がなくても杯Gに分類されていたわけです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの杯G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、杯Gに見なすということのようです。蓋がない杯Bも同様です。
 わたしは、蓋に「つまみ」がなく、「かえり」があるものは杯Hの進化形とする見解を大阪の考古学者から聞いていましたので、土器の地域差の発現だけではなく、考古学者の認識にも地域差があるのかもしれません。あるいは、わたしの認識・理解がまだ浅いのかも知れません。この点、他地域の考古学者の意見も聞いてみたいと思います。
 こうして、牛頸窯跡群出土土器の疑問については一応の解決をみたのですが、これからは調査報告書を精査する際、「つまみ」の有無だけでの単純な様式判断で済ませることなく、報告書の土器分類・編年表も用心深く見なければならないことを学びました。大野城市の上田さんに改めてお礼申し上げたいと思います。(つづく)

(注)
①『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2537話(2021/08/14)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(2)〟にて、次のように説明した。
〝この須恵器は、なぜか七世紀になると様相が急に進化し始めるので、土器編年に使用されています。大きな変化の目安として、古墳時代から続く丸底で丸い蓋を持つ「杯(つき)H」から始まり、蓋につまみが付く「杯G」、更に底に足が付く「杯B」と変化し、その様相の違いを利用して相対編年が可能となります。実際には細部の形式変化や大きさ(法量)の変化も利用して、より詳しく分類・編年されています。〟
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。
④須恵器の「かえり」とは、蓋と杯身の併せ部分にある内側に向いた縁のことで、杯Hの場合は杯身側に「かえり」があり、蓋がそこに被さるようになっている。蓋側に「かえり」があるものは進化形で、食器内の湯気が蓋の天井で冷やされ、その雫(しずく)が「かえり」によって杯身の内側に流れ込むように工夫されている。蓋に「かえり」がない古いタイプの杯Hの場合は、内部で発生した雫(しずく)が杯身と蓋の隙間から外側へこぼれてしまう。そのため同じ杯Hでも、蓋に「かえり」を有するものが、より新しく編年されてきた。


第2545話 2021/08/21

「あま」姓の最密集地は宮崎県(3)

 宮崎県に集中分布する「阿万」「阿萬」姓調査の結果、宮崎県内の分布中心は西都原古墳群を擁する西都市、隣接する宮崎市の両市であることがわかりました。そのため、「阿万」「阿萬」姓が、西都原古墳群とは無関係に発生したとは考えにくく、古代の九州王朝(倭国)にまで遡る淵源を持っているのではないかとしました。その理由について説明します。
 まず、わたしが注目したのが「あま」という姓です。『隋書』俀国伝によれば九州王朝(倭国)の天子の名前が「阿毎多利思北孤」とあり、「阿毎」(あま、あめ)という姓を名のっていたことがわかります。従って、古代において、「あま」という姓は誰にでも名のれるものはなく、倭国王族に限られたと考えるのが妥当です。この単純で頑強な理屈により、宮崎県に集中分布している「阿万」「阿萬」姓を名のっている人々は倭国王族の末裔ではないかと、まずは考えなければなりません。これは論理(単純で頑強な理屈)に導かれた作業仮説(思いつき)の段階です。
 なお、このアイデアは、「阿万」「阿萬」姓の分布状況をお知らせいただいた白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)の鋭い直感に導かれたものであることは言うまでもありません。
 次に、宮崎県内の分布を見ると、九州最大の西都原古墳群がある西都市と同市に隣接する宮崎市などに分布が集中している事実があり、この「阿万」「阿萬」姓が西都原古墳群と関係しているのではないかと考えることができます。むしろ、倭国王家の姓を名のっている人々の集中分布と九州最大の古墳群の存在が、偶然に重なったとするほうが無理な考えではないでしょうか。なぜなら、九州最大の古墳群が九州王朝(倭国)と無関係に造営されるはずはないからです(注)。
 このように、宮崎県に集中分布する「あま」姓と「阿毎多利思北孤」(『隋書』俀国伝)の「阿毎」との〝一致〟、それと「あま」姓最密集分布地域(西都市・他)と九州最大の西都原古墳群の地域が重なるという二つの事実により、先の作業仮説は史料根拠と考古学的根拠を持つ学問的仮説へと発展するのです。この仮説は更に傍証を得て、有力仮説となります。(つづく)

(注)大和朝廷一元史観の通説では、西都原古墳群にある前方後円墳などを畿内の前方後円墳の影響を受けたものとする。


第2544話 2021/08/20

「あま」姓の最密集地は宮崎県(2)

 白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)からのご教示により、「あま」姓の分布調査を行いました。宮崎県に集中していたので、更に詳しく市区町村レベルの分布を調査したところ、明らかに古代にまで遡ると思われる分布痕跡が見て取れました。次の通りです。

(1) 宮崎県内の分布中心は西都原古墳群を擁する西都市と隣接する宮崎市である。児湯郡新富町、東諸県郡綾町も近隣であり、「阿万」「阿萬」姓が、西都原古墳群と無関係に発生したとは考えにくい。
(2) 鹿児島県の分布地域は指宿市であり、同地は九州王朝の皇女「大宮姫」伝説の地である(注①)。
(3) 「倭の五王」(五世紀)の時代、九州王朝の天子(倭王)は「玉垂命(たまたれのみこと)」を襲名していたと考えているが(注②)、玉垂命を御祭神とする筑後一宮高良大社(久留米市)に由来する「高良(こうら)」姓の分布は、福岡県に次いで鹿児島県に多い(注③)。ただし、宮崎県に「高良(こうら)」姓の分布は見られず、鹿児島県における「高良(こうら)」姓と「阿万」「阿萬」姓の分布領域はあまり一致していないようである。
(4) 「阿万」姓の兵庫県の分布領域は南あわじ市であり、同地には高良神社が分布している(注④)。

 以上のように、宮崎県に濃密分布する「阿万」「阿萬」姓は、古代の九州王朝(倭国)に何らかの淵源を持っているように思います。(続く)

○宮崎県 推計人口(令和3年3月) 約1,061,000人(100%)
○宮崎市 推計人口(令和3年8月) 約 397,000人(約37%)

【阿万】姓 人口 約900人 順位 8,448位
〔市区町村順位〕
1 宮崎県 宮崎市 (約200人)
2 宮崎県 西都市 (約200人)
3 宮崎県 日南市 (約80人)
4 宮崎県 児湯郡新富町 (約60人)
5 鹿児島県 指宿市 (約30人)
6 兵庫県 南あわじ市 (約30人)
7 宮崎県 東諸県郡綾町 (約20人)
8 宮崎県 延岡市 (約10人)
8 宮崎県 日向市 (約10人)
8 宮崎県 西諸県郡高原町 (約10人)

【阿萬】姓 人口 約400人 順位 14,505位
〔市区町村順位〕
1 宮崎県 宮崎市 (約120人)
2 宮崎県 児湯郡新富町 (約30人)
3 宮崎県 西都市 (約30人)
4 鹿児島県 指宿市 (約20人)
5 宮崎県 都城市 (約10人)
6 千葉県 船橋市 (約10人)
6 大分県 大分市 (約10人)
6 鹿児島県 南九州市 (約10人)
9 神奈川県 厚木市 (ごく少数)
9 神奈川県 大和市 (ごく少数)

※「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。

(注)
①古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
 正木 裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
 古賀達也「洛中洛外日記」2239話(2020/09/23)〝南九州の「天智天皇」伝承〟
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2209話(2020/08/21)〝高良玉垂命と甲良町と高良健吾さん〟
④古賀達也「洛中洛外日記」1260話(2016/08/21)〝神稲(くましろ)と高良神社〟


第2543話 2021/08/19

「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)

 『古田史学会報』164号(2021年6月)で「斉明天皇と『狂心の渠』」を発表された白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)から、とても興味深いメールが届きましたので、紹介します。
 白石さんのメールによれば、〝テレビで「新婚さんいらっしゃい」を見ていて、阿萬という姓の御夫婦が出演されているのに驚き、「阿毎多利思北狐」を思い浮かべた〟とのことでした。そして、ネットで調べると、「阿萬」姓の80%が宮崎に住んでいるとのことで、〝「倭の五王」の王都が特定されていない中、何らかの参考になれば〟とありました。研究者にとって、ありがたい情報提供です。
 わたしは、「阿萬」姓が宮崎県に濃密分布していることを知り、驚きました。と同時に、今まで「あま」姓の調査をしてこなかったことに気づかされました。そこで、わたしも調べてみました。
 「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)で「阿万」「阿萬」姓を検索したところ、ご指摘通り宮崎県に濃密分布しており、他県を圧倒しています。従って、この分布は歴史的背景の影響を色濃くうけていると思われます。敢えて指摘すれば、鹿児島県と兵庫県の分布も注目され、これも偶然ではないように思います。
 なお、「阿万」「阿萬」以外の「あま」姓として、「天」「安満」「阿満」「尼」「海士」「阿磨」「阿間」がありましたが、いずれも人数が少ないので歴史資料として使用するには、母集団として適切ではないようです。(つづく)

宮崎県推計人口(令和3年3月)約1,061,000人

【阿万】姓 人口 約900人 順位 8,448位
〔都道府県順位〕
1 宮崎県(約600人)
2 兵庫県(約90人)
3 鹿児島県(約60人)
4 大阪府(約50人)
5 福岡県(約20人)
6 東京都(約20人)
6 埼玉県(約20人)
8 神奈川県(約10人)
8 愛知県(約10人)
10 長崎県(約10人)

【阿萬】姓 人口 約400人 順位 14,505位
〔都道府県順位〕
1 宮崎県(約200人)
2 鹿児島県(約50人)
3 神奈川県(約30人)
3 兵庫県(約30人)
5 千葉県(約20人)
6 埼玉県(約10人)
7 静岡県(約10人)
7 東京都(約10人)
7 愛知県(約10人)
7 大阪府(約10人)

※「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。


第2542話 2021/08/18

太宰府出土、須恵器と土師器の話(6)

 牛頸窯跡群を筆頭に各地の窯から太宰府条坊都市に食器用途の須恵器、煮炊き用途に使用された土師器が供給されています。ところが、太宰府の土師器は、他地域とは異なる特徴を持つことが知られています。それは製法に関することで、ある時期から回転台(ろくろ)を使用して土師器が造られるようになることです。
 回転台成形による土器製造技術は須恵器製造技術と共に伝わったと考えられていますが、その後も土師器は地域伝統の「手持ち成型」技法で造られていました。ところが太宰府では須恵器杯Bの流行と同時期に土師器も回転台により造られるようになりました。これは大和の「宮都」にだけ見られた現象とされているようで、中島恒次郞さん(太宰府市都市整備部)の「日本古代の大宰府管内における食器生産」(注①)では次のように説明されています。

 「大宰府官制成立時に発現する回転台成形の土師器生産は、宮都以外に発現した一大画期とでもいえる事象で、大宰府管内においても重要な出来事である。」671~672頁
 「古代官衙成立後に発現する回転台成形の土師器を国家的な食器として見た時、九州内においては成川式土器、兼久式土器のように様式名称を上げることができるように大宰府との距離と正比例する強度で在地伝統が強くなる。逆を述べると大宰府を国家的な様相の極としていることになる。(中略)在地伝統の技術として捉えた手持ち成形の土師器は、実は都を包括する畿内では通有の事象であり、九州において在地伝統の技術を保持している集落と都がある畿内が同じ保守的様相を保っていることになる。」672~673頁

 この説明の重要点は、わたしの理解するところ次の通りです。

(1) 太宰府の官制成立時・官衙成立後に回転台成形の土師器が発現する。
(2) 須恵器と土師器が共に回転台成形になるのは、大和の「宮都」と太宰府にのみ見られる〝国家的〟現象である。

 そして、中島さんは土師器も回転台成形になった背景として、世襲工人の崩壊(筑前・筑後・肥前)や食器製造工人集団の統合がなされたためとしています。

 「(筑前・肥前・筑後の)土師器は、回転台成形の製品が優勢な大宰府を一方の極とし、前代からの系譜を引く手持ち成形の製品が優勢な集落を一方の極とする様相が観察できる。ただし、時間の経過とともに集落様相は、Ⅲー2期(八世紀後半~九世紀前半)には回転台成形の土師器が優勢へと転換していく。その背景は、生産工人のあり方を文献史学ならびに考古資料観察から導き出した、世襲工人の崩壊による多様な人々による生産への転換を想定している。」667頁 ※()内は古賀による注。
 「食器構成においてみるとⅢー1期(八世紀前半)において律令制国家的様相である土師器―須恵器の器種互換性・法量分化が成立し、国家的様相下に入るとともに、食器製作技法を見ると、地域の利害を無視した生産体制として土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離を行ったと解せる事象が顕在化することになる。この食器生産体制の編成と時期を同じくして条坊制施行、官道整備、水城・大野城・基肄城の再整備など大規模でかつ広範な分野で国家制度を体現するための諸制度が敷かれていくことになる。」673頁 ※同上。

 こうした中島さんの見解について、その編年(暦年とのリンク)には賛成できませんが、「土師器―須恵器の生産工人を整理統合、再分離」が行われたということについては、あり得ることと思います。既に論じられていることとは思いますが、そうした現象面の解釈以上に、なぜ律令官制成立時期に土師器も回転台成形になったのかという理由こそ追究すべき問題と思います。そこにも歴史的必要性があったと考えるからです。
 わたしは九州王朝説に基づいて、次のような背景を推定しています。すなわち、多利思北孤による太宰府遷都(倭京元年、618年。注②)と律令制統治体制確立による急激な人口増加が太宰府地区で発生したため、それに対応した食器量産体制拡充のため、より生産性が高い回転台成形が土師器にも採用されたとする理解です。当然、これは須恵器増産のための牛頸窯跡群拡大と軌を一にした政策と考えざるを得ません。そうすると、その時期は七世紀前半頃に位置づけるのが穏当となるのですが、中島さんの編年とは50年ほど異なり、太宰府土器編年の検討が必要となるわけです。
 なお、中島さんのいう「大宰府官制」とは、王朝交替後の『大宝律令』下における八世紀の「大宰府官制」を指していますから、そのこと自体は妥当な見方です。実際に七世紀中頃に減少した牛頸窯跡群は八世紀になると再び増加していることが知られています(注③)。ですから、七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期と回転台成形土師器の発生時期との考古学的対応の検討が重要です(注④)。その当否はまだわかりません。これから精査したいと思います。(つづく)

(注)
①中島恒次郞「日本古代の大宰府管内における食器生産」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 正木裕「盗まれた遷都詔 ―聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③石木秀哲(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年。(同年2月に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集)
④拙論〝前期難波宮九州王朝複都説〟によれば、「七世紀中頃の九州王朝律令官制確立の時期」には前期難波宮も含まれるので、検討範囲は難波地域(大阪市)や陶邑窯跡群(堺市)も対象となる。


第2540話 2021/08/16

太宰府出土、須恵器と土師器の話(5)

 本テーマで紹介した「須恵器杯Bや律令制国家官僚群は、七世紀の中葉頃、九州王朝(倭国)の都(太宰府)にて、他に先駆けて成立した」とする仮説には、有利な点と克服すべき課題を併せ持っています。このことについて説明します。
 まず、有利な点ですが、「飛鳥編年」など既存の土器編年を北部九州以外では基本的にそのまま採用できるということにあります。修正の対象が太宰府を中心とする北部九州(須恵器の先進地域)の土器編年であるため、新たな土器編年の検討作業を「九州編年」に集中することができます。
 克服すべき課題は、太宰府土器編年の見直しの方法論の確立です。具体的には次の諸点です。

(1) 杯Gや杯Bの相対土器編年と絶対編年(暦年)とのリンク。
(2) 文献史学による太宰府遺跡の編年と土器編年の整合。
(3) 各太宰府遺跡(政庁Ⅰ期・Ⅱ期、観世音寺、朱雀大路、太宰府条坊、水城、大野城、基肄城、土塁、阿志岐山城、等)相互の造営年代の整合。

 以上の諸点ですが、なかでも(1)が最も重要で困難な作業になります。土器編年を暦年にリンクするためには、科学的年代測定か確かな文献史料との対応が必要となりますが、後者の九州王朝系史料は極めて少なく、仮にあったとしても通説支持者はそれを史実とは認めないと思います。
 前者の場合、近年精度を増したとはいえ、炭素同位体比年代測定法の測定値には年代幅があり、七世紀(百年間)のなかで、杯H・杯G・杯Bと変化した土器編年と正確にリンクさせるのは困難です(注)。その点、年輪年代測定法は樹皮が遺っていればピンポイントで伐採年を判定できますが、伐採年と遺跡造営年が一致するのかどうかについては、木材の転用・再利用などの可能性があり、やはり研究者の解釈による恣意性が発生しそうです。
 このようにわたしの仮説の証明には大きな壁が待ち受けています。(つづく)

(注)大宰府政庁や水城の炭素同位体比年代測定の難しさを指摘した次の論稿を筆者は発表した。
○「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
○「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
○「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2017年7月。
○「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
○「太宰府『倭の五王』王都説の検証 ―大宰府政庁編年と都督の多元性―」『多元』164号、2021年7月。
○「太宰府『倭の五王』王都説の限界 ―九州大学「坂田測定」の検証―」『多元』165号、2021年9月(予定)。