沖ノ島祭祀遺跡一覧

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo

https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/move/umisyosou20250801.pdf/

世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
https://www.okinoshima-heritage.jp/

第3515話 2025/08/14

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(5)

 「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島の祭祀遺跡は次の4期に分かれています。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀

 この内、❶❷❸からは日本列島の代表王権にふさわしい奉献品が出土しています。次の通りです。

❶ 銅鏡、鉄剣等の武具、勾玉等の玉類が中心。鏡・剣・玉は三種の神器(王権のシンボル)。
❷ 鉄製武器や刀子・斧などのミニチュア製品、朝鮮半島からもたらされた金銅製の馬具など。新羅王陵出土の指輪と似た金製指輪。ペルシャ製カットグラス碗片。
❸ 金銅製の紡織具や人形、五弦の琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品。

 ところが❹(8世紀)になると、宗像地域独特の形状や材質で製作された祭祀用土器を含む土師器・須恵器、人形・馬形・舟形等の滑石製形代が中心です。そのため、8世紀以降は宗像地域の豪族による祭祀が続いたと考えられています。

 8世紀は大和朝廷にとって、『大宝律令』による全国統治が開始され、巨大な条坊都市である平城京の造営、大仏の建立など隆盛を誇った時代です。それにもかかわらず、沖ノ島からは列島の代表王朝にふさわしい奉献品は見られません。すなわち通説に従えば、4世紀から続けてきた沖ノ島への奉献をなぜか突然に大和朝廷は8世紀になるとやめてしまったということになるのです。このような近畿天皇家一元史観というイデオロギーに基づく通説の解釈は不自然であり、出土事実を合理的に説明できていません。

 他方、701年に王朝交代があったとする古田武彦氏の九州王朝説によれば、4世紀から沖ノ島へ奉献し、祭祀を続けてきたのは天孫降臨以来の海洋国家である九州王朝であり、大和朝廷への王朝交代により沖ノ島の祭祀や奉献が続けられなくなったとする説明が可能です。この3期と4期の奉納品の激変は、8世紀における王朝交代の痕跡を示しているのです。

 東アジア最高の優品と評価された、沖ノ島の金銅製矛鞘はヤマト王権からの奉献品ではなく、九州王朝によるものとする仮説は、沖ノ島の祭祀跡から出土した奉献品が8世紀に激変するという史料事実に基づきます。本テーマの最後に、改めてその理由を列挙します。

理由1 九州王朝は天孫降臨以来の海洋国家。沖ノ島を「海の正倉院」としたのは九州王朝。
理由2 九州王朝は卑弥呼以前から鏡文化の国。弥生時代以来、鏡の埋納・奉納の伝統文化を持つ。
理由3 九州地方は金銀象眼・鍍金文化圏。中国伝来の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が国内唯一出土、国内最大の鍍金方格規矩四神鏡が出土。
理由4 九州王朝は騎馬文化受容国家。石人・石馬・馬具出土、『隋書』俀国伝に騎馬隊が見える。

Y0uTube講演
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令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也
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第3513話 2025/08/09

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(4)

 宗像大社沖津宮で玄界灘の孤島、沖ノ島からは4世紀頃~9世紀頃にわたる夥しい奉献品が出土しており、その全てが国宝に指定されています。そのため沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれています。島の中腹にある祭祀遺跡は4期に分かれ、次のように編年されています。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀

 これらの遺跡はおおよそ次のように説明されてきました。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
4世紀後半、対外交流の活発化を背景に巨岩上で祭祀が始まる。岩と岩とが重なる狭いすき間に、丁寧に奉献品が並べ置かれた。祭祀に用いた品は、銅鏡・鉄剣等の武具、勾玉等の玉類が中心で、当時の古墳副葬品と共通する。鏡・剣・玉は三種の神器(王権のシンボル)といわれ、後世まで長く祭祀で用いられる組み合わせ。

❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
5世紀後半になると、祭祀の場は庇(ひさし)のように突き出た巨岩の陰へと移る。岩陰祭祀の奉献品には、鉄製武器や刀子・斧などのミニチュア製品、朝鮮半島からもたらされた金銅製の馬具などがある。金製指輪は新羅の王陵から出土した指輪と似ており、ペルシャ製のカットグラス碗片はシルクロードを経て倭国にもたらされたと考えられる。

❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
岩陰祭祀の終わり頃(22号遺跡)から半岩陰・半露天祭祀(5号遺跡)にかけて、奉献品に明確な変化がみられるようになる。従来のような古墳の副葬品とは異なる金銅製の紡織具や人形、五弦の琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品が目立つようになる。

❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀
8世紀になると、巨岩群からやや離れた露天の平坦地に祭祀の場が移る。大石を中心とする祭壇遺構の周辺には大量の奉献品が残されている。露天祭祀出土の奉献品は、祭祀用土器を含む多種多様な土師器・須恵器、人形・馬形・舟形等の滑石製形代が中心。それ以前とは激変する。奉献品は宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀が続いたと考えられる。

 ❶❷❸の奉献品は、王権からの祭祀品としてそれぞれの時代にふさわしい物ですが、8世紀の❹になると、それ以前とは激変し、「宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀」へと祭祀主宰者の変化を示しています。この3期と4期とでの奉献品の様相の激変は、沖ノ島の祭祀はヤマト王権が続けてきたとする、近畿天皇家一元史観による通説では説明できません。これは7世紀から8世紀にかけての王朝交代の痕跡であり、すなわち九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を示しているのです。(つづく)

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沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
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第3509話 2025/07/22

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(3)

 象眼が確認された沖ノ島の金銅製矛鞘のような鉄矛は、騎兵が備えていた主要な武器とされ、日本列島には5世紀に朝鮮半島から騎馬文化が流入し普及したとされているようです。この騎馬文化の痕跡は、当の沖ノ島出土の馬具・装飾品を見てもわかるように、九州王朝内でもその痕跡は少なからず遺されています。例えば、九州王朝の王(筑紫君磐井)の墳墓・岩戸山古墳(福岡県八女市)から出土している石人・石馬は有名ですし、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土の鉄刀(国宝)に馬の銀象眼が施されていることからも騎馬文化の受容をうかがえます。

 極めつけは、九州王朝のことを記した『隋書』俀国伝に次の記事が見えることです。

 「また大礼、哥多毗を遣はす。二百余騎を従え郊に労す。」

 大礼哥多毗が、二百余騎の騎馬隊を率いて隋使を迎えたとする記事ですから、九州王朝が騎馬文化を受容し、七世紀初頭、少なくとも二百余騎の騎馬隊を擁していたことを示しています。ちなみに、『隋書』俀国伝の俀国(倭国)が、大和朝廷ではなく九州王朝であることは次の記事からも明らかです。

❶「阿蘇山有り。その石、故無く火起こり、天に接す。」
❷「小環を以って鸕鷀の項に挂け、水に入りて魚を捕しむ。日に百余頭を得る。」
❸「楽に五弦の琴、笛あり。」

 ❶の阿蘇山噴火の記事は隋使の見聞に基づいており、九州王朝の代表的な山を表したものです。❷の鸕鷀(ろじ)とは鵜のことで、これは鵜飼の記事です。北部九州の筑後川や矢部川、肥後の菊池川の鵜飼は江戸期の史料にも記されており、これもまた九州王朝の風物を表した記事です(注)。❸の「五弦の琴」は沖ノ島から出土しており、九州王朝の楽器を紹介した『隋書』の記事と出土物とが対応しています。

 以上のように、石馬や馬の象眼鉄刀などの出土遺物や『隋書』の騎馬隊記事は、金銅製矛鞘が示す騎馬文化を九州王朝(倭国)が受容していたことを示唆しています。(つづく)

(注)
古賀達也「九州王朝の築後遷宮 ―玉垂命と九州王朝の都―」『新・古代学』古田武彦とともに 第4集、1999年、新泉社。
同「洛中洛外日記」704話(2014/05/05)〝『隋書』と和水(なごみ)町〟

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第3507話 2025/07/17

「海の正倉院」

 沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(2)

 今回、象眼が確認された沖ノ島の金銅製矛鞘は当時の東アジアで最高峰といえる優品と評価されています。そのことには異論はないのですが、多元史観・九州王朝説から見れば、九州王朝が沖ノ島の祭祀をいかに重要視していたかを示す奉献品と言えます。たとえば、九州では古墳時代の金銀象眼鉄刀が出土しており、ヤマトからの技術にたよる必要はありません。例えば次の象眼鉄刀が著名です。

○銀象眼龍文大刀 宮崎県えびの市、島内地下式横穴墓群出土。古墳時代中期~後期、5~6世紀。全長98.6cm。
○銀象眼錯銘大刀 熊本県玉名郡和水町、江田船山古墳出土。5世紀末~6世初頭。
○金象眼庚寅銘大刀 福岡市西区の元岡古墳群から出土した金象眼の銘文を持つ6世紀の鉄刀。これは四寅剣と呼ばれるもので、国家の災難を防ぐという。庚寅は570年に当たり、九州年号の金光元年。

 また、鉄鏡ではありますが、「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が大分県日田市のダンワラ古墳から出土しており、魏・漢時代の中国鏡と見られています。これほど見事な金銀錯嵌が施された鉄鏡は国内ではこの一面だけです。

 象眼ではありませんが、国内では珍しい鍍金鏡が糸島市から出土しています。それは「鍍金方格規矩四神鏡」と呼ばれる鏡で、福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳から出土しています。4世紀後半。

 以上のように、金銅製矛鞘の象眼は九州王朝の伝統的技術で製造することが可能であり、遠く離れたヤマト王権からの奉献説をわざわざ持ち出す必要はないのです。(つづく)

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第3505話 2025/07/14

「海の正倉院」

 沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(1)

 7月5日(土)、九州古代史の会の月例会(福岡市早良区ももち文化センター)で、「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島祭祀遺跡出土奉献品の変遷に、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の痕跡が遺されていることを報告しました。講演の冒頭では次のように述べました。

 〝最近のニュースですが、「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島から出土していた国宝「金銅製矛鞘」に象眼文様が確認されたと新聞やテレビが報道し、次のように説明しています。
「当時の東アジアの鞘、矛で最高峰といえる優品。ヤマト王権が沖ノ島の祭祀をいかに重要視していたかを改めて示す発見だ。」
「金銅製矛鞘」はヤマト王権が沖ノ島に奉献したとするこの説明(解釈)は正しいのでしょうか。その根拠はなんでしょうか。そもそも根拠はあるのでしょうか。〟

 日本各地で優れた遺物や遺構が出土すると、学者は申し合わせたかのように、「ヤマト王権からもたらされたもの」「大和朝廷の影響が及んだもの」と説明するのが常ではないでしょうか。そして、その〝隠された根拠〟は、『日本書紀』に記された歴史認識の大枠(日本列島の代表王権は神代の時代から近畿天皇家である)を論証抜きで是とする歴史観、すなわち「近畿天皇家一元史観」と古田武彦先生が呼んだものです。

 もちろん、当人がそのことを自覚しているのか無自覚なのかはわかりませんが、少なくとも学校ではそうならい続け、受験でも教科書に書かれたその歴史観に基づいた回答が正解とされる教育システムの中で高得点をとり続け、大学教授にまで上り詰めた人々が今日の学界の中枢を占めています。

 それでは古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説に立てば、今回の「金銅製矛鞘」はどのように位置づけることができるでしょうか。福岡市の講演ではこのことに焦点を絞り、史料根拠を提示し、それに基づく論理を説明しました。(つづく)


第3500話 2025/06/28

7/05(土)「九州古代史の会」

     講演での追加テーマ

 ―「海の正倉院」の中の王朝交替―

 友好団体「九州古代史の会」の7月例会(7/05 福岡市早良区ももち文化センター)で講演させていただきます。当初予定していた講演テーマは「王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史・太宰府遷都の真実―」だけでしたが、沖ノ島出土金銅製鞘から象眼発見のニュースが駆け巡ったため、急遽、最新のご当地ネタとして〝「海の正倉院」の中の王朝交替 ―沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて―〟を追加することにしました。

 同ニュースの全てが「ヤマト王権が奉納した」と解説することを不審に思い、その根拠を調べたところ、大和朝廷一元史観という一つの仮説を根拠としており、ヤマトからもたらされたとする確たるエビデンスは無いようでした。むしろ、古墳時代から続く九州王朝(倭国)の象眼技術や美術・芸術の歴史的流れの中に位置づけられるとする理解の方が現実的であることがわかりました。

 更に、沖ノ島の遺跡(Ⅰ期 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀、Ⅱ期 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀、Ⅲ期 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀、Ⅳ期 露天祭祀遺跡 8世紀~9世紀)毎に遺物を精査したところ、Ⅲ期とⅣ期の間に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替(701年)の痕跡が残されていることがわかりました。この発見と仮説を追加テーマとして発表します。ご当地の皆さんに是非お聞きいただきたいと願っています。

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
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第3495話 2025/06/12

九州古代史の会で講演します

沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて

 7月5日、友好団体「九州古代史の会」の例会で発表させていただきます。日時・演題は下記のとおりです。

7月5日(土)午後1時半から ももち文化センター
演題 王朝交代前夜の倭国と日本国
―温泉の古代史・太宰府遷都の謎―
《追加テーマ》沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて

 予定していたテーマ「王朝交代前夜の倭国と日本国」に加えて、急遽「沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて」を追加することにしました。
「王朝交代前夜の倭国と日本国」は翌日(7/06)の久留米大学公開講座と同様の内容ですが、より詳しく説明します。『旧唐書』倭国伝・日本国伝の記事から、7世紀末に起きた九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の実体に迫り、九州王朝が太宰府を都とした理由の一つに、二日市温泉(次田の湯)の存在が大きかったことを論じます。

 追加テーマ「沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて」では、ほとんど全てのメディアで〝ヤマト王権が沖ノ島に奉納したもの〟と説明していますが、九州王朝による奉納とする多元史観による仮説を提起したいと考えています。この発見はご当地のビッグニュースですので、触れないわけにはいかないと思い、急遽、付け加えることにしました。ご期待下さい。

 なお、「九州古代史の会」では三役が交代されたとのことで、代表に元伊都国歴史博物館長の榊原英夫さん、副代表に松中祐二さん、事務局長に工藤和幸さんが就任されるとのこと。松中さんや工藤さんはこれまでも懇意にさせていただいており、松中さんとは三十年来の友人です。「九州古代史の会」と「古田史学の会」との友好関係が更に進むものと期待しています。お世話になってきた旧三役の方々には厚く御礼申し上げます。

【写真】左の写真は、九州古代史の会の皆さんと、博多駅近くのお店で新年会の二次会(2020年1月12日)。中央が工藤さん、その左が松中さん。わたしの左が前田和子さん(前事務局長)。
 右の写真は、左端が松中さん、右端はわたしが尊敬している太宰府市の考古学者、井上信正さん。福岡市天神での新年会場にて(2017年1月15日)。

第2098話 2020/03/02

沖ノ島出土の

カットグラス碗片(国宝)はペルシャ製

 ウェブニュース(本稿末に転載)によれば、沖ノ島(福岡県宗像市)から出土していたカットグラス碗片(国宝)が5~7世紀の古代イラク(ペルシャ)製であることが判明したとのことです。沖ノ島は九州王朝の海上祭祀の聖地と考えられ、出土したカットグラス片は遙々ペルシャから九州王朝にもたらされたものと思われます。

 このニュースに接して、わたしの脳裏をよぎったのが、『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集、古田史学の会編・明石書店、2019年)に掲載された正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)の論稿「太宰府に来たペルシアの姫」でした。同論稿によれば、『日本書紀』孝徳紀・斉明紀・天武紀に記された「舎衛女」はペルシアの姫であり、九州王朝の都、太宰府に来たとされています。今回、明らかにされたペルシャ製のカットグラス碗片こそ、このときの九州王朝とペルシャとの交流を示す物証ではないでしょうか。

 正木説と沖ノ島のカットグラス碗片が結びつき、古代のロマンが歴史の真実として蘇ってきたようです。

【共同通信社 2020/03/01 19:42】
ガラス製品、出自は古代イラク 福岡・沖ノ島の出土品
福岡県宗像市の宗像大社は1日、世界文化遺産に登録されている沖ノ島から出土した国宝のガラス製品について、調査の結果、5~7世紀のメソポタミア(現在のイラク)由来と分かったと発表した。ササン朝ペルシャからシルクロードを通って運ばれ、大規模な祭祀の際にささげられたとみられる。今秋に大社で一般公開される予定。

 沖ノ島は玄界灘に浮かぶ孤島で、大社が所有し神職以外の上陸が禁じられている。ガラス製品は、淡い緑色の「カットグラス碗片」(直径5.6センチ、厚さ3~5ミリ)と、深緑色の「切子玉」(長さ3.1~3.7センチ)で、1954~55年に見つかった。

【西日本新聞 2020/3/2 6:00】
国宝の切子玉 メソポタミア伝来 福岡・沖ノ島出土
福岡県宗像市の宗像大社は1日、同市の世界文化遺産「沖ノ島」から出土した国宝のガラス製品についてササン朝(226~651年)のメソポタミア(現在のイラク)伝来とする化学組成の分析結果を発表した。これまで産地、制作時期ともに推測の域を出なかったが、初めて科学的に裏付けられた。

 東京理科大、岡山市立オリエント美術館との共同研究。組成元素を調べる蛍光エックス線分析で、円形の突起が切り出された容器片「カットグラス碗(わん)片」と細長い形状で中心に糸を通す穴が開く「ガラス製切子玉」を調査した。古代ガラスはローマ帝国でも作られたが、結果はササン朝の「ササンガラス」と組成が類似。碗片は5~7世紀、切子玉は3~7世紀製であるとした。

 碗片と切子玉は沖ノ島8号遺跡(5世紀後半~7世紀)から出土。碗片は類似品などからササン朝由来とされてきたが、切子玉は一切不明だった。宗像大社の福嶋真貴子学芸員は「8号遺跡の年代と大差ない。できあがって間もなく運ばれた」とみる。今後は伝来ルート、祭祀(さいし)上の意味などの研究につながることを期待する。早稲田大の田中史生教授(日本古代史)は「ユーラシアのガラス交易の始点、終点がくっきりしてきた。日本も含めたシルクロードの実態を考える上でも重要な結果だ」と評価する。(小川祥平))

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第1503話 2017/09/19

九州王朝(倭国)の「龍」

 宮崎県の島内114号地下式横穴墓(えびの市)から出土した「龍」銀象嵌大刀について、「龍」は天子のシンボルであり、その「龍」の銀象嵌大刀を持つ被葬者は当地の最高権力者ではないかと指摘しました。そこで比較のため、九州王朝(倭国)のシンボルとしての「龍」遺品について代表的なものを紹介します。

 九州王朝の「龍」で著名なものが沖ノ島から出土した一対の金銅製龍頭(国宝)でしょう。造られた年代は不明ですが、九州王朝の天子のシンボルにふさわしいものです。

 次いで、ダンワラ古墳(日田市)から出土した金銀象嵌珠龍文鉄鏡に見える「龍文」です。恐らく中国製(漢鏡)と思われますが、国内では他に類例を見ない「宝鏡」で、天子の持ち物にふさわしいものです。それほどの鏡がなぜ日田市から出土したのかなど、解明すべき謎に満ちています。

 製造年代が明確なもとしては、観世音寺の銅鐘上部の「龍頭(りゅうず)」があります。7世紀末頃に造られたと考えられています。九州王朝の都、太宰府を代表する寺院である観世音寺の造営は「白鳳10年(670)」と文献(『日本帝皇年代記』他)に記されおり、出土創建瓦「老司Ⅰ式」の編年(7世紀後半)にも対応しています。

 これら九州王朝を象徴する「龍」遺品と比較すると島内114号地下式横穴墓出土の「龍」銀象嵌大刀はやや見劣りがしますが、時代差もあるため単純には比較できません。いずれにしても、「龍」をシンボルとした南九州の権力者の存在を示すものであり、多元史観によるその実体解明が必要です。(つづく)

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第1039話 2015/08/30

世界遺産候補

 「沖ノ島」出土土器は九州製

 「洛中洛外日記」1009話(2015/07/28)で九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補となったことに触れました。「洛中洛外日記【号外】」(2015/08/26)でも沖ノ島の国宝、金銅製龍頭(こんどうせいりゅうず)について紹介しました。

 沖ノ島の祭祀遺跡からは4〜9世紀にかけての奉納品が発見されていますが、それらは大和朝廷が奉納したものと解されてきました。しかし、沖ノ島から出土した土器のほとんどが北部九州製で、一部が山口県の土器であることが明らかになっています。したがって、沖ノ島は大和朝廷の祭祀遺跡ではなく、太宰府を首都とした九州王朝(倭国)の祭祀遺跡と考えざるを得ないのです。詳細は古田先生の『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』をご参照ください。

 沖ノ島が九州王朝の聖地であることを、世界遺産候補となったこの機会に、古田史学・九州王朝説を広く社会に紹介していきたいと思います。

第四部 失われた考古学 第二章 隠された島 古田武彦 沖の島の探究

 

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第1009話 2015/07/28

九州王朝の聖地

  「沖ノ島」が世界遺産候補に

 今日は出張で高松市に来ています。三年越しのビジネスが成立したこともあり、高松市にお住まいの西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)と夕食をご一緒し、祝杯につきあっていただきました。もちろん話題は最近の古代史研究についてと「古田史学の会」のこれからの展開についてでした。

 夜遅くホテルに戻りますと、テレビニュースで玄界灘の孤島「沖ノ島」が世界遺産候補になったと報道されていました。「海の正倉院」とも呼ばれている「沖ノ島」は島全体が古代祭祀遺跡ともいうべきもので、出土した遺物数万点は国宝に指定されています。

 女人禁制の島としても有名ですが、九州王朝の聖地でもあります。古田先生の『盗まれた神話』(ミネルヴァ書房より復刊)で詳しく論証されていますが、記紀の建国神話(国生み神話)に登場する「天両屋(あまのふたや)」は「沖ノ島」であると指摘されています。その決め手となった根拠は「沖ノ島」の傍らにある小さな島の名前が「小屋島」ですから、「沖ノ島」の本来の名前は「大屋島」となり、この大小二つの「屋島」が「天両屋」と呼ばれていたと考えられることです。「沖ノ島」という名前は宗像から見て沖にある島だからそう呼ばれたと思われます。

 九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補になったことは九州王朝説論者としては喜ばしいことであり、これを機会に更に「沖ノ島」の多元史観による研究の深化が期待されます。

『ここに古代王朝ありき』第四部 失われた考古学 第二章 隠された島 古田武彦 沖の島の探究

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第795話 2014/09/29

沖ノ島の三角縁魚文帯神獣鏡

 内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真や『通典』のコピーを送っていただいた齊藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)から、今年8月に東京の出光美術館で開催された「宗像大社国宝展」の展示品図録が送られてきました。9月の関西例会後の懇親会で同展示会についてお聞きしていましたが、その図録を早速送っていただきました。有り難いことです。

 「海の正倉院」と呼ばれる沖ノ島ですが、古田先生も早くから注目され、『ここに古代王朝ありき — 邪馬一国の考古学』(朝日新聞社・1979年)の「第四部第二章 隠された島」で取り上げられています。

 同図録で注目したのが沖ノ島出土と旧個人蔵(伝沖ノ島出土)の2面の三角縁魚文帯神獣鏡でした。解説では古墳時代(四世紀)の国産鏡とされています。 「魚文帯」という鏡をわたしは初めて知ったのですが、今まで見た記憶がありませんから、珍しい文様ではないでしようか。インターネットで検索したところ、 佐賀県伊万里市の杢路寺(むくろじ)古墳から出土した三角縁神獣鏡の外帯に「双魚」と「走獣」が配置されており、これも三角縁魚文帯神獣鏡の一種といえるのかもしれません。杢路寺古墳は4世紀末頃の前方後円墳とされていますから、沖ノ島の三角縁魚文帯神獣鏡とほぼ同時代のようです。

 魚の文様がある三角縁神獣鏡は、古田先生が『ここに古代王朝ありき』で取り上げられた「海東鏡」があります(大阪府柏原市・国分神社蔵)。しかし、魚は一匹だけでその位置も外帯ではありませんから三角縁魚文帯神獣鏡とはいえません。

 もしこの珍しい三角縁魚文帯神獣鏡が沖ノ島や伊万里市など北部九州に特有のものであれば、それは九州王朝との関係を考えなければなりません。魚の銀象嵌で有名な江田船山古墳の鉄刀も、共通の意匠としてとらえることが可能かもしれません。おそらく海洋や漁労に関わる王者のために作られた鏡ではないでしょう か。三角縁魚文帯神獣鏡については引き続き調査したいと思います。

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo