銅鐸一覧

第3178話 2023/12/11

城崎温泉にて ―神の鳥と狗奴國―

 今日は城崎温泉で最も源泉に近い「鴻の湯」に浸かりました。塩味がする透明な良い湯でした。現地伝承では、舒明天皇の時代、傷ついたコウノトリが山中の池で湯浴みしているのを見た村人により、温泉が発見されたとのこと。これが史実を反映した伝承であれば、「舒明天皇の時代(629~641年)」とあることから、本来は当時の九州年号「仁王」「僧要」「命長」(注①)によりその年代が伝えられ、後世になって『日本書紀』紀年に基づき、「舒明天皇の時代」とする表記に変えられたものと思われます。

 温泉街を散策していて、コウノトリの本来の意味は「神(こう)の鳥」ではないかと思いつきました。神戸(こうべ)の神(こう)です。この思いつきが当たっていれば、城崎温泉は神様が遣わした鳥により発見されたことになりそうです。

 そんな思いつきを妻と娘に話していて、あることに気づきました。『三国志』倭人伝に見える、卑弥呼の邪馬壹国を中心とする倭国と対立していた狗奴國とは、「神(こう)の国」ではなかったか。倭国と敵対した国であったため、獣偏の「狗」という卑字が用いられたと思われます。従って、本来の国名の意味は「神(こう)の国」ではないでしょうか。古田説によれば、狗奴国は銅鐸圏にあった国ですから、ここ城崎温泉は狗奴国そのものではなくても、位置的にはその勢力範囲内か、あるいは近傍の国だったように思います。倭人伝には傍国(注②)として「鬼(き)國」「鬼奴(きの)國」が見え、城崎(きのさき)地名と関係があるのかも知れません。ちなみに、豊岡市気比(けい)からは大正元年(1912年)に銅鐸四個が出土しています。

 このようなことをつらつらと城崎にて考えていますが、まだ学問的仮説には至らない思いつきですし、先行説があるかもしれません。

 なお、夕食はカニ料理で、これ以上は食べられないと思うほど。カニを食べました。日本近海にカニがいてくれてよかった。この国に生まれてよかったと思いました。カニとご先祖様に感謝です。

(注)
①舒明天皇時代の九州年号(『二中歴』による)。
西暦 九州年号 干支
629 仁王 7 己丑 舒明 1
630 仁王 8 庚寅 舒明 2
631 仁王 9 辛卯 舒明 3
632 仁王 10 壬辰 舒明 4
633 仁王 11 癸巳 舒明 5
634 仁王 12 甲午 舒明 6
635 僧要 1 乙未 舒明 7
636 僧要 2 丙申 舒明 8
637 僧要 3 丁酉 舒明 9
638 僧要 4 戊戌 舒明 10
639 僧要 5 己亥 舒明 11
640 命長 1 庚子 舒明 12
641 命長 2 辛丑 舒明 13
②倭人伝には次の傍国、狗奴国記事がある。
「其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。」


第2495話 2021/06/18

「倭の五王」以前(3~4世紀)の銅鐸圏

 ―倭国(銅矛圏)と狗奴国(銅鐸圏)の衝突―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で、弥生時代の纒向遺跡がその終末期には銅鐸使用の終焉を迎えており、4世紀になると箸墓古墳の造営が始まったことを紹介されました。これは大和における〝銅鐸勢力の滅亡〟を意味する考古学的出土事実と思われます。
 古田先生が考古学について著された『ここに古代王朝ありき』(注②)を併せ読むと、弥生時代終末期には西日本各地の銅鐸勢力(狗奴国:古田説)が圧迫され、箸墓古墳などの前方後円墳を造営する勢力(倭国)が東へ東へと侵攻したことがわかります。
 こうした、銅矛勢力(倭国)から銅鐸勢力(狗奴国など)への軍事侵攻説話が『古事記』『日本書紀』中に記されていることを、古田先生は『盗まれた神話』(注③)で明らかにされてきました。近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が、近江の後期銅鐸勢力圏への侵攻説話が『古事記』『日本書紀』にあることを発表されました。〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か〟(注④)という論文で、近江の銅鐸圏への侵攻説話が神功紀(記)に取り込まれているとする仮説です。
 この正木説は有力と思うのですが、正木稿では近江の銅鐸圏征討の年代を3世紀末とされており、大和の銅鐸終焉時期を弥生時代末期とする関川説と整合しているのか、精査が必要です。いずれにしても、銅鐸圏を制圧しながら、古墳文化が東へと拡大を続けるわけですから、九州王朝の全国制覇の時代として古墳時代を検討する必要に迫られています。
 なお、通説ではこの現象を〝大和政権による全国統一の痕跡〟とするのですが、関川さんによれば、北部九州の鉄器製造技術が箸墓造営時期に大和に入ったとされますから、やはり古田説のように、北部九州の勢力が大和の勢力(神武の子孫ら)を伴って銅鐸圏を制圧しながら全国統一を進めたと理解せざるを得ないと思います。鉄器製造技術を北部九州から導入した大和の勢力が同時期にその北部九州にも侵攻し、前方後円墳を造営しながら、東西へ将軍を派遣し全国統一したとする通説は論理的ではありません。それでは、北部九州の勢力があまりに〝お人好し〟過ぎるからです。
 そうすると、大阪難波から出土した古墳時代中期(5世紀)最大規模の都市遺構(注⑤)は、九州王朝(倭国)による東征軍の軍事拠点とする理解へと進みそうです。この理解は、通説だけではなく、従来の古田説(近畿天皇家による関西地方制圧)にも修正を迫ることになりますので、別途、詳述したいと思います。

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
④正木裕〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」〟『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年12月)に次の解説がある。
 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」
 南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月)には次の指摘がなされている。
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」


第2062話 2020/01/11

久しぶりの「銅鐸博物館」(滋賀県野洲市)訪問

 先日、数年ぶりに滋賀県野洲市にある「銅鐸博物館」を訪れました。交通の便はあまり良くありませんが、古代史ファンには是非訪れて欲しい博物館の一つです。野洲市からは国内最大の銅鐸を始め大量の銅鐸が出土しており、同館には多くの銅鐸が展示されています。
 弥生時代の二大青銅器圏の一つ、銅鐸圏の王権についての研究は『三国志』倭人伝のような史料がありませんから、その全容は謎のままです。古田説によれば神武東征を史実とされています。すると、『古事記』『日本書紀』の神武東征説話などに銅鐸圏の王者と思われる人物が見えます。『古代に真実を求めて』23集に掲載予定の拙稿「神武東征譚に転用された天孫降臨神話」にも記していますが、神武記の東征説話に見える、神武と戦った登美毘古こそ銅鐸圏の有力者と思われます。拙稿では神武東征記事中の「天神御子」説話は天孫降臨神話からの転用であることを論証しましたが、登美毘古との戦闘記事は「天神御子」説話ではないことから、神武等と銅鐸圏勢力との戦闘であると考えられます。
 同様に古田先生が『盗まれた神話』で論証されたように、垂仁紀に見える「狭穂彦王・狭穂姫命」も銅鐸圏の王者であることから、銅鐸圏では「地名+ヒコ(ヒメ)」が王者の名称として使用されていたようです。従って、弥生時代の武器型祭器圏と銅鐸圏はともに「ヒコ(ヒメ)」などの倭語(古代日本語)を使用していたことがわかります。更に、磯城県主(しきのあがたぬし)などの大和盆地内の豪族名から、その行政単位に九州王朝と同じ「県」が使用されていたことも推定できます。
 このように『古事記』『日本書紀』などを根拠とした、銅鐸圏の実態解明が期待できます。どなたか多元史観・古田史学による本格的な銅鐸圏研究をされませんか。


第1723話 2018/08/18

銅鐸埋納の「雨乞い祭祀」説

 本日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。9〜10月もi-siteなんば会場、11月は福島区民センターです。今回の関西例会も何人もの方により大論争が繰り広げられました。わたしはおかげさまで、賛否は別としても問題を深く掘り下げることができ、知見が広がり認識も深まりました。
 大原さん(古田史学の会・会員、大山崎町)からは古代における「雨乞い」祭祀についての研究発表が毎月のようになされていますが、今回も銅鐸は「雨乞い祭祀」として埋納されたもので、何らかの理由による緊急避難的に埋納されたものではないとする仮説が提起されました。わたしは結論には賛成できなかったのですが、根拠としてあげられた様々な事例(和歌山県日高郡の「雨乞山銅鐸」など)や資料の中に初めて知ることが多かったのでとても勉強になりました。わたしからの質問が長引き、お昼休みの時間にずれ込んだため、司会の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「質問は時間を見てするように」とご注意を受けてしまいました。
 満田さん(古田史学の会・会員、茨木市)や服部さん(『古代に真実を求めて』編集長)による、森博達さんの『日本書紀』α群・β群編纂説への批判やそれに基づかれた谷川清隆さん(国立天文台)の「天群・地群」研究に対する異見なども、森説や谷川説への認識を深める上で勉強になった発表でした。
 驚いたのが、正木さん(古田史学の会・事務局長)の発表に対する論争過程で、古田学派の最古参研究者である谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)から、『後漢書』倭伝に見える「倭国之極南界也」に対する古田説の「倭国の南界を極(きわむ)る也(や)」という読みは間違っているという見解が表明されたことです。谷本さんは従来説通り、「倭国の極南界なり」の読みが正しいとされたのです。古田学派の重鎮からの異見でしたので、わたしも正木さんも驚いたのですが、それならぜひ関西例会でそのことを発表してほしいと要請しました。
 休憩時間に谷本さんにお聞きしたところ、古田先生はこの新説(倭国の南界を極るや)検討でかなり迷った末に発表されたとのこと。「それならなぜそのときに先生に新説は間違っていると言わなかったのですか」と追求すると、「言ったけれども先生は受け入れられなかった」とのことでした。「それはそうでしょうねえ」とわたしは相づちを打ち、その情景が目に浮かぶようでした。
 わたしも何度かこわごわと先生に反対意見を申し上げた経験があり、そのときは先生からの厳しい批判や叱責を頂くのが常でした。ですから、最長老「弟子」の谷本さんでもそうだったのだろうなと思った次第です。なお、ほとんどの場合は古田先生のご意見の方が正しかったので、わたしたち「弟子」にとって、先生にもの申すのはかなりの「覚悟」が必要でした。今となっては懐かしい思い出の一コマです。
 8月例会の発表は次の通りでした。
 なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔8月度関西例会の内容〕
①神宮暦の紹介(大阪市・西井健一郎)
②『水滸後伝』顛末記(高松市・西村秀己)
③谷川清隆氏の天群・地群の考察に関する疑問(茨木市・満田正賢)
④『書紀』中国人述作説を検証する -雄略紀の「倭習」-(八尾市・服部静尚)
⑤銅鐸と武器形青銅器の祭祀と終焉について(大山崎町・大原重雄)
⑥新刊『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房)の紹介(豊中市・大下隆司)
⑦『播磨國風土記』の「奪谷(うばひたに)」の再検討(神戸市・谷本茂)
⑧「那須國造碑」からの『日本書紀』(持統紀)の絶対年代批判(神戸市・谷本茂)
⑨よみがえる日本の神話と伝承(3) 天孫降臨から神武東征まで(川西市・正木裕)
⑩新・万葉の覚醒(2) -倭国(九州王朝)の大王(天子)は何故「伊勢王」と呼ばれたか-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会(9/09大阪i-siteなんば、9/01東京家政学院大学千代田キャンパス、10/14久留米大学)の案内・『古代に真実を求めて』22集原稿募集・9/04「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・9/26「水曜研究会」がスタート(毎月第四水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館)・『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房)の紹介・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」発表者募集・8/27「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、9〜10月はi-siteなんば、11月は福島区民センター・その他


第1162話 2016/04/03

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(2)

 鳥取県東伯郡の天神川右岸に位置する長瀬高浜遺跡は、古墳時代におけるこの地域の支配者らの住居跡と見られていますが、その遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることから、天孫族(倭国)の西日本支配以降もこの地域では銅鐸を用いた祭祀が続けられたと考えられます。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、「倭の五王」の時代に入った5世紀前半にはこの銅鐸が廃棄されていることから、大和朝廷による全国支配の確立による変動がこの地の在地豪族に影響を与えたと考察されています。これを九州王朝説の視点から考えると次のような歴史的変遷が想定可能です。

1.「天孫降臨」や「国譲り」により、出雲や山陰地方の銅鐸勢力は東へ逃亡した。
2.天孫族に降伏した大国主命らは、その後も在地勢力として残ったが、銅鐸祭祀を継続できたか否かは不明。
3.鳥取県の天神川流域の勢力は、古墳時代中期頃まで長瀬高浜地区の高殿で銅鐸を祭祀に使用していた。
4.古墳時代中期以降にはこの銅鐸が廃棄され、長瀬高浜に割拠していた勢力は移動した。

 概ね以上の変遷をたどったと推定できますが、もしこの推定が正しければ、この地域では銅鐸祭祀の継続が許されていたが、古墳時代中期に至り、何らかの事情で銅鐸を廃棄したということになります。
 そうであれば、出雲に残った大国主命たちは銅鐸祭祀を続けたのでしょうか、それともやめたのでしょうか。従来は、荒神谷遺跡。加茂岩倉遺跡などからの銅鐸出土を根拠に、天孫族の侵略により、この地の銅鐸圏の権力者たちは銅鐸を地中に隠して逃亡したと、古田説では考えられてきました。しかし、長瀬高浜遺跡からの銅鐸出土により、山陰地方における古墳時代の銅鐸祭祀が想定されることから、再検討が必要かもしれません。(つづく)


第1161話 2016/04/02

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(1)

 弥生時代の日本列島には銅矛・銅弋などの武器型青銅器圏と銅鐸圏という二大青銅器圏があったことは著名です。この銅矛圏が邪馬壹国を中心とする倭国であり、銅鐸圏は関西にあった狗奴国であると古田先生は指摘されましたが、銅鐸圏は倭国の侵略(天孫降臨や神武東侵など)により、東へ東へと逃げるようにその中心は移動しています。
 中には大和盆地のように、壊された銅鐸の出土もあり、激しい侵略や弾圧の痕跡がうかがえます。銅鐸は時代とともに大型化し、聞く銅鐸から見る銅鐸へと変化し、祭祀のシンボルとして重用されたものと思われますが、天孫族の侵略により、銅鐸祭祀は禁止され、銅鐸は廃棄されたものと考えてきたのですが、鳥取県東伯郡の長瀬高浜遺跡から古墳時代の遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることを知り、驚きました。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、長瀬高浜遺跡は古墳時代前期後半から中期前半の大集落遺跡を中心とした複合遺跡と説明されています。その中の平面プランが六角形に近い大型竪穴式建築跡(SI-127)が廃絶したあとの竪穴内の埋土中から、高さ8.8cmの小型銅鐸が出土していました。この銅鐸は弥生時代中期に製造されたものと見られており、それが古墳時代中期初頭頃に廃絶した遺構の埋土中に含包されていたことから、弥生中期から古墳時代中期の長期にわたって祭器として使用されていたことが推察されます。その紐の内側部分が吊り下げによる磨耗で大きくすり減っていることからも、その使用が長期間にわたっていたことを証明しています。
 出土した大型竪穴式建築跡(SI-127)に隣接して、高殿と思われる大型祭祀遺構(SB40)が出土しており、この銅鐸はこの高殿で祭祀に使用されていたと推察されています。こうした出土事実から、銅鐸が破壊された大和盆地とは異なり、この地域では弥生時代に銅鐸圏が滅亡した後も、祭祀のシンボルとして銅鐸が古墳時代まで使用されていたことになり、このことはとても興味深い現象と思われます。(つづく)


第1141話 2016/02/20

「是川」は「うじ川」か「この川」か

 本日の「古田史学の会」関西例会は久しぶりに谷本茂さんや大下さんの発表があったり、横浜市の長谷さんが例会デビューをされました。
 谷本さんからは古事記に基づいて、神武東征や天孫降臨の時代を推定するという「未証説話」の考察が報告されました。学問の方法を意識されたもので、仮説や論理の組立方のよい訓練となりました。
 正木さんからは九州年号史料に散見される「中元」「果安」を天智と大友の「近江朝年号」とする大胆な仮説を発表されました。「果安(はたやす)」は人名に使用されており、年号とすることに否定的な意見も出されましたが、今後の検証が期待さります。
 今回の例会で印象に残ったのが岡下さんからの発表でした。『万葉集』の柿本人麻呂の歌にある「是川」を「うじ川」と訓まれていることに疑問を呈し、「この川」と訓むべきとされました。
 滋賀や京都のこの付近が古代において「この国」と呼ばれていたとする説が西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)からかなり以前に発表されていますが、人麻呂の歌の「是川」を「この川」とすることで、「この国」との関連もうかがわせます。近年、古田先生は関西の銅鐸圏の国こそ倭人伝にある狗奴国のことであるとされていましたから、「この国」「この川」の淵源は狗奴国(こうの国)にあったとする理解も有力ではないでしょうか。
 2月例会の発表は次の通りでした。発表希望者が多く、時間配分が大変でしたが、いずれも勉強になる発表でした。

〔2月度関西例会の内容〕
①出雲神統譜(高松市・西村秀己)
②恩智縁起と玉祖(たまおや)縁起より見えるもの(八尾市・服部静尚)
③河内における倭国大乱とは何か(八尾市・服部静尚)
④「是川」は「許の川」(京都市・岡下英男)
⑤仮説「国伝」のご意見への回答2(姫路市・野田利郎)
⑥「天孫降臨」の時期を推定する-古事記・未証説話の内在的史料批判-(神戸市・谷本茂)
⑦郭務そうの二千人(横浜市・長谷信之)
⑧『魏志』倭人伝「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴へ、乍は南し乍は東し、其の北岸狗邪韓国に到る七千餘里」の「北岸」について(奈良市・出野正)
⑨「近江朝年号」の実在について(川西市・正木裕)
⑩ロシア調査団がエクアドル・バルディビア遺跡を発掘中(豊中市・大下隆司)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 追悼会での古田光河氏との会話(古田先生の好物。濃い日本茶、いかなごの釘煮。他)・森嶋通夫氏のこと。ノーベル経済学賞候補、文化勲章1976年・追悼会の懇親会挨拶、献杯・新井宏氏著書を読む・「楽浪土城」(平壌市内。日本人が発見)・オリーブに思う・TV視聴、ヒストリーチャネル開局15周年記念「日本発見」・その他


第1118話 2015/12/31

久留米市高三潴から出土した銅鐸

 久留米の実家でテレビを見ていると太宰府天満宮の初詣のコマーシャルなどがあり、九州ならではと感じます。
 昨日、犬塚幹夫さんから久留米市高三潴遺跡から銅鐸が出土していたことを教えていただきました。このことをわたしは全く知りませんでした。しかも出土した場所が高三潴ということで更に驚いたのです。高三潴といえば、大善寺玉垂宮の近くで初代の玉垂命の墳墓があるところです。この墳墓は貝殻で造られており、弥生時代の遺跡で銅剣などが出土しています。その地域から小型銅鐸が出土したのです。昨年の発掘調査で出土したとのことで、まだ発掘調査報告書は出ていないそうです。
 玉垂命は後の「倭の五王」へと続くのですが、初代はおそらく天孫降臨の時代(弥生時代前期末頃)の人物と思われますが、その故地から天孫降臨により滅ぼされた側のシンボルである銅鐸が出土したのですから、とても興味深く感じています。この銅鐸は筑後で出土した唯一のものとのことですから、なおさらです。出土状況や出土層の編年など、調査報告書の発行が待たれるところです。(つづく)


第1056話 2015/09/19

銅鐸と三角縁神獣鏡の銅の原産地

 本日の関西例会では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、銅鐸や三角縁神獣鏡の銅の成分分析(鉛同位体比)により含まれている鉛の産地に関する新井宏さんの研究を紹介されました。
 新井さんによる膨大な分析データを整理し、銅鐸の銅と三角縁神獣鏡等の銅の成分が異なっていることが示されました。したがって銅矛圏の倭国勢力は銅鐸を壊しても、それを鏡の原料として再利用しなかったこととなります。なぜ再利用しなかったのか、その理由が今後の研究テーマとなりそうです。とても興味深い分析データでした。なお、来年正月の「古田史学の会」賀詞交換会の講演に新井さんを招聘することが、本日の役員会で決定されました。
 この他にも面白い発表が続きましたが、別途紹介したいと思います。9月例会の発表は次の通りでした。
 ※本日の例会発表の様子は竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)により、早くも「古田史学の会facebook」に掲載されました。速い!面白い!

〔9月度関西例会の内容〕
①「坊ちゃん」と清(高松市・西村秀己)
②鉛同位体測定と銅鐸(八尾市・服部静尚)
③「改新詔=七世紀中頃天下立評説」のまとめ(八尾市・服部静尚)
④金印「漢委奴国王」の「委奴」について(奈良市・出野正)
⑤加賀と肥後の道君(相模原市・冨川ケイ子)
⑥越前の「天皇」と対高句麗外交(相模原市・冨川ケイ子)
⑦続編『古事記』を是とする理由(東大阪市・萩野秀公)
⑧「・多利思北孤」という“文字”の由来と「鬼前・干食」の不思議(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(KBS京都放送ラジオ番組「本日、米團治日和」8/27収録、9/09・16・23オンエア)・9/01越中富山おわら「風の盆」の観光・9/06東京講演会に水野さんの娘さんが協力・史跡ハイキング(神戸深江生活文化史料館・他)・「最勝会」の研究。なぜ薬師寺に伝わるのか?・高橋崇『藤原氏物語 栄華の謎を解く』新人物往来社(1998/02)を読む・その他


第955話 2015/05/20

淡路島「出土」銅鐸の歴史背景

 昨日から愛知県に出張していますが、今朝、ホテルで読んだ朝刊(毎日新聞)1面に「淡路島で銅鐸7個」という記事があり、感慨深く思いました。
 かなり昔の話ですが、島根県出雲市の荒神谷遺跡から大量の銅剣(銅矛)が出土したとき、古田先生は「この近くから銅鐸が出土するはず」と「予言」され、その通りに近くから6個の銅鐸が出土しました。もちろん古田先生は「予言」ではなく、学問的論理性の帰結により銅鐸出土の可能性が大きいことを指摘されたのですが、わたしたちは先生の「予言」が的中したことに大変驚いたものです。
 その後、島根県加茂岩倉遺跡からも大量の銅鐸が出土し、これもまた古田先生が主張されていた「出雲王朝」の存在が歴史の真実であったことを証明するものでした。それまで『古事記』『日本書紀』等の出雲神話を造作としていた古代史学界の通説が誤りであり、古田先生の多元史観が正しかったことが明白となったのです。
 その後、古田先生はこれら「埋められた銅鐸」という考古学的事実(実証)から、なぜ銅鐸は埋められたのかという論証へと学問作業を進められ、「天孫降臨ショック」「神武ショック」という概念を提起されました。弥生時代の二大青銅器文明圏の衝突により、銅矛圏勢力の軍事的侵入により、銅鐸圏の人々が自らの祭祀シンボルである銅鐸を緊急避難的に埋納したのではないかという仮説に基づき、その衝突の時期として弥生時代前期末から中期初頭に起こった「天孫降臨」という天孫族の侵入と、西暦1世紀頃の「神武東征」という倭国(邪馬壹国軍「一大率」)の侵攻に着目され、それぞれ「天孫降臨ショック」「神武ショック」と名付けられたのでした。
 こうした古田先生の提起された概念に当てはめれば、今回の淡路島「出土」銅鐸の埋納の歴史的背景は何なのでしょうか。新聞記事によれば、今回の銅鐸はその形式編年から「弥生時代前期後半から中期初頭」とされています。従って、古田先生のいう「天孫降臨ショック」にピッタリと時代的に対応するようです。
 ということは、天孫族は弥生時代前期末頃には淡路島まで侵攻していたことになります。『古事記』『日本書紀』の国生み神話に淡路島が登場しますから、今回の銅鐸「出土」は文献史学の面からも、とても興味深い考古学的事実なのです。

(補注)本稿では、今回淡路島で発見された銅鐸について、「出土」と「」を付けました。これは西村秀己さんから、発見の経緯からすると考古学的発掘によるものではないので、出土という表現は現段階では不適切との指摘をいただいたからです。そこで、今回はそのご指摘に留意し、「」付きの「出土」と表記しました。


第886話 2015/03/02

弥生時代の近畿の国と王墓

 「洛中洛外日記」885話で、「これほど倭人伝の内容と大和盆地の地勢・遺物が異なっていれば、倭人伝の邪馬壹国とは別の王権が畿内や関西にあったと考えるのが学問的論理的」と記しましたが、今回は弥生時代における近畿(関西)の「国」について、少し触れてみたいと思います。
 弥生時代は銅矛文明圏と銅鐸文明圏の二大青銅器文明圏に分けられていることは有名ですが、厳密にはそれらが重なったり、それ以外にも細かな分類や時代的変遷もあります。最新の古田説では倭国と対立していた狗奴国(こうぬ・こうの)は関西の銅鐸文明圏とされており、基本的な理解としては最も有力な仮説だと思います。
 銅矛圏の弥生墳丘墓としては吉野ヶ里遺跡が有名ですが、銅鐸圏の弥生墳丘墓としては大阪市平野区の加美遺跡が注目されます。同遺跡は1984年に発見された弥生時代中期後葉(紀元前1世紀)の、周濠を持つ大型墳丘墓です(南北26m、東西15m、高さ3m)。弥生時代の墳丘墓としては河内平野最大です。そこからは23基の木棺が発見されており、銅釧(どうくしろ)を腕に着けた被葬者(女性、二体)も含まれていました。この他にも水銀朱やガラス製勾玉・丸玉(1号木棺、女性)も出土しています。
 北部九州の弥生墳丘墓とは明らかに出土物の様相が異なっていることがわかります。吉野ヶ里遺跡などでは甕棺が主流で、副葬品も三種の神器と称される銅鏡や矛・剣、そして管玉・勾玉ですが、加美遺跡では木棺であり、銅製品は銅釧だけで、鏡や矛などは出土していません。河内が狗奴国内であれば、邪馬壹国を中心とする倭国と対立していた狗奴国には銅鐸を副葬する習慣はなかったようです。
 これからの古代史学は近畿を狗奴国とする視点で研究する必要があります。近畿地方から何か出土するたびに「邪馬台国か」などという非学問的な説明や報道はいいかげんにやめるべきです。古田史学の出現により、日本の古代史学は新たな「真の学問」(吉田松陰『講孟余話』)の時代に入ったのですから。


第783話 2014/09/12

最古の「銅鐸出土」記録

 9月10日のテレビニュースで、岡山県総社市の集落跡の神明遺跡から弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の銅鐸1個が出土したと報道されていました。同集落遺跡は弥生後期(紀元前後頃)とのことですから、その銅鐸は造られてから200年ほどして埋納されたことになります。古田説によって考えると、神武東侵により侵攻された銅鐸圏の人々によって埋納されたのかもしれません。学術発掘による出土ですから今後の調査検討が待たれます。
 銅鐸の出土記録としては、古くは『続日本紀』の和銅六年条(713)に大倭国宇太郡から出土した銅鐸が献上された記事が見えます。この時代、銅鐸は献上品とされるほど珍しく貴重なものだったことがうかがえます。
 更に古くは『扶桑略記』の天智七年(668)正月条に滋賀県の崇福寺建立時に高さ五尺五寸の「宝鐸」が出土したという記事があり、この記事をもって最古の「銅鐸出土」記録とする見解もあります。ちなみに『扶桑略記』にも『続日本紀』和銅六年条の銅鐸出土献上記事が記載されています。
 『扶桑略記』の銅鐸出土記事が歴史事実とすれば、それでは何故その記事が『日本書紀』に収録されなかったのかという疑問が残されます。この点、わたしが提起してきた「九州王朝の近江遷都」説に立てば、九州王朝による崇福寺建立と銅鐸(宝鐸)出土事件ということになり、大津市から出土した穴太廃寺や南滋賀廃寺建立記事と同様に、『日本書紀』には採用されなかったという理屈で説明できるのではないでしょうか。そして、もしこの推定が正しければ、『扶桑略記』 には九州王朝系史料に基づく記事が他にもあるかもしれません。今後の楽しみな研究テーマです。