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第3568話 2025/12/31

AI編集(インタビュー形式)

 「戦後型皇国史観に抗する学問」

 令和七年の大晦日、お願いしていた原稿が竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から届きました。それは拙論「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」(『季報 唯物論研究』138号、2017年)をAI(ChatGPT)により、短文のインタビュー形式に編集したものです。

 同稿は「古田史学の会」創立に至る経緯と、古田学派の運命と使命について論じたものです。執筆にあたっては、「古田史学の会」役員会にはかり、事前にチェックを受けた、言わば「古田史学の会」の綱領的性格を有する一文です。

 令和七年「洛中洛外日記」の最後に、初心を忘れず、決意を新たにすべく、一部修正して転載します。

 《以下、転載》
「邪馬台国」畿内説は学説に非ず ―戦後型皇国史観に抗する学問―
語り:古賀達也(古田史学の会 代表)

◇日本古代史に横たわる「宿痾」とは何か
――まず、日本古代史学が抱えてきた根本的な問題についてお聞かせください。
古賀:日本古代史には、学問以前の「通念」が不動の前提として存在しています。それが、神代の昔から日本列島の中心権力は一貫して近畿天皇家であった、という考え方です。古田武彦先生はこれを「近畿天皇家一元史観」と名づけました。この通念は、『日本書紀』成立以来、ほとんど疑われることなく受け継がれ、戦前だけでなく、戦後の民主教育においても当然視されてきました。しかし、これは学問的な論証を経た結論ではありません。

――その通念が、具体的にどのような問題を生んだのでしょうか。
古賀:最大の問題は、通念に合わない史料事実が無視され、あるいは改変されてきたことです。最も象徴的なのが、『三国志』倭人伝に記された倭国の中心国名「邪馬壹国」を、「邪馬臺(台)国」と書き換えた原文改訂です。

◇「邪馬壹国」から「邪馬台国」へ ――原文改訂の罪
――なぜ、そのような改訂が行われたのですか。
古賀:江戸時代の学者・松下見林が行ったものですが、その理由は実に単純です。「日本の中心はヤマトでなければならない。だからヤマトと読めない『邪馬壹国』はおかしい。ならば『邪馬臺国』に直してしまえばよい」という発想です。これは学問ではなく、イデオロギーです。しかし、この方法がその後の日本古代史学に受け継がれ、宿痾となってしまった。

――それは国名だけの問題ではなかった、と。
古賀:ええ。行程記事にある「南に至る邪馬壹国」の「南」まで、「東」に書き換えられました。南では奈良県に到達しないから、東の誤りだとされたのです。基本史料を自説に合わせて自由に改訂する。これは研究不正以外の何ものでもありません。

◇「邪馬台国」ブームという悲劇
――その結果、「邪馬台国」論争が大衆化したわけですね。
古賀:そうです。学者自身が原文改訂という非学問的方法を採用してしまったため、アマチュア研究者も同じことをやり始めた。「南を東にしていいなら、西でも北でもいい」。結果、全国に邪馬台国候補地が乱立しました。出版ブームも相まって、思いつきを「学説」と称する書籍が溢れ、学問的な負の連鎖が生まれたのです。

――学界はそれを止められなかった。
古賀:止められなかったのではなく、止める資格を失っていたのです。自らが同じ手法を使っていた以上、アマチュアの俗説を真正面から批判できなかった。これが戦後「邪馬台国」ブーム最大の悲劇です。

◇1969年、「邪馬壹国」論文の衝撃
――そこに登場したのが、古田武彦先生の論文ですね。
古賀:1969年、古田先生は「邪馬壹国」という論文を発表しました。倭人伝の原文は「邪馬壹国」であり、「邪馬臺(台)国」は後世の改訂だ、と真正面から論証されたのです。特に重要なのは、『三国志』全体における「壹」と「臺」の使用例をすべて調査した点です。両者は明確に使い分けられており、誤用はない。これは誰もやってこなかった方法でした。

――「臺」という字の意味も重要だったと。
古賀:ええ。『三国志』の時代には「臺」は魏の天子やその宮殿をも指す、いわば神聖至高の文字でした。それを当時の史官が夷蛮の国名に使うなど、あり得ない。この論文は、それまでの恣意的な原文改訂を根底から否定し、日本古代史研究を異次元の高みに引き上げました。

◇九州王朝説と「多元史観」
――続いて提示されたのが、九州王朝説ですね。
古賀:『失われた九州王朝』で、古田先生は邪馬壹国の後継として北部九州に存在した「九州王朝」を明らかにしました。『旧唐書』には「倭国」と「日本国」が別国として記されています。倭国(九州王朝)は邪馬壹国の後継であり、日本国(大和朝廷)は後にそれを併合した小国だった、と。

――この理解が「多元史観」につながる。
古賀:そうです。日本列島には複数の王朝が並立・興亡していた。これが多元史観です。これは近畿天皇家一元史観と、地動説と天動説ほどに相容れません。

◇市民運動としての古田史学
――古田史学は、市民運動としても広がりました。
古賀:はい。通説に疑問を持つ多くの人々が支持し、「市民の古代研究会」などが生まれました。私もその一人で、1986年に参加しました。一時は会員が千名近くに達しましたが、その影響力に危機感を抱いた学界から、露骨な「古田外し」が始まりました。

◇学界からの排除と「古田史学の会」の誕生
――某新聞社主催シンポジウムからの排除などもあったそうですね。
古賀:古田先生の参加が決まると、他の全パネラーが出ないと言いだす。そのことを古田先生には知らせないまま、先生抜きでシンポジウムが開催されました。その後、東日流外三郡誌をめぐる偽作キャンペーンが起こり、事態は決定的になります。

――そこから「古田史学の会」が生まれた。
古賀:1994年、迫害に屈しない研究者が集まり、「古田史学の会」を創立しました。以来、会誌や論文集を刊行し、九州年号や邪馬壹国研究を発展させてきました。

◇古田学派の運命と使命
――最後に、古田学派の使命をどう考えていますか。
古賀:古田史学の会は、学術研究団体であると同時に社会運動団体でもあります。この二重性を背負うという、複雑で過酷な運命にあります。しかし私は、古田史学が将来この国で必ず受け入れられると信じています。古田史学を継承し、発展させる。それが私たち古田学派に課された歴史的使命だと考えています。
《転載おわり》

 それでは皆様、良いお年をお迎え下さい。


第3551話 2025/11/17

『古代に真実を求めて』29集

     の目次(和文・英文)

 来春、明石書店より発行予定の『古代に真実を求めて』29集の採用論文を決定し、現在、同社でゲラ作成段階に入っています。本書のタイトルは「藤原京 王朝交代の舞台」です。今回より採用論文などの題名を英訳し、英文目次も掲載することにしました(注)。これは、古田史学の最新研究を世界に発信するための初歩的な試みです。英文目次は古田史学の会HPにも掲載します。

 英訳に当たり、竹村順弘事務局次長や編集委員の谷本茂さん、元・東京大学地震研究所准教授の都司嘉宣さんのご協力をいただきました。近年の英訳ソフトはかなり進化しているものの、一元史観を前提に単語を選択するためか、多元史観ではニュアンスが異なるケースもあり、四苦八苦しながら英訳しました。現役時代は、化学界で世界的に統一された用語を用いることができましたが、日本古代史論文では勝手が違い、良い勉強になりました。これを機会に多元史観特有の英単語や構文を提案できればと思います。

 『古代に真実を求めて』29集「藤原京 王朝交代の舞台」の目次は次の通りです。目次の英文頁は横組みを採用します。

(注)英文目次の作成は、倉沢良典氏(千葉市・古田史学の会々員)の提案による。

◎『古代に真実を求めて』29集 「藤原京 王朝交代の舞台」目次
巻頭言 王朝交代とその舞台 古賀達也
目次
英文目次(横組)

《特集論文》
古賀達也 王朝交代の宮殿 ―藤原宮木簡による九州王朝研究―
谷本 茂 「藤原京」先行条坊遺構の解釈に関する新視点 ―現存橿原市四条町の区域を起点として
コラム 谷本 茂 「藤原京」の用語に関する謎
谷本 茂 那須国造碑文から垣間見える七世紀末の列島の統治状況
日野智貴 大和朝廷の成立とその前史 第二次大津宮から藤原宮へ
古賀達也 九州王朝(倭国)の両京制を論ず ―難波京と筑紫なる倭京「遠の朝廷」―
正木 裕 「日出る処の天子」の太宰府
正木 裕 「筑紫君」と「筑紫都督府」
古賀達也 九州王朝の西都「太宰府」の成立 ―太宰府条坊と政庁の造営年代―

《一般論文》
都司嘉宣 七世紀末の王朝交代説を災害記録から検証する
正木 裕 小野妹子の「遣隋使」はなかった
正木 裕 もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」
茂山憲史 極秘だった!天王寺を移築して法隆寺にしたこと
日野智貴 柿本人麻呂「近江荒都歌」の真実 大和朝廷の成立とその前史・大津宮編
都司嘉宣 『三国史記』新羅本紀の信頼性を日食記事から判定する
都司嘉宣 新羅第四代王の出生地は長門市正明市であった
古賀達也 『三国志』短里説が切り拓く新時代 ―「陳寿を信じとおす」とは何か―

《付録》
会則
古田史学の会 全国世話人名簿 友好団体名簿
古賀達也 編集後記
古賀達也 30集投稿募集要 古田史学の会・会員募集

 

◎『古代に真実を求めて』29集 英文目次
Seeking the truth in ancient times Volume 29 2026
Fujiwara-kyō: The Stage of Dynastic change

CONTENTS

KOGA Tatsuya;
Prefatory Introduction The Stage of Dynastic change

Feature Article

KOGA Tatsuya;
The Palace of Dynastic change: A Study of the Kyushu Dynasty through Wooden Tablets from Fujiwara Palace

TANIMOTO Shigeru;
A New Perspective on the Pre-existing Jōbō Grid of Fujiwara-kyō: Evidence from the Shijō-chō Area of Kashihara city

TANIMOTO Shigeru;
[Column Commentary]The Mystery of the Term ‘Fujiwara-kyō’

TANIMOTO Shigeru;
Regional Rule in Late 7th-Century Japan: Insights from the Nasu Kokuzō Inscription

HINO Tomoki;
The Establishment of the Yamato Court and Its Predecessors: From the secondary Ōtsu Palace to the Fujiwara Palace

KOGA Tatsuya;
The Two-Capital System of the Kyushu Dynasty(Wakoku): A Discussion of Naniwa-kyō and the ‘Distant Capital’ in Chikushi

MASAKI Hiroshi;
Dazaifu of the “Emperor of the Land of the Rising Sun”

MASAKI Hiroshi;
The Ruler of Chikushi, and the Chikushi Totokufu, the capital office of the governor general

KOGA Tatsuya;
The Foundation of Dazaifu as the Western Capital of the Kyushu Dynasty: The Construction Dates of the City Grid and Government Office

General Article

TSUJI Yoshinobu;
Examining the theory of the dynasty change of Japan at the end of the 7th century from disaster records

MASAKI Hiroshi;
Is it true that the Asuka court sent Ono-no Imoko as the envoy to the Sui dynasty, China?

MASAKI Hiroshi;
Another Prince Shōtoku, ‘Rikamitafuri’

SHIGEYAMA Kenji;
It was the top secret plan! The relocation of Tennō-ji to create Hōryū-ji

HINO Tomoki;
The Truth of Kakimoto no Hitomaro’s “Lament for the Ruined Capital in Ōmi”: From the Second Ōtsu Palace to the Fujiwara Palace

TSUJI Yoshinobu;
Judging the reliability of the ”Chronicle of the Dynasty of Silla” in “the Samguk Sagi, the Authentic history of three countries in ancient Korea” from the articles of solar eclipse

TSUJI Yoshinobu;
The birthplace of the fourth king of the Silla Dynasty, ancient Korea, was Shoumyouichi in Nagato city, Yamaguchi Prefecture

KOGA Tatsuya;
The Dawn of a New Era: A Reevaluation of Sanguozhi through the “Short Li” Theory—On “Trusting Chen Shou ”

KOGA Tatsuya;
Editor’s Note

Furuta-Shigaku-no-kai
(Furuta’s Historical Science Association)


第3550話 2025/11/16

ウィキペディアの椿事

 先日、退院しました。入院中はベッドの上で時間を持て余していましたので、スマホで古田史学や「古田史学の会」がWeb上でどのように扱われているのかエゴサーチしていると、なんとわたしのことがWikipediaに掲載されていることを知り、驚きました。参考文献に『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)が挙げられていることから、本年八月以降に編集掲載されたようです。

 わたしのことを短文で紹介したものですが、いくつかの事実誤認(注)はありますが、他者から見ればこのように紹介されるのかと、概ね納得しました。本文部分を転載します。詳細はWikipediaをご覧下さい。

【以下転載】
古賀達也
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古賀達也(こがたつや)は、日本の繊維学ケミスト・思想史研究家・古代史研究家。古田史学の会代表、繊維応用技術研究会理事。繊維学会会員、繊維機械学会会員、日本思想史学会会員。

概要
1955年福岡県久留米市に生まれる。久留米工業高等専門学校を卒業後、山田化学工業に入社。理系の研究者として活動していたが、1985年に古田武彦に師事し市民の古代研究会に入会。市民の古代研究会が東日流外三郡誌の真偽論争をめぐって分裂すると古田への支持を表明し、ジャーナリストの斉藤光政からは「古田の秘書のような青年」と評されるなど、古田の後継者と目されるようになる。1994年古田史学の会の事務局長に就任、2015年には古田史学の会の代表になった。

山田化学労働組合では委員長を務め、古田から依頼された研究を果たせない時期もあったと言う。管理職になった後も自社の労働組合の組合員に「『労働力の再生産』などどうでもよいとする経営者であれば、労働組合はそのとき『赤旗』ではなく、『日の丸』を掲げて戦うべき」と述べるなど、労働運動に好意的な立場を示している。

脚注(略)

(注)わたしを「繊維学ケミスト」と紹介するが、正確には「染料・染色化学のケミスト」。繊維機械学会で講演したことはあるが、同会の会員であったことはない。他。

〖写真説明〗山田化学労組10周年記念誌。発刊の辞。1977春闘のデモ風景(先頭中央がわたし)。10周年記念誌編集委員会メンバー、後列右端がわたし。


第3514話 2025/08/13

九州王朝説紹介のYouTube番組紹介

 竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から、「【ゆっくり解説】邪馬台国よりも前に栄えた幻の王朝は実在したのか? 歴史から消された謎の九州王朝の痕跡を発見!」というYouTube番組が配信開始されたことを教えていただきました。
https://www.youtube.com/watch?v=iXXrlj7Mcco

 一見すると不正確で怪しげなタイトルですが、見てみるとかなり好意的に古田武彦先生の九州王朝説を紹介していました。また、わたしが35年前に書いた「九州王朝の末裔たち 『続日本後紀』にいた筑紫の君」(『市民の古代』12集、新泉社。下記の古田史学の会HPに再録)の仮説まで紹介していただき、とても懐かしく思いました。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin12/matuei.html

 このサイトは数年前から注目していましたが、近年、ますます九州王朝説への評価を高めており、好感が持てます。不十分・不正確な部分もありますが、それでもよく勉強されているのではないでしょうか。古代史学界では古田史学・九州王朝説はほとんど無視されていますが、より広いネット世界では間違いなく広がっています。皆様にも是非ご覧になっていただければと思います。


第3508話 2025/07/21

国立羅州博物館との質疑応答

         とAIレポート

7月19日に「古田史学の会」関西例会が豊中倶楽部自治会館で開催されました。8月例会も会場は豊中倶楽部自治会館です。

今回は、例会デビューとなった松尾匡さんの発表が注目されました。韓国の古墳や甕棺の編年について、全羅南道の国立羅州博物館に問い合わせたその回答書の報告です。たとえば次のような質疑応答がなされました。

(質問1) 遺物の年代を特定された手法について
貴博物館では、甕棺・段型古墳などについて、3世紀~6世紀の編年とされていますが、この遺物の年代を特定された際の基準を教えていただけませんか。絶対年代は何を基準に決定されましたか?
(背景)
日本では古代史上の遺物の年代を特定する場合、主に須恵器を使って年代を特定する方法が使われています。しかし、最近のその基準に疑問を出している研究者が出てきています。韓国では、現在の編年の基準はどうですか。

(回答1) 遺物の年代を特定された手法について
甕棺や古墳などの年代に関しては、様々な要素を考慮して相対編年しています。そのためには遺物の層序地質学的文脈と自然科学的な調査結果をもって想定し、甕棺の相対編年も考慮します。共伴遺物を中心に判断します。遺跡の年代は学者ごとに違いがあり、報告書や事典などの資料を中心に編年しています。

こうした質問と回答が紹介されました。回答書はハングルで書かれており、それを松尾さんが訳して発表されたものです。またAI(Gemini)を使用して、「韓国における甕棺埋葬の歴史的変遷;その起源、発展、そして終焉」というレポートも発表されました。これからは古代史研究においてもAIを駆使する時代です。その長所と限界をよく理解して利用する能力が研究者に要求されることを実感でき、とても勉強になった発表でした。

7月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。

〔7月度関西例会の内容〕
①国立羅州博物館からの回答書について (木津川市・松尾 匡)

②武具・甲冑から見えてくる“倭の五王”の時代〈4~5世紀の極東アジア〉 (豊中市・大下隆司)参考
YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/lwehH0wVplw

③考古学から論じる「邪馬台国」説の最近の傾向 (神戸市・谷本 茂)

④炭素14 年代測定法の原理と限界 (京都市・古賀達也)
⑤「中学生による証明」と古田論証 (京都市・古賀達也)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/AmqQzFjQMxc

⑥岡山県平福陶棺の図像は水と馬のケルトの女神エポナ (大山崎町・大原重雄)参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/9T1fhD50zu4

⑦改造された藤原京 (八尾市・服部静尚)

⑧消された「詔」と遷された事績 (東大阪市・萩野秀公)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/oJSIX4PMDFA

⑨小戸の原譜と「古事記」の譜 (大阪市・西井健一郎)
参考YouTube動画(Zoommeeting)

⑩百済記に記された「貴国」が栄山江流域の勢力であった可能性
(茨木市・満田正賢)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/tg4t-7R_gEA

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
08/16(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館


第3481話 2025/05/01

志賀島の金印発見の経緯記した史料

 本日の読売新聞 WEB版に興味深い記事がありました。志賀島で金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる東大寺の森本公誠長老が所蔵しているというもので、その文書には、1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上したという内容が記されているとのことです。

 他方、そうした通説とは異なる口碑伝承が当地には伝えられており、古田先生も調査されていました。それは、金印は糸島市の細石神社に代々伝わってきたもので、何らかの事情により福岡藩にわたったというものです。古田先生の調査によれば、発見者とされる甚兵衛という人物の実在を確認できないことと、志賀島叶の崎には弥生時代の遺構が発見されておらず、甚兵衛により発見されたという経緯も怪しく、細石神社や当地に伝えられてきたという伝承の存在を軽視できないということでした。

 今回のニュースによれば、従来説の信憑性が高まることになり、このテーマは引き続き検討が必要です。下記の「洛中洛外日記」などでも複数の現地伝承について触れていますので、ご覧下さい。

「古賀達也の洛中洛外日記」
806話 2014/10/19 細石神社にあった金印
1337話 2017/02/14 金印と志賀海神社の占い
1776話 2018/10/25 八雲神社にあった金印
1781話 2018/11/04 亀井南冥の金印借用説の出所
『古田史学会報』139号、2017年 金印と志賀海神社の占い

【以下、読売新聞 WEB版から転載】
三つの石に箱のように囲まれて…
「金印」発見の経緯記した史料、東大寺長老が所蔵

 江戸時代に福岡・志賀島(しかのしま)で国宝の金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる奈良・東大寺の森本公誠長老(90)が所蔵している。子孫にあたる家などに伝えられたとみられ、貴重な資料として研究者が注目する。(奈良支局 栢野ななせ)

 金印は、約2.3センチ四方の印面に篆書(てんしょ)体で「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻み、つまみ部分の「鈕(ちゅう)」は蛇をかたどったとされる。1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上されたという。1954年に国宝に指定され、78年に福岡市に寄贈された。

 金印考文は、発見から約20年後の1803年に福岡藩の学者・梶原景熙(かげひろ)が記した史料。〝金印は三つの石に箱のように囲まれて埋められていた。鑑定で黄金の印であると判明したため郡奉行に伝え、福岡藩主が実見した。金印は蔵に納め、甚兵衛は褒美を受け取った〟などと記されている。福岡市博物館によると、文書は複数あり、志賀島の旧家などに伝わったと考えられる。島の地図が添えられたものと地図のないものの大きく2系統に分けられるという。

 森本長老が所蔵する文書は縦37.7センチ、横50.5センチ。長老の祖母が梶原家出身で、長老が30年ほど前、おじから文書を引き継いだ。金印発見の経緯や「印を押し、鈕の形を図に写した」という記述、島の地図、金印と大きさが一致する「漢委奴國王」の印影がある。蛇の細かい文様や金印のわずかな欠損まで描き表した図も添えられている。

 同博物館の朝岡俊也学芸員は「(景熙の)自筆かどうかの判断は難しいが、金印考文の中でも、書いた本人の一族に伝えられているという点で貴重だと言える」と説明。大阪市立美術館の内藤栄館長(芸術学)は「手元に金印があったとすれば、実際に押し得たかもしれない。実物を写し取らなければ、図もこれほど細部まで描けないだろう」と指摘する。森本長老は「文書とともに石が伝えられたが、戦争の混乱で失われたと聞く。もしかすると(文書に記されている)金印を囲んでいた石だったのかもしれない」と話している。

 金印は、大阪市立美術館で開催中の「日本国宝展」(読売新聞社など主催)で7日まで展示されている。

【写真】森本長老が所蔵する金印考文。志賀島の金印。


第3419話 2025/01/31

『東京古田会ニュース』220号の紹介

 『東京古田会ニュース』220号が届きました。拙稿「『難波の宮」発見逸話 ―山根徳太郎氏の苦難―」を掲載していただきました。同稿では、難波宮を発掘した山根徳太郎氏が調査資金不足や有力な学問的批判に苦しんでいたことを紹介しました。

 その学問的批判とは喜田貞吉さんらによるもので、『日本書紀』に見える孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は、地名の一致や地勢から判断すると狭隘な大阪市中央区の法円坂ではなく、北区の長柄・豊﨑の地であるとするものです。当時はこの見解が有力説でしたが、前期難波宮の出土により法円坂説が通説となり、今日に至っています。しかし、それでは何故地名が一致しないのかという問題は未解決のままでした。そこで、拙稿では次のように論じました。

〝喜田氏の見解は『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応という文献史学の論証に基づいており、他方、山根氏の上町台地法円坂説は考古学的出土事実により実証されている。なぜ、このように論証と実証の結果が異なったのか。ここに、近畿天皇家一元史観では解き難い問題の本質と矛盾があるのだが、その理由は明白だ。“列島内最大規模の宮殿であるからには、列島の最高権力者である近畿天皇家の宮殿のはず”という、一元史観の歴史認識(岩盤規制)に従わざるを得ないからだ。

 結論から言えば、山根氏が発見した前期難波宮は孝徳紀に書かれた「難波長柄豊碕宮」ではなく、九州王朝の王宮(難波宮)だった。その証拠の一つとして、法円坂から出土した聖武天皇の宮殿とされた後期難波宮は、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記されており、「難波長柄豊碕宮」とはされていない。この史料事実は、法円坂の地は「難波長柄豊碕」という地名ではなかったことを示唆する。〟

 論文末尾には〝残された「真の問題」、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」が北区長柄にあったことを立証したい。〟と書きましたが、これは大変な仕事になりそうです。

 当号に掲載された國枝浩さん(世田谷区)の二つの論稿には深く考えさせられました。一つは一面を飾った「古田氏の旧説撤回問題(上)」で、古田先生が自説を変更されたいくつかのテーマについて、その問題点を指摘したものです。これらについては古田先生の著作だけではその経緯や論理構造がわかりにくいかもしれませんので、わたしも「洛中洛外日記」などで説明したこともありましたし、古田史学の会・関西例会でも少なからぬ論者により当否が論じられてきました。新たに古田史学に触れられた方のためにも、國枝さんの論稿は有意義なものと思いました。

 もう一つの「『大作塚』AIと会話して」も重要なテーマです。古田説や倭人伝の「大作塚」の理解に対してのAI(Chat GPT)との問答を紹介したものです。近年、実用化が飛躍的に進んだAIの機能が歴史学などの学問や研究にどのような影響を与えるのか、研究者はAIとどのように接するべきなのかなど、近未来の重要課題です。國枝さんの問題提起により、この問題を深く考えるきっかけとなりました。


第3404話 2024/12/31

教科書に「邪馬壹国」説が載った時代

 大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー2025」(通称:八王子セミナー)の実行委員をさせていただくことになり、過日の実行委員会にリモートで初参加しました。そのおり、荻上紘一実行委員長(注①)から同セミナーの目的は「教科書を書き変える」であることが強調されました。それは「古田史学の会」創立の精神(注②)にも通じるものですから、わたしは賛意と協力を表明しました。

 とは言え、精神論や抽象論だけではだめですから、教科書を書き変えるための具体的な手続きの調査、そして近年での成功事例として「五代友厚の名誉回復」についての勉強を進めています(注③)。このことは別に紹介したいと思います。

 ご存じの方は少なくなったと思いますが、古田説が教科書に掲載されたことがありました。それは1980年頃の高校歴史教科書です。当時、16種の歴史教科書が出版されており、その内2種の教科書に通説の「邪馬台国」とともに古田説の「邪馬壹国」が記載されていました。中でも家永三郎氏が執筆した三省堂の教科書『新日本史』脚注には次のように書かれていました(注④)。

「今日伝わる文献のうち、『後漢書』『梁書』『隋書』などには邪馬臺国とあり、『魏志倭人伝』では、邪馬台国を邪馬壹国と記すが、邪馬臺(台)が正しいとする説が有力である。」

 もう一つの門脇禎二氏らによる『高校日本史』(三省堂)には本文中に次のように記されています。

「各地約30の小国を統合し、支配組織をより大きくととのえた国家が出現した。中国の『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国(以下、邪馬台国と書く。邪馬「壹」国説もある)」

 その他14の教科書には「邪馬臺(台)国」だけが記されています。現在の歴史教科書全てを見たわけではありませんが、いつのまにか「邪馬壹国」は消されたようです。「邪馬壹国」が併記された教科書が今もあれば、ご教示下さい。「教科書を書き変える」の一つとして、1980年頃の「邪馬壹国」が併記されていた教科書に「書き戻す」ことから取り組むのが現実的かもしれません。

(注)
①大学セミナーハウス理事長で数学者。古田武彦氏が教鞭をとった長野県松本深志高校出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長を歴任。二〇二一年、瑞宝中綬章受章。
②古田史学の会・会則第2条に次の目的が明記されている。
「本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。」
③八木孝昌『五代友厚 名誉回復の記録 ―教科書等記述訂正をめぐって―』PHP研究所、2024年。
《同書著者による解説》『新・五代友厚伝』(PHP研究所)発刊後に大阪市立大学同窓会を中心に始まった五代名誉回復活動は、この4年間で劇的な結末を迎えた。明治14年の開拓使官有物払い下げ事件で政商五代が不当な利益をたくらんだとする高校日本史教科書の記述が訂正されるとは、誰が予想したであろうか。本書は教科書記述訂正に至るプロセスを克明に追った迫真のドキュメントであるとともに、真実を求める活動の未来を指し示す希望の書である。
◆五代友厚 1836~85年。薩摩藩の士族出身。明治政府の役人として今の大阪府知事にあたる「判事」を務めた後、実業界に転じた。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一と並び「東の渋沢、西の五代」と称された。
④百埼大次「『邪馬台国』から邪馬壹国へ」『市民の古代・古田武彦とともに』第二集増補版、古田武彦を囲む会編(後に「市民の古代研究会」に改称)、1980年。増補版は1984年刊。


第3381話 2024/11/23

大阪考古学の惨状を憂う

 大阪では、難波の宮跡を筆頭に重要な考古学調査が戦後すぐから行われてきました。中でも山根徳太郎氏の難波宮発見の偉業は著名で、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注)。わたしたち「古田史学の会」は、大阪の代表的な考古学者をお招きして講演していただいてきました。そのお一人に、高橋工氏がいます。氏が所属する大阪市文化財協会は大阪府と大阪市の二重行政解消の方針により解散することが決まっています。当然、その事業や技術、学問上の資産は大阪府・大阪市に引き継がれるものと思っていたのですが、そうではないことを報道で知りました。

 産経新聞WEB版(2024.11.22)によれば、市文協が持つ独自の遺物の保存技術の継承先もなく、十数万冊に及ぶ蔵書は国内に引き取り手が見つからず、韓国の研究機関に譲渡が決まっているとのこと。この報道に接し、わたしは愕然としました。なぜ大阪の政治家や行政は日本の伝統文化や技術、学問を守ろうしないのかと。こうした大阪考古学の惨状を、冥界の山根徳太郎氏は憂いておられるのではないでしょうか。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3302~3307話(2024/06/12~22)〝難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (1)~(5)〟

【産経新聞 WEB版】2024.11.22 から転載

どうなる大阪の遺跡発掘・保存
二重行政解消で解散の市文化財協会、黒字経営でも容赦なし

 大都市である大阪の地中には、いまだ解明されず謎に包まれた遺跡が数多く眠っている。7~8世紀に都が置かれ、「日本」という国号や元号の使用が始まったとされる国指定史跡「難波宮跡」など、歴史的に重要な遺跡も多い。これらの遺跡を発掘・調査してきた大阪市の外郭団体「市文化財協会(市文協)」が今年度末で解散する。地域政党「大阪維新の会」が進めてきた大阪府市の二重行政の解消による余波だ。市文協が得意とする遺物の保存処理技術も継承されなくなる恐れがあり、今後の文化財保護行政の課題になりそうだ。

 市文協は大阪市内の文化財の調査研究と保存、文化・教育の向上発展を目的に昭和54年に設立され、大坂城跡や難波宮跡など各遺跡の発掘や発掘成果の普及啓発業務を担ってきた。

 市文協の解散は平成25年、当時の橋下徹市長らが進めた二重行政の解消を目的とする府市統合本部会議で方針が決まった。市文協と、府内の文化財の調査や研究を担う府文化財センター(府センター)が「類似・重複している行政サービス」とされたためだ。事業整理に時間を要したが、今年6月に正式に解散が決定した。

 来年度以降は、調査期間が1週間未満の案件は市教委が、それ以外は府センターが発掘調査を担う。これまでの発掘資料や遺物などは市教委が引き継ぎ、市民向けの展示会や情報発信、現地説明会などについても市教委が判断する。

再開発でまだ見ぬ遺跡発見も

 市文協を管轄する市経済戦略局は解散理由について「外郭団体の整理の一環」と説明するが、市文協の担当者は「府市で重複している事業はなかった」と反論している。市文協によると、これまで府内の発掘調査や研究、遺物の展示などは、大阪市とその他の自治体ですみ分けられていたという。

 また、全国的には都市開発が落ち着き、遺跡の発掘調査は昭和~平成に比べると減少傾向にあるが、大阪市内では大規模な再開発や地中を深く掘り返すような建設が数多く進行、計画されており、歴史的価値を帯びた、まだ見ぬ遺跡が発見される可能性が高いという。

 市文協の担当者は「大坂城周辺や難波宮周辺、上町台地など、縄文から中世にかけての日本の歴史をたどる上で重要な遺物がたくさんあることが推測される」と話す。

エルミタージュから視察

 一方、市文協は独自の遺物の保存技術も有する。トレハロース(糖質)を使用した木造遺物の保存処理技術を開発。木製品を保存するためにトレハロースを染み込ませて固める手法は、温度やトレハロースの濃度など細かな管理が求められる高度な技術という。ロシアのエルミタージュ美術館をはじめとする海外の研究機関から視察に訪れるほどだ。市文協は他の自治体から遺物の保存処理を受託しており、年間2千万~3千万円の収入を得ていた。

 「基本的には黒字経営。市文協は市税を投入して運営しているわけでもなかったのに、なぜ解散を迫られたのかわからない」と担当者は憤る。

 この保存技術は「利益を生むため行政にはそぐわない」などとして、市教委には継承されないという。府センターも保存処理事業は実施しておらず、移管の予定はない。

十数万の蔵書を韓国に譲渡

 さらに市文協の十数万冊に及ぶ蔵書は国内での引き取り手が見つからず、韓国の研究機関に譲渡が決まっている。担当者は「貴重な資料。本来であれば国内に残しておくべきものだった」と肩を落とした。

 市文協の評議員で大阪公立大文学研究科の岸本直文教授(考古学)は「質の高い研究で市の文化財保護を長年にわたって支えてきた。解散の理由が不明だ」と指摘。その上で「埋蔵文化財は文化財全体の中で大きな柱の一つ。研究体制が弱体化しないよう、行政が責任を持たなければならない」と述べた。

 市教委の担当者は「発掘調査についてはすでに市と府センターに移管され、滞りなく事業が進んでいる。課題や問題は今のところない」としている。(石橋明日佳)


第3367話 2024/10/12

アニメ『チ。-地球の運動について-』(4)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」のキャッチコピー「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」を象徴するようなシーンが昨日の放送(第三話)ではありました。

 地動説研究が発覚し、教会の異端審問でファウル少年は「宣言します。僕は地動説を信じてます」と述べ、刑が確定します。そして、ファウルを捉えた元傭兵の異端審問官ノヴァクとの間で、ファウルは終始穏やかですが、鬼気迫る内容の対話がなされます。

ファウル「敵は手強いですよ。あなた方が相手にしているのは僕じゃない。異端者でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。」
ノヴァク「知性?」
ファウル「それは流行病(はやりやまい)のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」
ノヴァク「では、勝つのは君か? あの選択は君の未来にとって正解だと思うのか?」
ファウル「そりゃあ不正解でしょ。でも不正解は無意味を意味しません。」
(中略)
ファウル「フベルトさんは(火あぶりの刑で)死んで消えた。でもあの人がくれた感動は今も消えない。たぶん、感動は寿命の長さより大切なものだと思う。だからこの場は、僕の命に代えてもこの感動を生き残させる。」
ノヴァク「正気じゃない。わけの分からんものに感動して、命さえなげうつ。そんな状態を狂気だとは思わないのか。」
ファウル「確かに。でもそんなのは愛とも言えそうです。」 ※ここでの「愛」とは、キリスト教の教えでいうところの「愛」か。そうであれば、この言葉は皮肉かもしれません。

 こう語ると、ファウルは地動説研究資料の隠し場所を拷問で自白しないよう、服毒により自死し、ドラマの舞台は十年後に飛びます。

 このファウル少年の言葉は、わたしたち古田学派の研究者には次のようにも聞こえるはずです。

 「あなた方(一元史観の学界)が相手にしているのは僕じゃない。古田武彦でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。それは流行病(はやりやまい)のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」(つづく)


第3365話 2024/10/09

アニメ『チ。-地球の運動について-』(3)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」には、次のキャッチコピーがあります。

 「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」

 この言葉には、古田先生の生き様と通じるものを感じます。今から三十数年前のこと。青森で東奥日報の斉藤光政記者の取材を先生は受けました。和田家文書偽作キャンペーンを続ける同記者に対して、先生は次の言葉を発しました。

 「和田家文書は偽書ではない。わたしは嘘をついていない。学問と真実を曲げるくらいなら、千回殺された方がましです。」

 このとき、わたしは同席していましたので、先生のこの言葉を今でもよく覚えています。
他方、「美学」という言葉は、わたしは古田先生から直接お聞きした記憶はないのですが、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から次のようなことを教えていただきました。

 久留米大学の公開講座に古田先生が毎年のように招かれ、講演されていたのですが、あるときから先生に代わって私が招かれるようになり、今日に至っています。その事情をわたしは知らなかったのですが、水野さんが古田先生にたずねたところ、先生が後任に古賀を推薦したとのことでした。そのことを古賀に伝えてはどうかと水野さんは言われたそうですが、古田先生の返答は、「わたしの美学に反する」というものだったそうです。先生の高潔なご人格にはいつも驚かされていたのですが、このときもそうでした。ですから、わたしは久留米大学から招かれるたびに、先生の「美学」に応えなければならないと、緊張して講演しています。(つづく)


第3364話 2024/10/08

アニメ『チ。-地球の運動について-』(2)

 ―真理(多元史観)は美しい―

アニメ「チ。―地球の運動について―」は、15世紀のヨーロッパにおいて、教会から禁圧された地動説を命がけで研究する人々を描いた作品です。その中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトと、一人で天体観測を続けていたラファウ少年との間で、次のような会話が交わされます。それは、不規則な惑星軌道を天動説で説明しようとするラファウと、それを詰問するフベルトとの対話です。

フベルト「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」
ラファウ「(天動説の複雑な理屈は)あまり美しくない。」
フベルト「太陽が昇るのではなく、われわれが下るのだ。地球は2種類の運動(自転と公転)をしている。太陽は動かない。これを教会公認の天動説に対して地動説とでも呼ぼうか。」

この対話を聞いて、古田先生の九州王朝説・多元史観と学界の大和朝廷一元史観との関係を思い起こしました。両者について、わたしは次のように指摘したことがあったので、フベルトの言葉が重く響いたのです。

〝学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。〟(注)

「チ。―地球の運動について―」では、ラファウ少年が地動説研究を行っていたことが教会に発覚しそうになったとき、フベルトは自らが身代わりとなって〝罪〟をかぶり、火あぶりの刑になりました。残されたラファウ少年は、「今から地球を動かす」と、地動説研究を引き継ぎます。(つづく)

(注)古賀達也「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。