現代一覧

第3381話 2024/11/23

大阪考古学の惨状を憂う

 大阪では、難波の宮跡を筆頭に重要な考古学調査が戦後すぐから行われてきました。中でも山根徳太郎氏の難波宮発見の偉業は著名で、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注)。わたしたち「古田史学の会」は、大阪の代表的な考古学者をお招きして講演していただいてきました。そのお一人に、高橋工氏がいます。氏が所属する大阪市文化財協会は大阪府と大阪市の二重行政解消の方針により解散することが決まっています。当然、その事業や技術、学問上の資産は大阪府・大阪市に引き継がれるものと思っていたのですが、そうではないことを報道で知りました。

 産経新聞WEB版(2024.11.22)によれば、市文協が持つ独自の遺物の保存技術の継承先もなく、十数万冊に及ぶ蔵書は国内に引き取り手が見つからず、韓国の研究機関に譲渡が決まっているとのこと。この報道に接し、わたしは愕然としました。なぜ大阪の政治家や行政は日本の伝統文化や技術、学問を守ろうしないのかと。こうした大阪考古学の惨状を、冥界の山根徳太郎氏は憂いておられるのではないでしょうか。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3302~3307話(2024/06/12~22)〝難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (1)~(5)〟

【産経新聞 WEB版】2024.11.22 から転載

どうなる大阪の遺跡発掘・保存
二重行政解消で解散の市文化財協会、黒字経営でも容赦なし

 大都市である大阪の地中には、いまだ解明されず謎に包まれた遺跡が数多く眠っている。7~8世紀に都が置かれ、「日本」という国号や元号の使用が始まったとされる国指定史跡「難波宮跡」など、歴史的に重要な遺跡も多い。これらの遺跡を発掘・調査してきた大阪市の外郭団体「市文化財協会(市文協)」が今年度末で解散する。地域政党「大阪維新の会」が進めてきた大阪府市の二重行政の解消による余波だ。市文協が得意とする遺物の保存処理技術も継承されなくなる恐れがあり、今後の文化財保護行政の課題になりそうだ。

 市文協は大阪市内の文化財の調査研究と保存、文化・教育の向上発展を目的に昭和54年に設立され、大坂城跡や難波宮跡など各遺跡の発掘や発掘成果の普及啓発業務を担ってきた。

 市文協の解散は平成25年、当時の橋下徹市長らが進めた二重行政の解消を目的とする府市統合本部会議で方針が決まった。市文協と、府内の文化財の調査や研究を担う府文化財センター(府センター)が「類似・重複している行政サービス」とされたためだ。事業整理に時間を要したが、今年6月に正式に解散が決定した。

 来年度以降は、調査期間が1週間未満の案件は市教委が、それ以外は府センターが発掘調査を担う。これまでの発掘資料や遺物などは市教委が引き継ぎ、市民向けの展示会や情報発信、現地説明会などについても市教委が判断する。

再開発でまだ見ぬ遺跡発見も

 市文協を管轄する市経済戦略局は解散理由について「外郭団体の整理の一環」と説明するが、市文協の担当者は「府市で重複している事業はなかった」と反論している。市文協によると、これまで府内の発掘調査や研究、遺物の展示などは、大阪市とその他の自治体ですみ分けられていたという。

 また、全国的には都市開発が落ち着き、遺跡の発掘調査は昭和~平成に比べると減少傾向にあるが、大阪市内では大規模な再開発や地中を深く掘り返すような建設が数多く進行、計画されており、歴史的価値を帯びた、まだ見ぬ遺跡が発見される可能性が高いという。

 市文協の担当者は「大坂城周辺や難波宮周辺、上町台地など、縄文から中世にかけての日本の歴史をたどる上で重要な遺物がたくさんあることが推測される」と話す。

エルミタージュから視察

 一方、市文協は独自の遺物の保存技術も有する。トレハロース(糖質)を使用した木造遺物の保存処理技術を開発。木製品を保存するためにトレハロースを染み込ませて固める手法は、温度やトレハロースの濃度など細かな管理が求められる高度な技術という。ロシアのエルミタージュ美術館をはじめとする海外の研究機関から視察に訪れるほどだ。市文協は他の自治体から遺物の保存処理を受託しており、年間2千万~3千万円の収入を得ていた。

 「基本的には黒字経営。市文協は市税を投入して運営しているわけでもなかったのに、なぜ解散を迫られたのかわからない」と担当者は憤る。

 この保存技術は「利益を生むため行政にはそぐわない」などとして、市教委には継承されないという。府センターも保存処理事業は実施しておらず、移管の予定はない。

十数万の蔵書を韓国に譲渡

 さらに市文協の十数万冊に及ぶ蔵書は国内での引き取り手が見つからず、韓国の研究機関に譲渡が決まっている。担当者は「貴重な資料。本来であれば国内に残しておくべきものだった」と肩を落とした。

 市文協の評議員で大阪公立大文学研究科の岸本直文教授(考古学)は「質の高い研究で市の文化財保護を長年にわたって支えてきた。解散の理由が不明だ」と指摘。その上で「埋蔵文化財は文化財全体の中で大きな柱の一つ。研究体制が弱体化しないよう、行政が責任を持たなければならない」と述べた。

 市教委の担当者は「発掘調査についてはすでに市と府センターに移管され、滞りなく事業が進んでいる。課題や問題は今のところない」としている。(石橋明日佳)


第3367話 2024/10/12

アニメ『チ。-地球の運動について-』(4)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」のキャッチコピー「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」を象徴するようなシーンが昨日の放送(第三話)ではありました。

 地動説研究が発覚し、教会の異端審問でファウル少年は「宣言します。僕は地動説を信じてます」と述べ、刑が確定します。そして、ファウルを捉えた元傭兵の異端審問官ノヴァクとの間で、ファウルは終始穏やかですが、鬼気迫る内容の対話がなされます。

ファウル「敵は手強いですよ。あなた方が相手にしているのは僕じゃない。異端者でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。」
ノヴァク「知性?」
ファウル「それは流行病(はやりやまい)のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」
ノヴァク「では、勝つのは君か? あの選択は君の未来にとって正解だと思うのか?」
ファウル「そりゃあ不正解でしょ。でも不正解は無意味を意味しません。」
(中略)
ファウル「フベルトさんは(火あぶりの刑で)死んで消えた。でもあの人がくれた感動は今も消えない。たぶん、感動は寿命の長さより大切なものだと思う。だからこの場は、僕の命に代えてもこの感動を生き残させる。」
ノヴァク「正気じゃない。わけの分からんものに感動して、命さえなげうつ。そんな状態を狂気だとは思わないのか。」
ファウル「確かに。でもそんなのは愛とも言えそうです。」 ※ここでの「愛」とは、キリスト教の教えでいうところの「愛」か。そうであれば、この言葉は皮肉かもしれません。

 こう語ると、ファウルは地動説研究資料の隠し場所を拷問で自白しないよう、服毒により自死し、ドラマの舞台は十年後に飛びます。

 このファウル少年の言葉は、わたしたち古田学派の研究者には次のようにも聞こえるはずです。

 「あなた方(一元史観の学界)が相手にしているのは僕じゃない。古田武彦でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。それは流行病(はやりやまい)のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」(つづく)


第3365話 2024/10/09

アニメ『チ。-地球の運動について-』(3)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」には、次のキャッチコピーがあります。

 「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」

 この言葉には、古田先生の生き様と通じるものを感じます。今から三十数年前のこと。青森で東奥日報の斉藤光政記者の取材を先生は受けました。和田家文書偽作キャンペーンを続ける同記者に対して、先生は次の言葉を発しました。

 「和田家文書は偽書ではない。わたしは嘘をついていない。学問と真実を曲げるくらいなら、千回殺された方がましです。」

 このとき、わたしは同席していましたので、先生のこの言葉を今でもよく覚えています。
他方、「美学」という言葉は、わたしは古田先生から直接お聞きした記憶はないのですが、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から次のようなことを教えていただきました。

 久留米大学の公開講座に古田先生が毎年のように招かれ、講演されていたのですが、あるときから先生に代わって私が招かれるようになり、今日に至っています。その事情をわたしは知らなかったのですが、水野さんが古田先生にたずねたところ、先生が後任に古賀を推薦したとのことでした。そのことを古賀に伝えてはどうかと水野さんは言われたそうですが、古田先生の返答は、「わたしの美学に反する」というものだったそうです。先生の高潔なご人格にはいつも驚かされていたのですが、このときもそうでした。ですから、わたしは久留米大学から招かれるたびに、先生の「美学」に応えなければならないと、緊張して講演しています。(つづく)


第3364話 2024/10/08

アニメ『チ。-地球の運動について-』(2)

 ―真理(多元史観)は美しい―

アニメ「チ。―地球の運動について―」は、15世紀のヨーロッパにおいて、教会から禁圧された地動説を命がけで研究する人々を描いた作品です。その中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトと、一人で天体観測を続けていたラファウ少年との間で、次のような会話が交わされます。それは、不規則な惑星軌道を天動説で説明しようとするラファウと、それを詰問するフベルトとの対話です。

フベルト「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」
ラファウ「(天動説の複雑な理屈は)あまり美しくない。」
フベルト「太陽が昇るのではなく、われわれが下るのだ。地球は2種類の運動(自転と公転)をしている。太陽は動かない。これを教会公認の天動説に対して地動説とでも呼ぼうか。」

この対話を聞いて、古田先生の九州王朝説・多元史観と学界の大和朝廷一元史観との関係を思い起こしました。両者について、わたしは次のように指摘したことがあったので、フベルトの言葉が重く響いたのです。

〝学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。〟(注)

「チ。―地球の運動について―」では、ラファウ少年が地動説研究を行っていたことが教会に発覚しそうになったとき、フベルトは自らが身代わりとなって〝罪〟をかぶり、火あぶりの刑になりました。残されたラファウ少年は、「今から地球を動かす」と、地動説研究を引き継ぎます。(つづく)

(注)古賀達也「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。


第3363話 2024/10/06

アニメ『チ。-地球の運動について-』(1)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 なかなかご理解いただけないかもしれませんが、いわゆる理系の中には、「美しい」という表現を好んで使う人がいます。「美しい」という概念は個人の主観的価値観に基づくものですから、客観性を重視し、自然法則を研究する科学の世界では、違和感がある言葉かもしれません。

 しかし、わたしが専攻した化学(有機合成化学)でも、次のような逸話があります。元勤務先の後輩、小川さんから聞いた話です。名古屋大学院でノーベル賞学者の野依先生のお弟子さんだった小川さんが、ある化学物質の分子構造式を描いたところ、野依先生から「美しくない」と、書き直しを命じられたというのです。複雑な分子構造式を分かりやすく描くのは結構難しいのですが、更にそれを美しく描かなければならないと学生に指導する野依先生のような人物だからこそ、ノーベル化学賞を受賞できたのかもしれません。

 野依先生とは次元もレベルも異なりますが、わたしも美しい分子構造をもつ化学物質の分子構造式を見ると、うっとりとします。なかでも現役時代に取り扱った物質で、構造式の上下左右が対称であり、その中心に金属原子を持つフタロシアニンやテトラアザポリフィリンなどは特に美しく感じたものです。これは、ケミストにとって、ある種の職業病かもしれません。

 物理学の分野でも、アインシュタインが発見した質量とエネルギーの等価性を示す関係式 E=mc2 は、ここまでシンプルで美しい計算式で、物質の基本原理を表せるものなのかと、感動した記憶があります。

 なぜ、「美しい」などという言葉を突然話題にしたのかというと、古田史学リモート勉強会に参加されている宮崎宇史さんから、地動説のために生涯を捧げた人々を主人公とするアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)がNHKで放送されるので、是非、見るようにとのメールが届いたのです。宮崎さんからのお薦めであれば、これは見なければならないと思い、昨晩11:45から始まる同番組を見ました。聞けば、アニメ「チ。-地球の運動について-」は、今年、日本科学史学会特別賞を受賞したとのこと。

 そして、その番組の中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトが少年ファゥルに発した言葉が、「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」だったのです。この言葉がわたしの胸に突き刺さりました。(つづく)

(注)『ウィキペディア』に次の説明がある。
『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の青年漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて、2020年42・43合併号から2022年20号まで連載された。15世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちの生き様と信念を描いたフィクション作品。2022年6月時点で、単行本の累計発行部数は250万部を突破。2022年6月にマッドハウス制作によるアニメ化が発表された。2024年5月、第18回日本科学史学会特別賞を受賞。


第3302話 2024/06/12

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (1)

 昨日、書架整理のため不要となった蔵書をご近所の古書店に売却し、そのお金で山根徳太郎著『難波の宮』(学生社、昭和39年)を購入しました。60年前の古い本ですので、最新発掘調査に基づく研究論文執筆に役立つこともないと思い、これまで読もうともしなかったのですが、気になってはいたので今回買って読みました。

 難波宮発掘と遺構保存に至る山根徳太郎さんのご苦労は、大阪歴博の特別展(注)などで知ってはいたのですが、同書を読んで、発掘費用不足や学問的に有力な批判に山根さんが苦しんでいたこともよくわかりました。
同書には、発掘費用調達に山根さんが苦しんでいたとき、教え子たちから寄附がよせられた逸話が次のように記されており、わたしも胸が熱くなりました。

〝このように、掘りだすたびに、一歩一歩と「難波の宮」の全貌が、大阪の中心部、法円坂町の台地上に浮かびあがろうとしている。しかし、一方、世間の人のなかには、まだまだこれらの成果をまったく認めない人も多い。学者のなかでも、現在までの成果では、難波の宮と認めず、わたしたちの努力を否定しようとされる方も少なくなかった。(中略)

 わたしは何といわれようとも、学問的成果には、深く心に期するところがあったが、ホトホト弱ったのは、研究資金の不足であった。(中略)

 そのころ、昭和三十一年十月十日の日、京都のわたしの宅に史泉会(大阪商大関係の歴史研究者の会)の古い会員の方が見えて、なつかしい昔話の後、封筒をわたしの前にさし出した。

 「先生、これは先生が難波の宮の発掘資金にお困りになっているのをみかねて、教え子たちが持ち寄ったものです。どうぞ発掘のお役に立ててください」(中略)

 「それはありがたいが、いったい誰がそのようなお金をくれたのか、知らせてほしい。名前を教えてくれ、でないとぼくは受取れない」(中略)

 この後、わたくしは、それらの人に会うたびに名前を知らせてくれるように、幾たびか申出た。そして翌三十二年の八月になって、やっと醵出者名簿が送られてきた。開いてみると、みな教え子ばかりで、一五〇人の名が記されていた。一人一人涙をおしぬぐいながら名簿を見つづけていたところ、その中の一人に、豊子という婦人の名前がある。その御主人はよく知っていた人であるが、さきごろ交通事故で世を去られた方である。その人の未亡人で、遺児を抱えて苦労していると聞いていた。そのような方まで募金に応じてくださると知っては、もはやわたくしには堪えられることではない。このようなことにならねばならないのならば、研究は止めにする。「どうぞこのような浄財の募集はしないようにして下さい」と、恒藤先生(大阪商大学長)にお願いしたことであった。(中略)

 このように浄財の寄進によって、昭和三十二年八月十二日から十月三十日までに実施した、第七次発掘には、じつに予想外の大きな成果があがった。近世大阪の発祥と目すべき石山本願寺の発見である。〟140~143頁(つづく)

(注)難波宮発掘調査60周年記念 特別展 大阪遺産難波宮 ―遺跡を読み解くキーワード― 大阪歴史博物館 平成26年(2014)


第3294話 2024/05/31

「古田史学の会」メール配信事業

          のお知らせ

「古田史学の会」の会員の皆さん、なかでもお会いする機会が少ない遠方の会員さんとの交流の場を作れないものかと考えてきました。そこで、インターネットのメール機能を利用して、「古田史学の会」や古田史学に関する情報発信と広報事業を新たに立ち上げます。幸いにも会費送金時の振込用紙にメルアドを書いていただいている会員さんが少なからずおられますので、エリアを限定してメール広報事業立ち上げの案内をテスト配信させていただきました。徐々に配信エリアを拡大します。
今回、関東エリアと九州エリアの会員と会友の皆さんにテスト配信したところ、好意的なご返信が届いています。他方、アドレスが間違っているためか、配信不可のメッセージが帰ってくるケースもあります。そこで、「洛中洛外日記」や『古田史学会報』で同事業をご案内することにしました。メール配信を希望される会員の方は、古賀か本会インターネット事務局まで、メールにてご一報いただきますようお願いいたします。
メール機能を使って、双方向の情報交換も進めたいと願っています。連日、各地からメールが届いていますので、返信が遅れたり、内容によっては回答できないことがあるかもしれません。その場合は、ご容赦ください。「古田史学の会」のメール配信事業にご理解とご協力をお願い申し上げます。


第3271話 2024/04/16

『古田史学会報』181号の紹介

本日届いた『古田史学会報』181号を紹介します。同号には拙稿〝『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名〟と〝「倭国から日本国へ」発刊のお知らせ〟を掲載して頂きました。前者では、愛媛県東部に濃密分布する「天皇」地名や伝承の歴史的背景に、当地の有力氏族越智氏が九州王朝より天皇号を許されたことがあったのではないかとするものです。後者は「倭国から日本国へ」の紹介と、『古代に真実を求めて』の投稿規定などを転載しました。

同号一面の正木稿は、過日報道されたNHKスペシャル古代史ミステリーの報道姿勢と番組内容を鋭く批判したものです。わたしも同番組を見ましたが、それは酷い偏向番組で、放送法に定められた公平の原則を完全に無視した内容でした。正木稿でも指摘されていますが、〝「ヤマト説の解説」ですらなく「邪馬台国はヤマト、倭の五王はヤマトの大王」を自明〟とした番組でした。

同番組は明らかに意図的な「情報操作」がなされていました。それは箸墓古墳の炭素同位体年代測定値による造営年代を三世紀前半とする解説場面の右下に、その根拠とした論文名が小さな字で記されていました。それを見て、現在では不正確とされている測定値を採用していたことがわかりました。念のために録画で確認しましたが間違いありませんでした。それは次の説明文です。

国立歴史民俗博物館研究報告2011
「古墳出現期の炭素14年代測定」

この2011年の報告書は、炭素14年代測定値の補正(較正)に国際補正値intCAL09を採用しています。専門的になりますので結論のみ言いますと、この国際補正値は数年毎に見直されており、近年では2009年、2013年、そして直近では2020年に見直されています。日本で開発されたJ-CALの補正データを採用した2020年のintCAL20は特に優れており、現在の世界標準になりました。その結果、弥生時代ではintCAL09による補正値が百年ほど古く誤っていたことが明らかとなりました(注①)。

したがって、歴史民俗博物館研究報告2011「古墳出現期の炭素14年代測定」は、intCAL09による補正で箸墓古墳の築造年代を240年頃としたのですが、現在(intCAL20補正)では不正確な数値として批判され、従来の考古学編年通り300350年頃とする炭素年代測定値が最有力とされています。このことは日本の考古学者であれば知らないはずがありません。元橿原考古学研究所の考古学者、関川尚功さんも同様のことを言っておられました(注②)。

NHKの当番組では考古学者の福永伸哉氏(大阪大学大学院教授・考古学)も出ていましたから、NHKの番組作成者がこのintCAL09とintCAL20の精度差を知っていて、後で視聴者から批判されても言い逃れができるように、申しわけ程度に小さな字で画面右下に出典論文名を数秒間提示したと考えざるを得ません。本当に悪質な報道姿勢と番組でした。

ちなみに、放送法第4条には次の条文があります。

(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

NHKは放送法違反の報道や番組をこれまでも放送してきました。和田家文書偽作キャンペーンのときもそうでした。古田先生と安本美典氏の討論番組で、安本氏にVTRの使用や多くの時間配分を行うなど、明らかにアンフェアな番組を放送したのです。このときはさすがにNHK関係者からも非難の声があがりました。こうした姿勢が、現在も全く代わっていないことがよくわかる「NHKスペシャル古代史ミステリー」でした。

181号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』181号の内容】
○緊急投稿 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル(上) 川西市 正木 裕
○倭国天皇の地位について ―西村秀己・古賀達也両氏への回答― たつの市 日野智貴
○「邪靡堆」論への谷本茂氏への疑問に答える 姫路市 野田利郎
○『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名 京都市 古賀達也
○皇暦実年代の換算法について正木稿への疑問 たつの市 日野智貴
○大きな勘違いだった古代船「なみはや」の復元 京都府大山崎町 大原重雄
○「倭国から日本国へ」発刊のお知らせ 古田史学の会・代表 古賀達也
○会員総会・記念講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○2024年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2827話(2022/09/05)〝「夏商周断代工程」と水月湖の年縞〟
萩野秀公「若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国」『古田史学会報』171号、2022年。
②令和三年六月十九日に開催された奈良市での講演会(古田史学の会・主催)で、関川尚功氏は、炭素14年代測定での国際補正値(IntCAL)と日本補正値(JCAL)とでは弥生時代や古墳時代では百年程の差が生じるケースがあると指摘された。
古賀達也「洛中洛外日記」2497話(2021/06/20)〝関川尚功さんとの古代史談義(1) ―炭素14年代測定の国際補正値と日本補正値―〟


第3253話 2024/03/20

鶴岡八幡宮の神社本庁離脱に思う (1)

 鎌倉市の鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱するというニュースに接しました。何年か前にも四国の金刀比羅宮も離脱したと記憶しており、神社界に何か大きな異変が起きているようです。個別の事情にはあまり関心はありませんが、日本思想史という学問領域の視点からすれば、日本人の価値観や倫理観、精神の美意識の変化が根底にあるようにも思われます。巷に言われている〝今だけ、金だけ、自分だけ〟という近年流行の思想が神社界にも影響しているのかもしれません。

 〝今だけ、金だけ、自分だけ〟という思想の対局にあったのが古田先生の学問精神であり、美意識でした。先生は物事や事象を歴史的に俯瞰されていましたし、お金に執着される姿をわたしは見たことがありません。そして何(自分)よりも真実と学問を大切にされていました。「学問を曲げるくらいなら、千回殺された方がましだ」とも仰っていました(注①)。

 わたしは鶴岡八幡宮には少々御縁がありました。若い頃、日蓮遺文の研究を行い、「日蓮の古代年号観」という論文を書いたことがあったからです(注②)。そのとき、膨大な日蓮遺文を何度も読み、年号に関する記事を検索しました。今でこそWEBで簡単に検索できますが、当時は会社が休みの日に図書館にこもって何時間も読み続けるしかありませんでした。36歳のときのことで、体力と集中力がありましたので、そうした無茶な調査研究も可能でした。そのとき読んだ「諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)」という日蓮遺文がとても印象的で、強く記憶に残っていました。

 文永八年(1271年)、鎌倉幕府に捕えられた日蓮が龍ノ口の刑場に引かれる途中、鶴岡八幡の前で「法華経の行者を守護すべき八幡菩薩よ、何故日蓮を護らぬのか」と大声で叱った事件について、後に日蓮が認めたのが「諫暁八幡抄」です(注③)。弟子等により伝えられた有名な遺文です。このとき、刑場にひかれる日蓮を乗せた馬の手綱をとったのは弟子の四条金吾と伝えられており、日蓮の突然の「諫暁」に金吾も驚いたことと思いますが、それ以上に驚いたのが叱られた八幡菩薩ではないでしょうか。結果としては、〝光り物〟の出現に、刑場の役人は恐れおののき、頸を刎ねることができず、日蓮は佐渡に流罪となりました。ちなみに、和田家文書にもこの事件「龍ノ口の法難」に触れた興味深い記事があります。(つづく)

(注)
①和田家文書偽作キャンペーンの中心的人物の一人であるS記者の取材を青森で受けられたとき、古田先生は東日流外三郡誌が偽書ではないことを説明し、「わたしは嘘をついていない。真実と学問を曲げるくらいなら、千回殺された方がましだ」と言われたことを、同席したわたしは聞いている。
②古賀達也「日蓮の古代年号観」『市民の古代』14集所収、新泉社、1992年。
③弘安三年(1280年)、日蓮59歳のときの撰述。真筆は静岡県富士大石寺所蔵(欠失あり)。


第3206話 2024/01/24

好評! 本出ますみさんの新春講演

 わが国を代表するウールクラッサー(羊毛鑑定士)の本出ますみさんを講師に招いて、キャンパスプラザ京都で開催した新春古代史講演会は五十余名の参加があり、盛況でした。講師の本出さんが持ち込まれた羊毛フェルトや花氈(かせん)も大好評でした。本出さんのファンで古代史講演会は初めての方も多く、そのため、わたしの講演では初心者向けの解説を加え、内容も一部変更しました。参加された「古田史学の会」会員の小島さん(宝塚市)からもメッセージが届きましたので、その応答をご紹介します。

 【以下転載】
小島様
新春講演会にお越しいただき、ありがとうございました。古代史の講演を聞くのは初めてという参加者が多かったようですので、初心者向けの話から始めました。会員の方には面白くなかったかもしれず、申し訳ございませんでした。(古賀達也)

 古賀様
メールをありがとうございました。羊、ウール、フエルトの話は大変面白かったです。ウールと羊毛は同じと思っていましたが、直毛?がありその下にウールがある(鳥に例えるなら羽とダウン)とか、カシミアはフエルトにはならないとか、世界各地に羊の固有種がいるのに、日本にはいないことなど初めてのことなので驚きもありました。見ることの難しい正倉院内部の写真とかも初見でした。

 また発掘の話ですが、神域を掘るのは難しそうで大変でしょうが、早く掘れる機会が訪れればと思います。基本的な話は自分の地固めになりますので、自分には結構よかったと思っています。初心をよく忘れますので。
【転載おわり】

 本出さんとは現役時代からのお付き合いで、わたしがウールやポリアミド用染料の開発・マーケティングを担当していたことが御縁となり、知り合いました。そのおり、本出さんが正倉院調査に参加されていたことを知り、その内容を「古田史学の会」で講演してほしいと、五年前ほどからお願いしてきました。調査内容の公表には正倉院を管理する宮内庁の了承が必要とのことで、この度ようやく講演していただくことができました。当初、講演の写真撮影・ネット配信はNGとのことでしたが、宮内庁の承認を得ていただき、写真撮影がOKとなりました。

 聞けば、本出さんの叔父様が正倉院の所長だったとのことで、正倉院を護るために正倉院近くの官舎で暮らし、緊急時に備え、正倉院展などで国宝や文化財を倉から出すときは、その一週間前から禊ぎをして臨まれたそうです。こうした人々に護られて、正倉院は今日まで遺ったことを知り、感動しました。本出さんには講演会後の懇親会にも参加していただき、歓談が続きました。あらためて感謝いたします。

 本出さんとわたしの講演テーマは次の通りでした。
〔第一講演〕本出ますみさん 正倉院花氈の素材の定説がくつがえる ―それはカシミヤではなくウールだった―

https://www.youtube.com/watch?v=GoR9DbWtGHY&t=4s

〔第二講演〕古賀達也 吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓 ―国内史料に見える卑弥呼伝承―

https://www.youtube.com/watch?v=FfvudMFs6bs

2024.02.05 YouTube講演を作成しました。
竹村氏が、本出ますみ氏に講演を公開することに了解を得ました。
古田史学会インターネット事務局が,講演記録を一本化し、サムネイルとチャプターを設置しました。


第3012話 2023/05/10

和田家(和田長作)と

  秋田家(秋田重季)の交流

 今回の津軽調査(5/06~09)では、秋田孝季集史研究会のご協力をを得て、期待を上回る数々の成果に恵まれました。特筆すべきものとして、和田家(和田長作)と秋田家(旧三春藩主・秋田重季子爵)の交流を示すと思われる写真の〝発見〟がありました(注①)。藤本光幸さんの遺品のなかにあった一枚の写真(女性5名と男性6名)です。その裏には次の氏名が書かれています。

 「天内」、「森」、「和田長三〈郎〉」(注②)、「秋田重季」、「綾小路」です。男性1名と日本髪の女性たち(芸者さんか)の名前は記されていません。そのくつろいだ様子から、宴席後の記念写真と思われました。撮影年次や場所は記されていませんが、「和田長三〈郎〉」のふくよかな顔立ちから、和田喜八郎氏の祖父、長作さんの若い頃(20~30歳か)の写真のようです。藤崎町の旧家「天内(あまない)」さんと一緒であることから、津軽での写真ではないでしょうか。
秋田孝季集史研究会の会長、竹田侑子さんのお父上(藤本光一氏)は天内家から藤本家へ養子に入られたとのことで、写真の「天内」さんは〝父親とよく似た顔だち〟とのことです。残念ながら下の名前は未詳です。

 秋田重季(あきた しげすえ、1886~1958年、子爵議員)さんは秋田家(旧三春藩主、明治以降は子爵)の第十四代当主です。ネットで調査したところ写真が遺っており、秋田重季氏ご本人で間違いなさそうです。その他の男性、「森」「綾小路」の両氏は調査中です。秋田子爵と同席できるほどの人物ですから、いずれ明らかにできるでしょう(注③)。

 そして、肝心の和田長作さんとされる人物の確認です。全くの偶然ですが、和田喜八郎氏宅の屋根裏調査時に、同家仏壇の上に飾ってあった遺影(女性2名と男性1名)をわたしは撮影していました。その写真をスマホに保存していたので、持参したノートパソコンに移し、秋田重季さんとの記念写真の「和田長三〈郎〉」とを拡大・比較したところ、同一人物のように思われました。遺影の人物は晩年の長作さんのようで、ふくよかな頃の写真とは年齢差があると思われるものの、顔の輪郭、特徴的な右耳の形、坊主頭の形、切れ長の目、まっすぐな鼻筋、顎の形などが一致しています。

 これは和田家と秋田家の交流が明治・大正時代からあったことを示す貴重な証拠写真かもしれず、藤本光幸氏の遺品中にあったことから、おそらく和田喜八郎氏から光幸氏にわたったものと思われます。偽作キャンペーンでは和田家と秋田家との古くからの交流を否定しており、同キャンペーンの主張が虚偽であったことを証明する証拠とできそうです。しかしながら、〝似ている〟だけではエビデンスとして不十分ですので、更に調査を重ね、人物の同定が確実となれば、改めて発表したいと考えています。

 東京へ向かう東北新幹線はやぶさ16号の車窓から冠雪した岩手山が見えてきました。もうすぐ盛岡駅です。

(注)
①竹田元春氏より見せて頂いた。同氏は、藤本光幸氏の妹の竹田侑子氏(「秋田孝季集史研究会」会長)のご子息。
②長作か。「長三郎」を和田家当主は襲名する。写真下部が切り取られており、〈郎〉の字は見えない。和田長作は喜八郎氏の祖父で、明治期に「東日流外三郡誌」を書写した和田末吉の長男。末吉の書写作業を引き継いでいる。
③「綾小路」とある人物は貴族院議員の綾小路護氏(1892~1973年、子爵議員)ではあるまいか。ウィキペディアに掲載されている同氏の写真とよく似ている。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第2914話 2023/01/12

「司馬史観」批判の論文を紹介

 「洛中洛外日記」2912話(2023/01/10)〝司馬遼太郎さんと古田先生の思い出〟で紹介した、古田先生の「司馬史観」批判ですが、先生から聞いたのは20年以上も昔のことです。記憶は鮮明に残っているのですが、このことを活字化した論稿を探しました。というのも、先生は真剣な表情で語っておられましたので、これは重要テーマであり、文章として遺されているのではないかと考えたからです。ちなみに、わたしの記憶では次のような内容(大意)でした。

 〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟

 20年以上も昔の会誌や講演録から探しだすのは大変な作業で、通常ですと数日かかるのですが、幸いにも今回はすぐに見つけることができました。『現代を読み解く歴史観』に収録された「教育立国論 ――全ての政治家に告ぐ」という論文中にあったのです(注①)。関係個所を転載します。

 〝ここで、一言すべきテーマがある。「昭和の戦争」を「無謀の戦争」として非難し、逆に、明治を理想の時代のようにたたえる。司馬遼太郎などの強調する立場だ。後述するように、それも「一面の真理」だ。だが、反面、いわゆる「昭和の愚戦」否、「昭和の暴戦」をリードしていたのは、まぎれもなく、「明治生れの、愚かしきリーダー」だったのである。この点もふくめて、後に明らかにしてゆく。〟『現代を読み解く歴史観』98頁

 〝では、わたしたちが今なすべきところ、それは何か。「教育立国」この四文字、以外にないのである。
明治に存在した、負(マイナス)の面、それは「足軽たちのおぼっちゃん」が、諸大名の「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った。当然、「見識」も「我慢」も知らぬ“おぼっちゃん”たちが、「昭和の愚劣にして悪逆」な戦争をリードした。少なくとも、「命を張って」食いとめる勇気をもたなかった。「昭和の愚劣と悪逆」は、「明治生まれの世代」の責任だ。この一点を、司馬遼太郎は「見なかった」あるいは「軽視」したのである。〟同上、101頁

 ほぼ、わたしの記憶と同趣旨です。また、〝「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った〟という表現(語り口)も、はっきりと記憶しています。これをわたしは〝明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達〟という表現に代えて記しました。

 これからも、古田先生から聞いた貴重な話題については、わたしの記憶が鮮明なうちに書きとどめ、先生の思想や業績を後世に伝えたいと願っています(注②)。幸い、「市民の古代研究会」時代からの同志がご健在で、その方々への確認もできますので、この作業を急ぎたいと思います。最後に、古田先生の「司馬史観」批判を『現代を読み解く歴史観』に収録し刊行された、東京古田会と平松健さん(同書編集担当)に感謝いたします。

(注)
①古田武彦『現代を読み解く歴史観』ミネルヴァ書房、2013年。
②なかでも30年前に行った和田家文書調査(津軽行脚)は、古田先生をはじめ当地の関係者がほとんど物故されており、当時の情況の記録化が急がれる。