現代一覧

第156話 2008/1/4

松本郁子著

『太田覚眠と日露交流
  — ロシアに道を求めた仏教者』

 あけまして、おめでとうございます。
 この年末年始は、テレビで「のだめカンタービレ」の再放送を見て過ごしました。娘が高校のオーケストラでファゴットを演奏していることもあって、オーケストラドラマの「のだめカンタービレ」を家族で見ました。なかなか、面白いドラマで、いつか時間があれば原作(漫画)も読んでみたいものです。ちなみに、このドラマのテーマ曲であるベートーベンの7番は私が大好きな曲です。
 それともう一つ、松本郁子著『太田覚眠と日露交流−ロシアに道を求めた仏教者』(ミネルヴァ書房)を著者からいただき、読んでいますが、この本は太田覚眠研究の名著というにとどまらず、アウグスト・ベエグ、村岡典嗣、古田武彦と続くフィロロギーの学問を継承した一冊です。古田史学、とりわけ日本思想史の分野に関心を持つ者には必読の一冊であることを断言します。
 ロシア語に堪能な若き著者は、日本国内は当然のこととして、ロシアまで史料探索を行っており、その結論だけではなく、学問の方法が見事です。しかも、その文章力により、読みやすく、面白く感動的です。まるで、古田先生の著書を読んでいるかのような錯覚さえ覚えました。
 著者の松本郁子さんは、これからもロシアへ赴き調査を続けると言われており、早くも続編の刊行が楽しみです。新年最初の読書に相応しい本でした。

松本郁子氏研究の一部分は古田史学会報により読むことが出来ます。

例 太田覚眠における時代批判の方法ー昭和十年代を中心としてー
(古田史学会報六五号)


第151話 2007/11/11

伊賀上野、芭蕉翁記念館を訪ねる
 昨日は伊賀上野までドライブし、芭蕉翁記念館を訪れました。当初の予定では天理から名阪国道を通るつもりでしたが、初心者には名阪国道は危険(時速60kmの速度制限にもかかわらず、トラックが100kmでビュンビュンとばすらしく、死亡事故も多い)とのアドバイスもあり、木津川沿いのルートを選びました。
 このドライブの一番の目的は芭蕉の生誕地伊賀上野の芭蕉翁記念館で「芭蕉かるた」を買うことでした。お城の一角にある俳聖殿と芭蕉翁記念館に足を運びましたが、記念館では「芭蕉と土芳」展が開催されており、良いタイミングでした。そこで「俳聖かるた」(800円)等を買いました。ところが、欲しかった「芭蕉かるた」とは別物であることを帰宅してから気づきました。「俳聖かるた」は芭蕉以外にも弟子の去来、そして蕪村・一茶の俳句からなっており、これはこれで良い買い物でしたが、「芭蕉かるた」は別にあるようなのです。もう一度伊賀上野に行くことにしたいと思っています。
 古田先生の影響で、わたしは芭蕉に興味を持つようになったのですが、古田先生からいただいた『俳諧問答』(岩波文庫)は貴重な宝物となっています。この本は、1996年に『奥の細道』自筆本の発見が話題となり、翌年、津市の博物館でその「自筆本」が展示されたので、古田先生と一緒に見学に行ったおりに頂いたものです。
 それには古田先生のサインとともに、次のような言葉が綴られています。初めてご紹介することにします。
  「−蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)−
   変る人々多き中、変らぬ心をお寄せいただくこと、この生涯最大の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中。」
 冒頭の「蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)」の意味を知りたい方は、是非『俳諧問答』第三章をお読み下さい。当時は、和田家文書偽作説論者による古田攻撃が猖獗を極めたときでした。


第147話 2007/10/09

甲良神社と林俊彦さん

 先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。
 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。
 わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第9集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。
 この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが10月5日、脳溢血で亡くなられました。まだ55歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。7日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。


第144話 2007/09/23

藤樹神社を訪ねて

 昨日はヴィッツを借りて滋賀県へドライブしてきました。三連休の初日ということもあって、ラクティスやプリウスなどの希望車種は予約が満杯で借りることができませんでした。

 今回のドライブの前半では、洛北八瀬大原から途中トンネルを抜け、朽木村を通り、高島市の藤樹神社を訪ねました。言わずと知れた、近江聖人中江藤樹 (1608〜1648)を祀った神社です。神殿を参拝した後、境内にある藤樹記念館を見学。改めて偉大な人物に触れることができ、感動しました。藤樹関連書籍が販売されていましたので、『中江藤樹のことば−素読用』中江彰編を買い、読んでいます。その後、近くにある藤樹の墓所にも寄って、手を合わせまし た。
   『中江藤樹のことば−素読用』の中から、特に印象に残った言葉をご紹介しましょう。
 
    千里をかよう誠(まこと)
  思ひ出は学びし本(もと)の心より千里を通う誠忘るな。(和歌「森村叔の行を送る」)
 
 遠くから藤樹に学びに来た門人へ宛てた和歌で、学んだ中味よりも、遠い近江の僻遠の地にやってきた、そのまことの心を決して忘れてはならない、という内 容です。古田史学の会関西例会へ、相模原市から新幹線で毎月参加される冨川ケイ子さんのような熱心な門人がいたのですね。
 
    同志の交わり
  同志の交際は、恭敬を以て主と為すべし。和睦を以てこれを行ひ、一毫も自ら便利を択(えら)ぶべからず。もとって勝たんことを求むるなかれ。(「学舎坐右戒」)
 
 同志は、たがいにうやうやしい態度で接すること。なかむつまじく、いささかも自分の都合勝手なことをしてはならない。心ねじけて人に勝つなかれ、という 内容は深く考えさせられます。古田史学の会の会員は同志のようなものですから、この藤樹の言葉を私も噛みしめたいと思いました。


第142話 2007/09/09

中村中を聴く
 わたしが30年来の中島みゆきファンであることは、ことあるごとに言ってきましたが、この何ヶ月か毎日のように聴いているのが、中村中(なかむら・あた
る)です。まだ二十歳そこそこの若いシンガーソングライターですが、初めてのアルバム「天までとどけ」は素晴らしいアルバムです。中でも「友達の詩」「風
になる」は後世に残る名曲だと思います。中島みゆきがデビューした時と同じくらいの才能を感じさせてくれるミュージシャンです。

   ところで、この「中村」という苗字は福岡県、とりわけ筑前に大変多い苗字です。わたしの学生時代のクラス(久留米高専工業化学科11期)には中村君が3人もいました。福岡県には那珂川や那賀川町もありますし、お隣の佐賀県には中原村(なかばる)がありました。
 わたしのカンですが、この「なか」という地名や苗字は、『万葉集』に見える九州王朝の人物である中皇命(なかつすめらみこと)と関係するのではないで
しょうか。もしかすると、中村さんや那珂川・中原の「なか」と中皇命の「なか」は淵源を同じくするものと思われてなりません。論証は困難ですが、大きくは
外れていない様な気がします。いかがでしょうか。


第129話 2007/04/29

難波収さんとの一夕

 第107話「弥生の高層建築」で紹介した難波収さんが、オランダから一時帰国され、京都に逗留されていたので、昨夕、二人で遅くまで食事とお酒と会話を楽しみました。この5月には81歳になられる難波さんは、古くからの古田先生の支持者です。帰国されたときは、お会いし親交を暖めています。
 私からは古田史学の会や古田史学を取りまく状況をお話し、難波さんからは今の日本を憂慮するお話をお聞きするのが常となっています。「日本の政治家はダメだが、食べ物は旨い」とおっしゃられていたのが印象に残りました。また、オランダの知人が書かれた本「わたしは誰の子−父を捜し求める日系二世オランダ人たち」葉子・ハュス−綿貫著(梨の木舎、1800円+税)をいただきました。前の戦争の傷跡が現在も深く残っていることを改めて認識させられる本のようです。この連休にしっかりと読みたいと思います。
 難波さんとお会いできるのは、次はいつになるのでしょうか。夜のバス停で何度も別れの握手をかわしました。
 ところで、ちょっと遅くなりましたが、21日に行われた4月例会の発表内容をお知らせします。

〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1. この俺が・・(豊中市・木村賢司)
  2. 倭と日本のよみ方(木津町・竹村順弘)
  3. 「泣澤女神」と「狭狭の小汀」の関係(大阪市・西井健一郎)
  4. エクアドル〈縄文・弥生〉のフォロー I(豊中市・大下隆司)
  5. 『日本書紀』の記事の長さ(相模原市・冨川ケイ子)
  6. 「大化改新」虚と実(奈良市・飯田満麿)
  7. 安日は神武によって東日流に放逐された(奈良市・太田斉二郎)
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・『倭姫世記』の淡海浦論証追加・他(奈良市・水野孝夫)


第65話2006/03/04

「古田史学の会・東海」

 このホームページでご紹介していますように、「古田史学の会・東海」のホームページが新たに開設されました。是非、のぞいてみて下さい。古田史学の会の本部機能(事務局は京都の拙宅)は「関西の会」が受け持っていますが、会員が集中している地域には独自に地域の会があり、例会活動などが行われています。そのうちの一つが「東海の会」として「古田史学の会・東海」を名乗っています。代表者は林俊彦さん(本会・全国世話人)です。昨年は、わたしも名古屋市での「古田史学の会・東海」の例会で講演させていただきました。本年も機会があれば、また行きたいと思っています。
 東海の他にも、「古田史学の会・北海道」「古田史学の会・仙台」「古田史学の会・四国」そして「古田史学の会・関西」で例会活動などが行われています。関東地区は友好団体の多元的古代研究会と東京古田会がありますので、古田史学の会としては組織的な活動を行っていません。長野県松本市にはやはり友好団体の「古田史学の会・まつもと」がありますが、こちらは当会とは別の独立した会です。
 本会の地域の会の連絡先は下記の通りです。ご近所の方で例会などに参加してみたいという人は一度ご連絡下さい。

2016年6月 改訂

地域の会の連絡先は、責任者が代わっていますの削除。

2019年 3月

「古田史学の会・東海」(http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/index.htm)のホームページが替わりました。


第64話2006/02/25

『耳納』
 先日、『耳納』254号が送られてきました。『耳納』と書いて「みのう」と読みます。福岡県筑後地方の教育関係者や郷土史家で構成される「福岡県うきは・三井・久留米教育耳納会」が発行する雑誌で、教育や郷土の歴史に関する原稿が掲載されています。雑誌名の『耳納』は筑後地方をはしる水縄連山の「みのう」の別字表記です。耳に納めるという、なんとも含蓄のある表記ではないでしょうか。
 この『耳納』は戦後まもなく筑後地方の教師により発行されたもので、全国的に見ても同類の雑誌では最長の歴史を有しています。この『耳納』をあるときは一人で支えてこられたのが吉井町の教師で郷土史家の石井康夫先生です。石井先生は戦後教育史を体現されてきた人物と言っても過言ではないでしょう。温厚な先生ですが、教育や平和運動、郷土に深い愛情と情熱を注いで来られました。わたしが尊敬する人物のお一人です。
 わたしも数年前より同会に入会させていただき、百姓一揆や古代史に関する論文を『耳納』に掲載していただいています。江戸時代の久留米藩百姓一揆の指導者の墓を調査されていた石井先生に父の紹介でお会いしたのが、お付き合いのきっかけでした。ちなみに、わたしの七代前の先祖(西溝尻村庄屋・古賀勘右衛門)が、浮羽郡の一揆の指導者でさらし首になったのですが、その墓を父や地元の人々が守っていたのでした。
 『耳納』254号には通説に基づく古代史の紹介なども掲載されていますが、他の雑誌とはちょっと違うのが、その中にきちんと九州王朝説も紹介されていることです。同会の事務局は下記の通りです。興味のある方は、問い合わせて見て下さい。

福岡県うきは・三井・久留米教育耳納会 事務局
〒839−1226
久留米市田主丸町八幡457
永松勲様方
電話090−9473−3477


第62話2006/02/12

海を渡った舞女たち            
       
       
         
 昨日は、家の近所にある京都府立文化芸術会館で行われた「第27回Kyoto演劇フェスティバル」へ行き、劇団T・E・Iによる「終わりこそ始めなれ〜
母なる思いを求めて〜」という劇を見てきました。沖縄、広島、満州(大陸の花嫁)の語り部による詩や俳句・短歌の朗読を中心とした、暗く重いテーマを題材
とした劇でした。
 劇団T・E・Iは同志社中学校演劇部OBやOGが急遽集まってできたユニットで、出演者は全員10代20代前半の若い女性。その彼女等が語り部の老人に
扮して60年前の戦争を語るという設定で、「生ましめんかな」(栗原貞子作)や「わたしが一番きれいだったとき」(茨木のり子作)などの詩を中心に舞台が
展開します。
 語り部が重々しくそれぞれの戦争体験を語り、「わたしが一番きれいだったとき、町にはジャズが流れていた」という一節の後、照明や出演者の衣装は一転
し、若い乙女に戻った語り部たちが「イン・ザ・ムード」の軽快なテンポにのって嬌声と共に華やかなジャズダンスを繰り広げ、ラストとなりました。
  これも「戦争体験」を新しい世代が語り継ぐ一つの試みなのだと思いながら、若さ溢れるダンスをまぶしく見ていました。同時に、歴史や戦争に翻弄された多くの女性たちに思いを馳せたとき、15年前に研究していた『旧唐書』の次の一節を思い起こしました。

 「渤海使、日本国の舞女十一人を献ず。」(『旧唐書』本紀・大暦十二〈777〉年)

 渤海国の使者が日本国の舞女11人を唐の皇帝へ献上したという記事ですが、この11人の舞女たちは、いつどのような事情で渤海国へ渡ったのでしょうか、
そして唐での運命はどうなったのでしょうか。史書は何も語っていません。歴史を学ぶ者の一人として、舞女たちの運命に心を痛めずにはいられません。
   久しぶりの観劇に、現代史と古代史がオーバーラップした瞬間でした。どうか、世界が平和へ向かいますように。世界の人々やこの娘達が幸福な人生でありますように。


第61話2006/02/04

「万世一系」の史料批判

 「学問はナショナリズムに屈服してはならない。」「日本国家のナショナリズムの欲望によって『歴史の真実』を曲げること、これは学問の賊である。」「学問は政治やイデオロギーの従僕であってはならない。『歴史の真実』を明らかにすることと、現代国家間の政治的利害を混同させてはならない。そのような『混同の扇動者』あれば、これに対してわたしたちは、ハッキリと『否(ノウ)』の言葉を告げねばならぬ。それがソクラテスたちの切り開いた、人間の学問の道なのであるから。」

 以上は古田先生の言葉です(『「君が代」、うずまく源流』新泉社・1991年)。昨今問題となっている皇室典範の改正について、「諮問会議」やら御用文化人、御用学者の跋扈ぶりは目に余るものがあると言ったら、はたして言い過ぎでしょうか。不遜を承知で言わしていただければ、こうした問題は世界の人々の面前で、広く学問的に歴史的に論議を尽くして合意形成をはかるべきテーマであるように思います。一内閣の意向や功名心でリードするべき問題とは思われません。
 そのような中で、皇位継承の根元的な問題の一つである「万世一系」について、古田先生が講演されることは、まことに時宜にかなったものです。古田史学の会では、来る2月18日(土)、大阪市の中央電気倶楽部において古田先生の講演会を開催します。演題は『「万世一系」の史料批判─九州年号の確定と古賀新理論(出雲)の展望─」。天皇家は本当に「男系」なのか等、歴史学的な考察と現代史的意義が語られると思います。多くの皆様のご来場をお願いいたします。ナショナリズムや政治・イデオロギーに屈服しない学問、古田史学の真骨頂が聞けます。


第51話 2005/12/04

『ダヴィンチ・コード』

 『ダヴィンチ・コード』。既に読まれた方も多いかと思いますが、近年世界的ベストセラーになった推理サスペンス小説です。わたしの勤務先には「社長室図書」というコーナーがあり、社長が読んだ本で社員にお奨めのものが自由貸出になっているのですが、そこに『ダヴィンチ・コード』があったので、最近読んでみました。うわさに違わず面白い。一気に読み終えたのです。通底するテーマとして古代キリスト教史が流れている本で、古田先生が研究されている「トマスの福音書」なんかも、ちらっと登場します。そして、読んでいるうちにキリスト教史の勉強にもなるという本でした。
 マグダラのマリアも扱われているので、さっそく木村賢司さんや西村秀己さんらにも紹介したのですが、西村さんからはメールで感想が寄せられ、面白いが真犯人がすぐにわかって、推理小説としてはいまいちという辛口のコメント。木村さんは水野代表にもこの本のことを教えられたようで、水野さんから電話で、古田先生にはもう紹介したのかとの質問。まだですというと、水野さんから紹介することになりました。その後、水野さんからメールが届き、古田先生は既に読んで持っているとのこと。先生の読書量とその幅の広さにはおどろきました。
 人間の好奇心は棺桶に入るまで留まるところを知らない、とは古田先生の言葉。先生ご自身にぴったりの言葉だなあと、あらためて思った今日でした。そして、今日から京都は本格的な寒さを迎えました。インフルエンザの予防接種も昨日済ませましたので、年末まで古代史の研究と仕事に頑張るぞ、と寒さに震えています

バチカン・ピエタ像の謎 木村賢司(古田史学会報61号)

マリアの史料批判 西村秀己(古田史学会報62号)


第46話 2005/11/11

「パリは燃えているか」
 京都は夕刻からずっと雨が降り続いています。雨の週末は原稿を書いたり、読書の時間に当てていますが、その時にはお気に入りのCDを聴きながらということが習慣となっています。以前はT-SQUAREのHISTORY(Welcome  to the Rose Garden収録、1995)をよく聴いていましたが、最近は加古隆さんの「パリは燃えているか」(NHKスペシャル「映像の世紀」テーマ曲)がお気に入りです。映像音楽の傑作といわれるこの曲は、皆さんも一度はお聴きになったことがあるのではないでしょうか。ちなみに、古田先生は中島みゆきの曲を聴きながら原稿を書いていたというお話を昔うかがったことがあります。わたしも中島みゆきは大好きです。
「パリは燃えているか」を聴いていると、フランスでの若者達の暴動が心配になります。パリ市には本会会員のOさん(モンマルトルの画家)もおられますので、なおさらです。
 ご存じの方も多いと思いますが、「パリは燃えているか」はヒットラーの言葉とされています。ノルマンディー上陸作戦以後、連合軍によるパリ解放が目前に迫ったとき、ヒットラーは部下の将軍にパリの徹底的破壊を命令します。しかし、その将軍は文明の遺産であるパリを破壊することを恐れ、命令に従わず連合軍に降伏します。そのとき、将軍への電話でヒットラーが叫んだ言葉が「パリは燃えているか」でした。
加古隆さんの名曲「パリは燃えているか」は人類の歴史と、その中で同じ過ちを繰り返す人間の悲しさが表現されています。わたしがこの曲を聴きながら歴史研究論文を書くというのも、何か深い縁があってのような気がします。
 今夜はまだ雨が降り続いています