現代一覧

第318話 2011/05/15

葵祭

今日は京都三大祭りの一つ、葵祭が執り行われました。祭の行列が拙宅の前の道(河原町通)を通りますので、数年に一度は見物しています。少しその様子をお知らせしましょう。
その年毎に選ばれる斎王代を乗せた牛車(ぎっしゃ)が大勢のお供を伴って、京都御所から下賀茂神社と上賀茂神社へと行列が進むのですが、かなり長い行列 で、先頭が下賀茂神社に到着しても、最後尾はおそらくまだ京都御所の中でしょう。ちなみに、行列の最先頭は京都府警のパトカーと警察騎馬隊です。最後尾に 祭の主役「斎王代」の牛車となるのですが、実は更にその後に軽トラが続きます。これは祭りに参加した馬や牛の糞を回収するための軽トラです。
ところで斎王代の牛車ですがかなり大きなもので、牛一頭ではとても長距離を引き続けることはできそうにありません。ですから、牛車のすぐ後に控えの牛が 続いています。しかしよく見ると、牛車は牛が牽いているというよりも、白装束に烏帽子姿の若い人が後から10人くらいで牛車を押しているのです。おそら く、 こうでもしないと牛が歩かないのだと思います。10年くらい前の葵祭では拙宅前で牛が動かなくなり、大変でした。その時もみんなで牛車を押したり、牛を 引っ張ったりしていました。
祭の主役は斎王代です。もともとは天皇の娘が斎王となっていましたが、その後、娘を手放すことに天皇が悲しまれ、貴族の娘が斎王代として選ばれるように なりました。現在では京都市内の娘さんが選ばれていますが、極稀に市外から選ばれることもありました。わたしが住んでいる上京区梶井町には斎王代を二人も 出している家があり、これは町内の秘かな自慢話の一つになっています。
葵祭の斎王代に選ばれることは、本人にとっても家にとっても大変名誉なことですが、同時に地元のマスコミになどで紹介され、口うるさい京雀からは、「今 年の斎王代はんはべっぴんさんやなあ」とか「御室の桜やなあ」と品定めされます。これも地元ならではの葵祭の楽しみ方の一つではありますが。なお、「御室 の桜」と言われて喜んではいけません。御室の仁和寺の桜は枝が低く、花も低い所に咲くことから、「花(鼻)が低い」と言われているのです。ご用心を。

第315話 2011/05/01

風評

最近、福島原発事故に関してマスコミなどで、「風評」や「風評被害」という言葉が頻繁に聞かれ ますが、わたしは間違った意味で使われているケースが多いように感じています。風評とは真実ではないこと(デマ)や不確かなこと(憶測)を真実であるかの 如く伝えることであり、風評被害とはそうしたデマにより蒙る被害のことと私は理解していますが、間違っているでしょうか。
ですから、風評や風評被害を防ぐためには、真実を発表することと、何が真実かを見極める力をつけることしかありません。そのために「学問」があるので す。ところが、福島県の学校が独自で測定した放射線量を発表すると、「風評被害を招くから余計なことはするな」と圧力がかかったり、児童を放射線被曝から 守るために校庭の汚染し た土を除去すると、本来なら率先して子供達を守らなければならないはずの文部科学大臣から「冷静に対応しろ」と横やりが入る始末です。
この国では、真実を発表したり真実と良心に基づいて行動すると、「風評」「風評被害」という言葉で非難される時代になったようです。これはとても残念なことですし、何よりも福島県の子供達がかわいそうです。
実はこうした風景をわたしたちは以前から見てきました。それは、今から40年前に『「邪馬台国」はなかった』を発表された古田先生が、その後「邪馬台 国」シンポジウムから排除されたり、学界では古田説はなかったこととして扱われたり、わたし自身も目撃しましたが、ある古代史の学会での質問時間のとき、 発言を求めて挙手し続ける古田先生を司会者が公然と無視するなど、古代の真実を訴え続ける古田先生に対してのひどい扱いの数々です。
それでも屈しない古田先生に対して、マスコミも利用した偽作キャンペーンを行うなど、恐らく大和朝廷一元史観の学者たちにとって、古田先生の存在や発言は「風評」や「風評被害」のごとく扱われ、恐れられているのではないかと思います。
真実や真実を語る者を「風評」「風評被害」として葬り去ること、それは一時的には「有効」な手段に見えるかもしれませんが、決して成功するものではあ りません。学問研究を通じて真実を解明し訴えていく、これこそ「古田史学の会」や古田学派の使命であり、そのことに生涯をかける人間はこれからも絶えるこ となく生まれ続けるからです。 

第309話 2011/03/21

鬼哭啾々、涙ひまなし

この度の大震災による被災地の惨状をテレビで見るたびに、鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)、涙ひまなしの毎日です。そうした中、本日、仙台の 佐々木広堂さ んからの電話で、南相馬市の青田勝彦さん(古田史学の会全国世話人)が御無事で宮城県に避難されているという連絡が入りました。本当によかったです。古田 史学の会・仙台の会の皆さん全員の御無事をお祈りしています。
「鬼哭啾々」とは杜甫の詩「兵車行」が出典で、戦地での悲惨な状況に鬼も啾々と哭(な)くという、「春望」(国やぶれて山河あり)と共に有名な詩です。こ の詩のように鬼も泣く戦地のような惨状の中、皆さんが力を合わせて頑張っておられる姿に心打たれ、また涙しています。
「涙ひまなし」とは日蓮遺文「諸法実相抄」が出典です。日蓮は佐渡に流罪となり、弟子等は土牢に入れられるという迫害の最中(文永十年、1273)、日蓮が弟子日浄に与えた書状です。
「現在の大難を思い続くるにも涙、未来の成仏を思うて喜ぶにも涙せきあへず。鳥と虫とは鳴けども涙落ちず。日蓮は泣かねども涙ひまなし。」
大弾圧の中で弟子等を思い涙する日蓮の心情が吐露された名文です。こうした弟子等を励ます手紙を、日蓮は流刑地の佐渡から数多くしたためています。

 


第308話 2011/03/20

東日本大震災

 この度の大地震・大津波でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。また、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。テレビなどを通じて知らされるこの災害の悲惨さに、語るべき言葉もありません。また、古田史学の会の東北地方在住会員の皆さまの御無事をお祈りするばかりです。
 古田史学の会全国世話人で仙台市の佐々木広堂さんとはようやく連絡がとれ、御無事であることを確認できましたが、同じく南相馬市の青田勝彦さんとは未だ連絡がとれません。とても心配しています。
 同日開催しました古田史学の会役員会では、被災地域である岩手県・宮城県・福島県の三県在住会員の2011年度会費を免除することを決定いたしました。既に御支払い済みの場合は2012年度会費として取り扱うこととします。
 昨日の関西例会では亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、参加者全員で黙祷を捧げました。発表内容は次の通りでした。

〔古田史学の会・3月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 国難 (豊中市・木村賢司)
(2) 白鳥さんと水主神社 (豊中市・木村賢司)
(3) 辟易 (豊中市・木村賢司)
(4) 古代史「道楽三昧」No,4の作成 (豊中市・木村賢司)
(5) 前期難波宮の九州王朝副都説についての疑問 (豊中市・大下隆司)
(6) 「邪馬壹国」は「女王国」ではない
ーー魏志倭人伝「不弥国」の新解釈 (姫路市 野田利郎)
(7) PC検索とDB活用 (木津川市・竹村順弘)
(8) 恵総と慧慈 (川西市・正木裕)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・白鳳朱雀年号の研究史・他(奈良市・水野孝夫)


第299話 2011/01/09

ホームページが文字化け

 新年の御挨拶を申し上げます。
 新年が古田史学や皆さまにとって画期の良き一年となりますように。

 さて、年末から古田史学の会ホームページが文字化けし、皆さまにご心配とご迷惑をかおかけし、お詫び申し上げます。契約しているプロバイダーのシステム改訂に伴うトラブルのようで、現在はほとんど復旧しているとのことですが、一部では依然として文字化けが続いているようです。インターネット担当の横田さんも全力で対応されており、今しばらくお待ち下さい。といっても、文字化けしている方々には読めませんが。(文字化けしている方は、F5キーを押せば一時的に復旧いたします。)

 昨日は大阪で恒例の古田史学の会新年賀詞交換会と懇親会を開催し、古田先生に最新の発見について御講演いただきました。本年、85歳になられますが、お元気なお姿に接し、多くの参加者の皆さまも喜んでおられました。講演内容もバイブル創生神話の男女神についての発見など、画期的なものでした。本当にすごい先生です。
 賀詞交換会には東京から多元的古代研究会和田事務局長様を始め遠方からの参加者も多く、新年の幕開けに相応しい和気藹々としたものでした。
 わたしの年頭の抱負としては、洛中洛外日記の執筆と、『古田史学会報』への前期難波宮研究論文の連載を続けたいと考えています。本年も皆さまのご指導とご協力をお願い申し上げます。


第295話 2010/12/04

平城宮大極殿に立つ

 先日、奈良の平城宮址に行ってきました。遷都1300年祭のイベントが終了した後だったので見物客もまばらで、復原された大極殿をゆっくりと見学することができました。
 平城宮址に行った目的の一つは大極殿の見学ですが、もう一つは先行して造られていた朱雀門を久しぶりに訪れることでした。というのも、この朱雀門建設の現場責任者で2009年1月に物故された飯田満麿さん(当時本会副代表・大林組OB)を偲ぶためでした。この大極殿完成を飯田さんも天国から喜んで見守って おられることでしょう。
 それではなぜわたしが大極殿を見たかったかというと、8世紀初頭における日本列島の代表者が君臨した宮殿と、中央集権的律令体制の官僚群が執務する朝堂の規模を体感したかったからなのです。
 710年に平城遷都した近畿天皇家は、その直前の列島の代表者たる九州王朝の権威と支配領域を「禅譲」であれ「放伐」であれ引き継いだのですから、九州王朝とほぼ同規模の宮殿と官僚組織、そして官僚達が執務する役所・官衙を有したはずです。それが平城宮の規模なのですから、逆説的に考えれば九州王朝も平城宮と同程度の官僚組織と役所・官衙が持っていたことになります。
 このような視点から7世紀後半の宮殿址・官衙址として九州王朝の都としてその条件を満たしている遺構は、まだ全貌が未調査の近江京を除けば、前期難波宮とその官衙群しかないのです。あるいは近畿天皇家の都とされる藤原宮だけなのです。
 このような論理性と考古学的事実に導かれて、わたしは見事に復原された平城宮大極殿に立った瞬間、前期難波宮九州王朝副都説の新たな論理的確信を深めたのでした。もしかすると亡くなられた飯田さんが、わたしを平城宮址に呼んでくれたのかもしれません。


第294話 2010/11/30

九州国立博物館の「大宰府政庁」

 7世紀後半創建説

 11月27日、母校の久米高専で開催されたバリアフリー研究会で、「北部九州にあった大和朝廷以前の王朝と年号」というテーマで講演しました。古田史学の真髄ともいえる邪馬壹国説や九州王朝説について解説したもので、参加者からは驚きをもって賞讃の意見や熱心な質問が寄せられました。
 参加者の多くは久留米高専の教官やOBなど理系の人々でしたが、久留米市役所・大野城市役所からの参加者や佐賀大学・熊本学園大学の先生も見えておら れ、 業種を超えた同研究会の多彩な顔ぶれを前にしての講演は、わたしにも刺激的な経験となりました。招いて頂いた恩師の鳥井先生を初め関係者の皆さまに感謝申 し上げます。
 翌日、久留米市を後にしたのですが、来春に迫った九州新幹線全面開通に備えてリニューアルされたJR久留米駅の観光案内のフロアで、「九州国立博物館& 太 宰府天満宮」(監修・協力 太宰府天満宮・九州国立博物館・太宰府市・太宰府観光協会)というパンフレット(無料)を手に取ったのですが、そこに興味深い 紹介記事がありました。
 それには写真入りで「大宰府政庁」が紹介されており、その解説として、「7世紀後半、九州の政治の中心地、防衛と外交の拠点としての役割を担って創建された大宰府政庁。」とあったのです。恐らくはパンフレット監修に関わった九州国立博物館の見解に基づいた解説と思われるのですが、一元史観による従来説では、大宰府政庁は8世紀初頭に大宝律令下の役所として創建されたとするものでしたから、明らかに従来説とは異なった解説となっているのです。
 しかも7世紀後半の創建とするのであれば、大和朝廷初の条坊都市藤原京と同時期かそれよりも早い創建となります。さらに、井上信正氏の研究によれば、大宰府政庁よりも太宰府条坊の方が早いことが明らかになっていますから、日本最初の条坊都市は藤原京ではなく太宰府であることを認めたことになるのです。こ のことを意識した上での解説なのかどうかはわかりませんが、太宰府条坊編年の最新研究を地元の九州国立博物館が知らないはずがありませんので、観光案内用と はいえ、このパンフレットは通説に一撃を加える貴重な「宣言」と言えるのではないでしょうか。思わず、「頑張れ、九州国立博物館。九州王朝説まであと一歩 だ」とエールを送りたくなるパンフレットでした。


第291話 2010/11/13

母校、久留米高専で講演

来る11月27日(土)、わたしの母校である国立久留米工業高等専門学校(福岡県久留米市)で古代史の講演をすることになりました。学生時代に有 機合成化学を教えていただいた恩師、鳥井昭美先生の要請によるものです。ちなみに、わたしの卒業研究は鳥井研での「アクリジン関連化合物の合成と反応性の 研究」でした。
鳥井先生は同校を退官された後も、「高専シンポジウム」などの教育活動に長く関わられており、日本化学会教育賞も受賞されています。その恩師の要請と あっては断れないどころか、専攻した化学ではありませんが、母校で日本古代史の講演ができるのですから、大変名誉なことと感謝しています。
主催は鳥井先生が立ち上げられた「バリアフリー研究会」で、異業種交流などを目的とした卒業生や在校生による研究会です。もちろん講演内容は古田史学・ 九州王朝説の紹介です。理系の人々への講演なので、初歩的な説明から行いますが、理系の論理的な頭脳は古田史学を理解し支持されるであろうことを確信して います。およそ三十年ぶりに訪れる母校に、今からドキドキしています。


第283話 2010/09/26

「洛中洛外日記」の出版構想

9月23日に水野代表宅で『古代に真実を求めて』14集の編集会議を行いました。採用稿の選考などを行った後、ひとしきり古代史談義の花が咲き、今後の「古田史学の会」運営などの雑談会となりました。
その中で、太田副代表より各人が著書を出版したらどうかとの意見が出されましたので、わたしとしてはこの「洛中洛外日記」をきりの良い時点で出版する考 えのあることを述べました。本にしておくと読み返すのに便利ですし、自らの思考や研究の変遷などを確認したり整理するのにも好都合ですから。
幸いにして、「洛中洛外日記」はわたしの予想以上に好評を博しているようですし、古田史学や「古田史学の会」の歴史を記録する役割も少しは果たしていますので、書籍として後世に残しておいても許されるのではないかとも思っています。
他方、関西例会等に参加できない遠方の会員から、「洛中洛外日記」の更新頻度を上げて欲しいという有り難い声も頂いていますが、新発見や新たなアイデ ア、古田学派内のニュースに触れた内容にすることを心がけていますので、今の程度の更新ペースになってしまいます。仕事が忙しいのを理由にはできません が、出張などが続くと、さすがに歴史研究にまで頭がまわらないのが実状です。
とは言え、「洛中洛外日記」の執筆はわたし自身の知的刺激にもなっていますので、これからも頑張って書き続けます。ご批判も含めた叱咤激励をお願いいたします。


第280話 2010/09/12

ドラッカーと古田武彦

 最近、仕事上の必要性からピーター・F・ドラッカーの著作やその解説書を集中して読んでいます。ご存じの通り、ドラッカーは「経営学の父」「20世紀を代表する知の巨人」と称されている人物ですが、その難解な表現や概念に悪戦苦闘しながら読み進めています。
 難解ではあるのですが、その論理性や学問の方法が古田先生から教えられたフィロロギーの手法と相通じるものがあり、読んでいて大変波長があうのです。特
にドラッカーは歴史学者でもあり、その深い洞察力には驚かされ、勉強になります。もっと早くから読んでおけばよかったと少なからず後悔していますが、今か
らでも遅すぎることはないと毎日のように貪り読んでいます。
 そんな中、一昨日は『知の巨人ドラッカー自伝』(日経ビジネス人文庫)を読み終えました。それでドラッカーと古田先生との面白い共通点があることを知り
ました。たとえば、古田先生の初期三部作『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(朝日新聞社刊。ミネルバ書房から古田武彦コレ
クションとして最近復刻されました)は有名ですが、ドラッカーにも初期三部作というものがあるそうです。『経済人の終わり』『産業人の未来』『会社という
概念』の3冊です。
 中でも、ドラッカーの処女作『経済人の終わり』は、台頭するファシズムや全体主義を批判し、ナチスドイツとソ連が手を組むと予想していたため、左翼や共
産主義者の妨害にあい出版の引受先がなかなか見つからなかったとのこと(1939年の出版の半年後、独ソ不可侵条約が締結され、ドラッカーの予言は的中し
ました)。  
 古田先生の親鸞研究の名著『親鸞思想』も真宗教団の圧力により、当初出版予定していた京都の某書肆からは出版予告までしておきながら出版されなかったと
いう歴史があり、この点もドラッカーとの共通点の一つでしょう(『親鸞思想』は後に冨山房から出版され、明石書店から復刻されました)。
 ドラッカーの信望者を「ドラッカリアン」とよぶそうですが、それに習えば私は「フルタリアン」ですが、もうすぐ「ドラッカリアン」にもなりそうな予感を持ちながら、酷暑の京都でドラッカーを読んでいます。


第264話 2010/05/16

「四天王寺」瓦と「天王寺」瓦

 昨日の関西例会で、わたしは谷川清隆氏らの論文「七世紀:日本天文学のはじまり」(『科学』vol.79 No.7)と「七世紀の日本天文学」(『国立天文台報』第11巻3・4号、2008年10月)を紹介し、『日本書紀』に記されている天文現象記事についても多元史観によらなければ正確な理解はできないことを説明しました。
 また、現在の四天王寺は、元々は九州王朝が倭京二年(619年)に創建した天王寺だったとする私の仮説を裏づける四天王寺出土瓦について報告しました。それは四天王寺から「四天王寺」と「天王寺」の銘文がある瓦が出土しているというものです。この考古学的事実は四天王寺が、ある時代に天王寺と呼ばれていた物的証拠と言えます。詳細は今後調査の上発表したいと考えています。
 5月の関西例会での発表は次の通りでした。竹村さんからは、古代山城などをテーマとした四つの発表がありました。配られた資料も研究に役立つものでした。

〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 屋島城をちょこっと見た・他(豊中市・木村賢司)

2). 西暦年の干支算出表(交野市・不二井伸平)

3). 古田史学の未来とインターネット(東大阪市・横田幸男)

4). 古田史学の会に参加して(東大阪市・萩野秀公)

5). 「古代天文学」の近景(京都市・古賀達也)

6). 『二中歴』教到年号の「舞遊始」(川西市・正木裕)
 『二中歴』九州年号「教到」(531〜535)細注「舞遊始」は、九州王朝が同時期、新羅討伐戦に備え全国に屯倉を設置し、これを記念し「楽を作し」た事を記すもの。
  (論拠)『日本書紀』安閑2年(535)に「駿河国稚贄屯倉」始め13国27箇所の屯倉設置記事、安閑元年に「楽を作して、治の定まることを顕す」との記事がある。
 また、本居宣長『玉勝間』に「教到六年(536)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し」これが「東遊」の起源と記す。(本会の冨川ケイ子氏・古賀達也氏指摘)。稚贄屯倉と宇戸ノ濱(宇東)は共に静岡県吉原地区にあり、これらの記事は時期も一致し、「教到」は九州年号であるから、九州王朝は稚贄屯倉設置を記念し現地で筑紫の舞楽を奏し、これが「東遊」の起源となったと考えられる。また、謡曲「羽衣」からも「東遊」が駿河外(筑紫)から持ち込まれたとすると論じた。
(「本居宣長『玉勝間』の九州年号 ーー『年代歴』細注の比較史料」古賀達也 古田史学会報64号より)

7). 前期難波宮と高安城(木津川市・竹村順弘)
8). 紀行感想文「久米評官衙を訪ねてみて(木津川市・竹村順弘)
9). 「鬼ノ城」村上論文に関して(木津川市・竹村順弘)
10).蛇足・讃岐と播磨の古代山城(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・伊勢島風土記逸文・他(奈良市・水野孝夫)
○関西例会会計報告(豊中市・大下隆司)


第263話 2010/05/09

「古代天文学」の近景

 今日は岡崎にある京都府立図書館に行って来ました。東山の新緑が間近にせまり、朱色の平安神宮とのコントラストが一番美しい季節です。今回の目的は岩波書店から出されている雑誌『科学』vol.79 No.7(2009.7)の閲覧とコピーでした。一年近く前の発行ですが、そこに掲載されている谷川清隆氏・相馬充氏(国立天文台)の論文「七世紀:日本天文学のはじまり」を再確認しておきたかったのです。
 以前、同論文の原稿を紹介され読んでいたのですが、恥ずかしながらその時は同論文の持つ重要性をわたしは理解できていませんでした。今回、読み直してみて、同論文の持つ真の意味と、著者の意味深長なメッセージにやっと気づいたのです。
 谷川氏らの主張は、現代天文学の成果により、古代の天文現象の再確認精度が向上し、『日本書紀』見える日食・月食・彗星などの天文現象記事が実際の観測
に基づいたものかどうか再検証が可能となったが、その結果、次のことが明確になったとされています。
 1). 『日本書紀』によれば天文観測が実際に開始されたのは推古紀の途中(620年)記事からであり、日本の天文観測はこの頃に開始されたと認められる。
 2). 森博達氏の研究により『日本書紀』は正統漢文で記されたα群と倭習漢文で記されたβ群、それとどちらかわからない持統紀に分けられるが、α群には観測記事がなく、β群の記録は観測に基づいている。
 このような指摘を行い、谷川氏らは次のように締めくくられます。
 『隋書』に見える倭国の天子、多利思北孤の記事から、この時、倭国は中国の冊封体制から独立し、その代わり自前の暦を作る必要から(中国から暦を貰えなくなるため)、天文官を置き、天体観測を開始したのではないか。
 α群に天文観測記録がないのはなぜか。α群に属する皇極・孝徳・斉明・天智の時代30年間は観測しなかったのか。天文官はその間何をしていたのか。
 α群β群はもともと言語学的分類だったが、天文観測の有無がこの分類に合致した。この現象は著述者の違い(中国人か日本人か)にだけに押し込めておくには問題が大きすぎる。
 持統天皇になると日食観測をしなくなる。なぜか。
 日本の律令制度は701年の大宝律令に始まると習ったが、620年に始まる天文観測と律令制度との関係はどうか。
 このように谷川氏らは『日本書紀』の天文観測記事から導かれた諸疑問を列挙され、「謎はふかまった?」と同論文を終えられるのです。
 もう、おわかりでしょう。『日本書紀』の天文観測記事は大和朝廷一元史観では謎だらけであると、暗に指摘されているのです。もはや、私には疑うことがで
きません。谷川氏らは古田史学九州王朝説をご存じであることを。そして、多元史観・九州王朝説でしかこの謎は解けませんよと、読者に意味深長なメッセージ
を送られているのではないでしょうか。
 古田史学支持者に自然科学系の人が多いことは著名です。天文学の分野でも、オランダのユトレヒト天文台に勤務されていた難波収さんもそのお一人です。自
然科学(天文学)の人間が文献史学との接点ともいえる「古代天文学」に於いて、新たなメッセージを発信し始める。そのような時代となったのです。なお、わ
たしは門外漢のため天文学界のことは存じませんが、谷川氏は高名な天文学者とのことです