現代一覧

第230話 2009/10/11

『古田史学会報』94号の紹介

 『古田史学会報』94号が発行されました。今回より会報の編集割付作業を西村秀己さん(古田史学の会全国世話人)に担当していただけることになり、大変助かっています。本当に有り難いことです。なお、投稿は引き続き古賀までお願いします。
 最近、長文の投稿が続いていますので、ページ数の関係で後回しになるケースが出ています。基本的にはよほどの問題(事実誤認・品位に問題がある場合・同
様の先行説がある場合・他)がなければ、会員からの投稿は掲載する方針ですので、掲載が遅れることについてはご了解下さい。逆にいえば、空いたページを埋
められる短文原稿は早く採用される可能性が大きいことになりますし、編集部としても短い原稿は、割付作業上から大歓迎です。
 94号でも、正木さんは「『日本書紀』の34年遡上」という視点で新説を快調なペースで発表されています。松山の合田さんは伊予の伝承・史料に基づいて新たな発見を展開されています。独自の視点や方法論を持っている論客の強みが発揮されているようです。

  『古田史学会報』94号の内容
○韓国・扶余出土木簡の衝撃
  —やはり『書紀』は三四年遡上していた— 川西市 正木 裕
○観世音寺出土の川原寺式軒丸瓦 生駒市 伊東義彰
○「娜大津の長津宮考」 
  —斉明紀・天智紀の長津宮は宇摩国津根・長津の村山神社だった— 松山市 合田洋一
○防人について 千歳市 今井俊圀
○天武九年の「病したまふ天皇」
  —善光寺文書の『命長の君』の正体— 川西市 正木 裕
参考 「君が代」の「君」は誰か」−倭国王子「利歌弥多弗利」考 古賀達也(古田史学会報 1999年10月11日 No.34)へ

○淡路島考(その2)
  —国生み神話の「淡路洲」は九州にあった— 姫路市 野田利郎
○弔辞 力石 巌さんの御逝去を悼む  古田史学の会 古賀達也
○割付担当の穴埋めヨタ話(1) 平仮名と片仮名 西村


第228話 2009/09/26

ウィキペディアの限界と可能性

 読者の皆さんはよくご存じのことと思いますが、インターネット上の読者参加で編集される「辞書」ウィキペディア(Wikipedia)は、わたしもちょっとした調査などに利用しています。ところが最近、インターネットの普及に伴い、古田史学の会会員の方が論文執筆においてこのウィキペディアを論証根拠の出典資料として利用掲載されるケースが出てきています。
 検索や調査ツールとしてウィキペディアを利用されるのはいいのですが、学術論文などに引用出典として使用されるのは、いかがなものかと思います。少なくとも、わたしの友人がそのような使用を論文でされている場合は、止めるように忠告しています。それは次のような理由からです。

1.執筆者(編集責任者)が不明。
2.書き換えが可能で、後日再確認が困難なケースが想定される。
3.文献史学で重視される1次史料ではなく、2次3次史料に相当する。
4.記載内容の学問的レベルが判断できない。

 などです。特に1〜3は「引用文献」としては致命的欠陥で、論証の根拠としては使用されないほうが賢明です。面倒でも原典(1次史料)に研究者自らがあたるべきです。しかし、そうした限界を知った上で節度を持って上手に利用できれば、大変便利なツールであることには違いありません。更に、大勢の「執筆者」により編集されることは、個人では調査しきれない資料が紹介されているケースもあり、長所も備えています。インターネットの時代ですから、上手に用心深く利用されることをお奨めします。そして、やはり自ら史料にあたるという文献史学の基本的研究姿勢を大切にしていただきたいものです。


第207話 2009/02/28

九州王朝の物部

 2月21日の関西例会で、わたしは九州王朝の一時期の王が物部であったとする仮説を発表しました。根拠の一つは、記紀に特筆されている「磐井の乱」を物部アラカイが平定したとする記事の目的は、701年以前に九州を統治していた物部は、継体天皇の時に近畿から派遣した物部の末裔とすることにあった、と考えざるを得ないという点です。
 まだ論証不十分な仮説ですが、発表の翌日に古田先生の御意見をうかがったところ、ほぼ同見解であるとのことで、意を強くしました(もちろん異なっている点もありました)。とは言っても、まだ検証しなければいけない問題もあり、慎重に扱うべきテーマでもあります。
 2月例会の発表は次の通りでした。木村さんの「共存共枯(衰)」という発表は現在の派遣切りなどに対する厳しい批判で、まったくその通りと思いました。関西ハイキングが4月で100回を迎えることになり、小林さんからはその計画発表があり、感慨を深くしました。古田史学の会と関西例会の益々の発展を願って止みません。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 共存共枯(衰)(豊中市・木村賢司)
2). お伽話と歴史─一寸法師と近畿王朝─(向日市・西村秀己)
3). 四人の倭建(大阪市・西井健一郎)
4). 九州王朝と和名抄(木津川市・竹村順弘)
5). 関西ハイキング100回記念「吉備遺跡めぐり」の案内(神戸市・小林嘉朗)
6). 『海島算経』の短里(たつの市・永井正範)
7). 「磐井の乱」はなかったか─『古事記』継体記の史料批判─(京都市・古賀達也)
8). 常色五年(651・書紀白雉二年)の九州王朝の歴史について(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・明日香発掘現地説明会・他(奈良市・水野孝夫)


第193話 2008/11/02

モンマルトルの画家、奥中清三さん

 10月18日の関西例会の日、わたしは尾道に行って来ました。本会会員で、パリ市モンマルトルの画家、奥中清三さんによる「パリ在36年展」が尾道市の画廊で開催され、招待状を頂いていたからです。もちろん、4年ぶりに奥中さんとお会いするのも楽しみでした。

 奥中さんは古田先生の永年のファンで、邪馬壹国の「壹」の字をモチーフとした数多くの作品を描かれています。今回の展示にも多くの作品中に「壹」の字が 描かれていました。「裸国の娘」というテーマの作品には魏志倭人伝の一節が描き込まれているほど、古田説や古田先生のことをご存じです。古田先生の著作 『「姥捨て伝説」はなかった』(新風書房)には奥中さんの絵が掲載されており、ご存じのかたも少なくないと思います。
 奥中さんはとても温厚な紳士で、かつ絵への情熱とその作品は素晴らしく感動的です。そんに奥中さんとの久しぶりの再会でしたが、「壹」に続く新たなモチーフを捜しておられることなどをうかがうことができ、さわやかなひとときを過ごしました。その為、当日の関西例会にはギリギリの午後4時頃に滑り込み、「太宰府条坊」というテーマで太宰府条坊跡から発見された牛車の轍や人の足跡について報告しました。
   10月例会の内容は次の通りですが、西村さんや正木さんの大化改新に関する発表はすごいものだったらしく、会報への寄稿を依頼しています。お楽しみに。
 
  〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 理解と同意・他(豊中市・木村賢司)
  2). 九州海岸部の遺跡めぐり(木津川市・竹村順弘)
  3). なぜ大化は50年ずらされたのか(川西市・正木裕)
  4). 中皇命は薩野馬説(川西市・正木裕)
  5). 会報88号太田論稿の一部訂正(奈良市・太田斉二郎)
  6). 日本書紀・乙巳の変〜大化改新(向日市・西村秀己)
  7). 古代に真実を求める「よすが」について(たつの市・永井正範)
  8). 塩屋連コノシロの「右手をして国の宝器・・」なにを意味するか(川西市・正木裕)
  9). 有馬皇子謀反記事の難波宮・難波副都(川西市・正木裕)
  10).太宰府条坊(京都市・古賀達也)
 
  ○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・小野毛人墓誌・他(奈良市・水野孝夫)


第180話 2008/06/28

会して議せず

 拙宅が御所の近所のため、この一週間は8カ国外相会合の警備で、警察だらけでした。しかも、他府県の警察だらけで、西日本一帯から駆り出されたようです。
一番目に付いたのは大阪府警でしたが、岡山県警、福岡県警、島根県警のお巡りさんも御所の各門を警備されていました。まるで、幕末の御所警備に各藩の藩士が動員されたような感じでした。
 両陛下が見えられる時でも、これだけの警備はされません。ブッシュ大統領以来のものものしい警備体制でした。もっとも、おかげで路上駐車は減り、町内の治安は抜群でした。
 ところで、今回の「外相会合」ですが、当初、わたしは「外相会議」かと思っていました。 しかし、テレビでも新聞でも「外相会合」とされており、変な表現だなと違和感を持っていたのですが、もしかすると「会合」の方が正確な表現かもしれません。すなわち、「会して議せず」のため、「会合」と命名されたのではないでしょうか。誰が最初に考えたのかは知りませんが、なかなかの「妙訳」だと思います。どうせ、大国のエゴや利害がからんで、まともには「議」せないのでしょうから。あるいは「議して決せず」かもしれません。

 話は変わりますが、7月12日(土)に東京(文京区民センター)で講演します(多元的古代研究会主催)。テーマは「九州年号研究の最先端 ー前期難波宮、九州王朝副都説の展開ー」です。九州年号研究のこの10年間の成果と、それに基づく7世紀の九州王朝史復原を試みます。前期難波宮から大化改新にせまり、九州王朝と近畿天皇家の王朝交代を中心テーマに発表します。ご期待下さい。


第156話 2008/1/4

松本郁子著

『太田覚眠と日露交流
  — ロシアに道を求めた仏教者』

 あけまして、おめでとうございます。
 この年末年始は、テレビで「のだめカンタービレ」の再放送を見て過ごしました。娘が高校のオーケストラでファゴットを演奏していることもあって、オーケストラドラマの「のだめカンタービレ」を家族で見ました。なかなか、面白いドラマで、いつか時間があれば原作(漫画)も読んでみたいものです。ちなみに、このドラマのテーマ曲であるベートーベンの7番は私が大好きな曲です。
 それともう一つ、松本郁子著『太田覚眠と日露交流−ロシアに道を求めた仏教者』(ミネルヴァ書房)を著者からいただき、読んでいますが、この本は太田覚眠研究の名著というにとどまらず、アウグスト・ベエグ、村岡典嗣、古田武彦と続くフィロロギーの学問を継承した一冊です。古田史学、とりわけ日本思想史の分野に関心を持つ者には必読の一冊であることを断言します。
 ロシア語に堪能な若き著者は、日本国内は当然のこととして、ロシアまで史料探索を行っており、その結論だけではなく、学問の方法が見事です。しかも、その文章力により、読みやすく、面白く感動的です。まるで、古田先生の著書を読んでいるかのような錯覚さえ覚えました。
 著者の松本郁子さんは、これからもロシアへ赴き調査を続けると言われており、早くも続編の刊行が楽しみです。新年最初の読書に相応しい本でした。

松本郁子氏研究の一部分は古田史学会報により読むことが出来ます。

例 太田覚眠における時代批判の方法ー昭和十年代を中心としてー
(古田史学会報六五号)


第151話 2007/11/11

伊賀上野、芭蕉翁記念館を訪ねる
 昨日は伊賀上野までドライブし、芭蕉翁記念館を訪れました。当初の予定では天理から名阪国道を通るつもりでしたが、初心者には名阪国道は危険(時速60kmの速度制限にもかかわらず、トラックが100kmでビュンビュンとばすらしく、死亡事故も多い)とのアドバイスもあり、木津川沿いのルートを選びました。
 このドライブの一番の目的は芭蕉の生誕地伊賀上野の芭蕉翁記念館で「芭蕉かるた」を買うことでした。お城の一角にある俳聖殿と芭蕉翁記念館に足を運びましたが、記念館では「芭蕉と土芳」展が開催されており、良いタイミングでした。そこで「俳聖かるた」(800円)等を買いました。ところが、欲しかった「芭蕉かるた」とは別物であることを帰宅してから気づきました。「俳聖かるた」は芭蕉以外にも弟子の去来、そして蕪村・一茶の俳句からなっており、これはこれで良い買い物でしたが、「芭蕉かるた」は別にあるようなのです。もう一度伊賀上野に行くことにしたいと思っています。
 古田先生の影響で、わたしは芭蕉に興味を持つようになったのですが、古田先生からいただいた『俳諧問答』(岩波文庫)は貴重な宝物となっています。この本は、1996年に『奥の細道』自筆本の発見が話題となり、翌年、津市の博物館でその「自筆本」が展示されたので、古田先生と一緒に見学に行ったおりに頂いたものです。
 それには古田先生のサインとともに、次のような言葉が綴られています。初めてご紹介することにします。
  「−蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)−
   変る人々多き中、変らぬ心をお寄せいただくこと、この生涯最大の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中。」
 冒頭の「蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)」の意味を知りたい方は、是非『俳諧問答』第三章をお読み下さい。当時は、和田家文書偽作説論者による古田攻撃が猖獗を極めたときでした。


第147話 2007/10/09

甲良神社と林俊彦さん

 先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。
 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。
 わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第9集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。
 この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが10月5日、脳溢血で亡くなられました。まだ55歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。7日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。


第144話 2007/09/23

藤樹神社を訪ねて

 昨日はヴィッツを借りて滋賀県へドライブしてきました。三連休の初日ということもあって、ラクティスやプリウスなどの希望車種は予約が満杯で借りることができませんでした。

 今回のドライブの前半では、洛北八瀬大原から途中トンネルを抜け、朽木村を通り、高島市の藤樹神社を訪ねました。言わずと知れた、近江聖人中江藤樹 (1608〜1648)を祀った神社です。神殿を参拝した後、境内にある藤樹記念館を見学。改めて偉大な人物に触れることができ、感動しました。藤樹関連書籍が販売されていましたので、『中江藤樹のことば−素読用』中江彰編を買い、読んでいます。その後、近くにある藤樹の墓所にも寄って、手を合わせまし た。
   『中江藤樹のことば−素読用』の中から、特に印象に残った言葉をご紹介しましょう。
 
    千里をかよう誠(まこと)
  思ひ出は学びし本(もと)の心より千里を通う誠忘るな。(和歌「森村叔の行を送る」)
 
 遠くから藤樹に学びに来た門人へ宛てた和歌で、学んだ中味よりも、遠い近江の僻遠の地にやってきた、そのまことの心を決して忘れてはならない、という内 容です。古田史学の会関西例会へ、相模原市から新幹線で毎月参加される冨川ケイ子さんのような熱心な門人がいたのですね。
 
    同志の交わり
  同志の交際は、恭敬を以て主と為すべし。和睦を以てこれを行ひ、一毫も自ら便利を択(えら)ぶべからず。もとって勝たんことを求むるなかれ。(「学舎坐右戒」)
 
 同志は、たがいにうやうやしい態度で接すること。なかむつまじく、いささかも自分の都合勝手なことをしてはならない。心ねじけて人に勝つなかれ、という 内容は深く考えさせられます。古田史学の会の会員は同志のようなものですから、この藤樹の言葉を私も噛みしめたいと思いました。


第142話 2007/09/09

中村中を聴く
 わたしが30年来の中島みゆきファンであることは、ことあるごとに言ってきましたが、この何ヶ月か毎日のように聴いているのが、中村中(なかむら・あた
る)です。まだ二十歳そこそこの若いシンガーソングライターですが、初めてのアルバム「天までとどけ」は素晴らしいアルバムです。中でも「友達の詩」「風
になる」は後世に残る名曲だと思います。中島みゆきがデビューした時と同じくらいの才能を感じさせてくれるミュージシャンです。

   ところで、この「中村」という苗字は福岡県、とりわけ筑前に大変多い苗字です。わたしの学生時代のクラス(久留米高専工業化学科11期)には中村君が3人もいました。福岡県には那珂川や那賀川町もありますし、お隣の佐賀県には中原村(なかばる)がありました。
 わたしのカンですが、この「なか」という地名や苗字は、『万葉集』に見える九州王朝の人物である中皇命(なかつすめらみこと)と関係するのではないで
しょうか。もしかすると、中村さんや那珂川・中原の「なか」と中皇命の「なか」は淵源を同じくするものと思われてなりません。論証は困難ですが、大きくは
外れていない様な気がします。いかがでしょうか。


第129話 2007/04/29

難波収さんとの一夕

 第107話「弥生の高層建築」で紹介した難波収さんが、オランダから一時帰国され、京都に逗留されていたので、昨夕、二人で遅くまで食事とお酒と会話を楽しみました。この5月には81歳になられる難波さんは、古くからの古田先生の支持者です。帰国されたときは、お会いし親交を暖めています。
 私からは古田史学の会や古田史学を取りまく状況をお話し、難波さんからは今の日本を憂慮するお話をお聞きするのが常となっています。「日本の政治家はダメだが、食べ物は旨い」とおっしゃられていたのが印象に残りました。また、オランダの知人が書かれた本「わたしは誰の子−父を捜し求める日系二世オランダ人たち」葉子・ハュス−綿貫著(梨の木舎、1800円+税)をいただきました。前の戦争の傷跡が現在も深く残っていることを改めて認識させられる本のようです。この連休にしっかりと読みたいと思います。
 難波さんとお会いできるのは、次はいつになるのでしょうか。夜のバス停で何度も別れの握手をかわしました。
 ところで、ちょっと遅くなりましたが、21日に行われた4月例会の発表内容をお知らせします。

〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1. この俺が・・(豊中市・木村賢司)
  2. 倭と日本のよみ方(木津町・竹村順弘)
  3. 「泣澤女神」と「狭狭の小汀」の関係(大阪市・西井健一郎)
  4. エクアドル〈縄文・弥生〉のフォロー I(豊中市・大下隆司)
  5. 『日本書紀』の記事の長さ(相模原市・冨川ケイ子)
  6. 「大化改新」虚と実(奈良市・飯田満麿)
  7. 安日は神武によって東日流に放逐された(奈良市・太田斉二郎)
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・『倭姫世記』の淡海浦論証追加・他(奈良市・水野孝夫)


第65話2006/03/04

「古田史学の会・東海」

 このホームページでご紹介していますように、「古田史学の会・東海」のホームページが新たに開設されました。是非、のぞいてみて下さい。古田史学の会の本部機能(事務局は京都の拙宅)は「関西の会」が受け持っていますが、会員が集中している地域には独自に地域の会があり、例会活動などが行われています。そのうちの一つが「東海の会」として「古田史学の会・東海」を名乗っています。代表者は林俊彦さん(本会・全国世話人)です。昨年は、わたしも名古屋市での「古田史学の会・東海」の例会で講演させていただきました。本年も機会があれば、また行きたいと思っています。
 東海の他にも、「古田史学の会・北海道」「古田史学の会・仙台」「古田史学の会・四国」そして「古田史学の会・関西」で例会活動などが行われています。関東地区は友好団体の多元的古代研究会と東京古田会がありますので、古田史学の会としては組織的な活動を行っていません。長野県松本市にはやはり友好団体の「古田史学の会・まつもと」がありますが、こちらは当会とは別の独立した会です。
 本会の地域の会の連絡先は下記の通りです。ご近所の方で例会などに参加してみたいという人は一度ご連絡下さい。

2016年6月 改訂

地域の会の連絡先は、責任者が代わっていますの削除。

2019年 3月

「古田史学の会・東海」(http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/index.htm)のホームページが替わりました。