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第2054話 2019/12/11

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(3)

 三宅利喜男さんは「市民の古代研究会」時代からの古田先生の支持者で、優れた古代史研究を発表されてきました。「古田史学の会」創立後には、反古田に変質した「市民の古代研究会」に見切りをつけて、「古田史学の会」へ参加されました。また、小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)のお話では、「古田史学の会・関西」の遺跡巡りハイキングの第1回目からの参加者(案内役)だったとのことです。
 三宅さんの研究論文で、最も衝撃を受けたものが「『新撰姓氏録』の証言」(『古田史学会報』29号、1998年12月)でした。『新撰姓氏録』に記された古代氏族の祖先が、特定の天皇に集中していることを指摘された論稿で、古田先生も天孫降臨の時代を推定する上で、優れた研究と評価されていました。
 こうした三宅さんの研究業績を埋もれさせることなく、この機会に顕彰したいと考え、インターネット担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)に相談したところ、下記のように「三宅利喜男論集」をホームページ「新・古代学の扉」内に開設していただきました。是非、皆さんも見てみて下さい。

暫定リンク版【三宅利喜男論集】

1.「新撰姓氏録」の証言
『古代に真実を求めて』第三号(二〇〇〇年十一月)より現在編集中、本人の了解が取れれば発行します。
 要旨は、『古田史学会報』二十九号「『新撰姓氏録』の証言」と、『古田史学会報』四十七号「続『新撰姓氏録』の証言 — 神別より見る王権神話の二元構造」に記載されています。

2.小林よしのり作 漫画『戦争論』について
『古田史学会報』二十九号(一九九九年二月)

3.『播磨国風土記』と大帯考
『市民の古代』第十三集(一九九一年)

4.九州王朝説からみる『日本書紀』成書過程と区分の検証
『市民の古代』第十五集(一九九三年)

5.続『日本書紀』成書過程の検証 — 編年と外交記事の造作
『市民の古代』第十六集(一九九四年)

【書誌目録】

1.続『新撰姓氏録』の証言〔古代史の海(26), 59-61, 2001-12〕

2.音韻と区分論(特集 渡部正理氏の「『日本書紀の謎を解く』への疑問」)〔古代史の海(24), 13-15, 2001-06〕

3.『新撰姓氏録』の証言 三宅利喜男〔古代史の海(22), 31-36, 2000-12〕

4.「日本書紀」書き継ぎ論–『古事記』未完論に寄せて〔古代史の海(12), 60-69, 1998-06〕

5.主神論〔古代史の海(9), 42-47, 1997-09)

6.『日本書紀』に現れる古代朝鮮記事〔古代史の海(4), 55-59, 1996-06〕

7.倭の五王は大阪に眠る(越境としての古代3 , 2005-05)

他の書誌および『市民の古代研究』などは、後日確認いたします。


第2053話 2019/12/09

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(2)

 正木さんからの返事によれば、三宅利喜男さんは2015年に退会されておられ、恐らくご高齢による退会と思われるとのことでした。確かに三宅さんは古田先生よりも年上と記憶していましたので、今では94歳になられていることと思います。会員名簿に残っている電話番号に電話をかけましたが、今は使われていないとのアナウンスが返ってきました。もし、三宅さんの現在の連絡先かご家族ご親戚をご存じの方がこの「洛中洛外日記」を読んでおられましたら、ご一報いただけないでしょうか。
 わたしが、テレビで三波春夫さんを見て、三宅さんのことを思い出したのは次のような経緯があったからです。終戦間際、三宅さんは十代の青年将校として朝鮮半島・満州方面に配属され、そのとき、三波春夫(1923-2001、本名:北詰文司)さんが同じ連隊におられ、浪曲師として軍隊内でも人気があったとのこと。
 このような戦地での思い出話を三宅さんからお聞きする機会がよくありました。貴重な体験談ですので、わたしもいろいろと教えていただいたものです。
 たとえば、ソ連軍が参戦したとき、満州の国境地帯に派遣されており、その情報を伝えることと、軍事機密の暗号解読書を持ち帰る必要があり、部隊を引き連れて命がけでソウルまで帰還したとのこと。平野部はソ連軍が展開しているため、山岳地帯ルートで脱出され、途中、子供を連れて満州から逃げているご婦人が疲労困ぱいで座り込んでいたので、持っていた岩塩を分けてあげたところ、幼子を負ぶったそのご婦人はもう一人の子供の手を引いて歩き出したという悲しい体験などをお聞きしたこともありました。関東軍司令部が兵士や民間人を置き去りにして、早々と逃げ帰ったと、三宅さんは憤っておられました。
 ソウル行きの最後の「病院列車」に間に合い、部隊は列車の屋根の上に乗ったが、全員血まみれだったそうです。「なぜ血まみれになったのですか」とたずねると、ソ連軍の包囲網を突破するため〝切り込み〟をかけたとのことでした。ソウルに着くと、要請されてソウル警察隊の設立と訓練を手伝い、その後に部隊全員を連れて帰国されました。そのときの兵士たちは全員が三宅さんより年長の古参兵だったのですが、三宅さん以外の将校は戦死したため、若い三宅さんが指揮を執り、「全員、日本に連れて帰る」と言うと、古参兵たちはよく命令に従ったそうです。
 無事に部隊を連れて帰国し、九州から大阪方面行きの鉄道に乗ったものの、広島の手前で列車は止まり、そこからは歩いて次の駅まで行ったとのこと。原爆で広島市内の鉄道が破壊され、市内一面が焼け野原だったそうです。もしかすると、そのとき古田先生も仙台から広島に戻られていた可能性がありそうです。
 こうした三宅さんの「軍歴」を、『古田史学会報』30号(1999年2月)掲載の三宅利喜男「小林よしのり作 漫画『戦争論』について」より転載します。(つづく)

〔三宅利喜男氏軍歴〕大正14年(1925)7月24日生
昭和19年12月 陸軍航空通信学校卒業。
  20年 5月 鞍山(満州)第三航空情報隊転属。温春(満州)第十一航空情報隊転属。
     7月 満・ソ・朝国境方面に出向。
     8月9日 ソ軍と戦闘。清津(北朝鮮)通信所にて連絡中、ソ軍の上陸始まる。茂山白頭山系より病院列車でソウル航空軍司令部へ。終戦を知る(19日)。
     9月 ソウル南大門警察に所属。韓国保安隊訓練を指導。
    10月 安養で米軍に武器引渡し。
    11月 釜山より部隊を連れ帰国。


第2052話 2019/12/08

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(1)

 「岩本さんのポスターがテレビに出てはる」と妻に言われて、久しぶりにNHKの大河ドラマ「いだてん」を見ました。というのも、ご近所の岩本光司さんは前回1964年の東京オリンピック公式ポスターのモデルなのですが、そのポスターが重要なアイテムとして何度もテレビ画面に出ているのです。
 岩本家とは家族ぐるみの永いお付き合いですが、岩本さんは学生時代(早稲田大学)、水泳(バタフライ)の選手で、アジア大会で優勝し、オリンピックでのメダル獲得間違いなしと言われていました。そのため、東京オリンピック公式ポスターのモデルに抜擢され、バタフライで泳いでいる迫力満点の写真が日本中に貼られたのです。
 ところが岩本青年に悲劇が起こります。オリンピック出場を決める選考会レースの直前に病気になられ、オリンピックに出場できなかったのです。ショックで岩本さんは一旦は水泳から離れられたのですが、その数十年後、マスターズ水泳に出場され、世界記録をなんと60回以上更新するという世界のトップスイマーとして復活されたのです。今も現役で活躍されています。そして2020年の東京オリンピックを前にして、岩本さんと1964年のポスターが再び脚光を浴び、テレビや新聞に引っ張りだことなられ、今回の大河ドラマに「ポスター出演」となった次第です。
 その大河ドラマ「いだてん」に演歌歌手の三波春夫さんも登場し、あの懐かしい「オリンピックの顔と顔、それととんと、ととんと、顔と顔」という東京五輪音頭がテレビ画面に流れたのです。そのとき、わたしは「古田史学の会」の会員、三宅利喜男さんのことを思い出しました。そして、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)に三宅さんが今も会に在籍されているのかを問い合わせたのです。(つづく)


第2030話 2019/11/01

首里城焼亡を悼む

 沖縄県の象徴的建造物であり文化遺産の首里城が火災により失われたことをニュースで知りました。沖縄県民や首里城を愛しておられる皆様のお嘆きはいかばかりか。心より同情申し上げます。

 今回の首里城焼亡の様子をテレビで見ていて、巨大木造建築物に一旦火がつくと、その火の手の速さが想像以上であったことに驚きを禁じ得ませんでした。
 古代史研究においても『日本書紀』に記された著名な火災記事として、法隆寺(天智九年・670年)と難波宮(天武紀朱鳥元年・686年)の焼亡があります。特に難波宮(前期難波宮)は瓦葺きではないことから、外部の火災であってもその火の粉により類焼しやすいことと思われますし、上町台地上という立地条件により、消火のための「水利施設」が十分にあったとも考えられません。従って、その延焼速度は今回の首里城よりも速かったのではないでしょうか。
 『日本書紀』天武紀朱鳥元年正月条には難波宮焼亡が次のように記されています。

 「乙卯(十六日)の酉のとき(午後六時頃・日没時)に、難波の大蔵省失火して、宮室悉(ことごと)く焚(や)けぬ。或いは曰く、阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べりという。唯(ただ)し兵庫職のみは焚けず。」

 この記事によれば、大蔵省か阿斗連薬の家で発生した火災により、宮殿が全焼したことになります。しかも「酉のとき」日没の時間帯ですから、瀬戸内海方面に沈む夕日に照らされる中、当時、日本列島内最大規模の難波宮(前期難波宮)が紅蓮の炎の中に焼亡する様子を、難波の都人たちは為す術もなく眺めていたことでしょう。
 現代も古代も、このような火災は痛ましいものです。難波宮跡からはこの火災により焼けた焼土層が検出されており、それにより整地層上に重層的に建設された前期難波宮と後期難波宮の遺構を区別することが可能な場所もあります。あるいは、瓦葺きだった後期難波宮の遺構層位からはその瓦が出土しますから、このことによっても前期難波宮と後期難波宮の遺構の区別が可能です。
 また、前期難波宮焼土層からは白い漆喰も多数出土しており、前期難波宮の主要施設は漆喰で加工されていたと推定されています。しかし、その漆喰も火災を止めることはできませんでした。
 白い漆喰により表面が加工されていた前期難波宮は、恐らく現在の改修後の姫路城のように白い宮殿だったのではないでしょうか。その完成間近の前期難波宮で白雉改元の儀式が執り行われています(九州年号「白雉元年」652年。『日本書紀』には二年ずらされて650年を「白雉元年」とし、その二月に大々的な白雉改元儀式記事が挿入されています。拙稿「白雉改元の史料批判」をご参照下さい。『「九州年号」の研究』に再録)。
 姫路城が「白鷺城」の異名を持つように、前期難波宮も「白雉宮」と呼ばれていたのではないかと、わたしは想像しています。「白雉元年(652)」九月に完成したという、九州年号の「白雉」と白い漆喰の出土しか、今のところ根拠がない作業仮説ですが、いかがでしょうか。


第2022話 2019/10/26

即位礼正殿の儀の光景(3)
〝古代の伝統を継ぐ茶色染料〟

 本シリーズの最後に、一般の方々にはまず知られていない現在におけるウールの茶色染色が「黄櫨染御袍」と同様の染色の設計思想に基づいていることをお教えします。
 茶色の染色が難しいことは本稿二節で触れましたが、「黄櫨染御袍」では櫨(黄色)と蘇芳(赤色)の二色を混ぜて茶色にしています。というのも、きれいで高堅牢度の茶色の天然染料はありそうでなかなかありません。そのため、こうした配合染色により茶色にするわけですが、現在のウールでも同様なのです。ウールの茶色染色には、カラーインデックスナンバー(染料の国際分類番号)で「モルダント・ブラウン・15」(Mordant Brown 15)と呼ばれる金属媒染染料が最も使用されています。この染料も実はオレンジ色と青色の配合染料なのです。もちろん、一成分だけで茶色になる染料もあるにはあるのですが、価格や性能において「モルダント・ブラウン15」が抜きん出ているため、結果として他の茶色染料は淘汰されつつあります。
 わたしの勤務先はこのウール用茶色染料を国内で製造している唯一の会社ですから、その製造の難しさや原材料調達の困難さなど、身にしみて知っています。この度の即位礼正殿の儀での「黄櫨染御袍」を拝見して、こうした伝統文化の末端に関わってこられたことに感謝し、これらの技術を次世代に伝えなければならないと思いました。(おわり)


第2020話 2019/10/24

即位礼正殿の儀の光景(2)
「黄櫨染御袍」に使用された蘇芳(すおう)

 新天皇の「即位礼正殿の儀」で着用された「黄櫨染御袍」は、光源の変化により色調が変化することを紹介しました。これにはかなりの技術が必要なのですが、それよりもすごい染色技術が京都の匠(染織家)により発明されています。それは五年ほど前にお会いしたご高齢の匠から見せていただいたもので、「貴婦人」と名付けられたシルクの染色糸です。
 「貴婦人」は「黄櫨染御袍」よりも青みの茶色をしていました。ところが、同じ室内光(蛍光灯)下でも糸束をねじったり角度を変えると、色調が茶色から濃緑色に変化するのです。ここまで変化するシルク糸は初めて見ました(化学繊維であれば機能性色素を用いて簡単にできます)。恐らく「演色性」だけではなく、シルクの成分であるフィブロインやセリシンを複数の染料で染め分けているのではないかと思い、使用した染料をたずねましたが、教えてはいただけませんでした。しかし、その糸束をわけていただくことができ、わたしは勤務先の科学分析機器を駆使して、染料成分分析や繊維構造解析を行いました。恐らく、自らが発明した「貴婦人」の染色技術を次世代の技術者に継がせたいとの思いから、貴重な糸束をわけていただいたものと感謝しています。
 話を「黄櫨染御袍」に戻します。使用された蘇芳は南方の国(インド、マレーシア)が原産地であり、〝輸入〟しなければならないのですが、もしかすると入手はそれほど困難なことではなかったのではないでしょうか。
 「洛中洛外日記」2006〜2014話(2019/10/06〜13)で連載した〝九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)〜(9)〟において、わたしは九州王朝(倭国)の東西南北の「道」の「方面軍」という仮説を発表し、その「南海道」の終着点を今の沖縄・台湾とする説と中南米とする説を提起しました。いずれにしても、強力な海軍力を有してした九州王朝であれば、「南国」の蘇芳を入手することは可能と思われますし、あるいはその「南国」からの使者が九州王朝へお土産として持参した可能性さえあります。「黄櫨染御袍」の製造のため蘇芳を九州王朝が欲しがっていたとすれば、少なくとも「西国」百済から贈呈された七支刀と比べれば、自国に自生している蘇芳の木の贈呈は輸送コストはかかるものの、手間をかけて〝製造〟する必要もない〝お安いご用〟ですから。
 こうした視点を重視しますと、日本列島内を軍事的に展開(侵略)する「東山道」「北陸道」の「方面軍」とは異なり、「海道」の「方面軍」の主目的は「軍事」というよりも「交易」だったのではないかとの考えに至りました(軍事的側面を否定するものではありません)。大型船造船技術と航海技術があれば、大量の物資運搬にも海上郵送は便利です。一つの仮説として検討の俎上に乗せたいと思います。


第2018話 2019/10/22

即位礼正殿の儀の光景(1)
「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」

 本日、執り行われた新天皇の「即位礼正殿の儀」をテレビで拝見いたしました。まるで平安時代の王朝絵巻を見ているようで、感動しました。そして何よりもわたしが着目したのは、やはり職業柄か、両陛下や皇族方の装束の色彩でした。
 わたしの本職は染料化学・染色化学のケミストですので、どうしても衣装の色に目が行ってしまい、古代において使用されたであろう染料の分子構造式と染色技術(草木染めか)、そして衣装の繊維素材は何だろうかと、そうした疑問が頭の中をぐるぐると廻ります。そうやって出した科学的結論を妻に説明しようとすると、「やめてッ!」と言われてしまいました。そこで、「洛中洛外日記」読者の皆さんにさわりだけ説明させていただきますので、ちょっとお付き合い下さい。
 わたしが最も注目したのが天皇しか着ることが許されないという「黄櫨染御袍」でした。高御座の幕が開かれたとき、その色調に驚きました。想像していたよりも赤みが強い茶色だったからです。近代では合成染料が発達して、容易に茶色が出せるようになりましたが、以前は茶色を再現性良く出すことは高度な染色技術が必要とされていました。古代であればなおさらです。
 「黄櫨染御袍」も古代から伝わる染料と染色技術により、あの色相が出されていますので、それはまさに〝匠の技〟と言えます。しかも「黄櫨染御袍」は朝夕と昼間では異なる色調を発します。それは「演色性」という光学現象を利用したもので、太陽光中の光の波長分布が朝夕と昼間では異なって地上に届くという現象により、大きく色調が変化する染料(複数)が使用されていることによります。ですから、テレビを見ていて、「黄櫨染御袍」に使用された染料の推定とその分子構造が瞬時に脳裏を駆け巡ったのです。そのときの、わたしの推論は次のようなものでした。

①「黄櫨染」というからには、「櫨(はぜ・はじ)」の色素(フラボノール系色素:fustin)が使用されているはず。
②しかも「黄」とあるから、櫨の木の黄色の成分を用いて、アルミ明礬で媒染染色されているはず。
③というのも、金属で媒染染色しなければ草木染めの天然染料は日光堅牢度が劣り、使用に耐えない。
④従って、高堅牢度の黄色に発色させるためにはアルミ明礬か木材(主に椿)の灰に含まれるアルミ成分(+微量のカルシウム成分)の使用が考えられる。古代の染色において、「灰」の使用は『延喜式』などに見える既知の技術。
⑤しかし、「櫨」だけではあの赤みの茶色にはならず、更に青みの赤色染料も使用されているはず。
⑥古代において使用されている青みの赤色染料としては、「茜(あかね)」(アリザリン系色素)と「蘇芳(すおう)」(色素成分はbrazilein)が有名。
⑦「茜」は『万葉集』にも詠まれているように国内に自生しており、入手は容易。他方、「蘇芳」は南方の国(インド、マレーシア)が原産地とされ、〝輸入〟しなければならない。
⑧入手し易さでは「茜」だが、「黄櫨染御袍」のあの深みのある赤みの茶色を出すには「蘇芳」が望ましい。
⑨染色技術的にはどちらもアルミで媒染により赤色が出せるので、どちらを使用したのかは判断し難い。

 概ね以上のような思考が堂々巡りしたため、インターネットで確かめることにしました。その結果、「櫨」と「蘇芳」が「黄櫨染御袍」には使用されているとありましたので、わたしの推論はほぼ当たっていました。それにしても、とても美しく神々しい「黄櫨染御袍」でした。(つづく)


第2004話 2019/10/03

『東京古田会ニュース』188号の紹介

『東京古田会ニュース』188号が届きました。今号も力作揃いでした。拙稿「山城(京都市)の古代寺院と九州王朝」も掲載していただきました。今まで古田史学・多元史観の研究者からはほとんど取り上げられることがなかった京都市域の七世紀の寺院遺跡を紹介し、それらと九州王朝との関係性についての可能性を論じたものです。京都市は近畿天皇家の千年の都・平安京の地ですから、そこが九州王朝と関係があったとは思いもしませんでした。本格的な調査研究はこれからですが、新たな多元的「山城国」研究の展開が期待されます。
 今号で最も注目した論稿は安彦克己さんの「『ダークミステリー』は放送法四条に違反する」でした。今年6月13日、NHKより放送された『ダークミステリー 隠された謎』において、『東日流外三郡誌』などの「和田家文書」を偽作として解説し、それを古田先生が真作として支持したことを揶揄するという、悪質な番組編成を安彦さんは批判されました。そしてそれは放送の中立性と公平性を定めた放送法四条に違反していると指弾されました。まことにもっともなご意見です。
 近年のテレビ報道番組などの中立性・公平性について問題が少なくないことは各方面から指摘されているところで、今回の安彦さんの論稿はこうした現代メディア批判でもあり、貴重な意見表明です。なお、同番組のことは、9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会の懇親会で安彦さんから教えていただいたもので、それまでわたしは知りませんでした。なぜ古田武彦攻撃のような番組がこの時期に放送されたのか、気になるところです。「和田家文書」の史料価値をどのようにして社会に訴えていくべきか、よく考える必要があるように思いました。


第1994話 2019/09/19

福島原発事故による古田先生の変化(3)

 古田先生が、ミネルヴァ書房版『ここに古代王朝ありき』巻末の「日本の生きた歴史(五)」(2010年8月6日)を執筆された翌年の3月11日に東北大震災が発生し、数日後には福島第一原発が爆発しました。この災難に「古田史学の会」も翻弄されました。とりわけ、「古田史学の会・仙台」の会員の方々と連絡がとれず、何ヶ月も憂慮する日々が続きました。東北大学ご出身の古田先生には尚更のことと思われました。たとえば、阪神淡路大震災のときも古田先生は被災者に心を痛められ、当時出版されたご著書の印税などを神戸市に寄贈されたこともあったほどですから。
 特に原発の爆発事故には深く関心を示されたようで、翌2012年11月20日には東京大学教授の安冨歩さんの著書『原発危機と東大話法』(2012年1月、明石書店)が古田先生から贈られてきました。今までも歴史関係の本や論文を頂いたことは少なくなかったのですが、この種の本を先生から頂いたのは初めてのことでした。
 そうしたこともあって、古田先生と原発問題などについて話す機会が増えました。そのことを記した「洛中洛外日記」を紹介します。

【以下、転載】
「洛中洛外日記」514話(2013/01/15)
「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であり、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあり、今回書いてみました。
【転載おわり】

 おそらく、福島第一原発の爆発事故により、古田先生は核兵器や原発についての考察をより深め、考えを変えられたのではないかとわたしは推測しています。(つづく)


第1993話 2019/09/18

ミネルヴァ書房「日本評伝選」200巻

 「古田史学の会」では会員論集『古代に真実を求めて』を明石書店(東京)から発行していますが、ミネルヴァ書房(京都市)からも『「九州年号」の研究』『邪馬壹国の歴史学』を発行していただいています。ミネルヴァ書房は古田先生の著書復刻を手がけておられ、現在では手に入りにくくなっていた古田先生の著書が書店や図書館に並ぶこととなりました。古田史学を再び広く世に知らせる事ができ、ミネルヴァ書房には感謝しています。
 そのミネルヴァ書房・杉田啓三社長への取材記事が「読売新聞」2019年9月16日の文化欄に掲載されていることを服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長)から教えていただきました。その記事は「日本評伝選」200巻発行の記念特集のようで、「半永久的に続ける覚悟」との見出しと共に杉田社長の写真が掲載され、比較的大きな扱いでした。
 同社が刊行を続けている「日本評伝選」は日本の歴史的人物を一人ずつ紹介するという人気企画です。ちなみにその最古の人物として邪馬壹国の俾弥呼が選ばれており、もちろん著者は古田先生です。記事には杉田社長のお話として、古田先生の名前が次のように出されています。

 「政治家、学者から芸術家、外国人まで幅広いラインアップにこだわりを詰め込んだ。卑弥呼の正式な名前に焦点を当てた『俾弥呼(ひみか)』(古田武彦著)や、伝説のプロレスラーの生涯を追った『力道山』(岡村正史著)など硬軟取り混ぜ、近年は『田中角栄』(新川敏光著)が話題を呼んだ。」

 わたしは、てっきり『親鸞』も古田先生が書かれるものと思っていましたが、残念ながら別の方が書かれています。この企画は「半永久的に続ける覚悟」とのことですから、いつの日かには『古田武彦』も出版されることでしょう。ちなみに古田先生の恩師『村岡典嗣』(水野雄司著、2018年)は既に出版されています。そういえば、古田先生は「わたしは『秋田孝季(あきたたかすえ)』を書きたい」とおっしゃっていました。村岡先生が書かれた名著『本居宣長』を意識してとのことと思います。


第1991話 2019/09/15

福島原発事故による古田先生の変化(2)

 今から10年ほど前のことです。「古田史学の会」役員の間に〝激震〟が走りました。「古田史学の会」全国世話人のAさんから、「古田先生は日本の自衛隊は核武装すべきと言っておられる」と驚きと共に心配のお電話がありました。Aさんは古田先生のご自宅の比較的近くに住んでおられたこともあり、古田先生と連絡を取り合う機会も多く、おそらくそうした個人的会話の中での先生の発言と思われます。そのとき、わたしがどのような返事をしたのかははっきりと記憶していませんが、否定はしなかったはずです。わたしは直接的な表現では聞いたことはありませんでしたが、古田先生がそうしたご意見を持っておられることに気づいていたからです。
 このようなことは、ほとんどの古田ファンや読者の方には信じてもらえないかもしれませんが、古田先生は常々、「世界最強の在日米軍が駐留している日本は真の意味での独立国家ではなく、そのため自衛隊には二流の兵器しか与えられていない」と語っておられました。そして自国の防衛は自国(一流の兵器を持った自衛隊)によってなされるべきと考えておられました。ですから、先生がいう「一流の兵器」とは、恐らく核兵器のことであろうとわたしは受け止めていました。しかし、先生から直接的な表現で自衛隊の「核武装」についてお聞きしたことはありませんでした。
 そのようなときに、次の一文を古田先生が発表され、わたしは驚愕したのでした。ミネルヴァ書房から復刊された『ここに古代王朝ありき』(2010年)巻末に付された「日本の生きた歴史(五)」の「第五 若者の頭脳」です。そこには放射能を発見したキュリー夫人の評価に触れ、次のように書かれています。

【以下、転載】
 (前略)
 事実、彼女(キュリー夫人)の娘イレーヌやその夫ジョリオが「発見」した人工放射能の秘密、またマイトナーやフェルミなど、ヨーロッパ・アメリカ文明の中から生まれた俊秀たちが「アッ!」というまに、「広島・長崎への原爆投下」の道を、その技術を切り開いたではありませんか。わたしの両親は広島(西観音町)でその洗礼を受けました。投下後、一週間して仙台から広島に帰り、傷死体の累積した市街をうろつきまわっていたわたしも、「第二次放射能の被爆者」です。いわば「広がる犠牲者」の末端に位置している人間の一人です。

       四

 わたしの言いたいこと、それは次の一点に尽きます。
 「わたしたちは未だに、キュリー夫人の願いに答えていない」
と。
 このような「巨大な爆発力」が実在する以上、それに〝打ち克つ力〟もまた、必ず実在するはずだ。
ーーわたしはハッキリとそう思っています。たとえば、
 第一、この「巨大爆発力」の研究がさらに進展して、「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟能力を持ったとき、すなわちどの国もこれを「使用」することができなくなります。
 第二に、かりに「宇宙全体」ではなく、「地球全体」であったとしても、同じく「使用」できないのは、自明のことです。
 マイトナーやフェルミ段階では、その爆発力があまりにも「リトル」であり、「マイナー」だったから「使用可能」だったのです。

      五

 問題は、自然科学の分野にとどまりません。
 この「使用」は、人間の「個人」の手によるものではなく、同じく人間の「組織」によらなければならないこと、当然です。
 とすれば、そのような「人間の組織」に対してその組織の「生みの親」である人間の頭脳によって、徹底的な「再点検の手」が加えられなければなりません。「国連」も、「国家」も、「教会」も、「学校」も、「学会」も、そのすべてに対する徹底的な再批判です。
 それが最初にのべた「日本実証主義」の辿り、そして突き進むべき道です。わたしにはそう見えています。
 (後略)
【転載おわり】

 どう控えめに読んでも、この前半部分は相互確証破壊という核抑止理論と同様の考え方に基づいていることは明白でした。古田先生の持論を突き詰めれば、核兵器の使用(核戦争)をとどめるために一流の兵器による自国防衛という理論にたどり着くことも理解できないわけではありません。しかし、ここまであからさまな表現(「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟)で発表されるとは思ってもいませんでした。
 この文が書かれた2010年8月6日は広島に原爆が投下された日です。当然、原爆の悲惨さを体験されている古田先生は、3度目の原爆投下をどうすればとどめることができるのか、考えに考え抜いて執筆されたことをわたしは疑えません。
しかしこの半年後、古田先生のこの考えを180度変えさせた大事件が発生します。2011年3月11日、東北大震災と福島第一原発の爆発事故です。(つづく)


第1910話 2019/05/30

「日出ずる国」の天子と大統領(2)

 トランプ大統領が言われた「日出ずる国」の出典は『隋書』国伝に記された九州王朝の天子、多利思北孤の国書の次の記事です。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 多利思北孤自らの国書の文面ですから、当時の倭国は「日出ずる處」にあると倭国側が認識していたことを示しているのですが、実はそれほど簡単な問題ではないと古田先生は考えておられました。というのも、倭国(九州島や日本列島)から太陽は昇らず、はるか東の太平洋の向こう側から昇ることは倭人であれば周知の事実ですから、ここでいう「日出ずる處」は九州島や日本列島のことではないのではないかと古田先生は考えておられました。
 『三国志』倭人伝によれば、倭人は東南へ「船行一年」(一倍年歴の半年に相当)で中南米にあった「裸国」「黒歯国」に行っていたことが記されており、太陽は「裸国」「黒歯国」の東から昇ることを倭人は知っていたはずです。従って、多利思北孤が自らの国を「日出ずる處」と言うとき、その領域は太平洋の東にある〝太陽が昇る処の「裸国」「黒歯国」〟をも含む広大なものと認識していたはずと古田先生はされました。
 そのように考えると、『隋書』に見える国の領域を表した次の記事の意味が変わるかもしれません。

 「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」
【読み下し文】其の國境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。

 この「東西五月行」が日本列島から中南米の「裸国」「黒歯国」へ向かう際の所用月数かもしれません。
 今回、紹介した古田先生の考えが正しければ、トランプ大統領のアメリカ合衆国を含む北米・中南米こそが九州王朝・多利思北孤にとっての「日出ずる国」ということになりそうですが、いかがでしょうか。