現代一覧

第2160話 2020/05/27

【会員の皆様への緊急告知
会員総会中止と代替措置の報告

 古田史学の会・役員会は、例年六月に開催してきた定期会員総会とそれに先立つ全国世話人会の招集を、本年については中止することを決定しましたので会員の皆様にお知らせいたします。
 おりからのコロナ禍による緊急事態宣言発令などの影響を受け、古田史学の会も例会活動や講演会の開催中止を余儀なくされてきました。会員総会についても現時点での開催は困難との認識に立ち、総会に代えて、『古田史学会報』に事業報告・決算報告・新年度予算案・人事案などを掲載することとしました。総会としての審議・決議が行えませんので、新年度の予算案・事業計画などは従来と大差なきよう配慮しました。また、それらについて会員の皆様からのご意見などがあれば、事務局までお手紙などでご連絡いただきたいと存じます。これらの措置をもって会員総会での審議・決議に代えさせていただきたいと存じます。
 会員の皆様にはご迷惑をおかけすることになりますが、コロナ禍という現状において、苦渋の決断であることをご理解いただきますようお願い申し上げます。
 古田史学の会はこれからも会の目的実現のために奮闘してまいります。会員の皆様の変わらぬご支援ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。
     令和二年(二〇二〇)五月二七日
              古田史学の会・代表 古賀達也


第2156話 2020/05/21

九州王朝の現地説明動画がすごい

 「古田史学の会」事務局次長の竹村順弘さんから、素晴らしいYouTube動画のご紹介メールが届きました。九州王朝説を太宰府都府楼跡や大野城・水城の現地で説明するという動画で、とてもわかりやすく、初心者向けの優れた編集でした。「古田史学の会」ホームページの存在にも触れていただいています。
 竹村さんからのメールを転載します。皆さんもぜひご覧になって下さい。そして、多くの方にご紹介いただければ幸いです。

〔以下、竹村さんからのメール〕

前略。毎度、お世話になっております。
昨日の参加者の皆様、お疲れさまでした。
WEBで面白い記事を見かけました。
下記にURLを記します。
第4話のコメント欄に、服部さんのクラウド講演会も紹介しておきました。

竹村順弘

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【古代史探索の旅Ⅱ】第1話 失われた歴史/九州王朝(前編) 大宰府と古代山城
@21,927 回視聴@2019/09/08
https://www.youtube.com/watch?v=qO6BXpiOOtk

【古代史探索の旅Ⅱ】第2話 失われた歴史/九州王朝(後編) 根拠となる史跡・資料をまとめています@12,770 回視聴@2019/10/05
https://www.youtube.com/watch?v=xvElxYBjXls

【古代史探索の旅Ⅱ】第3話 卑弥呼は九州にいた/邪馬台国が北部九州にあったことを結論付けることができました@47,482 回視聴@2020/01/14
https://www.youtube.com/watch?v=8ycasej7InU

【古代史探索の旅Ⅱ】第4話 邪馬台国の所在地を最も正しい(と思う)方法で推定しました@14,630 回視聴@2020/05/12
https://www.youtube.com/watch?v=CG-mNL-6d8g
=============

〔以下、動画への竹村さんのコメント〕

第1話から第4話までの素晴らしい作品を見させて頂きました。
コロナ禍で取材が続行できないとのこと、残念です。
私たちも、同様にコロナ禍で、勉強会や研究会が開催できずにおります。
そこで、私たちも動画を作ってみました。
【古代史探索の旅Ⅱ】のような凝った編集はできませんが、手作り感満載です。
ご視聴いただければ幸甚です。


第2145話 2020/05/03

クラウド(YouTube)古代史講演会

   のご案内

本日、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)より、下記のメールが届きましたので紹介します。日本社会で自粛が続く中、ネットやSNSを用いて「古田史学の会」として何か発信やバーチャル例会などができないかと竹村さんに相談してきたのですが、この度、YouTubeで服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による古代史講演が配信されることになりました。皆様からのご意見やご要望などを参考にしながら改良・発展させることができます。ご視聴とご協力をお願いします。

【以下、転載】
前略。毎度、お世話になっております。
服部編集長によるクラウド講演会、ユーチューブにアップ中です。
竹村順弘

 2024年10月23日削除しました。竹村氏の講演記録のみ残っています。検索すれば出てきます。
項目のみ記載しています。

【クラウド講演会@服部静尚】
「古田武彦氏の多元史観で古代史を語る」

1. 邪馬台国と卑弥呼

2. 古墳と多元史観

3. 倭国独立と倭国年号

4. 聖徳太子の実像

5. 大化の改新

6. 天皇と飛鳥

7. 白村江戦と壬申の乱

8、日本書紀


第2141話 2020/04/24

竹田侑子さんからのお礼状

 わたしたち「古田史学の会」では、会員論集『古代に真実を求めて』を友好団体などに贈呈させていただいています。この度上梓した『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』(『古代に真実を求めて』23集)を贈呈した竹田侑子さん(秋田孝季集史研究会・会長、弘前市)からお礼状が届きましたので紹介します。

【お礼状から一部転載】
(前略)
 それにしても魅力的なタイトルです。
 頂戴していつも、タイトル選びが上手だな、と思うのですが、今回は執筆者の皆様が、九州王朝が失われてからの日本の歴史にどんな孤独を抱いたのだろうか、などと連想させるような、余韻を漂わせていました。
 これから、じっくりと心して読ませていただきます。
 楽しみです。本当にありがとうございました。

 日々ご多忙と拝察しておりますが、ご自愛くださり、「古田会」を引っ張っていってくださることを願っております。
                        草々

                    2020年4月15日
                       竹田侑子
(後略)
【転載おわり】

 同書のタイトルをお褒めいただき、安心しました。というのも、今回のタイトルは敢えて文学的表現にしたのですが、読者から評価していただけるものか、正直不安だったのです。
 もっとよいタイトルがあるのではないかと悩み続けて、最終的には正木裕さんの「〝日本書紀〟だけではなく、〝古事記〟もタイトルにいれるべき」というご意見を採用し、さらに当初案はメインタイトルが「消えた古代王朝」、サブタイトルが「『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独」だったのですが、服部編集長のご意見により、メインタイトルとサブタイトルを入れ替えることになったものです。
 その後も、久冨直子さん(編集部員)から別のタイトル案も出され、最終的には明石書店の編集会議で『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』が採用されました。明石書店内でもかなり議論になったとうかがっています。タイトルの善し悪しが、本の売れ行きに大きく影響しますから、竹田さんからのお褒めの言葉は大変励みになりました。
 なお、『古代に真実を求めて』は18集から特集テーマを前面に出して、タイトルも新たに付けることにしました。おかげさまで、それ以来、販売部数が伸びて、再版されるようにもなりました。竹田さんからお褒めいただいた各号のタイトルは次のようなものです。

18集 盗まれた「聖徳太子」伝承
19集 追悼特集 古田武彦は死なず
20集 失われた倭国年号《大和朝廷以前》
21集 発見された倭京 太宰府都城と官道
22集 倭国古伝 姫と英雄(ヒーロー)と神々の古代史
23集 「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 消えた古代王朝


第2130話 2020/04/09

4月度「古田史学の会」関西例会を中止します

 この度の新型コロナウィルス対策として発出された政府の緊急事態宣言により、4月18日の「古田史学の会」関西例会会場のドーンセンターが閉鎖となりました。そのため、「古田史学の会」では4月度の関西例会中止を決定しましたので、お知らせいたします。
 関係者、会員の皆様にはご迷惑やご心配をおかけすることになり、申し訳ございません。今後の「関西例会」など諸行事の開催状況につきましても適切に判断し、ホームページ「新・古代学の扉」で案内いたしますので、皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。会員の皆様におかれましては一層ご健康に留意していただき、またお元気なお顔を拝見できることを願っております。

追伸 「市民古代史の会・京都」主催の古代史講演会も4月度(講師:古賀)・5月度(講師:正木さん)の中止を決定されたとのご連絡をいただきましたので、ご一報申し上げます。


第2128話 2020/04/07

奈良新聞に

『古代に真実を求めて』23集プレゼントの案内

 奈良新聞(2020.04.04)に、古代大和史研究会(原幸子代表)からの『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 消えた古代王朝』(『古代に真実を求めて』23集)読者プレゼントの案内が掲載されました。
 記事には次のように同書が紹介されています。

 〝古代史研究家の故古田武彦氏は、大和朝廷に先立って九州王朝が存在し、中国史書に見える「倭国」とは九州王朝とする多元的歴史観・九州王朝説を提唱した。同書は古田氏の多元的歴史観に基づく史料批判により、「古事記」「日本書紀」の中に失われた九州王朝「倭国」の痕跡を探り出し、「真実の古代史像」を明らかにする。〟

 奈良新聞の読者に古田史学・古田武彦ファンが増えることが期待されます。古代大和史研究会の取り組みと、掲載していただいた奈良新聞に感謝いたします。


第2122話 2020/03/30

新型コロナウィルスの対策方針について

 新型コロナウィルスの感染拡大による各種イベントの自粛要請などを受けて、「古田史学の会」役員会は、当面、次のような対策と各種講演会への対応方針を決定しましたので、会員や講演会・例会参加者の皆様にお知らせいたします。ご理解とご協力をお願い申し上げます。

1.関連自治体や会場管理者の要請に応じて、各種イベント開催の是非や講師派遣などの協力について適切に判断いたします。

2.関西例会など主催イベントの開催も上記に準じ、開催する場合は発表者を始め参加者にマスク着用、手の消毒などの協力を要請します。ご高齢者や病弱な方の命と健康を守るため、咳や発熱などの症状がある方のご入場をご遠慮いただきます。また、持病をお持ちの高齢者の参加は自粛をお願い申し上げます。

3関係団体主催イベントへの講師派遣については、必要な安全対策を要請し、講師の安全確保が困難と判断した場合は講師派遣などの協力をお断りします。

4.政府や関連自治体の方針に基づき、上記の対応を継続します。具体的なイベント開催の中止や延期などについては「古田史学の会」ホームページ、『古田史学会報』などで告知いたします。

以上

 この難局を乗り越えるために、皆様のご理解とご協力を重ねてお願い申し上げます。


第2054話 2019/12/11

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(3)

 三宅利喜男さんは「市民の古代研究会」時代からの古田先生の支持者で、優れた古代史研究を発表されてきました。「古田史学の会」創立後には、反古田に変質した「市民の古代研究会」に見切りをつけて、「古田史学の会」へ参加されました。また、小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)のお話では、「古田史学の会・関西」の遺跡巡りハイキングの第1回目からの参加者(案内役)だったとのことです。
 三宅さんの研究論文で、最も衝撃を受けたものが「『新撰姓氏録』の証言」(『古田史学会報』29号、1998年12月)でした。『新撰姓氏録』に記された古代氏族の祖先が、特定の天皇に集中していることを指摘された論稿で、古田先生も天孫降臨の時代を推定する上で、優れた研究と評価されていました。
 こうした三宅さんの研究業績を埋もれさせることなく、この機会に顕彰したいと考え、インターネット担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)に相談したところ、下記のように「三宅利喜男論集」をホームページ「新・古代学の扉」内に開設していただきました。是非、皆さんも見てみて下さい。

暫定リンク版【三宅利喜男論集】

1.「新撰姓氏録」の証言
『古代に真実を求めて』第三号(二〇〇〇年十一月)より現在編集中、本人の了解が取れれば発行します。
 要旨は、『古田史学会報』二十九号「『新撰姓氏録』の証言」と、『古田史学会報』四十七号「続『新撰姓氏録』の証言 — 神別より見る王権神話の二元構造」に記載されています。

2.小林よしのり作 漫画『戦争論』について
『古田史学会報』二十九号(一九九九年二月)

3.『播磨国風土記』と大帯考
『市民の古代』第十三集(一九九一年)

4.九州王朝説からみる『日本書紀』成書過程と区分の検証
『市民の古代』第十五集(一九九三年)

5.続『日本書紀』成書過程の検証 — 編年と外交記事の造作
『市民の古代』第十六集(一九九四年)

【書誌目録】

1.続『新撰姓氏録』の証言〔古代史の海(26), 59-61, 2001-12〕

2.音韻と区分論(特集 渡部正理氏の「『日本書紀の謎を解く』への疑問」)〔古代史の海(24), 13-15, 2001-06〕

3.『新撰姓氏録』の証言 三宅利喜男〔古代史の海(22), 31-36, 2000-12〕

4.「日本書紀」書き継ぎ論–『古事記』未完論に寄せて〔古代史の海(12), 60-69, 1998-06〕

5.主神論〔古代史の海(9), 42-47, 1997-09)

6.『日本書紀』に現れる古代朝鮮記事〔古代史の海(4), 55-59, 1996-06〕

7.倭の五王は大阪に眠る(越境としての古代3 , 2005-05)

他の書誌および『市民の古代研究』などは、後日確認いたします。


第2053話 2019/12/09

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(2)

 正木さんからの返事によれば、三宅利喜男さんは2015年に退会されておられ、恐らくご高齢による退会と思われるとのことでした。確かに三宅さんは古田先生よりも年上と記憶していましたので、今では94歳になられていることと思います。会員名簿に残っている電話番号に電話をかけましたが、今は使われていないとのアナウンスが返ってきました。もし、三宅さんの現在の連絡先かご家族ご親戚をご存じの方がこの「洛中洛外日記」を読んでおられましたら、ご一報いただけないでしょうか。
 わたしが、テレビで三波春夫さんを見て、三宅さんのことを思い出したのは次のような経緯があったからです。終戦間際、三宅さんは十代の青年将校として朝鮮半島・満州方面に配属され、そのとき、三波春夫(1923-2001、本名:北詰文司)さんが同じ連隊におられ、浪曲師として軍隊内でも人気があったとのこと。
 このような戦地での思い出話を三宅さんからお聞きする機会がよくありました。貴重な体験談ですので、わたしもいろいろと教えていただいたものです。
 たとえば、ソ連軍が参戦したとき、満州の国境地帯に派遣されており、その情報を伝えることと、軍事機密の暗号解読書を持ち帰る必要があり、部隊を引き連れて命がけでソウルまで帰還したとのこと。平野部はソ連軍が展開しているため、山岳地帯ルートで脱出され、途中、子供を連れて満州から逃げているご婦人が疲労困ぱいで座り込んでいたので、持っていた岩塩を分けてあげたところ、幼子を負ぶったそのご婦人はもう一人の子供の手を引いて歩き出したという悲しい体験などをお聞きしたこともありました。関東軍司令部が兵士や民間人を置き去りにして、早々と逃げ帰ったと、三宅さんは憤っておられました。
 ソウル行きの最後の「病院列車」に間に合い、部隊は列車の屋根の上に乗ったが、全員血まみれだったそうです。「なぜ血まみれになったのですか」とたずねると、ソ連軍の包囲網を突破するため〝切り込み〟をかけたとのことでした。ソウルに着くと、要請されてソウル警察隊の設立と訓練を手伝い、その後に部隊全員を連れて帰国されました。そのときの兵士たちは全員が三宅さんより年長の古参兵だったのですが、三宅さん以外の将校は戦死したため、若い三宅さんが指揮を執り、「全員、日本に連れて帰る」と言うと、古参兵たちはよく命令に従ったそうです。
 無事に部隊を連れて帰国し、九州から大阪方面行きの鉄道に乗ったものの、広島の手前で列車は止まり、そこからは歩いて次の駅まで行ったとのこと。原爆で広島市内の鉄道が破壊され、市内一面が焼け野原だったそうです。もしかすると、そのとき古田先生も仙台から広島に戻られていた可能性がありそうです。
 こうした三宅さんの「軍歴」を、『古田史学会報』30号(1999年2月)掲載の三宅利喜男「小林よしのり作 漫画『戦争論』について」より転載します。(つづく)

〔三宅利喜男氏軍歴〕大正14年(1925)7月24日生
昭和19年12月 陸軍航空通信学校卒業。
  20年 5月 鞍山(満州)第三航空情報隊転属。温春(満州)第十一航空情報隊転属。
     7月 満・ソ・朝国境方面に出向。
     8月9日 ソ軍と戦闘。清津(北朝鮮)通信所にて連絡中、ソ軍の上陸始まる。茂山白頭山系より病院列車でソウル航空軍司令部へ。終戦を知る(19日)。
     9月 ソウル南大門警察に所属。韓国保安隊訓練を指導。
    10月 安養で米軍に武器引渡し。
    11月 釜山より部隊を連れ帰国。


第2052話 2019/12/08

三宅利喜男さんと三波春夫さんのこと(1)

 「岩本さんのポスターがテレビに出てはる」と妻に言われて、久しぶりにNHKの大河ドラマ「いだてん」を見ました。というのも、ご近所の岩本光司さんは前回1964年の東京オリンピック公式ポスターのモデルなのですが、そのポスターが重要なアイテムとして何度もテレビ画面に出ているのです。
 岩本家とは家族ぐるみの永いお付き合いですが、岩本さんは学生時代(早稲田大学)、水泳(バタフライ)の選手で、アジア大会で優勝し、オリンピックでのメダル獲得間違いなしと言われていました。そのため、東京オリンピック公式ポスターのモデルに抜擢され、バタフライで泳いでいる迫力満点の写真が日本中に貼られたのです。
 ところが岩本青年に悲劇が起こります。オリンピック出場を決める選考会レースの直前に病気になられ、オリンピックに出場できなかったのです。ショックで岩本さんは一旦は水泳から離れられたのですが、その数十年後、マスターズ水泳に出場され、世界記録をなんと60回以上更新するという世界のトップスイマーとして復活されたのです。今も現役で活躍されています。そして2020年の東京オリンピックを前にして、岩本さんと1964年のポスターが再び脚光を浴び、テレビや新聞に引っ張りだことなられ、今回の大河ドラマに「ポスター出演」となった次第です。
 その大河ドラマ「いだてん」に演歌歌手の三波春夫さんも登場し、あの懐かしい「オリンピックの顔と顔、それととんと、ととんと、顔と顔」という東京五輪音頭がテレビ画面に流れたのです。そのとき、わたしは「古田史学の会」の会員、三宅利喜男さんのことを思い出しました。そして、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)に三宅さんが今も会に在籍されているのかを問い合わせたのです。(つづく)


第2030話 2019/11/01

首里城焼亡を悼む

 沖縄県の象徴的建造物であり文化遺産の首里城が火災により失われたことをニュースで知りました。沖縄県民や首里城を愛しておられる皆様のお嘆きはいかばかりか。心より同情申し上げます。

 今回の首里城焼亡の様子をテレビで見ていて、巨大木造建築物に一旦火がつくと、その火の手の速さが想像以上であったことに驚きを禁じ得ませんでした。
 古代史研究においても『日本書紀』に記された著名な火災記事として、法隆寺(天智九年・670年)と難波宮(天武紀朱鳥元年・686年)の焼亡があります。特に難波宮(前期難波宮)は瓦葺きではないことから、外部の火災であってもその火の粉により類焼しやすいことと思われますし、上町台地上という立地条件により、消火のための「水利施設」が十分にあったとも考えられません。従って、その延焼速度は今回の首里城よりも速かったのではないでしょうか。
 『日本書紀』天武紀朱鳥元年正月条には難波宮焼亡が次のように記されています。

 「乙卯(十六日)の酉のとき(午後六時頃・日没時)に、難波の大蔵省失火して、宮室悉(ことごと)く焚(や)けぬ。或いは曰く、阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べりという。唯(ただ)し兵庫職のみは焚けず。」

 この記事によれば、大蔵省か阿斗連薬の家で発生した火災により、宮殿が全焼したことになります。しかも「酉のとき」日没の時間帯ですから、瀬戸内海方面に沈む夕日に照らされる中、当時、日本列島内最大規模の難波宮(前期難波宮)が紅蓮の炎の中に焼亡する様子を、難波の都人たちは為す術もなく眺めていたことでしょう。
 現代も古代も、このような火災は痛ましいものです。難波宮跡からはこの火災により焼けた焼土層が検出されており、それにより整地層上に重層的に建設された前期難波宮と後期難波宮の遺構を区別することが可能な場所もあります。あるいは、瓦葺きだった後期難波宮の遺構層位からはその瓦が出土しますから、このことによっても前期難波宮と後期難波宮の遺構の区別が可能です。
 また、前期難波宮焼土層からは白い漆喰も多数出土しており、前期難波宮の主要施設は漆喰で加工されていたと推定されています。しかし、その漆喰も火災を止めることはできませんでした。
 白い漆喰により表面が加工されていた前期難波宮は、恐らく現在の改修後の姫路城のように白い宮殿だったのではないでしょうか。その完成間近の前期難波宮で白雉改元の儀式が執り行われています(九州年号「白雉元年」652年。『日本書紀』には二年ずらされて650年を「白雉元年」とし、その二月に大々的な白雉改元儀式記事が挿入されています。拙稿「白雉改元の史料批判」をご参照下さい。『「九州年号」の研究』に再録)。
 姫路城が「白鷺城」の異名を持つように、前期難波宮も「白雉宮」と呼ばれていたのではないかと、わたしは想像しています。「白雉元年(652)」九月に完成したという、九州年号の「白雉」と白い漆喰の出土しか、今のところ根拠がない作業仮説ですが、いかがでしょうか。


第2022話 2019/10/26

即位礼正殿の儀の光景(3)
〝古代の伝統を継ぐ茶色染料〟

 本シリーズの最後に、一般の方々にはまず知られていない現在におけるウールの茶色染色が「黄櫨染御袍」と同様の染色の設計思想に基づいていることをお教えします。
 茶色の染色が難しいことは本稿二節で触れましたが、「黄櫨染御袍」では櫨(黄色)と蘇芳(赤色)の二色を混ぜて茶色にしています。というのも、きれいで高堅牢度の茶色の天然染料はありそうでなかなかありません。そのため、こうした配合染色により茶色にするわけですが、現在のウールでも同様なのです。ウールの茶色染色には、カラーインデックスナンバー(染料の国際分類番号)で「モルダント・ブラウン・15」(Mordant Brown 15)と呼ばれる金属媒染染料が最も使用されています。この染料も実はオレンジ色と青色の配合染料なのです。もちろん、一成分だけで茶色になる染料もあるにはあるのですが、価格や性能において「モルダント・ブラウン15」が抜きん出ているため、結果として他の茶色染料は淘汰されつつあります。
 わたしの勤務先はこのウール用茶色染料を国内で製造している唯一の会社ですから、その製造の難しさや原材料調達の困難さなど、身にしみて知っています。この度の即位礼正殿の儀での「黄櫨染御袍」を拝見して、こうした伝統文化の末端に関わってこられたことに感謝し、これらの技術を次世代に伝えなければならないと思いました。(おわり)