二つの日本一覧

第451話 2012/08/08

藤原宮時代の国名は「日本」?

 今日は名古屋から東京に来ています。東京も暑いですが、京都や名古屋よりはまだましなようです。その暑い最中、新日本橋からJR神田駅まで歩いたのですが、道を間違って随分遠回りしてしまいました。今は神田駅近くのスタバでアイスコーヒーブレークしています。
 第447話で、藤原宮出土「倭国所布評」木簡についてご紹介したのですが、わたしはこの木簡にかなり衝撃を受けました。この木簡に記された「倭国」につ いて、7世紀末の王朝交代時期に、近畿天皇家が九州王朝の国名「倭国」を自らの中枢の一地域名(現・奈良県)に盗用したものと推察したのですが、より深い疑問はここから発生します。
 それでは、このとき近畿天皇家は自らの国名(全支配領域)を何と称したのでしょうか。この疑問です。九州王朝の国名「倭国」は、既に自らの中心領域に使用していますから、これではないでしょう。そうすると、あと残っている歴史的国名は「日本国」だけです。
 このように考えれば、近畿天皇家は遅くとも藤原宮に宮殿をおいた7世紀末(「評」の時代)に、「日本国」を名乗っていたことになります。先の木簡の例でいえば「倭国所布評」は、「日本国倭国所布評」ということです。『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が併記されていることから、近畿天皇家が日本国という国名で中国から認識されていたことは確かです。その自称時期については、今までは701年以後とわたしは何となく考えていたのですが、今回の論理展開が正しけれ ば、701年よりも前からということになるのです。
 このような論理展開の当否を含めて、7世紀末の王朝交代時期にどのような経緯でこうした国名自称がなされたのか、九州王朝説の立場から、よく考えてみる必要がありそうです。
 さて、ようやく身体が冷えてきましたので、これからもう一仕事(近赤外線吸収染料のプレゼン)します。今晩は東京泊で、明日はまた名古屋に向かいます。


第442話 2012/07/15

藤原宮の完成年

 市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』を読み、自らの不勉強を痛感する昨今です。中でも、藤原宮の完成が大宝三年(703年)以降であったことが、出土木簡から明らかとなったという指摘には驚きました。

 同書(168頁)によると、藤原宮の朝堂院東面回廊の東南隅部付近の南北溝から7940点の木簡が出土しているのですが、この南北溝は東面回廊造営時に 掘削され、回廊完成とともに埋められました。出土した大部分の木簡は八世紀初頭のもので、記されていた最も新しい年紀は「大宝三年」(703年)でした。 このことから、東面回廊が完成したのは、703年以降となり、このことはとりもなおさず藤原宮の完成が703年以降だったことを意味します。

 このようなことまで判明するのも、同時代史料としての木簡のすごさですが、このことと関係しそうな記事が『続日本紀』慶雲元年十一月条(704年)にありました。

「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布を賜うこと差あり。」

 694年の藤原京遷都から10年もたっているのに、「始めて藤原宮の地を定む。」というのもおかしな話だったのですが、大宝三年(703年)以降に藤原宮が完成していたとになると、この記事も歴史の真実を反映していたことになりそうです。

 『続日本紀』慶雲元年十一月条(704年)のこの記事については、古田学派内でもいろんな見解が出されてきましたが、今後はこの出土木簡7940点を精査したうえでの再検証が必要ではないでしょうか。


第330話 2011/08/07

「ウィキペディア」の史料批判(3)

 第328話で、ウィキペディアの「九州王朝説」の解説に見える「いかがわしい表現」として「九州王朝の歴史を記した一次史料が存在しない。」を指摘しましたが、もう少し具体的に批判したいと思います。
 ここでいわれている「一次史料」の定義が問題なのですが、その後の文章に「記紀や支那や韓国の歴史書等に散見される間接的な記事」などに九州王朝説の論拠が止まっているとしたり、「この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠の一つ」という記述が見られることから、彼らのいう「一次史料」とは九州王朝自身による自らの歴史書の類であるようです。
 この主張は一見もっともらしく見えますが、学問的にはまったくダメです。およそ理系や世界の歴史学の分野では通用しない主張で、いわば「死人に口無し」 論法ともいうべき詭弁なのです。たとえば世界の古代史では自らが編纂した歴史書や文字史料がない文明や王朝の遺跡や痕跡はいくらでもあり、それらは学問的にきちんと「文明」「王朝」の実在を認められています。世界の歴史学はそのレベルに達しているのです。
 大和朝廷に滅ぼされた九州王朝の歴史書が残っていないから九州王朝は存在しなかったというのは、まさに「死人に口無し」を利用した非学問的な暴論に過ぎません。しかし、こうした彼ら(大和朝廷一元史観に立つ「日本古代史」村)の主張も実は虚偽情報(ウソ)なのです。というのも、九州王朝の歴史や実在を記録した一次史料として、隣国の中国正史に「倭人伝」「倭国伝」として九州王朝のことを延々と記録してくれているからです。その中には大和朝廷の記紀よりも成立が古く、同時代史書もあるのです。
 例えば『後漢書』倭伝には倭奴国に金印を授与したと記していますが、その金印は大和ではなく北部九州の志賀島から出土しています。『宋書』倭国伝には宋と交流した歴代倭王の名前を記しており、いずれも大和朝廷には存在しない名称です。『隋書』イ妥国伝には同国が『後漢書』にある倭国から連綿と続いた王朝であり、その王の名前はタリシホコであり、その地には阿蘇山があると記しています。これらは全て記紀よりも成立が古く、こと日本列島に関する記録としては 客観的で、信頼性が高いのです。
 更に『旧唐書』では倭国伝と日本国伝を併記しており、倭国は古の倭奴国であり、他方、日本国は倭国の別種でもと小国だったが倭国の地を併せたと、日本列島内での王朝の交代までも記録しているのです。これらの記録こそ九州王朝の歴史を記した一次史料なのです。これらを「間接的な記事」と称して無視したり、「この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠の一つ」と言うに及んでは、開いた口が塞がりません。
 これらを犯罪捜査の例でいうならば、殺された九州さん自身の直接証拠はないから、容疑者の大和さんの証言(『古事記』『日本書紀』)のみを採用し、事件はなかったことにするというものです。しかも隣人の目撃証言(歴代中国史書)や隣家の防犯カメラの画像記録(同時代一次史料)をすべて無視ないし軽視するという、とんでもない捜査方法なのです。
 福島原発事故以来、わが国では「原子力村」による「安全神話」がウソであったことが白日の下にさらけ出され批判されていますが、「日本古代史」村の「大和朝廷一元神話」も、いつの日かその虚構が国民周知のものとなり、批判を浴びる日が来ることでしょう。