東北王朝(蝦夷国)一覧

第266話 2010/06/06

東北の九州年号

 このところ東北出張が続き、新潟・福島・山形に足を運びました。中でも、山形市で見た冠雪した月山の美しい姿は印象的でした。月山は湯殿山・羽黒山とともに出羽三山と称されていますが、この地域は羽黒山修験道の聖地でもあります。わたしも以前から注目していたのですが、修験道関係史料には九州年号が少なからず見られ、修験道と九州王朝との関係が気にかかっていました。

 羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子)が開基したと伝わっていますが、同じく福島県信夫山の羽黒神社は「崇峻天皇三年端政」と九州年号の端政が縁起に記されていることが報告されています(「九州年号目録」『市民の古代』11集所収、新泉社刊)。このように羽黒修験道と九州年号・九州王朝の関係がうかがわれるのですが、これら東北地方の九州年号史料は東北と九州王朝の関係という視点からの検討が必要と思われます。

 特に端政年間(589〜593)は多利思北孤の時代であり、日本を66国に分国し、また九州島を9国に分国して文字通り「九州」とした時代でもありますから、多利思北孤による全国統治・行脚の痕跡が九州年号などにより残されている可能性が濃厚です(『九州王朝の論理』明石書店刊を参照下さい)。

 もっとも、九州年号が記された年代記を参考にして、後世になって寺社縁起などの九州年号による年次編集が行われたケースもありますので、史料性格の分析や史料批判が必要であることは、言うまでもありません。


第63話2006/02/17

『北斗抄』

 昨年10月に物故された藤本光幸さん(第39話参照)の妹、竹田侑子さんより待望の一冊が送られてきました。和田家資料3『北斗抄』(藤本光幸編・北方新社。2000円+税)です。これには『北斗抄』全29巻のうち、1〜10巻が採録されています。詳細は巻末の竹田さんによる「あとがき」を読んで下さい。
 和田家文書は江戸時代から明治・大正・昭和へと書写、書き継がれた文書であり、中でもこの『北斗抄』には明治期の文書も編集されており、十分かつ慎重な史料批判が必要な文書です。わたしも津軽で実見しましたが、歴代の書写者の息吹が随所に感じられました。
 また、本書には貴重な一論文が末尾に採用され、光彩を放っています。竹内強さん(本会会員・岐阜市)による「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」です。執念の現地調査により、『北斗抄』に使用されている美濃和紙が明治時代のものであったことを証明された記録です。この調査報告は昨年の古田史学の会会員総会(大阪市)の際に口頭発表されたものですが、今回論文として寄稿されたことにより、多くの方に読んでいただけることになりました。竹田侑子さんのご尽力の賜です。
 今回の発行に続いて、11巻以降の『北斗抄』も刊行されるとのこと。故藤本光幸さんと竹田侑子さん兄妹の刊行への取り組みに敬意を表すとともに、微力ではありますが、これからも応援していきたいと思います。

参照

真実の東北王朝』古田武彦(駸々堂 絶版)

日本国の原風景ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー 西村俊一氏


第57話2006/01/1

佐賀の「中央」碑

  「日本中央」碑という有名な石碑が青森県東北町にありますが、佐賀県にも「中央」碑があることを林俊彦さん(本会全国世話人、古田史学の会・東海の代表)より教えていただきました。この佐賀県の「中央」碑についてご紹介したいと思います。
  佐賀平野の地神信仰に「チュウオウサン」(中央神)があります。この中央神は古い家々の庭先の、多くはいぬい(乾・北西)やうしとら(艮・北東)のすみに祀られ、小さな石か石塔が立っています。文字を刻んだものは「中央」「中央尊」「中央社」とあるそうです。これが今回紹介する佐賀の「中央」碑です。これらは大地の神を祀ったもので、旧佐賀市内や神埼郡に多く分布しているそうです。
 この中央神は肥前盲僧の持経「地神陀羅尼王子経」などに、荒神が中央を占めて四季の土用をつかさどると説くことに由来するとされていますが、もしかすると、この佐賀の「中央」碑は青森県の「日本中央」碑と同じ淵源を持つのではないでしょうか。それは次のような理由からです。
 青森の「日本中央」碑は「日の本将軍」とも自称していた安倍・安東と関係するものと思われますが、古代では蝦夷(えみし)国だった地域ですし、東北や関東に分布する荒覇吐(アラハバキ)信仰とも繋がりそうです。一方、佐賀(北部九州)には『日本書紀』神武紀に見える次の歌謡があり、蝦夷との関係が指摘されています(古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、1992年)。

「愛瀰詩(えみし)を 一人 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たむかひ)もせず」

 古田氏によれば、これは天孫降臨時の天国軍側の歌(祝戦勝歌)であったとされ、侵略された側の人々は「愛瀰詩」と呼ばれていたことがわかります(おそらく自称)。津軽の和田家文書によれば、この侵略された人々(安日彦・長髄彦)が津軽へ逃げ、アラハバキ族になったとされています。従って、神武歌謡の「愛瀰詩」と東北の蝦夷国とは深い関係を有していたこととなります。そして、その両地域に「中央」碑が現在も存続していることは偶然とは考えにくいのではないでしょうか。「中央」信仰が両者に続いていたと考えるべきではないでしょうか。
 先に紹介しましたように、佐賀の「中央」神が「荒神」とされていたり、庭先の北西や北東に祀られていることも、東北の蝦夷国や荒覇吐信仰との関係をうかがわせるに充分です。また、佐賀県三養基郡に江見という地名がありますが、これもエミシと関係がありそうな気がしています。
佐賀の「中央」碑は「あまりそまつにしても、あまりていねいにお祭りしてもいけない」とされているそうで、侵略された側の神を祀る上での民衆の知恵を感じさせます。