昭和29年、
東奥日報で報道された「役小角」遺物
昭和24年7月、和田元市・喜八郎親子が飯詰村梵珠山中の洞窟から発見した銅製銘板や佛像・仏具・木皮文書は、当時、地元では評判になったとのことで、そのことの裏付け調査のため、わたしは連休や土日の休みを利用して津軽を何度も訪れました。
緊急の場合は金曜日の仕事が終わった後、京都駅から寝台特急日本海に乗り、土曜日の早朝に弘前駅に着き、弘前市や五所川原市の図書館で昭和22年以降(注①)の地元紙(主に東奥日報)を終日閲覧し、重要記事をコピーしました。そして藤崎町の藤本光幸邸に宿泊させて頂き、翌日も弘前か青森の図書館で新聞や関連書籍を夕方まで閲覧し、帰りも夜行列車日本海で京都に戻り、月曜日早朝の京都駅からそのまま出勤するという超ハードな調査旅行も行いました。帰りの車窓から見た、日本海に沈む夕日の美しさは今でも覚えています。
40歳の頃でしたからできたことですが、それでもかなり疲れ、家族に迷惑や心配をかけ続けました。当時、古田先生を支持支援してきた「市民の古代研究会」が偽作キャンペーンに翻弄され分裂するなか、NHKや大手メディアも巻き込んで続く悪質な偽作キャンペーンに抗して、古田先生や古田史学を護るために〝やるか、やられるか〟の覚悟で偽作説への反証研究と現地調査を続けました。
そうして得られた成果の一つが、昭和29年2月14日付の東奥日報の記事でした。和田家が和田家文書に基づいて発掘した文化財の一般公開を報じた記事です(注②)。掲載された写真には、若き日の和田喜八郎氏(26歳)と発見された佛像4体、経文、そして調査を担当した青森県教育庁文化財施設担当係員の市川秀一氏が写っています。その写真から、佛像の大きさなどがわかると思います。これらの歴史事実は和田家文書偽作説を否定する有力な物証です。残念なことに、現在の東奥日報は偽作キャンペーン紙に成り果ててしまいました。本稿末尾に同記事を転載します。戦後当時の状況がわかるはずです。(つづく)
(注)
①和田家文書が和田家の天井裏から落下したのが昭和22年夏。それ以降、当地の関係者(福士貞蔵氏・開米智鎧氏ら)の間で同文書が知られ始めた。
②古賀達也「昭和二九年東奥日報に掲載 和田家資料(出土物)公開の歴史」『古田史学会報』23号、1997年。
【『東奥日報』昭和29年2月14日付記事を転載】
五年前、和田親子が発掘 本邦には珍しい佛、神像など
融雪まって一般に公開 飯詰山中から古文化財出土
北郡飯詰村大字飯詰、農和田元一さん(五五)同長男喜八郎さん(二六)親子は昭和二十四年七月同村東方の飯詰山中で炭焼窯を造ろうとして土中を掘り返したところ相当大きい石室を発見、発掘の結果仏、神像をはじめ仏具経木を利用した古文書などが出土した。出土品は本邦の原始宗教につながりのある全く珍しいものとされているが、同親子は出土品と場所を公開することを極端に拒否したためその真偽をめぐって関係者から興味を持たれていたが初の出土品の公開が十二日午前十時から同村大泉寺で行われた。
この公開には県教育庁文化財施設係員市川秀一氏らも立会いアララ、カマラ仙人、老子、聖天狗、ガンダラ仏、アシュク如来、ムトレマイヲス、法相菩薩、救世観音像(いずれも同寺住職開米智鎧氏鑑定による)のほか経木に書いた祭文、原始宗教のうち山岳教(山伏し)の表徴で学説では架空の人物とされている『役の小角』の一代記の他、造形文字の古文書仏舎利壺などで出土品はこのほかまだ相当あるといわれるが公開されたもののうち摩訶如来像、ムトレマイヲス像は本邦には全く珍しいものといわれている。
しかし同鑑定は中央の専門家によるものではなく、その上同村附近で産出する俗称『アマ石』で約千四百年前に製作された像としては原型が完全過ぎることと、問題である『役の小角』の晩年は山岳宗教家の間では『唐』へ渡ったという説があるため飯詰山中にその仏舎利があるわけはないと疑問視しているという。
このため県教育庁では同日公開された出土品を写真に収め文部省の文化財保護委員会に鑑定を依頼することになったが、一方和田親子もこの疑問を解くため今春の雪融けと同寺に発掘場所を仏神教と考古学研究家に公開することになったので五年間とりざたされた同問題も一挙に解決することになった。
△和田喜八郎さん談 今まで公開しなかったのは出土品を政府に持って行かれては村としても困ると思ったからだ。出土品が本物だかどうかは発掘場所を見てもらえばはっきり解ると思う。今春その場所へ案内する。
△県教育課市川秀一氏談 開米住職の鑑定通りでは驚くほどのものだ。はっきり調査するため文化財保護委員会へ鑑定を依頼する。
【写真】『東奥日報』昭和29年2月14日付記事五年前、和田親子が発掘 本邦には珍しい佛、神像など 融雪まって一般に公開 飯詰山中から古文化財出土