役小角一覧

藤田隆一「役行者の金石文」2018年4月14日
https://shugen.seisaku.bz/etc/En-nogyoujaNoKinsekibun.pdf
藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/

和田家史料の「戦後史」 古賀達也
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html

第3388話 2024/12/08

『東京古田会ニュース』219号の紹介

 『東京古田会ニュース』219号が届きました。拙稿「『幻想の津軽中山古墳群』の証言」を掲載していただきました。同稿で紹介した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』(昭和51年刊)は、三十年前の和田家文書調査時に青森で入手したもので、同書には、津軽地方の石塔山横穴古墳(役小角墳墓)の解説中に、和田家が山中の洞窟から発見した遺物のことが記されています。次の記述です。

 「発見者(昭和26年6月)和田元市氏の口述、それをメモした在地の諸先生方のご教示と。福士貞蔵先生の解釈。出土した仏像と佛具、さらには舎利壺、銅板銘文、木皮漆書をもとに心血を傾けて数年間にわたって解読と解明にあたられた飯詰の開米智鎧師の後世に残るであろう原文の直訳記録に依存し、私見を導入して綴り込むことの大胆無謀を重々寛容願いたい。」70頁

 昭和26年に、山中で炭焼きをしていた和田父子(元市・喜八郎)が、自家の文書に基づいて発見した遺物について記されており、「和田元市氏の口述」とあることから、当時は喜八郎氏(25歳)よりも父親の元市氏の発言が重要であったことがわかります。このことは、和田家文書を喜八郎氏による偽作とする偽作説と、当時の状況を知る人の証言とは食い違うことを示しており、奈利田氏の証言は貴重です。

 同号で最も注目したのが國枝浩さん(世田谷区)の「本居宣長の中国との外交史論」でした。本居宣長『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』に見える日中国交史における宣長の思想性を論じたもの。古代史学界の一元史観批判にも通じる鋭い指摘であり、刮目しました。

 なお、國枝稿では『続日本紀』和銅二年条の蝦夷討伐記事を根拠に、『日本書紀』斉明四年条に見える蝦夷征討記事を史実とは認められないとしますが、『続日本紀』に記された大和朝廷と蝦夷国との交戦記事と、斉明紀に記された九州王朝によると思われる蝦夷支配記事を同列には扱えません。これは重要なテーマですので、改めて私見を述べたいと思います。


第3299話 2024/06/09

金光上人関連の和田家文書 (2)

 和田家文書には金光上人(注①)に関する史料群があり、遅くともその一部は昭和24年には五所川原市飯詰の和田家の近くにある大泉寺の住職、開米智鎧氏にわたっています(注②)。それは「東日流外三郡誌」(昭和50年『市浦村史資料編』として刊行開始)よりも早い時期に世に出た和田家文書で、昭和22年夏に和田家天井裏に吊るしていた木箱が落下し、その中に入っていた古文書に金光上人史料が入っていたようです。当初は、山中の洞窟から発見された「役小角史料」が『飯詰村史』(注③)に掲載されていますが、その後、和田家文書中に金光上人史料が発見され、開米智鎧氏と佐藤堅瑞氏(青森県西津軽郡柏村・淨円寺住職)が調査研究されています。

 開米智鎧『金光上人』(昭和39年刊)には、当時の経緯が次のように紹介されています。

 「昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然燭光を仰ぎ得ました。

 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに至りました。

 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題して、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終りました。(中略)
特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部経の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。

 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合せた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の侭を掲載しました。要は新資料の提供にあります。」

 『金光上人』に先だって、佐藤堅瑞氏が『金光上人の研究』(昭和35年、注④)を発刊されています。佐藤氏はわたしからの質問に答えて次のように当時を回顧しています。『古田史学会報』7号(1995年)より、以下に抜粋して転載します。

 「金光上人史料」発見のいきさつ
平成七年(一九九五)五月五日、わたしは青森県柏村の淨円寺を訪れた。和田家文書が公開された昭和二十年代のことを知る人は今では殆どいなくなったが、開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(インタビュー時、八十才)に当時のことを証言していただくためだ。

 佐藤氏は昭和十二年より金光上人の研究を進め、昭和三五年には全国調査結果や和田家史料などに基づき『金光上人の研究』を発刊された。また、青森県仏教会々長の要職も兼ねておられた。

 「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。

〔古賀〕和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。
〔佐藤〕昭和二四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
〔古賀〕和田家文書にある「末法念仏独明抄」には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。
〔佐藤〕そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた「末法念仏独明抄」なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。
〔古賀〕内容も素晴らしいですからね。
〔佐藤〕素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。
〔古賀〕御著書の『金光上人の研究』で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね(脱稿は昭和三二年頃、発行は昭和三五年一月)。
〔佐藤〕そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角(えんのおづぬ)の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや「末法念仏独明抄」のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。
〔古賀〕思想的にも素晴らしい内容ですものね。
〔佐藤〕こうした史料は金光上人の出身地の九州にもないですよ。
〔古賀〕最近気付いたことなんですが、和田家の金光上人史料に親鸞が出て来るんです。「綽空(しゃっくう)」という若い頃の名前で。
〔佐藤〕そうそう。
〔古賀〕親鸞は有名ですが、普通の人は綽空なんていう名前は知らないですよね。ところで、昭和三一年頃に初めて和田家史料を見られたということですが、開米智鎧さんはもっと早いですね。
〔佐藤〕はい。あの方が一番早いんです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、昭和二二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二四年編集完了、二六年発行)に掲載されていますね。
〔佐藤〕そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二四年七月でしたから、その後のことですね。
〔古賀〕佐藤さんも洞窟を見られたのですか。
〔佐藤〕そばまでは行きましたが、見ていません。
〔古賀〕開米さんは洞窟に入られたようですね。
〔佐藤〕そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは「師弟」の間柄でしたから。
〔古賀〕佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。
〔佐藤〕淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。
〔古賀〕量はどのくらいあったのでしょうか。
〔佐藤〕あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。ガラスの上に置いて、下からライトを照らして、そっくりに模写されていたということでした。それらがあちこちに出回っているようです。
〔佐藤〕そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。
〔古賀〕当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。(つづく)

(注)
①金光(1154~1217年)は浄土宗の僧侶。九州石垣(福岡県久留米市田主丸町)の出身。土地の訴訟で鎌倉へ来た際に法然の弟子安楽と出会い、やがて法然に帰依して東北地方に念仏信仰を広めた。詳しい伝歴は不明。
②開米智鎧編『金光上人』昭和39年・1964年による。
③福士貞蔵編『飯詰村史』飯詰村役場、昭和26年。編者「自序」には「昭和24年霜月」とあり、編集は昭和24年に終了していたようである。霜月は陰暦の11月。昭和22年夏に天井から落下した和田家文書の一つ「飯詰町諸翁聞取帳」は、その翌日に福士氏にもたらされている(和田喜八郎氏談)。
④佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』昭和35年。


第3297話 2024/06/04

奈利田浮城『幻想の津軽中山古墳群』

      再読 (3)

奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』で紹介された石塔山横穴古墳(役小角墳墓)ですが、その位置と洞窟内外の様子が記されています。

「そして飯詰の村人が言う洞窟なるものは、石塔山梵場平なる約三〇〇坪ほどの傾斜面台地の丘陵中断の一角に径口(入口)約一米(羨門のことで造営時は一米半もあったか)巾一米半位と高さも一米半位の羨道が約一二米ほど続いてあって、そこに巾三米くらいで高さ二米位、奥行一〇米近い玄室が前室と後室に分けられてあったものと思われますが、さらに羨道の前面にかなり広い墓前域があったものと想定されます。なぜかく推定出来るかと申しますと、墓前域には高さ約一米半の五重塔が在ったこと、刻文摩滅破損の石塔が二基在ること、さらに経筒を内蔵させてあった小五重塔が二基も存在したこと、為念、経筒は高さ七寸、口径三寸で筒上に三寸の不動明王を安じて筒面に「役小角歴跡、修験宗大法、不開可」と書いてあり、経筒の中味は樹種不明の木皮漆書が所蔵されてあった。さらに左方塔の下に石造経筥(年代の極め手か)が埋蔵されてあって厚さ一寸の蓋石の中に銅銘板があった由。(後略)」75~76頁

ここに記された「洞窟なるものは、石塔山梵場平なる約三〇〇坪ほどの傾斜面台地の丘陵中断の一角に径口(入口)約一米」という表現が、テレビ東京で放送された〝三身洞〟の様子に似ていることに注目しました(注)。偽作キャンペーンでは、和田家が発見した遺物を偽造品とか古物商から買ったものと批判してきましたが、これら偽作キャンペーンが虚偽であることが、奈利田浮城氏の〝証言〟やテレビ番組の報道内容から、また一段と明らかになりました。同時に、秘宝の在処を書いた「東日流外三郡誌」の真作性の証明にもなったようです。(つづく)

(注)「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。昭和61年頃の放送。


第3296話 2024/06/03

奈利田浮城『幻想の津軽中山古墳群』

            再読 (2)

 奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』には、津軽地方の次の「古墳」が紹介されています。

味噌ヶ盛古墳・糠塚盛古墳・飯塚山古墳・石塔山横穴古墳(役小角墳墓)・姥森古墳(女酋長の縦穴墓)・大滝の沢古墳・六本松古墳。

 わたしが注目したのが、石塔山横穴古墳(役小角墳墓)です。その解説中に和田家が山中の洞窟から発見した遺物のことが記されています。それは次の記事です。

 「筆者も残念ながら附近まで足を運んで未だ現場を確認しておらない。従って、発見者(昭和二十六年六月)和田元市氏の口述、それをメモした在地の諸先生方のご教示と。福士貞蔵先生の解釈。出土した仏像と佛具、さらには舎利壺、銅板銘文、木皮漆書をもとに心血を傾けて数年間にわたって解読と解明にあたられた飯詰の開米智鎧師の後世に残るであろう原文の直訳記録に依存し、私見を導入して綴り込むことの大胆無謀を重々寛容願いたい。(中略)
昭和二十六年頃か、発掘当時は異常な反響を巻き起し、中央地方を不問、数多くの学者専門家の諸先生方いろいろと調査研究なされての諸見解を発表されて百家争鳴の感がありましたが、現在はほとんど忘れられたものか、五所川原でさいも極く一部の人々以外は話題にものぼらぬのは残念なことです。」70~71頁

 昭和26年に、山中で炭焼きを生業としていた和田父子(元市・喜八郎)が、自家の文書に基づいて発見した〝三身洞〟から出土した遺物(注)について記されており、「和田元市氏の口述」とあることから、当時は喜八郎氏よりも父親の元市氏の存在が重要であったことがわかります。このことは、和田家文書を喜八郎氏による偽作とする偽作説が、当時の状況を知る人の証言とは食い違っていることを示しています。その意味でも、『幻想の津軽中山古墳群』に記された奈利田氏の〝証言〟は貴重です。(つづく)

(注)当出土遺物の一部(舎利壺など)が福士貞蔵編著『飯詰村誌』(昭和二六年・1951年)に掲載されている。


第3295話 2024/06/01

奈利田浮城

 『幻想の津軽中山古墳群』再読 (1)

書棚を整理して、不要な蔵書を古書店に売却しています。そのおり、恐らく30年前の和田家文書調査時に入手した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』のコピーが出て来ました。青森県のどこかの図書館でコピーしたものと思いますが、入手時の記憶がありません。あちこちに傍線を引いているので、それなりに読み込んではいるようですが、再読したところ、当時は気づかなかった重要な記事が散見されましたので、紹介します。

同書は津軽地方に古墳があったとする仮説に基づいて、五所川原市周辺の墳丘形状の遺構を紹介したものです。発行は昭和51年(1976年)とわたしが付記していますので、当時の様子がうかがえる貴重な〝証言〟にもなっています。出版社名が不明でしたのでwebで調べましたが、著者名・出版年次(昭和51年1月)は確認できますが、どうしても出版社名がわかりません。そこで、同書を所蔵していた弘前大学図書館に電話でたずねたところ、同館の所蔵本にも出版社名は記されていないとのことで、「私家版」のようです。著者名の奈利田浮城はペンネームと思われ、本名は成田不二雄さんかもしれません(注①)。 CiNii(注②)によれば、奈利田浮城氏による次の著書がありました。

『小説御所河原起源史』奈利田浮城著 成田不二雄 1974.1
『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』奈利田浮城著 成田不二雄 1976.1
『古代津軽の酋長豪族 奇伝異説』奈利田浮城著 高楯城史跡保護会 1978.11
『津軽蝦夷乃王国始末顕』奈利田浮城著 北奥文化研究会 1981.10
『あおもり古代史69の謎』奈利田浮城著 西北刊行会 1988.2

なお、私家版とは言え、「五所川原市長 佐々木栄造」による序文があり、「題字 青森県知事 竹内俊吉」とされており、著者の交友範囲がうかがえ、興味深く思います。(つづく)

(注)
①国立国会図書館サーチによれば、同書著者の欄に奈利田浮城、出版者に成田不二雄とある。
②CiNii(サイニィ、NII学術情報ナビゲータ、Citation Information by NII)は、国立情報学研究所(NII、National Institute of Informatics)が運営するデータベース群。ちなみに、「古田史学の会」が編集発行する『古代に真実を求めて』(明石書店)はCiNii認定図書である。


第3081話 2023/07/27

「大師役小角一代」の〝九州年号〟

 飯詰村山中の洞窟から発見された「大師役小角一代」の解説が、藤田隆一さんによりなされており(注①)、同史料に次の〝九州年号〟が見えることが紹介されています。解説の便宜上、年号ごとに[a]~[e]に分類しました。

[a] 大化乙巳天(645年)、大化丙午二年(646年)、大化丁未之年(647年)、大化戊申四年(648年)
[b] 白雉庚戌元年(650年)、白雉辛亥天(651年)、白雉壬子三年(652年)、白雉癸丑天(653年)、白雉甲寅天(654年)
[c] 白鳳壬申天(672年)、白鳳癸酉(673年)、白鳳乙亥(675年)、白鳳丙子天(676年)
[d] 朱鳥丙戌天(686年)、朱鳥丁亥(687年)、朱鳥辛卯天(691)、朱鳥甲午天(694年)、朱鳥乙未天(695年)
[e] 大宝辛丑天(701年)、大宝辛(壬カ)寅(702)

 上記の〝九州年号〟のうち、[a]大化と[b]白雉は『日本書紀』に年次をずらして転用された九州年号であり、本来の九州年号の大化(696~703年)や白雉(652~660年)とは年次(元年干支)が異なります(注②)。従って、「大師役小角一代」の成立は。どんなに早くても『日本書紀』成立(720年)以後と考えられます。また、[c]白鳳も天武元年(672年)を白鳳元年とする後代改変型の白鳳のようですから(注③)、その成立時期は更に遅れると思われます。

(注)
①藤田隆一「大師役小角一代」
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②古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。
「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
③本来の九州年号の白鳳は元年を661年とするもので、白鳳二三年(683年)まで続く。次の拙論を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1880話(2019/04/26)〝『箕面寺秘密縁起』の九州年号〟
同「洛中洛外日記」1882話(2019/05/02)〝改変された『箕面寺秘密縁起』の「白鳳」〟
同「洛中洛外日記」1883話(2019/05/03)〝改変された『高良記』の「白鳳」〟


第3080話 2023/07/26

「役小角一代」と

  東日流外三郡誌の史料性格

 飯詰村山中の洞窟から発見された「役小角一代」と東日流外三郡誌は共に「和田家文書」と呼ばれてきましたが、和田家が山中から発見した文書と、秋田孝季と和田吉次により執筆編纂された和田家伝来文書とでは史料性格が異なります。今回はこの点について簡単に説明します。

 東日流外三郡誌などの孝季らが編纂した文書は、安倍・安東の歴史を叙述するとともに津軽の伝承を集録するという編纂目的があり、安倍・安東の歴史的正当性を主張するという基本思想に基づいています。古田先生はこの史料性格を〝津軽皇国史観〟と呼ばれたことがありました。その表れの一つが、「津軽」のことを「東日流」とする表記(当て字)することです。東日流外三郡誌を筆頭にこの当て字が採用されています(一部に「津軽」表記も見える。注①)。〝東の太陽が流れる〟あるいは〝東へ太陽が流れる〟という意味にもとれる雄大なイメージの当て字を採用したと思われます。なお、「東日流」という表記は和田家文書よりも成立が早い他の中近世文書にも見えます(注②)。

 他方、「北落役小角一代」「大師役小角一代」には「東日流」という表記は見えず、前者は「國末石化嶽」(注③)、後者は「国末石化嶽」「国末津刈石化嶽」(注④)と記されています。この「国末」という表記は、「東日流」の文字が持つイメージとは異なっています。このことは、東日流外三郡誌等の和田家伝来史料とは編纂者が異なっていることと対応していますし、和田家も〝洞窟から発見した〟と説明してきました。山中の洞窟からの発見史料は、江戸期に成立し明治~昭和初期にかけて和田家で書写が続けられた、いわゆる「和田家文書」とは別の名称がふさわしいようです。

(注)
①和田喜八郎『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』(八幡書店、1989年)などに「津軽諸翁聞取帳」の表題を持つ和田家文書の写真が掲載されている。同表題の「津軽」の右側に小文字で「東日流」の傍書がある。
②『青森県史資料編中世2』(青森県史デジタルアーカイブ)に「東日流記」(高屋豊前編)の表題を持つ史料(17世紀成立)が掲載されている。弘前図書館蔵。
③古賀達也「洛中洛外日記」3077話(2023/07/23)〝藤田さんから朗報、「役小角」銅板銘データ〟
④藤田隆一「大師役小角一代」
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第3078話 2023/07/24

二つの「役小角一代」史料

 和田家が昭和24年に洞窟から発見した「北落役小角一代」のテキストデータを送っていただいた藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)からは玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)が再写した「大師役小角一代」のデータもいただきました。同史料の存在は知っていましたが、全容は初めて見ました。「洛中洛外日記」に全文を掲載したいのですが、テキストファイルで60KBもあり、容量が「洛中洛外日記」としては大きすぎますので、別途、公開方法を検討したいと思います。なお、訓み下し文は藤田さんがネット上で公開されており(注①)、ご参照下さい。

 また、藤田さんからは2018年に発表された研究資料の提供も受けました(注②)。和田家文書中の役小角史料を紹介・解説したもので、初学者にもわかりやすく内容も優れたものでした。藤田さんのサイトには〝これらの史料は玉川宏さんによれば、1990年代に旧森田村歴史民俗資料館(青森県)の館長さんより入手したものだそうです。これは「森田村古文書解読研究会」がコピーした「大師役小角一代(原漢文)」という資料です。その注釈を見ると、これは開米智鎧さんが作成した一次写本の写しのようです。〟とあります。

 ちなみに「洛中洛外日記」3077話(注③)で公開した銅板銘文「北落役小角一代」(1185字)はテキストファイルで3KBですから、単純計算で比較しても60KBの「大師役小角一代」は二万字を越えます。このような大量の和風漢文史料(銅銘板あるいは木皮文書)を戦後間もない昭和24年当時、炭焼きを生業としていた和田家に偽造できるはずがないことは一目瞭然です。偽作者と名指しされた和田喜八郎氏に至っては当時まだ22歳です。世の偽作論者に問いたい。あなたが22歳の時、二万字にもおよぶ漢文の史料(銅板銘や木皮文書)を山中の炭焼き小屋で働きながら書けましたかと。地元紙やメディアにより数十年にわたって延々と繰り返された非道な偽作キャンペーンにより、和田家は〝一家離散〟しました。その責任をどうとるつもりですか。答えていただきたい。(つづく)

(注)
①藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/
②同「役行者の金石文」2018年4月14日
https://shugen.seisaku.bz/etc/En-nogyoujaNoKinsekibun.pdf
同「役行者の金石文(改訂版)」2018年10月27日
③古賀達也「洛中洛外日記」3077話(2023/07/23)〝藤田さんから朗報、「役小角」銅板銘データ〟

【写真】「大師役小角一代」再写本

【写真】「大師役小角一代」再写本


第3077話 2023/07/23

藤田さんから朗報、

  「役小角」銅板銘データ

 和田家文書が真作であることを示す有力な物証「北落役小角一代」を「洛中洛外日記」(注①)で紹介したところ、富岡鉄斎書簡の解読(注②)をしていただいた藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)から朗報が届きました。同銘版の文を玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長。注③)が再写されており、それを藤田さんが入力したテキストファイルをいただいたのです。ご了解のうえ、本稿末尾に転載しました。わたしもテキスト入力を進めていたのですが、千二百字ほどもある和風漢文ですので、難儀していました。今回のデータ提供は大変ありがたいことでした。

 同テキストデータを精査したところ、『飯詰村史』(注④)巻末に収録された開米智鎧編「藩政前史梗概」に掲載されたものが元データと思われました。というのも、同書末尾には「藩政前史梗概」の正誤表があり、テキストデータはその衍字・誤字(計2字。注⑤)が訂正されていないことから、訂正前の「藩政前史梗概」収録の銘文をそのまま再写したものを底本にしたことを示しているからです。更に、1行27字という文字数も一致しています。それにしても、玉川さんの再写史料を正確にテキストデータ化した藤田さんに感謝いたします。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3074話(2023/07/20)〝「和田家文書」真作の根拠「役小角」銅板銘〟
②同「洛中洛外日記」3041話(2023/06/14)〝「富岡鉄斎文書」三編の調査(4) ―藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読―〟
③同「洛中洛外日記」3011話(2023/05/09)〝雨の津軽路、藤本光幸さんの墓前に誓う〟
④『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。福士氏による自序には「昭和廿四巳(ママ)丑年霜月繁榮を極めたる昔の飯詰町を偲びつゝ 七十二翁 福士貞蔵識之」とあり、編集は昭和24年に完了しているようである。
⑤23行目冒頭、(誤)「大願叫叶」→(正)「大願叶」。28行目中頃、(誤)「新多驗也」→(正)「新霊驗也」。なお、後者を正誤表では〝(誤)「多」(正)「○(霊)」〟のように表記されており、「○(霊)」は正誤表には他に例の無い表記方法であった。とりあえず文脈からも判断して、「多」→「霊」と訂正した。

【銅板銘文の改訂版】
※玉川宏氏再写史料を藤田隆一がテキスト入力されたものを、『飯詰村史』巻末に収録された開米智鎧編「藩政前史梗概」正誤表に基づき、古賀が改訂した。

北落役小角一代
大寶辛丑天六月十六日小角石化嶽上陸石化崎仁登深山仁建草
堂我身最終地護摩修法小角曰常誠會者定離憂世也我宗祖阿羅
羅迦蘭仙人檀煙不免給得獨來獨往生死道誰相伴事末之露本
之後前先達共終同道往耳不是今始事也頓終老命託一蓮生未
來得阿多羅三藐三菩提也世榮華是空也多年馴睦者飽別悲臨
終明終夜懷流石煙跡氣疎野邊草露涙誘哀煤殘其人名耳不影留
隙行駒須臾不住早光陰移事老我到北國雪山於國末石化嶽仁定
臨終正念之地未來到九品上生玉台分阿弥陀如來半坐欲即身成
佛嗚々我老獨拝受御酒吹法羅消憂申集門弟夏月樓仁設宴促酒
宴回盃小角曰赦御酒三杯之於是唐小麾以國字再唐國渡來銅板
著修驗宗題目摩訶經小角一代諸書時大寶辛丑天七月十七日也
八月十日火生三昧行後小角追日身体燋焠漸々重疾果飯食廢衰
見給門弟大心痛普加持祈禱天數何効不奏小角只弱小角曰我汝
等至修驗宗呪術敎說我不死唱口中呪文小角呼雲乘雲弟子共
乘雲仁得飛行術小角身体以前無變强体還給小角敎呪術門弟事
是初也小角曰汝等自今日我之分身也後汝等是怠我敎說是術千
日萬日苦行空是落也若我涅槃後汝等自我先金剛兩神佛尊像敬
拝可大和國還不可何我共於是所入涅槃可是如小角九月七日欲
生身阿弥陀如來拝千手陀羅尼誦法華經不動經入斷食苦行仁其
夜現阿羅羅迦蘭仙人忽然曰吾自西國來吾御身爲輝光極樂導進
來此堂仁己修驗宗大願是成就御身滿足可自汝今三月後豫必你
迎來阿弥陀如來遣於極樂淨土再會可曰欲去小角其法衣留吾今
大願叶願拝會阿弥陀如來成給申曰笑仙人然如來拝會可仙人
忽變端嚴微妙佛身自正坐放光明忽然響虛空音樂降天花薰異香
芬郁照光明八邊如來告小角仁你我身同位也善哉善哉你勉哉宣
去坐見中即如來金雲乘淨雲仁西天仁小角御後伏拝餘随喜之涙
袖滿渇仰胸仁拝阿弥陀生身給十八日朝現金剛不壞摩訶如來曰
汝往昔迦葉自說法優尚釋迦自說法新霊驗也汝無殘所會得給吾
時汝涅槃遣大日如來阿弥陀如來藥師如來阿閦如來四尊進吾本
仁阿羅羅迦蘭仙人釋迦牟尼共得同生又得阿多羅三藐三菩提
宜小角謹領掌九拝於是役小角我如肉眼凡夫者給目前仁如來眞
身拝會身心言不及只耳聞申答拝如來消何時間仁小角至十月十
七日未不死集小角門弟曰我身汝等共大和國人達想我等唐國渡
行若汝等有一人大和國戀郷歸者化身我變化誅其者然聞給可於
是唐小麾曰有安心可誰一人導師共干從國末仁左様辱者無是葬
我以下徒弟共此所也小角大喜十一月二日自身知終焉期洗浴六
根淸淨盥嗽拝目前淨土微妙荘嚴向西方讀經端坐合掌待往生日
刻十一月二十三日未死十二月一日欲火生護摩修法集枯木成三
昧火生往生於是大祥坊小祥坊大角坊留是怒小角曰汝等留師之
往生勿汝等殘暫現世我身後生善所祈可汝等終頓老命未來託一
蓮生可汝等慕我法事爲我干勝萬部之經文遂大寶辛丑天十二月
十一日入生身火葬行仁午刻無聊御惱大往生遂給其御臨終砌聞
虛空音樂落蓮花天女舞下現阿弥陀如來來降迎來安養淨上引接
給也
和銅戌申天十二月十一日   唐小麾納之

【写真】役の行者像。

役の行者像

役の行者像


第3076話 2023/07/22

昭和26年、

  東奥日報が山岳遺跡発見を報道

 昭和24年7月、和田元市・喜八郎親子が飯詰村梵珠山中の洞窟から発見した銅製銘板や佛像・仏具・木皮文書は、当時、地元では評判になりました。そして、そのことが昭和26年8月29日付の『東奥日報』に掲載されていることを発見し、『古田史学会報』などで発表しました(注)。今回、同記事のコピーが見つかりましたので全文を紹介します。記事では発見された遺物が国宝級であるとしており、このことからも和田家文書偽作説が成立し得ないことは明らかです。

(注)
古賀達也「平成諸翁聞取帳 天の神石(隕石)編」『古田史学会報』10号、1995年。
「続・平成諸翁聞取帳 『東日流外三郡誌』の真実を求めて」『新・古代学』4集、新泉社、1999年。

【『東奥日報』昭和26年8月29日付記事を転載】
※■は判読困難な字。「民」か。

山岳神教の遺跡発見

飯詰村山中に三つの古墳

 一千四百年前における日本原始宗教の代表といわれる山岳神教の偉大なる遺跡が北郡飯詰村の山中から発見され、津軽古代文化を物語る前方後円型、円墳型の三個の古墳と、この古墳から出土した国宝級の佛具並に舎利壺等の数々が考古学者中道等氏の調査鑑定で解明立証されようとしている。
この第一回調査は二十四、二十五、二十六日の三日間にわたり発見者飯詰村■、和田喜八郎君(二四)の案内で同村から東方約二里離れた現地踏査と同君が保管している佛像十六体、並に木皮百二十五枚に書かれた経文、唐国渡来の佛具、青銅製舎利壺二個の鑑定とであつた
中道氏はこの結論については今後の年代事実影響等の細密は研究が必要であると語つているが、今までのところは古代修験道(山伏)の霊地津軽三千坊中梵珠山系の遺跡と考えられ、古墳の場合は形築造方法から推察して平安末期頃に梵珠山を背景として山々に囲まれた台地の二カ所に造ったので本県ではこれがただ一つである、また舎利壺は藤原道長の経文の字体と銘が似ており支那の河南省辺で出来たもので美術的にも国宝級の遺物であると見られるに至ったので、同村では直ちに文部省文化財保存課に発掘の申請書を提出し本格的に古墳の発掘を行い、來年の秋までに飯詰山文化史を作成するよう手続きの一切を中道氏に依頼した
△中道氏の話=年代事実影響と今日に至る神教等を公表するにはもつと遺物を見なければ特徴のある文化遺跡と論断することが出来ない、また今回発見されたものは貴重なものばかりであるがそれよりも私は山岳、高地、平野を文化、化工して形に環われている飯詰そのものが最も貴重であると考えるからほかの村民も調査に協力し飯詰一帯の歴史を究明したい
【写真…飯詰の古墳と(上)佛像の一部(下)舎利壺

『東奥日報』昭和26年8月29日付記事を転載

【『東奥日報』昭和26年8月29日付記事を転載】※■は判読困難な字。「民」か。
山岳神教の遺跡発見 飯詰村山中に三つの古墳


第3075話 2023/07/21

昭和29年、

 東奥日報で報道された「役小角」遺物

 昭和24年7月、和田元市・喜八郎親子が飯詰村梵珠山中の洞窟から発見した銅製銘板や佛像・仏具・木皮文書は、当時、地元では評判になったとのことで、そのことの裏付け調査のため、わたしは連休や土日の休みを利用して津軽を何度も訪れました。

 緊急の場合は金曜日の仕事が終わった後、京都駅から寝台特急日本海に乗り、土曜日の早朝に弘前駅に着き、弘前市や五所川原市の図書館で昭和22年以降(注①)の地元紙(主に東奥日報)を終日閲覧し、重要記事をコピーしました。そして藤崎町の藤本光幸邸に宿泊させて頂き、翌日も弘前か青森の図書館で新聞や関連書籍を夕方まで閲覧し、帰りも夜行列車日本海で京都に戻り、月曜日早朝の京都駅からそのまま出勤するという超ハードな調査旅行も行いました。帰りの車窓から見た、日本海に沈む夕日の美しさは今でも覚えています。

 40歳の頃でしたからできたことですが、それでもかなり疲れ、家族に迷惑や心配をかけ続けました。当時、古田先生を支持支援してきた「市民の古代研究会」が偽作キャンペーンに翻弄され分裂するなか、NHKや大手メディアも巻き込んで続く悪質な偽作キャンペーンに抗して、古田先生や古田史学を護るために〝やるか、やられるか〟の覚悟で偽作説への反証研究と現地調査を続けました。

 そうして得られた成果の一つが、昭和29年2月14日付の東奥日報の記事でした。和田家が和田家文書に基づいて発掘した文化財の一般公開を報じた記事です(注②)。掲載された写真には、若き日の和田喜八郎氏(26歳)と発見された佛像4体、経文、そして調査を担当した青森県教育庁文化財施設担当係員の市川秀一氏が写っています。その写真から、佛像の大きさなどがわかると思います。これらの歴史事実は和田家文書偽作説を否定する有力な物証です。残念なことに、現在の東奥日報は偽作キャンペーン紙に成り果ててしまいました。本稿末尾に同記事を転載します。戦後当時の状況がわかるはずです。(つづく)

(注)
①和田家文書が和田家の天井裏から落下したのが昭和22年夏。それ以降、当地の関係者(福士貞蔵氏・開米智鎧氏ら)の間で同文書が知られ始めた。
②古賀達也「昭和二九年東奥日報に掲載 和田家資料(出土物)公開の歴史」『古田史学会報』23号、1997年。

【『東奥日報』昭和29年2月14日付記事を転載】
五年前、和田親子が発掘 本邦には珍しい佛、神像など
融雪まって一般に公開 飯詰山中から古文化財出土

 北郡飯詰村大字飯詰、農和田元一さん(五五)同長男喜八郎さん(二六)親子は昭和二十四年七月同村東方の飯詰山中で炭焼窯を造ろうとして土中を掘り返したところ相当大きい石室を発見、発掘の結果仏、神像をはじめ仏具経木を利用した古文書などが出土した。出土品は本邦の原始宗教につながりのある全く珍しいものとされているが、同親子は出土品と場所を公開することを極端に拒否したためその真偽をめぐって関係者から興味を持たれていたが初の出土品の公開が十二日午前十時から同村大泉寺で行われた。

 この公開には県教育庁文化財施設係員市川秀一氏らも立会いアララ、カマラ仙人、老子、聖天狗、ガンダラ仏、アシュク如来、ムトレマイヲス、法相菩薩、救世観音像(いずれも同寺住職開米智鎧氏鑑定による)のほか経木に書いた祭文、原始宗教のうち山岳教(山伏し)の表徴で学説では架空の人物とされている『役の小角』の一代記の他、造形文字の古文書仏舎利壺などで出土品はこのほかまだ相当あるといわれるが公開されたもののうち摩訶如来像、ムトレマイヲス像は本邦には全く珍しいものといわれている。

 しかし同鑑定は中央の専門家によるものではなく、その上同村附近で産出する俗称『アマ石』で約千四百年前に製作された像としては原型が完全過ぎることと、問題である『役の小角』の晩年は山岳宗教家の間では『唐』へ渡ったという説があるため飯詰山中にその仏舎利があるわけはないと疑問視しているという。

 このため県教育庁では同日公開された出土品を写真に収め文部省の文化財保護委員会に鑑定を依頼することになったが、一方和田親子もこの疑問を解くため今春の雪融けと同寺に発掘場所を仏神教と考古学研究家に公開することになったので五年間とりざたされた同問題も一挙に解決することになった。
△和田喜八郎さん談 今まで公開しなかったのは出土品を政府に持って行かれては村としても困ると思ったからだ。出土品が本物だかどうかは発掘場所を見てもらえばはっきり解ると思う。今春その場所へ案内する。
△県教育課市川秀一氏談 開米住職の鑑定通りでは驚くほどのものだ。はっきり調査するため文化財保護委員会へ鑑定を依頼する。

【写真】『東奥日報』昭和29年2月14日付記事

【写真】『東奥日報』昭和29年2月14日付記事五年前、和田親子が発掘 本邦には珍しい佛、神像など 融雪まって一般に公開 飯詰山中から古文化財出土


第3074話 2023/07/20

「和田家文書」真作の根拠「役小角」銅板銘

 和田家文書が真作であることを示す有力な物証があります。戦後(昭和24年)、和田家(元市、喜八郎父子)が飯詰村梵珠山中の洞窟から発見した「北落役小角一代」が記された銅製の銘板です。わたしは銘板の所在を探しましたが、行方不明となっており、見つけることができていません。しかし、幸いにもその銘文は『飯詰村史』巻末に掲載された開米智鎧編「藩政前史梗概」(注①)に全文が掲載されており、内容を知ることが可能です。現在、その銘文をデジタルデータとして入力中ですので、「洛中洛外日記」において順次紹介することにします。

 この銅板銘は、数えたところ漢字1185字からなるもので、炭焼きを生業としていた和田家が戦後すぐに偽造できるようなものではありません。「藩政前史梗概」によれば、洞窟内での発見場所、銅板を納めた石造經筥と銅板の大きさ・枚数、そして内容を次のように紹介しています。

 「左方塔下に石造經筥が埋蔵されて居る。高サ五寸、長サ一尺三寸、幅五寸で、約一寸厚サの蓋石がある、此の筥に銅板
長サ 四寸/三寸 幅 一尺/一尺 枚数 四八枚
を納めて居る。内容は
訶摩經、秘傳、密傳、難行役小角一代、北落役小角一代、大法役公小角一代、神道修験文佛道修験文、誠弟子書、大祥記、修験宗大要、山岳修行歴筆、呪經品陀羅尼、終書羽黒山記
等であるが、大同小異のものだ。唯稀有の佛像菩薩像、明王像等の圖像が三十餘圖ある。」23~24頁

 当初、わたしは大きな一枚の銅板に記されたものと思っていたのですが、開米さんの説明によれば、長さ四寸・三寸、幅一尺の銅板48枚に書かれているとのこと。しかも、文字だけではなく佛像・菩薩像・明王像の図も30以上あるとのことです。この他にも「藩政前史梗概」冒頭には舎利壺・佛像・護摩具の写真5枚が掲載されており、佛像などに記された銘文も複数紹介されています。こうした出土事実について、わたしは論文(注②)で紹介し、和田家文書偽作説ではこうした事実を説明できないと主張してきましたが、偽作論者からの真っ当な反論はなく、悪意ある偽作キャンペーンが続きました。本稿の最後に銅板銘の冒頭と末尾を転載します。(つづく)

(注)
①五所川原市飯詰の大泉寺元住職。和田家文書に基づく著書『金光上人』昭和39年(1964)がある。
②古賀達也「『和田家文書』現地調査報告 —  和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。
「和田家『金光上人史料』発見のいきさつ — 佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く」『古田史学会報』7号、1995年。
「東日流外三郡誌とは — 和田家文書研究序説」『新・古代学』1集 1995年、新泉社。
「昭和二九年東奥日報に掲載 — 和田家資料(出土物)公開の歴史」『古田史学会報』23号、1997年。
同「洛中洛外日記」2581話(2021/09/26)〝『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(2) ―「役小角」史料を開米智鎧氏が紹介―〟
同「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」『東京古田会ニュース』207号、2022年。
同「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」『東京古田会ニュース』209号、2023年。

【銅板の銘文】(冒頭と末尾部分)
「北落役小角一代
大寶辛丑天六月十六日小角石化嶽上陸石化崎仁登深山仁建草堂我身最終地護摩修法小角曰常誠會者定離憂世也我宗祖阿羅羅迦蘭仙人栴檀煙不免給得獨來獨往生死道誰相伴事末之露本之□[雨冠に乍]
(中略)
遂大寶辛丑天十二月十一日入生身火葬行仁午刻無聊御悩大往生遂給其御臨終砌聞虚空音樂落蓮下現阿弥陀如来降迎來安養淨上引接給也

  和銅戊申天十二月十一日
唐小摩納之」

【写真】開米智鎧氏。出土した舎利壺、仏像、護摩具。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された仏像

「藩政前史梗概」に掲載された仏像