役小角一覧

第2885話 2022/11/29

『東京古田会ニュース』No.207の紹介

本日、『東京古田会ニュース』207号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」を掲載していただきました。同稿は和田家文書調査を開始した1994年頃からの思い出やエピソードを紹介したもので、昭和50年(1975年)から『市浦村史』資料編として世に出た『東日流外三郡誌』よりも先に公開された和田家文書について詳述しました。それは次のような資料です。

一、「飯詰町諸翁聞取帳」 昭和24年(1949年)
『飯詰村史』に和田家から提供された「飯詰町諸翁聞取帳」が多数引用されています。『飯詰村史』は昭和26年(1951年)の刊行ですが、編者の福士貞蔵氏による自序には昭和24年(1949年)の年次が記されており、終戦後間もなく編集されたことがわかります。福士氏は「飯詰町諸翁聞取帳」を『陸奥史談』第拾八輯、昭和26年(1951年)にも紹介しています。「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文です。

二、開米智鎧「役小角」史料 昭和26年(1951年)
『飯詰村史』で和田家の「役小角」史料を紹介されたのが開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)です。開米氏は「青森民友新聞」にも和田家発見の遺物について、昭和31年(1956年)11月1日から「中山修験宗の開祖役行者伝」を連載し、翌年の2月13日まで68回を数えています。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも6月3日まで80回の連載です。

三、開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964年)
和田家から提供された金光上人関連文書に基づいて著された金光上人伝が『金光上人』昭和39年(1964年)です。同書には多くの和田家文書が紹介されています。

来年1月14日(土)に開催される「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で、これらについて詳しく説明させていただきます。


第2884話 2022/11/28

「和田家文書調査の思い出」を作成

 来年1月14日(土)、東京古田会主催の「和田家文書」研究会で、「和田家文書調査の思い出」というテーマを発表させていただくことになりました。安彦克己さん(東京古田会・副会長)から要請されていたもので、ようやく発表用のパワーポイントファイルが完成しました。

 内容は、1994年から始めた古田先生との津軽行脚や独自調査の写真などを中心としたもので、懐かしい方々の写真や関連資料なども掲載しました。当時、津軽でお会いした方々の多くは物故されており、わたしの記憶が確かなうちにと、未発表の調査内容や証言をまとめました。

 たとえば昭和24年に和田家文書『諸翁聞取帳』を見て、『陸奥史談』『飯詰村史』で紹介した福士貞蔵氏。同じく役小角や金光上人史料を村史や著書で発表した開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)、佐藤堅瑞氏(泊村浄円寺住職、青森県仏教会々長)。市浦村日吉神社に秋田孝季らが奉納した「寛政元年宝剣額」が戦前から、あるいは戦後すぐに同神社にあったことを証言された青山兼四郎氏(中里町・測量士)、白川治三郎氏(市浦村々長)、松橋徳夫氏(荒磯崎神社宮司、日吉神社宮司を兼務)。『東日流外三郡誌』約二百冊を昭和46年に市浦村役場で見たと証言された永田富智氏(北海道史編纂者)らの写真や手紙などをお見せします(肩書きや地名はいずれも当時のもの)。残念ながらこれらの方々は既に物故されており、古田先生亡き今、証言内容や調査当時のことを詳しく知っているのはわたし一人となりました。

 後半は、行方不明になった『東日流外三郡誌』明治写本や「寛政原本」の所見、戦後作成の和田家文書レプリカについても説明させていただく予定です。和田家文書に関心を持つ多くの皆さんにお聞きいただければ幸いです。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第2577話 2021/09/22

『東日流外三郡誌』真実の語り部(3)

 「金光上人史料」発見のいきさつ
(佐藤堅瑞さん)

『東日流外三郡誌』が『市浦村史』資料編で紹介されるよりも早く、昭和二四年頃には当地の歴史研究者には和田家文書の存在が知られていました。そこで、当時のことを知っている人の証言を得るために、わたしたちは津軽半島各地を行脚しました。そしてようやく証言を得ることができました。1995年5月5日、青森県仏教会々長の佐藤堅瑞さん(柏村淨円寺住職。インタビュー当時、80歳)から次の証言をいただきました。その一部を抜粋して紹介します。全文は古田史学の会・HP「新・古代学の扉」に収録しています(注①)。

【以下、抜粋して転載】
インタビュー 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ
佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く

昭和二十年代、和田家文書が公開された当時のことを詳しく知る人は少なくなったが、故開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された青森県柏村淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(八十才)に当時のことを語っていただいた。(中略)「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから。」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。(編集部)

――和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。

昭和二四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
金光上人の文書も後から作った偽作だと言う人がいますが、とんでもないことです。和田さんに作れるようなものではないですよ。どこから根拠があって、そういうことをおっしゃるのか、(中略)安本美典さんでしょうか、「需要と供給」だなんて言って、開米さんや藤本さんの要求にあわせて和田さんが書いたなどと、よくこんなことが言えますね。

――和田家文書にある『末法念仏独明抄』には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。

そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた『末法念仏独明抄』なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。
それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。

――内容も素晴らしいですからね。

素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。

――御著書の『金光上人の研究』(注②)で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね(脱稿は昭和三二年頃、発行は昭和三五年一月)。

そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや『末法念仏独明抄』のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。

――和田さんの話しでは、昭和二二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二四年編集完了、二六年発行)に掲載されていますね。

そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二四年七月でしたから、その後のことですね。

――佐藤さんも洞窟を見られたのですか。

そばまでは行きましたが、見ていません。

――開米さんは洞窟に入られたようですね。

そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは師弟の間柄でしたから。

――和田さんは忍海という法名をもらって、権律師の位だったと聞いています。偽作論者はこれもありそうもないことだと中傷していますが。

正式な師弟の関係を結んだかどうかは知りませんが、権律師は師弟の関係を結べばすぐに取れますからね。それでね、和田さんは飯詰の駅の通りに小さなお堂を建てましてね、浄土宗の衣着て、一番最下位(権律師)の衣着て、拝んでおったんです。衣は宗規で決っておりますから、「あれ、権律師の位を取ったんかな」と私はそばから見ておったんです。直接は聞いておりませんが、師弟の関係を結んで権律師の位を取ったと皆さんおっしゃっていました。

――それはいつ頃の話しでしょうか。

お寺建てたのは、洞窟から経管や仏像が出て、二~三年後のことですから昭和二十年代の後半だと思います。

――佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。

淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。

――量はどのくらいあったのでしょうか。

あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。

――和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。(中略)それらがあちこちに出回っているようです。

そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。

――和田さんと古文書の筆跡が似ていると偽作論者は言っていますが。

私の孫じいさん(曾祖父)が書いたものと私の筆跡はそっくりです。昔は親の字を子供がお手本にしてそのまま書くんですよ。似ててあたりまえなんです。

――親鸞と弟子の筆跡が似ているということもありますからね。

そうなんです。心魂込めて師が書いたものは、そのまま弟子が受け継ぐというのが、何よりも師弟の関係の結び付きだったんですから、昔は。似るのが当り前なんです。偽物だと言う人はもう少し内容をきちんと調べてほしいですね。文書に出て来る熟語やなんか和田さんに書けるものではありません。仮に誰かの模写であったとしても模写と偽作は違いますから。
和田さんが偽作したとか、総本山知恩院の大僧正まで騙されているとか、普通言うべきことではないですよ。常識が疑われます。

――当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。〔質問者は古賀〕
【転載、おわり】

このインタビューは、1995年5月の連休に「古田史学の会・北海道」会員の皆さんと西津軽郡柏村淨円寺を訪問したときに行ったものです。一週間にわたる調査旅行でしたので多くの収穫に恵まれました。インタビューの前日には、昭和五十年頃に和田家文書のなかでも代表的な文書である『東日流外三郡誌』を『市浦村史』資料編として世に出されるに至った和田家内の状況について、和田喜八郎さんのご長女、和田章子(わだ・ふみこ)さんの証言が得られました。(つづく)

(注)
「インタビュー 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ 佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く」『古田史学会報』7号、1995年6月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou07.html
②佐藤堅瑞『金光上人の研究』昭和三五年(1960年)。

【写真】飯詰村史(昭和24年編集)と同誌に掲載されている和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺。

和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺

和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺

和田家が山中から発見した仏像

和田家が山中から発見した仏像

飯詰村史(昭和24年編集)

飯詰村史(昭和24年編集)


第1882話 2019/05/02

改変された『箕面寺秘密縁起』の「白鳳」

「洛中洛外日記」1880話で紹介した『箕面寺秘密縁起』の下記の九州年号のうち、「白鳳」がどのように改変されたのかについて改めて説明します。

①舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日 (甲午:634年)
②孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
③孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子春三月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
④孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次季(壬子)夏四月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
⑤天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳 (壬申:672年)
⑥持統天皇御宇、朱鳥八年歳次甲午春正月八日 (甲午:694年)
⑦持統天皇御宇、大化九秊乙未二月十日 (乙未:695年)
※〈〉内は二行細注。()内は古賀による注。

「洛中洛外日記」1880話では、「白鳳元年壬申」は本来の九州年号の白鳳元年(661年)ではなく、天武天皇の元年を「白鳳元年」とする後代改変形としたのですが、より正確に言えば本来は「白鳳元年辛酉」(661年)とあったものを天武天皇の元年壬申を意味する「天武天皇御宇、白鳳元年壬申」(672年)に改変したと考えられます。その証拠は日付干支の「春二月四日己巳」です。
『箕面寺秘密縁起』には何故かこの「白鳳元年」記事には日付干支が記されているのですが、この時期に「二月四日」の日付干支が「己巳」の年は661年「白鳳元年辛酉」だけです。このことから「天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳」の本来型は九州年号の「白鳳元年辛酉春二月四日己巳」であり、「天武天皇御宇」が付記され、「辛酉」(661年)が「壬申」(672年)に改変されていたことになります。このケースでは日付干支が書き換えられずに残っていたため、改変過程が明らかにできたものです。
実はこの『箕面寺秘密縁起』の「白鳳元年」記事の改変過程については、30年前にわたしは論文で発表していました。『市民の古代研究』35号(市民の古代研究会編、1989.09)に掲載された「平野・丸山論争への私見② 『箕面寺秘密縁起』の史料批判」です。自分が書いたこの論文のことを失念していました。まだ古田史学に入門して三年ほどのとき(34歳)の論文ですから、今よりももっと拙い文章なのですが論証方法や結論は間違っていないと思います。
更に史料批判を進めるならば、改変前の「白鳳元年辛酉春二月四日己巳」(661年)のこととして同縁起に記された元記事の信憑性は高いと判断できます。なぜなら元史料は本来の九州年号「白鳳」と正確な日付干支で記されていたわけですから。ちなみに同縁起の当該記事は次のようなものです。

「行者五十二歳、天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳、卯時出瀧本」

この記事では役行者が52歳のときを「天武天皇御宇、白鳳元年壬申」としているのですが、同縁起によれば役行者は「舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日」(634年)に生まれたとあることから、52歳のときは685年(九州年号の朱雀二年)であり、「白鳳元年」が仮に壬申(672年)でも、本来の癸酉(661年)でも一致しません。したがって、本来型の「白鳳元年辛酉(661年)春二月四日己巳」のとき52歳だった別の人物の伝承が、『箕面寺秘密縁起』に取り込まれたという可能性もありそうです。この点は同縁起全体の史料批判や関連伝承・史料などの調査研究により明らかにできるかもしれません。機会と時間があれば現地を訪問してみたいものです。


第1880話 2019/04/26

『箕面寺秘密縁起』の九州年号

箕面市平尾の龍安寺が蔵する『箕面寺秘密縁起』には九州年号が記されています。『修験道史料集(Ⅱ)』によれば次のようです。

①舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日 (甲午:634年)
②孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
③孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子春三月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
④孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次季(壬子)夏四月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
⑤天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳 (壬申:672年)
⑥持統天皇御宇、朱鳥八年歳次甲午春正月八日 (甲午:694年)
⑦持統天皇御宇、大化九秊乙未二月十日 (乙未:695年)

※〈〉内は二行細注。()内は古賀による注。

『箕面寺秘密縁起』は箕面寺草創の歴史と役行者について記したもので、江戸時代初期以前の成立と見られています。そこに記された九州年号は「不正確」であり、編纂時に「九州年号」年代記などを参照して改変付記されたものと思われます。
たとえば⑤の「白鳳元年壬申」は本来の九州年号の白鳳元年(661年)ではなく、天武天皇の元年を「白鳳元年」とした後代改変された「白鳳」です。⑥の「朱鳥八年歳次甲午」も本来の九州年号「朱鳥八年(693年)」とは一年ずれており、持統天皇元年を「朱鳥元年」とした改変型です。『万葉集』に見える「朱鳥」も同様の改変型です。
⑦の「大化九秊乙未」は改変型というよりも、本来の九州年号「大化元年乙未」の誤写(元→九)の可能性があります。なお、本稿で示した「本来の九州年号」とは最も史料価値が高い『二中歴』系の九州年号です。
『箕面寺秘密縁起』の九州年号で最も興味深いのが②③④の「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」という表記です。これでは「白雉元年」が庚戌(650年)なのか、壬子(652年)なのかわかりません。この意味不明な表記に同縁起編者の苦悩の跡が見て取れます。元史料には「白雉元年歳次壬子」(652年)とあったが、『日本書紀』の孝徳紀「白雉元年」は庚戌(650年)であるため、『日本書紀』との「整合性」を保つために細注で「庚戌」と付記したことにより、この意味不明の表記「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」になったのです。このとき、更に「歳次壬子」の部分を削除していれば「白雉元年〈庚戌〉」となり、『日本書紀』と矛盾しないのですが、なぜか編者はそれをしていません。その結果、同縁起に九州年号「白雉元年」の本来の姿(歳次壬子)を留めたわけです。このように、九州年号には本来型と『日本書紀』の内容に整合させるための後代改変型が各史料に散見します(例えば『高良記』の「白鳳」など)。
この「白雉」年号の二年のずれについては、三十年前にも古田学派内で論争がありました。「市民の古代研究会」時代に、九州年号研究で先駆的研究をされた丸山晋司さんは、本来の九州年号「白雉」が『日本書紀』孝徳紀に二年ずらして転用されたとする立場に立たれていました。わたしもこの意見に賛成です。
他方、熊本市の平野雅曠さんは、干支が二年ずれた暦法によるもので、共に同年のこととする説を発表され、丸山さんと激しい論争が続きました。その後、平野さんは亡くなられ、丸山さんも「市民の古代研究会」の分裂を機に九州年号研究から離れられ、この論争自体は「未決着」となりました。
この白雉元年が『二中歴』などの九州年号史料に見える「壬子(652年)」なのか、『日本書紀』孝徳紀の「庚戌(650年)」なのかについて決着をつけたのが芦屋市三条九之坪遺跡から出土した一枚の木簡でした。この木簡について、『木簡研究』には「三壬子年」と発表され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年(652年)」のことと解説されていました。しかし、この報告に疑問を感じたわたしは、古田先生等と共に兵庫県教育委員会の許可を得て同木簡を精査したところ、「三」と読まれていた文字が「元」であることを確認しました。すなわち、「(白雉)元壬子年(652年)」という九州年号木簡だったのです。調査には光学顕微鏡や赤外線カメラ(大下隆司さん撮影)を持ち込み、二時間にわたりわたしは同木簡を観察し、「元壬子年」と書かれていることを確認しました。
同木簡は出土当時は紀年銘木簡としては国内最古であり、研究者から注目されました。ところが、わたしや古田先生が九州年号「(白雉)元壬子年」木簡であることを論文や書籍(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)で発表したとたんに、古代史学界でのこの木簡に対する取り扱いが〝冷淡〟になりました。すなわち、この木簡が九州年号や九州王朝の実在を直接的に示す同時代史料であるため、大和朝廷一元史観の学界はこの木簡の存在に触れることは〝やばい〟と判断したかのようでした。その結果、従来は「三壬子年」と紹介されていたのが、紹介しないか、紹介しても「壬子年」木簡という表記で紹介するようになり、「三」とも「元」とも触れない傾向が今も続いています。
この「元壬子年」木簡の発見は、「白雉」年号の本来型論争に決着をつけただけではなく、九州年号や九州王朝説についてもそれが真実であったことを白日の下に晒すこととなりました。もし、今回の「令和」改元ブームの中で、マスコミがこの「元壬子年」木簡の存在と意義を広く国民に知らせたなら、日本古代史はパラダイムシフトを起こすことでしょう。しかしながら、権威への忖度を旨とする現代日本のメディアにそれを期待することはできないでしょう。わたしたち古田学派は学問そのものが持つ〝真実を追究する力〟により、パラダイムシフトを起こさなければならないのです。そしてそれは可能です。あのベルリンの壁が壊れたように、人間が造った壁(歴史観)は人間によって変革することもできるのです。わたしはこのことを一瞬たりとも疑ったことはありません。