古田武彦一覧

第3372話 2024/10/23

「九州王朝の宝冠」調査記録の発見

 10月11日に亡くなられた水野孝夫顧問(古田史学の会・前代表)の研究年譜を作成するため、13日は夜を徹して関連論文集などを調査しました。その作業中にいくつもの重要な論稿の存在に気づきました。発表当時に読んでいたはずですが、その重要性に気づかなかったようです。その一つが、『市民の古代研究』第52号(1992年8月、市民の古代研究会編)掲載の藤田友治(注)「謎の宝冠 失われた九州王朝の王冠か(2)」です。

 同宝冠は男女二対あり、素人目で見ても国宝・重文級のものです。1999年6月19日、わたしは古田先生にご一緒し、所蔵者の柳沢義幸さんのご自宅(筑紫野市)で拝見したことがあります。柳沢さんの説明では、太宰府市五条に住んでいる老人から購入したとのことで、どうやら近くの古墳から出土したものらしく、貴重な遺物が散逸しないよう、柳沢さんが買い取っていたとのこと。しかし、それ以上のことは聞けませんでした。「洛中洛外日記」3066話(2023/07/12)〝九州王朝宝冠の出土地〟でも、この宝冠の出所について触れたのですが、藤田さんの報告は詳細なもので、今更ながら驚きました。柳沢さんの発言部分を転載します。

【以下、転載】
「この老人の姓名を始めて申しますが、佐藤荘兵衛といい、当時七十歳位の老人で、昭和三十年頃、丁度、福岡市近郊が宅地造成で沸き立っていた頃です。その老人が一粒の硝子玉を持参しました。彼は私の病院の患者で、高血圧症で通院し、太宰府近郊から出土した土器や瓦のカケラ等を持参するので、その都度、煙草銭と称してわずかの金銭をやっていました。彼は鬼の面などを自分で彫刻し、細々と独り暮しをしていました。彼の持参するものは、この地方から出土したもので(盗掘品であるかも知れませんが)、大切そうに持って来るのが常でした。ところが、この硝子玉は驚いたことに、従来のものとは全く異なっていました。その表面に銀化現象があるのです。詳しく聞いてみると、『まだ他に別のものがある』というのです。そこで、一つ位ではなく、全部一括して買ってやると約束しましたところ、同様の硝子玉全部と、玉二個を一緒にして、〝安い値〟(白米五升位)で買い取りました。その時、彼が言うには、『別に男女の冠が出ている。これは熊本市内の古物商が買い取り、京都へ売りに行くことになっている』というのです。

 私は次のように言ったのを記憶しています。『福岡地方に出土したものは、絶対に他県へ持ち出す事を固く禁止していた筈だ。(当時、我々有志の者で、太宰府文化懇話会を作っていました。)それなのに、その冠を他県へ売ってはいけない。もし、売ってしまったら今まで買った品は全部返却する』と申しますと、彼はしぶしぶながら、その宝冠を持参しました。出所は絶対に秘密にする条件を付けました。私は白米約壱俵分位の値段で買い取りました。彼の特徴は、高い値段をつけることはなく、小遣いかせぎ位の値段が常でした。とても、昔気質の男で韓国からの密輸品などは持って来ないし、もしこれが韓国などから密輸したものであったら、こんな安価な取り引きはしないと思います。また、私などよりもっと条件のよい相手と取り引きをやったと思います。さらに、貢(ママ)の宝冠の所有者が別にいたら、佐藤老人の如き素人に依託せずに、もっと高価な商売をしたと思います。

 ただ、残念なのは、この冠の出所を明確に出来なかった事であります。そのうち、彼の機嫌の良い時に聞き出せると思っていましたが、数年後に死亡してしまいました。

 ある日、彼の息子と称する農夫がやって来て、父が危篤ですから、往診をして下さいと申しますので、直ぐにその家に行きました。

 彼の家は筑紫野市の鉢摺(はちすり)峠にあり、老人はその息子の家で、静かに眠るが如く横たわっていました。脈をとると既になく、心音も聴診できず、死強(しごう)も死斑(しはん)もありました。然し、苦悶した様子は一切なく、明らかに老衰による自然死でした。」

 その後、藤田さんは柳沢さんの記憶をたよりに、息子さん(佐藤武氏、調査当時六七歳)の家を訪問すると、「柳沢先生、よう覚えて、来て下さった。」と大喜びされ、「父は一五年前に死にました。残念ながら、宝冠のことは父から何も聞いていません。」とのことでした。

 昨年の七月、久留米大学で講演した時、参加されたYさんから、宝冠の出土地が朝倉郡筑前町夜須松延の鷲尾古墳と記す書籍のことを教えていただきました。筑紫野市と夜須とはちょっと離れていますが、現地の方に調査していただければ幸いです。

 今回の藤田稿の存在をわたしは完全に失念していましたが、水野さんのお導きにより、再発見できたように思います。

(注)当時、市民の古代研究会々長。同会の創立者。古田史学の会の創立に参加された。


第3365話 2024/10/09

アニメ『チ。-地球の運動について-』(3)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」には、次のキャッチコピーがあります。

 「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」

 この言葉には、古田先生の生き様と通じるものを感じます。今から三十数年前のこと。青森で東奥日報の斉藤光政記者の取材を先生は受けました。和田家文書偽作キャンペーンを続ける同記者に対して、先生は次の言葉を発しました。

 「和田家文書は偽書ではない。わたしは嘘をついていない。学問と真実を曲げるくらいなら、千回殺された方がましです。」

 このとき、わたしは同席していましたので、先生のこの言葉を今でもよく覚えています。
他方、「美学」という言葉は、わたしは古田先生から直接お聞きした記憶はないのですが、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から次のようなことを教えていただきました。

 久留米大学の公開講座に古田先生が毎年のように招かれ、講演されていたのですが、あるときから先生に代わって私が招かれるようになり、今日に至っています。その事情をわたしは知らなかったのですが、水野さんが古田先生にたずねたところ、先生が後任に古賀を推薦したとのことでした。そのことを古賀に伝えてはどうかと水野さんは言われたそうですが、古田先生の返答は、「わたしの美学に反する」というものだったそうです。先生の高潔なご人格にはいつも驚かされていたのですが、このときもそうでした。ですから、わたしは久留米大学から招かれるたびに、先生の「美学」に応えなければならないと、緊張して講演しています。(つづく)


第3364話 2024/10/08

アニメ『チ。-地球の運動について-』(2)

 ―真理(多元史観)は美しい―

アニメ「チ。―地球の運動について―」は、15世紀のヨーロッパにおいて、教会から禁圧された地動説を命がけで研究する人々を描いた作品です。その中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトと、一人で天体観測を続けていたラファウ少年との間で、次のような会話が交わされます。それは、不規則な惑星軌道を天動説で説明しようとするラファウと、それを詰問するフベルトとの対話です。

フベルト「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」
ラファウ「(天動説の複雑な理屈は)あまり美しくない。」
フベルト「太陽が昇るのではなく、われわれが下るのだ。地球は2種類の運動(自転と公転)をしている。太陽は動かない。これを教会公認の天動説に対して地動説とでも呼ぼうか。」

この対話を聞いて、古田先生の九州王朝説・多元史観と学界の大和朝廷一元史観との関係を思い起こしました。両者について、わたしは次のように指摘したことがあったので、フベルトの言葉が重く響いたのです。

〝学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。〟(注)

「チ。―地球の運動について―」では、ラファウ少年が地動説研究を行っていたことが教会に発覚しそうになったとき、フベルトは自らが身代わりとなって〝罪〟をかぶり、火あぶりの刑になりました。残されたラファウ少年は、「今から地球を動かす」と、地動説研究を引き継ぎます。(つづく)

(注)古賀達也「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。


第3355話 2024/09/28

『続日本紀』道君首名卒伝の

    「和銅末」の考察 (番外編)

当連載では、『続日本紀』養老二年(718)四月条の道君首名卒伝に見える「和銅末」の「末」に焦点を当てて、『続日本紀』では「末」の字がどのような意味で使われているのかを論じています〈和銅年間の末年は和銅八年(715年)〉。従って、論証が機微に至り、検証対象が広範囲にわたっています。その為か、根源的な問題は何なのかという本来の論点から離れ、「末」の字義についての抽象論や「他の可能性もある」などの一般論(注①)がテーマと受け取られかねないことに気づきました。そこで、本テーマの本来の論点を再確認し、なぜ『続日本紀』の悉皆調査を行っているのかを改めて説明することにしました。そのきっかけの一つとなったのが次の対話でした。

わたしのFacebookで当連載を読んだKさんから質問とご意見が寄せられましたので、次のように返答しました。ちなみに、Kさんは熱心な読者で、真摯かつ鋭い質問や思いもよらぬ視点を度々いただいており、ありがたく思っています。

〝古賀 様 「末」の概念は「本」から離れた先の方とのことのようです。「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅があるようです。故に「最後」だけではないように思えます。ただ、その幅がどれくらいかは難しいのではと思います。〟

〝Kさん、今回の問題の根幹は、船王後墓誌の「アスカ天皇の「末」歳次辛丑(641年)」の「末」をどのように理解するのかにあります。ですから、抽象論ではなく、極めて具体的な文脈中にある「末」について、それを書いた人が、なぜ「末」の一字を墓誌に加えたのかというテーマです。船王後の没年は「歳次辛丑」により特定されており、九州王朝のアスカ天皇の没年がその5年後(注②)であったとするなら、「末」の字は全く不必要です。古田新説ではこの問題に答えることができません。

他方、通説では舒明天皇のこととしますから、舒明は辛丑年に没したと日本書紀にあり、文献と金石文が一致します(古田先生のいうシュリーマンの原則(注③)「史料と考古学事実が一致すれば、それはより真実に近い」です)。古田新説ではこの事実も「偶然の一致」として無視しなければならず、これは学問的ではありません。自説に都合の悪い「末」を本来の字義ではなく、異なる解釈論でスルーしたり、文献と金石文の一致を根拠としている通説を「偶然の一致」として無視するのも、古田先生から学んだ学問の方法とは異なります。

今回の連載では、続日本紀の首名卒伝に見える「和銅末」を根拠とする批判に対しての反論であり、従って続日本紀の「末」の悉皆調査により、当時の人々の認識を明確にし、「末」の字が具体的にどのようなことに対して使用しているのかを論じています。現代人の抽象論や一般的な可能性をテーマとはしていません。続日本紀内に『「末」は「先」ではなく「本の方に対して、先の方」という観念の文字』と理解しなければならない用例があるのでしたら、具体的にご指摘いただけないでしょうか。わたしが読んだ限りでは、そのような例は見当たりませんでしたので。〟

学問や研究は、Kさんのように真摯な対話や論争により、深化発展するものと、わたしは考えています。なお、Kさんのご意見にもあるように、〝「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅がある〟というケースについては本連載で後述します。(つづく)

(注)
①他の可能性もあるとする一般論を否定しないが、その場合、なぜ第一義を採用してはならず、他の可能性を採用しなければらないのかの説明責任が、そう主張する側に発生する。

船王後墓誌の「末」の字の場合も同様の論証責任が発生する。なぜなら、通説の理解で問題なく墓誌の文章を読めるからだ。「末」本来の字義ではなく、九州王朝の天子の没年の五年前でも「末」の期間に含まれると考えればよいという方に、なぜ、アスカ天皇の没年と理解されかねない、かつ文脈上不要な「末」の一字が書かれたのかという説明責任も発生している。
②辛丑年(641年)は九州年号の命長二年に当たり、九州王朝の天子の崩御があれば改元するはずだが、命長七年(646年)の翌年(647年)に常色元年に改元されている。
③古田先生の「シュリーマンの原則」については次の論考を参照されたい。
古田武彦「補章 二十余年の応答」『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房、古代史コレクション1、2010年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/outouho.html
古田武彦「天孫降臨の真実」
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kourinj/kourinj.html


第3350話 2024/09/23

『続日本紀』道君首名卒伝の

       「和銅末」の考察 (1)

 古田先生が晩年に提唱された、七世紀の金石文に見える「天皇」は九州王朝天子の別称とする新説(古田新説)に対して、わたしは旧説(天子の配下のナンバーツーとしての「天皇」)の方が妥当として、古田先生とも〝論争的対話〟を続けていました(注)。

 その論点の一つとして、国宝の船王後墓誌(668年成立)にある「阿須迦天皇之末歳次辛丑年(641年)」がありました。阿須迦天皇を九州王朝の天子とする先生に対して、その年(歳次辛丑年)に没した舒明天皇とする通説は『日本書紀』と一致しており妥当だが、阿須迦天皇之末の歳次辛丑年(641年)あるいはその翌年に九州年号「命長」は改元されていないので(改元は6年後、647年の常色元年丁未)、九州王朝の天子ではないとしました(このことを最初に指摘したのは正木裕さん)。

 このようなわたしの見解に対して、服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)から次の批判がなされました。多元的古代研究会のリモート研究発表(「天皇称号について」2024年9月20日)での服部さんの資料から転載します。

【以下、転載】
④古田氏の『「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の治世年代は永かったと見られるが』部分の古賀氏の批判はその通りです。しかし、永くなければ「末」と言う表現は使わないのか。以下に『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)を示す。

(1) 天智紀7年(668)10月、「大唐の大将軍英公が高麗を討ち滅ぼす。高麗の仲牟王が初めて建国した時に(中略)母に七百年の治あらんと言われた。今此国が亡ぶのはまさに七百年之末也。」
⇒『三国史記』・『三国遺事』ともに東明王の建国を漢の孝元帝健昭2年(紀元前37)とするので、実際には建国後705年に滅んだことになります。これを700年の末と記述しているのです。700年と少しの後と言う意で末を使っています。

(2) 養老2年(718)4月条、「筑後守正五位下道君首名(みちのきみおびとな)卒する。首名はおさなく律令を治め、吏職に明らかなり。和銅の末に出でて筑後守となり~」
⇒首名の筑後の守の任官は和銅6年(713)8月に対し、和銅年号は8年9月までです。8年足らずの間の内2年の期間でも末を使用しているのです。
つまり「末」と言う語は、末年1年限りについてのみ使用する語とは限りません。少なくとも古賀氏の言う「5年間も末年が続いたことになり、これこそ不自然」との批判は当らないのです。
【転載終わり】

 この批判、特に(2)の「道君首名卒伝」の「和銅の末」はとても興味深い指摘です。服部さんからの反論要請もあり、今回はこの「道君首名卒伝」について検討しました。(つづく)

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」一七三七~一七四六話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
「船王後墓誌」の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』一五二号、二〇一九年。
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』一七三号、二〇二二年。
同「『天皇』銘金石文の史料批判 ―船王後墓誌の証言―」『古田史学会報』一八二号、二〇二四年。


第3343話 2024/09/10

『魏書』の中国風一字名称への改姓記事

 ある調査のため『魏書』(注①)全巻を斜め読みしたのですが、興味深い記事がありました。「官氏志九第十九」(魏書 一百一十三)の末尾に見える「一字名称への改姓記事」の一群です(少数ですが二字の姓も見えます)。

 北魏(386~535年)は中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国ですが(注②)、国内で中国化を目指す勢力と鮮卑族の風習を守ろうとする勢力による対立が続きました。孝文帝の漢化政策により鮮卑の服装や言語の使用禁止、漢族風一字姓の採用などが実施されました。

 この漢族風一字姓とは異なりますが、古田先生は倭国では中国風一字名称が採用され、『宋書』倭国伝に見える倭王の名前「讃」「珍」「済」「興」「武」がそうであると指摘しました。北魏においては漢族風一字姓への改姓が強力に推し進められたことが『魏書』「官氏志九第十九」に次のように記録されています。比較しやすいように、旧姓と改姓に「 」を付しました。

獻帝以兄為「紇骨」氏、後改為「胡」氏。
次兄為「普」氏、後改為「周」氏。
次兄為「拓拔」氏、後改為「長孫」氏。
弟為「達奚」氏、後改為「奚」氏。
次弟為「伊婁」氏、後改為「伊」氏。
次弟為「丘敦」氏、後改為「丘」氏。
次弟為「侯」氏、後改為「亥」氏。
七族之興、自此始也。
又命叔父之胤曰「乙旃」氏、後改為「叔孫」氏。
又命疏屬曰「車焜」氏、後改為「車」氏。
凡與帝室為十姓、百世不通婚。太和以前、國之喪葬祠禮、非十族不得與也。高祖革之、各以職司從事。
神元皇帝時、餘部諸姓内入者。
「丘穆陵」氏、後改為「穆」氏。
「步六孤」氏、後改為「陸」氏。
「賀賴」氏、後改為「賀」氏。
「獨孤」氏、後改為「劉」氏。
「賀樓」氏、後改為「樓」氏。
「勿忸于」氏、後改為「於」氏。
「是連」氏、後改為「連」氏。
「僕蘭」氏、後改為「僕」氏。
「若干」氏、後改為「茍」氏。
「拔列」氏、後改為「梁」氏。
「撥略」氏、後改為「略」氏。
「若口引」氏、後改為「寇」氏。
「叱羅」氏、後改為「羅」氏。
「普陋茹」氏、後改為「茹」氏。
「賀葛」氏、後改為「葛」氏。
「是賁」氏、後改為「封」氏。
「阿伏於」氏、後改為「阿」氏。
「可地延」氏、後改為「延」氏。
「阿鹿桓」氏、後改為「鹿」氏。
「他駱拔」氏、後改為「駱」氏。
「薄奚」氏、後改為「薄」氏。
「烏丸」氏、後改為「桓」氏。
「素和」氏、後改為「和」氏。
「吐谷渾」氏、依舊「吐谷渾」氏。
「胡古口引」氏、後改為「侯」氏。
「賀若」氏、依舊「賀若」氏。
「谷渾」氏、後改為「渾」氏。
「匹婁」氏、後改為「婁」氏。
「俟力伐」氏、後改為「鮑」氏。
「吐伏盧」氏、後改為「盧」氏。
「牒云」氏、後改為「雲」氏。
「是雲」氏、後改為「是」氏。
「叱利」氏、後改為「利」氏。
「副呂」氏、後改為「副」氏。
「那」氏、依舊「那」氏。
「如羅」氏、後改為「如]氏。
「乞扶」氏、後改為「扶」氏。
「阿單」氏、後改為「單」氏。
「俟幾」氏、後改為「幾」氏。
「賀兒」氏、後改為「兒」氏。
「吐奚」氏、後改為「古」氏。
「出連」氏、後改為「畢」氏。
「庾」氏、依舊「庾」氏。
「賀拔」氏、後改為「何」氏。
「叱呂」氏、後改為「呂」氏。
「莫那婁」氏、後改為「莫」氏。
「奚斗盧」氏、後改為「索盧」氏。
「莫蘆」氏、後改為「蘆」氏。
「出大汗」氏、後改為「韓」氏。
「沒路真」氏、後改為「路」氏。
「扈地於」氏、後改為「扈」氏。
「莫輿」氏、後改為「輿」氏。
「紇干」氏、後改為「干」氏。
「俟伏斤」氏、後改為「伏」氏。
「是樓」氏、後改為「高」氏。
「尸突」氏、後改為「屈」氏。
「沓盧」氏、後改為「沓」氏。
「嗢石蘭」氏、後改為「石」氏。
「解枇」氏、後改為「解」氏。
「奇斤」氏、後改為「奇」氏。
「須卜」氏、後改為「卜」氏。
「丘林」氏、後改為「林」氏。
「大莫干」氏、後改為「郃」氏。
「爾綿」氏、後改為「綿」氏。
「蓋樓」氏、後改為「蓋」氏。
「素黎」氏、後改為「黎」氏。
「渴單」氏、後改為「單」氏。
「壹斗眷」氏、後改為「明」氏。
「叱門」氏、後改為「門」氏。
「宿六斤」氏、後改為「宿」氏。
「馥邗」氏、後改為「邗」氏。
「土難」氏、後改為「山」氏。
「屋引」氏、後改為「房」氏。
「樹洛于」氏、後改為「樹」氏。
「乙弗」氏、後改為「乙」氏。
東方宇文、慕容氏、即宣帝時東部,此二部最為強盛,別自有傳。
南方有「茂眷」氏、後改為「茂」氏。
「宥連」氏、後改為「雲」氏。
次南有「紇豆陵」氏、後改為「竇」氏。
「侯莫陳」氏、後改為「陳」氏。
「庫狄」氏、後改為「狄」氏。
「太洛稽」氏、後改為「稽」氏。
「柯拔」氏、後改為「柯」氏。
西方「尉遲」氏、後改為「尉」氏。
「步鹿根」氏、後改為「步」氏。
「破多羅」氏、後改為「潘」氏。
「叱干」氏、後改為「薛」氏。
「俟奴」氏、後改為「俟」氏。
「輾遲」氏、後改為「展」氏。
「費連」氏、後改為「費」氏。
「其連」氏、後改為「綦」氏。
「去斤」氏、後改為「艾」氏。
「渴侯」氏、後改為「緱」氏。
「叱盧」氏、後改為「祝」氏。
「和稽」氏、後改為「緩」氏。
「冤賴」氏、後改為「就」氏。
「嗢盆」氏、後改為「溫」氏。
「達勃」氏、後改為「褒」氏。
「獨孤渾」氏、後改為「杜」氏。
凡此諸部、其渠長皆自統眾,而尉遲已下不及賀蘭諸部氏。
北方「賀蘭」、後改為「賀」氏。
「鬱都甄」氏、後改為「甄」氏。
「紇奚」氏、後改為「嵇」氏。
「越勒」氏、後改為「越」氏。
「叱奴」氏、後改為「狼」氏。
「渴燭渾」氏、後改為「味」氏。
「庫褥官」氏、後改為「庫」氏。
「烏洛蘭」氏、後為「蘭」氏。
「一那蔞」氏、後改為「蔞」氏。
「羽弗」氏、後改為「羽」氏。

 この改姓リストを見ると、国を挙げて中国化を進めたことがわかります。北方系異民族である鮮卑族の王朝が漢民族の文化を積極的に受け入れたという事実は、歴史現象としても興味深いものです。

 この中国化という視点で日本列島の動向を考えると、『宋書』倭国伝に見える倭王が中国風一字名称を採用したことは、五世紀の倭国(九州王朝)に於いて中国化が進んでいたのかもしれません。多利思北孤の時代(七世紀初頭)になると、「阿毎多利思北孤」と倭語の名前が『隋書』俀国伝に記されていますから、中国の天子に宛てた国書の自署名に中国宇一字名称ではなく、「阿毎多利思北孤」を使用したと考えざるを得ません。従って、この時代には倭国の中国化は進まず、倭国文化(万葉仮名、舞楽など)が花開いたのではないでしょうか。

(注)
①『魏書』(一)~(三)、百衲本二十四史、台湾商務印書館。
②国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏と区別するため、通常はこの拓跋氏の魏は「北魏」と呼ばれている。


第3342話 2024/09/07

古田武彦『古代通史』の「天皇号」論

 古田武彦著『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』は原書房から1994年に発刊され、ミネルヴァ書房から「古田武彦古代史コレクション27」として復刻されています。同書冒頭には『東日流外三郡誌』の編著者秋田孝季と和田長三郎の名前が記された寛政宝剣額(注①)のカラー写真(青山富士夫氏撮影)が掲載されており、それを見ると和田家文書調査のため古田先生と津軽半島を駆け巡った三十年前のことを思い出します。

 この度、同書を数年ぶりに読み返しました。倭国(九州王朝)における「天皇」号についての古田先生の認識について調べていたところ、日野智貴さん(『古代に真実を求めて』『古田史学会報』編集部員)から『古代通史』に書かれていることを教えていただきました。同書はお茶の水図書館での講義を高田かつ子さん(「多元的古代」研究会・関東 会長・故人)がテープ起こししたものなので、論文のように厳密な文章ではなく、参加者に語りかける文体となっています。この点、配慮して読む必要があります。同書の251~252頁にかけて、次のようにありました。

 〝近畿にいるのはなにかというと、これははっきりいいますと大王なんです。これは当時の金石文に出てきますが、「大王天皇」という言葉で呼ばれている。法隆寺の薬師仏の裏の光背銘に出てきます。中国の用法では「天皇」というのは、天子ではないんです。本来、天子というのは洛陽・長安にいる天子しか、天子ではないんです。それに対して周辺の部族、中国人がいう蛮族が「天子」を名のるとヤバイ。これを中国は許しませんから、それで、天皇を名のっているわけです。いわば「天皇」というのは「準天子」みたいな、大王の中で〝有力な大王〟だぞ、っていうのが天皇といういい方の名まえなんです。もちろん〝天子の敬称〟の意味でも使いますけど、本来は、そういう意味のものなんです。だからここでは大王の天皇です。〟

 同書では、古田先生は天皇は天子ではないと明確に述べています。〝天子の敬称〟の意味でも使うとあるのは、「唐書高宗紀、上元三年(676年)八月壬辰 皇帝天皇と称し、皇后天后と称す。」(『称謂録』天子古称・天皇)とあるケースで(注②)、倭国で「天皇」号が金石文(野中寺彌勒菩薩像の「中宮天皇」、666年に成立)に現れる方が先行していることから、この唐の高宗の敬称としての「天皇」とは関係なく七世紀の倭国で天皇号は採用されています。

 〝中国の用法では「天皇」というのは、天子ではない〟とされ、〝いわば「天皇」というのは「準天子」〟と位置づけていますから、これは古田旧説の「近畿天皇家は、九州王朝の天子の下のナンバーツーとしての天皇」という仮説の根拠になった当時の認識です。ですから、晩年、発表された〝七世紀の金石文に見える「天皇」は九州王朝の「天子」の別称で、近畿天皇家が天皇を称したのは文武から〟とする新説を提唱されるにあたり、当初の〝「天皇」は「天子」ではない〟とした自説の根拠をまず否定・批判されるべきではなかったかと思います。そうであれば、旧説から新説への変更に対しての説得力が増したと思われます。残念なことに、それがなされないまま、新説を提唱されましたので、わたしは今でも旧説が妥当と考え、金石文や木簡を根拠にして、その理由を論じてきたところです(注③)。

(注)
①青森県市浦村の山王日枝神社に奉納された宝剣額。「寛政元年(一七八九)八月一日」の日付を持ち、秋田孝季と和田長三郎(吉次)が『東日流外三郡誌』完成を祈願したもの。
②『旧唐書』には、咸亨五年(674年、同年八月に上元に改元)八月壬辰条に「皇帝天皇と称し、皇后天后と称す。」とある。正木裕氏のご教示による。
③古賀達也「船王後墓誌の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
同「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』152号、2019年。
同「洛中洛外日記」3336~3341話〝同時代エビデンスとしての「天皇」木簡 (1)~(5)〟(2024/08/29~09/05)。
同「飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言」『古田史学会報』184号に投稿中。


第3335話 2024/08/23

古田武彦・山田宗睦対談

      での「古田学派」

 かつて富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)が発行していたグラフィケーション(GRAPHICATION)という雑誌に古田先生と山田宗睦さんの対談が掲載され、そのなかで山田さんが「学派」「古田学派」について触れた部分があります。哲学者らしい山田さんの考察が述べられていますので、転載します。

https://furutasigaku.jp/jfuruta/yamafuru.html
グラフィケーションNo.56(通巻245号)
1991年(平成3年)8月発行
対談・知の交差点 4

古代史研究の方法をめぐって

古田武彦氏(昭和薬科大学教授 日本思想史)
山田宗睦氏(関東学院大学教授 哲学)

山田 いまは大学の中に学派というものがなくなって、市民の中に古田学派のようなものができているというのは、いいことだと思います。これは戦前のような、知的な特権の場としての大学が成立しなくなり、戦後の大衆社会状況とか民主主義といった条件の中で、知の世界がずっと一般市民の方にまで広がってきたということですね。そういう面では非常にいいことだと思っているんですが、同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけないと思うんです。

 いつも古田さんが何かのたまわって、市民の方が「はあ、さようでございますか」と聞いているのではね(笑)。

古田 それはいけませんね。

山田 それは、学派としては健全じゃありませんから。
だから、やはり古田学派の中で論争があるのはいいことだろうと思うんです。そこで、私もこれから少し古田さんに論争を挑もうと思っているんですよ(笑)。そのうち本を書くつもりです。
【転載終わり】

 いまは大学の中に学派というものがなくなってきているという山田さんの指摘は、古代史や文系のみならず、国内の学界の一般的な傾向だろうと思います。「同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけない」という指摘も貴重です。わたしも「古田史学の会」の運営や『古田史学会報』『古代に真実を求めて』の編集に当たり、留意してきたところです。

 そうでなければ「学派としては健全じゃありません」という山田さんの意見も当然のことです。「古田史学」「古田学派」と自らの立ち位置を旗幟鮮明にしたからには、その健全性は恒に意識しなければなりません。こうした問題について、これからも発言し続けようと思います。

 他方、古田説(九州王朝説・多元史観)を一貫して支持された中小路俊逸先生(追手門学院大学文学部教授・故人)が、「市民の古代研究会」分裂騒動のおり、次のように言われていました。

「〝師の説にな、なづみそ〟(本居宣長、注)と言いながら、古田説になずまず、一元史観になずむ人々が増えている。」

 これは、「古田史学」「古田学派」の健全性を考えるうえで、中小路先生の重要な状況分析であったことが思い起こされます。

(注)
「本居宣長の〝師の説にな、なづみそ〟は学問の金言です」と古田先生は折に触れて述べてきた。反古田派の人々は、和田家文書を真作とする古田説に反対し、古田離れを画策するとき、本居宣長のこの言葉を利用した。そうした状況に対して警鐘を打ち鳴らしたのが、中小路氏であった。


第3334話 2024/08/21

「古田史学」「古田学派」

    という用語誕生時期

 「古田史学」「古田学派」という言葉がいつ頃から使用され始めたのかについて調べたことがあります。わたしが「市民の古代研究会」に入会した1985年頃には、「古田史学」という言葉は「市民の古代研究会」内では普通に使用されており、多元史観・邪馬壹国説・九州王朝説などを中心とする古田先生の学説やそれに基づく研究方法や関連仮説全体を指して、「古田史学」と呼ばれていました。今でもこの傾向は変わらないと思います。

 「古田説」という言葉も使用されていますが、多元史観により体系化された学説・学問総体を指す場合は「古田史学」と呼ばれ、徐々に使い分けが進んだようです。例えば、「邪馬台国」九州説の中の「邪馬壹国」博多湾岸説のように、具体的に限定されたテーマについては、他の九州説と区別して「古田説」と簡略して表現するケースもありましたが、これはテーマが限定されていることが明確な場合に限って有効ですので、講演会や論文中に使用する場合は注意深く使用する必要があります。

 管見では、「古田史学」という言葉が見える初期の論文は、『古田武彦とともに』創刊第一集(1979年、「古田武彦を囲む会」編)に収録された次のものです。同書は、後に『市民の古代』と改名し、同じく「市民の古代研究会」と改称した同団体から出版社を介して書店に並びました。ちなみに、「市民の古代研究会」の分裂解散後は、わたしたち「古田史学の会」が同書や団体の伝統を事実上継承し、今日に至っています。

❶いき一郎 「九州王朝論の古田さんと私」
〝私は古田史学と同じように~〟

❷米田 保(注①) 「『「邪馬台国」はなかった』誕生まで」
〝こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏による第二作『失われた九州王朝』(四十八年) 第三作『盗まれた神話』(五十年二月) 第四作『邪馬壹国の論理』(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。〟

❸義本 満 「古田史学へのアプローチ」
〝古田史学が、堂々と定説となり、学校の教材にも採用される日の来る事を私は疑いません。ただ私の元気なうちにその時期の訪れることを願って止みません。〟

 以上の「古田史学」の他に、「古田学派」という言葉も同書に見えます。次の論考です。

❹佐野 博(注②) 「民衆のなかの古田説 (古田説のもつ現代史的意味)」
〝そこで古田さんの方法と論理、現在までの諸成果を純粋に受け入れ、古田学派とでも呼ばれる集団が現れたからとて、なにもこだわることはないのです。(中略)

 だからそれが、“通説”“定説”の嵐のなかで、“古田説”“古田学派”と指弾されようとも、あえてその名を冠されることを喜ぶものでしょう。真実は歴史を創る側にあるのです。わたしたちは、つねに学問とは、民衆とのかかわりぬきであるとは思いません。この国の民衆はつねに政治に支配されつづけてきましたが、それでも歴史を創る主体であることを否定することはできないのです。〟

❺丸山晋司(注③) 「ある中学校の職員室から」
〝しかも自分がもし社会科の教師になっていたら、ゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試に出させない運動」は、我々古田学派にこそ必要なのではないかと思ったりもする。(中略)

 職員室談義で気のついたこと。「大和朝廷」への信仰はかなり根強い。古田説だけでなく、色んな王朝交替説とか有力と思える説もどこ吹く風、ひたすら教科書が「定説」なのだ。〟

 以上の記事が見えますが、1979年当時の古田ファンや支持者の熱気と世相を感じることが出来ます。

 本稿を執筆していて思い出しましたが、「古田史学の会」創立のきっかけとなった「市民の古代研究会」分裂騒動の当時、わたしや水野顧問ら古田支持派は、反古田派と激しく対立していました。そのときわたしが「古田史学」という言葉を使うと、それまでは「古田先生、古田先生」とすり寄っていた反古田派の理事から、「学問に個人名をつけるのはけしからん」と非難されたことを思い出しました。

 こうした体験があったため、わたしは今でも意識的意図的に「古田史学」「古田学派」という言葉を使い続けています。いわば、自他の立ち位置を明示するための〝リトマス試験紙〟のようなものです。しかし、古田史学が仮に〝異端〟としてでも日本古代史学界に許容され、古田説・古田史学が学界内で研究発表できる新時代が到来すれば(今は全くできません)、わたしは「古田史学」「古田学派」という言葉を使わなくて済むかも知れないと期待しています。(つづく)

(注)
①元朝日新聞社出版編集部員(当時)。米田氏の提案とご尽力により、『「邪馬台国」はなかった』を初めとする古田史学初期三部作などが朝日新聞社から刊行され、古田史学ブームが到来した。
②(社)日本非鉄鋳物金属協会 会員(当時)。
③大阪市の中学校音楽教師(当時)。九州年号研究では先駆的な業績を残した(『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年)。「市民の古代研究会」分裂時、反古田派側につかれたので、わたしは袂を分かったが、氏が九州年号研究で『二中歴』に着目したことは評価している。


第3318話 2024/07/05

読んでおきたい、古田武彦「風土記」論

 『古代に真実を求めて』28集の特集テーマ「風土記・地誌の九州王朝」の企画構成案を練っています。ある程度まとまれば、編集会議を招集して提案し、編集部員のご意見や企画案も聞かせていただく予定です。

 自らの投稿原稿についても執筆準備をしています。それに先だち、古田先生の「風土記」関連論文の読み直しも進めています。古田「風土記」論を久しぶりに集中して勉強していますが、その代表的関連論文を紹介します。特集論文の投稿を予定されている方にも読んでおいていただきたいものばかりです。なぜか、古田先生にしては『風土記』関連論文は比較的少なく、読破はそれほど難しくはありません。以下、そのジャンル分けを示します。

 まず、風土記全般の重要テーマである、「県(あがた)」風土記と「郡(こおり)」風土記について論じたものが、❶❷❺❿⓫です。「県」風土記が九州地方に遺っていることから、九州王朝風土記(筑紫風土記)の存在という古田「風土記」論にとって不可欠の研究分野です。

 『常陸国風土記』に関わって論じたものが、❸。『出雲国風土記』に関わって論じたものが、❸❻❼❽⓬⓭。『播磨国風土記』に関わって論じたものが、⓮。 「筑後国風土記逸文」と卑弥呼について論じたものが、❹❾です。いずれも懐かしいものばかりです。

 《古田武彦「風土記」論 主要論文一覧》
「九州王朝の風土記」『市民の古代』第4集、新泉社、昭和57年(1982)。
「九州王朝にも風土記があった」『よみがえる九州王朝』角川選書、昭和58年(1983)。
❸「日本列島各地の神話」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❹「卑弥呼論」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❺「二つの『風土記』」『古代は輝いていたⅢ――』朝日新聞社、昭和60年(1985)。
「国造制の史料批判――出雲風土記における「国造と朝廷」」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❼「部民制の史料批判――出雲風土記を中心として」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❽「続・部民制の史料批判――「部」の始原と発展」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
「卑弥呼の比定――「甕依姫」説の新展開」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❿「九州王朝の短里――東方の証言」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
⓫「二つの風土記と二つの里程」『倭人伝を徹底して読む』大阪出版、昭和62年(1987)。
⓬「出雲風土記の中の古代公害病」『古代は沈黙せず』駸々堂、昭和63年(1988)。
「縄文文明を証明する「国引神話」」『吉野ヶ里の秘密』光文社、平成1年(1989)。
「播磨風土記」『市民の古代』第12集、新泉社、平成2年(1990)。

 この他にも、古田先生の重要論文があるかもしれません。ご教示いただければ幸いです。また、古田学派研究者による重要論文もあり、別の機会に紹介します。


第3267話 2024/04/10

『東日流外三郡誌の逆襲』全原稿脱稿

 昨年の八月六日、東京古田会の安彦会長と五反田の八幡書店を訪問し、武田社長に和田家文書研究の現況について説明しました。そのおり、武田社長より『東日流外三郡誌の逆襲』発行のご提案をいただいていたのですが、本日、ようやく予定していた最後の原稿「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」を書き上げました。

 同稿は『東日流外三郡誌の逆襲』の掉尾を飾る重要論文でしたので、構想と執筆に四ヶ月ほどかかりました。これからの和田家文書研究の方向性を指し示す内容でしたので、その方法論とそれが至るであろう研究結果に対する覚悟が必要となり、苦しみ抜いて書き上げました。小見出しと冒頭・最終の部分を紹介します。

謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―
古賀達也

一、はじめに

 本書序文の拙論「東日流外三郡誌を学問のステージへ ―和田家文書研究序説―」において、和田家文書を真っ当な文献史学の研究対象の場に戻すために本書を上梓した旨、述べた。ここにその研究方法を提起し、論理の導くところ、その予察をもって謝辞に代えたい。

二、和田家文書群の分類試案

三、《α群》の史料性格と現状

四、《β群》の史料性格と課題

五、《γ群》の史料性格と価値

六、真偽論争の恩讐を越えて

七、冥界を彷徨う魂たち

 あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として著したかったものと拝察した。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 結局、それを果たせないまま先生は二〇一五年に物故された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければならない。その一著が世に出るまで、東日流外三郡誌に関わった人々の魂は冥界を彷徨い続けるであろうから。


第3261話 2024/04/01

右膝の痛みと津軽行脚の思い出

 今日は右ひざのリハビリを兼ねて町内(鴨川右岸)のしだれ桜を見に行きました。天気も良くのどかな一日でしたが、桜は満開には程遠く、花見客も例年より少ないようでした。

 この二カ月ほど、『古代に真実を求めて』27集「倭国から日本国へ」(古田史学の会編、明石書店)の校閲作業や、今年の夏に発行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の原稿執筆のため部屋に閉じこもる日々が続き、足腰が弱っていました。そこで、先日、自宅から京都御所まで歩き、紫宸殿を早足で一周したのですが、それがまずかったようで、持病の右ひざ痛を発症してしまいました。数日痛くて歩けなかったのですが、今日は痛みがひいたので少しだけ散策しました。

 右ひざが痛むたびに古田先生のことを思い出します。三十年前のこと、古田先生と二人で何度も和田家文書調査の為、津軽を訪れたのですが、そのとき、わたしは先生と自分のキャリーバッグを両手で引きずって歩きました。先生のはやや小さめなので、わたしの体が傾き、長時間右ひざが圧迫された状態が続きました。ある日、津軽調査を終えて、先生とキャリーバッグを東京お茶の水のご自宅までお送りした後、駅の階段を降りようとしたとき、右ひざに激痛がはしりました。階段の手すりにしがみついて降りましたが、それ以来、右ひざ痛を度々発症し、特に年始の挨拶廻りでは必ず発症するという有様でした。

 リタイア後は、それほどひどい痛みは出なくなりましたが、筋力が弱り、寒くなると出ますので、適度な運動は欠かせません。ですから、右ひざの痛みを感じるたびに、古田先生との津軽行脚の日々を思い出すのです。そんな和田家文書研究の集大成ともいうべき一冊『東日流外三郡誌の逆襲』の執筆時に再発したのですから、不思議な縁だと感じています。果たして、先生は今のわたしを叱っておられるのか、褒めていただいているのか、どちらだろうかと思案する今日この頃です。