古田武彦一覧

第3530話 2025/09/14

ミネルヴァ書房・杉田社長からの電話

 半月後に迫った弘前市での『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)出版記念講演会(9/27、弘前市立観光館。秋田孝季集史研究会主催)の準備で忙しくしていますが、先日、京都市山科区に本社を置くミネルヴァ書房の杉田啓三社長からお電話をいただきました。古田先生の追悼講演会以来のことですから、お声を聞くのも十年ぶりです。

 開口一番、「『東日流外三郡誌の逆襲』を送ってくれてありがとう。三日かけて読んだ。これは面白いねえ。」とのこと。京都の人文・社会科学系出版の雄、ミネルヴァ書房と言えば、本作りのプロ中のプロの集団。そこの社長の杉田さんからのお褒めの言葉だけに、感激しました。「三十年かかりました」と言うと、「ようあれだけ調べたねえ。それにしても偽作論者はひどい。彼らには何を言っても無駄だろうけれども、本当によう調べたと思う。」

 このようなやりとりのあと、三十数年前に起きた和田家文書偽作キャンペーンと「市民の古代研究会」への激しい組織攻撃(理事会の切り崩し、裏切りなど)を受け、最後はわたし一人で「古田史学の会」の立ち上げを決意し、集まってくれた数人の同志と、そして古田武彦先生と共に、全国の古田ファン・古田史学支持者を糾合するため、北海道から九州まで行脚し、「古田史学の会」の組織を作り、この本の発刊に至ったことを杉田社長に説明しました。ですから、「古田史学の会」が今日あるのは、偽作論者や偽作キャンペーンの賜とも言えそうです。何よりも、『季刊 邪馬台国』や週刊誌・書籍、右翼雑誌などから名指しの攻撃を受けたことにより、わたし自身も精神的・学問的にタフになりました。

 思い起こせば、当時、古田先生は次のように言われました。
「偽作キャンペーンが今でよかった。もしこれが十年後であったなら、わたしの身体は到底もたなかった。」
このとき、先生は六十七歳、わたしは三十八歳でした。
話を戻します。ミネルヴァ書房からは、これまで「古田史学の会」の本を二冊出版していただきました。『「九州年号」の研究』(2012年)と『邪馬壹国の歴史学』(2016年)です。どちらも「古田史学の会」編の自信作です。電話の最後に、「また機会があれば「古田史学の会」の本を出していただきたいと思います。」と述べ、拙著へのお褒めの言葉に対して重ねてお礼を申し上げました。


第3526話 2025/09/05

『東日流外三郡誌の逆襲』

     出版記念講演のリハーサル

 本日、「多元的古代研究会」主催のリモート研究会で、「和田家文書の真実」というテーマを発表させていただきました。9月27日(土)の弘前市(秋田孝季集史研究会主催)と10月25日(土)に東京(八幡書店主催)で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会のリハーサルを兼ねて発表しました。
この三十年間の研究成果をパワポファイル120枚を使用して説明しましたが、最後に、これから十年をかけて『東日流外三郡誌』の編者秋田孝季の生涯と思想を研究し、古田武彦先生ができなかった『秋田孝季』の伝記執筆のための研究を続け、後継者に委ねたいと締めくくりました。この思いを綴ったのが『東日流外三郡誌の逆襲』の最後に収録した「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」です。その末尾の一節を転載します。同書出版に込めた思いの一端が読者に伝われば幸いです。

【以下、転載】
あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。
それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。
〔令和七年(二〇二五)五月十二日、筆了〕


第3517話 2025/08/18

『古田史学会報』189号の紹介

 『古田史学会報』189号を紹介します。同号冒頭には拙稿〝「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山―〟を掲載して頂きました。同稿は、ある会合で古田史学支持者から出された『三国志』短里説に関する次の二つの批判への回答です。

(1)山の高さを「里」で表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離である。
(2)天柱山の標高は古田氏がいう1860mではなく、1489mである。

 (1)の批判は、古田説の反対論者により数十年前になされました。古田先生の反論により決着済みと思っていたのですが、古田史学支持者から同じ批判がなされたことに驚きました。というのも山の標高を「里」で表記する例は中国古典に多数あり、古田先生は『邪馬一国の証明』(昭和五五年)でそのことを指摘していたからです。これは長年月による風化現象でしょうか。

 そこで、わたしは古田説の紹介と共に、新たに『水経注』(六世紀前半、北魏の酈道元が撰述した地理書)で山高を「里」で表す11例をあげました。したがって、山高を「里」で表すことはないとする批判は史料事実に反しており、成立しないとしました。

 (2)については、現代中国には複数の天柱山があり、標高1489mの天柱山は観光地として有名な安徽省潜山市の天柱山であり、『三国志』の天柱山は安徽省六安市の霍山(かくざん)であることを詳述しました(小学館『大日本百科辞典』には大別山脈中に「1860」とある)。

 当号掲載の論稿で注目したのが、拙論を批判した日野智貴さんの「秋田孝季の本姓と名字」です。現在、わが国の戸籍制度は名字(苗字)と名前だけとなっていますが、江戸時代の特に武士は、それ以外に本姓(源平藤橘など)や姓(かばね。朝臣・連など)を使用していました。この本姓と姓(かばね)は明治四年の姓尸〈せいし〉不称令(太政官布告第534号)により、公文書での使用が禁止され、戸籍は名字と名前だけに統一されました。

 この姓尸不称令を日野さんは重視し、秋田孝季の本姓の橘と、現代の秋田市土崎近辺に多い橘さん(名字)を同一視すべきではなく、現代の橘さんの分布を秋田孝季実在説の根拠にはできないという指摘です。この日野さんの指摘は早くからなされており、わたしとは見解が異なりますが、重要な指摘ですので深く留意してきました。『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓を機会に、本件について改めて研究を進めています。なお、先日の関西例会の休憩時間に日野さんと本件について意見交換を進め、孝季の本姓は本当に橘だったのかという、より本質的な問題点が日野さんから示されました。よく考えてみたいと思います。

 189号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』189号の内容】
○「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山― 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(下) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○秋田孝季の本姓と名字 たつの市 日野智貴
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(後篇) 神戸市 谷本 茂
○逆転の万葉集Ⅱ 旅人の「梅花序」と家持の『万葉集』の九州王朝 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第三十一回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第二十八集出版記念講演会のお知らせ
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3511話 2025/08/01

運命の一書

 『東日流外三郡誌の逆襲』近日刊行

 30年もかかってしまいましたが、今月中頃までには『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)が発刊されます。この本を出すまでは死ぬことはできないと心に決めてきました。版元をはじめ、原稿執筆依頼に応じていただいた皆様に深く感謝いたします。

 弘前市での出版記念講演会を弘前市立観光館にて9月27日(土)に行うことも決まりました(秋田孝季集史研究会主催)。講演会には偽書派を代表する論者、斉藤光政さん(東奥日報)をご招待することにしていましたが、氏が7月24日にご逝去されたことを知りました。斎藤さんとは30年前に青森で一度だけお会いしたことがあります。そのときの斉藤記者と古田先生とのやりとりは今でも記憶しています。『東日流外三郡誌の逆襲』刊行直前のご逝去でもあり、不思議なご縁と運命の巡り合わせを感じます。激しい論争を交わした相手ではありますが、それだからこそ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 『東日流外三郡誌の逆襲』末尾の拙稿「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」の一節を紹介します。

〝五 真偽論争の恩讐を越えて

 本書を手に取り、ここまで読み進めでくださった方にはすでに十分伝わっているかと思うが、和田家文書の歴史は不幸の連続であった。なかでも所蔵者による偽作だとする、メディアによるキャンペーンはその最たるものであった。本稿で提起したような分類や正確な認識によることもなく、本来の学問的な史料批判に基づいた検証とは程遠い、浅薄な知識と悪質な誤解に基づく偽作キャンペーンが延々と続けられた。口にするのも憚られるようなひどい人格攻撃と中傷が繰り返された。そういった悪意の中で、和田家(五所川原市飯詰)は離散を強いられたのである。和田家文書を真作として研究を続けた古田武彦先生に対しても、テレビ(NHK)や新聞(東奥日報)、週刊誌などでの偏向報道・バッシングは猖獗を極めた。まるで、この国のメディアや学問が正気を失ったかのようであった。

 しかしそれでも、真偽論争の恩讐を越え、学問の常道に立ち返り、東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書を史料批判の対象とすること。これをわたしは世の識者、なかでも青森に生きる方々にうったえたい。本書はその確かな導き手となるであろう。その結果、和田家文書の分類が見直されることになったとしても、これまでの研究結果とは異なる新たな事実がみつかることになろうとも、わたしたち古田学派の研究者は論理の導くところへ行かなければならない。たとえそれが何処に至ろうとも。〟

 同書を多くの皆様、とりわけ青森県の方々に読んでいただきたいと願っています。


第3499話 2025/05/21

『古事記』序文、古田先生からの叱責

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。7月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 今回の例会では萩野秀公さんから『古事記』序文などについての研究が発表されたのですが、質疑応答のおり、〝古事記とは稗田阿礼が口述した記憶を太安萬侶が筆録したもの〟とする理解に対して、それは誤解であると述べました。実はそのことについて、わたしにはほろ苦い思い出がありました。

 それは今から34年前のこと。信州の昭和薬科大学諏訪校舎で一週間にわたり開催された「シンポジウム 「邪馬台国」徹底論争」(主催:東方史学会、平成三年(1991)8月)に、わたしは「市民の古代研究会」事務局長として同シンポジウム実行委員会に参画していました。会場での質疑応答の時、〝古事記は稗田阿礼の言葉を太安萬侶が筆録したもの〟と、わたしが不用意に発言したとたん、古田先生から〝それは誤りであり、稗田阿礼の口述以外の史料にも基づいて古事記は編纂されている〟とのご注意がありました。そして、こんなことも知らないのかと言わんばかりの勢いで厳しく叱責されました。数百人の聴衆の面前でしたので、自らの不勉強を深く恥じ入りました。入門以来、これほど先生から叱られたのも初めての経験でしたので、それからは生半可な知識や思いつきで、もっともらしく意見を述べることはしないよう、気をつけてきました。三十代半ばの頃、こうした苦い経験がありましたので、例会での発言に至ったものです。

 6月例会では下記の発表がありました。関西例会担当者が西村さんから上田さんに交替しましたので、発表希望者は上田武さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを20部作成されるようお願いします。

〔6月度関西例会の内容〕
①万葉集と現地伝承に見る「猟に斃れた大王」 (川西市・正木 裕)
②仁徳帝 ―縄文語で解く記紀の神々― (大阪市・西井健一郎)
③『もう一つの万葉集』李寧煕著の紹介 (大阪市・西井健一郎)
④関西例会会計報告・ハイキング報告 (八尾市・上田武)
⑤九州の遺跡が示す卑弥呼の三角縁鏡 など (大山崎町・大原重雄)
⑥皇国史観について (大山崎町・大原重雄)
⑦続・『記紀』及び『続紀』等の根本資料について (東大阪市・萩野秀公)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22(日)会員総会・記念講演会の受付協力要請
❷秋(9~10月)の出版記念東京講演会の状況報告
❸九州古代史の会月例会(福岡市)で古賀(7/05)・正木(7/26)が講演
❹久留米大学公開講座で古賀(7/06)・正木(7/27)が講演

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
07/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
08/16(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館

※6/22(日)は会員総会・記念講演会(会場:I-siteなんば・大阪公立大学なんばサテライト)。


第3491話 2025/06/01

『古事記』序文と尚書正義

 古田先生の処女論文「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」(注①)では、記序が尚書正義の影響を色濃く受けており、『古事記』そのものにも同影響が見られるとしました。2008年には、記序を後代成立の偽書とする三浦佑之氏の『古事記のひみつ ―歴史書の成立―』(注②)に対して、「学界批判『古事記のひみつ』著者、三浦佑之氏へ」(注③)を著し、記序偽書説を批判しました。
次の「義表(尚書正義)」と「記序」の文章を比較し、記序が文飾にとどまらず、思想的にも尚書正義の影響を受けていることを明らかにしました。

 《義表》(尚書正義)        《記序》
1 混元開闢            混元既凝
2 雖歩驟不同 質文有異      雖歩驟各異 文質不同
3 稽古以弘風          稽古以縄風猷於既頽
4 邦家之基 王化之本        邦家之經緯 王化之鴻基
5 伏惟皇帝陛下 得一繼明 通三撫運 伏惟皇帝陛下 得一光宅 通三亭育
6 御紫宸而訪道 坐玄扈以裁仁   御紫宸而徳被馬蹄之所極
坐玄扈而化照船頭之所逮
7 府無虚月           府無空月
8 名軼於軒昊           道軼軒后

 これらの対比によっても、「両書の類似が「偶然」などではありえないこと、明白である」としました。他にも、「削偽定実」「採摭」「経緯」等の用語も「義表(尚書正義)」と相対応していることを次のように説明しました。

〝まず、尚書正義の場合は次のようだ。
(1) 秦の始皇帝の「焚書坑儒」によって、多くの経典が失われた。
(2) 前漢の世となり、孝文帝(前一八○〜一五七)はこの復旧を志した。太常(宗廟礼儀を掌る官)が臣下の晃錯に命じて、老人伏生の記憶を復元させた(壁中に隠匿されていた経典以外の「本経」)
(3) 伏生は記憶力にすぐれ、「文を諦すれば、即ち熟す」という人物であった。すでに九〇才に至っていたが、その「習誦」するところを、鼂錯がこれを記録した。伏生は経を採らずに口授した、という。
右の「誦文則熟」や「習誦」の用語が古事記序文に転用されていることは明らかだが、それだけではない。古事記序文の場合、
(1) 天武天皇が、記憶力にすぐれた青年、二十八歳の稗田阿礼に命じて古事・伝承(「帝皇の日継及び先代旧辞」を「誦習」させた。)
(2) 元明天皇が太安万侶に命じ、(すでに老人となっていた)稗田阿礼の「誦習」していたところを「口授」させ、安万侶がこれを記録した。
(3) 和銅四年九月十八日、元明の詔が下り、翌年正月二十八日、安万侶はこの古事記を完成し、元明天皇に献上した。
右の二つの経緯が、用語と共に、いわば「相似形」をなしていること、疑えない。とすれば、今問題の「尚書」と「古事記」の書名の意義が一致していることもまた、「偶然の一致」とは称しえないのではあるまいか。
この「書名」問題は、次の一点を提示する。
「『古事記』という書名と、古事記序文と、共に同一の発生源をもつ。――それは他でもない、尚書正義である。」と。
ここでも、氏の企てられた「古事記本文と序文の切りはなし」は困難なのである。〟

 このように、「古事記本文と序文の切りはなし」による記序偽書説を批判したのです。そのなかでも、記憶力が優れた「伏生」と「稗田阿礼」による「習誦」「誦習」が両書成立に共通していることにわたしは驚いたものです。(つづく)

(注)
①古田武彦「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」『多元的古代の成立――[下] 邪馬壹国の展開』駸々堂出版、1983年。
②三浦佑之氏の『古事記のひみつ ―歴史書の成立―』吉川弘文館、2007年4月。
③古田武彦「学界批判『古事記のひみつ』著者、三浦佑之氏へ」『なかった ――真実の歴史学』第四号、古田武彦直接編集、ミネルヴァ書房、2008年。


第3490話 2025/05/31

『古事記』序文の偽書説と古田説

 『古事記』には江戸時代から偽書説がありましたが、編纂した太安萬侶の墓誌が出土したことにより、偽書説は影をひそめました。代わって出てきたのが序文偽書説です。この『古事記』序文(記序)の偽書説は有力な仮説とされ、今でも論争が続いています。記序偽書説の根拠は多岐にわたり、その全てを深く理解しているわけではありませんが、わたしには大和朝廷一元史観の枠内において成立しうるかもしれない仮説のように見えています。ちなみに、古田先生は一貫して真作説に立っておられ、少なくとも偽書説に賛成していませんでした。
古田先生の「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」(注①)では、記序が尚書正義の影響を色濃く受けており、『古事記』そのものにも同影響が見られるとされています。したがって記序が後代に偽作されたとする偽書説に与していないことは明らかです。具体的には、『古事記』の書名が『尚書』と同義であるとする、次の史料状況を指摘しています。当該部分を転載します。

〝(A)書名について(以下正義の引用頁数は東方文化研究所経学文学研究室「尚書正義定本第一」による。)
正義に於て「尚書」なる書名の解説・書の初まりを述べる冒頭の文に於て、
○自今本昔曰[古] (二頁)
○聖賢闡教。[事]顕於言。(一頁)
○書有言之[記] (一頁)
とある。(中略)
則ち尚書は「人君辭誥之典」(尚書正義序)であり、「是君口出言」(一頁)たる所に他の五経との違いがある。字義より言えば尚=本昔=上古=古であり、書=言之記であり、その「言」とは「事」の顕れたものを記したものとなしているのである。此処に於て少くとも結果的には古事記の字義は尚書の字義と一致しているとせねばならぬ、然も此尚書の字義説明の正義の文の直前にある義表と記序の交渉が確定している以上かくの如く尚書の定義が「古」「事」「記」の諸要案より説明してある正義の文は果たして偶然の一致と見るのが自然な解釈であろうか。〟『多元的古代の成立[下]』205~206頁

 このように述べた後、更に記序に見える「序」や「誦習(しょうしゅう)」の字義についての考察が続きます。このように『古事記』の書名さえも尚書正義の影響を受けているとすれば、序文も本文も同一人物の編集と考えるのが自然であり、序文に記された太安萬侶による編纂とする理解が最有力となります。わたしはこの古田先生の理解を支持していますし、わたしの『古事記』序文の研究結果(注②)からも同様の理解に至りました。(つづく)

(注)
①古田武彦「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」『多元的古代の成立――[下] 邪馬壹国の展開』駸々堂出版、1983年。
②古賀達也「『古事記』序文の壬申大乱」『古代に真実を求めて』第九集。明石書店、2006年。


第3487話 2025/05/25

『古事記』序文研究の思い出

 古田史学の学徒にはよく知られていることですが、古田先生の事実上の処女論文は「古事記序文の成立 ―尚書正義の影響に関する考察―」でした。昭和二十年、東北大学文学部、日本思想科内部の研究会での口頭発表が、当時のまま集約され、『多元的古代の成立[下] 邪馬壹国の展開』(駸々堂出版、昭和五八年)に採録されています。

 同論文の主旨は『古事記』序文は、その文体や思想性に尚書正義の影響を色濃く受けており、それは本文にも及んでいるとするものです。このレベルの研究を古田先生は十八歳の時になされていたことに驚いたものでした。また、文体も雅文とも言うべきもので、わたしの国語力ではくり返し精読しなければ正しく理解できないものでした。その為か同論文を誤読した論者と、三十五年ほど前に、当時流行していた〝ワープロ通信〟上で論争したことなどを思い出しました。

 その後、わたしも『古事記』序文の研究を続け、「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第九集。明石書店、2006)をようやく発表することができました。(つづく)

「『古事記』序文の壬申大乱」


第3486話 2025/05/19

九州王朝のお姫様(プリンセス 九州)

 半世紀にわたる九州王朝研究の中で、特筆すべき事件がいくつかありました。古田先生から折に触れてお聞きしたことですので、わたしの記憶が確かなうちにご紹介しておきます。その一つが、九州王朝の御子孫との出会いです。

 古田先生の『失われた九州王朝』を読まれたMさん(福岡県八女市)が、「九州王朝」とはわが家の先祖のことではないかと気づかれ、一族の同意の下、その代表として古田先生の講演会に参加し、講演会後の懇親会で、〝M家は「九州王朝」の子孫の家系です〟と名乗り出ました。わたしも何度かM家を訪問し、家系図『草壁氏系図』(M家本)を拝見しました。筑後国一宮である高良大社(久留米市)のご祭神、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祖先とする系図で、近代まで書き継がれています。同類の系図は複数ありますが、M家本は比較的正確に伝えられており、研究にあたっては重視すべきテキストです。

 わたしは高良玉垂命が九州王朝の王家とする論文を発表したことがあり、古田史学入門当初から九州王朝末裔の調査研究をテーマとしてきました。例えば次の論文があります。

「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
○「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』第十二集、新泉社、1990年。
「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。

 Mさんには娘さんがおられ、京都でお会いしたこともあります。世が世であれば、このお嬢さんは九州王朝の皇女であり、感慨深いものでした。そういえば、〝プリンセス トヨトミ〟という大阪を舞台とした映画がありました。豊臣秀吉の子孫が大坂夏の陣のときに陥落した大坂城から脱出し、その代々の子孫を「大阪国」の人々が秘密裏に守り続け、その末裔(女子)が「姫」として現代社会を生きていくというあらすじです。わたしたち九州王朝説支持者にとっては、Mさんのお嬢さんは系図研究によれば〝プリンセス 九州〟のお一人となるのかもしれません。『草壁氏系図』の本格的な研究にも取り組みたいと願っています。


第3484話 2025/05/13

『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール

『三国志』倭人伝の卑弥呼が都した国名は原文通り邪馬壹国とするべきで、ヤマトと読みたいがために原文改訂した「邪馬臺(台)国」とするのは否であるとした邪馬壹国説こそ、古田史学発祥の原点であり、古田先生のフィロロギーを中心とした文献史学の方法に基づいた結論であることはご存じの通りです。東京大学の『史学雑誌』に掲載された古田先生の論文「邪馬壹国」(注①)は、その年の古代史論文で最も優れたものと専門家から高く評価され、後に朝日新聞社から出版された『「邪馬台国」はなかった』(注②)は〝洛陽の紙価を高からしめた〟と称されるほど版を重ねました。

最近、この邪馬壹国説について、古田武彦支持者のなかに通説の「邪馬臺(台)国」を是とする意見があることを知り、よい機会でもあり、邪馬壹国成立の論点や、古田先生と反対論者との論争史をあらためて振り返っています。そのようなおり、古田史学の会・会員の茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)から〝『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール〟についてのメールが届きました。古田説に基づき、わかりやすく要点をリストにしたもので、研究にも役立ちそうです。メールから一部転載します。

【以下、転載】
先生も「まとめ」てくれてはいなかったように思いますが、みなさんの議論で「当然のこと」としてスルーされているのか、夷蛮の(中国語を母語としない国の)国名の付け方に関する一般的なルール、という論説がないように思います。誰でも分かり、異存のなさそうなルールには適用序列があります。ルールは

1)出来るだけ発音が現地国名を写すような漢字群で考える
2)その中から国のイメージや性格を表わす用字を考える
3)イメージには当初から「夷蛮」という蔑んだ意味が含まれている
4)イメージを優先したいときは、発音を少々犠牲にすることもある
5)政治的に対立すると、さらに発音を崩しても侮蔑的な字を当てる
6)夷蛮の国が漢字に習熟して国名を自称しても、中国側の呼称が優先される
7)夷蛮の国の自称を採る場合でも、音に従い用字まで受入れることは少ない
【転載おわり】

(注)
①古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』78-9、1969年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3481話 2025/05/01

志賀島の金印発見の経緯記した史料

 本日の読売新聞 WEB版に興味深い記事がありました。志賀島で金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる東大寺の森本公誠長老が所蔵しているというもので、その文書には、1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上したという内容が記されているとのことです。

 他方、そうした通説とは異なる口碑伝承が当地には伝えられており、古田先生も調査されていました。それは、金印は糸島市の細石神社に代々伝わってきたもので、何らかの事情により福岡藩にわたったというものです。古田先生の調査によれば、発見者とされる甚兵衛という人物の実在を確認できないことと、志賀島叶の崎には弥生時代の遺構が発見されておらず、甚兵衛により発見されたという経緯も怪しく、細石神社や当地に伝えられてきたという伝承の存在を軽視できないということでした。

 今回のニュースによれば、従来説の信憑性が高まることになり、このテーマは引き続き検討が必要です。下記の「洛中洛外日記」などでも複数の現地伝承について触れていますので、ご覧下さい。

「古賀達也の洛中洛外日記」
806話 2014/10/19 細石神社にあった金印
1337話 2017/02/14 金印と志賀海神社の占い
1776話 2018/10/25 八雲神社にあった金印
1781話 2018/11/04 亀井南冥の金印借用説の出所
『古田史学会報』139号、2017年 金印と志賀海神社の占い

【以下、読売新聞 WEB版から転載】
三つの石に箱のように囲まれて…
「金印」発見の経緯記した史料、東大寺長老が所蔵

 江戸時代に福岡・志賀島(しかのしま)で国宝の金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる奈良・東大寺の森本公誠長老(90)が所蔵している。子孫にあたる家などに伝えられたとみられ、貴重な資料として研究者が注目する。(奈良支局 栢野ななせ)

 金印は、約2.3センチ四方の印面に篆書(てんしょ)体で「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻み、つまみ部分の「鈕(ちゅう)」は蛇をかたどったとされる。1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上されたという。1954年に国宝に指定され、78年に福岡市に寄贈された。

 金印考文は、発見から約20年後の1803年に福岡藩の学者・梶原景熙(かげひろ)が記した史料。〝金印は三つの石に箱のように囲まれて埋められていた。鑑定で黄金の印であると判明したため郡奉行に伝え、福岡藩主が実見した。金印は蔵に納め、甚兵衛は褒美を受け取った〟などと記されている。福岡市博物館によると、文書は複数あり、志賀島の旧家などに伝わったと考えられる。島の地図が添えられたものと地図のないものの大きく2系統に分けられるという。

 森本長老が所蔵する文書は縦37.7センチ、横50.5センチ。長老の祖母が梶原家出身で、長老が30年ほど前、おじから文書を引き継いだ。金印発見の経緯や「印を押し、鈕の形を図に写した」という記述、島の地図、金印と大きさが一致する「漢委奴國王」の印影がある。蛇の細かい文様や金印のわずかな欠損まで描き表した図も添えられている。

 同博物館の朝岡俊也学芸員は「(景熙の)自筆かどうかの判断は難しいが、金印考文の中でも、書いた本人の一族に伝えられているという点で貴重だと言える」と説明。大阪市立美術館の内藤栄館長(芸術学)は「手元に金印があったとすれば、実際に押し得たかもしれない。実物を写し取らなければ、図もこれほど細部まで描けないだろう」と指摘する。森本長老は「文書とともに石が伝えられたが、戦争の混乱で失われたと聞く。もしかすると(文書に記されている)金印を囲んでいた石だったのかもしれない」と話している。

 金印は、大阪市立美術館で開催中の「日本国宝展」(読売新聞社など主催)で7日まで展示されている。

【写真】森本長老が所蔵する金印考文。志賀島の金印。


第3479話 2025/04/25

『東日流外三郡誌の逆襲』謝辞に代えて

 ―冥界を彷徨う魂たちへ―

 5月末刊行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』のために書き下ろした「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」掉尾の一節を紹介します。

【以下、転載】
七、冥界を彷徨う魂たち
あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければならない。その一著が世に出るまで、東日流外三郡誌に関わった人々の魂は冥界を彷徨い続けるであろうから。〔令和六年(二〇二四)四月十日、筆了〕

【写真】『東日流内三郡誌』と『東日流外三郡誌』。(明治写本)