古田武彦一覧

第3486話 2025/05/19

九州王朝のお姫様(プリンセス 九州)

 半世紀にわたる九州王朝研究の中で、特筆すべき事件がいくつかありました。古田先生から折に触れてお聞きしたことですので、わたしの記憶が確かなうちにご紹介しておきます。その一つが、九州王朝の御子孫との出会いです。

 古田先生の『失われた九州王朝』を読まれたMさん(福岡県八女市)が、「九州王朝」とはわが家の先祖のことではないかと気づかれ、一族の同意の下、その代表として古田先生の講演会に参加し、講演会後の懇親会で、〝M家は「九州王朝」の子孫の家系です〟と名乗り出ました。わたしも何度かM家を訪問し、家系図『草壁氏系図』(M家本)を拝見しました。筑後国一宮である高良大社(久留米市)のご祭神、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)を祖先とする系図で、近代まで書き継がれています。同類の系図は複数ありますが、M家本は比較的正確に伝えられており、研究にあたっては重視すべきテキストです。

 わたしは高良玉垂命が九州王朝の王家とする論文を発表したことがあり、古田史学入門当初から九州王朝末裔の調査研究をテーマとしてきました。例えば次の論文があります。

「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
○「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』第十二集、新泉社、1990年。
「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。

 Mさんには娘さんがおられ、京都でお会いしたこともあります。世が世であれば、このお嬢さんは九州王朝の皇女であり、感慨深いものでした。そういえば、〝プリンセス トヨトミ〟という大阪を舞台とした映画がありました。豊臣秀吉の子孫が大坂夏の陣のときに陥落した大坂城から脱出し、その代々の子孫を「大阪国」の人々が秘密裏に守り続け、その末裔(女子)が「姫」として現代社会を生きていくというあらすじです。わたしたち九州王朝説支持者にとっては、Mさんのお嬢さんは系図研究によれば〝プリンセス 九州〟のお一人となるのかもしれません。『草壁氏系図』の本格的な研究にも取り組みたいと願っています。


第3484話 2025/05/13

『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール

『三国志』倭人伝の卑弥呼が都した国名は原文通り邪馬壹国とするべきで、ヤマトと読みたいがために原文改訂した「邪馬臺(台)国」とするのは否であるとした邪馬壹国説こそ、古田史学発祥の原点であり、古田先生のフィロロギーを中心とした文献史学の方法に基づいた結論であることはご存じの通りです。東京大学の『史学雑誌』に掲載された古田先生の論文「邪馬壹国」(注①)は、その年の古代史論文で最も優れたものと専門家から高く評価され、後に朝日新聞社から出版された『「邪馬台国」はなかった』(注②)は〝洛陽の紙価を高からしめた〟と称されるほど版を重ねました。

最近、この邪馬壹国説について、古田武彦支持者のなかに通説の「邪馬臺(台)国」を是とする意見があることを知り、よい機会でもあり、邪馬壹国成立の論点や、古田先生と反対論者との論争史をあらためて振り返っています。そのようなおり、古田史学の会・会員の茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)から〝『三国志』夷蛮伝の国名表記ルール〟についてのメールが届きました。古田説に基づき、わかりやすく要点をリストにしたもので、研究にも役立ちそうです。メールから一部転載します。

【以下、転載】
先生も「まとめ」てくれてはいなかったように思いますが、みなさんの議論で「当然のこと」としてスルーされているのか、夷蛮の(中国語を母語としない国の)国名の付け方に関する一般的なルール、という論説がないように思います。誰でも分かり、異存のなさそうなルールには適用序列があります。ルールは

1)出来るだけ発音が現地国名を写すような漢字群で考える
2)その中から国のイメージや性格を表わす用字を考える
3)イメージには当初から「夷蛮」という蔑んだ意味が含まれている
4)イメージを優先したいときは、発音を少々犠牲にすることもある
5)政治的に対立すると、さらに発音を崩しても侮蔑的な字を当てる
6)夷蛮の国が漢字に習熟して国名を自称しても、中国側の呼称が優先される
7)夷蛮の国の自称を採る場合でも、音に従い用字まで受入れることは少ない
【転載おわり】

(注)
①古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』78-9、1969年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3481話 2025/05/01

志賀島の金印発見の経緯記した史料

 本日の読売新聞 WEB版に興味深い記事がありました。志賀島で金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる東大寺の森本公誠長老が所蔵しているというもので、その文書には、1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上したという内容が記されているとのことです。

 他方、そうした通説とは異なる口碑伝承が当地には伝えられており、古田先生も調査されていました。それは、金印は糸島市の細石神社に代々伝わってきたもので、何らかの事情により福岡藩にわたったというものです。古田先生の調査によれば、発見者とされる甚兵衛という人物の実在を確認できないことと、志賀島叶の崎には弥生時代の遺構が発見されておらず、甚兵衛により発見されたという経緯も怪しく、細石神社や当地に伝えられてきたという伝承の存在を軽視できないということでした。

 今回のニュースによれば、従来説の信憑性が高まることになり、このテーマは引き続き検討が必要です。下記の「洛中洛外日記」などでも複数の現地伝承について触れていますので、ご覧下さい。

「古賀達也の洛中洛外日記」
806話 2014/10/19 細石神社にあった金印
1337話 2017/02/14 金印と志賀海神社の占い
1776話 2018/10/25 八雲神社にあった金印
1781話 2018/11/04 亀井南冥の金印借用説の出所
『古田史学会報』139号、2017年 金印と志賀海神社の占い

【以下、読売新聞 WEB版から転載】
三つの石に箱のように囲まれて…
「金印」発見の経緯記した史料、東大寺長老が所蔵

 江戸時代に福岡・志賀島(しかのしま)で国宝の金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる奈良・東大寺の森本公誠長老(90)が所蔵している。子孫にあたる家などに伝えられたとみられ、貴重な資料として研究者が注目する。(奈良支局 栢野ななせ)

 金印は、約2.3センチ四方の印面に篆書(てんしょ)体で「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻み、つまみ部分の「鈕(ちゅう)」は蛇をかたどったとされる。1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上されたという。1954年に国宝に指定され、78年に福岡市に寄贈された。

 金印考文は、発見から約20年後の1803年に福岡藩の学者・梶原景熙(かげひろ)が記した史料。〝金印は三つの石に箱のように囲まれて埋められていた。鑑定で黄金の印であると判明したため郡奉行に伝え、福岡藩主が実見した。金印は蔵に納め、甚兵衛は褒美を受け取った〟などと記されている。福岡市博物館によると、文書は複数あり、志賀島の旧家などに伝わったと考えられる。島の地図が添えられたものと地図のないものの大きく2系統に分けられるという。

 森本長老が所蔵する文書は縦37.7センチ、横50.5センチ。長老の祖母が梶原家出身で、長老が30年ほど前、おじから文書を引き継いだ。金印発見の経緯や「印を押し、鈕の形を図に写した」という記述、島の地図、金印と大きさが一致する「漢委奴國王」の印影がある。蛇の細かい文様や金印のわずかな欠損まで描き表した図も添えられている。

 同博物館の朝岡俊也学芸員は「(景熙の)自筆かどうかの判断は難しいが、金印考文の中でも、書いた本人の一族に伝えられているという点で貴重だと言える」と説明。大阪市立美術館の内藤栄館長(芸術学)は「手元に金印があったとすれば、実際に押し得たかもしれない。実物を写し取らなければ、図もこれほど細部まで描けないだろう」と指摘する。森本長老は「文書とともに石が伝えられたが、戦争の混乱で失われたと聞く。もしかすると(文書に記されている)金印を囲んでいた石だったのかもしれない」と話している。

 金印は、大阪市立美術館で開催中の「日本国宝展」(読売新聞社など主催)で7日まで展示されている。

【写真】森本長老が所蔵する金印考文。志賀島の金印。


第3479話 2025/04/25

『東日流外三郡誌の逆襲』謝辞に代えて

 ―冥界を彷徨う魂たちへ―

 5月末刊行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』のために書き下ろした「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」掉尾の一節を紹介します。

【以下、転載】
七、冥界を彷徨う魂たち
あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければならない。その一著が世に出るまで、東日流外三郡誌に関わった人々の魂は冥界を彷徨い続けるであろうから。〔令和六年(二〇二四)四月十日、筆了〕

【写真】『東日流内三郡誌』と『東日流外三郡誌』。(明治写本)


第3474話 2025/04/15

『古田史学会報』187号の紹介

 『古田史学会報』187号を紹介します。同号には拙稿〝『古今集』仮名序傍注の「文武天皇」〟を掲載して頂きました。同稿は、『古今集』仮名序に見える「ならの御時」傍注の「文武天皇」や、人麻呂の官位が正三位とあるのは九州王朝系史料に基づくとする仮説です。

 一面に掲載された谷本茂稿「九州王朝は「日本国」を名乗ったのか?」は、倭国(九州王朝)側が七世紀前半以前に「日本」と名乗った痕跡は無いとして、主に古田先生が晩年に発表した古田新説を批判し、むしろ旧説の方が論旨が一貫し、矛盾が少ないとしたものです。なかでも、同稿末尾に追記された【補注】は衝撃的な内容で、中国史書をはじめ漢籍に詳しい谷本さんならではの指摘だと感心しました。これこそ、古田先生が常々言っておられた〝「師の説にな、なづみそ」本居宣長のこの言葉は学問の金言です〟に相応しい論考ではないでしょうか。以下、当該部分を転載します。

 〝古田武彦氏は、『失われた九州王朝』の中で、『三国遺事』五に、新羅の真平王[在位579年~631年]の時代の用例として「日本兵」があり、当時「日本」という呼称が存在した確実な証拠であるとされた(ミネルヴァ書房版382頁~384頁)。融天師彗星歌の説明文を、「… 時に天師、歌を作り、之(これ)を歌う。『星恠(あや)しく、即ち滅す。日本兵、国に還り、反(かえ)りて福慶を成さん』と。大王歓喜す。…」と読み下している。『』の部分が歌の内容を直接表記したものとみなしたのである。

 しかし、この読み方は、遺憾ながら、古田氏の誤読である。原文では、この部分に続いて「歌曰」として、実際の歌の内容が引用してある。その中には「倭」という表記があるのであるから、こちらが当時の用語であることは明らかである。古田氏が読み下し文中で『』で示した部分は、歌の原文ではなく、『三国遺事』の著者・一然の地の文(解説文)であり、十三世紀の表現であるから、「日本」が現れるのは当然なのである。〟

 187号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』187号の内容】
○九州王朝は「日本国」を名乗ったのか? 神戸市 谷本 茂
○戦中遣使と司馬仲達の称賛 渡邉義浩著『魏志倭人伝の謎を解く』について たつの市 日野智貴
○「科野大宮社」に残る「多元」 上田市 吉村八洲男
○「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(下) 川西市 正木 裕
○『古今集』仮名序傍注の「文武天皇」 京都市 古賀達也
○谷本茂氏、また多くの方との対話継続のために 世田谷区 國枝 浩
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2025年度会費納入のお願い
○メールアドレス登録のお願い
○編集後記(6/22出版記念講演会・会員総会の案内) 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く勉強になる紙面作りにご協力下さい。


第3470話 2025/04/10

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (8)

 ―フィロロギーによる論理考察―

 本テーマの最後に倭人伝研究における古田先生の学問の方法について要点を解説することにします。古田史学の際だった特徴は、フィロロギーという学問の方法を文献史学に意識的に徹底的に導入したことにあります。

 フィロロギーとは〝論理を愛する〟とでも言える方法論で、倭人伝研究では西晋の史官である陳寿の立場や人格なども含めて考察の対象とし、史料の一字一句の持つ意味を、著者陳寿の気持ちになって研究者が再認識するという方法論です。その場合、同じ人間として、理性に基づき論理的に記したであろうと、まずは考えます。そして、書かれている「史料事実」を「歴史事実」と見てよいのか、論理に矛盾はないのか、安定して成立している先行研究や関連諸学との関係性に問題はないのか、などを理詰めで考え抜きます。こうした姿勢を表したのが「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。(ソクラテス)」(岡田甫先生による)という言葉です。

 具体例で説明しますと、倭人伝行路里程記事について、古田史学・フィロロギーでは次のような論理考察が進みます。その一例を示します。

❶倭国に派遣された魏使や、20年にわたり倭国に滞在したとされる張政らの報告書に基づいて、陳寿は倭国への部分里程や総里程を記載できたと考える他ない。

❷この際、総里程を陳寿自身が計算したか、または報告書に記された総里程を採用したことになる。

❸どちらの場合でも、部分里程を合計した数値を総里程としたはずである(「部分の総和は全体」は今も昔も公理(理性の鉄則)であるため)。魏使の報告書に総里程があった場合、魏使が報告した部分里程の合計と一致するかどうかを、魏使の上司や陳寿、他の官僚は確認するはずだ。

❹陳寿の『三国志』は政敵がいた中で、優れた史書であることが認められて正史として西晋の天子に献上されている。従って、政敵からの厳しいチェックを経たはずである。

❺その上で『三国志』は正史として採用されており、ときの天子や官僚、史官等が読んでも問題ないと判断されたと考えられる。中でも倭人伝は夷蛮伝の最後を飾る伝で、一層の注目をあびたと思われる。

❻更に、現存『三国志』版本には後代(五世紀)の裴松之による検証を受けており、問題ありとされた箇所には裴松之の膨大な注(裴注)が付記されている。しかし、倭人伝行路里程記事部分については、注はなく、裴松之のチェックをクリアしたと考えられる。

❼以上の考察の結果、『三国志』の記事は当時の編纂者・読者の認識を正確に表していると考えられる。従って倭人伝の記事や文字を、現代人の認識(大和朝廷一元史観)や自説(「邪馬台国」畿内説)に不都合という理由で改定したり、「信用できない」として無視してはならない。それでも、原文が間違っている、信用できないとするのであれば、そう考える方に論証責任があり、その逆ではない。

 最後に古田先生の著書『九州王朝の歴史学』「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」の「あとがき」を転載します(注)。これからの倭人伝研究が真に学問的手続きを経たものとなることを願うばかりです。

【以下、転載】
従来の「邪馬台国」研究史上、さまざまの立論がなされてきた。そのさい、諸家必ずしも「行路里程記事」について議論せず、率爾として〝自家の邪馬台国〟を語るものも、少なしとしなかったのである。
ことに、考古学者などの場合、この記事のいかんに頓着せず、直ちに「邪馬台国」の所在を論ずる者、むしろ通例だったのである。これ、その「専門」上、止むをえぬところと見えるかもしれぬ。

 しかし、精思すれば判明するように、これはことの道理に反している。なぜなら、倭人伝中に実在するのは、「行路里程記事つきの中心国(邪馬壹国、いわゆる「邪馬台国」)」であって、決して「同記事抜きの中心国」ではない。しかるに、あたかも「後者」が倭人伝中の中心国の姿であるかのように、「同記事抜き」で、ただ「邪馬台国」という国名のみ抜き出して、処理しようとするのは不当である。
もちろん、弥生時代の日本列島において、A(九州)・B(近畿)等、各地における〝中心領域〟を指摘すること、考古学者たちの任務であること、言うまでもない。

 しかし、この弥生期日本列島中のいずれの地が、倭人伝内の中心国か、という比定作業にうつるさいは、必ず「行路里程記事つきの中心国」でなければならず、決して「右抜きの中心国」ではない。
すなわち、倭人伝内の中心国をとりあげるさい、肝心の「行路里程記事」を切り捨てて中心国名だけを抜き出して使用する、そのような権利は誰人にも存在しないのである。

 以上のように考えてくれば、本稿のしめした帰結は、考古学・文献学・民俗学等のいずれにおいても、倭人伝内の中心国名にふれようとする限り、万人に回避しえぬテーマであることが判明しよう。それはわが国の歴史学の新たな出発点となるであろう。
【転載、おわり】

 フィロロギーはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、古田先生の恩師、村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承されました。わたしたち古田学派はそれを受け継いでいます。(おわり)

(注)古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』(駸々堂、1991年)。


第3468話 2025/04/07

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (7)

 ―『穆天子伝』の部分里程と総里程―

 倭人伝のように部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先例『穆天子伝』を古田先生は見いだしました。同書は西晋朝のときに周墓から発見され、それは陳寿と同時代のことです。篆書で書かれた大量の竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わり、翻訳された『穆天子伝』を陳寿は読んだことでしょう。

 その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき叙述法が採用されていました。それは『穆天子伝』巻四に見える、穆天子西域巡幸の行路里程記事で、宗周から西王母の邦を経て大曠原に至り、周に帰還するまでの叙述です。そこに記された部分行路里程と総里程「各行兼数」の概略は次のようです(注)。

《『穆天子伝』巻四 西域巡幸の行路里数》
❶宗周のてん水より以て西し、河宗の邦・陽紆の山に至る 3400里
❷陽紆の西より西夏氏に至る 2500里
❸西夏より珠余氏に至り河首に及ぶ 1500里
❹河首の襄山より以て西南し、舂山の珠澤・崑崙の丘に至る 700里
❺舂山より以て西し、赤烏氏の舂山に至り 300里
❻東北、還りて羣玉の山截・舂山以北に至る ※里数値なし《700里》
❼羣玉の山より以て西し、西王母の邦に至る 3000里
※❻と❼は一文節。
❽(□)西王母の邦の北より曠原の野・飛鳥の其の羽を解く所に至る 1900里
❾(□)宗周、西北の大曠原に至る 14000里
❿乃ち還りて東南し、復び陽紆に至る 7000里
⓫還りて周に帰すること (3000里) ※周地に入ってからの行路であり、集計から除外してあるものと、見られる。
⓬各行兼数 35000里 ※「各行兼数」とは総里程のこと。

 ここに記された部分里程❶~❿の合計は34300里であり、総里程「各行兼数」35000里に700里足りません。そこで古田先生は行程記事を精査し、記された方角から見て、❹(西南へ700里)❺(西へ300里)❻(東北へ・無記載)が平行四辺形の3辺であり、そのため同数になる対面する2辺の里数の内、後の700里を「還りて~至る」として表現し(則地叙述法)、里数記載を省略したとしました(簡約叙述法)。これにより、部分里程の総和が総里程となったわけです。

 この則地叙述法と簡約叙述法が『穆天子伝』に採用され、それをお手本にして陳寿は『三国志』倭人伝を叙述したと古田先生はされました。それは公理(理性の鉄則)〝部分里程の総和は総里程〟を貫かれたことにより到達した仮説です。その際、現代人の認識や自説に基づく原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を「否」とする、古田先生の学問の方法が一貫していたことを忘れてはならないでしょう。

 なお、必要にして十分な論証抜きでの原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を排して、〝部分里程の総和は総里程〟が成立する古田説とは異なる解釈や仮説が新たに発表されれば、それも有力仮説の一つとして検証・評価しなければならないこと、言うまでもありません。(つづく)

(注)古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』(駸々堂、1991年)による。

〔補記〕
茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)より、古田先生の❻の訓みについて疑義が出され、次の読み下しが提起されたので紹介する。古田先生に書簡でこの読解を提案されていたとのことである。
「東北、羣玉の山に還り至るに、舂山以北を截(き)る。」
「中国哲学書電子化計画」(WEB)には句読点が次のように付され、茂山氏の訓みと対応している。
「東北還至于羣玉之山、截舂山以北。」


第3467話 2025/04/06

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (6)

―『穆天子伝』の発見―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて史書編纂者は記し、それを献上された天子を筆頭に官僚や読者もそのように理解するはずだとする、古田先生の学問の方法は、文献史学やフィロロギーでは極めて常識的なものです。その一点にこだわり抜いたことにより、古田先生は倭人伝の行路里程に記された対海国と一大国の島内陸行(島巡り半周読法)に相当する計千四百里を部分里程に含めると、部分里程の総和が総里程「万二千余里」になることを発見したわけです。

 他方、倭人伝の文面には「千四百里」という里数値が直接的に記載されているわけではないため、このような間接的に里程を読み取らなければならないような先行史料(先例)の提示は当初はできていませんでした。そのため、〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟という批判が出されることになったものと思われます。

 しかしながら、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)は『三国志』編纂当時も現代も周知のことであり、陳寿もそのことをわかった上で帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を行路記事中に書き続け、そして総里程も記してたわけです。ですから、部分里程が「千四百里」足らなければ、行路記事中のどこかに足し忘れた里程があるのではないかと考え続けたのが古田先生で、その他の論者はそのことについて〝思考停止〟してきたのが、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟論争でした。

 そのような状況が二十年ほど続いた後に、倭人伝と同様に、部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先行史料(先例)を古田先生は見いだしました。それが『穆天子伝』(五巻)です。同書は周の第五代の天子、穆(ぼく)王の業績を記した本で、三世紀、西晋朝のときに周の戦国期の王墓から発見されました。『三国志』の著者、陳寿の時代です。同墓から「数十車」にものぼる「竹書(竹簡)」が発掘され、その中に有名な『竹書紀年』と共に、『穆天子伝』もありました。先秦の文字(篆書)で書かれた竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わっていたことを疑えません、少なくとも翻訳完成した『穆天子伝』を陳寿は西晋の史官として読んでいたと考えるべきでしょう。その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき記述法が採用されていたのです。(つづく)


第3465話 2025/04/04

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (5)

 ―部分里程の総和は総里程―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて著者は記し、読者もそのように理解するはずだという、文献史学とフィロロギーの基本認識(学問の方法)を古田先生は尊重し、それまでどの論者も成し得なかった倭人伝の総里程「万二千余里」と一致する部分里程を初めて明らかにしました。そして、その先例である『史記』大宛列伝の里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟を紹介しました(注①)。当該部分は次のようです。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

 漢から大宛を経て大夏に至る里程記事で、❶「万里」+❷「二千余里」=❸「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっています。このケースは部分里程が具体的に記されて、総里程との一致が単純計算で得られますが、倭人伝では対海国「方四百里」と一大国「方三百里」とある数値に基づく「島巡り半周読法」という解釈に至ることが簡単ではありませんでした。

 しかしながら、倭人伝には対海国と一大国の様子を次のように記載(報告)しており、島内の「道路如禽鹿徑」を陸行したことを表しています。この陸行の「距離」を陳寿は「方四百里」「方三百里」から算出し、それを加えて総里程「万二千余里」にしたのではないかと古田先生だけが気づいたのです。

【対海国】「方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田食海物自活、乖船南北市糴。」
【一大国】「方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。」

 この「島巡り半周読法」という仮説を導入することにより、倭人伝の部分里程の総和が総里程「万二千余里」に一致し、魏西晋朝短里説(1里=約76m)とあわせることにより、邪馬壹国博多湾岸説が成立しました。この古田説は〝部分の総和は全体〟という公理(理性の鉄則)に適った初めてで唯一の説であり、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟とは異次元の学問レベルに達したもので、多くの古代史ファンや研究者の支持を得たことはご存じの通りです。

 他方、〝部分の総和が総里程にならなくてもよい〟と、明言はせずとも事実上そうしてきた従来説は説得力を失いました。しかし、古田説発表後も、日本古代史学界、特に畿内説論者からはこの公理(理性の鉄則)は無視されてきました。このような学界の状況を古田先生は嘆き、次のように注意喚起しています(注②)。

〝汗牛充棟の名をほしいままにすべき、わが国の倭人伝研究の中に、瞠目すべき一大欠落が存在する。それは次の一点の点検である。
「帯方郡より女王国に至る総里程(一万二千余里)と、各部分里程の総和が一致しているか否か」

 およそ“部分を足せば、全体になる”とは、贅言(ぜいげん)するまでもなく、古今不動の通軌にして理性の鉄則である。とすれば、倭人伝内に多くの部分里程が頻出すると共に、他面、帯方郡治と女王国の間の総里程が銘記されている以上、右の通軌・鉄則に照らして、必ず倭人伝内の文章を点検すべきこと、他のあらゆる揣摩(しま)憶測の諸説に奔る前に、先ず通過すべき学問的関門でなければならぬ。

 しかるに従来の諸氏万家、これを怠り、いたずらに中心国(邪馬壹国。諸家のいわゆる「邪馬台国」)の帰趨すべき到達点の論議にのみ焦点を求めてきたのは、学問の方法上、きわめたる遺憾の一事という他はなかったのである。
それゆえ筆者は、倭人伝内の中心国の所在を求めるにさいし、この一点の検証を出発点としたのであった。

 論文「続、邪馬壹国」及び『「邪馬台国」はなかった』における所論がそれである。しかるに、爾来、二十年。他の分野、たとえば「国名」問題、「里単位(短里)」問題等においては、幸いにも幾多の反論に恵まれたにもかかわらず、この枢要の一点に関しては、ほとんど反論に会わず、しかも学界がこれを“受け容れた”形跡もなく、不可解なる二十年を経験してきたのであった。

 今回、当問題のもつ不可避の論理性を“裏書き”する重要な新史料に遭遇した。よって江湖にこれを率直に報告し、学界の真摯なる注意を喚起したいと思い、この一文を草するのである。〟『九州王朝の歴史学』9~10頁。

 この古田先生が遭遇した重要な新史料とは『穆天子伝』のことです。(つづく)

(注)
①古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。
②古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』駸々堂、1991年。


第3464話 2025/04/01

『東日流外三郡誌の逆襲』編集大詰め

八幡書店で進められている『東日流外三郡誌の逆襲』の編集作業が大詰めを迎えています。このところ毎晩遅くまで同社の武田社長と編集の打ち合わせと原稿の改定に追われています。順調に進めば5月末頃には発行できるとのことです。

同書の構成については八幡書店のアドバイスを尊重し、次のように改めることになりました。執筆者の皆様にはご理解の程、お願い申し上げます。引き続き、調整や修正があるかもしれませんが、出版のプロのご意見だけに、わたしが提案した当初の章立てよりもかなり読みやすくなっています。出版までもう一息です。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがきに相当(目次の前)
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ 扉

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々 扉

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を証言する人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証 扉

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 令和の「和田家文書」調査 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物 扉

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界 扉

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞 ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也


第3461話 2025/03/29

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3)

  『史記』大宛列伝、司馬遷の里程計算

〝一方、その大宛列伝をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。里程論 175頁。

とあるように、陳寿が参考にしたと思われる『史記』大宛列伝の数ある里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟は、「部分里程の和は総里程」という公理(理性の鉄則)に基づいています。当該部分を抜粋します。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

漢から大宛を経て大夏に至る里程記事ですが、❶西へ「万里」+❷西南へ「二千余里」=❸西南「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっていますし、方向も「西→西南=西南」と一致しています。これは倭人伝の里程記事、「帯方郡治から狗邪韓国まで七千余里」+「倭地周旋五千余里」=「帯方郡から邪馬壹国まで一万二千余里」の先行例です。陳寿が高名な司馬遷の『史記』を読んでいなかったとは考えにくく、むしろ西晋朝の高級史官として、『史記』などの先行史書を参考にして『三国志』を著したものと思われます。
この「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。なお、古田説とは異なる有力説が野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から発表されています(注)。

○狗邪韓国→対海国 千余里
○対海国「方四百里」 八百里(島巡り半周読法により算出)
○対海国→一大国  千余里
○一大国「方三百」  六百里(島巡り半周読法により算出)
○一大国→末盧国  千余里
○末盧国→伊都国  五百余里
○伊都国→不彌国  百里
◎合計       五千余里
※伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれないとした。

以上のように、『三国志』という同時代の史書を著述した西晋朝の高級史官である陳寿が、「部分の総和は全体」という公理(理性の鉄則)を知らなかった、あるいは無関心だったとは、わたしには到底思えません。また、当時の数学のレベルの高さは、『周髀算経』(成立は三世紀初頭)を見ても明らかです。ですから、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする見解には首肯できないのです。(つづく)

(注)野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。


第3460話 2025/03/28

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2)

 ―総里程「万二千余里」の根拠は何か―

 まず、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする古田説への批判について考えてみます。特に前半の総里程「万二千余里」を概数、すなわち厳密な計算に基づかないアバウトな数値とする理解については、古田先生による次の指摘があります。

〝さて問題のポイントは、帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里ということです。つまり12000-7000=5000(倭地)であって、はっきりした関係をなしています。これを偶然の一致だとか、倭地は周りが五千余里だということで、九州は長里で大体五千里になるだろう、足らないのは向こうがまちがえたなどとするのはおかしい。素直に解釈すべきだと思います。〟『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。「狗邪韓国、倭地」論 143~144頁。

〝一方、その大宛列伝(『史記』)をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟同。里程論 175頁。

 このように、倭人伝における陳寿の里程計算方法について詳述されました。これは文献史学におけるフィロロギーという学問の方法に基づいたものです。フィロロギーとはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、「人が認識したことを再認識する」というものです。このフィロロギーを村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承され、わたしたち古田学派の研究者がそれに続いています。日本ではフィロロギーを「文献学」とも訳されていますが、対象は文献だけではないことから、古田先生は原義(原語)のまま「フィロロギー」と呼ばれていましたので、わたしはこれに従っています(注①)。

 今回のケースでは、『三国志』の著者陳寿がどのような認識で倭人伝の行程・里程記事を著したのかを、現在のわたしたちが精確に再認識するということになります。すなわち、「万二千余里」をアバウトな概数と認識していたのか、陳寿なりの根拠を持った認識(ある情報に基づく計算式)に依っていたのかを探る、ということです。

 理系の化学や数学などの分野とは異なり、文献史学では人の心(理性・感情・認識・記憶など)や言動(講演、著述活動など)も重要な研究対象としますから、どうしてもフィロロギーの方法論を採用せざるを得ません。なぜなら、史料事実(真偽の程度未詳のエビデンス)と歴史事実は異なる概念であり、史料事実や出土事実それ自体が歴史事実を直接語るわけではないからです。このことについては別稿で論じたいと思います。

 先の古田先生の論考に見える「七千余里」「五千余里」「万二千余里」は、倭人伝の次の記事を典拠とします。

❶「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」
❷「自郡至女王國、萬二千餘里。」
❸「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

 ❶は帯方郡(ソウル付近とされる)から韓半島南岸の狗邪韓國までの距離(七千余里)、❷は帯方郡から女王国までの総里程(一万二千余里)
、❸は狗邪韓國から女王国までの距離(五千余里)のことですが、❸については野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)による有力な異論もあります(注②)。

 古田先生が「陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう」とするように、陳寿の里程記事はアバウトな概数ではなく、根拠とした数値と計算式に基づいた里数と思われます。そもそも、アバウトな概数であれば「余里」(+α里)という表記は全く不要です。そのような概数であれば、一万二千里とか七千里、五千里と記せばよいだけだからです。おそらく陳寿は、倭国を訪問した魏使の報告書や、倭国に二十年間滞在した「塞曹掾史張政」(注③)の知見に基づいていると考える他ありません。「○○余里」とまで記した里数値はそうした情報に基づいており、現代人の認識や自説に基づく解釈によって、それらを概数と決めつけることはできないように思います。

 更に言えば、倭人伝の里程記事に見える里数を単純に足しても、それは一万五百里(伊都国まで)、または一万六百里(不彌国まで)であるため、それらの概数表記は「一万里」あるいは「一万千里」となります。従って対海国(対馬)と一大国(壱岐)の半周読法(注④)により導き出された里数(千四百里)を採用しない限り、仮に概数としても「一万二千余里」にはなりません。このことからも、倭人伝の「萬二千餘里」はアバウトな概数ではなく、陳寿が神経を働かせて〝根拠に基づく計算〟により記された里数と見なさざるを得ないのです。(つづく)

(注)
①フィロロギーについては次の書籍を参照されたい。
アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』(安酸敏眞訳、知泉書館、2014年。原題 Encyklopadie und Methodologie der philologischen Wissenschaften 1877年)。
古田史学の会・関西例会では同書をテキストに、茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)が2017年4月から一年間にわたり「フィロロギーと古田史学」を連続講義した。
②野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
同『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』私家版、2016年。
③古田武彦『すべての日本国民に捧ぐ 古代史―日本国の真実』1992年、新泉社。
④倭人伝行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致し、「邪馬台国」研究に於いて、「万二千余里」の説明に初めて成功した。

【写真】アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』と関西例会で発表する茂山憲史さん。