古田武彦一覧

第3458話 2025/03/26

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (1)

 必要があって、『「邪馬台国」はなかった』(注①)を始めとする古田先生の初期の著作を何度も読み直しています。その勉強の成果の一端を、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注②)。

 そのようなおり、倭人伝の行程記事について思ってもいなかった古田説批判があることを知りました。それは〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい。〟あるいは〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟というものでした。すなわち、対海国(対馬)と一大国(壹岐)の島巡り半周読法(注③)は合計が一万二千里になるように解釈したもので、測定した証拠はないという古田説の根幹部分に対する批判です。

 このような古田先生の学問の方法の根幹部分(部分里程の和は総里程にならなければならない。注④)に対する批判があることを知ったのですが、どのように説明すればよいのだろうか、同時にその主張(部分里程の和が総里程と一致しなくてもよい)が成立するとした根拠は何だろうかと、わたしは考え込みました。〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と、わたしは考えていますので、古田先生ならどのように返答されるだろうかと思案中です。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古賀達也「洛中洛外日記」第3420~3424話(2025/02/03~07)〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟
同「洛中洛外日記」第3425~3433話(2025/02/09~25)〝『三国志』短里説の衝撃 (1)~(8)〟
同「洛中洛外日記」3439話(2025/02/27)〝『三国志』短里説の衝撃〔余話〕―陳寿を信じとおす、とは何か―〟
同「洛中洛外日記」3446~3454話(2025/03/11~20)〝『三国志』「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)~(7)〟

③倭人伝の行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする行程解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致した。これは従来の「邪馬台国」論争に於いて誰も成し得なかったことで、「万二千余里」の説明に初めて成功した行程解釈。

④古賀達也「洛中洛外日記」1538話(2017/11/14)〝邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造〟で、次のように説明した。
〝この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。〟


第3457話 2025/03/25

唐詩に見える王朝交代の列島 (7)

 ―仲麻呂の出身地は太宰府―

 阿倍仲麻呂が日本国へ帰国の際に王維が作ったとされる詩の「九州」を古田先生が九州島のこととした理由の一つに、『古今和歌集』の著名な歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は、仲麻呂が太宰府の三笠山(宝満山)から出た月を詠んだものとする古田説の存在がありました。

 「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注①)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、その東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から月は出ると論じたことがあります(注②)。

 この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究(注③)で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌った「みかさの山」は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。

 この論証の成立により、太宰府の御笠山から月が出ることを知っていた阿倍仲麻呂は、九州・太宰府の出身とする理解が可能となりました。この理解が王維の詩(注⑤)に見える「九州」を九州王朝の故地、九州島のこととする古田先生の解釈の傍証となったわけです。

 ちなみに、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代後(701年~)の平城京の知識人は、低すぎる御蓋山からは月が出ないことを知っていたので、「みかさの山を いでし月」では情景として不自然であるため、〝御蓋山の上方に昇っている月〟の意味にもとれる「みかさの山に いでし月」と、「を」→「に」に改変したと推定されます。このことが『古今和歌集』古写本と流布本の差異発生の原因になったのです。もっとも、「みかさの山に いでし月」と改変してもやはり不自然です。なぜなら平城京からは見える月は、後方(東)の春日山連峰の上にあり、「たかまど山に いでし月」とでも詠まなければならないからです。(つづく)

(注)
①延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
②古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
③杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。
⑤《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
「九州」何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

【写真】太宰府の三笠山(宝満山)と阿倍仲麻呂画

【写真】太宰府の三笠山(宝満山)と阿倍仲麻呂画


第3456話 2025/03/24

ドラマ「御上先生」と古田先生

感動的なテレビドラマが最終回を迎えました。松坂桃李さん主演の「御上先生」です(注①)。主人公の御上(みかみ)先生は文科省のエリート若手官僚です。同期の友人に裏切られ、省内の出世競争で追い落とされ、県内トップの進学校「隣徳学院高校」に教師として出向(左遷)させられます。彼を「おかみ」と呼ぶ生徒達と次第に心を通わせ、悩み苦しみながら成長する生徒達と一緒に、日本の教育を守るために政府・文科省と同学園の癒着(政治家の子弟の不正入学の見返りとしての助成金獲得システム)を暴くという、本格的で重苦しい社会派学園ドラマです。

全編を通じて流れるBGM「仰げば尊し」の旋律とワンオクロック(ONE OK ROCK)がエンディングで歌う「Puppets Can’t Control You」も印象的な名曲でした。何よりも御上先生が毎回何度も生徒に語るセリフ、「そうだね」「考えてみようか」が示すように、生徒を肯定し、生徒自身が考えるよう促し、会話に命令形を用いないことにも感動しました。

最終話を見て、このドラマの主題が〝生徒の自殺を防ぐ〟〝子供たちを自殺に追い込む日本社会の崩壊を教育により防ぐ〟というところにあることに気づきました。毎回のように生徒一人一人がクローズアップされ、放置すれば自殺しかねないその生徒を救いあげるという御上先生の言葉と行動と、国家権力や社会の不正義との戦いとが重なり合って展開するストーリーは、子供の自殺率が他国と比べても異常に高い日本社会(注②)の現実を思い起こさせるものでした。

このドラマが訴えたかった主題〝子供の自殺〟に気づき、わたしは次の古田先生の言葉が脳裏に浮かびました。

「わたしの高校教師としての唯一自慢できることがあるとすれば、それは教え子を一人も自殺させなかったことです。これはわたしの誇りです。」

「御上先生」を視て、この言葉の意味を、ようやくわたしにも深く理解することができたようです。

(注)
①『御上先生』(みかみせんせい)は、2025年1月19日から3月23日までTBS系「日曜劇場」枠にて放送されたテレビドラマ。主演は松坂桃李。東大卒のエリート文科省官僚の御上孝が、新規に制定された官僚派遣制度により事実上の左遷として私立高校「隣徳学院」への出向が命じられ、高校3年生の担任として教壇に立つ姿を描く。脚本 詩森ろば、製作 TBSテレビ。(出典:『ウィキペディア』)
②G7各国で、十代の子供の死因第一位が自殺であるのは日本だけ。(厚労省「自殺対策白書」)


第3455話 2025/03/22

唐詩に見える王朝交代の列島 (6)

王維の「九州」、古田説と中小路説の衝突

 古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされ、中小路先生はその読みは成立しないと批判しました。恩師の説と尊敬する古典文学者の意見が衝突したのですから、わたしはもとより、古田学派内で静かな衝撃がはしりました。それは次の詩に見える「九州」です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
「九州」何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹「扶桑」外 主人孤島中
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 阿倍仲麻呂が日本国へ帰国の際に王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。従って、「郷樹扶桑外」を〝郷樹は扶桑の外〟では、仲麻呂の郷土は扶桑(九州王朝)の外(大和朝廷)となるため、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました(注①)。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生は、当時の漢文において「○○外」とあれば、〝○○の外側〟の意味であり、古田説のように〝○○は外〟と読むのであれば、その前例を提示すべきと批判しました(注②)。古典文学者として中小路先生は、前例のない古田先生の読みを認めることはできないとされたのです。

 このお二人の意見の衝突に、古田学派のほとんどの研究者は〝沈黙〟し、息をひそめて論争の成り行きを見ていたように思います。どちらの主張にも根拠があり、どちらを是とすべきか判らなかったのではないでしょうか。少なくともわたしはそうでした。また、古田先生と中小路先生は論文の他にも、電話でも論争を続けておられました。当時、中小路先生はお病気で、古田先生との長時間の電話による会話(論争)は息が切れて続けられない状況でした。そうした事情もあって、この論争は決着がつかないまま、中小路先生が亡くなられました(2006年没)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3452話 2025/03/18

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (6)

 ―天柱山標高「1860m」の出典閲覧―

 今の中国には、なぜか複数の「天柱山」があります。古田先生は『史記』や『三国志』に見える「天柱山」を大別山脈の最高峰とされ、著書にはその高さを1860mとしています。ところが大別山脈最高峰の白馬尖は1777mです(注①)。この違いが気になっていましたので、先生の著書(注②)で出典とされている「世界大地図(小学館『大日本百科辞典』別巻)や「『中華人民共和国地図』1971年、北京」を探していたところ、なんと『世界大地図』(小学館、1972年)がご近所の京都府立医大付属図書館にあることがわかり、昨日、閲覧してきました。同書は『ジャポニカ大日本百科辞典』別巻「23巻」の『世界大地図』のことでした。

 同書索引には「天柱山」がなく、中国安徽省を含む地図中にもそのような山名は見えません。先生は何を根拠に1860mとされたのだろうかと目を凝らして探し続けたところ、大別山脈中に小さな文字で「▲1860」とありました。その位置は潜山(チエンシャン)の西で、白馬尖の位置とも異なるように見えました。また、安徽省潜山市の天柱山(約1489m)の場所よりもやや南のように見えます。しかしながら大別山脈中にはこの他に山の高さを示す数字はありません。従って、古田先生はこの「▲1860」を大別山脈の最高峰と見なしたものと思われます。おそらく、これが1970年頃の中国の測量技術に基づく数値ではないでしょうか。先生の著書も1975年出版ですから、当時としてはこの「1860」という数値が、大別山脈最高峰の公的な標高・海抜(注③)であったと思われます。

 こうして、古田先生が採用した1860mが、当時の地図に記された根拠を持つ数値であることを確認できました。決して、古田先生の誤解ではなく、架空の数値でもなかったのです。古田先生(の著書の数値)を「信じとおす」とは、このように一つ一つ実証的に調べ抜くことを意味し、決して古田先生や古田説を「盲信する」ことではないのです。(つづく)

(注)
①WEB辞書『Baidu百科』「白馬尖」によれば大別山の主峰であり、海抜1777mとある。
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)とある。
古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、1980年。「『中華人民共和国地図』1971年、北京」とある。
③標高と海抜は厳密には異なる概念だが、当時の中国での定義については未詳。


第3450話 2025/03/15

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (5)

 ―本来の「天柱山」は六安市の霍山―

 今の中国には複数の「天柱山」があります。このことは古田先生も著書で指摘していました(注①)。

 「天柱山は中国各地にいくつもあるが、この場合幸いなことに道程の記載があって、はっきりその場所が指定できる。現在中国で出ている地図にも書いてある有名な山で、海抜一八六〇メートルの、関東でいえば国定忠治の赤城山か谷川岳といったところだ。天柱山、高峻二十余里という語から想像するほど高くはない。」『日本古代史の謎』

 そのため、『三国志』(魏志張遼伝)に見える「天柱山」を古田先生は『三国志』や『史記』の記述を根拠に、下記の条件を満たす「霍山」(安徽省六安市霍山県。1860m)のこととしました。

❶「霍山」「衡山」「南嶽」の別名を持つ。
❷安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰。
❸黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点にある。
❹武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
❺大別山脈の最高峰である。

 そこで、WEBで安徽省六安市霍山県の「霍山(かくざん)」について調べたところ、次の解説が目にとまりました。

〝南岳山

 皖西の名山、南岳山の位置は霍山県城の南2.5㎞、(中略) 原名は天柱山、亦の名は霍山、又、衡山、小南岳と称す。(中略)
我が国最古の意味を説明した専著《尓雅》の「釋山篇」に言う。「大山は小山を囲み、霍。」、「霍山は南岳である。」前段の意味は、大山が小山を囲んでいるということである。後世の歴史書で「霍山」を説明する場合、《尓雅》的な解釈が大半である。また、一致して「霍山」と呼ばれるのは、山西省の霍州近くにある山が「霍山」と呼ばれる以外には安徽省西部の霍山がある。

現代の辞書も「霍山」を説明する際には、上記の二つの注釈を多く引用している。そのため、南岳山もまた霍山と名付けられる。しかし霍山は今では南岳山や他の山を指しているのではなく、行政区域の霍山県を指している。
明末清初の著名な歴史地理学者、顧祖禹の《読史方輿紀要》第26巻には霍山について次のように記載されている。「霍山、県の南五里、本名は天柱山、また南岳山、また衡山とも呼ばれる。文帝は淮南の地を分けて衡山国を立て、この山の名を付けた。
《洞天記》によると、黄帝が五岳を封じた際、南岳衡山が最も遠い地で、潜岳を副にした。舜が南巡狩を行った際、南岳に至る。それが霍山である。漢の武帝は先哲の訓練を考えて、霍山を南岳としたので、故にその神をここで祭った。したがって、南岳山はまた衡山とも呼ばれる。(中略)

1987年に南岳山が省政府により正式に「小南岳風景区」と命名されて以降、「小南岳」という名前が広まった。〟 (『Baidu百科』「南岳山」 ※翻訳ソフトの翻訳結果を大意が取れる程度に修正した。)

 このように安徽省六安市霍山県の「霍山」は「南岳山」(「南嶽」と同義)と呼ばれ、天柱山・衡山という旧名を持つと説明されており、地理的位置も先の条件に適っています。他方、3448話で紹介した安徽省安慶市・潜山市の天柱山(標高1489.8m)には、「霍山」という別名は見当たらないようです。
従って、大別山脈にある霍山こそ『史記』や『三国志』に記された本来の「天柱山」とするのが最も有力な理解です。なお、この霍山の最高峰「白馬尖」の標高は1777mとあります(注②)。古田先生が紹介した1860mとは少々異なりますが、いずれでも短里によれば、「天柱山、高峻二十余里」と実測値が対応しているということに違いはありません。(つづく)

(注)
①古田武彦「『邪馬台国』はなかった —その後—」『日本古代史の謎』朝日新聞社、1975年。
②WEB辞書『Baidu百科』「白馬尖」によれば大別山の主峰であり、海抜1777mとある。


第3449話 2025/03/14

「天柱山高峻二十余里」の論点 (4)

 ―安徽省にある二つの「天柱山」―

 『三国志』(魏志張遼伝)に見える「天柱山高峻二十余里」の標高の違いに着目し、まず、古田先生の著書に記された天柱山(1860m)について再確認しました。そこには次の説明がありました(注)。

〝(二) つぎに「十里代」でありながら、例外的に「明晰な実距離」を指定しうる例として、つぎの文がある。

 成(梅成)遂将其衆就蘭(陳蘭)、転入潜山。潜中有天柱山、高峻二十余里。道険狭、歩径裁通、蘭等壁其上。(魏志第十七、張遼伝)

 太祖の命をうけて、長社(河南省長葛県の西)に屯していた張遼が、天柱山にこもった叛徒、陳蘭・梅成の軍を討伐し、これを滅ぼした、という記事の一節である。その天柱山の高さが「二十余里」だというのである。この山の実名は「霍山」(一名、衡山)であり、安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰である。〟『邪馬壹国の論理』

 このように指摘し、『史記』の記事を提示して次のように論じます。

〝其明年(元封五年)冬、上巡南郡、至江陵而東。登礼潜之天柱山、号曰南嶽。
応劭曰「潜県属盧江。南嶽、霍山也。」
文頴曰「天柱山在潜県南。有祠。」  (『史記』第十二、孝武本紀)

 この「霍山」は高さ一八六〇メートル(海抜)だ【注18】。これに対し、「二十余里」とは、メートルに直すとつぎのようだ。

短里(一里=七五〜九〇メートル)
二三〜二四里=一七二五〜二一六〇メートル
長里(一里=四三五メートル……山尾氏)
二三〜二四里=一〇〇〇五〜一〇四四〇メートル

 つまり、霍山の実高は、魏晋朝の短里によると、ピッタリ一致している。ところが長里によるときは、エベレスト(八八四八メートル)を超える超高山となる。実際は霍山は群馬県の赤城山(黒桧山、一八二八メートル)と谷川岳(一九六三メートル)の間くらいの山なのである。その上、つぎの四点の条件が重要だ。

(1) その場所は、いわゆる“夷域辺境”ではなく、黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点、という、まさに多くの中国人にとってもっとも明瞭な認識に属する位置に当たっている。
(2) その山の東方(安徽省)、西方(湖北省)とも、平野部であり、その間に屹立し、万人の注目をうけてきた著名な山である。
(3) 『史記』に武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
(4) 「十里」「百里」などと異なり、「二十余里」というのは“成語”や“誇張的な概数”ではない。

 すなわち、万人が日常見ている周知の山に対し、“異常な誇張”をもって表現すべきいわれは全くない。〟『邪馬壹国の論理』

 そして【注18】には「世界大地図(小学館『大日本百科辞典』別巻)大別山脈」とあり、「天柱山」は次の条件がそろっている山のこととなります。

❶「霍山」「衡山」「南嶽」の別名を持つ。
❷安徽省潜山県の西北、皖山の最高峰。
❸黄河と揚子江の中間、南京と洞庭湖の中点にある。
❹武帝の巡行記事があるように歴史的にも著名な名山である。
❺大別山脈の最高峰である。

 以上の条件を持つ山があります。安徽省六安市霍山県の「霍山(かくざん)」です。古田先生の著書『邪馬壹国の論理』に掲載された地図にも、安徽省の西側の大別山脈中に「△霍山」と記されており、この山が『三国志』の「天柱山」とされているのです。(つづく)

(注)古田武彦「魏晋(西晋)朝短里の史料批判 山尾幸久氏の反論に答える」『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3448話 2025/03/13

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (3)

 ―「天柱山」の標高は何メートルか―

『三国志』の「天柱山高峻二十余里」〔魏志張遼伝〕について、古田説を次のように説明しました(注①)。

○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。

このことを「古田武彦記念古代史セミナー」実行委員会で紹介したところ、天柱山の標高は1860mではなく、1499mではないかとの指摘がありましたので、「現代中国には各地に天柱山があり、『三国志』に見える「天柱山」は古田説の場所でよい」と返答しました。この1499mという数字を聞き、やはり勘違いされているのだなと思いました。

と言うのも、わたしは古田説の紹介に当たり、事前に天柱山について調べていたからです。たしかにインターネットで「天柱山」を検索すると、標高約1449mの安徽省安慶市・潜山市の天柱山が真っ先にヒットするからです。わたしも、古田説の1860mとは異なることを不審に思い調べたところ、同じ安徽省内ですが古田説の天柱山とは場所が異なっていたのです。しかも、そのWEB(『Baidu百科』「天柱山」)では次のように解説されているのです。

〝前漢元封五年(前106年)、漢武帝劉徹が南巡狩を行い、浔陽(九江市)から揚子江を下り、盛唐(現在の安慶市盛唐湾)を経て皖口(現在の懐寧県山口鎮)に入り、川を遡上した。法駕谷口(現在の天柱山野人寨)に登り、礼天柱に至り、「南岳」と称された。隋文帝が江南の衡山を南岳と改称するまでの700年間、南岳と呼ばれるのは天柱山である。南岳の称号が江南に移った後、天柱山を人々は「古南岳」と呼んだ。〟(『Baidu百科』「天柱山」 ※翻訳ソフトの翻訳結果を修正した。以前と比べて最近の翻訳ソフトはかなり精度が向上しているが、そのままでは採用に堪えない。)

この安徽省安慶市・潜山市の天柱山の標高は、1980年の測定で1488.4m、2008年には1489.8mとあり、この説明を読めばこれを『三国志』の「天柱山」のことと間違ってしまうのも無理からぬことと思います。他方、古田先生は「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)や「『中華人民共和国地図』1971年、北京」によって、天柱山の標高を海抜1860mと著書(注②)に記されています。1971年作成の地図と現在の地図とに400m近くの測定差が発生するはずもなく、史料調査に慎重な先生が地図を見誤られたとも考えにくいのです。このときわたしは〝何かがおかしい。このWEB情報を信用するのは危ない〟と直感的に思い、天柱山の位置を文献と現在の地図とで精査・探索しました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3429話(2025/02/13)〝『三国志』短里説の衝撃 (4) ―『三国志』の中の短里―〟
②古田武彦『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房より復刻。「世界大地図」(小学館『大日本百科辞典』別巻)とある。
古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、1980年。ミネルヴァ書房より復刻。「『中華人民共和国地図』1971年、北京」とある。

 

【写真】安徽省安慶市・潜山市の天柱山


第3447話 2025/03/12

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (2)

 ―山高を「里」で表す『水経注』―

 『三国志』に短里(一里76~77m)が採用されている例として『三国志』の「天柱山高峻二十余里」〔魏志張遼伝〕があります。これに対して、〝山の高さを「里」では表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この「二十余里」は天柱山までの距離〟とする批判が出されましたが、山の標高を「里」で表記する例は少なからずあることを古田先生は『邪馬一国の証明』(注①)で紹介しました。そして、「水経注には、山高に「里」を用いた例が頻出している。」としています。

 『水経注』四十巻は、六世紀前半に北魏の酈道元(れきどうげん)が撰述した地理書で、河川の位置や歴史などが詳述されています。その構成は、『水経』という三世紀頃までに成立した簡単な河川誌に、多くの文献の引用と酈道元の注釈が加わったものです。酈道元自身の執筆部分の里数値は長里ですが、諸文献からの引用部分の里数値はその時代の里単位が使用されているようですので、個別に検討が必要です。
その『水経注』全四十巻を数年ぶりに一日かけて読みました(注②)。見落としがあるかもしれませんが、山や嶺の高さに「里」が使われている次の例を見つけました。多くはありませんが、「山高」を「丈」で表す例もありました。

❶河水重源有三、非惟二也。一源西出捐毒之國、蔥嶺之上、西去休循二百餘里、皆故塞種也。南屬蔥嶺、「高千里」。(卷二 河水)

❷水出垣縣北教山、南逕輔山、「山高三十許里」、上有泉源、不測其深、山頂周圓五六里、少草木。(卷四 河水)

❸汾水又逕稷山北、在水南四十許里、山東西二十里、南北三十里、「高十三里」、西去介山十五里。山上有稷祠、山下稷亭。(卷六 汾水)

❹許慎《説文》稱從邑、癸聲。河東臨汾地名矣、在介山北、山即汾山也。其山特立、周七十里、「高三十里」。文穎*言在皮氏縣東南、則可「高三十里」、乃非也。今準此山可「高十餘里」、山上有神廟、廟側有靈泉、祈祭之日、周而不耗、世亦謂之子推祠。(卷六 汾水)
※文穎*は魏の官僚。『三国志』の著者陳寿は西晋の官僚で、二人は同時代の人物。

❺水西出廣昌縣東南大嶺下。世謂之廣昌嶺、「嶺高四十餘里」、二十里中委折五迴、方得達其上嶺、故嶺有五迴之名。(卷十一 滱水)

❻泃水又左合盤山水、水出山上、其山峻險、人跡罕交、去山三十許里、望山上水、可「高二十餘里」。(卷十四 鮑丘水)

❼《搜神記》曰、雍伯、洛陽人、至性篤孝、父母終殁、葬之於無終山、「山高八十里」、而上無水、雍伯置飲焉、有人就飲、與石一斗、令種之、玉生其田。(卷十四 鮑丘水)

❽漢水又東南逕瞿堆西、又屈逕瞿堆南、絶壁峭峙、孤險雲高、望之形若覆唾壺。「高二十餘里」、羊腸蟠道三十六迴、《開山圖》謂之仇夷、所謂積石嵯峨、嶔岑隱阿者也。(卷二十 漾水)

❾《鄒山記》曰、徂徠山在梁甫、奉高、博三縣界、猶有美松、亦曰尤徠之山也。赤眉渠帥樊崇所保也、故崇自號尤徠三老矣。山東有巢父廟、「山高十里」、山下有陂、水水方百許步、三道流注。(卷二十四 汶水)

❿泗水南逕高平山、山東西十里、南北五里、「高四里」、與衆山相連。其山最高、頂上方平、故謂之高平山、縣亦取名焉。(卷二十五 泗水)

⓫沅水又東、夷水入焉、水南出夷山、北流注沅。夷山東接壺頭山、「山高一百里」、廣圓三百里。(卷三十七 沅水)

 このように、酈道元自身の文や諸時代成立の引用文献中に、山の高さの表記に「里」が少なからず使われており、『三国志』の天柱山記事に「里」が使われていてもなんら不思議ではありません。従って、〝山の高さを「里」では表すことはない〟とする批判は的外れなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、昭和五五年(一九八〇)。ミネルヴァ書房より復刻。
②調査に当たり、WEB版「中國哲學書電子化計劃」の『水経注』を利用した。


第3446話 2025/03/11

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)

 『三国志』には編纂当時の公認里単位として、短里(一里76~77m)が採用されているとする魏・西晋朝短里説を古田先生は発表し、その一例として『三国志』の「天柱山高峻二十余里。」〔魏志張遼伝〕をあげました。それをわたしは次のように紹介しました(注①)。

 〝天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。〟

 このことを「古田武彦記念古代史セミナー」実行委員会で紹介したところ、ある実行委員から二つの指摘がなされました。一つは、山の高さを「里」では表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離のこととするものでした。

 こうした批判が数十年前にあったことは知っていましたが、古田先生から反論がなされ、とうの昔に決着済みと思っていたので、セミナー実行委員から出されたことにちょっと驚きました。具体的な反論の出典を記憶していなかったので、調べたうえで返答することにしました。その調査結果は次の通りです。
山の標高を「里」で表記する例は少なからずあり、古田先生は次の例を『邪馬一国の証明』(注②)で、45年前(昭和55年)に示されていました。

〝○文穎曰く、「(介山」)其の山特立し、周七十里、高三十里」。(『漢書』武帝紀、注)
文穎は三世紀、後漢末から魏朝にかけての人だ。ここ(山西省)は二〇〇〇メートル前後の高度だから、短里(約二一五〇メートル)でほぼ妥当する。(中略)もしこれが長里なら、一三〇五〇メートルだ。エベレストなど問題にならぬ超高山となろう。(中略)
他の例をあげよう。
○(永昌郡)博南県、山高四十里(『華陽国志』『邪馬壹国の論理』二三七ページ所収、参照)。
○騶山有り、高五里、秦始皇、石を刻す(『後漢書志』郡国志二、注。篠原俊次氏のご教示による。ただし、これは「短里」の例ではない)。
なお、水経注には、山高に「里」を用いた例が頻出している(同右)。〟

 これ以外にも、わが国における短里研究の第一人者である谷本茂さん(古田史学の会・会員、『古代に真実を求めて』編集部)から次のご教示を得たので紹介します。

〝『海島算経』に、島の峰の高さを測る方法の問題があり、「答曰 島高四里五十五歩」とあります。島の峰までの距離と解することはできません。
山の高さか山頂近くまでの距離なのか、議論が生じ易い論点だと思いますが、少なくとも、〝山の高さは「丈」で表すもので、「里-歩」では表さない〟という主張は史料に反例が幾つもあるのですから、成り立たないと思います。
また、山道(登山道)の距離を表す場合には、例えば、漢書注[漢書25郊祀志5上] 如淳曰…泰山從南面直上歩道三十里車道百里のように説明されています。(この例は短里での登山道の距離の例であることが分かりました。)
文頴も如淳も魏の官僚ですから、「短里」や山の高さ表記の認識を共有していたと考えて大過ないのではないでしょうか。〟

 わたしは、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」との信条を持っていますので、古田説や短里説への批判も歓迎しますし、〝兄弟子〟からのご教示には深く感謝しています。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3429話(2025/02/13)〝『三国志』短里説の衝撃 (4) ―『三国志』の中の短里―〟
②古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、昭和五五年(一九八〇)。ミネルヴァ書房より復刻。

「天柱山高峻二十余里。」〔魏志張遼伝〕に関して、
古田武彦氏の発言は、ホームページで全文検索エンジンで検索してください。

 


第3445話 2025/03/10

『多元』186号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』186号が届きました。同号には拙稿〝飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土〟を掲載していただきました。同稿は、2023年11月に報道された飛鳥宮第一期(舒明天皇の飛鳥岡本宮)遺構(塀跡)発見の紹介と、同遺構の火災の痕跡が『日本書紀』記事「六月、岡本宮に災(ひつ)けり。天皇、遷(うつ)りて田中宮に居(ま)します。〔舒明八年〕」と一致することについて考察したものです。そして、次のように論じました。

 「九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきだ。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを今回の出土は示唆している。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応することは、『日本書紀』当該記事の信頼性を高めており、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければならない。」

 同号の一面には、和田事務局長による「安藤哲朗前会長を悼む」が掲載されていました。古田先生や古田説のことをよく知る古田史学第一世代の物故が続き、わたしも心が痛みます。生前、安藤さんから預かっていた未発表原稿は遺稿となりましたが(注)、多元的古代研究会で発行される論集に収録していただけるとのこと。十数年、大切に保管していてよかったと思いました。

 和田さんの追悼文には、わたしが知らなかった次の逸話が記されていました。

 〝安藤さんは「動より静の人」でした。発言はつねに必要にして最小、率先して人の先に立つことはまれでした。初代の高田カツ子会長が急逝された際にも、会長職を固辞され、古田先生が懸命に説得されたとも聞きました。〟

 今頃は冥界で、遺稿に示された古田説とは異なる自説を、もの静かに古田先生に語られているような気がします。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3418話(2025/01/30)〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟


第3444話 2025/03/07

唐詩に見える王朝交代の列島 (5)

 ―王維の詩の「九州」は九州島か―

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目したのですが、古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされました(注①)。前話で紹介した❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》の詩です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑は外(古田説による)
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 これは、唐の官僚(秘書)として勤めていた阿倍仲麻呂が帰国する際の送別の式で王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。それに対応するように、「郷樹扶桑外」も通説の〝郷樹扶桑の外〟ではなく、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島を意味する)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました。扶桑=外(遠地)とする理解です。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生はそのような読みは成立しないと批判されました(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。