古田史学会報一覧

第3241話 2024/03/04

『多元』180号の紹介

 友好団体の多元的古代研究会機関紙『多元』180号が届きました。同号には拙稿〝九州王朝の両京制を論ず(二) ―観世音寺創建の史料根拠―〟を掲載していただきました。同紙178号にあった、上城誠氏の「真摯な論争を望む」への反論の続編です。

 わたしの観世音寺創建白鳳十年(670年)説に対して、上城稿には「その史料操作にも問題がある。観世音寺の創建年代を戦国時代に成立の『勝山記』の記述を正しいとする方法である。(中略)史料批判が恣意的であると言わざるを得ない。」との論難がありましたので、

 〝「史料操作」とは学問の禁じ手であり、理系論文で言えば実験データの改竄・捏造・隠蔽に相当する、研究者生命を失う行為だ。たとえば「古賀の主張や仮説は間違っている」という、根拠(エビデンス)と理由(ロジック)を明示しての批判であれば、わたしはそれを歓迎する。しかし、古賀の「史料操作にも問題がある」などという名誉毀損的言辞は看過できない。しかも、『勝山記』をわたしがどう「史料操作」したのかについて、触れてもいない。〟

 と指摘し、これまで多くの論文で明示した史料根拠と、「洛中洛外日記」の観世音寺関連記事リストを紹介しました。続編「九州王朝の両京制を論ず(三) ―「西都」太宰府倭京と「東都」難波京―」を執筆中ですが、そこでは太宰府廃都を伴う難波遷都ではなく、太宰府倭京と難波京の両京制とする説へ発展した理由など近年の研究成果を紹介する予定です。

 同号には西坂久和さん(昭島市)の「まちライブラリー@MUFG PARKの紹介」が掲載されており、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご尽力と古田先生や会員からの図書寄贈(注)により開設された、アイサイトなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)の「古田武彦コーナー」が、昨年より西東京市の「まちライブラリー@MUFG PARK」に移設されたことが紹介されました。これは、大阪公立大学の発足に伴い、アイサイトなんばのライブラリーが廃止されたことによるものです。

 「まちライブラリー@MUFG PARK」は西東京市柳沢四丁目にあり、JR中央線吉祥寺駅・三鷹駅などからバスで15分、武蔵野大学下車すぐです。図書は三冊・二週間まで借り出し可能で、インターネットで蔵書検索が可能とのことです。古田先生の著書や「古田史学の会」の会報・論集などが揃っており、古田史学や古田学派の研究論文調査に役立つことと思います。

(注)古田先生からは『廣文庫』一式などが寄贈された。『廣文庫』(こうぶんこ)は明治時代の前の文献(和漢書・仏書・他)からの引用文を集大成した資料集。物集高見により大正七年(1918年)に完成した。全20冊。


第3228話 2024/02/15

『古田史学会報』180号の紹介

 本日発行された『古田史学会報』180号を紹介します。同号には拙稿「論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出―」を掲載して頂きました。
同稿は、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から、「覚信尼と『三夢記』についての考察 豅弘信論文への感想」(『古田史学会報』178号)への批評を求められたおり、古田先生の親鸞研究関連著作を読み直したことをきっかけに、その代表作『親鸞思想』(冨山房、1975年)出版に関する思い出を綴ったものです。近年、古田学派内でも古田親鸞論の研究や論稿を久しく見なくなりましたので、わたしの記憶が鮮明なうちに、先生から直接お聞きしたことを書き残しておこうと考えています。

 一面の正木稿は、新年早々に茂山憲司さん(『古代に真実を求めて』編集部)から届いたメール情報(「南日本新聞」元旦の記事)に基づいて書かれたもので、鹿児島県指宿市(尾長谷迫遺跡)から出土した暗文土師器について論じた好論です。従来は大和朝廷に関係する遺構(国府跡など)からしか出土しない同土師器が、九州王朝時代の七世紀中葉の薩摩の遺跡から出土したことで、当地のメディアに注目されたようです。これは、正木さんがこれまで発表されてきた、天智の后、倭姫王が薩摩出身の〝九州王朝の姫〟(『続日本紀』には「薩末比売」、現地伝承では「大宮姫」)とする一連の仮説と整合する出土事実であり、正木説を支持する考古学的傍証となります。

 近年では、九州王朝(倭国)と鹿児島県との関係をうかがわせる「青竹の笛」伝承研究も伊藤正春さん(古田史学の会・会員、練馬区)から発表されており、注目しています(注)。

 180号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』180号の内容】
○「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」 川西市 正木 裕
○皇極はなぜ即位できたのか 河内祥輔・神崎勝両氏の問題提起を受けて たつの市 日野智貴
○野田利郎氏の「邪靡堆」論と漢文解釈への疑問 神戸市 谷本 茂
○論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出― 京都市 古賀達也
○「中天皇」に関する考察 茨木市 満田正賢
○持統天皇の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと 京都市 久冨直子・大山崎町 大原重雄
○令和六年、新年のご挨拶 ―「立正安国論」日蓮自筆本の「国」― 「古田史学の会」・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己

(注)
美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』勝美印刷、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2597話(2021/10/18)〝美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』を読む〟
同「洛中洛外日記」2604話(2021/10/27)〝大隅国、台明寺「青葉の笛」伝承〟
同「洛中洛外日記」2633話(2021/12/11)〝失われた九州王朝の横笛か「清水の笛」〟
「失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五絃琴笛」『隋書』俀国伝―」『古田史学会報』168号、2022年。

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YouTube講演 案内 

古代大和史研究会(59)2024年1月23日 於:奈良県立図書情報館

倭国(九州王朝) から日本国(大和朝廷) へ⒀

「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」正木裕

https://www.youtube.com/watch?v=8DDjZ2nPxW0


第3214話 2024/02/01

『東京古田会ニュース』No.214の紹介

 『東京古田会ニュース』214号が届きました。拙稿「藤原宮『長谷田土壇説』の再考察」を掲載していただきました。同稿は、八王子セミナー(注①)での藤原宮(京)研究において注目された〝もうひとつの藤原宮「長谷田土壇」〟について考察したものです。

 藤原宮の所在地については江戸時代から大宮土壇(橿原市高殿)が有力視され、大正時代には喜田貞吉が長谷田土壇説(同市醍醐)を発表しました。その後、大宮土壇から大型宮殿遺構が出土したことで論争は決着しましたが、わたしは喜田の指摘した論理性は今でも有力とする見解を「洛中洛外日記」(注②)で表明しました。喜田説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるため、大宮土壇の北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形の条坊都市となることです。

 そこで、八王子セミナーに先だって長谷田土壇説を再検討し、そこが王宮であれば、その南北の通りが朱雀大路となり、他の条坊大路よりも幅が大きいはずと考えました。ところが長谷田土壇を南北に通る「二坊大路」の幅は約16mであり、他の偶数大路(四条(坊)、六条(坊)など)と同規模です。他方、大宮土壇にあった藤原宮の朱雀大路は約24mであり、藤原京内では最大です。
ちなみに、九州王朝の倭京(太宰府条坊都市)の朱雀大路は(路面幅)約36m・(側溝芯々間)約37.8m。同じく難波京は約33mで、藤原京より大きいのです。大和朝廷が王朝交代後に造営した平城京は更に巨大化し、朱雀大路幅は約75mです。

 これらの朱雀大路幅を比較すると、長谷田土壇の南北の大路は、朱雀大路としては小さいのです。従って、長谷田土壇を九州王朝や近畿天皇家の王宮とするのは困難であることに気づきました。まだ結論は出ていませんが、朱雀大路の幅という視点は、王宮評価における一つの判断基準として有効ではないかと指摘しました。

 前号に続いて一面には、竹田侑子さん(弘前市、秋田孝季集史研究会々長)の「消えた卑弥呼(2) 卑弥呼は板乃木邑の荒覇吐宮に入り遺陀呼(イダコ)となったか」が掲載されました。和田家文書に見える卑弥呼伝承に着目した論稿です。竹田さんには『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)にも原稿「和田家文書を伝えた人々」を書いていただきました。これを機会に、和田家文書研究が更に活発となることを願っています。

(注)
①正式名は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウス主催。2023年11月11~12日に開催。
②古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013)〝二つの藤原宮〟、545話(2013)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟


第3201話 2024/01/16

『九州倭国通信』No.213の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.213を14日の講演会のおりにいただきました。同号には拙稿「孝徳紀・天智紀・天武紀の倭京」を掲載していただきました。『日本書紀』に見える「倭京」とは、九州王朝の倭京(太宰府)や東都難波京、あるいは通説の「飛鳥京」とするのか、『日本書紀』編者の認識に迫った論稿です。これは王朝交代期の権力構造や、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)との力関係をどのように理解するのかという、古田学派での最新研究テーマに関わる問題提起であり、まだ結論が出たわけではありません。
また、今村義則さんの「天子と九州年号」や鹿島孝夫さんの「隋使は阿蘇山を見なかった」など、九州王朝研究に関する論稿が掲載されていました。その結論への賛否は別にして、こうした研究論文を興味深く拝読しました。「九州古代史の会」の研究者との学問交流が進めばと願っています。


第3190話 2023/12/30

『多元』179号の紹介

 友好団体の多元的古代研究会機関紙『多元』179号が届きました。新年号の日付がありますが、有り難いことに、同紙は毎年の年末に新年号が届くので、年末年始での拝読を楽しみにしています。
同号には拙稿〝九州王朝の両京制を論ず (一) ―列島支配の拠点「難波」―〟を掲載していただきました。同紙178号にあった、上城誠氏の「真摯な論争を望む」に、次のような拙論「前期難波宮九州王朝王都説」への批判がなされており、それへの反論です。
云わく、〝文献的裏付けは何もなく、考古学的裏付けもなく、根拠となるのは「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀達也氏の思考だけ〟という論難に対して、この十数年間に発表した前期難波宮に関する論文約50編のタイトルを列挙し、「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」というわたしの思考だけでは、これだけの論文を書けないこと、拙論のエビデンスとした文献史料や考古学的根拠を具体的に示しました。

 これから続編を書きますが、そこでは前期難波宮が太宰府からの遷都ではなく、複数の都を持つ九州王朝の両京制の東都とする説へと発展した理由などを紹介する予定です。

 同号の一面には服部静尚さんの論稿「筑後遷都説、高良玉垂命九州王朝天子説に異論を呈す」が掲載されていました。古田先生やわたしが提唱した九州王朝の筑後遷都説(先生は遷宮説)への批判論文です。本来であれば古田先生から反論がなされるのが筋ですが、亡くなられた先生に代わって、わたしから筑後遷宮説に至った理由とエビデンスについて説明したいと思います。更に、同じ筑後遷宮説でも、古田先生とわたしとでは年代観が異なっていますので、その点についても深く考察します。

 現在、「古田史学の会」で進めている諸事業(新春古代史講演会、『古代に真実を求めて』27集編集、他)や『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の執筆・編集作業が一段落したら検討予定です。


第3189話 2023/12/29

『古田史学会報』179号の紹介

 遅くなりましたが、今月発行された『古田史学会報』179号を紹介します。同号には拙稿「柿本人麻呂系図の考察」を掲載して頂きました。同系図は25年ほど前に古田先生からコピーをいただいたもので、始祖を柿本人麻呂とする佐賀県の柿本家の系図です。聞くところでは、佐賀県には同様に人麻呂を始祖とする柿本家が数軒あるそうで、古田先生は注目されていました。しかし、本格的に著作などで論じられた形跡がありませんので、この系図の取り扱いに慎重だったように思われます。そうした経緯もあって、亡くなられた先生に代わって、わたしが研究を進めなければならないと思い、今回、発表することにしたものです。なかなか史料批判が難しい系図でしたが、人麻呂が遣唐使として二度渡唐したことなど、他の史料には見えない伝承もあり、歴史事実を反映した部分もありそうです。

 一面の正木稿は「古田史学の会」関西例会で発表されたテーマで、賛否両論ありましたが、わたしは興味深い仮説と思いました。朱鳥元年(686年)に二人の有力者が没したとするもので、一人は天武天皇、もう一人を筑紫君薩夜麻とする仮説です。そして、朱鳥改元は、薩夜麻崩御による新天子即位によるものとされました。古田先生は、『日本書紀』に薩夜麻が没したと考えられる記事が見えないことから、王朝交代の701年以後まで薩夜麻が生きていたと考えておられました。今回の正木仮説は従来にはなかった視点と発想ですので、これからの論争や検証を待ちたいと思います。

 千葉市の倉沢良典さんは新会員で、会報デビューとなりました。今後のご活躍が期待されます。

 新年1月21日(日)開催、新春古代史講演会(キャンパスプラザ京都)のカラー刷案内チラシが同封されていますが、同デザインは竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)によるもので、拙宅玄関にも貼っています。新春落語講演会と勘違いされる方もありますが、かなり好評です。演題にある「正倉院」(講師:本出ますみさん)の文字に興味を持たれる女性が多く、ご近所の方からも「参加したい」との声が今まで以上に寄せられています。

 179号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』179号の内容】
○「朱鳥改元」と「蛇と犬が倶に死ぬ」記事の意味するもの 川西市 正木 裕
○柿本人麻呂と第一次大津宮 たつの市 日野智貴
○柿本人麻呂系図の考察 京都市 古賀達也
○裴世清は十余国を陸行した 京都市 岡下英男
○古田武彦古代史セミナー2023に初参加の記 千葉市 倉沢良典
○「耶靡堆」とは何か 姫路市 野田利郎
○「壹」から始める古田史学・四十五 「倭奴国」と「邪馬壹国・奴国」② 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○新春古代史講演会(1月21日・京都市)のご案内
○「古田史学の会」書籍特価販売のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第3167話 2023/11/28

『東京古田会ニュース』No.213の紹介

 『東京古田会ニュース』213号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の証言 ―令和の和田家文書調査―」を掲載していただきました。同稿は、本年5月6日~9日、青森県弘前市を訪れ、30年ぶりに実施した和田家文書調査の報告です。〝令和の和田家文書調査〟と名付けた今回の津軽行脚は、当地の「秋田孝季集史研究会」(会長 竹田侑子さん)の皆様から物心両面のご協力をいただき、数々の成果に恵まれました。同会への感謝を込めて同稿を執筆しました。その最後の一文を転載します。

 〝古田先生と行った津軽行脚〝平成の和田家文書調査〟から30年を経ました。初めて調査に同行したとき、先生は六七歳でした。そのおり、わたしに言われた言葉があります。

 「偽作キャンペーンが今でよかった。もしこれが10年後であったなら、わたしの身体は到底もたなかったと思う。」

 このときの先生の年齢に、わたしはなりました。貴重な証言をしていただいた津軽の古老たち、和田喜八郎さん、藤本光幸さん、そして古田先生も他界され、〝平成の調査〟をよく知る者はわたし一人となりました。後継の青年たちとともに、〝令和の和田家文書調査〟をこれからも続けます。〟

 当号の一面には竹田侑子さん(弘前市、秋田孝季集史研究会々長)の「消えた俾弥呼(1) 似て非なる二字 黄幢と黄憧」が掲載されていました。〝令和の調査〟で、お世話になった日々を思い起こしながら拝読しました。


第3151話 2023/11/04

『多元』No.178の紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.178が届きました。同号には拙稿「『宇曽利』地名とウスリー川」を掲載していただきました。

 同会の令和四年五月例会で、赤尾恭司さん(佐倉市)が「古代の蝦夷を探る 考古遺跡から見た古代の北東北(北奥)」を発表されました。東北地方の縄文遺跡の紹介をはじめ、沿海州やユーラシア大陸に及ぶ各種データや諸研究分野の解説がなされ、言語学やDNA解析による、古代人の移動や交流に関する研究は刺激的でした。

 そのとき、赤司さんが説明で使用された沿海州の地図にウスリー川があり、その中国語表記「烏蘇里江」の「烏蘇里」がウソリと読めることから、和田家文書『東日流外三郡誌』に見える地名の「宇曽利」と言語的に共通するのではないかと思い、同稿で言素論による考察を試みたものです。

 同号一面には、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の「『自A以東』等の用法」が掲載されており、会誌冒頭にふさわしい論稿と評価されたものと思われます。『三国志』倭人伝の「自女王国以北」や『隋書』俀国伝に見える「自竹斯国以東」など、「自A以東(北)」という文型について論じたもので、この文型においては、Aは「以東(北)」には含まれないことを論証したものです。「古田史学の会」関西例会でも発表されたテーマで、中国古典の読解における重要な提起です。


第3139話 2023/10/18

『九州倭国通信』No.212の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.212が届きました。同号には拙稿「九州王朝の国分寺(国府寺) ―告貴元年(五九四)建立―」を掲載していただきました。古代に於いて、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)による新旧二つの国分寺(国府寺)があることを紹介した論稿です(注)。特に読者の多くが九州の方ですから、豊後国風土記と肥前国風土記に見える九州年号の告貴元年の詔勅により建立された国府寺の痕跡について詳しく解説しました。

 また、『古代に真実を求めて』特価販売の案内を一頁を割いて掲載して頂きました。有り難いことです。なお、来年1月14日(日)の同会月例会で講演させていただくことになりました。テーマは「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」と「九州年号金石文の紹介」を予定しています。「九州古代史の会」と「古田史学の会」の友好関係が一層深まることを願っています。

(注)次の拙稿でも紹介しており、ご参照下さい。
「『告期の儀』と九州年号『告貴』」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。

参照「国分寺」一覧

「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の「聖徳太子」伝説〟
「洛中洛外日記」1018話(2015/08/09)〝「武蔵国分寺」の多元論〟
「洛中洛外日記」1022話(2015/08/13)〝告貴元年の「国分寺」建立詔〟
「洛中洛外日記」1026話(2015/08/15)〝摂津の「国分寺」二説〟
「洛中洛外日記」1049話(2015/09/09)〝聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察〟
「洛中洛外日記」1136話(2016/02/09)〝一元史観からの多層的「国分寺」の考察〟


第3135話 2023/10/12

『古田史学会報』178号の紹介

 『古田史学会報』178号が発行されました。拙稿〝『隋書』俀国伝の都の位置情報 ―古田史学の「学問の方法」―〟を掲載して頂きました。これはフィロロギーの方法を、『隋書』俀国伝の都の位置情報認識研究に採用したものです。すなわち、『隋書』成立当時の「俀国伝」読者がどのようにして俀国の都の位置認識を構成するのか、そして『隋書』編者は読者にどのような理解を促しているのかを考察し、それらを現代の研究者が再認識するという学問の方法について論じました。

 一面には正木さんの力作〝「二倍年暦」と「皇暦」から考える「神武と欠史八代」〟が掲載。皇暦と実年代との対応については、多くの先行研究があります。多元史観・古田史学でも二倍年暦の概念を採用する、皇暦の実年代研究がなされてきましたが、管見ではまだ誰も全体的に整合性のある仮説提起に成功していません。今回の正木稿ではかなり成功しているように見え、今後の論争や研究により、同説の復元精度が検証されるものと期待しています。

 本号で最も注目したのが日野智貴さんの〝覚信尼と「三夢記」についての考察 豅弘信論文への感想〟でした。親鸞の「三夢記」は永く偽作とされてきたのですが、古田先生の研究により真作とされました。その古田説を批判して偽作とする論文が豅(ながたに)弘信さんにより発表されたのですが(注①)、古田先生最晩年のことでもあった為か、先生から応答はなされていませんでした。そこで、日野さんが代わって反論されたものです。

 この日野論文については「洛中洛外日記」(注②)で紹介しましたが、豅さんの批判はいずれも偽作と断定できるような証明力はないことを明らかにされ、親鸞と末娘の覚信尼の関係性についても考察されたものです。近年の古田学派では古田親鸞論に関する研究や論文発表がほとんど見られなくなり、残念に思っていたのですが、日野さんのような若き学究が現れ、冥界の先生も喜んでおられることと思います。

 178号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』178号の内容】
○「二倍年暦」と「皇暦」から考える「神武と欠史八代」 川西市 正木 裕
○さまよえる拘奴国と銅鐸圏の終焉 吹田市 茂山憲史
○俀国伝と阿蘇山 姫路市 野田利郎
○覚信尼と「三夢記」についての考察 豅弘信論文への感想 たつの市 日野智貴
○『隋書』俀国伝の都の位置情報 ―古田史学の「学問の方法」― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・四十四 「倭奴国」と「邪馬壹国・奴国」① 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

(注)
①豅弘信「『三夢記』考」『宗教研究』84-3、2010年。真宗大谷派西念寺公式サイトにも掲載。
②古賀達也「洛中洛外日記」3092話(2023/08/13)〝親鸞「三夢記」研究の古田論文を読む〟


第3131話 2023/10/04

『東京古田会ニュース』No.212の紹介

 『東京古田会ニュース』212号が届きました。拙稿「数学の証明と歴史学の証明 ―荻上紘一先生との対話―」を掲載していただきました。これは古代史研究ではなく、学問論に関するものです。昨年の八王子セミナーのおり、追加でもう一泊したので、数学者の荻上先生と対話する機会をいただき、そのやりとりを紹介した論稿です。

 わたしが専攻した化学(有機合成・錯体化学)は〝間違いを繰り返し、新説を積み重ねながら「真理」に近づいてきた。したがって自説もいずれは間違いとされ、乗り越えられるはずだと科学者は考え、自説が時代遅れになることを望む領域〟でしたが、数学は〝一旦証明されたことは未来に渡って真実であり、変わることはなく、そのことを全ての数学者が認め、ある人は認め、別の人は反対するということはあり得ない〟領域とのこと。このような化学・歴史学と数学の性格の違いを知り、とても刺激的な対談でした。

 当号の一面には讃井優子さんの「三多摩の荒覇吐神社巡り」が掲載されており、関東にある研究団体だけに、和田家文書や荒覇吐神への強い関心がうかがえます。安彦会長からも「和田家文書備忘録2 阿部比羅夫の蝦夷侵攻」という『北鑑』の研究が発表されています。『北鑑』は『東日流外三郡誌』の続編的性格を持つ和田家文書で、わたしも基礎的な史料批判を進めているところです。ちなみに、安彦さんのご協力も得て、『東日流外三郡誌の逆襲』(仮題)という本の発行に向けて執筆と編集作業を進めています。順調に運べば、来春にも八幡書店から発刊予定です。ご期待下さい。


第3093話 2023/08/14

『古田史学会報』177号の紹介

 『古田史学会報』177号が発行されました。拙稿「追悼『アホ』『バカ』『ツボケ』の多元史観 ―上岡龍太郎さんの思い出―」を一面に掲載して頂きました。亡くなられた上岡龍太郎さんが古田先生のファンだったことなどを紹介しました。「洛中洛外日記」(注①)で触れましたのでご覧下さい。

 都司嘉宣さんは会報初登場です。『三国史記』新羅本紀に見える日食記事の精度から、同書の倭国関連記事がどの程度信頼できるかを論じたものです。『日本書紀』に見える天体観測記事を史料根拠として、倭国(九州王朝)記事を抽出するという試みは、近年では国立天文台の谷川清隆さんが精力的に取り組まれていますが(注②)、都司さんは『三国史記』を対象とされており、この分野での多元的古代研究の進展が期待されます。

 今号から、一面に目次を掲載することにしました。どの号にどの論文が掲載されているかの検索が容易になります。

 177号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』177号の内容】
○追悼 「アホ」「バカ」「ツボケ」の多元史観 ―上岡龍太郎さんの思い出― 京都市 古賀達也
○倭国と俀国に関する小稿 ―谷本論文を読んで たつの市 日野智貴
○朝鮮の史料『三国史記』新羅本紀の倭記事の信頼性を日食記事から判定する 龍ケ崎市 都司嘉宣
○男神でもあったアマテラスと姫に変身したスサノオ 京都府大山崎町 大原重雄
○古田史学の会 第二十八回会員総会の報告
○「壹」から始める古田史学 吉野ヶ里と邪馬壹国 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○「まちライブラリー」大阪から東京へ 相模原市 冨川ケイ子
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○編集後記 西村秀己

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」第3029話(2023/06/02)〝上岡龍太郎さんの思い出〟
同「洛中洛外日記」3042話(2023/06/15)〝上岡龍太郎が見た古代史 ―「アホ・バカ」「ツボケ」の分布考―〟
同「洛中洛外日記」3043話(2023/06/16)〝『全国アホ・バカ分布考』の多元史観 ―「タワケ」「ツボケ」の分布考―〟
同「洛中洛外日記」3045話(2023/06/18)〝肥後と信州に分布する罵倒語「田蔵田」〟
同「洛中洛外日記」3046話(2023/06/19)〝東北地方の罵倒語「ツボケ」の歴史背景〟
②谷川清隆「天文記事から見える倭の天群の人々・地群の人々 ―七世紀の二つの権力―」『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独』明石書店、2020年。