『古田史学会報』165号が発行されましたので紹介します。
一面に掲載された服部稿では、藤原京にあった本薬師寺は九州王朝が建立したとする説が発表されました。現在の薬師寺が本薬師寺を平城京に移転したものか、新たに建造したものかについての論争なども紹介され、薬師寺東塔擦銘(注①)は本薬師寺にあった銘文を11世紀になって一部変更・造文して刻入されたもので、銘文に見える「中宮」を九州王朝の「中宮天皇」のこととされました。藤原京造営主体が九州王朝だったのか、近畿天皇家だったのかというテーマにも関連する仮説ですので、今後の展開が注目されます。
わたしは、『三国志』の短里は魏の明帝が景初元年(237年)に制定したとする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の説を解説しました。同説は『邪馬壹国の歴史学』(注②)に収録されていますが、ご存じない方もありましたので、同書に対する古田先生の論評も含めて紹介しました。
本号で、わたしがもっとも注目したのが日野智貴さんの論稿です。仏教の戒律や受戒制度などが九州王朝説の観点から論じられており、とても刺激的な論文でした。また、多利思北孤は「菩薩天子」とあり、菩薩戒の受戒は在家のままで可能で、出家とは異なるとの指摘は示唆的でした。これは「九州王朝の天子が菩薩戒を受戒したのなら、後継者はどうするのか」という批判に対する回答であり、こうした視点での反論が成立することに感心しました。仏教思想や僧伽制度についての日野さんの博識には、いつも驚かされます。
165号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。
【『古田史学会報』165号の内容】
○本薬師寺は九州王朝の寺 八尾市 服部静尚
○明帝、景初元年短里開始説の紹介
―永年の「待たれた」一冊『邪馬壹国の歴史学』― 京都市 古賀達也
○九州王朝の僧伽と戒律 たつの市 日野智貴
○「壹」から始める古田史学・三十一
多利思北孤の時代Ⅷ ―「小野妹子の遣唐使」記事とは何か― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会 第二十七回会員総会の報告
○『古代に真実を求めて』原稿募集
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2021年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己
(注)
①薬師寺東塔檫銘は次の通り。
維清原宮馭宇
天皇即位八年庚辰之歳建子之月以
中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕
騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業
照先皇之弘誓光後帝之玄功道済郡
生業傳劫式於高躅敢勒貞金
其銘曰
巍巍蕩蕩薬師如来大発誓願廣
運慈哀猗<嶼の偏が犭>聖王仰延冥助爰
餝靈宇荘厳御亭亭寶刹
寂寂法城福崇億劫慶溢萬
齢
②西村秀己「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編)ミネルヴァ書房、平成二八年(2016)。