古田史学会報一覧

第2534話 2021/08/11

『古田史学会報』165号の紹介

 『古田史学会報』165号が発行されましたので紹介します。
一面に掲載された服部稿では、藤原京にあった本薬師寺は九州王朝が建立したとする説が発表されました。現在の薬師寺が本薬師寺を平城京に移転したものか、新たに建造したものかについての論争なども紹介され、薬師寺東塔擦銘(注①)は本薬師寺にあった銘文を11世紀になって一部変更・造文して刻入されたもので、銘文に見える「中宮」を九州王朝の「中宮天皇」のこととされました。藤原京造営主体が九州王朝だったのか、近畿天皇家だったのかというテーマにも関連する仮説ですので、今後の展開が注目されます。

 わたしは、『三国志』の短里は魏の明帝が景初元年(237年)に制定したとする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の説を解説しました。同説は『邪馬壹国の歴史学』(注②)に収録されていますが、ご存じない方もありましたので、同書に対する古田先生の論評も含めて紹介しました。
本号で、わたしがもっとも注目したのが日野智貴さんの論稿です。仏教の戒律や受戒制度などが九州王朝説の観点から論じられており、とても刺激的な論文でした。また、多利思北孤は「菩薩天子」とあり、菩薩戒の受戒は在家のままで可能で、出家とは異なるとの指摘は示唆的でした。これは「九州王朝の天子が菩薩戒を受戒したのなら、後継者はどうするのか」という批判に対する回答であり、こうした視点での反論が成立することに感心しました。仏教思想や僧伽制度についての日野さんの博識には、いつも驚かされます。

 165号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』165号の内容】
○本薬師寺は九州王朝の寺 八尾市 服部静尚
○明帝、景初元年短里開始説の紹介
―永年の「待たれた」一冊『邪馬壹国の歴史学』― 京都市 古賀達也
○九州王朝の僧伽と戒律 たつの市 日野智貴
○「壹」から始める古田史学・三十一
多利思北孤の時代Ⅷ ―「小野妹子の遣唐使」記事とは何か― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会 第二十七回会員総会の報告
○『古代に真実を求めて』原稿募集
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2021年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①薬師寺東塔檫銘は次の通り。
維清原宮馭宇
天皇即位八年庚辰之歳建子之月以
中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕
騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業
照先皇之弘誓光後帝之玄功道済郡
生業傳劫式於高躅敢勒貞金
其銘曰
巍巍蕩蕩薬師如来大発誓願廣
運慈哀猗<嶼の偏が犭>聖王仰延冥助爰
餝靈宇荘厳御亭亭寶刹
寂寂法城福崇億劫慶溢萬

②西村秀己「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編)ミネルヴァ書房、平成二八年(2016)。


第2529話 2021/08/02

『東京古田会ニュース』No.199の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』No.199が届きました。今号は拙稿「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」を掲載していただきました。飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約四万五千点の木簡が出土しており、それにより七世紀後半から八世紀初頭の古代史研究が飛躍的に進みました。そのなかの三五〇点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡を紹介し、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができるとしました。
 同号の掲載論稿中、わたしが最も注目したのが新保高之さん(調布市)の「謎の皇孫・健王と大田皇女」でした。新保さんによれば、『日本書紀』には「皇孫」の表記が43例あり、その内の39例は神代紀(38例)と神武紀(1例)で、他の4例は、時代が遠く離れた斉明紀の健王(3例)と天智紀の大田皇女(1例)という不思議な使用状況とのこと。両者は持統の同母姉弟という共通項を持つが、なぜこの二人が「皇孫」と呼ばれているのかは不明とのことです。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された〝九州王朝系近江朝〟(注①)や、古田先生の〝天智による日本国の創建〟(注②)と関係するのかもしれません。
 こうした『日本書紀』の史料状況に着目されたこと自体も鋭い問題提起ですが、その理由については不明とされた慎重な研究姿勢に、わたしは共感を覚えました。研究途上での、わからないことはわからないとする姿勢や、史料事実の核心部分を鋭く見抜くという新保さんの洞察力は流石と思いました。研究の進展が楽しみです。

(注)
①正木裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。
②古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。


第2525話 2021/07/21

『九州倭国通信』No.203の紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.203が届きました。同号には拙稿「『鬼滅の刃』と九州王朝の大蔵氏」を掲載していただきました。同稿では、超人気アニメ「鬼滅の刃」の主人公の竈門炭治郎の出身地を福岡県の竈門神社(太宰府)とすることを切り口に、九州王朝の有力臣下としての大蔵氏や千手氏について論じたものです。同紙への投稿はなるべく九州の地元ネタにするよう心がけています。
 なお、「九州古代史の会」代表幹事(会長)が木村寧海さんから工藤常泰さんに交替されました。コロナ禍の中での活動ですから、どちらの会も大変なようですが、同会では月例会が9月から再開されます。


第2509話 2021/07/03

『多元』No.164の紹介

 昨日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.164が届きました。拙稿「太宰府、「倭の五王」王都説の検証 ―大宰府政庁編年と都督の多元性―」を掲載していただきました。本年11月に、「倭の五王」をテーマとして開催される〝八王子セミナー〟に先だって、王都の所在に関する検討課題(考古学的事実の評価)明確化の一助として拙稿を執筆しました。セミナーにおいて研究や理解を深めることができれば幸いです。
 他には、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の「『隋書』の俀と倭」、服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の「国生み神話の再検証」が掲載されており、関西の研究者の活躍が目立ちました。
 一面は、仙台市の広幡文さんの「万葉集を楽しむ 下」で、〝淡海は海か湖か〟という懐かしいテーマが論じられており、興味深く拝読しました。通説では琵琶湖のこととされている『万葉集』に見える淡海について、琵琶湖ではなく海であるとする説は木村賢司さんが「夕波千鳥」(『古田史学会報』38号、2000年6月)で既に発表されていますが、広幡さんも『万葉集』の史料批判により、湖ではないとされました。複数の視点や論証方法により、同じ結論へと到達したわけですから、淡海≠湖(琵琶湖)説は更に有力となったようです。


第2490話 2021/06/14

『古田史学会報』164号の紹介

 先週、『古田史学会報』164号が発行されましたので紹介します。一面に掲載された服部稿は、わが国おける仏教や仏典受容に関する考察で、古田学派における同分野での先駆的な研究の一つです。古田史学での仏典受容史研究については、古田先生が『失われた九州王朝』(第三章 高句麗王碑と倭国の展開 「阿蘇山と如意宝珠」)で触れられたのが最初です。そこでの示唆を受けて、わたしも論稿(注)を発表したことがあります。

 今回の服部稿は、九州王朝の時代において、女性が法華経と無量寿経(阿弥陀信仰)をどのような経緯で受け入れたのか(支持したのか)という従来にない新たな視点で論じられたもので、注目されます。女性の仏教信仰や関連仏典に関しては、「女人成仏」をテーマとした多くの論考が宗教関連学界で発表されていますが、多元史観・九州王朝説に基づく研究はまだ少なく、過去には古田先生が講演会で、「トマスの福音書(ナグ・ハマディ文書)」研究に関わって触れられたことがあり、今井俊圀さん(古田史学の会・全国世話人、千歳市)により、「『トマスによる福音書』と『大乗仏典』 古田先生の批判に答えて」(『古田史学会報』74号、2006年6月)が発表されたことがある程度です。今後の後継研究の登場が待たれます。

 164号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』164号の内容】
○女帝と法華経と無量寿経 八尾市 服部静尚
○会員総会と古代史講演会のお知らせ
○九州王朝の天子の系列(中) 川西市 正木 裕
利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ
○何故「俀国」なのか 京都市 岡下英男
○斉明天皇と「狂心の渠」 今治市 白石恭子
○飛鳥から国が始まったのか 八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学・三十
多利思北孤の時代Ⅶ ―多利思北孤の新羅征服戦はなかった― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

(注)古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第2447話 2021/05/03

『多元』No.163の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.163が届きました。一面は、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「禅位と傳位についての考察」です。『日本書紀』の孝徳紀と持統紀に見える「禅位」が同一王朝内での生前譲位であり、中国古典の禅位(禅譲による王朝交代での新皇帝への譲位)とは異なることに着眼した論稿です。新しい視点で、持統紀の「禅位」を九州王朝からの王朝交替に伴う表記ではないかとする仮説を提起されたものです。今後の検証と展開が楽しみなテーマではないでしょうか。
 藤田隆一さん(足立区)の論稿「秋田孝季の直筆文書」は、和田家文書「目録覚」の全文を釈文された労作です。秋田孝季の直筆であれば、貴重な史料となりますので、厳格な筆跡鑑定が待たれます。


第2446話 2021/04/30

『九州倭国通信』No.202の紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.202が届きました。同号には拙稿「古典の中の『都鳥』考」を掲載していただきました。同稿では、古典(『万葉集』『古今和歌集』『伊勢物語』謡曲「隅田川」)に見える「都鳥(みやこどり)」とは通説のユリカモメではなく、冬になるとシベリアから博多湾岸など北部九州に飛来するミヤコドリ科のミヤコドリであることを論証しました。
 この都鳥は、博多湾岸や北部九州に都があったから、都鳥と呼ばれたのであり、九州王朝(倭国)の都がこの地にあったことの証拠ともいえます。そうでなければ、都鳥などとは呼ばれなかったはずですから。この都鳥は、白と黒の美しい模様とオレンジ色のクチバシが印象的な鳥です。
 『万葉集』では次のように詠われています。
 「船競(ふなぎほ)ふ 堀江の川の水際(みなぎわ)に 来(き)居(い)つつ鳴くは 都鳥かも」『万葉集』巻第二十(4462 大伴宿禰家持の作)


第2434話 2021/04/14

『古田史学会報』163号の紹介

 『古田史学会報』163号が発行されましたので紹介します。
一面の正木稿は、7世紀における九州王朝の天子の変遷について本格的に論じたもので、いずれ「九州王朝通史」として結実するものと期待しています。
日野稿は、前号掲載の西村秀己稿の問題提起「九州王朝(倭国)のナンバーワンの称号が天皇でなければ、それ以上の称号を提示すべき」に対しての一つの解答を示したもので、史料根拠を明示して、「法皇」「中皇命」とする仮説を提起されました。この日野稿に対して、西村稿では、再度批判がなされました。
服部稿では、野中寺彌勒菩薩像銘文に見える「中宮天皇」を九州王朝の女帝(倭姫王)とされました。

 わたしは、『古田史学会報』採用審査の難しさについて、特許審査の例をあげて解説しました。
163号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』163号の内容】
○九州王朝の天子の系列(上) 川西市 正木 裕
多利思北孤・利歌彌多弗利から、唐と礼を争った天子の即位
○九州王朝の「法皇」と「天皇」 たつの市 日野智貴
○野中寺彌勒菩薩像銘と女帝 八尾市 服部静尚
○「法皇」称号は九州王朝(倭国)のナンバーワン称号か? 高松市 西村秀己
○「壹」から始める古田史学・二十九
多利思北孤の時代Ⅵ ―多利思北孤の事績― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』採用審査の困難さ 編集部 古賀達也
○2021年度会費納入のお願い
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第2402話 2021/03/07

『多元』No.162の紹介

 先日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.162が届きました。拙稿「『邪馬台国』畿内説の論理 ―戦後実証史学への挑戦―」を掲載していただきました。「邪馬台国」畿内説を支持する考古学者から直接聞いた同説の根拠と論理性について紹介し、そうした考古学者との誠実な対話と文献史学における古田説の紹介が必要との持論を述べたものです。
 一面には、吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)の「続・『景行紀』を読む」が掲載されています。景行紀の史料批判により、東征説話が盗作・転用された動機やその内実に迫られた論稿でした。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「元号の始まり」は中国における元号成立について説明され、別系統九州年号とされてきた「中元」「果安」についても触れられています。
 「事務局便り」では、多元的古代研究会ハイブリッド月例会のリモート参加費(資料代、視聴料など)について検討されている様子で、「古田史学の会」関西例会と似たような状況と問題意識を持っておられることがうかがえました。コロナ禍における目先の対応策にとどまらず、将来的な研究活動のスタイルについて真剣に考えるべき時代に入ったと思われます。


第2380話 2021/02/14

『古田史学会報』162号の紹介

『古田史学会報』162号が発行されましたので紹介します。今号も力作好論ぞろいです。
一面を飾った正木稿は、多利思北孤とその前代の高良玉垂命との関係を論じたもので、古田説では別系統の九州年号とされている「始哭」は年号ではなく、高良玉垂命崩御の葬礼行事のこととされました。
西村稿では、「古田史学の会」研究者間で論争となっている「天皇」称号について、九州王朝の時代は九州王朝の天子の別称とする古田新説の根拠として、当時の唐の用例(「皇帝」よりも「天皇」が上位)を新たに指摘されました。
他方、日野稿では、「船王後墓誌」などの金石文を根拠として、六世紀から七世紀初頭の大和政権での天皇号採用を支持され、その勢力範囲について論じられました。日野さんは通説の先行研究や新説にも目配りされており、大学で国史を専攻された実力を感じさせる論稿でした。
藤井稿は会報前号に掲載された野田稿を批判されたもので、今後の真摯な論議検証が期待されます。
大原稿は古代の事件と火山噴火の関係についての諸説を紹介されたもので、九州王朝史研究への応用の可能性を示唆されました。
わたしの論稿では、近年発見が続いている弥生時代の硯に文字が記されていたとする久住猛雄さんの研究を紹介しました。

162号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』162号の内容】
○「高良玉垂大菩薩」から「菩薩天子多利思北孤」へ 川西市 正木 裕
○野田氏の「女王国論」について 神戸市 藤井謙介
○大噴火と天岩戸神話と埴輪祭祀 京都府大山崎町 大原重雄
○六世紀から七世紀初頭の大和政権 「船王後墓誌」銘文の一解釈 たつの市 日野智貴
○田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期 京都市 古賀達也
○「天皇」「皇子」称号について 高松市 西村秀己
○「壹」から始める古田史学・二十八
多利思北孤の時代Ⅴ ―多元史観で見直す「捕鳥部萬討伐譚」― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○割付担当の穴埋めヨタ話 「春秋」とは何か? 西村秀己


第2365話 2021/02/01

『東京古田会ニュース』196号の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』196号が届きました。昨年11月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)の報告が、同セミナーの実行委員をされている荻野谷正博さん(川崎市)からなされ、わたしや正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究発表内容を好意的に紹介していただきました。
 同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「飛鳥から国が始まったのか」が掲載されています。同稿で服部さんは飛鳥や藤原京出土干支木簡の年次に焦点を当て、「発掘成果からは、七世紀後半六六六年以降に、飛鳥が列島を代表するレベルの政治の中心地になっていったと考えられる」とされ、「壬申の乱の後、大和飛鳥が天皇家の本拠地となったものと考えるのが妥当でしょう。それはつまり、天武天皇が壬申の乱(六七二)後、ここを本拠地として勢力拡大を進めたということになります。」と指摘されています。そして、「それ以前に中国史書が伝える倭国が存在したのですから、『飛鳥から国が始まった』とはならない」と一元史観の通説を批判されています。
 七世紀後半から末期にかけての九州王朝から大和朝廷への王朝交代の実相を明らかにするうえで、こうした諸仮説が発表されることは学問研究にとって大切と思いました。


第2361話 2021/01/28

『九州倭国通信』No.201の紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.201が届きましたので紹介します。同号には拙稿「縄文海進と幻の糸島水道 ―九州大学・物理学者との邂逅―」を掲載していただきました。九州大学の三人の物理学者との思い出を紹介させていただいたものです。その三人とは、上村正康先生と長谷川宗武先生、そして北村泰一先生(現九州大学名誉教授)です。
 上村先生は、一九九一年十一月に福岡市で開催された物理学の国際学会の晩餐会で古田説(邪馬壹国博多湾岸説、九州王朝説)を英語で紹介(GOLD SEAL AND KYUSHU DYNASTY:金印と九州王朝)され、世界の物理学者から注目を浴びられたことで、古くからの古田ファンには有名な方です。その講演録は「古田史学の会」のホームページ「新古代学の扉」に掲載されています。
 長谷川先生は上村先生と同じ研究室におられた方で、ご著書『倭国はここにあった 人文地理学的な論証』(ペンネーム谷川修。白江庵書房、二〇一八年十二月)を贈っていただき、お付き合いが始まりました。同書の主テーマは、飯盛山と宝満山々頂が同一緯度にあり、その東西線上に須久岡本遺跡・吉武高木遺跡・三雲南小路遺跡・細石神社が並んでいるというものです。この遺跡の位置関係は、太陽信仰を持つ九州王朝が弥生時代から太陽の動きに関心を持ち、測量技術を有していたことを示しています。
 北村先生も古くからの古田ファンです。若い頃、京大山岳部に所属され、同大学院生時代に第一~三次南極越冬隊にオーロラ観測と犬ぞりのカラフト犬担当係として最年少隊員(二五歳)で参加され、第三次越冬隊のとき、昭和基地でタロー・ジローと奇跡の再会をされたことは有名です。この先生方との出会いや想い出を書かせていただきました。
 同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「九州王朝天子よりの禅譲で文武天皇は即位した」も掲載されていました。九州王朝から大和朝廷への禅譲説を新たな視点で論述されたものです。このテーマについては古田学派の研究者から諸説が発表されており、研究の深化が進んでいます。