古田史学の会一覧

第1489話 2017/08/30

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』

  出版記念大阪講演会のご案内済み

 「古田史学の会」編集の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集、明石書店)出版記念大阪講演会を開催します。日時・会場等は下記の通りです。
 今回の大阪講演では初心者向けの古田史学入門編を中心にテーマを三人で分担して設定しました。特に正木さんの講演内容は古田史学のエッセンスと最新研究テーマにまで及ぶとても良いものとなっています。「古田史学の会」会員にも興味を持ってお聞きいただけるものと思います。

○日時 9月9日(土)午後1時開会
○会場 福島区民センター(図書館と同じビル)3階会議室
 地下鉄千日前線・野田阪神駅7番出口徒歩4分 阪神野田駅改札左手西へ徒歩4分、JR環状線・野田駅徒歩8分、JR東西線・海老江駅徒歩5分。
○講師・演題
①古賀達也(古田史学の会・代表)
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》 教科書が教えない年号の秘密」
②服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長)
「倭国年号建元前夜」
③正木 裕(古田史学の会・事務局長)
「王朝交代 -倭国から日本国へ-」
○主催:古田史学の会 後援:福島区歴史研究会
○参加費(資料代) 500円


第1483話 2017/08/19

興味津々、「流求國」は沖縄か台湾か

 本日の「古田史学の会」関西例会は久しぶりにI-siteナンバで開催されました。9月もI-siteナンバですが、10月・11月・12月はドーンセンターになりますので、お間違えなきよう。
 今回も発表希望者が多く、3名ほど後日となりました。学問的に重要な発表が続きましたが、中でも正木裕さんからの九州王朝にペルシャ人(覩貨邏国)が渡来していたという発表には驚きました。また、『隋書』の流求國が沖縄(正木さん)か台湾(谷本さん)かの討論もあり、とても興味深く拝聴しました。わたしは当問題についてあまり勉強していませんので、黙って聞いているだけでしたが、今のところ沖縄説がよいように感じています。『古田史学会報』での論争が期待されます。
 8月例会の発表は次の通りでした。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんに発表申請を行ってください。

〔8月度関西例会の内容〕
①古田先生の言素論を考える(八尾市・服部静尚)
②隋書国伝について(茨木市・満田正賢)
③『隋書』の「流求國」をめぐって(神戸市・谷本茂)
④『隋書』百済伝 耽牟羅國について(神戸市・谷本茂)
⑤観世音寺出土の川原寺同笵瓦について(京都市・岡下英男)
⑥住吉神社は「一大率」であった(奈良市・原幸子)
⑦『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の考察(犬山市・掛布広行)
⑧フィロロギーと古田史学【その5】(吹田市・茂山憲史)
⑨ニギハヤヒを考える 天孫降臨の年代観の確認(東大阪市・萩野秀公)
⑩九州王朝の南方諸島の状況と『日本書紀』(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)、福岡(10/08)、東京(10/15)で開催・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(8/25「日本書紀の絶対年代を疑う〜推古紀『遣隋使』をめぐって〜」谷本茂さん)・「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産推薦が決まる・『古田史学会報』投稿要請・「古田史学の会」関西例会9月会場(I-siteナンバ)、10月・11月・12月(ドーンセンター)の連絡・・「古田史学の会」新春講演会(2018.01.21、I-siteナンバ)の案内・その他


第1477話 2017/08/11

『古田史学会報』141号のご案内

 『古田史学会報』141号が発行されましたので、ご紹介します。本号は6月の会員総会の報告などもあり、久しぶりの増頁となりました。

 会員総会では林伸禧さんから「倭国年号」の名称に疑義が寄せられたこともあり、そのことに関する原稿が三稿掲載されました。谷本さんからはわたしや正木さんの研究に対して疑問とご批判をいただきました。九州年号に関する重要な問題ですので、機会を見て返答と反論を執筆したいと思います。

 掲載された論稿などは次の通りです。

『古田史学会報』141号の内容
○「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(中) 川西市 正木 裕
○古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十集
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(1) 瀬戸市 林 伸禧
○なぜ「倭国年号」なのか 八尾市 服部静尚
○「倭国年号」採用経緯と意義 古田史学の会・代表 古賀達也
○倭国年号の史料批判・展開方法について 神戸市 谷本 茂
○「古田史学会報 No.140」を読んで
-「古田史学」とは何か- 鴨川市 山田春廣
○書評 野田利郎著『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』
学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる 京都市 古賀達也
○古田史学の会 第二十三回会員総会の報告
古田史学の会事務局長 正木裕
○古田史学の会2016年度会計報告・2017年度予算
○『古代に真実を求めて』二十一集 投稿募集
○井上信正氏講演
『大宰府都城について』をお聞きして 八尾市 服部静尚
○「壱」から始める古田史学十一
出雲王朝と宗像 古田史学の会事務局長 正木裕
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○谷本茂氏講演会のお知らせ
○古田史学の会・関西例会のご案内
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1467話 2017/08/02

7月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 7月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 7月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/07/02 『多元』140号のご紹介
2017/07/06 名古屋駅JRゲートタワーの三省堂
2017/07/14 西安博物館の金印と神獣鏡
2017/07/21 『九州倭国通信』No.187のご紹介


第1456話 2017/07/15

河姆渡遺跡の井戸

 本日の「古田史学の会」関西例会も先月に続いてドーンセンターで開催されました。なお8月、9月はI-siteナンバです。これからも会場が変更されることがありますので、お間違えなきよう。
 今日の発表内容はバラエティーに富んでいました。中でも初めて例会発表された藤田敦さんの「河姆渡遺跡で考えたこと・・井戸の原姿を探る・・」は中国の研究者の論文紹介や「井戸」の字義に関する諸説の紹介など、現地旅行の体験談と中国語を交えての報告でした。藤田さんが海外旅行を頻繁になされていることはfacebookなどを拝見して知っていましたが、中国語を喋れることを初めて知りました。
 この他、正木裕さんの『赤渕神社文書』の九州年号に関する報告も興味深く、写真を多用されたレジュメは貴重な史料でした。
 7月例会の発表は次の通りでした。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんに発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①隋書国傳「東西五月行南北三月行」石田説批判(高松市・西村秀己)
②触覚知について(奈良市・出野正)
③国分寺の名称と鐙瓦(八尾市・服部静尚)
④「江田船山古墳出土銀象嵌銘太刀」の考察(犬山市・掛布広行)
⑤河姆渡遺跡で考えたこと・・井戸の原姿を探る・・(宝塚市・藤田敦)
⑥フィロロギーと古田史学【その4】(吹田市・茂山憲史)
⑦ニギハヤヒを考える「絶対年代」の考察(東大阪市・萩野秀公)
⑧『赤渕神社文書』の九州年号について(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 6/18第23回会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会の報告・5〜7月の新入会員・7/08久留米大学公開講座の報告(古賀)・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(7/23「盗まれた天皇陵」服部静尚さん)・『古代に真実を求めて』21集企画とタイトル案の説明・『古田史学会報』投稿要請・「古田史学の会」関西例会8月、9月会場の連絡(I-siteナンバ)・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)、福岡(10/08)、東京(10/15)で開催・「古田史学の会」新春講演会(2018.01.21、I-siteナンバ)の案内・メールでの「[身冉]牟羅(たんむら)国」論争・その他


第1425話 2017/06/17

7世紀前半の寺院が近畿に集中する理由

 本日の「古田史学の会」関西例会も先月に続いてi-siteナンバではなくドーンセンターで開催されました。これからも会場が変更されることがありますので、お間違えなきよう。

 今回も充実した発表が続き、そのため質疑応答が長引き、司会進行の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からご注意をいただいたほどです。特に感心したのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表された、7世紀前半の寺院が近畿に集中する理由についての新仮説と「飛鳥時代」建立と推定された寺院遺跡出土軒丸瓦の一覧(A4 10頁、81寺)でした。個別の報告書や写真ではそれら寺院の出土軒丸瓦の多くは見たことがあるのですが、改めて一覧表にされて提示されると、7世紀前半とされる寺院が圧倒的に奈良県を中心に分布することが一目瞭然となるのです。

 服部さんによる分類では「素弁軒丸瓦」が出土する「飛鳥時代」の寺院と見なせるものは69寺あり、その分布は次の通りです。
福島2・東京1・千葉3・埼玉1・群馬1・長野1・岐阜1・福井1・愛知6・三重2・奈良26・京都2・大阪13・兵庫1・岡山1・広島2・香川2・愛媛2・大分1、計69寺。

 今後の調査により、この数字は変化すると思いますが、奈良や大阪に濃密分布するという傾向は変わらないのではないでしょうか。この考古学的事実こそ、わたしが提起した次の「九州王朝説に刺さった三本の矢」の一つなのです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今回の服部さんの発表は、この《二の矢》に果敢に挑戦されたものです。質疑応答では瓦の編年精度や妥当性、地域差をどのように見るかなど多岐にわたりました。これからの研究の進展が期待されます。

 6月例会の発表は次の通りでした。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんに発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①出土遺物の考察(犬山市・掛布広行)
②国家仏教の伝来(八尾市・服部静尚)
③今城塚古墳と岩手や真子分、阿蘇ピンク石(茨木市・満田正賢)
④双鉤填墨(奈良市・水野孝夫)
⑤倭国年号史料(古代逸年号)の基礎的検討(神戸市・谷本茂)
⑥「草津」の地名(京都市・岡下英男)
⑦フィロロギーと古田史学【その3】(吹田市・茂山憲史)
⑧「佐賀なる吉野」に行幸した天子とは誰か(下)(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
6/18会員総会議案等の説明・年間活動報告・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会と懇親会(エルおおさか)・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(6/23「盗まれた万葉集」正木裕さん)・『古代に真実を求めて』21集企画案検討中・『古田史学会報』投稿要請・「古田史学の会」関西例会7月会場の件(ドーンセンター、京阪天満橋駅近く)・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)、東京(10/15)で開催・その他


第1446話 2017/07/08

真摯な論争は研究を深化させる

 今朝は山陽新幹線で久留米に向かっています。久留米大学の公開講座で講演するためです。当地ではおりからの豪雨で深刻な被害や亡くなられた方もあり、心配です。
 車中で野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)からいただいた御著書『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』を熟読しました。野田さんは「古田史学の会」関西例会の古くからの常連で、姫路市から大阪市まで参加される熱心な研究者です。今回の著書では倭人伝解読の新説を発表されているのですが、それは関西例会で数年にわたり発表と論争が続けられたテーマです。
 「古田史学の会」関西例会は、おそらく古田学派の研究例会でも最も激しい論争が行われるところです。特に古田説と異なる新説に対しては容赦のない質問や批判が寄せられます。しかし、それは「古田説と異なる」という理由での批判ではありません。古田説や従来説と異なる新説(異説)だからこそ発表するのであり、同じ内容ならそもそも研究も発表も不要です。「古田先生の説と異なるからダメ」というのは学問的批判でも学問的態度でもありません。それは一元史観の学界が古田説・多元史観を「大和朝廷一元史観の通説と異なる」という「理由」で排除したのと同様の態度でもあるのです。
 そうした関西例会での厳しい質問や辛辣な批判に耐えきれず、参加されなくなった方も少なくありませんが、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」とわたしは信じています。ですから、直接口には出しませんが、それほど批判されるのがいやなら発表などしなければよい、いっそのこと研究などやめて「歴史小説」でも書いていれば誰からも批判されないのにと、わたしは思っています。なお、歴史小説を見下しているわけでは決してありませんので、誤解のなきよう。優れた作家による歴史小説は、研究者でも及ばないような生々しい歴史の真実を復元することができるからです。
 そのような関西例会にあって、わたしと最も激しく論争した研究者の一人が野田さんです。今回の著書は、これまでの論争経過を背景に更に自説を強化、満を持して発刊されたもので、読んでいてもその意気込みが伝わります。倭人伝の女王国は不弥国とされ、その場所を佐賀県吉野ヶ里とする仮説は古田説とは異なりますが、他方、要所では古田説も丁寧に紹介されています。
 わたしは野田説よりも古田説がより論証力があり、考古学などの関連諸学との整合性も優れていると考えていますが、それでも同書の中には「なるほど一理ある」「そういう視点も確かにあり得る」と思わせる優れた指摘が随所にあります。たとえば「倭地参問」「周旋五千余里」の新読解です。古田説では総里程一万二千里から韓国内里程七千里を単純に差し引いた五千里としますが、野田説によれば倭国内の狗邪韓国から侏儒国までの陸地の総里程五千里(計算するとピッタリ五千里になります)であり、海上里程は含まないとされました。すなわち、「倭地」を周旋するのだから、海峡を渡る海上は「倭地」ではないとする理解です。
 この説を関西例会で初めて野田さんが発表されたとき、司会の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から「古賀さん、この野田さんの新説をどう思う?」と意見を求められ、わたしは思わず考え込み、「古田説の方が単純明快で良いように思うけど、確かに野田さんの計算でも五千里になる。う〜ん。」と曖昧な返事をしてしまいました。それほどインパクトのある研究発表だったのです。以後、この野田説はわたしの中でずっと気にかかっていました。
 その日から数年後、「古田史学の会」で邪馬壹国研究の最新論文集『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)を発行するとき、この野田説の収録をわたしは編集会議で提案し、承認されました。たとえ古田説や自分の意見とは異なっていても、「古田史学の会」発行の書籍に掲載し、後世に残すべき論文と評価したからに他なりません。このたびの野田さんの新著『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』を『邪馬壹国の歴史学』とあわせ読まれることを推奨します。なお、同書は一般販売されていませんので、下記の野田さん宛にメールで購入をお申し込みください。
 ここまで書いたら、ちょうど博多駅に到着しました。これから久留米に向かう列車に乗り換えです。外はどんよりと曇っています。

(価格は送料込みで680円。メール nodat@meg.winknet.ne.jp)


第1442話 2017/07/04

古田先生による「倭国年号」の使用例

 おかげさまで『古代に真実を求めて』20集の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』は初版印刷部数も増え、「古田史学の会」で引き取った分も完売できました。「古田史学の会」会員やお買い上げいただいた皆様に御礼申し上げます。
 今回、今まで使い慣れていた「九州年号」という学術用語ではなく、敢えて「倭国年号」をタイトルに採用するにあたり、編集部では時間をかけて検討を続けました。その結果、先のタイトルを決定したのですが、それに至る経緯や理由について説明します。
 『古代に真実を求めて』の発行部数や販売部数が伸び悩んでいたこともあり、その打開策として特別企画を中心に編集し、タイトルもそれにあわせて個性的なものにするというリニューアルを18集(『盗まれた「聖徳太子」伝承』)から行いました。その編集方針が当たり、発行部数も販売部数も増加し、そして書店の取り扱いにも良い変化が起こりました。
 ご存じのように、近年は書籍通販が増え、多くの書店が閉鎖に追い込まれています。そして残った大型書店でも歴史や古代史コーナーの縮小が続いています。ですから、よほど売れる本か、売れ筋のテーマを取り扱った本しか棚に並べてもらえないのです。そのため、以前に発行した『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)のような専門書的なタイトルでは書棚に並べてもらえなくなったのです。
 そうしたことも一因として、編集部ではタイトルを今まで以上に重視し、「地方史」扱いされかねない「九州年号」から、より一般的な「倭国年号」を採用することにしたのです。しかしそれでは「倭国年号」が大和朝廷の年号と受け止められますので、そうではないことを明確にするため、「大和朝廷以前」の一語を付記しました。
 もちろん「倭国年号」という用語が学術的に適切であることも十分に検討し確認しました。このことをご理解いただくために、古田先生が著作でどのように「倭国年号」という用語を理解されていたのかをご紹介しましょう。それは古田先生の初めての通史となった『古代は輝いていた Ⅱ』(朝日新聞社刊。後にミネルヴァ書房から復刊)において、13回にわたり「倭国年号」という用語を使用され、中でも次のようにその妥当性を強調されています。3例のみ紹介します。

○初版本57頁 復刊本46頁
 (前略)「九州年号」、正確には「倭国年号」(あるいは「イ妥国年号」)の実在を前提にせずしては、『隋書』イ妥国伝をまともに読みこなすことは不可能だったのである。

○初版本66頁 復刊本54頁
 (前略)この点、「九州年号」とは、「九州を都とした権力のもうけた年号」の意であって、「九州だけに用いられた年号」の意ではない。この点からいえば、「倭国年号」の称が一段とふさわしいかもしれぬ。

○初版本67頁 復刊本55頁
 (前略)この問題は、九州年号=倭国年号に関する最深の箇所へと、わたしたちを否応なくおもむかせる。

 以上のように古田先生は「倭国年号」という用語が「正確には『倭国年号』」「一段とふさわしいかもしれぬ」とまで評価されているのです。こうした古田先生による「倭国年号」の使用例も確認し、編集部はタイトルに「倭国年号」の採用を決定しました。なお、「倭国年号」の使用は、古田学派の研究者により論文などに昔から使用されており、そのことが問題視されることもありませんでした。古田先生も使用されていたのですから、当然です。
 もちろん、「九州年号」という学術用語の使用に何ら問題はありませんし、「古田史学の会」や編集部が「九州年号」の使用をやめたり、「使用禁止」などできるはずもありません。編集部は本のタイトルに「倭国年号」という用語を採用することは「適切」と判断したに過ぎないのですから。このことについては同書「巻頭言」でわたしが次のように記しており、曲解や誤解無きようお願いします。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
      古田史学の会・代表 古賀達也

(前略)
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
(後略)


第1438話 2017/06/30

6月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 6月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。6月は会員総会などがあり、何かと忙しく、「洛中洛外日記【号外】」の配信が少なくなりました。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 6月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/06/01 最後の山形出張の予感
2017/06/03『東京古田会ニュース』No.174のご紹介
2017/06/20 古田先生が提唱された「倭国年号」


第1435話 2017/06/28

「古田史学の会」会則の思い出

 過日の「古田史学の会」会員総会で会則の一部変更を承認していただきました。古田先生ご逝去に伴う最小限の変更で、「第二章 目的」は次のようになりました。

〔旧〕本会は、古田武彦氏の研究活動を支援し、旧来の一元通念を否定した氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

〔新〕本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

 総会では目的に古田史学の方法論や古田説を具体的に書き加えてはどうかとするご意見も出されましたが、この会則を大きく変更する必要はなく、逆に大きく変更するとその説明と論議がこの会則のもとに入会された全会員間で必要となることもあり、最小限に留めました。
 この会則は「古田史学の会」創設後に古田先生や中小路駿逸先生ともご相談し、ご了解を得たうえで決められたものであり、わたしとしては基本的に変更する必要性はないと考えています。
 会則決定のことを『古田史学会報』9号(1995年9月25日)の編集後記に次のようにわたしは記しました。

▽初めての会員総会で、無事会則採択され、喜んでいます。同会則は会の将来に無用な混乱や道を誤らないようにする為に中小路駿逸先生の御助言をいただきながら作ったものです。今後は「細則」により、詳細についても整備していきたいと考えています。

 ここでいう中小路先生のご意見は、『古田史学会報』8号(1995年8月25日)にご寄稿いただいた次の論稿に記されています。全文はHP「新古代学の扉」に収録していますので、ぜひお読みいただければと思います。

『古田史学会報』8号より部分転載

古田史学の会のために
            中小路駿逸

(前略)
 古田武彦氏の言説に強烈な関心を(思わくはいろいろ違っても)持つ人々が集まってできた(と私は思っているのだが)いくつかの会のなかの「市民の古代研究会」という会が、別れるの別れないのとゴタゴタしていたとき、私は「旗印をハッキリと」と「市民の古代ニュース(一二六号)」に書いた。古田氏の言説が「近畿大和なる天皇家の王権は、七世紀よりも前から日本列島内で唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった」という「一元通念」を学理上「非」なりとしている一点(この一点で古田説は通念に対して決定的に勝ったのである)に、同意するか、明言せずに伏せるか、ハッキリしなさい、という趣旨を述べたものであった。ゴタゴタの原因の肝心カナメのカンどころはここにあり、ここが分かれ目となって会は少なくとも二つのグループに分かれると見、この「ことのスジミチ」が後世にハッキリわかるような記録を、シッカリ残しておきたいと思ったからである。
 私が「古田武彦氏についていくか、いかないか」とか「古田氏の学問のどこに、どういう意味で関心を持つか、持たないか」などで分けようとしなかったのはなぜか、おわかりであろう。そんな「対古田学態度」などで分けようとしたら最後、答は千差万別 、千変万化、あらゆる言い抜けが可能となって分類は無意味となり、何よりも、肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。この規準を用いれば、ありとあらゆる錯乱(無知、ウソ、ゴマカシ、スリカエ、だまし、そういうのをすべて含め、一括して「錯乱」と言っておく。こういうものをこまかく詮索して分類したってしかたがあるまい。)が、ゴタゴタの前後にわたってみずからの正体を自主的にさらけだして記録に残すこと、明らかだからである。
 (中略)
 この「名分に関する、信仰を含む宣言」を「史実宣言」へと横滑りさせ、この「名分」に合うように歴史のワク組みを構想した「錯乱」の所産が「一元通 念」なのだった。--私は今、そう考えているのである。古田氏の指摘はこの「錯乱」を非なりとし、その裏づけを提示した私も、同様これを非とし、歴史像を通念型から古代の文献の示しているものに返せ、と要求している。たとえこの通念が数百年、あるいは千年余、日本人の心を規制し、文化の深部に根付いているように思われていようとも、より深い基層にあるものが真実ならば、そこに復帰して当然ではないか。「一元通念を非とする。」--この一句に私が固執する意味がおわかり願えようか。日本の文化が、精神が、ほんとに確かな基礎に立ったものになれるかなれないか、その分かれ目がこの一句にある。私はそう思っているのである。
  「古田史学の会」の会則案には、この肝要の一句が入っているようである。この一句が会の総会で承認されるか否かを、はるかな過去からの歴史と、これから歴史として形成されるのを待つ、限り知られぬ未来とが、深い関心をこめたまなざしをもって見守っているのである。
 (なかこうじしゅんいつ・追手門学院大学教授)


第1426話 2017/06/19

『古代に真実を求めて』21集の原稿募集

 昨日の午前中に『古代に真実を求めて』編集会議を開催しました。2018年3月発刊予定の21集のタイトルや特集企画などを決定しました。
 昨年末から筑紫野市前畑土塁の発見などが続く九州王朝の都(倭京)太宰府を中心テーマにすることとし、書名を『よみがえる倭京《大和朝廷以前》』(仮称)としました。最終的には出版元の明石書店と相談の上、決定します。
 特集企画はより多くの会員が「参加」しやすいよう、二つとしました。次の通りです。

特集企画Ⅰ 九州王朝説による太宰府都城研究
特集企画Ⅱ 九州王朝の古代官道研究

 この特集企画にふさわしい原稿を募集します。応募資格は「古田史学の会」会員であることです。論文とは別に企画に沿った短編のコラム記事も受け付けます。
 また、特集企画以外の一般原稿も受け付けますので、ご投稿をお待ちしています。投稿方法や要項については『古田史学会報』8月号をご参照ください。投稿締め切りは本年10月末です。
 おかげさまで特集企画を前面に打ち出したことが成功したようで、『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』の売れ行きも好調のようです。


第1422話 2017/06/11

古田史学会報』140号のご案内

『古田史学会報』140号が発行されましたので、ご紹介します。本号には天文学者の谷川清隆さんからご寄稿いただきました。

『日本書紀』の天文関連記事の史料批判により、古代日本に二つの権力集団が存在したとする論稿です。これまでも天文学という視点から古田説を支持する研究を発表されてきた谷川さんの論稿は読者にもご満足いただけるものと思います。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が谷川稿を過不足無く解説されていますので、以下に転載します。

【転載】
《谷川清隆博士の紹介》
谷川氏は現役の天文学者です。

 その天文学者の目で見た古代史研究論文に感銘を受け、無理を言って今回寄稿願いました。

 日本書紀には、漢文の正確性からα群・β群があって、巻によって著者が異なると言う森博達氏の研究が有名ですが、谷川氏はその天文観測記事より、単に著者が違うのではなく、書かれた団体・組織が異なることを発見されたわけです。

 森氏の言うβ群は天群の人々(九州王朝ととっていただくと分かり易い)によって書かれた、α群は地群の人々(近畿天皇家)によって書かれたとなります。

 過去古田説は、谷本茂氏の『周髀算経』からの数学的アプローチによって、又メガース博士の南米における縄文土器発見によって、その都度新しい実証・論証ツールを得てきました。ここに谷川氏によって又強力なツールを得たわけです。(服部静尚)

『古田史学会報』140号の内容
○七世紀、倭の天群のひとびと・地群のひとびと 国立天文台 谷川清隆
○谷川清隆博士の紹介 八尾市 服部静尚
○6月18日(日)井上信正氏「大宰府都城について」講演会・「古田史学の会」会員総会のお知らせ
○前畑土塁と水城の編年研究概要 京都市 古賀達也
○「白鳳年号」は誰の年号か -「古田史学」は一体何処へ行く 松山市 合田洋一
○高麗尺やめませんか 八尾市 服部静尚
○「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上) 川西市 正木 裕
○西村俊一先生を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己