古田史学の会一覧

第649話 2014/01/24

「市民の古代研究会」の変質

 「市民の古代研究会」は「古田武彦と共に」という会の性格を表した「サブネーム」を持って創立されたことからも明らかなように、会の目的は古田先生と共に古田史学により日本古代史を研究する団体でした。少なくともわたしやほとんどの会員はそう信じて入会し、会費を支払っていました。従って、会の中枢である理事会はそうした志を持った「同志」により運営されていました。ところが、会員の増加、会組織の急拡大により、この根幹が揺らぎだしたのです。
 拡大した組織を維持運営するため、役員(世話役)を増やさざるを得ない状況が生じました。例会や勉強会に熱心に参加される会員から理事を補充することになったのですが、わたしより年輩でもある先輩理事が推薦する会員を理事に迎えました。そのときわたしは「嫌な予感」がしたことを覚えています。というのも本当にその人が古田説支持者かどうか、わたしにはよくわからなかったのです。しかし、年少のわたしに先輩理事の推薦や判断に根拠もなく異を唱えることはできませんでした。
 その後、わたしの「嫌な予感」は的中しました。理事会の「古田離れ」が急速に進んだのです。「市民の古代研究会」は市民の自立した古代史研究団体であるから、古田武彦だけを講演会に呼ぶのはおかしい、「学問の自由」を守るべきだ、というのが「古田離れ」を主張する理事の意見でした。この一見もっともらし い「学問の自由」という主張に、わたしは苦しみました。そしてそれに対して、一般会員が預かり知らぬところで理事会が「古田離れ」を画策するのは、会と会員に対する背信行為だとわたしは反論し続けたのですが、気づいてみると理事会で古田支持派は少数になっていました。反古田派理事の中心人物が、当初わたしを支持してくれていた中間派理事を一人また一人と切り崩していたのでした。
 当時の理事会は本当にひどい状態で、「反古田・非古田」の理事からは、「安本美典を講演会に呼べ」とか「会は古田説支持団体ではないが古田説支持者がいるのはかまわない」とかが公然と主張されるまでになっていました。さすがに安本氏を呼ぶことに対しては、水野さん(当時「市民の古代研究会」理事、現「古田史学の会」代表)が反対され実現することはありませんでしたが、一元史観の学者を講演会に呼ぶことは進められました。しかも、その段取りを事務局長のわたしがやれと言われました(わたしは、しませんでしたが)。
 こうした理事会変質の背景には、会の拡大のためには「非古田説」の古代史ファンを勧誘すべきという理事の意見や、おりから発生していた和田家文書偽作キャンペーンにより、古田古代史は支持するが和田家文書は偽作であり古田先生はだまされているとする中間派理事の増加がありました。後に、偽作キャンペーンの中心人物が「市民の古代研究会」中枢に電話などで様々なはたらきかけをしていたことをわたしは知りましたが、そのころは思いもよりませんでした。わた し自身もまだまだ世間知らずの未熟者で「甘ちゃん」だったのです。「市民の古代研究会」理事会は古田ファンの善意の人々ばかりであると信じていたのですから。(つづく)


第648話 2014/01/23

「市民の古代研究会」の拡大路線

 わたしは仕事で愛知県一宮市に行くことが多いのですが、時間待ちの際に利用するのが、真新しい一宮駅ビルの5~7階にある市立図書館です。お気に入りの図書館の一つなのですが、その理由は交通の便が良いこと、新しくきれいなこと、そして何よりもミネルヴァ書房から刊行されている古田武彦シリーズが全冊並べられていることです。そうしたこともあり、『古代に真実を求めて』16集を寄贈させていただきました。一宮市民の皆さんの目に留まれば幸いです。

 さて、1990年代に急拡大した「市民の古代研究会」でしたが、組織拡大のため、わたしはマーケティング論でいうところ の、STP戦略をフル活用しました。セグメンテーション・ターゲティング・ポジショニングというもので、活動領域は主に「日本古代史」、獲得すべきター ゲットは「古田ファン・読者」、ポジショニングは多元史観・古田説による旧来の一元史観古代史との「差別化」でした。
 こうした基本戦略は、古田先生の人間的魅力と古田史学が持つ圧倒的な論理性・説得力を背景に、極めて有効にはたらき、期待した通りの成果を達成できました。このときわたしは会員拡大のスピードをあげるために、少し危険な方法を採らざるをえませんでした。それはターゲットを「古田ファン・読者」を中心とし ながらも、「古田史学に関心のある一般の古代史ファン」にも広げたのです。そうすることにより、ターゲットが広がり、会員拡大の成果を出しやすくなりま す。
 そうしたもう一つ理由に、何年も200人程度で推移していた会員数が急速に増えたことに「目がくらんだ」一部の理事から、古田説支持・不支持とは無関係にもっと会員を増やせという声が出始め、そうした意見にわたしは苦慮し、その妥協策として「古田ファン・読者」を中心に「古田説に関心を持つ古代史ファン」というターゲット層の拡大案を出すことにより、組織の「古田離れ」をくい止めようとしたのです。今から思えば、こうした会員数急拡大が一部理事の錯覚 (思い上がり)「古田武彦なしでも会員は増える」をもたらしたのかもしれません。
 しかし、このターゲット層の拡大が「市民の古代研究会」失敗の直接の原因ではありませんでした。より決定的な原因は理事会の「変質」にありました。(つづく)


第646話 2014/01/21

須恵器の飛鳥編年と難波編年

 1月18日、新年最初の関西例会が開催されました。初参加の方もあり、関西例会らしい活発な論議が交わされました。
 中国曲阜市から一時帰国されている青木さんからは、孔子の弟子に倭人がいたとする報告がなされ、曲阜地域から出土している「縄文土器」が日本の縄文式土器ではないかと指摘されました。縄文式土器は中南米からも出土していますから、隣国の中国から出土しても不思議ではありません。同「縄文土器」と日本の縄文式土器との様式比較や編年など、これからの調査研究が楽しみなテーマです。
 服部さんからは、前期難波宮造営を孝徳期ではなく天智期頃とする白石さんの論文「須恵器編年と前期難波宮」の分析と解説がなされ、『日本書紀』などを根拠に5~10年単位での須恵器編年が可能とする白石さんの「飛鳥編年」の根拠が脆弱なこと、出土須恵器の取り扱いが恣意的であることなどをわかりやすく説明されました。
 「飛鳥編年」に対しては、わたしも同様の疑問を感じていましたが、服部さんの報告はそのことが大変わかりやい資料やデータで示されており、参考になりました。やはり「飛鳥編年」よりも、大阪歴博の研究者たちが提起している「難波編年」の方がより科学的(年輪年代測定や干支木簡なども根拠として成立)で論理的(考古学と文献の一致など)と思われました。前期難波宮造営が7世紀中頃とする説は最有力と思います(そもそも『日本書紀』にもそう書いてありますし、その件に関して『日本書紀』編者が嘘をつく必要もありません)。
 1月例会の報告は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 孔子の弟子の中に、倭人が在り(中国曲阜市・青木英利)
2). 後漢書のイ妥国伝(木津川市・竹村順弘)
3). 「須恵器編年と前期難波宮」白石太一郎氏の提起を考える(八尾市・服部静尚)
4). 大宰府政庁2期整地層の須恵器杯Bの編年(京都市・古賀達也)
5). 徳川道(明石市・不二井伸平)
6). 明石二見港の歴史と工楽松右衛門(明石市・不二井伸平)
7). 「筑紫なる日向」を前提としたウガヤフキアエズの陵墓と神武の妻(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・新年賀詞交換会の報告・初詣(比売神社・春日大社・東大寺)・芭蕉句碑の確認「水取りや 籠り(「氷」?)の僧の 沓の音・東 大寺二月堂のお水取り「2月12日」は長屋王が殺された日(殺した側の「懺悔の日」の行事ではないか。長屋王は九州王朝系の人物ではなかったか。)・東大寺ミュージアム訪問・阿武山古墳シンポジウム・『藤氏家伝』(伏見宮家本)では藤原鎌足は火葬・その他


第645話 2014/01/19

「市民の古代研究会」の失敗の教訓

 「古田史学の会」を「地域の会」等とのネットワーク型の組織と運営体制にしたのは、「市民の古代研究会」の失敗の教訓からでした。1980年代、古田先生と古田史学を支持支援する団体として、関東の「古田武彦と古代史を研究する会 (東京古田会)」があり、その後、関西に「市民の古代研究会」が発足し、両団体は活発に活動していました。
 1986年にわたしは古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を読み、古田史学に感激して「市民の古代研究会」に入会しました。ちょうど古田先生が還暦を迎えられた年でもあり、茨木市で開催された講演会で初めて先生にお会いしました。わたしが31歳のときでした。懇親会では先生の還暦のお祝いがなされ、赤いちゃんちゃんこが先生にプレゼントされたことを、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。
 わたしは古代史研究だけではなく「市民の古代研究会」の活動のお手伝い(遺跡巡りの担当)も積極的に行っていました。当時、わたしは勤務先の労組委員長 や上部団体の中央委員、そして会社の経営計画作成プロジェクトなどを手がけていたこともあって、その組織運営の経験を評価していただき、「市民の古代研究会」の理事(最年少)に選ばれました。その後、事務局長の藤田友治さんが会長に就任されることになり、藤田さんから請われて後任の事務局長をお引き受けしました。
 「市民の古代研究会」事務局長の活動に専念するため、わたしは十数年続けてきた全ての労組役職を退任し、労働運動の第一線から退くことにしました。当時就任していた化学関連労組上部団体の副執行委員長を退任するにあたり、同組織の執行委員長だった前川重信さん(現・日本新薬社長)に釈明とお詫びにうかがったのですが、わたしが古代史研究の世界に入ることを快くご承諾いただき、励ましていただきました。
 それからは文字通り寝食を忘れて、「市民の古代研究会」の組織拡大に取り組みました。会員数が増えれば影響力も増し、古田史学が世に受け入れられると考え、それまで200人ほどで推移していた会員数を数年で1000人に手が届くというところまできたのです。
 これは計画通りで、「市民の古代研究会」理事会を頂点として、関西・関東・九州・東海・仙台に会員組織が発足し、広島などその他の地域にも支部結成を目指していました。しかし、この組織の急拡大に大きな失敗の原因が潜んでいました。このことを後にわたしは思い知らされることになります。(つづく)


第644話 2014/01/14

「古田史学の会」と「地域の会」

 先日の賀詞交換会の午前中に、「古田史学の会」全国世話人会を開催しました。 通常、年に一度開催し、「古田史学の会」の事業や課題などについて論議や意見交換を行い、会の運営に反映させています。その全国世話人会で毎回のように出される意見に、「古田史学の会」と「地域の会」との関係のあり方ついてというテーマがあります。今回の全国世話人会でも出されました。「古田史学の会」内部の問題ですので、「洛中洛外日記」で触れることでもないのかもしれませんが、「古田史学の会」創立者の一人として、この問題についての考えを述べてみたいと思います。
 現在、「地域の会」として組織されているのは「北海道」「仙台」「東海」「関西」「四国」ですが、発足の経緯、活動内容や運営などは独立した組織として、それぞれ異なっています。基本的に「地域の会」は独立した組織であり、「古田史学の会」の地方支部ではありません。同時に「古田史学の会」が「地域の会」の本部でもありません。財政的にも人事でも独立した組織です。
 「古田史学の会」は全国組織であり、会費を支払っていただいた会員からなっています。会創立の経緯から関西に本部機能がありますが、「古田史学の会・関西」とは財政的に独立しています。「地域の会」は「古田史学の会」の会員が地域ごとに任意で集まって例会活動などを自主的に行っている組織であり、「古田史学の会」とは別組織ですが、その組織は「古田史学の会」会員が中心となって運営され、目的と志は「古田史学の会」と同じです。いわば「古田史学の会」と 「地域の会」は同志的紐帯で結ばれた関係なのです。従って、本部・支部の関係ではありませんし、上下関係もありません。
 現在は関西の会員が主となって「古田史学の会」の本部機能を受け持っていますが、将来、関東地区や東海地区の会員数が増え、本部機能を東京や名古屋に移動することもあり得ます。現に、発足当初は本部機能の一つである『古代に真実を求めて』の編集部は「古田史学の会・北海道」が受け持っていました。現在も 『古田史学会報』編集と会計は香川県高松市在住の西村秀己さんが担当しておられます。このように、「古田史学の会」は「地域の会」等とピラミット型ではな く、ネットワーク型の運営体制をとっているのです。
 このような組織や運営体制にしたのには理由がありました。それは「市民の古代研究会」の失敗の教訓があったからです。(つづく)


第643話 2014/01/12

賀詞交換会の御報告

 昨日、I-siteなんばで「古田史学の会」賀詞交換会を開催し、古田先生に講演していただきました。講演要旨は『古田史学会報』に掲載しますが、項目と内容について一部御報告します。
 冒頭、「古田史学の会」水野代表よりあいさつがなされ、「古田史学の会・東海」の竹内会長、「古田史学の会・四国」の合田さんからもごあいさつをいただきました。わたしからは、今年の「古田史学の会」出版事業計画の報告をしました。
 古田先生の講演は次のような内容でした(文責・古賀達也)。

○靖国参拝問題について
 『祝詞』「六月の晦(つごもり)の大祓」に「安国」が見える。そこにある「天つ罪」「国つ罪」は具体的で、その「罪」を明確にしている。
 「戦争犯罪」を犯した人物も祀る靖国神社には、こうした「罪」の記述がない。「罪」を具体的に記した『祝詞』とは異なる。
 同時に、中国や朝鮮も日本人虐殺の歴史(元寇など)があるが、「記述」されていない。
 アメリカ軍も日本占領時に日本人婦女子を陵辱したが、このことも伏せられている。GHQが報道させなかった。古今未曾有の戦争犯罪は広島・長崎の原爆投下である。このような戦争犯罪は歴史上なかった。
 自国の悪いことも、相手国の悪いことも共に明らかにし、「罪」として述べることが大切である。これが『祝詞』の精神である。これが「安国」の本来の姿である。

○「言素論」について
 中国語の中にある「日本語」の研究は重要テーマである。たとえば、「崩」(ほう)の字は「葬(ほうむ)る」という日本語からきているのではないか。『礼 記』に見える「昧(まい)は東夷の楽なり」の「昧」は日本語の「舞(まい)」のことではないかとする結論に達していたが、最高人物に対する用語である 「崩」まで日本語であったとすれば、まだ断言はしないが、わたしとしては驚いている。

○『東日流外三郡誌』について
 日本国家が『東日流外三郡誌』記念館・秋田孝季記念館を作ることを提案する。「和田家文書」と言っているが、本来は「秋田家文書」であり、更に遡れば 「安倍家文書」である。この安倍家は安倍首相の先祖である。寛政原本だけでなく、安本美典氏らの偽作説の文献も全て記念館に保存し、将来の「証拠」として 残しておくべき。いずれ真実は明らかとなる。

○アメリカは何故東京に原爆を落とさなかったか
 アメリカ軍は皇居に爆弾を落とさなかった。うっかりミスではない。毎回の爆撃で一回も皇居を意図的には爆撃しなかった。勝った後に天皇家を利用するために、皇居を爆撃しなかった。だから原爆を東京に落とさなかった。
 アメリカ軍はあらかじめ広島の地形を航空写真で完全に調べてから、人体実験として広島に原爆を落としたのである。同様にアメリカは皇居の航空写真を撮っ ていたはずである。その写真に基づいて、爆撃から皇居を外したのである。アメリカにとって、「万世一系」の天皇家は戦後統治のために必要だったのである。 九州王朝はなかったとする大嘘に基づいて、現在も「万世一系」の歴史観が利用されているのである。
 権力を握ったら自分の歴史を飾り、嘘を本当の歴史であるかのように作り直している、と秋田孝季は言っている。秋田孝季の思想からみれば、人類の歴史の中 で国家は発生し、なくなっていくものである。宗教も同様で、宗教がある時代から無い時代へと変わっていく。歴史学とはいかなる権力・宗教にも迎合すること なく、真実を明らかにする学問である。

○井上章一さんの『真実に悔いなし』書評紹介
 ロシアに「ヤナ川」がある。これは日本語であるとの指摘がロシア側の学者からも出されている。方向としてはロシアから日本へ伝播した可能性が高い。
 沿海州の「オロチ族」の「おろち」は「やまたのおろち」の「おろち」と同源である。

 ※「シベリア物語」の歌(古田先生が歌われる)
 「荒れ果てて けわしきところ イルトゥーイシの不毛の岸辺に エルマルクは座して 思いにふける」

 「イルトゥーイシ」は「イルトゥー」までがロシア語で、「イシ」は日本語ではないか。「イ」は神聖なという意味、「シ」は生き死にする場所の「シ」である。「君が代」にも「イシ」がある。「さざれいし」の「いし」とは、神聖な生き死にする場所という意味ではないか。
 日本の地名に「いし」がやたらとでてくるので、石の「いし」なのか、神聖な場所の「いし」なのかを調べてみればよい。自分で調べてから発表すればよいと 言われるかもしれないが、わたしは明日死ぬかもしれないので、今のうちに言っておきます。わたしは早晩死んでいきますが、皆さんにあとをついでほしい。

(古田先生の詩)
 偶詠(ぐうえい) 古田武彦 八十七歳
竹林の道 死の迫り来る音を聞く (12/24)
天 日本を滅ぼすべし 虚偽の歴史を公とし通すとき (12/23)


第640話 2014/01/01

古田先生を迎えて新年賀詞交換会のご案内済み

 新年あけましておめでとうございます。
 わたしは久留米の実家で新年を迎えています。「古田史学の会」では今年も様々な事業を計画しています。新年最初の行事として、1月11日(土)には恒例の新年賀詞交換会を大阪市のI-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)にて、古田先生をお迎えして開催します。皆様のご参加をお待ちしています。

第643話 2014/01/12 賀詞交換会の御報告

 当日の午前中には「古田史学の会」全国世話人会を開催します。1月18日(土)には新年最初の関西例会を開催します。今年も素晴らしい研究発表が続出することと思います。
 『古代に真実を求めて』17集の編集会議も開催しますが、17集からは大幅なリニューアルを検討しています。そして米寿を迎えられた古田先生のお祝いの特集も予定しています。
 『古代に真実を求めて』とは別に「古田史学の会」で編集を進めていた、古田史学による遺跡ガイド(九州編)も年内にもミネルヴァ書房より発行されるはこびです。
 3月には筑紫舞の宮地嶽神社奉納30周年を記念して、福岡市で古田先生の講演会が開催されるとのこと。詳細が決定されましたら、ご案内します。
 「洛中洛外日記」も皆様の期待に応えられるよう、内容を広く深く充実させたいと願っています。本年も皆様のアクセスとご教導のほど、よろしくお願い申しあげます。


第637話 2013/12/22

平成25年の回顧

 平成25年ももうすぐ終わります。この一年間、古田史学や「古田史学の会」では様々な出来事がありました。個人的な感想となりますが、特に印象深かったことを並べてみます。

1.古田先生の研究自伝『真実に悔いなし』発刊
 ミネルヴァ書房より発刊された同書は古田先生自らにより研究活動やその生い立ちが記されたもので、先生や先生の学問を学ぶ上で、わたしたち古田学派の学徒にとって宝物ともいえる貴重な一冊です。

2.「I-siteなんば」に古田武彦コーナー開設
 大阪府立大学のご協力と正木裕さんのご尽力により、大阪府立大学なんばキャンパス「I-siteなんば」に古田武彦コーナーが開設されました。古田先生や会員のご協力により、古田先生の著作や古代史関連の貴重な書籍を「I-siteなんば」図書館に寄贈しました。「古田史学会報」や『古代に真実を求めて』も全冊並んでおり、古代史や古田史学を学ぶ人々にとって貴重な研究拠点となりました。また、併設された研究ルームや会場を「古田史学の会」としても利用させていただくことにしました。これにより関西例会などの会場確保も便利になりました。近くに飲食街もできましたので、関西例会後の懇親会も便利になり ました。

3.正木裕さんの研究「倭人伝官職名と青銅器」
 本年も会員による優れた研究が数多く発表されましたが、中でも衝撃的だったのが正木裕さんが発表された、倭人伝の官職名と青銅器の関連についての研究でした。倭人伝研究における新たな分野を切り開いた研究として、大変優れていました。

4.「赤渕神社縁起」の九州年号
 森茂夫さん(「古田史学の会」会員、京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたも の)の写真ファイルが送られてきました。それには九州年号の「常色」「朱雀」などが見え、しかも天長五年(828)の成立という平安時代にまで遡る九州年号史料でした。今後これら赤渕神社史料(兵庫県朝来市)により九州年号・九州王朝の研究が加速されることでしょう。本当に素晴らしい史料が残っていたもの です。

5.『伊予三島縁起』の九州年号「大長」
 齊藤政利さん(「古田史学の会」会員、多摩市)が内閣文庫に赴き写真撮影していただいた『伊予三島縁起』(番号 和34769)に「大長九年壬子」とあ り、従来は「天長」と記されていた『伊予三島縁起』とは異なり、より原型を留めていることがわかりました。最後の九州年号「大長」の確かな史料根拠が発見されたことにより、滅亡期の九州王朝研究が進むことが期待されます。

6.会員・知人の訃報
 大変悲しいことに、本年は数十年来の古田説支持者だった難波収さん(オランダ・ユトレヒト市、天文学者)、鶴丈治さん(「古田史学の会・北海道」前会長)が亡くなられました。また、古田先生の松本深志高校時代の教え子だった中嶋嶺雄さん(国際教養大学学長)も亡くなられました。中嶋さんにはわたしの二倍年暦の研究論文の英訳にお力添えいただきました。心よりご冥福をお祈りいたします。

 以上、思いつくままに記しました。この他にも福岡県古賀市出土馬具など考古学的発見も印象的なニュースでした。古田史学・九州王朝説の正しさが事実でもって明らかになりつつありますが、この国の学界やマスコミは果たしていつまで「無視」が続けられるでしょうか。わたしたち古田学派の一層の努力と研究があらたな古代史の新時代を切り開くことでしょう。新年が素晴らしい一年であることを願っています。


第636話 2013/12/21

1ドルの『邪馬壱国の証明』の邂逅

 本日の関西例会にはスイス在住会員のリムさんが参加されました。リムさんはスイスでクラシックギターを教えておられるとのこと。例会後の懇親会でリムさんに古田史学との出会いをお聞きしましたら、10年ほど昔にニューヨークの古書店で古田先生の『邪馬壱国の証明』に出会ったことがきっかけとのことでした。ちなみに、そのときの『邪馬壱国の証明』の価格は1ドルとのことでした。その1ドルの『邪馬壱国の証明』が、時間と国境を越えて関西例会での邂逅となったのです。このようなお話しをお聞きする度に、「古田史学の会」を作って本当に良かったと思います。有り難いことです。
 本日の関西例会も多彩な報告がなされ、刺激的な一日となりました。発表テーマは次の通りでした。

〔12月度関西例会の内容〕
1). 独楽の記紀 — 「記紀とは何か」(大阪市・西井健一郎)
2). 北魏と倭の繋がり(木津川市・竹村順弘)
3). もう一つの天孫降臨 — 天火明命(天香山命)は東海に来ていた(東大阪市・横田幸男)
4). 「赤淵神社縁起」の解説(京都市・古賀達也)
5). 歴史概念としての「東夷」について(奈良市・出野正、張莉)
6). 池田仁三郎著「古墳墓碑」を批判する(八尾市・服部静尚)
7). 日本書紀の中国および朝鮮記事のずれについての考察(八尾市・服部静尚)
8). 何故末廬国の長官・副長官名がないのか(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代に真実を求めて』16集発刊・中臣鎌足と阿武山古墳シンポジウム・新池ハニワ工場公園(太田茶臼山古墳および今城塚古墳 のハニワ工場)・講演会参加「江戸時代における東大寺大仏殿再興物語」平岡昇修氏・飛鳥の五角池の曲線の島は日本列島か・その他


第632話 2013/12/11

『古田史学会報』119号の紹介

 『古田史学会報』119号が発行されましたのでご紹介します。今回も古田先生から原稿をいただきました。
 今号は正木稿や阿部稿などの力作や、萩野さんの旅行記、前号の正木説に対する疑問を提起された中村稿など多彩な内容となりました。きっとお楽しみいただけると思います。

〔『古田史学会報』119号の内容〕
○続・古田史学の真実 -切言-  古田武彦
○賀詞交換会(古田先生を囲んで)のお知らせ
○観世音寺考  京都市 古賀達也
○『管子』における里数値について  枚方市 古谷弘美
○すり替えられた九州王朝の南方諸島支配  川西市 正木 裕
○「天朝」と「本朝」 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析 上  札幌市 阿部周一
○“「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の行程について”を読んで  福岡市 中村通敏
○文字史料による「評」論 「評制」の施行時期について  京都市 古賀達也
○トラベル・レポート 讃岐への史跡チョイ巡り行 2013年11月10日~11日  東大阪市 萩野秀公
○「春過ぎて夏来るらし」考  川西市 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内


第628話 2013/12/03

幻の古谷論文

 『古代に真実を求めて』16集(明石書店刊、「古田史学の会」編)をようやく発行することができました。会員の皆様や執筆者には大変ご迷惑をおかけし、お詫び申しあげます。16集は「古田史学の会」2012年度賛助会員へは特典として送付します。2013年度賛助会員へは次号17集を進呈予定です。
 16集の掲載稿は下記の通りですが、奇しくも日・中の二つの金石文に関する「特集」となりました。それは「百済祢軍墓誌」と「大歳庚寅」象嵌鉄刀(福岡 市元岡古墳出土)です。いずれも九州王朝説に基づく論文で、他に見られない、「古田史学の会」らしい「特集」です。
 ところが採用が決まっていたにもかかわらず、掲載できなかった「幻の論文」がありました。17集から水野さんに代わって編集責任者となった古谷弘美さん (古田史学の会・全国世話人、枚方市)の論稿で、『古事記』真福寺本の字体を調査研究されたものです。
 従来は「天沼矛(あまのぬぼこ)」とされてきた文字が、真福寺本では「天沼弟(あまのぬおと)」であると古田先生が指摘され、「ぬ」は銅鐸、「おと」は 音を意味し、「ぬおと」とは「銅鐸の音」のことであるとする仮説を発表されました。ところが、古谷さんは『古事記』真福寺本では「天沼弟(あまのぬおと)」でもなく、「天治弟(あまのちおと)」であることを写真版の調査により明らかにされたのです。
 従来の書誌学研究では『古事記』真福寺本は誤字が多いとされ、「天沼弟」の「弟」は「矛」の誤字とされてきました。古谷論文により、「沼」ではなく 「治」であることが明らかになったことにより、従来説・古田説を含めて新たな研究の進展が期待されるだけに、掲載できなかったことは残念です。ちなみに、 その理由は『古事記』真福寺本の写真転載料が超高額のため、「古田史学の会」や出版社で負担できなかったことによります。学問研究のための転載は安価にしていただきたいものです。このまま埋もれさせるには惜しい論文ですので、何とか工夫して掲載したいと願っています。

『古代に真実を求めて』16集の目次

○巻頭言 会員論集・第十六集発刊にあたって  水野孝夫

○1 特別掲載
 最近の話題から  古田武彦
 真実の学問とは — 邪馬壱国と九州王朝論  古田武彦
 「和田家文書」の安日彦、長髄彦 — 秋田孝季は何故叙述を間違えたか  安彦克己

○2 研究論文
 続・越智国にあった「紫宸殿」地名の考察  合田洋一
 福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について  正木裕
 「大歳庚寅」象嵌鉄刀銘の考察  古賀達也
 「百済祢軍墓誌」について — 「劉徳高」らの来倭との関連において  阿部周一
 百済祢軍墓誌の考察  古賀達也
 百済祢軍墓誌についての解説ないし体験  水野孝夫
 筑紫なる「伊勢」と「山邊乃五十師乃原」  正木裕
 「国県制」と「六十六国分国」 — 「常陸風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連において  阿部周一
 「阿麻来服(「新羅本紀」記事)から解く「日本国」誕生  西井健一郎

○3 付録--会則/原稿募集要項/他
 古田史学の会・会則
 「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
 第十七集投稿募集要項/古田史学の会 会員募集
 編集後記


第622話 2013/11/19

「学問は実証よりも論証を重んじる」(1)

 今朝は特急サンダーバード5号で福井に向かっています。JR湖西線から見える、朝日で金色に輝く琵琶湖と全山紅葉した比良山系が絶景です。連日のハードなビジネスや出張の合間に、こうした景色に出会え、心が癒されます。本当に日本は美しい国だと思います。子孫にしっかりと残したいものです。

 今月の関西例会で、水野代表から古田先生の八王子セミナーの概要について報告がなされました。ただ、水野さんはセミナーに参加されていませんから、「古田史学の会」会員の肥沼孝治さん(所沢市)のブログに掲載されていた箇条書きの発表項目を紹介されたのですが、その中に「実証よりも論証が重要」という箇所があり、これはどういう意味だろうかと疑問を呈されました。実はこのことは古田史学において大変重要なことで、以前か ら不二井伸平さん(古田史学の会・総務)らと話し合ってきたテーマでもありました。
 この言葉は古田先生の東北大学時代の恩師である村岡典嗣先生の言葉で、「学問は実証よりも論証を重んじる」からきています。わたしは若い頃、古田先生から何度もこの言葉をお聞きしました。いわば、古田史学の神髄であり、フィロロギーという学問の基本的性格を表した重要な言葉だと理解しています。
 ところが、残念ながらこの言葉の意味をわたし自身もなかなか理解できず、それこそ十年以上かけてようやく見えてきたというのが実感でした。古田学派の研究者でも、この言葉の意味を真に理解している人は少ないのではないかと、不二井さんと何度も話し合ってきたのでした。そこで、例会での水野さんの発言を受けて、ちょうど良い機会でもあり、わたしから次のように説明しました。(つづく)