古賀達也一覧

第2531話 2021/08/04

土器編年による水城造営時期の考察(2)

 今までも水城の土器編年について調査検討したことはあったのですが、合理的な判断が難しく、お手上げ状態でした。その理由について説明します。
 実は水城遺跡からは少なからず土器が出土しています。しかし、そのほとんどが造営年代の〝決め手〟に使えないのです。というのも、出土位置が濠の中であったり、土塁上や堤体の周辺であるため、いずれも水城造営後の土器であり、その土器の編年がそのまま水城の造営年を示すわけではないからです。
 これが堤体中からの出土であれば、その土器は造営時に取り込まれたことになります。ですから、その土器の製造時期以後に水城が造営されたわけですから、造営時期の判断根拠として使えます。ところが、土塁の主要部分は版築工法により形成されています。そこには均質な粒径や土質を持つ複数種の土壌が選ばれ、それらが交互に敷き詰められており、そこに土器が含まれることはほとんど期待できません。
 このように造営時期の編年根拠にできる土器が、その構造上から検出しにくい水城なのですが、ある特定の部位には造営時の土器が出土していることがわかりました。それは基底部の下部に埋設された木樋(木製の暗渠)の周囲(左右・上部)と内部です。
 水城には、太宰府側の内濠から博多側の外濠に水を送るための木樋が4カ所で埋設されていた痕跡が発見されています(注①)。この送水用暗渠は、基底部をある程度造成した後に、水城を南北に直行する溝(堀形)を基底部に穿ち、その溝に木樋(ヒノキ材)を埋設するという方法で造成されています。そのため、木樋周囲の隙間を木樋埋設後に土で埋めるのですが、その埋土に含まれていた土器片が出土しています(注②)。この土器は7世紀前半頃以前と編年されている須恵器坏Hと七世紀中頃の坏Gで、水城遺構から出土した土器としては最古に属するとされています。(つづく)

(注)
①水城跡第5次調査(昭和50年、1975年)で、東門地区西側から木樋(全長79.5m)が出土した。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。192頁に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。


第2530話 2021/08/03

土器編年による水城造営時期の考察(1)

 九州王朝史研究にとって太宰府関連遺跡の造営時期や位置づけは重要課題です。しかし、文献史学によるそれらの造営年次と考古学による土器編年は整合していません。この問題についてはこれまでも論究してきましたが、残念ながら未だに解決できていないのが現状です(注①)。そのため、土器編年研究を一旦ペンディングし、炭素同位体比年代測定などの科学的年代測定からのアプローチを進めてきました。
 たとえば、水城については、東土塁基底部(第35次調査)から出土した敷粗朶工法最上層(全11層)の敷粗朶の炭素同位体比(14C)年代測定によるAD600~770年(中央値660年)という測定値や(注②)、西門付近北東側(第40次調査)から出土した敷粗朶と炭化物の年代測定値が共にAD675~769の範囲に含まれることなどから(注③)、これら測定値は『日本書紀』に記された天智三年条(664年)の水城造営記事と整合しており、水城の造営時期は660年頃と考えて問題ないとしてきました(注④)。
 このわたしの見解に対して、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは、炭素同位体比年代測定値には測定幅の誤差が大きく、『日本書紀』天智三年条(664年)記事(注⑤)の当否や、水城完成が白村江戦の前か後かという判断の根拠に使用するのは不適切とする批判をいただいていました。確かに、この批判はもっともなものです。そこで、ペンディングしていた太宰府関連遺跡群の土器編年精査を再開することにしました。どのような結論に至るのかは今のところ不鮮明ですが、学問研究ですから、自説と土器編年との齟齬を避けては通れません。時間はかかりそうですが、真正面から挑戦してみます。(つづく)

(注)
①たとえば、拙稿「大化改新詔と王朝交替」(『東京古田会ニュース』194号、2020年10月)において、次のように述べた。〝わたしは太宰府条坊都市の造営を、九州年号「倭京」(六一八~六二二年)などを史料根拠に七世紀前半に遡ると考えているが、考古学的出土事実に基づく証明には未だ成功していない(太宰府条坊遺構からの七世紀前半に遡る土器の出土報告がない)。〟
②『大宰府史跡発掘調査報告書 Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
③『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
④古賀達也「洛中洛外日記」1627~1630話(2018/03/13~18)〝水城築造は白村江戦の前か後か(1)~(3)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2451~2454話(2021/05/07~09)〝水城の科学的年代測定(14C)情報(1)~(3)〟
⑤「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽を置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。」『日本書紀』天智三年是歳条(664年)


第2529話 2021/08/02

『東京古田会ニュース』No.199の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』No.199が届きました。今号は拙稿「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」を掲載していただきました。飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約四万五千点の木簡が出土しており、それにより七世紀後半から八世紀初頭の古代史研究が飛躍的に進みました。そのなかの三五〇点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡を紹介し、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができるとしました。
 同号の掲載論稿中、わたしが最も注目したのが新保高之さん(調布市)の「謎の皇孫・健王と大田皇女」でした。新保さんによれば、『日本書紀』には「皇孫」の表記が43例あり、その内の39例は神代紀(38例)と神武紀(1例)で、他の4例は、時代が遠く離れた斉明紀の健王(3例)と天智紀の大田皇女(1例)という不思議な使用状況とのこと。両者は持統の同母姉弟という共通項を持つが、なぜこの二人が「皇孫」と呼ばれているのかは不明とのことです。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された〝九州王朝系近江朝〟(注①)や、古田先生の〝天智による日本国の創建〟(注②)と関係するのかもしれません。
 こうした『日本書紀』の史料状況に着目されたこと自体も鋭い問題提起ですが、その理由については不明とされた慎重な研究姿勢に、わたしは共感を覚えました。研究途上での、わからないことはわからないとする姿勢や、史料事実の核心部分を鋭く見抜くという新保さんの洞察力は流石と思いました。研究の進展が楽しみです。

(注)
①正木裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。
②古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。


第2528話 2021/08/01

九州王朝の部民「松延氏」と松野連

 先月のことです。九州王朝王族の末裔の〝お姫様〟から突然メールが届きました。お父上と懇意にしていたこともあり、懐かしく思いました。
 九州には今でも九州王朝王族の末裔と思われる方々がおられます。わたしたちの調査によれば、筑後地方には玉垂命(注①)御子孫の家系が複数続いており、その中に稻員(いなかず)家や松延(まつのぶ)家があり、江戸時代幕末の久留米藩の国学者、矢野一貞(注②)もその系図を研究しています。それぞれの家に系図が伝えられているようで、わたしは八女市の松延さんから家系図を見せていただいたことがあります(注③)。
 その時には全く気づかなかったのですが、「松延」は本来「松野部」であり、九州王朝での部民の呼称ではないでしょうか。「○○部」と称される氏族は、通説では大和朝廷による支配形式の一つ、部民制と理解されることが多いのですが、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)の研究によれば、それは氏族の名称に他ならず、いわゆる部民制ではないとされています(注④)。この日野説が念頭にあったため、今回、この作業仮説(アイデア)が浮かんだのです。
 「松延」の原型が「松野部」であれば、九州王朝(倭王)系図とされる「松野連系図」の松野氏との関係が想起されます。そこで、WEBサイト(注⑤)で「松延」姓を検索したところ、福岡県南部の八女市と久留米市に濃密分布していることがわかりました。
 他方、「松野連系図」に見える「夜須評」「夜須郡」は福岡県朝倉郡筑前町の「夜須」地名に対応し、当地には「松延」という地名が今もあります(注⑥)。「松延」姓が八女市・久留米市に濃密分布し、筑前町に「松延」地名があることは、わたしのアイデアを支持するのではないでしょうか。更には、七支刀を持つ御祭神で有名な「こうやの宮」があるみやま市瀬高町に「松延」発祥の地とされる松田(旧:松延)があることも興味深いと思います。
 九州王朝末裔の〝お姫様〟から届いたメールのおかげで、またひとつ九州王朝史の一端に迫ることができたかもしれません。不思議な御縁を感じます。

(注)
①筑後国一宮の高良大社(久留米市)の御祭神、玉垂命(たまたれのみこと)は「倭の五王」時代の九州王朝の王であり、代々、「玉垂命」を襲名したとする次の論稿を発表した。
 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②矢野一貞(1794~1879年)は幕末の久留米藩を代表する国学者。岩戸山古墳の現地調査を行い、筑紫君磐井の墓であることを最初に唱え、神籠石が山城であると指摘した。『筑後将士軍談』などの著書がある。
③2017年3月5日、日野智貴氏と共に松延家を訪問し、家系図を拝見した。
④日野智貴「『部民制』はあったのか」2021年7月17日、「古田史学の会」関西例会での口頭発表。
⑤「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、市別の分布上位と発祥地は次の通り。
 1 福岡県 八女市(約500人)
 2 福岡県 久留米市(約300人)
 3 茨城県 かすみがうら市(約110人)
 4 茨城県 石岡市(約90人)
 5 福岡県 飯塚市(約50人)
 6 長崎県 長崎市(約40人)
 7 熊本県 熊本市(約30人)
 7 茨城県 土浦市(約30人)
 9 福岡県 北九州市小倉南区(約30人)
 9 福岡県 福岡市南区(約30人)
《発祥地》
○福岡県みやま市瀬高町松田(旧:松延)発祥。平安時代に記録のある地名。福岡県八女市高塚に江戸時代にあった。
○福岡県朝倉郡筑前町松延発祥。南北朝時代に記録のある地名。
○茨城県石岡市府中付近(旧:松延)から発祥。鎌倉時代に記録のある地名。地名はマツノベ。位置不詳。茨城県水戸市三の丸が藩庁の水戸藩医に江戸時代にあった。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」2436話(2021/04/16)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(4) ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―〟


第2527話 2021/07/26

「土器編年」、関川尚功さんとの対談

 7月22日に京都市で開催された古代史講演会(市民古代史の会・京都主催)の後、講師の関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)と夕食をご一緒しました。大和の発掘調査に50年近く携わってきたベテランの考古学者と意見交換できる貴重な機会でしたので、わたしからは7世紀の土器編年について質問させていただきました。その内容は次のようなものでした。

〔古賀〕7世紀での飛鳥の土器編年と北部九州(太宰府など)の土器編年とでは年代差はありますか。あるとすれば何年くらいですか。
〔関川さん〕7世紀であれば同じと考えてよい。当時の土器職人の移動や土器製造技術の伝播は速いので、飛鳥と北部九州であれば年代差はないと思う。
〔古賀〕飛鳥編年は正確で、5~10年ほどの精度で編年できるとする考古学者の見解もありますが、±10年の幅はあるのではないでしょうか。
〔関川さん〕飛鳥編年は『日本書紀』(文献史学の判断)に基づいており、考古学的に土器様式で判断するのであれば25年の幅はあると思う。土器は長期間使用されるので、新様式の土器が発生したからといって、旧様式の土器がなくなるわけではない。

 以上のような対話が続きました。わたしも関川さんの見解(25年ほどの幅)に賛成です。以前にも、「洛中洛外日記」で土器や瓦の編年の難しさについて論じたことがあるのですが(注①)、土器編年には次のような難しさがついてまわるからです。

(a)土器の様式差や法量の違いによる相対編年にとどまる。
(b)土器による相対編年を暦年とリンクさせて絶対編年にするためには土器編年以外の方法に依らねばならないが、同一遺跡の同一層位とリンクできる他の暦年判定方法があることは極めて希である。
(c)同一層位から年代が異なる土器が共伴することはよくあることで、その場合、どの土器を重視するのかという判断が恣意的になる可能性がある。

 こうした問題点を理解した上で、なるべく客観的な手法や判断で出土物や遺構の編年がなされます。しかし、それでも同一遺跡に対する編年が考古学者間で異なる例は少なくありません。
 わたしたち古田学派には考古学を専門分野とする研究者が極めて少ないこともあり、遺跡に対して恣意的な判断がなされるケースが散見されます。わたし自身もそうだったのですが、太宰府関連遺跡の従来の土器編年は誤りであり、実際は百年ほど古くなるとする見解を漠然と信じていたこともありました。しかし、この10年間ほど、7世紀の須恵器編年の勉強を続けた結果、7世紀の土器編年はそれほど間違ってはいないことを知りました。たとえば大阪歴博などの考古学者による難波編年は、九州年号や多元史観による文献史学の成果とも見事に整合していました(注②)。
 他方、未だに解決できていない太宰府関連遺跡(政庁、条坊、水城、他)の造営年代には、九州王朝説に基づく文献史学と、出土土器による考古学編年とが整合しないケースがあります。一例として、大宰府政庁の造営年代があります。文献史学によれば白鳳十年(670年)創建と記されている観世音寺と同一尺が採用され、同じ老司式瓦で造営された政庁Ⅱ期遺構は同時期の造営とわたしは考えています。しかし、政庁Ⅰ期(新段階)やⅡ期の整地層からは7世紀第4四半期頃に編年されている須恵器坏Bが出土していることから(注③)、通説では土器編年により、観世音寺や政庁Ⅱ期の造営を8世紀第1四半期中頃とする見解が有力視されています(注④)。
 なお、政庁Ⅰ期・Ⅱ期の整地層からは古墳時代と見られる土器片や6世紀から7世紀前半に編年される須恵器坏Hなども出土しており、通説では整地に使用した土壌に古墳時代の土器が含まれていたと理解されているようです。同様の現象は前期難波宮整地層でも見られており、より新しい須恵器坏Bを重視した編年そのものは妥当と思われます。しかし、政庁Ⅱ期の成立について、文献史学(九州王朝説)の成果とは30~40年ほどの齟齬があるため、北部九州の須恵器坏Bの年代観の再検討が必要とわたしは考えています。残念ながら、考古学者を説得できるほどのエビデンスに基づく編年研究はまだできていません。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1764~1773話(2018/09/30~10/13)〝土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)~(9)〟
②古賀達也「難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点―」『東京古田会ニュース』185号、2019年4月。
③『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。233~234頁
④山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2524話 2021/07/20

「景初四年鏡」問題、日野さんとの対話(2)

 三角縁神獣鏡は古墳時代に作られた国産鏡とする古田旧説と弥生時代(景初三年・正始元年頃)の日本列島で作られ、古墳から出土する夷蛮鏡(伝世鏡)とする古田新説ですが、わたしは古田旧説の方が穏当と考えてきました。その理由は、弥生時代の遺跡から三角縁神獣鏡は出土せず、古墳時代になって現れるという考古学的事実でした。
 そして、「景初四年鏡」などの魏の年号を持つ紀年鏡は、卑弥呼が魏から鏡を下賜されたという倭人伝にある国交記事の記憶が反映したものと考えていました。すなわち、倭国の勢力範囲が列島各地に広がった古墳時代になると、魏鏡をもらえなかった勢力がその代替品として作らせた、あるいは魏鏡を欲しがった勢力に対しての交易品(葬送用か)として作られたものが三角縁神獣鏡(中でも魏の年号を持つ紀年鏡)だったのではないかと考えていました。もちろん、その三角縁神獣鏡が本物の魏鏡とは、もらった方も考えてはいなかったはずです。古墳から出土した鏡類の中で、三角縁神獣鏡がそれほど重要視されたとは思えない埋納状況(例えば棺外からの出土など)がそのことを示しています。
 こうした、やや漠然とした理解に対して、深く疑義を示されたのが日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)でした。日野さんは、新旧の古田説が持つ克服すべき論理的課題として、次のことを指摘されました。

(1)「景初四年鏡」が古墳時代の国産鏡であれば、倭人伝に見えるような弥生時代の国交記事を知っていたはずである。従って、景初三年の翌年が正始元年に改元されていたことを知らないはずがない。その存在しなかった「景初四年」という架空の年号を造作する動機もない。

(2)この点、古田新説であれば〝中国から遠く離れた夷蛮の地で作られたため、改元を知らなかった〟とする弥生時代成立の夷蛮鏡説で説明可能だが、古墳から出土したことを説明するためには伝世鏡論を受け入れなければならず、その場合、三角縁神獣鏡が弥生時代の遺跡からは一面も出土していないという考古学的事実の説明が困難となる。

 このように鋭い指摘をされた日野さんですが、それでは「景初四年」の銘文や「景初四年鏡」の存在をどのように説明すべきかについては、まだわからないとのこと。
 なお、古墳時代の鏡作り技術者たちは「景初四年」がなかったことを知らなかったという説明もできないことはありませんが、その場合はそう言う論者自身がそのことを証明しなければなりません。「景初」という魏の年号や倭国(卑弥呼)への銅鏡下賜のことを知っている当時のエリート技術集団である鏡作り技術者や銘文作成者が、倭人伝に記された「景初二年」ではなく、なぜ「景初四年」としたのかの合理的説明が要求されます。
 この日野さんが提起された「景初四年鏡」への論理的疑義について、古田学派の研究者は真正面から取り組まなければならないと思うと同時に、このような深い問題に気づかれた日野さんに触発された懇親会でした。


第2523話 2021/07/19

「景初四年鏡」問題、日野さんとの対話(1)

 先日の関西例会終了後の懇親会で、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から「景初四年鏡」に関する新旧の古田説について、仮説成立の当否に関わる論理構成上の重要な問題提起がありました。その紹介に先立って、「景初四年鏡」に関する古田説の変遷について説明します。
 「洛中洛外日記」1267話(2016/09/05)〝「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)〟でも紹介したのですが、当初、古田先生は「三角縁神獣鏡」は国内の古墳から出土することから、古墳時代に作られた国産鏡とされ、「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた三角縁神獣鏡伝世理論を批判されていました。
 ところが、1986年に京都府福知山市から「景初四年」(240年)の銘文を持つ三角縁神獣鏡が出土(注①)したことにより、弥生時代の日本で作られた「夷蛮鏡」説へと変わられました。すなわち、魏の年号である「景初」は三年で終わり、翌年は「正始」元年と改元されており、その改元を知らなかった夷蛮の地(日本列島)で造られたために、「景初四年」という中国では存在しない紀年(金石文)が現れることになったとされ、この「景初四年鏡」は三角縁神獣鏡が中国鏡ではないことを証明しているとされたのです。そして、そのことを意味する「夷蛮鏡」という概念を提起されました(注②)。
 そして古田先生は最晩年において、三角縁神獣鏡の成立時期を「景初三年(239年)・正始元年(240年)」前後とされ、そのことを『鏡が映す真実の古代』の「序章」(2014年執筆。注③)で次のように記されましたが、これは「景初四年鏡」の出土に大きく影響されたためと思われます。

〝次に、わたしのかつての「立論」のあやまりを明白に記したい。三角縁神獣鏡に対して「四~六世紀の古墳から出土する」ことから、「三世紀から四世紀末」の間の「出現」と考えた。魏朝と西晋朝の間である。
 いいかえれば、魏朝(二二〇~二六五)と西晋朝(二六五~三一六)の間をその「成立の可能性」と見なしていたのだ。だがこれは「あやまり」だった。「景初三年・正始元年頃」の成立なのである。この三十数年間、「正始二年以降」の年号鏡(紀年鏡)は出現していない。すなわち、三角縁神獣鏡はこの時間帯前後の「成立」なのである。〟『鏡が映す真実の古代』10頁

 この古田新説の発表は、わたしを含め古田学派の研究者にとって衝撃的な出来事でした。それまでは古墳時代の鏡とされてきた三角縁神獣鏡を、「景初四年」の銘文を持つ、ただ1枚の鏡の出土により、弥生時代(結果として古墳から出土した「伝世鏡」となる)のものとされたのですから。(つづく)

(注)
①京都府福知山市広峯の広峯古墳群の広峯15号墳(4世紀末~5世紀初頭頃の前方後円墳)から出土。「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人詺之位至三公母人詺之母子宜孫寿如金石兮」の銘文を持つ直径16.8cmの銅鏡。
②1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」の古代史講演会で発表された。同講演録は『市民の古代』九集(新泉社、1987年)に「景初四年鏡をめぐって」として収録。
③古田武彦『鏡が映す真実の古代 ―三角縁神獣鏡をめぐって―』ミネルヴァ書房、2016年。


第2522話 2021/07/18

難波京西北部地区に「異尺」条坊の痕跡

 「古田史学の会」関西例会では、研究発表の他にも休憩時間や懇親会での参加者との会話や情報交換により、重要な知見を得ることが度々あり、リモート参加では味わえないリアルな研究会の醍醐味の一つです。昨日の関西例会でもそうした知見が得られましたので、紹介します。
 ズームによるリモートシステム管理を担当されている久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)から大阪歴博『研究紀要』最新号(注①)に佐藤隆さんの研究論文が収録されていることを教えていただき、同書をお借りすることができました。それは「難波京域の再検討 ―推定京域および歴史的評価を中心に―」という論稿で、最新の発掘成果に基づいて難波京条坊の範囲や年代を考察したものでした。大阪歴博や大阪府には優れた考古学者が少なくありませんが、その中でもわたしが注目してきたお一人が佐藤隆さんでした。特に難波編年の構築や難波と飛鳥の比較を出土土器に基づいて考察された「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注②)は研究史に残る好論と、わたしは「洛中洛外日記」などで紹介してきたところです(注③)。
 今回の論稿でも驚くべき重要な仮説が提起されていました。それは、従来は条坊が及んでいないと見られてきた難波京西北部地区(難波宮域の北西方にある大川南岸の一帯)にも、難波宮南方に広がる条坊とは異なる尺単位による条坊(方格地割)の痕跡が複数出土しているとのことなのです。これまで発見された難波京条坊は1尺29.49cmで造営されており、それは藤原京条坊の使用尺(1尺29.5cm。モノサシが出土)に近いものでした。ところが、難波京西北部地区は1尺29.2cmを用いて造営されているとのことなのです。
 わたしはこの1尺29.2cmという尺に驚きました。これは前期難波宮の造営尺と同じだからです。以前に論じましたが(注④)、前期難波宮と同条坊の造営尺が異なっていることは不思議な現象だったのですが、その前期難波宮と同じ尺が西北部地区の条坊造営に使用されていることは、前期難波宮九州王朝複都説と密接に関係する現象ではないでしょうか。
 というのも、同地区には古墳時代からの遺構があり、全国的に見ても、福岡市の比恵那珂遺跡とともに古墳時代最大の都市であり(注⑤)、おそらく古墳時代(倭の五王時代)の九州王朝の港運拠点である難波津かそれと関係した地域と思われます。その条坊造営尺が九州王朝の宮殿である前期難波宮と同じということは重要です。この問題についてこれから深く考察したいと思います。ご紹介いただいた久冨さんに改めて御礼申し上げます。

(注)
①『大阪歴史博物館 研究紀要』第19号、令和3年(2021)3月。
②佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。
③古賀達也「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
 古賀達也「前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証」『東京古田会ニュース』No.175、2017年8月。
 古賀達也「難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点―」『東京古田会ニュース』185号、2019年4月。
 古賀達也「『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》」『古田史学会報』153号、2019年8月。
④古賀達也「都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺―」『古田史学会報』158号、2020年6月。
⑤古賀達也「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年12月。



第2519話 2021/07/13

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (15)

 ―九州年号出典調査の現状と展望―

 『二中歴』「年代歴」の九州年号を基礎史料(注①)として用い、『大正新脩大蔵経』検索サイト(注②)で九州年号の出典調査を行ってきました。現時点での調査結果は次の通りで、九州王朝(倭国)が受容した仏典候補を概観することにより、九州王朝史研究にも役立つことと思います。

【『大正新脩大蔵経』による九州年号出典調査】
継体 517~521年(5年間)
善記 522~525年(4年間)『十誦律』『大寶積經』「洛中洛外日記」2516話
正和 526~530年(5年間)『大乘菩薩藏正法經卷』「洛中洛外日記」2517話
教到 531~535年(5年間)『彌沙塞部和醯五分律』『賢愚經』「洛中洛外日記」2518話僧聴 536~540年(5年間)『彌沙塞部和醯五分律』「洛中洛外日記」2515話
明要 541~551年(11年間)
貴楽 552~553年(2年間)
法清 554~557年(4年間)
兄弟 558年   (1年間)
蔵和 559~563年(5年間)『大乘菩薩藏正法經』「洛中洛外日記」2514話
師安 564年   (1年間)
和僧 565~569年(5年間)
金光 570~575年(6年間)
賢接 576~580年(5年間)
鏡当 581~584年(4年間)
勝照 585~588年(4年間)
端政 589~593年(5年間)
告貴 594~600年(7年間)
願転 601~604年(4年間)
光元 605~610年(6年間)
定居 611~617年(7年間)
倭京 618~622年(5年間)
仁王 623~634年(12年間)
僧要 635~639年(5年間)『四分律』「洛中洛外日記」2513話
命長 640~646年(7年間)
常色 647~651年(5年間)
白雉 652~660年(9年間)
白鳳 661~684年(23年間)
朱雀 684~685年(2年間)
朱鳥 686~694年(9年間)
大化 695~703年(9年間)
大長 704~712年(9年間)※大長年号の期間については古賀説(注③)による。

 これまでの調査の成果と展望は次の通りです。

(1) 九州年号史料間での異伝、たとえば「善記」と「善化」、「教到」と「発到」などについて、仏典との整合から『二中歴』タイプが妥当であることが確認できた。
(2) 九州年号の出典として「律書」(『四分律』『五分律』『十誦律』)が目立つことから、九州王朝仏教が中国のどの仏教思想(戒律)・集団(僧伽)の影響を受けたのか推定できる可能性がある(注④)。
(3) 九州王朝(倭国)は、6世紀は『五分律』、7世紀は『四分律』の影響を受けたようであることから、中国南朝から北朝への国際交流の変化が影響している可能性が考えられる。

 研究途中ではありますが、以上のような興味深い課題も見えてきました。本テーマを引き続き取り組みますので、もう少しお付き合い下さい。(つづく)

(注)
①これまでの九州年号研究の結果として、『二中歴』「年代歴」に記された九州年号の漢字や期間が最も原型に近いと考えられる。
②SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
③古賀達也「最後の九州年号」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
 古賀達也「続・最後の九州年号」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
④九州王朝仏教がどの戒律の影響を受けたのかという視点については、日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のサジェスチョンを得た。


第2518話 2021/07/12

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (14)

九州年号「教到」の出典は『賢愚經』『五分律』か

 九州年号は、「善記」(522~525年)、「正和」(526~530年)と続き、その次が「教到」(531~535年)です。その字義は〝仏の教えが到る(仏教伝来)〟か〝仏の教えが記された経典が到る(仏典伝来)〟と考えられ、仏教に関わりが深い年号と、当初から古田学派では考えられてきました。わたしは30年前に、九州王朝(倭国)への仏教初伝を418年(戊午の年)とする説(注①)を発表しており、九州年号「教到」(531~535年)は新たな経典や僧の来倭に関わるものと推定しています。
 いずれも仏教に関係しており、仏典には「教到」の語句が多数見えるはずと思っていたのですが、『大正新脩大蔵経』の検索ではそれほど多くはなく、九州年号「教到」(531~535年)よりも漢訳の時期が早い次の経典に見えました。

○『賢愚經卷第二』(慧覺訳、南宋代 445年)
 「王即遣使。往告求婚。指其一兄貌状示之。言爲此兒。求索卿女。使奉教到。」

○『賢愚經卷第四』(慧覺訳、南宋代 445年)
 「尋更白言。尊者有好言教到大家邊。」

○『菩薩瓔珞經卷第十四一名現在報』(竺佛念訳、東晋代)
 「晝夜孜孜不違道教。到時入城不左右顧視。」

○『五分律卷第十彌沙塞』(佛陀什、竺道生訳、南宋代)
 「以此白佛。速還報我。摩納受教。到已頭面禮足却住一面。」

 これら四例の内、『賢愚經』の二例は「教到」がワンセットになっていますが、『菩薩瓔珞經卷』と『五分律』は「不違道教」「到時入城」と「受教」「到已」のように、二つの文の末尾と先頭で「教」「到」と並んでいます。この訓みが正しいのかどうか疑問がないわけではありませんが、経典原文には句読点はなく漢字が並ぶだけですから、いずれも「教到」の二字がワンセットのようにも見えます。ですから、文脈から読み取れば『賢愚經』が出典となる可能性が高く、表面的な文字の並びだけを見れば、いずれの経典も出典の可能性を持ちます。ただ、『五分律』は九州年号「僧聴」(536~540年)の出典候補としてもあがっており、そこに「教到」があることは注目されます。
 それでは教到年間(531~535年)の直前頃にどのような〝教え〟が九州王朝(倭国)に〝到った〟のでしょうか。『二中歴』「年代歴」の九州年号「教到」には細注記事がありませんから、今のところ不明とする他ないのですが、「教到」年号を持つ次の伝承があります。九州修験道の中心地の一つとされる英彦山霊山寺の縁起、『彦山流記』(注②)に見える次の記事です。

○「但踏出当山事、教到年比、藤原恒雄云々。」

 英彦山に関する最も古い縁起とされる『彦山流記』は、奥付に「建保元年癸酉七月八日」とあり建保元年(1213)の成立と見られます。この記事は当山の開基を九州年号の教到年(531~535年)としています。また同書写本末尾には「当山之立始教到元年辛亥」と記されており、教到元年(531)の開山とあります。また、元禄七年(1694)に成立した『彦山縁起』や寛保二年(1742)の『豊鐘善鳴録』(注③)によれば、彦山霊山寺の開基は継体天皇二五年(531)北魏僧善正によるとあります。いずれにしても英彦山霊山寺の開基が仏教初伝の通説538年よりも早いとする史料です。
 北魏僧善正が教到元年に英彦山霊山寺を開基したとありますから、九州王朝(倭国)の中枢領域(筑前・筑後)に来たのはそれ以前のことになります。そのときに持参した経典、あるいは善正その人の来倭を記念して、「教到」と改元した可能性もありそうです。『彦山流記』や『彦山縁起』などを精査すれば、何かわかるかもしれません。(つづく)

(注)
①古賀達也「四一八年(戊午)年、仏教は九州王朝に伝来した ―糸島郡『雷山縁起』の証言―」39号、市民の古代研究会編、1990年5月。
 古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第一集、古田史学の会編、1996年。明石書店から復刊。
②「彦山流記」『山岳修験道叢書十八 修験道史料集Ⅱ』五来重編所収
③『豊鐘善鳴録』は豊前国における禅宗関連史料のようであり、著者は河野彦契(?-1749年)。同書の序には「寛保二年」(1742年)の紀年と「永谷指月庵南軒」という署名が見える。


第2517話 2021/07/11

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (13)

九州年号「正和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か

 「善記」(522~525年)の次の九州年号は「正和」(526~530年)です。鎌倉時代にも同じ年号「正和」(1312~1317年)があり、大分県臼杵市満月寺の五重石塔に刻された「正和四年乙卯」が九州年号か否かを調査したこともありました(注①)。正和四年の干支が乙卯であることなどが根拠となり、鎌倉時代の年号「正和」と結論しました。
 今回の『大正新脩大蔵経』調査でも、鎌倉時代の年号「正和」が少なからずヒットしましたが、九州年号「正和」(526~530年)よりも早く漢訳された経典としては、竺法護(239~316年。注②)訳『大乘菩薩藏正法經』に「正和合」としてありました。

○『佛説大乘菩薩藏正法經卷第三十五』竺法護 訳
 「於正和合無所合智。」

 この『佛説大乘菩薩藏正法經』は九州年号「蔵和」(559~563年)の出典候補としても紹介したもので(注③)、この仮説が正しければ、6世紀初頭までには伝来していて、年号策定にあたり、九州王朝内で重視された経典だったと思われます。(つづく)

(注)
①古賀達也「臼杵石仏の『正和四年』は九州年号か」『九州倭国通信』194号、2019年4月。
古賀達也「満月寺石塔『正和四年』銘の考察 ―多層石塔の年代観―」『東京古田会ニュース』191号、2020年1月。
②ウィキペディアによれば、竺法護(じく ほうご、239~316年)は西晋時代に活躍した西域僧で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典にたずさわった代表的な訳経僧である。別に敦煌菩薩、月氏(または月支)菩薩、竺曇摩羅刹とも称され、漢訳した経典は約150部300巻に及ぶ。
③古賀達也「洛中洛外日記」2514話(2021/07/08)〝九州王朝(倭国)の仏典受容史 (10) ―九州年号「蔵和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か―〟
 ○『佛説大乘菩薩藏正法經卷第二十』竺法護 訳
  「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」