古層の神名一覧

第152話 2007/11/18

『古代出雲への旅』を読む

 関和彦著『古代出雲への旅』(中公新書)を読んでいます。『出雲風土記』に基づいて江戸時代に神社巡りをした小村和四郎の旅行記の発見から、その追跡実地調査を記した読みやすく面白い本でした。特に、短里で記されている『出雲風土記』を長里で理解したため、現地の実状と一致しない様子などが、興味深く読めました。と同時に、わたしも出雲の国を巡ってみたくなりました。どなたか、短里の概念で『出雲風土記』を実地調査されてはいかがでしょうか。きっと、新発見があるはずです。
   昨日の関西例会では下記の発表がありましたが、常連の正木さん、冨川さんは快調に新発見をものにされており、頼もしい限りです。伊東さんの沖ノ島遺跡の報告も興味深い内容でした。
   インターネットを見られての初参加の方もあり、早速、本会にご入会いただきました。この日は大阪で3軒ハシゴして、今日は昼まで寝てしまいました。
 
  〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 太寿・極寿(豊中市・木村賢司)
  2). 藤原不比等の実像(奈良市・飯田満麿)
  3). 第4回古代史セミナー・古田武彦の報告(豊中市・大下隆司)
  4). 明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点(川西市・正木裕)
  5). 「近江大津御宇天皇代」の挽歌九首を読む(相模原市・冨川ケイ子)
  6). 沖ノ島3(生駒市・伊東義彰)
  7). 東日流王朝in『真澄全集』/「東日流」の巻(奈良市・太田斉二郎)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・伊勢州は西海道にあった・他(奈良市・水野孝夫)

 


第139話2007/08/19

須知・和知・福知山

 17日は酷暑の中、プリウスをレンタルして天橋立まで往復してきました。250kmを走り、使用したガソリンはわずかに8リットル。プリウスの燃費の良さには驚きです。京都縦貫道を利用して、丹波路を走ったのですが、この地方の地名には「須知」「和知」「福知山」と「チ」のついたものが目立ってあり、以前から気にかかっていました。古代に於いて、丹波地方は「チ」の神様が君臨していた名残ではないでしょうか。「愛知」や「高知」も同様だと思います。神社の祭神などを調べれば何か面白いことがわかるかも知れませんね。(第40話古層の神名「ち」、などをご参照下さい)
   昨日の18日には関西例会がありました。私も久しぶりに発表することができました。内容は次の通りでした。今回も発表者が多く、時間不足でした。

  〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 中国の歴史「夏・殷王朝」について、を話す前に(豊中市・木村賢司)
  2). 『日本書紀』の中の「伊勢王」(奈良市・飯田満麿)
  3). 『上宮聖徳法王帝説』中のもう一つの九州年号(岐阜市・竹内強)
  4). 『三国志』魏書東夷伝から「短里」を考える(神戸市・田次伸也)
  5). 東日流王朝in「真澄全集」(高星丸の巻)(奈良市・太田齊二郎)
  6). 平安時代の「評制」文書
     ─『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』の史料批判─(京都市・古賀達也)
  7). 福井県と石川県の遺跡めぐり(木津町・竹村順弘)
  8). 沖ノ島─九州古墳文化の展開─(生駒市・伊東義彰)
  9). 三人の太后─「間人大后」「倭太后」と百済の「大后」─(相模原市・冨川ケイ子)
  10). 薩夜麻の「冤罪」(川西市・正木裕)

  ○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・和田家文書研究・他(奈良市・水野孝夫)


第114話 2007/01/13

古層の「天神」−埴安命−

 昨日、初めて仕事で大和高田市へ行きました。駅の近くに「天神社」があり、ちょっと驚きました。というのも、天神社は筑前に濃密に分布する神社で、祭神は多くの場合「埴安命(はにやすのみこと)」で、何故、筑前に多いのか以前から気になっていたからでした。奈良県にもいくつか天神社があるようですが、祭神は埴安命ではないようです。したがって、筑前の天神社とはちょっと経緯や性格が異なるようです。
  筑前の天神社は地禄天神(じろくてんじん)という名称や田神社と書く例もあり、元々は田んぼなどの土の神様のようです。埴安命も土の神様です。それが、後に天神社という表記に代わり、菅原道真を祭る天満宮に変化した例もありました(杷木町松末本村の松末天満宮)。
  また、石見神楽の「五神」では埴安大王が中央の土の神様として活躍しています。次の
通りです。(http://www.geocities.jp/kagura_photo/kagura-enmoku-photo.htmlによる Yahoo!ジオシティーズは終了しました)

  春青大王 木で東方甲乙と七十二日の所領
 夏赤大王 火で西方丙丁と七十二日の所領
  秋白大王 金で南方庚辛と七十二日の所領
 冬黒大王 水で北方壬癸と七十二日の所領
 埴安大王 土で中央戌己と七十二日の所領

  ここで思い起こされるのが、第57話で紹介した『佐賀の「中央」碑』との関係です。この「中央神」が何者かが判らなかったのですが、石見神楽の伝承からすれば、埴安命のことかもしれません。そうすると、天孫降臨で滅ぼされた側の神様が埴安命ということになり、埴安命を祭神とする「天神社」が筑前に濃密に分布している理由が説明できます。
 このテーマ、引き続き検討したいと思います。


第80話 2006/06/03

八十神と八十さん

 洛中洛外日記も第80話を迎えることができました。それにちなんで、昨年来研究発表してきた八十神(やそがみ)についてご紹介したいと思います(論文未発表)。
 「古層の神名」(第42話、他)で触れてきましたように、「そ」の神様を捜していたのですが、『古事記』の大国主神話(因幡の白兎説話など)の中に登場する八十神が「そ」の神様ではないかと気づきました。『古事記』では大国主のたくさんのお兄さんたちとして扱われていますが、本来は「そ」の神様である八十神と「ち」の神様であるオオナムチとの出雲・因幡の争奪戦争だったのです。ちなみに、この説話では大国主とはよばれずにオオナムチの名前で八十神と争っています。すなわち金属器以前の時代に起こった「そ」の神様の文明圏と「ち」の神様の文明圏の衝突の伝承が、古事記に大国主神話として盗用されていたのでした。
 それでは八十神の本拠地はどこでしょうか。これもひょんなことから判明しました。わたしの勤務先でのこと。営業部の報告を読んでいたところ、相手先の担当者名に八十(やそ)さんという方のお名前が記されていたのです。西条八十のように名前に八十があるのは知っていましたが、苗字にも八十があったのです。そこで、太田斉二郎さん(本会副代表)にお願いして、電話帳ソフトで八十さんの分布を調べて貰いました。そうしたらなんと、姫路市に集中分布していました。出雲や因幡にはほとんどありません。
 念のため『播磨風土記』を調べたところ、印南郡益気(やけ)の里の斗形(ますがた)山の記事に「石の橋あり。伝えていへらく、上古の時、此の橋天に至り、八十人衆、上り下り往来ひき。故、八十橋といふ。」とここに八十がありました。現在もこの八十橋の伝承地があります。益気(やけ)の里の「や」も八十の「や」と関係ありそうですね。また、揖保川下流には八十大橋もあります。従って、播磨の地には八十が古代から地名などで存在していることから、苗字の八十さんが姫路市に集中分布しているのも偶然の一致とは考えられません。播磨が八十神の本拠地だったのです。
 こうした視点から、先の『古事記』の神話を見直したとき、播磨の八十神と外来勢力であるオオナムチとの出雲・因幡争奪戦という構図が明確に浮かび上がってくるのではないでしょうか。そうするとオオナムチの本拠地はどこでしょうか。それはこれからの研究課題です。


第50話 2005/12/01

「そ」の神・新具蘇姫命(にいぐそひめのみこと)

 「そ」の神様を捜していたら、また冨川ケイ子さん(本会会員、相模原市)からメイルで『延喜式』の式内社に新具蘇姫命(にいぐそひめのみこと)神社があることをお知らせいただきました。所在地は石見の国、島根県大田市川合町ですが、同町には石見国一ノ宮の物部神社もあり、古代より当地の中心地だったことがうかがわれます。
 現代の感覚でいえば、お姫様の名前に「にいぐそ」はないと思いますが、逆にそれだけ古い神名である証拠ではないでしょうか。おそらく、「にいぐそ」とは新しい糞という意味ではなく、新しい「ぐ」の「そ」の神様のように思われます。「ぐ」の意味はわかりませんが、「かぐつち」や「香具山」と共通する「ぐ」という何らかの概念があったのでしょう。
 新具蘇姫命はこの神社にしか祀られていないとのことで、たぶん在地の主神だったと思います。もしかすると石見国を代表する古い神様だった可能性も否定できないと思います。しかも女性の神様ですから、縄文時代にまで遡れるかもしれませんね。そうでなければ、一ノ宮の物部神社の近くで、こんな名前の「そ」の神様が祀られ続けてきた理由がわかりません。わたしのカンでは物部神社よりも古い神様だと思います。さらにいえば、物部神社とも何らかの関係があったのではないかと想像していますが、この点については12月の関西例会で発表することにします。
 「そ」の神様、探せばもっと見つかりそうです


第45話 2005/11/09

古層の神名「くま」

 わたしの故郷、久留米市には神代と書いてクマシロと読む地名があります。クマという音に神という字を当てられていることから、神様のことをクマと呼んでいた時代や人々のあったことがうかがえます。
 地名でも熊本や球磨・千曲・阿武隈・熊毛・熊野などその他多数のクマが見られます。これら全てが神名のクマを意味していたのかは判りませんが、球磨や熊本などは熊襲との関係から、神名のクマの可能性大です。とすれば、熊襲の場合、クマもソも古層の神名となり、これはただならぬ名称ではないでしょうか。記紀では野蛮な未服の民のような扱いを受けていますが、実はより古い由緒有る部族名のように思われます。
 『日本書紀』神功紀には千熊長彦や羽白熊鷲などクマのつく人名が見えます。これらも神名クマに由来していたのではないでしょうか。
 このように考えてみると、球磨川は神様の川となり、熊笹は神様の笹、動物の熊は神様そのもの、ということになるのかも。これも面白そうなテーマです。どなたか本格的に研究されてみてはいかがでしょうか。


第44話 2005/11/08

「そ」の神様・読者からのメイル

 11月6日、名古屋市公会堂で講演をさせていただきました(古田史学の会・東海主催)。終了後の懇親会も含めて楽しい一日でした。テーマは予定していた「九州王朝の近江遷都」の他に、「稲員家系図の紹介」と「古層の神名−出雲神話の史料批判−」を急遽付け加えました。特に「古層の神名−出雲神話の史料批判−」は前々日の金曜日の夜に気づいた問題で、この時初めて発表したものです。
 そして、「そ」の神様について参加者から、「石上神社」のイソノカミも一例ではないかと、貴重な示唆をいただきました。また、帰宅すると何人かの読者の方からメイルが届いており、「そ」の神様について多くの情報が寄せられていました。ありがとうございました。その中から、第9話「明治時代の九州年号研究」で紹介しました冨川ケイ子さん(本会会員・相模原市)からのメイルを転載します。大変参考になる知見です。

古賀達也様
 「洛中洛外日記」楽しく拝読しております。
 ところで、「そ」の神は、延喜式を見ただけでも、「ひめこそ」神社のほかに、「はむこそ」神社、「あまみこそ」神社、「いそ」神社、「をこそ」神社、「そらひこ」神社など、たくさんの「そ」の神がいると思いますが・・・。
 人名では、ヤマトトトヒモモソ姫が著名ですが、そのほかにも孝昭天皇の皇后に世襲足姫(ヨソタラシ)という人がいて、瀛津世襲(オキツヨソ)の妹とあり、崇神紀に蘇那曷叱知(ソナカシチ)、景行紀に神夏礒媛(カムナツソ)、神功紀に葛城襲津彦(ソツヒコ)、推古紀に蘇因高(ソインコウ)、そしてもちろん蘇我氏。変わったところでは、筑前国嶋郡川辺里戸籍の冒頭に、卜部乃母曾(ノモソ)がいました。なお、「続日本紀」(天平11年正月ほか)に「倭武助」という人の「やまとのむそ」という読みが以前から気にかかっています。
冨川ケイ子


第43話 2005/11/07

古層の神名「くい」
 大山咋や三島溝咋など「くい」を持つ神名もあります。地名などにも羽咋・名久井岳・福井・鯉喰などがあります。この神名クイは大陸側にいるクイ族との関係が考えられますが、古代日本列島と大陸との交流が頻繁だった証拠かもしれませんね。
 この神名「くい」についは、古田先生とのちょっとした思い出がありますので、ご紹介しましょう。津軽の和田家文書調査で古田先生とご一緒したとき、車中でクイ神が話題となりました。そのおり、当時サリン事件などで話題となっていた某宗教団体の施設がある上九一色村について、古田先生がこの村名はカミク・イッシキ村ではなく、カミ・クイ・シキ村であり、クイを含んだ地名ではないだろうかと言われました。わたしは、なるほどと思いました。
 これだけの会話でしたが、後は某教団の仏教理解に対するマスコミの反論がお粗末ではないか、というような話題が続いた記憶があります。もともと古田先生は親鸞研究の専門家なので、なかなか説得力のある思想史的考察をわたし一人でお聞きする機会を得ました。
 さて、「ち」「け」「そ」「くい」と古層の神名をテーマとしてきましたが、この件、もう少しお付き合い下さい。

倭(ヰ)人と蝦(クイ)人」(古田武彦講演録 古田史学会報52号)参照


第42話 2005/11/04

古層の神名「そ」

 「ち」や「け」の神様と共に、古田先生は「そ」の神様の存在も提起されています。阿蘇山や浅茅湾(対馬)、木曽などの地名に残っているアソやキソ、熊襲のクマソなどがその例として上げられています。特にアソやアソウの地名は全国に多数有ります。この他にも、「社」の読みにコソがあり、姫社(ヒメコソ)などの例が著名です(『肥前国風土記』)。ちょっと汚い例ですがクソも、この神名に関係ありそうです。
 ただ、この「そ」の神様の場合、「ち」や「け」と異なって、はっきりと「〜ソ」とわかる形で神名に残されていないように思います。もし、あれば教えて下さい。逆に言えば、それだけ古い神様なのかもしれません。
 最後に、この「そ」の神名についても、わたしは面白いアイデアを持っています。それは、日本の古称の一つである扶桑もフソという神名が語源ではないかというアイデアです。古代日本列島の人々がフソと神様を呼んでいたのを中国人が聞いて、扶桑という漢字を当てたのではないでしょうか。ただし、これは論証抜きの全くの思いつきですので、信用しないで聞き流していただいて結構です。


第41話 2005/10/30

古層の神名「け」

 「ち」の神様と同様に、あるいは更に古い神名に「け」の神様があります。これも、古田先生の考察によるものですが、オバケ、モノノケや『東日流外三郡誌』に見える津保化族のツボケも「け」の神様と思われます。「ボケ」とかの罵倒語もこの「け」の神名に由来するのではないでしょうか。すなわち、侵略された側の古い神々が差別され、罵倒語として侵略者の側で使用されるというケースです。もしかすると、ホトケという言葉も仏教伝来時に異国の「陰神」という意味で日本列島側で付けられた名称かもしれませんね。
 この神様を「け」と呼んだのはどのような人々でいつの時代でしょうか。わたしにはひとつのアイデアがあります。まだ、未検証の思いつきに過ぎませんのであまり信用しないでほしいのですが、北部九州で縄文水田を作った人々ではなかったでしょうか。というのも、有名な北部九州の縄文水田に菜畑遺跡(唐津市)と板付遺跡(福岡市博多区)がありますが、どちらもナバタケ、イタヅケと「け」がついています。また、同じく縄文水田の有田七田前遺跡が近隣にある吉武遺跡群(弥生の宮殿や最古の王墓・福岡市早良区)もヨシタケで「け」がついています。
 これらは偶然でしょうか。そうではなく、「け」の神様を地名にもった地域で縄文水田が作られたと考えるべきではないでしょうか。もし、この推測が正しければ、縄文水田の神々は「け」の神様だった。そうならないでしょう


第40話 2005/10/29

古層の神名「ち」

 白川靜さん(立命館大学名誉教授・京都市在住)が字書三部作(『字統』『字訓』『字通』)を十三年半の歳月をかけて完成させたのは、1997年の頃だったと思いますが、本年10月15日の京都市自治記念式典に於いて、名誉市民の称号が贈られました。明治43年生まれの95歳。お元気で何よりです。
 白川さんの字書には古代史の研究でお世話になったことがあります。『史記』に「魑魅(ちみ)を御(ぎょ)す」とありますが、この魑魅とは「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」の魑魅です。古田先生の考えによると、これは『古事記』『日本書紀』の神名に見える「ち」と「み」ではないかということです。
 神様の名前には、イザナミやオオヤマヅミのように「み」を名乗る神様と、ヤマタノオロチ、テナヅチ、アシナヅチ、オオナムチ、ミズチのように「ち」を名乗る神様があり、「ち」が「み」よりも古層の神名であることが、先学の研究により明かとなっています。この「ち」と「み」が魑魅の語源と共通するのではないかということなのです。
 ですから「魑魅を御す」とは東夷の神々とそれを祀る民を服属させたという意味があるのではないかと考えられます。ところが、先の白川さんの研究によれば「御」の本来の字義は「祀る」とのこと。とすれば、「魑魅を御す」とは東夷の神々を祀ったという意味にもとれます。日本列島の神名と思われるものが中国史書に現れるという、面白いテーマではないでしょうか。