国分寺一覧

第1299話 2016/11/19

天武朝(天武14年)国分寺創建説

 本日の「古田史学の会」関西例会はいつも以上にエキサイティングな一日となりました。中でも正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の発表で、天武朝(天武14年)国分寺創建説なるものがあったことを初めて知りました。正木さんの見解では『日本書紀』天武14年条に見える「諸国の家ごとに仏舎を造営せよ」という記事は、34年遡った九州王朝の記事とのことでした。国分寺のなかには創建軒丸瓦が複弁蓮華紋のケースもあり、その場合は天武期の創建とすると瓦の編年ではうまく整合するので、天武期(白鳳時代)における九州王朝の国分寺創建の例もあるのではないかと思いました。なお、正木さんの発表を多元的「国分寺」研究サークルのホームページに投稿するよう要請しました。

 茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の発表は、水城の軍事上の機能として、単に土塁と堀による受け身的な防衛施設にとどまらないとするものでした。このテーマについては茂山さんとのメールや直接の意見交換を交わしてきたこともあり、水城と交差する御笠川をせき止めることが、当時の土木技術で可能だったのか否かという質疑応答が続きました。来月も後編の発表を予定されているとのことで、わたしとは異なる見解ですが、刺激的で勉強になるものでした。

 なお、このテーマについて茂山説に賛成する服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)とわたしとで例会後の二次会・三次会で「場外乱闘」のような論争が続きました。知らない他人が見たら二人がケンカしているのではと心配されたかもしれませんが、関西例会ではよくあることですので、心配ご無用です。
11月例会の発表は次の通りでした。

〔11月度関西例会の内容〕
①「淡海」から「近江」そして「大津」は何時かわったのか(堺市・国沢)
②倭国・日本国考 八世紀初頭の造作(八尾市・服部静尚)
③「水城は水攻めの攻撃装置である」という作業仮説について(上)(吹田市・茂山憲史)
④藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について(川西市・正木裕)
⑤天武の「国分寺創建詔」はなかった -『書紀』天武十四年の「仏舎造営・礼拝供養」記事について-(川西市・正木裕)
⑥『二中歴』細注の「兵乱海賊始起又安居始行」と「阡陌町収始又方始」(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
大阪府立大学「古田史学コーナー」の移転(二階に)・パリ在住会員奥中清三さん寄贈の絵画(「壹」の字をデザイン)を「古田史学コーナー」に展示・千歳市の「まちライブラリー」(国内最大規模の「まちライブラリー」)で「古田史学コーナー」設置の協力・11/26和水町で古代史講演会の案内・11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の案内(久留米大学福岡サテライト)・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について・その他


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。

 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。

 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。

 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。

 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。

 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)


第1178話 2016/05/01

観世音寺式寺院の意義に新説か

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から、次の論文を御紹介いただきました。貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)です。同論文の紹介は多元的「国分寺」研究サークルのホームページに掲載されていますので、ご参照ください。

 日本考古学協会ホームページ掲載の同論文要旨を読むと、観世音寺を天智期の寺院と認識されているような筆致です。通説では観世音寺の造営は7世紀末頃から始まり、8世紀初頭に完成とされてきましたが、わたしは各史料に九州年号「白鳳10年」の造営とする記事があることなどから、670年造営説を唱えてきました(『二中歴』には白鳳年間の造営とある)。高倉さんは太宰府や観世音寺の研究で著名な考古学者ですので、近年ではどのような見解に立たれているのか関心があります。

 同論文が掲載されている『日本考古学』30号が京都市立図書館や府立総合資料館にないようですので、コピー入手の協力要請を研究仲間にお願いしました。読んだら報告します。以下、日本考古学協会ホームページからの一部転載です。

『日本考古学』30号 (2010)
鎮護国家の伽藍配置
貞清 世里・高倉 洋彰
Ⅰ. 観世音寺式伽藍配置の設定
Ⅱ. 観世音寺式伽藍配置をとる寺院
Ⅲ. 分布からみた観世音寺式伽藍記置の特徴
Ⅳ. 東西南北の仏法守護
Ⅴ. 東西南北端に配置された観世音寺式伽藍配置をとる寺院の意義

日本考古学協会の機関紙『日本考古学』30号
貞清世里&高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」
http://archaeology.jp/journal/con30abs.htm


第1165話 2016/04/09

尾張国分寺の多元性

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)の多元的「国分寺」研究に刺激を受けて、尾張国分寺跡についてネット検索してみました。頻繁に出張で訪れる愛知県一宮市には尾張一宮の真清田神社がありますから、国分寺も一宮市にあるのかと思っていたら、南隣の稲沢市にありました。

 ウィキペディアなどの説明では、尾張国分寺跡は金堂・講堂・南大門が一直線上に配置される様式で、塔はその東側に位置しているとのこと。しかも塔と講堂の主軸方位が異なっており、同時期に造営されたのか疑問がもたれます。
多元的「国分寺」研究における主要な視点には次のようなものがあります。

1.主要伽藍と塔の主軸方位のずれの有無。
2.出土瓦の編年と『続日本紀』の国分寺建立詔時期のずれ。
3.近隣をはしる古代官道などの方位とのずれ。
4.一国に複数の国分寺の存在。
5.塔の位置が寺域(回廊)の外か内か。

 以上の視点からの検証により、九州王朝による7世紀の国分寺と聖武天皇による8世紀の国分寺との区別を行うという方法が試みられています。皆さんのお近くに国分寺がありましたら、一度、調査していただけないでしょうか。


第1156話 2016/03/26

『肥さんのこの10年〜50代「半ば」の仕事』

 「古田史学の会」会員の肥沼さんから『肥さんのこの10年〜50代「半ば」の仕事』が送られてきましたので、ご紹介いたします。肥沼さんとは、多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げて、共同研究しています。以下、肥沼さんのブログからの転載です。

 肥さんのこの10年〜50代「半ば」の仕事

 上記のミニガリ本を作ったので,お知らせしておく。
 最近『歴史地理教育』誌に書かせてもらったので,それを収録して仮説や古田史学の資料集とした。
 内容を説明すると,以下のようなものだ。
(1) 肥さん年図
(2) これまで書いた「論文」たち
(3) 「私の授業の工夫」(「くわ」1月号掲載)
(4) 小川洋著『空 見上げて』の書評(『たの授』11月号掲載)
(5) 「仮説実験授業の《世界の国ぐに》と立体教材「GDPボックス」」(『歴史地理教育』2月号掲載)
(6) 「国分寺」はなかった!
(7) 多元的「国分寺」論に有利な事象
(8) 12弁の菊花紋は,九州王朝の家紋か?
(9) 「12弁の菊花紋」無紋銀銭の出土地
(10) 日本古代ハイウェーは,九州王朝の作った軍用道路か?
 付録 (国分寺の塔が,回廊の「内」か「外」かのグラフ)


第1137話 2016/02/11

『古田史学会報』132号のご紹介

『古田史学会報』132号が発行されましたので、ご紹介します。西条市の今井さんの力作が掲載されています。「古田史学の会」会員の肥沼孝治さんが今井稿をホームページ“多元的「国分寺」研究サークル”で要領よく紹介されていますので、転載させていただきます。なお、掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』132号の内容
○『日本書紀』に引用された「漢籍」と九州王朝 川西市 正木裕
○伊予国分寺と白鳳瓦 -最初に国分寺制度を作ったのは誰か(伊予国分寺出土の白鳳瓦を巡って)- 西条市 今井 久
○「皇極」と「斉明」についての一考察 -古田先生を偲びつつ-  松山市 合田洋一
○追憶・古田武彦先生(2)
池田大作氏の書評「批判と研究」 古田史学の会・代表 古賀達也
○古田武彦先生追悼会の報告 八尾市 服部静尚
○二〇一五年の回顧と年頭のご挨拶  古田史学の会・代表 古賀達也
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

【転載】「今井久さんの論文から学ぶ」 肥沼孝治

今井久さんの論文から学ぶために,「見出し」の書き出しをしてみる。つまり「構成」から学ぼうというワケである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一.「国分寺建立」は聖武天皇が始めた,その実態の検討
イ.「国分寺」創建の詔の寺の「名称」
ロ.聖武天皇の詔の前にすでに国分寺が存在している事を示す記録があること
ハ.『続日本紀』は詔勅の「金光明寺・法華寺」の寺名を抹消した

二.聖武天皇の詔の前に全国に国が統制する寺院が存在
イ.「詔」以前の文献にあらわれる国分寺と推定される寺院の存在
ロ.聖武天皇の詔の百年前.七世紀に寺院数が激増
ハ.九州地方には左記の初期寺院が,小田富士雄氏に仍って列挙されている

三.国分寺遺跡出土の遺構・遺物が示す疑問点
1.国分寺遺跡出土の伽藍配置が大きく二つにわかれている(塔が回廊内か回廊外か。前者が古式)
2.全国の国分寺遺跡から出土する国分寺の伽藍配置が分裂(古式からは白鳳瓦が出土)

四.伊予の国分寺の考察(古式の伽藍配置で白鳳瓦が出土)

五.国分寺制度を最初に創ったのは倭国九州王朝である

六.「国分寺制度創設」を開始した倭国王は誰か

まとめ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なるほど,構成がすっきりしていてわかりやすい。統計的に分類し,しっかりとした結論を導き出している。天国の(もしかしたらご希望だった地獄の)古田先生にも喜んでいただけるのではないかと思った。


第1136話 2016/02/09

一元史観からの多層的「国分寺」の考察

 肥沼孝治さん宮崎宇史さんと立ち上げた多元的「国分寺」研究サークルですが、肥沼さんが開設された同サークルのホームページは順調にアクセス件数が増えているとのこと。

 そのホームページで肥沼さんが梶原義実さんの「国分寺成立の様相」(『考古学ジャーナル』2月号所収)という論文を紹介されました。同論文の存在は宮崎さんから教えていただいていたのですが、わたしはまだ入手できずにいます。

 肥沼さんの紹介によれば、大和朝廷一元史観に立った国分寺研究ですが、一元史観では説明しきれない様々な考古学的知見が記されているとのこと。わたしも同論文を読んだ上で、改めて論評したいと思います。取り急ぎ、肥沼さんによる紹介文を転載させていただきます。多元的「国分寺」研究はいよいよ面白くなってきました。

〔追記〕本稿執筆後に図書館で梶原義実さんの「国分寺成立の様相」を閲覧しました(最新号のためコピー不可)。各地の国分寺遺跡には白鳳時代の瓦が出土していたり、その下層に堀立柱の遺構があるものがあり、古い寺院があった場所に新たに国分寺が建てられたとする説が紹介されています。しかし、梶原さんの結論としてはそれらは7世紀に遡るようなものではないとする見解でした。従って、わたしたちの多元的「国分寺」説とは真っ向から対立する立場のようです。

【ホームページ・多元的「国分寺」研究サークルより転載】
梶原義実さんの「国分寺成立の様相」論文

宮崎さんのアドバイスもあり,
通説のおさらいにと思って買った『考古学ジャーナル』2月号。
(たった30数ページなのに薄いのに,1700円もする!)
ところが,それに掲載されていた上記の論文がとても刺激的なので,
このサイトで紹介しようと思った次第である。
もちろん通説の立場であるから,九州王朝なんて言葉は出てこないが,
しかしそれだからこそ,「雑念」が入らず読めるのではないかと。

(1)小田富士雄氏によると,西海道の国分寺には,
国分寺の造営にあたって大宰府の影響がきわめて大きかったと論じた。

(2)山崎信二氏は,平城京と国分寺との瓦の同はん関係は,
いまだに確認されていないと指摘した。

(3)1970年台以降,とくに80年代から90年代にかけて,
武蔵・上総・下総・上野・下野など,関東地方の国分二寺を中心に,
伽藍の中枢域(伽藍地)ばかりでなく,周辺域(寺院地)も含めた
広域的な調査がおこなわれるようになった。
須田勉氏は,それらの調査を受け,関東地方の多くの国分寺の造営計画について,
方位の異なる2時期の遺構が検出されることに注目した。(上総国分寺の伽藍変遷図)
さらに造営においては金堂より塔が先行する例が多いこと,
本格的な礎石建の伽藍の下層に,掘立柱建物の遺構が先行
してみられる例が存在することなどから,国分寺の造営計画に変更があったことを指摘した。

これまで多元的「国分寺」研究サークルが考えてきたことに,
まさにぴったり重なる発掘結果というべきではないだろうか。
しかし,この謎は大和一元史観では解けない。
7世紀末までは九州王朝が,8世紀以降は大和政権が,
我が国を代表する主権国家だったとする多元史観をもってして,
初めて解き得る謎(=歴史的真実)なのではないだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は,朝の忙しい時に入力したもので,電車の中で「これも入れたかった」というものを見つけた。半日立ったが,補足しておきたい。

追伸

(4) 八賀晋氏は,出土瓦について,白鳳期の瓦が一定以上出土する国分寺が多いこと,美濃国分寺などの国分寺の伽藍の下層に,掘立柱建物が確認される事例があることなどを示しつつ,これら古相を示す伽藍配置については,白鳳期以前の氏寺(前身寺院)を改作・拡充整備したものとの見解を著わした。


第1133話 2016/02/03

多元的「国分寺」の考古学

 大阪と東京で古田先生の追悼会・お別れ会が二週連続で続くという1月が過ぎ、ようやく落ち着いて研究に取り組める環境に戻りました。もっとも肥沼孝治さんや宮崎宇史さんと多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げたり、『古代に真実を求めて』の古田先生追悼特集号の追加原稿執筆など、忙しい日々は当分続きそうです。

 国分寺遺跡に7世紀に遡るものがあることが濃厚となっているのですが、昨年末に大阪歴史博物館の考古学者の李陽浩さんにこのことを説明し、7世紀の国分寺遺構と8世紀の遺構との見分け方について意見交換しました。
瓦による編年については地域差が大きく、簡単ではないとの見方で意見が一致しました。そこで古代建築を専門とされている李さんから、塔の心柱の構造から一定の判断が可能と教えていただきました。

 7世紀の五重塔などは心柱が版築基台を掘りこんで埋められた形式だが、8世紀以降は心柱は基台上に乗っている形式が主流になるので、一応の目安になるとのことでした。たしかに7世紀初頭の造営で8世紀初頭に移築されたと考えられる法隆寺の五重塔の心柱は版築基台に埋め込んだ形式です。更に、8世紀の国分寺には七重塔が造営されるが、7世紀前半にはせいぜい五重塔なので、その差も判断材料に使えるのではないかとのことでした。

 伽藍配置などの南北軸の振れの他にも、こうした考古学的判断も多元的「国分寺」研究に役立つように思われます。


第1129話 2016/01/28

多元的「国分寺」研究サークル

       のホームページ開設

 多元的「国分寺」研究サークル(愛称:タブンケン)のメンバーはまだ三人しかいませんが、その内のお一人、肥沼孝治さんがホームページを開設されました。肥沼さんといえば「肥さんの夢ブログ」というご自身のホームページもお持ちで、古田ファンにも人気のブログです。

 まだアクセス件数が少ないためか、検索しにくいそうですが、「洛中洛外日記」で書いた国分寺関係の記事を転載していただいています。これからは書き下ろしの論文も掲載する予定ですので、関心のある方は是非のぞいて見てください。多元的「国分寺」研究サークルへの参加も大歓迎です。特に入会条件などありませんから、ホームページに何かコメントしていただければ勝手にメンバーとなれます。
掲載論文やコメントが増えれば、本として出版することも考えていますので、皆さんのご参加をお待ちしています。


第1128話 2016/01/24

「多元的国分寺」研究サークルを結成

 昨日は東京新聞の小寺勝美さんとお会いし、3時間にわたり対談しました。小寺さんは古田先生の訃報を扱ったコラム記事(邪馬「壹」国の人。東京新聞12月1日付朝刊「こちら編集委員室」)を書かれた方です。とても誠実で正確な内容の記事でしたので、是非お会いしたいと思い、東京での邂逅となりました。

 小寺さんは学生時代に古田先生の著作に出会われたとのことです。佐賀市のご出身で、フクニチ新聞社に勤務された後に東京新聞に入られたとのこと。今春、「古田史学の会」編集の『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)と『古田武彦は死なず』(仮称。『古代に真実を求めて』19集、明石書店)の発刊記念講演の東京開催を検討していますが、そのときに取材を受けることになりました。

 夕方からは埼玉県の肥沼孝治さんと神奈川県の宮崎宇史さんと夕食をご一緒しました。話題は昨年から急進展を見せた「多元的国分寺」論、すなわち九州王朝の多利思北孤による国分寺建立の詔勅が6世紀末頃に出され、その古い国分寺の痕跡が各地に見られるというテーマです。肥沼さんからは近年発見された上野国国分寺の伽藍跡について報告されました。宮崎さんからは橿原市にある「大和国国分寺」の現地調査報告がなされました。わたしからは『聖徳太子伝記』に見える、告貴元年(594)の年に「66国の国府寺建立」記事と、大和と摂津に国分寺が二つあることの論理性(王朝交代における権力中枢地に発生しうる現象であること)について説明しました。

 そして、わたしからの提案で「多元的国分寺」研究サークルを三人で立ち上げ、ホームページの開設と全国の国分寺研究者に「多元的国分寺」研究(略称「多分研」?)への参加を呼びかけることになりました。ホームページが開設されましたら、ご報告します。

 三人の古代史論議は3時間以上に及びました。天気予報では夜から雪になるといわれていましたが、東京は比較的暖かく雪は降りませんでした。わたしは近くのホテルに帰るだけでしたが、お二人は遠くに帰られるので、夜遅くまで引き留めることになって申し訳ないことをしてしまいました。
これから古田先生の追悼会(文京シビックセンター)に向かいます。


第1073話 2015/10/11

四天王寺伽藍方位の西偏

 摂津国分寺の研究のため、大阪歴博2階の「なにわ歴史塾」図書ルームで発掘調査報告を閲覧していたとき、あることに気づきました。難波京の条坊はかなり正確に南北軸と東西軸に一致していますが、その難波京内にある現・四天王寺の主要伽藍の南北軸が真北より5度程度西に振れているのです(目視による)。以前ならほとんど気にもかけなかった「西偏」ですが、最近研究している武蔵国分寺の主要伽藍が真北から7度西偏しているという問題を知りましたので、この四天王寺も真北からやや西偏しているという事実に気づくことができたのです。

 もちろん「西偏」しているのは、現在の四天王寺ですから、この現象が古代の創建時まで遡れるのかは、発掘調査報告書を読んだ限りでは不明です。四天王寺は何度か火災で消失していますから、再建時に同じ方位で設計されたのかがわかりませんから、断定的なことは今のところ言えません。しかし、正確に南北に向いている条坊都市の中の代表的寺院ですから、その条坊にあわせて再建されるのが当然のようにも思われます。

 しかし、次のようなケースも想定可能ではないでしょうか。すなわち、四天王寺(天王寺)が創建された倭京二年(619年、『二中歴』による)にはまだ条坊はできていませんから、天王寺は最初から「西偏」して造営されたのではないでしょうか。その「西偏」が現在までの再建にあたり、踏襲され続けてきたという可能性です。

 もし、そうであれば九州王朝の「聖徳」が難波に天王寺を創建したときは、南北軸を真北から「西偏」させるという設計思想を採用し、その後の白雉元年(652年)に前期難波宮と条坊を造営したときは真北方位を採用したということになります。この設計思想の変化が何によるものかは不明ですが、この現・四天王寺の方位が真北から「西偏」しているという問題をこれからも考えていきたいと思います。


第1072話 2015/10/09

条坊と摂津国分寺推定寺域のずれ

 摂津国分寺跡から7世紀の古い軒丸瓦が出土していたことをご紹介し、これを7世紀初頭の九州王朝による国分寺建立の痕跡ではないかとしましたが、この他にも同寺院跡が7世紀前半まで遡るとする証拠について説明したいと思います。それは、摂津国分寺の推定寺域が難波京条坊(方格地割)とずれているという問題です。

 『摂津国分寺跡発掘調査報告』(2012.2、大阪文化財研究所)によれば、摂津国分寺跡の西側には難波京の南北の中心線である朱雀大路が走り、更にその西側には四天王寺があり、東側には条坊の痕跡「方格地割」が並んでいます。その方格地割の東隣に摂津国分寺跡があり、その推定寺域は約270m四方とされています(11ページ)。ところがその推定寺域が条坊の痕跡「方格地割」とは数10mずれているのです。いわば、摂津国分寺は難波京内にありながら、その条坊道路とは無関係に造営されているのです。これは何を意味するのでしょうか。

 難波京の条坊がいつ頃造営されたのかについては諸説ありますが、聖武天皇の国分寺建立詔以前であるとすることではほぼ一致しています。わたしは前期難波宮造営(652年、九州年号の白雉元年)に伴って条坊も逐次整備造営されたと考えていますが、いずれにしてもこの条坊とは無関係に摂津国分寺の寺域が設定されていることから、難波京の条坊造営以前に摂津国分寺は創建されたとする理解が最も無理のないものと思われます。もし条坊造営以後の8世紀中頃に摂津国分寺が聖武天皇の命により創建されたのであれば、これほど条坊道路とずらして建立する必要性がないからです。既に紹介した7世紀前半頃と思われる軒丸瓦の出土もこの理解(7世紀前半建立)の正当性を示しています。

 したがって摂津国分寺の推定寺域と条坊とのずれという考古学事実は、摂津国分寺が7世紀初頭における九州王朝の国分寺建立命令に基づくものとする多元的国分寺造営説の証拠と考えられるのです。ちなみに、一元史観のなかには、このずれを根拠に朱雀大路東側の条坊は未完成であったとする論者もあるようです。同報告の「第3章 まとめ」には、そのことが次のように記されています。

 「古代における難波朱雀大路の東側の京域整備の状況には、条坊の敷設を積極的に認める説と、これに反対する説があるが、摂津国分寺の推定寺域が、難波京の方格地割とずれていることからも、この問題に話題を投げかけることになった。」(13ページ)

 このように摂津国分寺と条坊とのずれが一元史観では解き難い問題となっているのですが、多元的国分寺造営説によればうまく説明することができます。やはり、この摂津国分寺跡は九州王朝・多利思北孤による7世紀の国分寺と考えてよいのではないでしょうか。