国分寺一覧

第1029話 2015/08/19

「磁北」方位説の学問的意義

 「洛中洛外日記」1027話(2015/08/16)で、武蔵国分寺の方位のぶれ(西へ7度)は「磁北」ではないかとするYさんのご指摘を紹介しました。その後、そのYさんから、「磁北」の角度のずれは場所や時代で変化するため、現在の「磁北」である「西へ7度のずれ」をもって、古代の武蔵国分寺の方位のずれの根拠とすることは不適切であったとのお詫びのメールをいただきました。同様のご指摘を関西在住の会員Sさんからもいただきました。いずれも真摯で丁寧なメールでした。

 いずれのご指摘も真っ当なもので、わたしにとっても認識を前進させるありがたいメールでしたが、学問の方法についても関わる重要な問題を含んでいることから、この「磁北・7度西偏」説ともいうべき仮説の学問的意義や位置づけについて説明したいと思います。

 本テーマのきっかけとなった所沢市の肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)の「武蔵国分寺」の方位が東山道武蔵路や塔の方位とずれているという考古学的事実から、なぜ同一寺院内で塔と金堂等の方位がふれているのか、なぜ7度西にふれているのか、という課題が提起されました。

 そして、多元史観・九州王朝説により説明できる部分と説明が困難な部分があり、中でもなぜ7度西にふれているのかの解明がわたしの中心課題となりました。それは「洛中洛外日記」1021話『「武蔵国分寺」の設計思想』に記した通りです。そして「南北軸から意図的に西にふった主要伽藍の主軸の延長線上に何が見えるのか、9月5日の現地調査で確かめたい」と、現地調査によりその理由を確かめたいと述べました。

 このとき、わたしは西に7度ふれた主要伽藍の主軸の延長線上に信仰の対象となるような、あるいは当地を代表するような「山」やランドマークがあるのではないかと考えていました。そんなときに、関東の会員のYさんから、「7度西偏」は現代の東京の「磁北」のふれと同一とのご指摘をメールでいただき、驚いたのでした。武蔵国分寺主要伽藍のふれが「磁北」で説明できるのではないかとのYさんのご指摘(仮説)に魅力を感じたのです。

 その後、この仮説の当否を検証する学問的方法について次のような問題を検討しました。

1.真北と磁北のふれは、地域や時代によって変化するので、「武蔵国分寺」建立の時代の「磁北」のふれが「7度西偏」であったことをどのように証明できるのか。
2.「磁北」を測定する方位磁石(コンパス)の日本列島への伝来時期と使用時期が古代まで遡ることを、どのように証明できるのか。

 この二点について検討を始め、それは今も継続しています。こうした未検証課題があったため、「もちろん、まだ結論は出せませんが、どのような歴史の真実に遭遇できるのか、ますます楽しみな研究テーマとなってきました。」と「洛中洛外日記」1027話末尾に記したわけです。

 このように、学問研究にとって「仮説」の提起はその進化発展のために重要な意味を持ち、たとえその「仮説」が不十分で不備があり、結果として誤りであったとしても、学問研究にとってはそうした「仮説」の発表は意義を持ちます。

 近年、勃発した「STAP報道」事件(「STAP細胞」事件ではなく、「報道」のあり方が「事件」なのです)のように、匿名によるバッシング、あるいは「権威」やマスコミ権力がよってたかって研究者(弱者)を集団でバッシング(リンチ)するという、とんでもない「バッシング社会」に日本はなってしまいました。これは学問研究にとって大きなマイナスであり、こうした風潮にわたしは反対してきました。(「洛中洛外日記」699話「特許出願と学術論文投稿」700話「学術論文の『画像』切り張りと修正」760話「研究者、受難の時代」をご参照ください。)

 したがって、YさんやSさんの懸念はよく理解できますし、もっともなご指摘でありがたいことですが、それでも「磁北・7度西偏」説の発表は学問的に意義があり、検証すべき仮説と、わたしは考えています。もし、「どこかの誰かが、たまたま7度西にふれた方位で武蔵国分寺を建立したのだろう」で済ませる論者があるとすれば、それこそ学問的ではなく、「思考停止」と言わざるを得ません。それは「学問の敗北」に他なりません。(つづく)


第1027話 2015/08/16

武蔵国分寺の方位は「磁北」か

 「洛中洛外日記」1021話(2015/08/12)で、「武蔵国分寺」の設計思想として、「七重の塔が、傍らを走る東山道武蔵路と平行して南北方位で造営されているにもかかわらず、その後、8世紀末頃に造営されたとする金堂などの主要伽藍が主軸を西に7度ふって造営された理由が不明。」と記したのですが、それを読まれた関東にお住まいのYさん(古田史学の会・会員)から、大変重要なご指摘のメールをいただきました。

 それは、「武蔵国分寺」の金堂などの主要伽藍の方位は「磁北」とのことなのです。Yさんのご指摘によれば、東京の磁北は真北方向より西へ7度ふれているとのことで、「武蔵国分寺」主要伽藍の方位のずれと一致しているのです。これは偶然の一致とは考えにくく、「七重の塔」や東山道武蔵路は真北に主軸を持つ設計ですが、「武蔵国分寺」主要伽藍造営者はそれらとは異なり、「磁北」を主軸として設計したのです。従って、設計の基礎となる基本方位の取り方が、たまたま7度ふれていたのではなく、磁北採用という設計思想が計画的意識的に採用された結果と考えられます。

 古代寺院や宮殿の主軸は天体観測による真北方位(北極星を基点としたと思われます)が採用されているのが「当然」だと今まで考えてきたのですが、Yさんのご指摘を得たことから、「磁北」を採用したものが他にもあるのか、もしあればそれは九州王朝から近畿天皇家への権力交代に基づくものか、あるいは地域的特性なのかなどの諸点を再調査したいと思います。

 読者や会員の皆様のご教導により、多元的「国分寺」建立説の研究も着実に前進しています。もちろん、まだ結論は出せませんが、どのような歴史の真実に遭遇できるのか、ますます楽しみな研究テーマとなってきました。(つづく)


第1026話 2015/08/15

摂津の「国分寺」二説

 「洛中洛外日記」1024話では、大和に二つある「国分寺」を「国分寺」多元説で考察しましたが、同類のケースが摂津国にもあるようです。摂津には九州王朝の副都前期難波宮があることから、九州王朝副都における「国分寺」とは、どのようなものかが気になっていました。そこでインターネットなどで初歩的調査をしたところ、摂津には次の二つの「国分寺」がありました。

 有力説としては、大阪市天王寺区国分町に「国分寺」があったとされています。当地からは奈良時代の古瓦が出土していることと、その地名が根拠とされているようです。しかし、国分寺の近隣にあるべき「摂津国分尼寺」(大阪市東淀川区柴島町「法華寺」が比定地)とは約9km離れており、この点に関しては不自然です。

 もう一つは「長柄国分寺」とも称されている大阪市北区国分寺の「国分寺」です。寺伝では、斉明5年(659年)に道昭が孝徳天皇の長柄豊碕宮旧址に「長柄寺」を建立し、後に聖武天皇により「国分寺」に認められたとあります。ちなみに、この「長柄国分寺」は国分尼寺とは約2.5kmの距離にあり、位置的には天王寺区の「国分寺跡」より穏当です。

 この摂津の二つの「国分寺」も九州王朝説による多元的「国分寺」建立に遠因すると考えてもよいかもしれません。もしそうであれば、上町台地上に「倭京2年(619年)」に「聖徳」により建立された「難波天王寺」(『二中歴』による)に、より近い位置にある天王寺区の「国分寺跡」が九州王朝系「国分寺」であり、北区の「長柄国分寺」は寺伝通り近畿天皇家の「国分寺」と考えることもできます。

 この二つの「摂津国分寺」問題も両寺の考古学編年などを精査のうえ、九州王朝説に基づきその当否を判断する必要があります。(つづく)


第1025話 2015/08/15

九州王朝の「筑紫国分寺」は何処

 「洛中洛外日記」1014話(2015/08/03)において、九州王朝説への「一撃」という表現で、多利思北孤の時代(7世紀初頭)の北部九州に王朝を代表するような寺院遺跡群が見られず、その数でも近畿に及ばないことを指摘しました。この問題は九州王朝説にとって深刻な課題です。

 この課題は「国分寺」多元説に対しても同様の「一撃」となっています。告貴元年(594年)に「聖徳太子」(多利思北孤か)が諸国に国分寺建立を詔したとすれば、この時期は太宰府遷都(倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝は筑後遷宮時代となるのですが、筑後地方に「聖徳太子」創建伝承を持ち、九州王朝を代表するような大型寺院の痕跡を、わたしは知りません。

 現在知られている「筑後国分寺跡」は久留米市にありますが、それは聖武天皇の時代(8世紀中頃)の「国分寺」とされており、九州王朝による「国分寺跡」ではないように思われます。この問題について、九州王朝説論者としてどのように解決するかが、問われています。(つづく)


第1024話 2015/08/14

大和の「国分寺」二説

 「洛中洛外日記」1023話で、「聖武天皇による代表的な国分寺である奈良の東大寺」と記したところ、早速、水野さん(古田史学の会・顧問)や小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からメールをいただきました。中でも小林さんからの次の情報は衝撃的でした。

 「大和国は、橿原市八木にある国分寺がその法灯を伝えていると言うのですが?(昨年12月のハイキングで訪れた)」

 というのも、九州王朝が告貴元年(594年)に「聖徳太子」(多利思北孤か)により「国府(分)寺」建立の詔を発したとしたら、当然のこととして66ヶ国の一つである大和国にも、聖武天皇による東大寺とは別に九州王朝系「国分寺」がなければならないと考えていたからです。そうした疑問を抱いていたときに、なんとタイムリーな小林さんからのメールを見て、衝撃が走ったのです。

 しかも場所が奈良市ではなく橿原市というのも驚きでした。告貴元年頃であれば、近畿天皇家の宮殿(大和国府)は飛鳥にあったはずですから、その「国分寺」も飛鳥にあったのではないかと、論理的考察の結果として考えていたからです。ですから九州王朝系「大和国分寺」が橿原市の国分寺であっても、まったく不思議ではありません。すなわち、「国分寺」建立多元説は大和国にも適用されなければならないからです。

 こうなると、「武蔵国分寺」とともに橿原市の「大和国分寺」の現地調査にも行かなければなりません。特に遺構や出土瓦の編年を調査する必要があります。どなたかご一緒していただけないでしょうか。(つづく)


第1023話 2015/08/14

「国分寺式」伽藍配置の塔

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)からのメールがきっかけとなって勉強を開始した「武蔵国分寺」の多元的建立説ですが、おかげさまでわたしの認識も一歩ずつ深まってきました。お盆休みを利用して、古代寺院建築様式について勉強しているのですが、特に「国分寺式」と呼ばれる伽藍配置について調査しています。

 国分寺は大和朝廷によるものと捉えていたこともあり、この「国分寺式」という伽藍配置のことは知ってはいたのですが、あまり関心もないままでした。今回、あらためて確認したのですが、回廊内に金堂と共に塔を持つ一般的な古代寺院様式とは異なり、「国分寺式」とされる伽藍配置は回廊で繋がっている金堂と中門の東南に塔が位置しています。各地の国分寺がこの伽藍配置を採用していますが、回廊内に塔がある国分寺もあり、全ての国分寺が同一様式ではありません。

 こうした「国分寺式」という視点から「武蔵国分寺」を見たとき、金堂や講堂などの主要伽藍の「東南」方向に「塔」があるという点については、「国分寺式」のようではありますが、「武蔵国分寺」の場合は塔が離れており、方位も異なっていることは何度も指摘してきたとおりです。ですから、位置も離れ方位も異なった主要伽藍と塔をいびつな外郭で囲み、かなり無理して「国分寺式」もどきの寺域を「形成」しているとも言えそうです。

 ちなみに、聖武天皇による代表的な国分寺である奈良の東大寺は、金堂・中門の南側の東と西に塔を有すという伽藍配置で、諸国の国分寺よりは「格が上」という設計思想が明確です。中でも大仏の大きさは、国家意志の象徴的な現れです。(つづく)


第1022話 2015/08/13

告貴元年の「国分寺」建立詔

 「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)において、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の次の「国分寺(国府寺)建立」記事を紹介しました。

「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 そして、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事が九州王朝による「国府(分)寺」建立詔の反映ではないかと指摘しました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 以上の考察は後代史料に基づいたものですが、今回、検討を続けている「武蔵国分寺」についていえば、「七重の塔」の造営を7世紀後半と考えると、告貴元年(594)より半世紀以上遅れてしまいます。そうすると、九州王朝による「武蔵国分寺」建立とする仮説は、文献(史料事実)と遺跡(考古学的事実)とが「不一致」となり、ことはそれほど単純ではなかったのかもしれません。

 もちろん、全国の「国分寺」が一斉に同時期に造営されたとも思えませんから、武蔵国は遅れたという理解もできないことはありません。しかし、そうであっても半世紀以上遅れるというのは、ちょっと無理がありそうです。「武蔵国分寺」の多元的建立説そのものは穏当なものと思われますが、あまり単純に早急に「結論」を急がない方がよさそうです。(つづく)


第1021話 2015/08/12

「武蔵国分寺」の設計思想

 「武蔵国分寺」の異常な伽藍配置は九州王朝による「国分寺」建立多元説によっても説明や理解が難しい問題が残されています。たとえば次のような点です。

1.最初に「七重の塔」が、傍らを走る東山道武蔵路と平行して南北方位で造営されているにもかかわらず、その後、8世紀末頃に造営されたとする金堂などの主要伽藍が主軸を西に7度ふって造営された理由が不明。
2,金堂や講堂などの主要伽藍は回廊内に造営されているが、なぜそのときに回廊内に「塔」も新たに造営されなかったのか不明。
3.既にあった「七重の塔」が立派だったので、回廊内には「塔」を造営しなかったとするのであれば、なぜその立派な「七重の塔」の側に主要伽藍を造営し、共に回廊で囲まなかったのか、その理由が不明。
4.もし「七重の塔」とは無関係に別の国分寺を造営したとするのであれば、南門を含む外郭が主要伽藍から離れた位置にある「七重の塔」の地域をもいびつな四角形(厳密に観察すると四角形ともいえないようです)で囲んだのか不明。

 以上のような疑問だらけの「武蔵国分寺」なのですが、その状況から推測すると、次のような「設計思想」がうかがいしれます。

(A)金堂など主要伽藍造営者は「七重の塔」や東山道武蔵路のような南北方向に主軸を持つ築造物と同一の主軸方位とすることを「拒否」した。「受け入れることはしない」という主張(思想)を自他共に明確にしたかったと考えられる。
(B)それでいながら、回廊内に「塔」は「新築」せず、既に存在していた「七重の塔」を存続、代用した。すなわち、「七重の塔」の「権威」を完全には否定(破壊・移築)できなかった。
(C)その後、「七重の塔」の「権威」を取り込むかのように外郭を定め、その外郭に「南門」を造営した。すなわち、「七重の塔」の「権威」をいびつな外郭で取り込んだ。

 以上、いずれも論理的推測に過ぎませんが、南北軸から意図的に西にふった主要伽藍の主軸の延長線上に何が見えるのか、9月5日の現地調査で確かめたいと思います。なお、現地調査には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)も同行していただけることになりました。楽しみです。(つづく)


第1020話 2015/08/11

「武蔵国分寺跡」の多元性

 武蔵国分寺資料館の「解説」が不可解なものにならざるを得ない主原因はやはり大和朝廷一元史観にありそうです。一元史観であるために次の二つの「呪縛」から逃れられないのです。

呪縛1:建設主体者は一人だけ(近畿天皇家支配下にある当地の有力者)
呪縛2:創建時期は聖武天皇による「国分寺建立」の詔(天平13年、741年)以後

 このため、誰が見ても不可解な伽藍配置の矛盾、すなわち塔(七重)だけが南北方向の方位で、しかも金堂などの主要伽藍から離れた位置に造営されているという遺跡の状況がうまく説明できないのです。しかし、九州王朝による「国分寺」建立という多元史観に立ったとき、次のような理解が可能となります。

1.塔とその他の主要伽藍(金堂・講堂・回廊など)とは異なった時期に異なった権力者により造営された。
2.南北方向に主軸を持つ塔(その西側から発見された「塔2」も)はすぐ側を走る東山道武蔵路と方位を同一としていることから、両者の造営は同一の権力者(九州王朝あるいはその配下の有力者)の意志のもとに行われたと考えられる。
3.東山道武蔵路からは7世紀中頃の須恵器が出土していることから、その造営は7世紀中頃以前にまで遡る可能性がある。
4.東山道武蔵路とほぼ同一方位により造営された塔は東山道造営と同時期か、その後の7世紀後半頃の造営と見なしても問題ない。
5.その塔が文献によれば「七重」という巨大な規模であることを考慮するなら、より「小規模」な塔である法隆寺や四天王寺よりも後の造営と見なしたほうが自然である。このことからも7世紀後半頃の造営とする理解は穏当である。
6.こうした理解が妥当であれば、九州王朝系権力者が塔だけを造営したとは考えにくいことから、塔の周辺に金堂などの主要伽藍が造営されていたのではないか。
7.そうであれば、七重の塔の西側約55mの位置から発見された「塔2」とされた遺構は、この九州王朝時代の主要伽藍の一つではないかとする視点が必要である。
8.同様に、塔と同じくその方位を南北とする国分尼寺(東山道を挟んで国分寺の反対側の西側にある)も九州王朝系のものではないかという可能性をもうかがわせる。

 以上のような作業仮説(思いつき)を論理的に展開できるのですが、ここまでくればあとは現地調査が必要です。そこで、9月6日に開催される『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会の前日の5日に東京に入り、「武蔵国分寺跡」を訪問しようと考えています。関東の会員の皆さんの参加や共同調査を歓迎します。集合場所・時間は下記の通りです。事前にメールなどで参加申し込みをお願いします。(つづく)

「武蔵国分寺跡」現地調査企画
目的:「武蔵国分寺」多元的建立説の当否を確かめる。
集合日時:9月5日(土)12:00
集合場所:JR中央線 国分寺駅改札前
必要経費:タクシー代(割り勘)と武蔵国分寺資料館入館料。気候が良ければ徒歩20分とのことですので、駅から歩くかもしれません。

※ 当日12時に集合した後、駅付近で昼食をとり、その後に資料館・遺跡へ向かいたいと思います。
当日の夜は国分寺市内のホテルでの宿泊を検討しています。お時間のある方は夕食もご一緒しませんか。


第1019話 2015/08/10

「武蔵国分寺跡」の不可解

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた「武蔵国分寺」の不思議な遺構について、調査検討を進めています。今回、特に参考になったのが国分寺市のホームページ中の武蔵国分寺資料館のコーナーでした。その中のコンテンツ「武蔵国分寺の建立」(武蔵国分寺資料館解説シートNo.4)によれば、次のように創建過程を解説されています。

 まず、「3種の区画の変遷があったことなどがわかりました。」として、次のように記されています。

区画1:塔を中心とした真北から約7度西に傾く伽藍
区画2:区画1の西側の溝を埋め、中心を西へ200m移動させ西へ範囲を拡大、尼寺の区画も整備
区画3:寺院地区画を東山道まで延長する拡充整備

 以上のように区画の段階を示し、次のように造営時期の編年をされています。

創建期(8世紀中頃〜)
国分寺建立の詔によって造営が開始される時期
○区画1の寺院地が定められ、中心付近に塔を造立

僧・尼寺創建期(〜8世紀末)
僧・尼寺の主要な建築物が造られる時期
○区画2もしくは区画3で、僧・尼寺の創建期および僧尼寺造寺計画の変更
○区画2もしくは区画3で、造寺事業完了

整備拡充期(9世紀代)
承和12年(845)を上限とする整備拡充期で、塔が再建されるもっとも整備されていた時期
(以下、省略します)

 以上のような解説がなされているのですが、わたしには不可解極まりない説明に見えます。それは次のような点です。

疑問1.武蔵国分寺の塔は回廊の外側(東側)にある。普通、塔は金堂や講堂などと共に回廊内にあるものである。
疑問2.区画1の説明として「塔を中心とした真北から約7度西に傾く伽藍」とあるが、その中心に建てられた塔はほぼ南北方向に主軸を持ち、その西隣に近年発見された「塔2」も同様に南北方向であり、その方位は「真北から約7度西に傾く伽藍」配置との整合性が無い。
疑問3.寺院建立にあたり、最初に「塔」を造営するというのも不自然である。しかも、金堂とは別に回廊の外側に方位も異なって造営したりするだろうか。
疑問4,仮にこの順番と編年が正しいとした場合、塔を造営してから50年近く後に、金堂などの主要伽藍が造営されるというのも奇妙である。普通、金堂と塔は同時期に造るものではないのか。

 ざっと読んだだけでもこれだけの疑問点が出てきます。失礼ながら同資料館の「解説」は不可解極まりないと言わざるを得ないのです。こうした不思議な状況は、肥沼さんが指摘されたように、九州王朝による多元的「国分寺」建立説という仮説を導入する必要がありそうです。(つづく)


第1018話 2015/08/09

「武蔵国分寺」の多元論

 「洛中洛外日記」1016話で九州王朝の「国分寺」建立説を紹介したところ、読者の方からメールをいただきました。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)からは、『二中歴』に見える経典渡来記事に基づいてのご意見をいただき、メール交信を行いました。その内容については「洛中洛外日記【号外】」で紹介したところです。
所沢市の肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)からは、武蔵国分寺(国分寺市)についての興味深い情報が寄せられました。その概要は、武蔵国分寺の遺構の主軸が近くを通っていた古代官道「東山道武蔵路」の方位(ほぼ南北方向)とずれているが、塔の礎石だけは「東山道武蔵路」とほぼ方位が一致しているというのです。

 肥沼さんの研究によれば「東山道武蔵路」は九州王朝により造営されたものであり、その方位とずれている武蔵国分寺の主要伽藍と、方位が一致している塔は聖武天皇が建立を命じた8世紀の国分寺と、それに先行した九州王朝による国分寺という多元的「国分寺」建立説により説明できるのではないかという仮説を提起されたのです。

 かなり面白い仮説だと思います。わたしは関東の古代寺院などについてはほとんど知識がありませんので、肥沼さんのメールにはとても驚きました。これから勉強したいと思います。会員や読者からの素早い反応や情報提供はインターネット時代ならではですね。肥沼さん、ありがとうございました。


第1016話 2015/08/05

九州王朝の「国分寺」建立

 最近、服部静尚さんが熱心に研究されている「最勝会」問題に関連して、先日、正木裕さんと服部静尚さんが見えられたとき、九州王朝の「国分寺」建立問題について検討しました。

 国分寺は聖武天皇の命により8世紀に諸国に建立されたものですが、それ以前に九州王朝が「国分寺」を建立したとする説が、わたしの記憶では20年以上前に提起されていたと思います。国家鎮護の法会を営むために諸国に「国分寺」が建立されたと、わたしも考えるのですが、その時期はいつ頃だろうかと正木さんにたずねたところ、「九州王朝により66ヶ国に分国された頃ではないか。分国された諸国の寺だから国分寺という名称になったのではないか。」との見解を述べられました。まことにもっともな意見です。したがって、九州王朝の「国分寺」建立は多利思北孤の時代と考えてもよさそうです。

 各地に「聖徳太子」創建伝承を持つ寺院がありますから、それらを九州王朝「国分寺」の候補として、今後調査研究してみたいと思います。たとえば東近江の石馬寺なども創建当時のものとされる扁額が残っていますから、科学的年代測定が可能です。まずは各地の「聖徳太子」創建伝承寺院の分布図作りから始めてはどうかと思います。どなたか研究していただければ、ありがたいのですが。