先代旧事本紀一覧

第2957話 2023/03/03

『多元』No.174の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.174が届きました。同号には拙稿「『先代旧事本紀』研究の予察 ―筑紫と大和の物部氏―」を掲載していただきました。同稿は〝物部氏は九州王朝の王族ではなかったか〟とする作業仮説に基づき、物部氏系の代表的古典である『先代旧事本紀』の史料批判を試みたものです。とりわけ、『記紀』に記された〝磐井の乱〟での物部麁鹿火の活躍が、なぜ『先代旧事本紀』には記されていないのかに焦点を絞って論じました。まだ初歩的な「予察」レベルの論稿ですが、筑紫物部と大和物部という多元的物部氏の視点が物部氏研究には不可欠であるとしました。本テーマについて引き続き考察を深めたいと考えています。
当号に掲載された新庄宗昭さん(杉並区)の「随想 古代史のサステナビリティ」は、法隆寺五重塔心柱などの年輪年代測定値が間違っているとして訴訟にまで至った事件を紹介し、これをセルロース酸素同位体比年輪年代測定で検証すべきとされており、我が意を得たりと興味深く拝読しました。
というのも、セルロース酸素同位体比年輪年代測定の研究者、中塚武さん(当時、総合地球環境学研究所教授)とは、九州王朝説の是非を巡って論争したことがあり(注①)、「古田史学の会」講演会で同測定法について講演して頂いたこともあったからです(注②)。
更には、奈文研の年輪年代測定値が間違っており、年代によっては史料記載年代よりも百年古く出ているとする鷲崎弘朋説に対して、前期難波宮水利施設出土木材や法隆寺五重塔心柱の年輪年代測定値は妥当とする異論を唱えたこともありました(注③)。
「洛中洛外日記」(注④)でも紹介したことがありますが、セルロース酸素同位体比年輪年代測定とは、次のようなものです。

〝酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。〟

この方法なら原理的に1年単位で木材の年代決定が可能です。新庄さんが言われるように、同測定方法で年輪年代測定値をクロスチェックすべきだと、わたしも思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟
②同「洛中洛外日記」1322話(2017/01/14)〝新春講演会(1/22)で「酸素同位体比測定」解説〟
③同「年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―」『東京古田会ニュース』200号、2021年。
④同「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
同「洛中洛外日記」672話(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟


第2883話 2022/11/27

『先代旧事本紀』研究の予察 (7)

 物部氏系とされる『先代旧事本紀』に物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないことを不思議に思い、研究を続けていますが、次の結論に至りました。『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』の記事を知っていたが採用(転載)しなかったわけですから、磐井と争った物部氏(筑紫の勢力)と近畿の物部氏(麁鹿火)とは別系統の物部氏であった。すなわち〝多元的物部氏伝承〟という歴史理解です。
 この筑紫の物部氏と『日本書紀』の「磐井の乱」記事について、いつの講演会かは失念しましたが、古田先生は次のように言っておられました。

〝『日本書紀』編者が「磐井の乱」記事を継体紀に掲載した理由は、王朝交代時の筑紫を支配していた物部氏は「継体天皇の時代に磐井の乱で活躍した継体臣下の物部氏麁鹿火の末裔である」とする歴史造作の為ではなかったか。〟

 この視点は「多元的物部氏伝承」と通じるものです。更に言えば、『日本書紀』編纂当時の九州には物部氏が君臨していたと古田先生は考えておられたと思られます。そうであれば、当時の九州王朝の王族は物部氏であったことになります。今のところ、ここまで断定する勇気はありませんが、九州王朝説にとって未解決の重要なテーマです。古田学派の研究者による研究の進展を期待しています。


第2872話 2022/11/05

『先代旧事本紀』研究の予察 (6)

物部氏系とされる『先代旧事本紀』に物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないことを不思議に思っていたのですが、改めて同書を読んでみると、他にも不思議なことに気づきました。石上神宮の宝剣「七支刀(しちしとう)」(注①)の記事が見えないのです。物部氏の代表的な神宝の一つと思われる七支刀は『日本書紀』神功紀五二年条に記されています。

〝五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。〟『日本書紀』神功紀五二年条

百済王から遣わされた久氐等が七枝刀や七子鏡などを献じた記事です。「七枝刀」という特異な形状やその銘文(注②)から、百済王が倭王に贈った石上神宮の七支刀のことと思われます。そうであれば、『先代旧事本紀』「天皇本紀」神功皇后条にも七支刀記事があってもよいと思われるのですが、それらしい記事は見当たりません。他方、「大神」や「(石上)神宮」に奉納された剣・刀が「天孫本紀」に見えます。

○「布都主神魂刀」「布都主剣」〔「天孫本紀」宇摩志麻治命〕
○「(大刀千口)裸伴剣。今蔵在石上神寶。」〔「天孫本紀」十市根命〕

古田説(注③)によれば、石上神宮にある七支刀は、泰和四年(369年)に百済王から九州王朝(倭国)の「倭王旨」(当時、筑後に遷宮していた。注④)へ贈られたもので、その後、大和の石上神宮に移されたようです。その七支刀記事が『先代旧事本紀』に見えない理由として、同書編纂者が石上神宮に七支刀があることを知らなかった、あるいは石上神宮にはまだ七支刀がなかったというケースが考えられます。わたしは後者の可能性が高いと思います。『先代旧事本紀』が物部氏系の古典であることから、前者のケースはありにくいのではないでしょうか。この推定が正しければ、七支刀が筑後(九州王朝)から大和(石上神宮)に遷ったのは『先代旧事本紀』が成立した9世紀頃よりも後のことになりそうです。
しかし、『日本書紀』神功紀には百済から七支刀献上記事があり、『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』を読んでいるはずなので、この記事を知っていたが採用(転載)しなかったことにもなります。その理由は、物部麁鹿火の磐井討伐譚が採用されなかったことと関係しているのではないでしょうか。たとえば、『先代旧事本紀』を著した近畿の物部氏と百済伝来の七支刀を護ってきた筑後の物部氏とは別系統の物部氏であった。そして、磐井を伐った物部氏は近畿の物部氏(麁鹿火)とは別の物部氏だったという場合です。すなわち、〝多元的物部氏伝承〟という歴史理解です。(つづく)

(注)
①七支刀は奈良県天理市にある石上神宮の神宝の鉄剣(全長74.8㎝)。金象嵌の銘文を持ち、国宝に指定されている。
②七支刀の銘文は次のように判読されている(諸説あり)。「泰和四年」は東晋の年号で、369年に当たる。
〈表〉泰和四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
〈裏〉先世以来未有此刀 百濟王世□奇生聖晋 故為倭王旨造 傳示後世
③古田武彦『古代史六〇の証言』(駸々堂、1991年)「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
同「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年。
古賀達也「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」『多元』170号、2022年。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2870話 2022/11/03

『先代旧事本紀』研究の予察 (5)

 『先代旧事本紀』に『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えず、その名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」とあるのですが、「帝皇本紀」の継体天皇条には〝磐井の乱〟記事も〝磐井〟という人物も登場しません。今回、『先代旧事本紀』の本格的研究を進めるにあたり、同書を精読したところ、巻十「国造本紀」に〝磐井〟が記されていることに気づきました。
 『先代旧事本紀』巻十の「国造本紀」は他に見えない史料であり、偽作説があっても、「国造本紀」は史料価値が高いとされ、古代史論文にもよく引用されています。同巻冒頭の解説文には「總任國造百四十四國」(注①)とありますが、実際に掲載されているのは「大倭國造」(大和国)から「多褹島造」(種子島)までの百三十五国で、九国が漏れているようです。その百三十二番目の「伊吉島造」(壱岐島)に次の記事がありました。

 「磐余玉穂朝(継体)。伐石井從者新羅海邊人。天津水凝 後 上毛布直造。」『標註 先代旧事紀校本』

 継体天皇の時代に、石井に従う新羅の海辺の人を伐った天津水凝の後裔の上毛布直(カミツケヌノアタヒ)を造(みやっこ)とす、という記事ですが、この「石井」は筑紫国造磐井、「上毛布」は近江毛野臣(『日本書紀』継体紀)と考えられます。『古事記』では「竺紫君石井」と表記されていますから、「国造本紀」のこの記事は『古事記』か『古事記』系史料に依ったものと思われます。

 「この御世に、竺紫君石井、天皇の命に從はずして、多く禮無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき。」『古事記』「継体紀」(注②)

 「国造本紀」の「伊吉島造」記事で注目されるのが、そこにも物部麁鹿火の活躍が記されていないことと、石井に従う新羅の海辺の人を伐った「上毛布直」の名前と姓(かばね)が『日本書紀』の「近江毛野臣」とは異なることです。「直」と「臣」とでは地位が違いますし、「上」と「近江」も地理的に異なっています。どちらが本来の伝承かは今のところ判断できませんが、継体紀の〝磐井の乱〟関連記事は近畿天皇家により改竄・脚色されている可能性が高く、まずは史実かどうかを疑ってかかる方が良いように思います(注③)。
 また、「国造本紀」によれば、石井(磐井)の從者新羅海邊の人と戦った上毛布直が伊吉島造になったとありますが、壱岐島は九州王朝の勢力圏であり、その「伊吉島造」が九州王朝(倭国)の王の敵対勢力であったとは考えにくいのではないでしょうか。従って、「国造本紀」の記事もそのまま歴史事実とするのは危ういと思われます。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)による。
②倉野憲司校注『古事記』ワイド版岩波文庫、1991年。
③継体紀に見える近江毛野臣の記事と磐井の記事が入れ替えられているとする正木裕氏の一連の論稿がある。
 「磐井の冤罪 Ⅰ」『古田史学会報』106号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅱ」『古田史学会報』107号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅲ」『古田史学会報』109号、2012年。
 「磐井の冤罪 Ⅳ」『古田史学会報』110号、2012年。
 「『壹』から始める古田史学・17 「磐井の乱」とは何か(1)」『古田史学会報』151号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・18 「磐井の乱」とは何か(2)」『古田史学会報』152号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・19 「磐井の乱」とは何か(3)」『古田史学会報』153号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・20 磐井の事績」『古田史学会報』154号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・21 磐井没後の九州王朝1」『古田史学会報』155号、2019年。


第2869話 2022/11/02

『先代旧事本紀』研究の予察 (4)

 『先代旧事本紀』は十巻からなり、飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』によれば、その内訳は次の通りです。〈〉内は古賀による概略ですが、正確な表現ではないかもしれません。もっと良い表現があれば、ご教示ください。

〔巻一〕
 神代本紀 〈天地開闢と天譲日天狭霧國譲月國狭霧尊〉
 神代系紀 〈神世七代〉
 陰陽本紀 〈伊弉諾・伊弉冉神話〉
〔巻二〕
 神祇本紀 〈素戔烏尊と天照大神神話〉
〔巻三〕
 天神本紀 〈饒速日降臨と随神〉
〔巻四〕
 地神本紀 〈素戔烏尊と天照大神の裔神・出雲神話〉
〔巻五〕
 天孫本紀 〈物部系の系譜〉
〔巻六〕
 皇孫本紀 〈瓊瓊杵尊の降臨と神武東征説話〉
〔巻七〕
 天皇本紀 〈神武天皇~神功皇后〉
〔巻八〕
 神皇本紀 〈応神天皇~武烈天皇〉
〔巻九〕
 帝皇本紀 〈継体天皇~推古天皇〉
〔巻十〕
 国造本紀 〈各国造の出自・由来〉

 わたしが『先代旧事本紀』を初めて読んだとき、大きな疑問に遭遇しました。物部氏系の古典であるのにもかかわらず、『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないのです。物部麁鹿火の名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」として見え、「此の連公は勾金橋宮御宇天皇(安閑)の御代に大連と為りて、神宮に齋き奉ず」とあります。「帝皇本紀」の継体天皇条には「物部*麁鹿火大連」(「*麁」=「森」「品」のように、「鹿」の字が三つ重なった字体)の名前は見えますが、〝磐井の乱〟記事はありませんし、〝磐井〟という人物も登場しません。
 九州王朝説の視点からすれば、九州王朝の王、筑紫君磐井を討ち取った記念すべき業績である〝磐井の乱〟での物部麁鹿火の活躍が、物部氏系古典とされる『先代旧事本紀』に全く見えないことは何とも理解しがたいことです。『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』を読んでいたはずです。しかし、『古事記』にも『日本書紀』にも記された〝磐井の乱〟と物部麁鹿火の活躍がカットされていることに、九州王朝と物部氏の関係を探るヒントがありそうです。(つづく)


第2868話 2022/11/01

『先代旧事本紀』研究の予察 (3)

 『先代旧事本紀』の成立は平安時代(9世紀頃)とされています。しかし、序文に聖徳太子や蘇我馬子の選録とあることから、偽作とする見解が江戸時代からありました。飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』(注①)の冒頭に付された飯田季治氏による「舊事紀解題」は、この偽作説に対する反論が多くを占めています。その迫力ある筆致の一端を紹介します。

〝試みに思へ。織田豊臣氏の時代より、昭和の今日に及ぶ歴史を編修し、その序に「本書は水戸黄門の撰録せるもの也」と記載し、是れ予が家に蔵する所の珍書也など云ひ誇り、以て世を欺瞞し得べし とする痴漢が奈邊に有らうや……。
 假りにも聖徳太子の著書と思はしめんと計るには、太子が薨去後に於ける事績の如きは、素より悉く之を刪除し、年代に誤差なからしむる位のことは、兒童と雖も辨ふる所の常識である。況んや偽作を敢てする程の人物に於てをやである。卽ち此理を辨へたらんには、「本書の序文は此紀(これ)を編集せし者が、始めよりして記し置けるものには非じ」といふ筋合いを、明らかに悟る事が出來よう。
 然るに貞丈等(注②)は更に此義に思ひ詣らず。その「序文ぐるみ」を以て本書を鑑定し、全篇を悉く偽作也とし、信用すべからざる書也としたのであるから、私は其れを愚論也とし、そして上記の理由に據つて、「本書の序文は後人の加入也」と定むるものである。〟

 わたしはこの飯田季治氏の意見に賛成です。25年ほど前のことですが、和田家文書偽作キャンペーンでの偽作論者の主張が、『先代旧事本紀』偽作説によく似た主張であることを思い出しました。たとえば、明治から昭和にかけての再写文書、書き継ぎ文書である和田家文書に、江戸時代にはない用語、たとえば「○○藩」が使用されているとして、そのことが偽作の根拠だとしていたからです。そこで、「藩」という用語が江戸期の史料にいくらでもあることをわたしは指摘しました(注③)。それに対して、偽作論者からの応答は今日に至るまでありません。こうした経験もあって、わたしは飯田季治氏の激しく反論する論稿を他人事とは思えないのです。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)。
②江戸時代の学者、伊勢貞丈・多田義俊のこと。『先代旧事本紀』の序文は最初からあるものとし、同書を「全編盡く後人の偽作なり。信用すべからざる書也。」(伊勢貞丈著『舊事本紀剥僞』)とした。
③古賀達也「知的犯罪の構造 「偽作」論者の手口をめぐって」『新・古代学』2集、新泉社、1996年。


第2867話 2022/10/31

『先代旧事本紀』研究の予察 (2)

 『先代旧事本紀』研究を始めるにあたり、テキストとして飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』(注①)を採用することにしました。国史大系本『先代旧事本紀』(注②)もあるのですが、両本を比較したところ、前者の底本の方が優れているように思われたので、採用を決めました。
 『標註 先代旧事紀校本』の底本は『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』で、解題には「本書は從來最も善本として世に流布する所の『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本となし、更に之に標注を增訂し、且つ亦た上記の諸本を始め飯田武郷校本、栗田寛校本等を參照し、全巻を審かに校定せるものである。」とあります。国史大系本の底本は「神宮文庫本」で、『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』などで校合したとあります。ちなみに、飯田季治(いいだ・すえはる)氏は『日本書紀通釈』の著者で藤原宮「大宮土壇」説を唱えた飯田武郷氏(いいだ・たけさと。注③)の七男とのことです。
 『先代旧事本紀』江戸期(1644年)版本を国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。同書版本の雰囲気を知る上では参考になり、おすすめです。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)。
②黒板勝美編『国史大系第七 先代旧事本紀』吉川弘文館、1966年。
③古賀達也「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
 同「洛中洛外日記」971話(2015/06/06)〝「天皇号」地名成立過程の考察〟


第2866話 2022/10/30

『先代旧事本紀』研究の予察 (1)

 昨日の「多元の会」のリモート研究会で、「日本に仏教を伝えた僧 ―仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人―」を発表させていただきました。古田史学に入門した35年ほど前の若い頃に書いた拙論(注)に基づいた発表ですが、現在でもその論旨は有効ではないかと思っています。2019年に若干の修正を加えリライトしましたが、新たな知見や研究により修正を続けたいと願っています。
同リモート研究会では、終了後も残った「多元の会」会員の方々と学問研究について意見交換が行われることがあり、わたしもその時間を楽しみにしています。昨日も赤尾恭司さんや鈴木浩さんらと「磐井の乱」について意見交換しました。その中で、岩井を討った物部麁鹿火をはじめとする物部氏研究の必要性を訴えました。
 というのも、九州王朝の王族は物部氏であったと考えられないでしょうかと古田先生におたずねしたことがあり、その可能性もありますとの返答でしたが、先生晩年の頃の会話でしたので、物部氏研究は手つかずのままとなっていました。近年では日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)が物部氏関連の研究を始められたこともあり、わたしも一念発起して、物部氏に関わる代表的古典『先代旧事本紀』を読み直しています。長期にわたる研究になりそうですので、勉強の進捗状況を「洛中洛外日記」で報告することにより、読者からのご指摘・ご教示をいただければと願っています。(つづく)

(注)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第1集、古田史学の会編、1996年。1999年に明石書店から復刻。