海東諸国紀一覧

第419話 2012/05/30

前期難波宮の「戊申年」木簡

 東京に来ています。昨日は足利市に行きましたが、途中で開業後初めて東京スカイツリーを間近で見ました。やはり大きいですね。おそらく、古代の人々が法隆寺や観世音寺の五重の塔を見上げたときも、同じような感慨を抱いたのではないでしょうか。今日はこれから福島市へ向かい、夜は山形市で宿泊予定 です。

 難波宮編年の勉強のために『大阪城址2』(2002、大阪府文化財調査報告研究センター)を読んでいますが、この発掘調査報告書にはわが国最古の紀年銘 木簡である「戊申年」(648)木簡の報告が掲載されています。この木簡の出土が、前期難波宮の時代特定に重要な役割を果たしたことは既に紹介してきたと ころですが、今回その発掘状況と史料性格(何のための木簡か)を詳しく知りたいと思い、大阪市立歴史博物館に行き、同報告を閲覧コピーしました。

 同報告書によれば「戊申年」銘木簡が出土したのは難波宮跡の北西に位置する大阪府警本部で、その谷だった所(7B地区)の地層の「16層」で、「木簡をはじめとする木製品や土器を包含するとともに、花崗岩が集積した状態で検出されている。出土遺物からみて前期難波宮段階の堆積層である。」(12頁)とされています。この花崗岩は化学分析等によって上町台地のものではなく、前期難波宮造営に伴って生駒山・六甲山・滋賀県田上山などから人為的に持ち込まれた とのことです。

 木簡の出土は33点確認されており、その中の「11号木簡」とされているものが「戊申年」銘が記されたものです。この他にも、「王母前」「秦人凡国評」や絵馬も出土しており、大変注目されました。

 これら花崗岩や木簡が出土した「16層」は前期難波宮の時代(整地層ではない)と同時期とされていますが、堆積層ですからその時代の「ゴミ捨て場」のような性格を有しているようです。土器も大量に包含されていますので、その土器編年について積山洋さん(大阪市立歴史博物館学芸員)におたずねしたところ、 「難波3新」で660~670年頃とのことでした。従って、「戊申年」(648)木簡の成立時期よりもずれがあることから、同木簡作成後10~20年たっ て廃棄されたと考えられるとのことでした。積山さんの推測としては、同木簡などは前期難波宮のどこかに保管されていたもので、660~670年頃に廃棄されたのではないかとのことでした。

この積山さんの見解を正木裕さんに話したところ、これは近江遷都と関係しているのではないかとのアイデアが出されました。近江遷都は『海東諸国紀』によれば白鳳元年(661)、『日本書紀』によれば天智6年(667)とされていますが、同木簡廃棄時と同時期です。もしかすると近江遷都にともなって難波宮にあった文物の引っ越しがあり、その時に不要な木簡類が廃棄されたのではないかと想像しています。


第387話 2012/02/20

九州王朝太子殺害記事の正木異説

 第381話で、『海東諸国紀』に「(賢接)三年戊戌(578)、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」(以六斎日被覧経論殺其太子)とい う、九州王朝内での太子殺害事件が記されていることを紹介しました。これに対して、先週の関西例会で正木さんから異論が出されました。
 『聖徳太子伝傳記』(1318年成立)に、「太子七歳戊戌(578)経論被見六斎日殺生禁断」という記事があり、『海東諸国紀』の「以六斎日被覧経論殺 其太子」は、本来「以六斎日、被覧経論、殺生禁断、其太子~」とあったものが、誤写などで「生禁断」が抜け落ち、誤伝したのではないかとされたのです。
 なるほど、これは優れた見解と思われました。正木さんのこの異論は以前の関西例会でも発表されており、確かな史料根拠に基づいたもっともな説と思っているのですが、それにもかかわらず、わたしが第381話で「九州王朝太子殺害記事」として紹介したのには理由がありました。
 一つは、殺生禁断という仏教的にはありふれた記事が、太子殺害記事という重大事件に誤写誤伝されるものだろうか、という点です。二つ目は、この578年 という年は、日本史の中でも著名な「聖徳太子」の時代であり、朝鮮国の公的な書籍といえる『海東諸国紀』の編纂に当たって、太子が殺されたとする、それほ どずさんな誤写、あるいは誤伝史料の採用を行うだろうかという素朴な疑問を払拭できなかったからなのです。
 やはり九州王朝史料に「太子殺害事件」が記されており、後の時代に聖徳太子伝記を編集するときに、殺生禁断記事に書き換えられたという可能性を否定でき ないと思うのです。もちろん、現時点では正木異説も有力と考えており、断定するべきではないとも思っています。引き続き、研究を深めたいと思います。な お、正木さんの異説発表には敬意を払います。学問研究にとって、異論の提起は大切なことですから。


第381話 2012/02/05

九州王朝の太子殺害事件

 今日は京都市長選挙の投票日で、京都御所の東隣にある京極小学校へ妻と二人で投票に行ってきました。京極小学校は娘が通った小学校で、湯川秀樹さんがこの小学校を卒業されたことでも有名です。京都市長選は前回より電子投票になりましたので、集計作業も早く、現職の角川さんの当選がNHK大河ドラマ終了後のニュースで早々と報道されました。
 近代民主国家は平和的に選挙で政権やリーダーの決定・交替が可能ですが、古代社会においては譲位・禅譲とは別に、放伐やクーデター、内乱、内紛など様々 な血なまぐさい交代劇が少なくありません。恐らく九州王朝内部でも近畿天皇家へ列島の代表者が替わるまで、いろんな事件があったはずです。残念ながら九州王朝史書は抹殺され遺されていませんから、その詳細はほとんどわかりませんが、其の断片が諸史料にわずかですが残っています。
 その一つに、九州年号群史料としても有名な『海東諸国紀』があります。同書は1471年に李氏朝鮮で作成された、日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・ 通行を克明に記した史料で、著者は朝鮮の最高の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟(1417~1475)です。
その中に次のような九州王朝内の驚くべき事件が記されているのです。

「(賢接)三年戊戌、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」

 賢稱三年(『海東諸国紀』は「賢接」とする)は敏達七年に当たり、大和朝廷では太子が殺されたなどという物騒な事件は起こっていません。従って、九州年号の賢稱とセットで記されたこの記事も九州王朝内部の事件と見なさざるを得ないのです。
 この記事が事実だとすると、この賢稱三年(578)は九州王朝の輝ける天子多利思北孤即位のほぼ前代に当たり(即位は端政元年〔589〕)、すなわち多利思北孤は正統たる皇位継承者の太子が殺害された結果、即位できた天子となるのです。このことについては拙論「九州王朝の近江遷都 — 『海東諸国紀』の史料批判」(『「九州年号」の研究』に収録)をご参照下さい。
 現時点では、これ以上のことは不明ですが、今後、丹念に諸史料に遺されている九州王朝系記事を精査する事により、失われた九州王朝史の復原が少しずつでも進むことが期待されます。


第227話 2009/09/23

九州王朝の建都遷都と改元

 前期難波宮九州王朝副都説の発見は、様々な問題の発展を促しました。たとえば、前期難波宮建都に伴い、九州年号が白雉に改元(652年)され、焼失により朱鳥改元(686年)された事実に気づいたことにより、九州王朝では建都や遷都に伴って九州年号を改元するという認識が得られたのです。

 このテーマについて、過日、正木裕さん(古田史学の会会員)と拙宅近くの喫茶店で検討を進めました。大宰府建都(おそらく遷都も)が倭京元年(618 年)の可能性が強く、前期難波宮建都により白雉改元、近江遷都は白鳳元年(661年、『海東諸国紀』による)、そして藤原宮遷都の694年12月の翌年が大化元年と、建都遷都と九州年号の改元が偶然とは考えにくいほど「一致」していることについて、正木さんの見解をうかがったところ、それ以外の遷宮時も九州年号が改元されている可能性を指摘されました(たとえば常色元年、647年)。九州王朝の天子が即位時に遷宮し、同時に改元したというもので、この正木さんの指摘は大変興味深いものでした。
 大和朝廷の天皇も多くは即位時に「遷宮」しており、この風習は九州王朝に倣ったものではないかという問題にも発展しそうです。詳しくは正木さんが論文発表を予定されていますので、そちらをご参照いただきたいのですが、九州王朝史復原作業において、九州年号のより深い研究が重要です。正木さんとの「共同研究」はこれからも進めたいと思っています。


第82話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の証言

 1996年に芦屋市から出土した「三壬子年」木簡が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明したのですが(69話72話参照)、今回はこの史料事実がもたらす古代史上の画期性について強調してみたいと思います。

 学問的良心と人間としての平明な論理性を持つ読者の皆さんには、今さらながら言うまでもないことですが、この「元壬子年」木簡が直接的に指し示す肝要の一点は、『日本書紀』の「白雉元年」を庚戌(650年)の年とする記述は誤りで、『二中歴』や『海東諸国紀』等に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(652年)」が歴史的事実であったということです。すなわち、『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのです。「元壬子年」木簡は、まさにこの事を証言しているのです。

 従って、この木簡の「元壬子年」という文字を認めると、今まで論証抜きで偽作扱いされてきた「九州年号」の真実性を認めなければならず、次いでこのような年号を大和朝廷よりも早く公布した王朝の存在を認めなければなりません。さらに、この古代年号群が「九州年号」と呼ばれていた事実から、その公布主体が九州に存在した王朝であることも論理的必然として認めなければならないでしょう。すなわち、古田武彦の九州王朝説は正しかった、通説の大和朝廷一元史観は間違いであった、となるのです。これが、史料事実とそれに基づく人間の平明な論理性の帰結なのですから。

 あなたの周りにおられる大和朝廷一元史観の人に、この平明な論理性を語ってみて下さい。もし、その人が「なるほど、その通りだ」と理解できる人なら、共に真実と学問を語るに足る友人とすることができるでしょう。「それでも、大和朝廷が古代から列島の唯一卓越した代表者のはずだ」「九州年号や九州王朝はなかったはずだ」という人には、静かに首を横に振るしかないでしょう。残念なことに、世の中にはそのような人も少なくないのです。理系と比較して、世界の学問や理性との競争原理がほとんど働かない日本古代史学界など、その最たるものかもしれませんね。


第37話 2005/10/17

九州王朝の近江遷都

 わたしは、「古田史学の会・まつもと」から毎年のようにお呼びいただいて、松本市で講演をしています。そのほかにも、札幌や仙台、東京、大阪、松山、福岡などの各地で講演をしてきましたが、どういうわけか比較的お近くの名古屋では講演をしたことがありませんでした。そんなおり、「古田史学の会・東海」の林俊彦さん(本会全国世話人)より講演依頼をいただきました。というわけで、11月6日(日)に名古屋で講演させていただくことになりました。
 テーマは「九州王朝の近江遷都」。このテーマは、既に論文として『古田史学会報』61号(2004年4月)に発表していますが、その史料根拠を15世紀成立の後代史料『海東諸国紀』においていたこともあり、古田先生からは面白い考えだが、考古学的痕跡などで証明できなければ成立困難と、かなり辛口の批評をいただいていました。そうしたこともあって、以後このテーマを取り扱うことに慎重になっていました。
 そして今回、いよいよこの禁断のテーマに再度挑戦することにしました。名古屋の皆さんに聞いていただき、はたして「九州王朝の近江遷都」説は成立するか否か、ご判断いただきたいと願っています。