日本書紀一覧

第1749話 2018/09/11

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(2)

 飛鳥浄御原宮を太宰府とする服部新説ですが、もしこの仮説が正しければどのような論理展開が可能となるかについて考察してみました。もちろん、わたしは服部新説を是としているわけではありませんが、有力説となる可能性を秘めていますので、より深く考察を進めることは有益です。
 『日本書紀』では飛鳥浄御原宮を天武と持統の宮殿としていますが、その現れ方は奇妙です。天武二年(672)二月条では、「飛鳥浄御原宮に即帝位す」とあるのですが、朱鳥元年(686)七月条には次のような記事があります。

 「戊午(20日)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」

 飛鳥浄御原宮で即位したと記しながら、その宮殿名が付けられたのは14年後というのです。それまでは名無しの宮殿だったのでしょうか。また、朱鳥(阿訶美苔利)の改元により飛鳥浄御原宮と名づけたとありますが、「苔利」と「鳥」の訓読みが同じというだけで、両者の因果関係も説得力がありません。年号に阿訶美苔利という訓があるというのも変な話です。このように不審だらけの記事なのです。
 他方、「飛鳥浄御原令」という名称は『日本書紀』には見えません。天武紀や持統紀には単に「令」と記すだけです。例えば次の通りです。

「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」天武十年(682)二月条
 「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」持統三年(689)六月条
 「四等より以上は、考仕令の依(まま)に、善最・功能、氏姓の大小を以て、量りて冠位授けむ。」持統四年(690)四月条
「諸国司等に詔して曰わく、『凡(おおよ)そ戸籍を造ることは、戸令に依れ』とのたまう。」持統四年(690)九月条

 これらの「令」が飛鳥浄御原令と呼ばれている根拠の一つが『続日本紀』の『大宝律令』制定に関する次の記事です。

 「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条

 「浄御原朝庭」が制定した律令を「准正」して『大宝律令』を作成したとする記事ですが、この「准正」という言葉を巡って、古代史学界では論争が続いてきました。この問題についてはここでは深入りせず、別の機会に触れることにします。
 服部さんの新説「飛鳥浄御原宮=太宰府」によるならば、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥浄御原宮は天武の末年から持統天皇の時代の宮殿となりますから、それに時期的に対応するのは大宰府政庁Ⅱ期の宮殿となります。大宰府政庁Ⅱ期の造営と機能した時期は観世音寺が創建された白鳳10年(670)頃以降と考えられますから、ちょうど天武期から持統期に相当します。
 久冨直子さんが指摘されたように、観世音寺の山号「清水山」の語源が「きよみ」という地名に関係していたとすれば、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿も「きよみはら宮」と呼ばれても不思議ではありません。しかし、この地域が「きよみ」「きよみはら」と呼ばれていた痕跡がありませんので、この点こそ服部新説にとって最大の難関ではないかと、わたしは思っています。(つづく)


第1741話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(4)

 「船王後墓誌」の「阿須迦天皇」を九州王朝の天皇(旧、天子)とする古田説が成立しない決定的理由は、阿須迦天皇の末年とされた辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理とする「正木指摘」でした。
 すなわち、641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。641年やその翌年に九州王朝の天子崩御による改元がなされていないことから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないとされた正木さんの指摘は決定的です。
 この「正木指摘」を意識された古田先生は次のような説明をされました。

 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生は治世が長い天皇の場合、「末年」とあっても没年のことではなく晩年の数年間を「末年(末歳次)」と表記できるとされているわけです。しかし、この解釈も無理であるとわたしは考えています。それは次のような理由からです。

①「『阿須迦天皇の末』という表記から見ると、当天皇の『治世年代』は“永かった”と見られる」とありますが、「末」という字により「治世が永かった」とできる理由が不明です。そのような因果関係が「末」という字にあるとするのであれば、その同時代の用例を示す必要があります。
②「船王後墓誌」には「阿須迦 天皇之末歳次辛丑」とあり、その天皇の末年が辛丑と記されているのですから、辛丑の年(641)をその天皇の末年(没年)とするのが真っ当な文章理解です。
③もし古田説のように「阿須迦天皇」が九州王朝の天皇(旧、天子)であったとすれば、「末歳次辛丑(641)」は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続きますから、仮に命長七年(646)に崩御したとすれば、末年と記された「末歳次辛丑(641)」から更に5年間も「末年」が続いたことになり、これこそ不自然です。
④さらに言えば、もし「末歳次辛丑(641)」が「阿須迦天皇」の没年でなければ、墓誌の当該文章に「末」の字は全く不要です。すなわち、「阿須迦 天皇之歳次辛丑」と記せば、「阿須迦天皇」の在位中の「辛丑」の年であることを過不足なく示せるからです。古田説に従えば、こうした意味もなく不要・不自然で、「没年」との誤解さえ与える「末」の字を記した理由の説明がつかないのです。

 以上のようなことから、「船王後墓誌」に記された天皇名や宮殿名を九州王朝の天子とその宮殿とする無理な解釈よりも、『日本書紀』に記述された舒明天皇の没年と一致する通説の方が妥当と言わざるを得ないのです。(つづく)


第1732話 2018/08/26

『日本書紀』に見える「采女竹良」

 「采女氏塋域碑」に記された、「飛鳥浄原大朝庭の大弁官」で「直大弐」の冠位を持つ「采女竹良卿」の名前は、『日本書紀』にも「采女竹羅」「采女筑羅」として見えます。次の記事です。

○(秋七月)辛未(四日)に、小錦下采女臣竹羅をもて大使とし、當摩公楯をもて小使として、新羅国に遣わす。〈天武十年(681)〉
○(九月)次に直大肆采女朝臣筑羅、内命婦の事を誅(しのびごとたてまつ)る。〈朱鳥元年(686)〉

 天武十年(681)には「小錦下」として遣新羅使の大使に任命され、天武十三年(684)には「朝臣」の姓をもらい、天武崩御の際には「直大肆」として誅しています。没年は不明ですが、「采女氏塋域碑」によれば持統三年己丑(689)までには「直大弐」となり没しているようです。
 このような『日本書紀』の記事を信用する限り、采女竹良が「直大弐」として仕えた「飛鳥浄原大朝庭」とは近畿天皇家のことと考えるほかありません。そうすると那須国造碑にある「永昌元年己丑(689年)」に那須直韋提に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」も近畿天皇家のこととなります。太宰府の「戸籍」木簡に見える同類の冠位「進大弐」を持つ「建ア成」(「ア」は「部」の異体字)も近畿天皇家から叙位されたということになります。
 しかし、ONライン(王朝交代)以前のこの時期において、片方では九州年号が関東から九州まで使用される中、冠位は近畿天皇家が関東から九州まで叙位したということになります。このような理解は果たして正しいのでしょうか。他の可能性は考えられないのでしょうか。(「那須国造碑『永昌元年』の論理(7)」につづく)


第1729話 2018/08/23

那須国造碑「永昌元年」の論理(5)

 那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が唐の影響下にあったため、「永昌元年(689年)」という唐の年号を用いた叙位「任命書」を発行したとするわたしの仮説は、その権力者を九州王朝の天子としても近畿天皇家(持統天皇)としても、それを支持する史料根拠が見当たらず、逆に唐の影響下にはなかったと考えざるを得ないこととなりました。このままではわたしの「思考実験」は袋小路に迷い込んでしまいそうです。そこで、今回は検討の目先を変えて、「追大壹」という冠位について考察を進めてみることにします。

 『日本書紀』によれば「追大壹」という冠位は天武14年(685年)に制定記事があり、48階の33番目に相当します。従って、碑文にある「永昌元年(689年)」の年次と矛盾しません。この点についての『日本書紀』の記述は正確と言えそうです。この冠位48階制度に含まれる「進大弐」が太宰府出土「戸籍」木簡に記されています。更に河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土した「釆女氏榮域碑」(己丑年、689年)にも「直大弐」が見えます。
それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649〜685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記されています。小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664〜685年の期間の位階「大錦上」が記されています。同墓誌に記された紀年「丁丑年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 以上のような史料事実から、「追大壹」(33番目)・「進大弐」(43番目)・「直大弐」(11番目)などの冠位48階制度が7世紀後半の天武・持統期に採用されていたことは疑えず、その範囲が関東(那須)・近畿(河内・大和)・北部九州(筑前国嶋評)の広範囲であることもまた確かです。だとすると、そうした冠位制度が当時の日本列島の統一権力者により施行されていたということになります。これは九州王朝説にとって重要な問題です。なぜなら、関東の那須直韋堤に「追大壹」を叙位した「飛鳥浄御原大宮」の権力者が、太宰府出土木簡に見える「進大弐」を北部九州(筑前国嶋評)在住の人物に叙位したことになるからです。(つづく)

《太宰府出土「戸籍」木簡》

「木簡表側」
嶋評   戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[ ? ]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[ ? ] 川ア里 占ア赤足□□□□[ ? ]
少子之母 占ア真□女   老女の子 得  [ ? ]
穴□ア加奈代 戸 附有

注記:ア=部

「木簡裏側」
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建   [ ? ]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[ ? ]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女   丁女 同里□[ ? ]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[ ? ]

 (□=判読不能文字、 [ ? ]=破損で欠如)

《釆女氏榮域碑》※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。

飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。


第1725話 2018/08/20

那須国造碑「永昌元年」の論理(1)

 「古田史学の会・関西」の八月例会で谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)から、那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年、永昌は唐の年号)の「追大壹」叙位記事は『日本書紀』持統四年四月条(690年)の叙位記事しかその付近に対応記事がないことから、那須国造碑の紀年と持統紀の紀年には一年のずれがあるとする仮説が発表されました。
 確かに茨城県坂東市(旧・岩井市)出土「大化五子年」(699年)など、7世紀末頃の史料に干支が一年ずれているものがあり、そのことについては拙論(「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』所収)でも論じたことがあります。そうした認識がありましたので、この谷本説も理解できるのですが、そうすると別の問題も発生するため、判断に悩むものでした。
 そこでこの那須国造碑の「永昌元年」「追大壹」を手がかりに、7世紀末の九州王朝から大和朝廷(近畿天皇家)への王朝交代の実相を探るべく論理を展開させてみることにしました。まだ結論は出ていませんから、連載途中で見解が変わるかもしれません。古代史研究における「思考実験」の現在進行形としてご覧いただければ幸いです。(つづく)

《那須国造碑文》
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固


第1712話 2018/07/23

孝徳紀から出現する「封戸」記事

 先日の「古田史学の会」7月度関西例会では、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からの捕鳥部萬(ととりべのよろず)の墓守(塚元家・岸和田市)訪問報告の他にも、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な研究発表がありました。「天武五年の封戸入れ替え」です。『日本書紀』に見える「封戸」関連記事に着目されたもので、『日本書紀』天武五年条に見える「封戸入れ替え」記事はこの時期としては不自然であり、約30年遡った孝徳期の頃の事績を天武紀に転載されたとする仮説です。
 「封戸(ふこ)」とは古代における官人や貴族への俸禄制度で、与えられた封戸からの税収(食封)が官人らへの俸禄とされます。従って、公地公民制と律令制を前提として成り立つ制度です。
 服部さんの発表の中で特に重要と感じたことは、『日本書紀』で封戸記事が現れるのが孝徳紀からという史料事実の指摘でした。孝徳期(7世紀中頃)は九州王朝(倭国)が全国に評制を施行した時期であり、そのことと『日本書紀』に封戸記事が孝徳紀から現れることは無関係ではないと考えられます。中央集権的評制により、諸国の国宰・評督の任命や派遣が九州王朝によりなされますから、それらの官人の俸禄を封戸制度という「現地調達」で賄ったことになります。このことは、それまで現地の豪族などの支配下にあった「徴税権」が公地公民制と律令の規定により、部分的とは思われますが中央政府に取りあげられることを意味し、中央政府(九州王朝)の強大な権力(軍事力)がなければ成立し得ない制度であることは論を待たないでしょう。
 前期難波宮九州王朝副都説に反対する論者に、7世紀中頃の九州王朝の勢力(評制による全国支配力)を過小に評価する意見もあるようですが、今回、服部さんが指摘された「封戸」問題を見ても、九州王朝説(古田説)に立つ限り、7世紀中頃には九州王朝の全国支配力が最盛期を迎えていたことを疑えません。そうした意味でも服部さんの九州王朝説による「封戸」研究は貴重なものと思われます。


第1709話 2018/07/19

「東山道十五国」の成立時期

 9月1日(土)の『発見された倭京』出版記念東京講演会(東京家政学院大学・千代田三番町キャンパス)に向けて、講演者の準備も着々と進められています。中でも、「九州王朝の古代官道」について講演される肥沼孝治さんと山田春廣さんの講演内容の目次や当日使用されるパワーポイントの画像作成状況が、両氏のブログにリアルタイムで紹介されており、その内容が面白く、ますます講演会が待ち遠しくなってきました。
 特に山田さんが講演される「東山道十五国」(『日本書紀』景行紀55年条)を九州王朝の「東山道」とするテーマは画期的な発見であり、多くの皆さんにお聴きいただきたい研究です。もちろん、まだまだ研究・検証が必要な仮説で、その「東山道十五国」記事がなぜ『日本書紀』景行紀55年条に記されているのかなど重要な課題も残されています。この点については、山田さんご自身も「『東山道十五國』の比定」(『発見された倭京』所収)の末尾で次のように述べられています。

 「また、『古事記』にはない“以彦狭嶋王、拝『東山道十五國』都督”記事がなぜ『日本書紀』景行紀にあるのかも未解明です。これらは今後の研究に委ねたいと思います。」(145頁)

 『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。

 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」

 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。
 九州王朝の「東山道十五国」の成立が7世紀中頃では逆にちょっと遅いような気もしますが、景行天皇の時代とするのか孝徳天皇の時代とするのか、引き続き検討したいと思います。


第1707話 2018/07/17

大化改元の真実と改元の論理

 「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』)において、わたしは所功さんが編集された『日本年号史大事典』(雄山閣)の「大化建元」とする次の記事を批判しました。

 「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、五四頁)

 このように大和朝廷最初の年号制定を意味する「建元」が「大化」年号とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と記されていました。しかし、『日本書紀』に見える「大化」年号制定記事は次の二ヶ所で、いずれも「建元」ではなく、「改めて」「改元」と表記されています。すなわち「大化」は「改元」とされているのです。

 「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする」(孝徳天皇即位前紀)
 「皇后(皇極天皇)、天皇位に即(つ)く。改元する。四年六月に天萬豊日天皇(孝徳天皇)に讓位し、天豊財重日足姫天皇曰皇祖母尊と稱す。」(斉明天皇即位前期)

 「建元」とは、ある王朝が初めて年号を建てることを意味し、その後に年号を改めることを「改元」といいます。すなわち、近畿天皇家は自らの史書で「大化」は改元であり、近畿天皇家にとっての最初の年号は「大宝」(建元)と主張しているのです。
 所さんは旧著『日本年号史大事典』では“「大化」建元”とされていたのですが、新著『元号 年号から読み解く日本史』では、どうしたことか「大化」について「建元」という表現を用心深く避けておられます。例えば次のような表現に変更されているのです。

 「改新の先駆け『大化』創建」(55頁)
 「日本で初めての公年号『大化』が創建された意味は、きわめて大きい。」(56頁)
 「この『大化』が、日本で最初の公年号だとみなされている。」(57頁)
 「『大化』という公年号を初めて定めたのである。」(58頁)
 「前述の『大化』は代始(天皇の代替わり初め)による改元の初例」(60頁)

 このように「大化」に対して「建元」という表記に代えて、「創建」「最初の公年号」「改元の初例」という表現を使用されています。恐らく、新著で「大宝」を正しく「建元」とされたため、旧著のように「大化」に対して「建元」を使用することの矛盾に気づかれたものと思われます。しかし、ある王朝が「最初公年号」を「創建」することを「建元」というのであり、新著での表記変更によっても、『日本書紀』の「大化改元」記事と『続日本紀』の「大宝建元」記事が近畿天皇家一元史観では説明できないことがますます露呈したと言わざるを得ません。(つづく)


第1655話 2018/04/20

天智五年(666)の高麗使来倭

 「洛中洛外日記」1627、1629、1630話(2018/03/13-18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1〜3)」で、水城築造年が『日本書紀』の記事通り、白村江戦後の天智三年(664)で問題ないとする見解について説明しましたが、このことを支持すると思われる天智五年(666)の高麗遣使来倭記事について紹介します。
 水城築造を白村江戦の前とする説の論拠は、白村江戦後に唐軍の進駐により軍事制圧された状況下で水城など築造できないとするものでした。わたしは唐軍二千人の筑紫進駐は『日本書紀』によれば天智八年(669)以降のことであり、『日本書紀』の水城築造記事がある天智三年段階では筑紫は唐軍の筑紫進駐以前で、水城築造は可能としました。この理解を支持するもう一つの記事が、『日本書紀』天智五年(666)条に見える高麗使(高句麗使)の来倭記事です。
 『日本書紀』天智五年(666)条に次のような「高麗(高句麗)」から倭国に来た使者の記事が見えます。

 「高麗、前部能婁等を遣(まだ)して、調進する。」(正月十一日)
 「高麗の前部能婁等帰る。」(六月四日)
 「高麗、臣乙相菴ス等を遣して、調進する。」(十月二六日)

 これらの高麗(高句麗)使は、当時、唐との敵対関係にあった高句麗が倭国との関係強化を目指して派遣したと理解されています。というのも、この年(乾封元年)の六月に、唐は高句麗遠征を開始しています。従って、倭国が唐軍の制圧下にあったのであれば、高句麗使が倭国に支援を求めて来るばすはなく、また無事に帰国できることも考えられません。
 こうした高句麗使来倭記事は、少なくとも天智五年(666)時点では倭国は唐軍の制圧下にはなかったことを示しています。


第1653話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(3)

 天智のように遠縁の男系「血統」と直近の皇女という「合わせ技」で即位した先例が『日本書紀』には見えます。第26代の継体です。『日本書紀』によれば継体は応神から五代後の子孫とされています。

 「男大迹天皇は、誉田天皇の五世の孫、彦主人王の子なり。」(継躰紀即位前紀)

 このように誉田天皇(応神天皇)の子孫であるとは記されていますが、父親より先の先祖の名前が記紀ともに記されていません。男系で近畿天皇家と「血統」が繋がっていることを具体的に書かなければ説得力がないにもかかわらず記されていないのです。この史料事実を根拠に、継体の出自を疑う説はこれまでにも出されています。
 そして今の福井県三国から紆余曲折を経て、継体(男大迹)は大和に侵入するのですが、臣下の助言を受けて第24代の仁賢の娘、手白香皇女を皇后とします。継体の場合は天智に比べれば遠縁とは言え6代ほどしか離れていませんが、天智は瓊瓊杵尊まで約40代ほどの超遠縁です。ですから、継体の先例はあったものの、周囲の豪族や九州王朝家臣団の支持を取り付けるのには相当の苦労や策略があったことと推察されます。
 ところが『続日本紀』では、天智天皇が定めた不改常典により皇位や権威を継承・保証されているとする宣命が何回も出されています。従って、701年の王朝交替後の近畿天皇家の権威の淵源が、初代の神武でもなく、継体でもなく、壬申の乱の勝者たる天武でもなく、天智天皇にあるとしていることは九州王朝説の視点からも極めて重要なことと思います。
 正木さんから九州王朝系近江朝という新仮説が出されたことにより、こうした男系「血統」問題も含めて、古田学派の研究者による論争や検証が待たれます。(了)


第1652話 2018/04/15

九州王朝系近江朝廷の「血統」論(2)

 天智が「九州王朝の皇女を皇后に迎えても天智の子孫は女系」になると一旦は考えたのですが、よくよく考えてみると、そうではないことに気づきました。
 『日本書紀』によれば、そもそも近畿天皇家の祖先は天孫降臨時の天照大神や瓊瓊杵尊にまで遡るとされ、少なくとも瓊瓊杵尊まで遡れば、近畿天皇家も九州王朝王家と男系で繋がります。歴史事実か否かは別としても、『日本書紀』では自らの出自をそのように主張しています。従って、天智も九州王朝への「血統」的正当性は倭姫王を娶らなくても主張可能なのです。このことに、わたしは今朝気づきました。
 しかし現実的には、瓊瓊杵尊まで遡らなければ男系「血統」が繋がらないという主張では、さすがに周囲への説得力がないと思ったのでしょう。天智の側近たちは「定策禁中(禁中で策を定める)」して、九州王朝の皇女である倭姫王を正妃に迎えることで、遠い遠い男系「血統」と直近の皇女という「合わせ技」で天智を九州王朝系近江朝廷の天皇として即位させたのではないでしょうか。
 この推測が正しければ、『日本書紀』編纂の主目的の一つは、天孫降臨時まで遡れば九州王朝(倭国)の天子の家系と男系により繋がるという近畿天皇家の「血統」証明とも言えそうです。なお、こうした「合わせ技」による「血統」証明の方法には先例がありました。(つづく)


第1649話 2018/04/13

九州王朝「官道」の造営時期

 「古田史学の会」は会誌『発見された倭京 太宰府都城と官道』(明石書店、2018年3月)において、太宰府を起点とした九州王朝「官道」を特集しました。その後、同書執筆者の一人である山田春廣さんが、ご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)において「東山道」の他に「東海道」「北陸道」についての仮説(地図)を発表されました。こうした古田学派研究陣による活発な研究活動に刺激を受けて、わたしも九州王朝「官道」について勉強を続けています。
 中でも九州王朝「官道」の造営時期について検討と調査をおこなっているのですが、とりあえず『日本書紀』にその痕跡がないか精査しています。山田さんが注目され、論文でも展開された景行紀に見える「東山道十五国」も史料痕跡かもしれませんが、そのものずばりの道路を意味する「大道」については次の三つの記事が注目されます。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』孝徳紀白雉4年条(653)

 (B)(C)はいわゆる「難波大道」に関する記事と見なされて論争が続いています。(A)は、仁徳の時代に「京」はないとして、歴史事実とは見なされていないようです。
 わたしたち古田学派としてのアプローチは『日本書紀』のこれらの記事が九州王朝系史料からの転用かどうかという視点での史料批判から始めなければなりませんが、わたしとしては確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかと考えています。すなわち、前期難波宮を九州王朝が副都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えれるからです。また、実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解と思います。
 しかし、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できません。7世紀中頃ではちょっと遅いような気もします。本格的検討はこれからですが、(A)(B)も含めて検討したいと思います。