日本書紀一覧

第1526話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(4)

 白村江戦年次に関する論争の経緯と古田先生の見解の推移についてご紹介してきましたが、最後に現在の研究状況とわたしの見解について説明することにします。
 白村江戦年次に関わる研究や論争が「古田史学の会」関西例会でも行われてきたのですが、それらを踏まえた上で、わたしは『日本書紀』にある通り、663年(天智二年・龍朔三年)でよいと考えています。それは次のような理由からです。

1.白村江戦を記録した現存最古の史料は『日本書紀』(720年成立)であり、この件については最も史料の信頼性が高い。その理由は次の通り。

 ①白村江戦を戦った当事者(九州王朝・倭国)の配下の勢力だった近畿天皇家により編纂されており、白村江戦の記憶も記録も存在していたと考えられる。
 ②もし白村江戦が662年であったとしたら、その記事を663年にずらさなければならない理由が近畿天皇家にはない。
 ③『日本書紀』の一連の記事において白村江戦の年次に不審とすべき点は見あたらない。
 ④白村江戦等で捕虜となった人物(大伴部博麻ら)が、敗戦の30〜40年後に帰国した記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見え、その後に『日本書紀』は成立していることから、こうした帰国者からの情報も近畿天皇家は入手可能である。

2.以上のように、『日本書紀』の白村江戦年次に関する記事を疑わなければならない理由はなく、信頼して良い。比べて海外史書も次のように白村江戦を龍朔三年(663)としている。あるいは年次を特定していない。

 ①『旧唐書』「劉仁軌列伝」(945年成立)には、顯慶五年に始まる、高宗征遼時の仁軌の一連の事績が顯慶五年(660)以下に記され、「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷」とあるが年月は未記載。その次は麟徳二年(665)の封禅の儀における事績を記す。従って、白村江の年次は660〜664年の間であることはわかるが、その間のいずれであるかは特定できない。
 ②『旧唐書』「東夷・百済条」には龍朔二年(662)七月から唐への帰還までの記事中に「仁軌遇扶余豐之衆于白江之口,四戰皆捷」とあり、その次の記事は麟徳二年八月。従って白村江戦の年次は特定できない。
 ③『新唐書』(1060年成立)本紀には龍朔三年(663)に「九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。」とあり、白村江戦を龍朔三年(663)とする。
 ④『三国史記』「新羅本紀」(1145年成立)には「至龍朔三年 總管孫仁師 領兵來救府城 新羅兵馬 亦發同征 行至周留城下 此時 倭國船兵 來助百濟 倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船」とあり、白村江戦は龍朔三年(663)と理解できる。
⑤『三国史記』「百済本紀」には龍朔二年(662)七月以降の記事に「遇倭人白江口 四戰皆克」とある。次の記事は麟徳二年(665)なので、白村江戦の年次を特定できない。

 以上のように、『日本書紀』も海外史料も白村江戦は663年であることを示しており、積極的に662年を指示する、あるいは確定できる史料はありません。ですから、古田先生が662年説から663年説を受容する見解に変わられたこともよく理解できるのです。


第1524話 2017/10/28

白村江戦は662年か663年か(2)

 従来、一元史観の通説でも白村江戦は『日本書紀』の記事などを根拠に天智二年(663)のこととされてきました。ところが古田先生が『旧唐書』百済伝を根拠に662年(龍朔二年)とする説を発表されました。『旧唐書』には白村江戦の記事は本紀には見えず、百済伝に記されているのですが、その倭国・百済と唐・新羅の戦いを記した一連の記事の冒頭に「(龍朔)二年」(662)とあり、その記事の後半部分に白村江戦が記されています。このことから、古田先生は白村江戦の年次を662年とされたのです。
 それに対して丸山晋司さんは、同記事は「(龍朔)二年」から始まってはいるが、その次の記事は麟徳二年(665)であり、龍朔二年に始まる記事全てが龍朔二年内とはできないとされ、『旧唐書』の他の列伝記事(黒歯常之伝など)の記述を根拠に、白村江戦は『日本書紀』と同年の663年であると、古田説を批判されました。以後、古田先生と丸山さんは激しく論争されました。
 両者の見解は対立したままでしたが、古田学派内では古田説を「是」とする意見が多数を占めたように思われ、その傾向が長く続きました。ところが、あるとき古田先生も『旧唐書』百済伝の「(龍朔)二年」に始まる記事が全て同年内とは断定できないが、「龍朔二年」の出来事と見えるように記されているという見解を表明されました。これは事実上、丸山さんの指摘を受け入れたことになるのですが、年次としては662年説を主張されました。
 ところが、その論争から10年近くたった頃と思いますが、突然古田先生は白村江戦の年次を663年と言われるようになりました。驚いたわたしは先生に問い質したところ、『日本書紀』を対象としたテーマでは『日本書紀』の記述通り白村江戦は663年でよいと返答されました。当時、わたしは今一つ先生の言われることを理解できませんでしたが、言われるとおりに『日本書紀』を対象とした論稿では663年とすることにしました。(つづく)


第1523話 2017/10/27

白村江戦は662年か663年か(1)

 10月15日に東京家政学院大学で開催した講演会で、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が唐と倭国が戦った白村江戦の年次を663年とされたことについて、参加者から問い合わせのメールをいただきました。「古田史学の会は白村江戦を663年と認めているのか」という趣旨のご質問でした。
 正木さんからは研究団体である「古田史学の会」が特定の説を「公認」するということはありえず、仮説はそれぞれの研究者が自らの見解として発表するものであると返答をされ、正木さんとしては663年説とのことでした。
 このご質問の背景には、古田先生が『旧唐書』百済伝を根拠に白村江戦を662年とされたことがあり、古田学派としてはその662年説を「是」としてきたとの認識によられたものと思います。このテーマは約30年ほど前から始まった論争ですが、当時やその後の経緯をご存じない方が多数となったようで、改めて月日の流れを感じました。
 わたしは同論争を間近で見てきており、当事者からも直接ご意見を聞いてきました。記憶が不鮮明にならないうちに、この問題の経緯と現在の研究状況についてご説明したいと思います。まず、白村江戦年次についての古田先生の理解や経緯について、わたしは次のように記憶しています。

1.25〜30年ほど以前に、『旧唐書』百済伝を根拠に古田先生は白村江戦を662年(龍朔2年)とされた。
2.丸山晋司さんが、『旧唐書』各伝の史料分析の結果から、古田先生の読解は誤っており、白村江戦を『日本書紀』の記述通り663年(天智2年、唐の龍朔3年)とされ、古田先生との間で論争が発生した。
3.その過程で、丸山さんの主張の一部を事実上認める発言を古田先生がされた。
4.その後、古田先生から『日本書紀』を対象としたテーマでは白村江戦を663年でよいとする発言があった。

 上記の正確な時期については、残された資料を調べてみないと確定できませんが、こうした経緯をわたしは当事者の古田先生や丸山さんから直接聞いてきました。(つづく)


第1480話 2017/08/16

一元史観から見た前期難波宮(4)

 ここまで一元史観の考古学者から見た前期難波宮の評価について説明してきましたが、今回は文献史学の碩学、直木孝次郎さんの見解を紹介します。
 「洛中洛外日記」668話(2014/02/28)「直木孝次郎さんの『前期難波宮』首都説」でも紹介したことがありますが、直木孝次郎著『難波宮と難波津の研究』(吉川弘文館、1994年)では前期難波宮を天武朝の副都ではなく、孝徳朝の首都であると論じられています。直木さんに限らず、近畿天皇家一元史観では、前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」としていますから、前期難波宮は「大和朝廷」の首都と当然のように見なしています。この通説の「前期難波宮」大和朝廷首都説を、直木孝次郎さんはその宮殿の規模・様式を根拠に次のように主張されています。

 「周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八堂に減省したのであろう。(中略)
 首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が「十二の朝堂をもっていた」すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。
 もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。
 前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)
 〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は「従来の東第一堂の北にさらに一堂があることが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった」(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕)という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。」(112頁)

 この直木さんの、十二朝堂を持つ首都に対して、八朝堂の宮殿を副都とみなすという視点は注目されます。このように前期難波宮の巨大さが文献史学の研究者からも注目されていることがわかります。また、前期難波宮を孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と理解したときに避け難く発生する問題についても、直木さんは正直に「告白」されています。「孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれない」とされた箇所です。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったのです。
 近畿天皇家の宮殿の発展史からすると、前期難波宮の存在は説明困難な異常な状況なのです。皇極天皇の比較的小規模な飛鳥の宮から、次代の孝徳天皇がいきなり巨大な朝堂院様式の前期難波宮を造営し、その次の斉明天皇の時代にはまた小規模で朝堂院様式でもない飛鳥の宮に戻るという変遷が説明困難となるのです。そのため直木さんは「長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう」と考古学的根拠が皆無であるにもかかわらず、このような「言い訳」をせざるを得なくなっているのです。(つづく)


第1462話 2017/07/23

『丹哥府志』の古伝承(1)

 「洛中洛外日記」1436話と1437話において、舞鶴市の朝代神社(あさしろじんじゃ)が『丹哥府志』の記録などを根拠に白鳳元年(661)創建であったことを論じました。その「洛中洛外日記」を読まれた京丹後市の森茂夫さん(古田史学の会・会員)から『丹哥府志』に記された興味深い伝承記録についての情報が寄せられましたので、ご紹介します。

 『丹哥府志』「巻之八 加佐郡第一 志楽の庄 小倉村」の項に、河良須神社の勧請が「天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日」とされているのですが、この「九月三日」が先の朝代神社の創建日と同じなのです。『丹哥府志』には朝代神社の創建記事が次のように記されています。

 「田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る」

 ともに白鳳年間の創建であり「九月三日」の日次が同じなのは偶然とは考えにくく、両神社には何か関係があったのではないかと思います。『丹哥府志』の河良須神社の記事は次の通りです。

◎小倉村(市場村の次、若狭街道、古名春日部)
【河良須神社】(延喜式)
社記曰。丹波の国加佐郡春日部村柳原に鎮座ましますは豊受大神宮なり、神名帳に所謂河良須神社是なり、今正一位一宮大明神と稱す、天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日爰に勧請す、明年高市皇子故ありて丹波に遁る、此時柳原の神社へ詣で給ふ時に和歌一首を作る、(後略)

 ここに見える「天智天皇白鳳十年辛未」の表記ですが、九州年号の白鳳十年の干支は庚午で670年に当たります。辛未は天智十年(671)のことであり、『日本書紀』の紀年と九州年号が一年ずれて「合成」された姿を示しています。従って、本来の伝承が九州年号の「白鳳十年」であれば、「天智天皇」「辛未」は後世において『日本書紀』の影響を受けて付加されたものと考えられます。

 「明年高市皇子故ありて丹波に遁る」という伝承も興味深いものです。天智十年の明年であれば「壬申の乱」の年(672)に相当しますから、その年に高市皇子が丹波国に逃れたという伝承が真実か否かはわかりませんが、何らかの歴史事実を反映したものではないでしょうか。なお、ネット検索によると「河良須神社」ではなく「阿良須神社」とあり、森さんから送っていただいた『丹哥府志』活字本の誤植のようです。(つづく)


第1457話 2017/07/15

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(7)

 前期難波宮「天武朝」造営説が考古学からも文献史学からも成立し難いことを説明してきましたが、もし「天武朝」の造営であれば多くの矛盾が噴出します。この矛盾について更に詳述します。
 たとえば藤原宮に持統天皇が694年に遷都したことが『日本書紀』に記されていますが、その造営は天武朝の頃から開始されていたことが出土干支木簡(680年代)から判明しています。ですから、前期難波宮を天武朝の造営とするならば、天武は藤原宮(京)と前期難波宮(京)を同時期に造営していたこととなります。
 ところが、前期難波宮整地層から出土する須恵器は坏Hと坏Gが主流ですが、藤原宮整地層から出土する主流須恵器は坏Bで、明らかに両者の出土土器の様相が異なるのです。相対編年では坏Bが新しく、坏Hが古いとされ、その中間が坏Gです。従って、前期難波宮と藤原宮では整地層出土土器は前期難波宮の方が1〜2様式古いのです。この考古学事実は前期難波宮の造営が藤原宮よりも早いことを示し、仮に1様式の年代差を20年とするのなら、前期難波宮の方が30年ほど古いということになります。従って、藤原宮の造営時期を680年頃とするならば、前期難波宮の造営時期は650年頃となり、それは「孝徳期」に相当します。
 このように、前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式の違いは、前期難波宮「天武朝」造営説を否定するのです。このことをわたしは早くから指摘してきたのですが、「天武朝」造営説論者からの応答はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1454話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(5)

 前期難波宮「天武朝」造営説の根拠とされてきた白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」の基礎データそのものに問題があり、仮説として誤りであることを説明しましたが、考古学だけではなく文献史学の面からも脆弱な仮説であることを指摘してきました。
 それは、「もし前期難波宮を天武が造営したのなら、何故そのことが孝徳紀ではなく天武紀に書かれていないのか」という単純かつ本質的な疑問に答えられないという問題です。この理屈は白石さんの「天智朝」造営説でも同様です。
 『日本書紀』は天武の子供や孫たちにより編纂されており、天武を賞賛することが主目的の一つであることは、天武紀のみを「前編」「後編」に分けて記すという破格の待遇であることからも明らかです。もし、国内初の朝堂院様式でそれまでの王宮よりもはるかに大規模な前期難波宮を天武が造営したのなら、そのことを天武紀には書かずに孝徳紀に書くなどということは考えられないのです。
 孝徳紀には前期難波宮「孝徳朝」造営説の史料根拠とされる次の有名な記事があります。
 「秋九月、宮を造りおわる。その宮殿の状、ことごとくに論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年と同年)
 いうこともできないほどの宮殿が完成したという記事で、まさに前期難波宮完成にふさわしい表現です。おそらく、前期難波宮の造営を記念して九州年号はこの年に常色から白雉に改元され、『日本書紀』白雉元年条(650年)に転用された大々的な白雉改元の儀式が完成間近の前期難波宮で執り行われたと思われます。
 もし、前期難波宮が「天武朝」で造営されたのであれば、なぜ『日本書紀』は先の孝徳紀の記事を天武紀に記さなかったのでしょうか。この問いかけに対しても前期難波宮「天武朝」造営説論者からは応答がありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1422話 2017/06/11

古田史学会報』140号のご案内

『古田史学会報』140号が発行されましたので、ご紹介します。本号には天文学者の谷川清隆さんからご寄稿いただきました。

『日本書紀』の天文関連記事の史料批判により、古代日本に二つの権力集団が存在したとする論稿です。これまでも天文学という視点から古田説を支持する研究を発表されてきた谷川さんの論稿は読者にもご満足いただけるものと思います。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が谷川稿を過不足無く解説されていますので、以下に転載します。

【転載】
《谷川清隆博士の紹介》
谷川氏は現役の天文学者です。

 その天文学者の目で見た古代史研究論文に感銘を受け、無理を言って今回寄稿願いました。

 日本書紀には、漢文の正確性からα群・β群があって、巻によって著者が異なると言う森博達氏の研究が有名ですが、谷川氏はその天文観測記事より、単に著者が違うのではなく、書かれた団体・組織が異なることを発見されたわけです。

 森氏の言うβ群は天群の人々(九州王朝ととっていただくと分かり易い)によって書かれた、α群は地群の人々(近畿天皇家)によって書かれたとなります。

 過去古田説は、谷本茂氏の『周髀算経』からの数学的アプローチによって、又メガース博士の南米における縄文土器発見によって、その都度新しい実証・論証ツールを得てきました。ここに谷川氏によって又強力なツールを得たわけです。(服部静尚)

『古田史学会報』140号の内容
○七世紀、倭の天群のひとびと・地群のひとびと 国立天文台 谷川清隆
○谷川清隆博士の紹介 八尾市 服部静尚
○6月18日(日)井上信正氏「大宰府都城について」講演会・「古田史学の会」会員総会のお知らせ
○前畑土塁と水城の編年研究概要 京都市 古賀達也
○「白鳳年号」は誰の年号か -「古田史学」は一体何処へ行く 松山市 合田洋一
○高麗尺やめませんか 八尾市 服部静尚
○「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上) 川西市 正木 裕
○西村俊一先生を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第1408話 2017/05/30

佐藤論文に見える飛鳥編年の脆弱性

 土器の相対編年(様式変遷)などにより10年単位で暦年(絶対編年)が可能とする飛鳥編年(白石説)が、その根拠とした基礎データや『日本書紀』の暦年記事の信頼性が学問的に脆弱であることを、これまでも繰り返し指摘してきました。たとえば「洛中洛外日記」1387話「服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を」においても、次の服部さんのメッセージを転載しました。

【服部さんのメッセージの転載】
飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。

 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。

 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 ※服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)

 前期難波宮孝徳期造営説に対して飛鳥編年を根拠に批判される論者からは、残念ながらまだ服部説への応答がないようです。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させるとわたしは考えていますので、服部説への真摯なご批判を期待しています。

 前期難波宮造営時期について、飛鳥編年と難波編年の対立が考古学者間でも続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持するに至っていると聞いています。もちろん、学問は「多数決」ではありませんから、その当否・優劣は論証そのものにより決まります。
わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判においても、飛鳥編年を根拠に否定するという論者が見られますが、どちらの編年がより正しいのかが考古学的に論争されてきたのであり、“飛鳥編年によれば難波編年が間違っている”“飛鳥編年によれば660年代となる土器が前期難波宮整地層から出土している”というレベルの批判(循環論法)では、およそ学問論争の体をなしません。
その点、難波編年の妥当性を証明するために、出土「戊申年」木簡(648年)や出土木材の年輪年代測定値(634年)、出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)を根拠(実証)に、孝徳期造営説が妥当としてきた大阪歴博や大阪府埋蔵文化財センターの考古学者の説明(論証)の方が合理的で説得力があります。他方、孝徳期造営説を批判する側からは、自説の根拠となる前期難波宮出土物の理化学的年代測定値の提示(実証)は全くありません。こうした両者の提示した実証や論証を冷静に比較したとき、そこには質・量ともに明確な差があり、従って大多数の考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持していることも当然であり、既に「勝負はついている」と、わたしには思われるのです。
今回、読んだ大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」でも、直接的な表現ではありませんが、随所に飛鳥編年の問題点が指摘されています。たとえば、土器の「法量変化」に関する指摘です。土器の径が時代とともに小さくなることを前提に成立していた飛鳥編年(白石説)に対しては、先に紹介したように服部さんも批判されていますが、佐藤論文にも同様の指摘がなされています。

 「筆者は飛鳥Ⅲを細分する必要性は感じていないが、たしかに飛鳥Ⅱの資料や飛鳥Ⅳの代表例である雷丘東方遺跡SD110などの資料と比べると、後者との様相差がより小さく見える(図4)。その内容としては、飛鳥Ⅲ・Ⅳでは土師器・須恵器ともに坏A・Bが定型化すること、土師器坏Cの器高がこの間に低下していくこと、いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなることなどである。」(8頁)

 わたしは「いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなる」という部分を読み、図4を確認したところ、佐藤さんの指摘通り、より新しく編年されている飛鳥Ⅲ・Ⅳの須恵器の方が飛鳥Ⅱよりもかなり大きいのです。わたしも、土器(主に須恵器)の径は時代が下がるとともに小型化するという飛鳥編年の基本テーゼは信用していましたので、佐藤論文の指摘にとても驚きました。考古学の土器編年を、もっと勉強しなければならないと深く反省しました。


第1407話 2017/05/28

前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致

 大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」を何度も読み返しています。興味深い出土事実や『日本書紀』の記事との関係についての指摘が記されているのですが、次の点は特に重要と思われました。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。
 この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。この考古学的事実こそ、前期難波宮九州王朝副都説に見事に対応しているのではないでしょうか。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波副都は停滞を始めたと思われます。
 わたしはこれまで難波編年の勉強において、土器様式の変遷に注目してきたのですが、佐藤さんは土器の出土量の比較変遷にも着目され、その事実が『日本書紀』の飛鳥地域中心の記述と「不一致」であることを指摘されました。難波を自ら発掘されている考古学者ならではの慧眼と思います。そして佐藤さんが指摘された考古学的出土事実こそ、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と最もよく対応しているのではないでしょうか。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 考古学者ならではの鋭い指摘と言わざるをえません。土器による相対編年以外にも、出土干支木簡や出土木材の年輪年代測定、出土木柱の理化学的年代測定という絶対編年の参考となる「実証」に基づいて難波編年を作り上げてきた大阪の考古学者たちに対して、『日本書紀』孝徳紀の記事を盲信したものと非難する論者もありますが、その非難が失当であることは、この佐藤論文からも明らかと言えるでしょう。


第1398話 2017/05/14

前期難波宮副都説反対論者への問い(3)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 「前期難波宮九州王朝副都説」に反対し、前期難波宮造営を天武期とする意見があるのですが、それでは『日本書紀』天武紀には難波宮(前期難波宮)についてどのような記事があるのかを見てみましょう。難波宮に関係する記事は次の通りです。

①8年11月是月条(679)
 初めて關を龍田山・大坂山に置く。仍(よ)りて難波に羅城を築く。
②11年9月条(682)
 勅したまはく、「今より以後、跪(ひざまづく)禮・匍匐禮、並に止めよ。更に難波朝庭の立禮を用いよ」とのたまふ。
③12年12月条(683)
 又詔して曰はく、「凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都つくらむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」とのたまう。
④朱鳥元年正月条(686)
 乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉(ことごとく)に焚(や)けぬ。或(あるひと)曰はく、「阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べり」といふ。唯し兵庫職のみは焚けず。

 この他に地名としての「難波」が見えるだけで、天武紀には「難波宮」関連記事はそれほど多くはありません。「壬申の乱」平定以後の天武の記事のほとんどが飛鳥が舞台だからです。しかし、これらの記事からわかるように、天武紀は難波宮や難波朝廷が既に存在していることを前提にしています。天武が前期難波宮を造営させたというような記事は皆無です。
 たとえば①の難波に羅城を造営させたという記事は、羅城で守るべき都市の存在が前提です。②の「難波朝廷の立禮」という表現も、自らとは異なる禮法を用いている王朝が難波に先在していたことを意味しています。③の記事は「副都詔」と呼ばれている有名な記事で、この記事を根拠に天武が前期難波宮を造営したとする見解がありますが、二年後の朱鳥元年に前期難波宮は消失しており(④の記事)、そのような短期間での造営は不可能という批判が考古学者からはなされています。しかも前期難波宮からは長期間の存続を示す「修築」の痕跡も出土していることから、孝徳紀にあるように「白雉三年(652)」の造営とする見解が有力です。
 今回、この「洛中洛外日記」を執筆するにあたり、この「副都詔」を精査して、あることに気づきました。それは、今まで岩波『日本書紀』の訳文で記事を理解していたのですが、「先づ難波に都つくらむと欲(おも)う」という訳は不適切で、原文「故先欲都難波」には「つくらむ」という文字がないのです。意訳すれば「先ず、難波に(の)都を欲しい」とでもいうべきものです。
 後段の訳「是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ」も不適切です。原文は「是以百寮者各往請家地」であり、「これを以て、百寮はおのおの往(ゆ)きて家地を請(こ)え」と訳すべきです(西村秀己さんの指摘による)。すなわち、岩波の訳では一元史観のイデオロギーに基づいて、百寮は天皇のところに「まかりて」、家地を天皇から「たまわれ」としているのですが、原文の字義からすれば、百寮は難波に行って(難波の権力者あるいはその代理者に)家地を請求しろと天武は言っていることになるのです。もし、前期難波宮や難波京を天武が造営したのであれば、百寮に「往け」「請え」などと命じる必要はなく、天武自らが飛鳥宮で配給指示すればよいのですから。
 このように、前期難波宮天武期造営説の史料根拠とされてきた副都詔も、実は前期難波宮や難波京は天武が造営したのではなく、支配地でもないことを指し示していたのでした。こうした発見ができるのも、学問論争の成果といえます。(つづく)


第1387話 2017/05/07

服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を

 『日本書紀』等の暦年記事を「是」として土器の相対編年とリンクさせて成立している、いわば一元史観による土器編年である飛鳥編年が、考古学界では不動の通念となっています。それに代わる九州王朝説・多元史観に基づく新たな太宰府土器編年を構築するべく、わたしは鋭意検討を進めています。
 他方、古田学派の中には未だ一元史観に基づく飛鳥編年により、前期難波宮の造営年代を660年以降と見なす論者もおられます。学問研究ですから様々な意見があってもかまわないのですが、飛鳥編年の根拠が脆弱で、基礎データにも誤りがあるとする論文が古田学派内から既に発表されていますので、改めてご紹介しておきたいと思います。
 それは服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)です。服部さんは金属工学がご専門で、データ解析処理なども得意とされています。同論文では飛鳥編年の根拠とされた須恵器の外径の測定値が誤っていることや、サンプル母集団の問題点などが具体的に指摘されています。あわせて『日本書紀』の暦年記事の年代の問題点も古田説など多元史観に基づいて批判もされています。
 同論文に先立ち、服部さんはその研究報告を「古田史学の会・関西例会」でも発表されていました。しかしその後、それに対する賛否も意見もないまま、飛鳥編年を「是」とする意見が出されています。自説への批判を求めた、facebookに寄せられた服部さんのメッセージの一部を転載します。前期難波宮造営時期を660年以降とする論者からの真摯なご批判を期待しています。

【服部さんのメッセージの転載】
 飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。
 白石氏の論考では、①山田寺下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
 氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。
 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)