親鸞一覧

第1703話 2018/07/01

佐藤弘夫『アマテラスの変貌』を再読

 この数日、佐藤弘夫さんの『アマテラスの変貌 -中世神仏交渉史の視座-』(法蔵館、2000年)を再読しています。著者の佐藤さんは東北大学で日本思想史を学ばれ、特に中世思想史・宗教史の分野では多くの業績をあげられている著名な研究者です。その佐藤先生との出会いについて、「洛中洛外日記」1104話(2015/12/10)で触れていますので再掲します。

「佐藤弘夫先生からの追悼文」
 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。
 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」
 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。【以下略】

 今回、佐藤さんの『アマテラスの変貌』を改めて読みはじめたのは、中世における「神仏習合」「本地垂迹」思想について詳しく知りたかったからです。というのも、現在、取り組んでいる太宰府観世音寺研究において精査した「観世音寺古図」に描かれた鳥居に強い興味を抱いたためです。この「古図」が創建時の観世音寺の姿を描いたものであれば、九州王朝の時代に仏教寺院の正門前に鳥居が付設されたこととなり、平安時代後期から盛んになる「本地垂迹」思想の淵源が古代の九州王朝にまで遡るかもしれないのです。
 この「観世音寺古図」の書写は室町時代の大永六年(1526)であることが判明しており、平安時代の観世音寺の姿が描かれているとされています。わたしは更に遡り、部分的には8世紀初頭の「養老絵図」を書写したのではいかと考えていますので、もし鳥居部分がそうであれば、九州王朝の宗教思想を探る手がかりとなるかもしれません。
 こうした九州王朝の宗教思想研究に入るに当たり、まず中世の「神仏習合」「本地垂迹」思想について勉強しておく必要を感じ、その分野の専門家である佐藤さんの著書を書棚から探し出し、再読を始めたものです。(つづく)


第1108話 2015/12/20

『朝日ジャーナル』に家永三郎さんの古田評

 八王子市の前田嘉彦さんから1973年12月21日付『朝日ジャーナル』のコピーが送られてきました。家永三郎さんによる「日本古代史研究に投じた一石」という古田先生著『「邪馬台国」はなかった』の書評のコピーです。それは単なる書評にとどまらず、古田史学の学問の方法にまで踏み込んで論じたものです。さらには、読売新聞紙上で行われた古田先生と東京大学教授の榎一雄さんとの計25回にも及んだ「邪馬台国」論争や、第二著『失われた九州王朝』などでの李進煕さんとの好太王碑論争にも触れておられます。
 家永さんと古田先生とのご縁は深く長いものがあり、わたしが先生からお聞きしただけでも、東北大学での古田先生の卒論査読をされたのが家永さんであり、法蔵館から出版直前に刊行拒否された『親鸞思想』を冨山房から発行できるように尽力されたのも家永さんでした。また、家永さんの「教科書裁判」では古田先生が家永さん側の証人になられました。
 わたしが関わったこととしては、家永さんとの書簡による「聖徳太子論争」が思い出されます。かなり激しい論争となり、一時は家永さんが論争の継続を拒否されるという事態になったこともありました。両者の論争は『市民の古代』別冊として、『聖徳太子論争』(1989年)『法隆寺論争』(1993年)の二冊となって結実しました(新泉社)。
 今頃お二人は天国で論争の続きをされているのでしょうか。


第1104話 2015/12/10

佐藤弘夫先生からの追悼文

 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。

 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」

 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。その佐藤先生からいただいた追悼文を来年1月17日の古田先生追悼講演会でご披露し、『古代に真実を求めて』19集に掲載します。ご期待ください。佐藤先生、立派な追悼文をありがとうございました。


第1089話 2015/11/08

「死んだら地獄に行きたい」

 親鸞は当時としてはかなり長寿で、90歳で没しました(1173〜1262)。これは数え年ですから、満年齢では89歳となり、古田先生も親鸞と同年齢で亡くなられたことに気づきました。もしかすると、古田先生はこの親鸞の没年齢を意識されていたのかもしれません。というのも、KBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録(8月27日)で、米團治さんの質問に対して次のように答えておられるのです。

米團治さん「まだまだ先生、研究を続けられますよね。」
古田先生「まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思います。」

 このとき、古田先生は笑いながら答えておられましたので、冗談とわたしは受け止めていました。
 似たようなお話ですが、近年、古田先生は講演で「死んだら地獄に行きたい」と言われるようになりました。地獄には現世で浮かばれなかった人々、恨みをいだいた人々が行っているはずだから、そうした人々の声こそ聞いてみたいという、先生ならではの学問的好奇心に基づいたロジックと、わたしは受け止めていました。しかし、そう言われる先生の思いは、もっともっと深いところにあったのではないかと考えるようになりました。
 古田先生が「日本人の魂の古典」といわれた、『歎異抄』(親鸞の言葉を弟子の唯円が記したもの)の中に、その「地獄に行きたい」の真意をうかがうヒントがあったのです。その『歎異抄』の中でも、先生のお気に入りだった第二条に次の有名な親鸞の言葉があります。

 「たとい法然聖人にだまされて、念仏して地獄に落ちてしまっても、少しも後悔するはずはないのです。その理由は、ほかの行にはげんでも、仏になる身が、念仏したために地獄に落ちるのでしたら、確かに「聖人にだまされて」という後悔もしましょうが、どんな行もおよびがたい、わたしの身だから、どうあろうと、もう地獄はきまりきったすみかだ。」(古田武彦訳。『人と思想 親鸞』清水書院)

 親鸞が「もう地獄はきまりきったすみかだ。」と言い切った『歎異抄』のこの言葉を、青年の日から晩年まで親鸞研究を続けられた古田先生が「地獄に行きたい」というとき、意識されなかったはずはありません。その親鸞が行った地獄に古田先生は行きたいと言われたのではなかったでしょうか。
 わたしは主に日本古代史を古田先生から学びましたが、おりにふれて親鸞や鎌倉仏教、そして思想史についてもお話をうかがいました。そうした先生の言葉を「洛中洛外日記」などでこれからもご紹介していきたいと思います。

参考 親鸞流罪記録について


第4話 2005/06/18

古田先生の福音書研究

原初的宗教の資料批判 ーートマス福音書と大乗仏教『古代に真実を求めて』第八集

 前話で古田先生が「トマスの福音書」研究のためにコプト語を勉強されていることをご紹介しました。日本古代史や親鸞研究で著名な古田先生が、なぜ急にイエスや福音書研究を始められたのか不思議に思われる人もあるかもしれません。実は、古田先生にとって福音書研究は50年来の課題だったのです。
 1954年、古田先生は「親鸞の歴史的個性の比較史学的考察─対権力者観におけるイエスとの対照─」という論文を書いておられます。それには親鸞とイエスの原初的宗教姓について比較論及し、「社会的背景の著しい差異にもかかわらぬ、いわば『革命的民主的』性格の共有が見られねばならぬ。それぞれの社会的条件の差異に応じたさまざまの曲解や偏曲、さらには衣を新たにした権力者の聖化がそれらの原初的宗教姓を変容せしめてゆくであろうけれども。」と結ばれています。
 そして、1975年に書かれたこの論文の〈補記〉には次のように記されています。
「今のわたしにとってこの論文は『方法上の不満』を蔵している。ここで『ギリシャ語原文』として引用したものは、たかだか活字化されたギリシヤ語本テキスト(ドイツ、シュトットガルト)版にすぎぬ。けれども方法上は当然、本源の最初の古写本にさかのぼり、その紙質や原筆跡の科学的検証がきびしく行われねばならぬ。それによって、右のテキストの信憑性を検証しうるであろう。さらに、イエス伝自体の内包する原資料群の根本的な追跡も、あるいは可能となりうるであろう。」
 と方法上の不満を示され、次のように真情を吐露されています。
「けれども、日本の片隅に住む一介の研究者たるわたしにとって、それはとうてい不可能であった。そこでその可能な場として『親鸞研究の領域』がわたしの眼前に大きく映じてきたのである。」
 1954年といえば、古田先生28才の時。海外になど簡単には行けなかった時代です。青年の日の学問的情熱を今もって燃やし続け、コプト語を若い大学生と机を並べて学ばれている古田先生の姿に、わたしは驚愕せずにはいられないのです。
 なお、「親鸞の歴史的個性の比較史学的考察─対権力者観におけるイエスとの対照─」は『親鸞思想』(冨山房刊。後に明石書店より復刻)に収録されています。

参考
古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想