住吉大社一覧

第3310話 2024/06/25

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (3)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを示す『日本後記』『日本文徳天皇實録』の記事よりも更にはやい、八世紀の史料『住吉大社神代記』があることを谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えて頂きました。『住吉大社神代記』は、わたしも三十年前に研究したことがあり、当時の資料ファイルを書架から引っ張り出しました。わたしが持っている「校訂住吉大社神代記」(注)コピーには、「長柄」地名が記されている部分に傍線を引いていましたので、わたしも注目していたようです。当該部分を引用します。

 「長柄神」〔長柄の神〕
「難波長柄泊賜。膽駒山嶺登座時。」〔難波の長柄に泊り賜ふ。膽駒山の嶺に登り座す時。〕
「自長柄泊登於膽駒峯賜」〔長柄の泊(とまり)より膽駒の嶺に登り賜ひて〕
「長柄船瀬本記
四至(東限高瀬。大庭。南限大江。西限鞆淵。北限川岸。
右。船瀬泊~」〔長柄船瀬の本記 四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川*岸。 右の船瀬泊は~)〕 ※「*岸」は土偏に岸。
「自筑紫難波長柄 仁 依坐 弖」〔筑紫より難波の長柄に依り坐して〕

 『住吉大社神代記』の奥書には「天平三年七月五日」(731年)とあり、この成立年次が正しければ八世紀前半には「長柄」地名があったことになります。しかも、「長柄船瀬本記」に見える長柄船瀬の四至により、長柄船瀬は上町台地の北にあると理解されているようです。脚注に次の説明があります。

○高瀬―和名抄、河内国茨田郡高瀬郷あり。播磨国風土記に「摂津国高瀬之済」とみゆ。行基年譜に「直道一所、高瀬より生馬大山への登道あり」とみえることに注意。
○大庭―河内志、茨田郡に大庭荘・大庭渠あり。
○大江―上町台地の北にそそぐ河内川なるべし。
○鞆淵―摂津志、東生郡に友淵あり。
○川*岸―この川は摂津志西生郡の長柄河(一名中津川)なるべし。

 この脚注が正しければ、長柄船瀬は大阪市北区長柄の地にあったとしてもよいように思いますし、大きくは外れていないのではないでしょうか。(つづく)

(注)田中卓『住吉大社史』上巻「校訂住吉大社神代記」「訓解住吉大社神代記」1963年。


第1339話 2017/02/20

住吉大社「九州王朝常備軍」説と学問研究

 2月の「古田史学の会」関西例会において、原幸子さんから住吉大社は九州王朝の「常備軍」とする仮説が発表されました。わたしも意表を突かれた思いでお聞きしましたが、正確に言うならばまだ作業仮説(思いつき)の段階に留まっている研究です。しかし、わたしは学問研究において、こうしたアイデアや作業仮説が自由に発表され、また自由に論争できる環境こそ「古田史学の会」らしい真の学問研究の場だと確信しています。
 こうした作業仮説の発表に対して、「実証されていない」とか、「古田説と異なる」という「批判」が出されるかもしれませんが、それは学問的態度ではありません。古田先生ご自身も古墳に埋納された多量の武器や甲冑に対して、これを埋納ではなく、古墳を武器庫(軍事施設)としていたのではないかとする作業仮説を発表されたことがありました。この仮説について、わたしは賛成できませんでしたが(地下の石室中では腐食や腐敗が避けられないため)、学問研究ではこうした意見を自由に発表しあえることが重要であり、仮に間違っていたとしても、学問研究の進展に役立つことができることを古田先生から学びました。
 今回の原さんの仮説は『住吉大社神代記』などを根拠にされたもので、「住吉大社は軍事施設」だったと直接記された史料(実証)があるわけではありません。これは「太宰府は九州王朝の都」だと直接記された史料(実証)がないのと同様です。
 しかし、難波に古くから九州王朝の軍事組織があったとするアイデアは九州王朝説の立場からすれば必ずしも不当な考えではありません。また「難波吉士」という不思議な「職名」が古代史料に散見することも、原さんの仮説により説明しやすくなりそうです。この仮説の当否は今後の検討・論争に委ねなければなりませんが、学問研究にとって有益な新視点をもたらす仮説だとわたしは評価します。