史料批判一覧

第3610話 2026/03/19

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (10)

 ―孔子は倭人を知っていた―

 数ある孔子の弟子で、最も多く『論語』に登場するのが子路(名は由)です。『論語』には孔子と弟子との対話が記されており、中でも有名な一節が「公冶長第五」に見える次の記事です。(注①)

○『論語』公冶長第五
〔原文〕子曰、道不行、乘桴浮于海。從我者其由與。子路聞之喜。子曰、由也好勇過我。無所取材。
〔釋文〕子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由かと。子路これを聞きて喜ぶ。子曰く、由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無しと。
〔現代語訳〕先生が言われた。「(今の中華では)道が行われない。筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう(海の向こうの国に行こうか)。私についてくる者は、由であろうか。」子路がそれを聞いて喜んだ。先生は言われた。「由は、武勇を好むことは私以上だ。しかし、筏の材料を得る才能はないな。」

 孔子と血気盛んな子路との師弟間の対話には、孔子の意味深長な二つの認識が示されています。一つは、中原の諸国に仁義を説いてきた孔子をして、「道行われず」と嘆く中華の状況。二つは、「桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」とあるように、海中の国にはその仁義が行われており、筏に乗って行ってみたいものだという認識です。

 この孔子の言葉を深読みすれば、道が行われているのは海の向こうの国だけで、西や南北の国では中華同様に仁義が行われていないと孔子は考えていたのです。そうでなければ、わざわざ筏で海を渡ろうとは言わないはずです。大陸国家の中国ですから、海路よりも陸路の方がはるかに安全で、孔子も陸路の旅行には慣れています。しかしそこにも中華同様に仁義は行われていないので、孔子は筏で海を渡ろうかと子路に語りかけているのです。

 それでは海の向こうの国とはどこでしょうか。それは『論語』子罕第九の次の記事から推定できます。東方の海中にある「九夷」の国です。

○『論語』子罕第九
〔原文〕子欲居九夷、或曰、陋。如之何。子曰、君子居之、何陋之有。〔現代語訳〕孔子は九夷の中で暮らしたいと願った。ある人が「それは野蛮だ。どうしてそんなことができるのか」と尋ねた。孔子は「もし徳のある人(君子)がそこに住むなら、どうして野蛮だと言えるだろうか」と言った。

 ここで孔子は「九夷」に住みたいとまで言っているのです。そしてこの「九夷」とは『爾雅』釋地第九に記された東方の「九夷」、すなわち東夷の国です。

○『爾雅』釋地第九(注②)
〔原文〕九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。
〔釋文〕九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。

 ここには、「東は日が出るところを大平と為し、(中略)大平の人は仁」とあり、東の日出ずるところの「大平」は、儒教の最高の徳目を表す「仁」の人の国とされています。これこそ、孔子が筏で行きたいと願った仁義の国であり、東の海の向こうにある東夷であることを如実に表しているのです。そしてこの東夷の国こそ、『山海経』に記された「蓋國」(朝鮮半島の国)の南にある「倭」に他なりません。

○『山海経』海内北経(注③)
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

 このように『論語』公冶長の孔子の言葉を、『論語』の他の記事や周代史料に基づいて理解すれば、古田先生が「孔子は倭人を知っていた」としたのは、優れた論証の結果であることが明らかなのです。本シリーズ冒頭で國枝稿の論証には賛成できないとした、わたしの見込みは間違ってはいなかったようです。

 最後に國枝浩さんに感謝したいと思います。この度、國枝稿(注④)に触発されて、20年ほど前に古田先生から託されていた周代史料の研究を再開することができました(注⑤)。ありがとうございます。(おわり)

(注)
①原文と釋文は明治書院新釈漢文大系『論語』(1960年)による。現代語訳は古賀による。
②原文は維基文庫(WEB)による。釋文は古賀による。『爾雅』は中国最古の類語・語釈辞典。
③原文は中国哲学書電子化計画(WEB)による。釋文は古賀による。『山海経』は中国最古の地理書。
④國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
⑤『論語』は二倍年暦で書かれているとする論文をわたしが発表したとき、『論語』年齢記事用語の悉皆調査と論証を行い、一冊の本にするようにと古田氏はいわれた。たとえば、平成22年(2010)「八王子セミナー」で次の発言があった。
「二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。」(古田武彦『古田武彦が語る多元史観』ミネルヴァ書房、2014年。66~67頁)

 当時のわたしには氏の期待に応えられるだけの能力はなく、その課題に取り組める環境にもなかった。


第3609話 2026/03/17

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (9)

 ―周代春秋期、『論語』の史料批判―

 周代戦国期の史料『孟子』『繋年』『爾雅』『山海経』の記事を前提として、春秋期成立の『論語』に見える「夷蛮戎狄」記事を考察します。人名に使われた字を除くと、『論語』には次の「夷蛮戎狄」の用例があります(注①)。

❶「八佾 第三」
〔原文〕子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。
〔現代語訳〕夷狄であっても君主がいるのであれば、諸夏(中国)に君主がいないよりはましだ。

❷「子罕 第九」
〔原文〕子欲居九夷、或曰、陋。如之何。子曰、君子居之、何陋之有。
〔現代語訳〕孔子は九夷の中で暮らしたいと願った。ある人が「それは野蛮だ。どうしてそんなことができるのか」と尋ねた。孔子は「もし徳のある人(君子)がそこに住むなら、どうして野蛮だと言えるだろうか」と言った。

❸「子路 第十三」
〔原文〕樊遲問仁。子曰、居處恭、執事敬、與人忠、雖之夷狄、不可棄也。
〔現代語訳〕樊遲(はんち)は仁について問うた。孔子は「礼儀正しく振る舞い、職務に励み、忠誠を尽くせ。夷狄に行っても、これらの徳を捨ててはならない」と言った。

❹「子路 第十三」
〔原文〕子曰、善人教民七年、亦可以即戎矣。
〔現代語訳〕孔子は言った。もし善人が七年間民を教えれば、民を戦争へ赴かせることができる。

❺「衛靈公 第十五」
〔原文〕子張問行。子曰、言忠信、行篤敬、雖蠻貊之邦行矣。言不忠信、行不篤敬、雖州里行乎哉。立則見其參於前也。在輿則見其倚於衡也。夫然後行。子張書諸紳。
〔現代語訳〕子張は行いについて問うた。孔子は言った。「言葉が誠実で信頼でき、行いが真摯で敬意に満ちていれば、蠻貊の邦でも行うことができる。言葉が誠実で信頼できず、行いが真摯で敬意に満ちていなければ、自分の故郷でさえ行うことはできない。立っていれば、自分の前に見え、馬車に乗っているときは、体が横木に寄りかかって見える。そうして初めて行うことができる。」子張はこれを帯に書き留めた。

 以上の通りですが、ここで注目されるのが❷「子罕 第九」の「九夷」です。『爾雅』「釋地第九」にあった「九夷」(注②)の先例が『論語』にあったのです。ですから、この「九夷」は東夷の国です。すなわち、孔子の時代の周代春秋期でも、「夷蛮戎狄」と方角「東西南北」とを結びつけて認識されていたと考えざるを得ません。ただし、その組み合わせが東夷・南蛮・西戎・北狄に固定化する時期については、少し遅れるとは思いますが未詳です。(つづく)

(注)
①『論語』原文は明治書院新釈漢文大系『論語』(1960年)による。現代語訳は古賀による。
②『爾雅』「釋地第九」によれば、「四海」の「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」が東夷・北狄・西戎・南蛮に相当する。


第3608話 2026/03/16

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (8)

 ―周代戦国期の史料批判―

 本シリーズの冒頭(注①)で、國枝稿(注②)について次のように指摘し、自ら周代史料の再検討を行いました。

(ⅰ)前漢代に成立した『史記』などに、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつける記事があるという史料事実は、前漢代の認識を示す史料根拠には使えても、〝周代にそうした認識はなかった〟とする根拠にはできない。
(ⅱ)孔子の認識を確認するためには、『論語』だけではなく、孔子と同時代(春秋期)か、せめてその直後(戦国期)の史料に基づくことが必要である。

 そして、『孟子』の「東夷」「西夷」、精華簡『繋年』の「西戎」、『爾雅』の「九夷」、『山海経』の「倭」などを紹介してきました。ここで一旦立ち止まり、これら周代戦国期の史料が示す夷蛮戎狄とその方角について考察してみます。

❶『孟子』「離婁篇第四上」
〔原文〕孟子曰。舜生於諸馮。遷於負夏。卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周。卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也。千有餘里。世之相後也。千有餘歳。得志行乎中國。若合符節。先聖後聖其揆一也。」
〔釋文〕孟子曰わく、舜は諸馮(しょひょう)に生まれ、負夏(ふか)に遷(うつ)りて、鳴條(めいじょう)に卒(おわ)る、東の夷(えびす)の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢(ひつえい)に卒る。西の夷の人なり。地の相い去ることは千有餘里、世の相い後(おく)るるは千有餘歳なるも、志を得て中国に行えることは、符節(わりふ)を合わすがごとし。先聖も後聖も、その揆(みち)は一つなり。

 大意は、東夷の舜(先聖。夏王朝建国期の帝)と西夷の文王(後聖。殷を滅ぼし周王朝を建国した武王の父)は、生きた時代も住んだ地も離れているが、二人の行いは全く一致している、というもの。ここでは東夷も西夷も聖人の地として使用されています。すなわち、孟子は中華の東西の端を「夷」と呼んでいたことがわかります。

❷精華簡『繋年』第二章
〔原文〕周幽王取妻于西申、生平王、王或(又)取褒人之女、是褒姒、生伯盤。褒姒嬖于王、王與伯盤逐平王、平王走西申。幽王起師、回(圍)平王于西申、申人弗畀、曾人乃降西戎、以攻幽王、幽王及伯盤乃滅、周乃亡。
〔釋文〕周の幽王、妻を西申より取り、平王を生む。王或いは褒人の女を取り、是れ褒姒にして、伯盤を生む。褒姒、王に嬖せられ、王と伯盤と平王を逐(お)い、平王西申に走る。幽王師を起し、平王を西申に回(かこ)み、申人弗畀(おそ)れず、曾人乃ち西戎に降りて、以て幽王を攻め、幽王と伯盤と乃ち滅び、周乃ち亡ぶ。

 紀元前四世紀(炭素年代測定による)、周代戦国期の同時代史料(竹簡)に「西戎」の用例が見え、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)の結びつけが周代戦国期に行われていたことがわかります。

❸『爾雅』「釋地第九」
〔原文〕東至靯泰遠、西至於邠國、南至於濮鈆、北至於祝栗、謂之四極。觚竹、北戸、西王母、日下,謂之四荒。九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。——四極。
〔釋文〕東は靯泰遠に至り、西は邠国に至り、南は濮鈆に至り、北は祝栗に至る、これを四極という。觚竹、北戸、西王母、日下、これを四荒という。九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。——四極。

 これは東西南北方向にある四極・四荒・四海を論じた記事。その四海の冒頭に「九夷」とあり、「八狄」「七戎」「六蛮」と続き、これを「四海と謂う」とあります。四海とは四方向(東西南北)にある「海」のことですから、「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」とは東夷・北狄・西戎・南蛮に相当します。『爾雅』成立時には、方位と夷狄戎蠻を結びつけて表記していたことがわかります。

❹『山海経』「海内北経」
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

❺『山海経』「海内東経」
〔原文〕鉅燕在東北陬。
〔釋文〕鉅燕は東北の陬(隅)に在る。

 ❹は蓋國の位置を示したもの。鉅燕とは❺の通り、中華(海内)の中の東北の隅にある大国燕(えん)のことです。その南にある蓋國は朝鮮半島の国と思われ、その蓋國は倭の北にあると記されています。従って、倭は朝鮮半島の南岸、あるいは朝鮮半島南岸と日本列島を含む領域と思われます。「倭は燕(えん)に屬す」とありますから、倭は周の天子の下の燕国に政治的に属していたことになります。すなわち、燕を介して周と倭の国交があったことをも示唆しています。

 以上の考察から、國枝稿の下記の指摘のうち、(c)は成立しないことが明らかになったように思います。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注③)は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 少なくとも周代戦国期には、「東夷」の国として倭は周と交流していたことを周代戦国期史料は示しています。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3590話(2026/02/08)〝國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (1) ―孔子は東夷(倭国)を知っていたか―〟。
②國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
③古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3607話 2026/03/14

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (7)

 ―周代史料、『山海経』の「倭」―

 精華簡『繋年』の「西戎」、『爾雅』の「九夷」に次いで『山海経』(注①)の「倭」記事を紹介します。中国最古の地理書『山海経』も周代戦国期の成立で、前漢期に増補したとされています。おそらく中国史料で最も初期の「倭」の記事と思われます。

○『山海経』「海内北経」
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

 これは蓋國の位置を示したもので、蓋國は鉅燕の南、倭の北にあると記されています。鉅燕とは中華(海内)の中の東北の隅にある大国燕(えん)のことで、「鉅」とは「巨」を意味します。その南にある蓋國は朝鮮半島の国と思われ、その蓋國は倭の北にあると記されています。従って、これを素直に理解すると、この倭は朝鮮半島の南岸にあったことになります。あるいは朝鮮半島南岸と日本列島を含む領域の可能性があります。

 なお、鉅燕の位置は同じ『山海経』の「海内東経」に次のように記されており、中華(海内)の東北の隅(陬)、すなわち、北京付近から朝鮮半島の北側に至る大国と思われます。従って『山海経』の地理認識は比較的〝正確〟ではないでしょうか。

○『山海経』「海内東経」
〔原文〕鉅燕在東北陬。
〔釋文〕鉅燕は東北の陬(隅)に在る。

 そして、「倭は燕(えん)に屬す」とありますから、当時の倭は燕国に政治的に属していたことになります。このことについて、古田先生は次のように論じています。

 〝今、わたしに注目されるのは、「倭は燕に屬す」の一句です。「属す」とは、何を意味する言葉でしょう。“地理的に属している”というのでは、意味をなしません。やはり、それは“政治的に属している”ことです。いいかえれば“その倭人は燕へ貢献物を持参していた”ということです。「貢献物」こそ、“政治的に属す”ことの“物理的証拠品”なのですから。

 とすると、“倭人は燕に貢献物をもっていった”ことになるわけですが、「燕」は決して終着点ではありません。“周の天子のもとの燕王”なわけですから、「夷蛮」が燕王に貢献物を持参する、ということは、実は“燕王を通じて周の天子に貢献する”ことなのです。とすると、ここにも――この戦国期の周の書物にも――「倭人の周王朝貢献」の事実が裏付けられていたことになるわけです。〟『邪馬一国への道標』「(一)縄文人が周王朝に貢献した 山海経の秘密」(注②)

 わたしは三十代の若き日に、この古田先生の論証に触れ、文献史学の可能性と奥深さを知ったのでした。(つづく)

(注)
①原文は中国哲学書電子化計画(WEB)による。釋文は古賀による。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。

 


第3605話 2026/03/13

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (6)

 ―周代史料、『爾雅』の「九夷」―

 精華簡『繋年』の「西戎」に次いで、東方の「九夷」記事を持つ周代戦国期成立とされる『爾雅(じが)』を紹介します。『爾雅』釋地第九(注)の末尾に次の記事があります。

〔原文〕東至靯泰遠、西至於邠國、南至於濮鈆、北至於祝栗、謂之四極。觚竹、北戸、西王母、日下,謂之四荒。九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。——四極。
〔釋文〕東は靯泰遠に至り、西は邠国に至り、南は濮鈆に至り、北は祝栗に至る、これを四極という。觚竹、北戸、西王母、日下、これを四荒という。九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。——四極。

 これは東西南北方向にある四極・四荒・四海を論じた記事です。その四海の冒頭に「九夷」とあり、「八狄」「七戎」「六蛮」と続き、これを「四海と謂う」とあります。四海とは四方向(東西南北)にある「海」のことと理解できますから、「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」とは東夷・北狄・西戎・南蛮に相当すると思われます。従って、『爾雅』成立時には、方位と夷狄戎蠻をセットにして表記するという認識が成立していたと想定できます。(つづく)

(注)原文は維基文庫(WEB)による。釋文は古賀による。『爾雅』は中国最古の類語・語釈辞典。


第3604話 2026/03/12

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (5)

 ―周代史料、精華簡『繋年』の「西戎」

 國枝浩さんの「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」(注①)には次の指摘がなされています。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 わたしは(c)の指摘には同意できません。その理由として、周代史料に方位付き夷蛮戎狄の例があるからです。そこでまず最初に、成立年代が炭素同位体比年代測定により紀元前305±30年(戦国期後半)と証明されている竹簡、精華簡『繋年』第二章(注②)の次の記事を紹介します。

〔原文〕周幽王取妻于西申、生平王、王或(又)取褒人之女、是褒姒、生伯盤。褒姒嬖于王、王與伯盤逐平王、平王走西申。幽王起師、回(圍)平王于西申、申人弗畀、曾人乃降西戎、以攻幽王、幽王及伯盤乃滅、周乃亡。
〔釋文〕周の幽王、妻を西申より取り、平王を生む。王或いは褒人の女を取り、是れ褒姒にして、伯盤を生む。褒姒、王に嬖せられ、王と伯盤と平王を逐(お)い、平王西申に走る。幽王師を起し、平王を西申に回(かこ)み、申人弗畀(おそ)れず、曾人乃ち西戎に降りて、以て幽王を攻め、幽王と伯盤と乃ち滅び、周乃ち亡ぶ。

 紀元前四世紀、周代戦国期の同時代史料(竹簡)に「西戎」の用例が見えますから、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)の結びつけが周代戦国期には為されていたことを疑えません。

 なお、精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、2388点の竹簡からなる膨大な史料です。このうち、138件からなる編年体の史書が『繋年』と名付けられ、2011年に発表されました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全二三章のうち第一章から第四章までに西周の歴史が記されています。竹簡が同時代史料として有力であることは、拙稿「周代の史料批判」(注③)でも論じました。(つづく)

(注)
①國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
②原文は維基文庫(WEB)による。釋文は小寺敦氏の「精華簡『繋年』訳注・解題」(『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年)に従った。
③古賀達也「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。

〖写真説明〗精華簡『算表』


第3599話 2026/02/26

辞書出版各社からの返答

  〔小学館・新潮社編〕

 角川書店と岩波書店に次いで、小学館と新潮社から返信が届きました。小学館からの返答は感動的でした。紹介します。

【小学館からの返信】
拝復 「日本方言大辞典」をご活用くださいまして、ありがとうございます。また、この度は、同書の内容につきまして、貴重なご教示を賜わりましたこと、併せて篤く御礼申し上げます。
さて、ご指摘の「カメ」の語源説についてですが、古賀様のお説を拝読し、たとえ外来語語源説が古くから行われていたとしても、「日本方言大辞典」の中でそれと断定するのは問題があると感じました。少なくとも、この部分を、(犬を呼ぶ語Come here またはCome in からとする説がある)とすべきであったようです。

 わたくしどもは、この辞典の他に「日本国語大辞典」という大型の国語辞典を出版しているのですが、この「カメ」外来語語源説は、そちらで示した語源説をもとに記述したようです。(「日本国語大辞典」の語源説は従来の語源に関する諸説を列記したもので、あくまでも諸説の紹介にとどまり、どの説が正しいかという判断は示していません)そこに掲げた語源説は、「大言海」「明治事物起源」「方言と昔(柳田国男)」ですが、それらが文久3年刊の「横浜奇談」まで遡れるというのは、お説を拝読して今回初めて知りました。「日本国語大辞典」は現在改訂作業を進めておりますので、何らかのかたちで反映させていただく所存でございます。

 最後に、私事で恐縮ですが、わたしは十数年前に一度向日市の古田武彦氏のお宅にお伺いし、長時間に渡ってお説を拝聴したことがあります。(中略) 今回、「古田史学の会」の事務局をなさっている古賀様からお手紙を頂戴し、奇縁に驚きました。これも何かのご縁と存じますので、今後ともわたくしどもの辞書につきまして、お気付きのことがございましたら、ぜひまたご教示を賜わりたいと存じます。
先ずは、御礼かたがたご報告まで。
敬具 一九九七年十一月二十八日
小学館 国語辞典編集部
【転載おわり】

 古田武彦先生や古田史学を接点に、わたしの人生に於いて様々な分野の人々との出合が生まれました。わたしはこの幸せに感謝し、その学恩を生涯忘れることはないでしょう。そして、最後に届いたのが新潮社でした。

【新潮社からの返信】
拝啓

 お手紙とコピー、拝見しました。読んで、お書きになってらっしゃることは尤もだと思いましたし、驚きました。語釈を改めなければならないと思いますので、編者の先生に相談致します。ありがとうございました。また何かお気付きの点がございましたら、ご連絡いただければ幸いに存じます。
右は取り急ぎ御礼と御連絡まで。
敬具
新潮社 辞典編集部国語辞典係
【転載おわり】

 簡潔にして要を得た返答です。残る三省堂からは〝なしのつぶて〟でしたが、既存学説(通説)に対する三十年前のわたしのささやかな〝挑戦〟でした。池田エライザさんの主演ドラマ「舟を編む ~私、辞書つくります~」を観ていて思い出した人生の一コマです。(おわり)


第3598話 2026/02/22

『古田史学会報』192号の紹介

別役稿の〝四国の山神社分布〟に触れて

 『古田史学会報』192号を紹介します。同号には拙稿〝唐詩に見える王朝交代後の列島 ―古田説と中小路説の衝突―〟と〝古田史学の会の運命と使命 ―令和八年(二〇二六)に向けて―〟を掲載して頂きました。

 一面に掲載された別役さんの論稿〝現在の神社分布から古代を俯瞰することの危うさ ―山神問題に関して―〟は『古田史学会報』191号の拙稿〝蝦夷国の「山神社」考〟に対する御指摘と興味深い史料状況の報告で、実はわたし宛に送られてきた未発表論文でした。一読してその重要性に気づき、別役さんにお願いして『古田史学会報』に投稿していただいたものです(注①)。あわせて、わたしが主宰している「古田史学リモート勉強会(2月14日)」でも発表していただきました。

 191号の拙論では、各県神社庁HPのリストを中心にWEBで検索した「山神社」分布が、山形県を筆頭として東北地方に濃密分布していることから、この山神信仰圏は古代蝦夷国に淵源するのではないかとの仮説を発表しました。もちろん、明治の神社統廃合などがあるため、現在の分布傾向が古代まで遡ると考えてよいものか熟慮しました。その上で、明らかに山神社が東北地方に濃密分布することから(津軽地方は「山神宮」として分布。江戸期史料による)、この現象を東北各県になぜか偶然にも多く遺ったとするよりも、何らかの歴史的背景があった結果と考えた方がよいと判断しました。

 この基本的な判断は今も変わりませんが、別役稿により、四国地方にはWEBには掲載されていない「山神社」が濃密分布することを知り、驚きました。というのも、東北地方と四国地方には不思議な関係があることを知っていたからです。それは山(やま)のことを「森(モリ)」と称する例(山名)が両地方に濃密分布しており、これは古代縄文語(粛慎語あるいは蝦夷語か)に淵源するのではないかとする論稿を30年前に発表していたからです(注②)。この「モリ」分布と別役さんが紹介した四国地方の「山神社」分布とは関係があるのではないかと思ったのです。このテーマについては検討を続けます。別役さんのご指摘に感謝します。
(注)
①古賀達也「『言語考古学』の成立(序説) ―「山」と「森」について―」『古田史学会報』22号、1997年。
②別役氏は近時、『土佐史学』創刊に関わられ、同誌に論文を発表されている。

192号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』192号の内容】
○現在の神社分布から古代を俯瞰することの危うさ ―山神問題に関して 高知市 別役政光
○七〇一年の王朝交代と朝鮮半島方式から中国方式への展開 茨木市 満田正賢
○唐書類の読み方 ―谷本茂氏の批評を受けて― 世田谷区 國枝 浩
○唐詩に見える王朝交代後の列島 ―古田説と中小路説の衝突― 京都市 古賀達也
○伊都国探求 松本市 鈴岡潤一
○令和八年(二〇二六)に向けて 古田史学の会・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』への投稿募集
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になるわかりやすい紙面作りにご協力下さい。
また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。
第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)

〖写真の説明〗『古田史学会報』192号。別役さんと古賀、大阪にて。『土佐史学』創刊号。


第3597話 2026/02/20

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (12)

 写真左上円内の人物、「菊池九郎」説

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える写真左上円内の人物を秋田重季氏晩年の写真とするアイデアを「洛中洛外日記」3587話(2026/02/02)〝「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11) ―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―〟で披露しました。しかしながら、わたしはこのアイデアにあまり自信がありませんでした。その理由は次のようなことでした。

(ⅰ)秋田重季氏が晩年になって、若き日の弘前市の温泉旅館での、女将や芸妓と手を繋いだプライベートな写真を記念写真として作成・配布するものだろうか。むしろ、貴族院子爵議員の記念写真には相応しくないと思われる。〈論理的疑義〉
(ⅱ)左上円内の人物と前列中央の秋田重季氏とでは、頭髪の分け目が左右逆。目や眉毛も異なっており、別人と断定できるほどではないものの、同一人物とできるほど似ているわけでもない。〈実証的疑義〉

 こうした迷いがあり、筆が止まっていたところ、意外な仮説が菊池哲子さん(福岡県久留米市)より届きました。菊池さんは久留米大学公開講座でのわたしの講演会に毎年参加されており、和田家文書や地元の歴史について造詣が深い方です。最近ではわたしが主宰している「古田史学リモート勉強会」(毎月、第二土曜の夜7~9時にリモートで開催)にもご参加いただいている研究者仲間です。

 その菊池さんから届いたメールには、写真左上円内の謎の人物を初代弘前市長の菊池九郎氏(1847・弘化4年~1926・大正15年)ではないかとありました。このメールにわたしは驚愕しました。(つづく)

〖写真の説明〗秋田重季氏らの集合写真。菊池九郎氏・左上円内の人物・前列中央の秋田重季氏。


第3596話 2026/02/20

辞書出版各社からの返答〔岩波書店編〕

 『角川外来語辞典』第二版(1977年)は、〝カメ〟について次のように説明しています。

 カメ【英 Come here!】(原義:来い)日本語では“洋犬”。それは、英米人が犬に向かって“来い、来い”と言ったのを、犬の意味に誤解したのに基づく。(以下、出典などが明記されている。)

 この語釈は誤りとする論文(注)コピーと手紙を角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、角川書店からは同封した論文の「持ち込み原稿」扱いされ、送り返されました。次いで、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。ちなみに『広辞苑』第三版には次のように記されています。

カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here(こっちへ来い)といって犬を呼んだことからという)洋犬のこと。西洋道中膝栗毛「異人館の洋犬(カメ)」。〔『広辞苑』第三版、1988年〕

【岩波書店からの返信】
拝啓 晩秋の候、古賀様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。また、日頃より広辞苑をご愛用いただき、感謝いたします。
さて、今回は「カメ」についての論文をお送りいただき、ありがとうございました。たいへん興味深く拝読いたしました。御説の中には、「なるほど」と思う部分がいくつもございました。

 やや言い訳がましくなりますが、ご存じの通り、広辞苑では「カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here といって犬を呼んだことからいう)洋犬のこと。」と解説しています。このうち語源説の部分については「〜という」で終えており、断定的な言い回しをしておりません。また、「メリケン・カメ」の栞(注②)につきましても「『カメや』と勘違いしたのだとか。」と「〜とか。」で終えています。

 論文の中で触れられていますように、「カメ」が「come here」から転じたものであるとする語源説は、古くから広く流布しております。広辞苑としては、「その語源説について断定するだけの確証はないが、広く流布している語源説として紹介する」という立場から、現在のような解説を付しています。

 御説について、軽々に判断することはできませんが、たいへん貴重なご意見と存じます。次版の改訂作業における課題として、「カメ」についての過去の論考とあわせて検討させていただきたく存じます。今後とも、お気付きの点がございましたら、ご指導くださいますようお願い申し上げます。
取り急ぎ要件のみにて失礼いたします。どうぞこれからも広辞苑をご愛用くださいませ。最後になりましたが、時節柄ご自愛くださいますようお願い申し上げます。

敬具
一九九七年一一月二〇日
岩波書店辞典部 広辞苑編集部
【転載おわり】

 さすがは日本を代表する中型国語辞典『広辞苑』の編集部。見事な返答にますます広辞苑が好きになりました。拙論に賛意を表しながらも、しっかりと編集方針の釈明も行い、検討を約束する。そして、引続き広辞苑の愛用を促すといった営業的視点と礼儀を兼ね備えた返信です。この岩波からの返答のおかげで、角川による私の不機嫌が一気に吹き飛んでしまいました。次に来たのが小学館。こちらはもっと感動的な文面でした。(つづく)

(注)
①古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html
②岩波文庫に挟んである栞に、カメ外来語語源説を紹介したものがあった。

〖写真の説明〗岩波書店広辞苑編集部からの返信。広辞苑第七版の販売風景。NHKドラマ「舟を編む」のワンシーンに登場した広辞苑。


第3595話 2026/02/18

辞書出版各社からの返答〔角川書店編〕

 「洛中洛外日記」第3593話〝池田エライザ主演『舟を編む ~私、辞書つくります~』〟で、30年ほど前に辞書の誤りを見つけ、そのことを論文発表し(注)、辞書出版社に訂正を提案したことを紹介しました。

 辞書の誤りとは、〝犬のことを「かめ」という地域がある。明治時代に来日した西洋人が、犬をcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼ぶのを聞いた日本人が誤解して、犬のことをカメと言うようになった。〟とする説明のことです。この語釈は誤りで、江戸時代以前から犬をカメと言う地域があったことを証明した同論文コピーを辞書出版社に送付し、次のような趣旨の手紙を出しました。

(1) カメ外来語語源説は、同封の論文に示しているように、成立困難であること。
(2) 御社の辞典には、「外来語説」に立った説明がなされているので、拙論を検討していただきたい。
(3) できれば、拙論に対する批判や感想をいただきたい。

 こうした手紙と論文コピーを角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、出版各社の対応は大きく異なりました。
最初に届いたのは、『外来語辞典』を出版している角川書店からの次の返信でした。

【角川書店からの返信】
時下ますますご清栄のことと存じます。
とり急ぎお便りいたします。
当社におきましては、(依頼原稿以外の)お持ち込み原稿等の出版・雑誌掲載ならびに、批評等を行っておりません。ご期待に添えず申し訳ございませんが諒解のほどお願いいたします。
要件のみでございますが、ご健勝を念じます。 草々
角川書店 書籍第一編集部
【転載おわり】

 どうやら、「持込み原稿」として扱われたようでした。しかもご丁寧に『北奥文化』コピーも送り返されてきました。そこで、「持込み原稿」ではない旨記して、同社の「辞典編集部」宛に送付しましたが、返事はありませんでした。角川書店には読者の意見を聞く制度(態度)はないのかもしれません。やはり世間はこんなものかと、少々おち込んでいたら、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。(つづく)

(注)古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html

〖写真の説明〗角川書店からの返信。NHKドラマ『舟を編む ~私、辞書つくります~』のワンシーン。


第3594話 2026/02/17

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (4)

 ―『孟子』の東夷と西夷―

 『春秋左氏伝』の精読と併行して、より孔子の時代と成立が近い『孟子』を久しぶりに読んでいます。儒教の経典で、わたしが『論語』に次いで好きなのが『孟子』です。孟子(孟軻、前372~前290)は周代戦国期の人物で、孔子(前552~前479)の孫弟子くらいに当たります(注①)。その孟子の言葉や著述に基づいて、孟子没後(周代戦国期)に編纂されたものとされ、孔子の時代に近い人々の用語や認識を探ることができます。

 ちなみに、わたしが『論語』『孟子』を好きな理由ですが、その内容はもとより、わたしの名前「達也」の出典が『論語』顔淵第十二(注②)にあることを古田先生の著作(注③)で知ったこと、青年の頃『孟子』離婁篇にある「誠は天の道なり、誠は人の道なり。至誠にして動かされざる者は、未だこれ有らざるなり。」という言葉に惹かれたことによります。

 また、これも余談ですが、中小路俊逸先生(追手門学院大学文学部教授・故人)から、書名の『孟子』と人名の孟子を区別するため、『孟子』(もうじ)・孟子(もうし)と読み分けることを教えていただきました。学会や講義ではこのように読み分けるが、これは聞く人が勘違いしないようにするためとのことでした。古代史学において、わたしは二人の善き師に恵まれました。

 『春秋左氏伝』を読んでいて、「蠻夷戎狄」のうち、虫偏や獣偏の字が使用されている「蠻狄」、武器や軍事の意味を持つ「戎」とは異なり、「夷」はそれほど差別的な文字として使用されているようにも思えませんでした。しかし、その理由がわかりませんでした。ところが『孟子』に次の記事があることに気づきました。

 「孟子曰。舜生於諸馮。遷於負夏。卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周。卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也。千有餘里。世之相後也。千有餘歳。得志行乎中國。若合符節。先聖後聖其揆一也。」『孟子 上』離婁篇第四上、40~41頁(注④)
〔訳文〕孟子曰わく、舜は諸馮(しょひょう)に生まれ、負夏(ふか)に遷(うつ)りて、鳴條(めいじょう)に卒(おわ)る、東の夷(えびす)の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢(ひつえい)に卒る。西の夷の人なり。地の相い去ることは千有餘里、世の相い後(おく)るるは千有餘歳なるも、志を得て中国に行えることは、符節(わりふ)を合わすがごとし。先聖も後聖も、その揆(みち)は一つなり。

 大意は、東夷の舜(先聖。夏王朝建国期の帝)と西夷の文王(後聖。殷を滅ぼし周王朝を建国した武王の父)は、生きた時代も住んだ地も離れているが、二人の行いは全く一致している、というものです。ここでは東夷も西夷も聖人の地として使用されており、聖地の表現とは言えないまでも、それほど差別的な卑字として「夷」が使用されているようには見えません。むしろ、『春秋左氏伝』にある〝夷の禮〟の由来となった故事と理解すべきではないでしょうか。

 「廿七年、春、杞桓公來朝。用夷禮。」『春秋左氏伝 一』399頁(注⑤)
〔訳文〕廿七年、春、杞の桓公來朝す。夷の禮を用ふ。

 したがって、東夷という用語の背景にはこうした故事があり、それを前提として孟子や孔子の言葉を理解する必要があります。なお、『孟子』離婁篇第四上に見える「千有餘里」は、周代の短里(一里約76メートル)ですから、東夷と西夷は中原の東と西の領域と解すべきであり、両地域はそれほど離れてはいないことになります。(つづく)

(注)
①ここでの孔子と孟子の生没年は通説による。周代史料には二倍年暦(1年(1才)を2年(2才)と数える暦法・年齢)が採用されているため、暦年補正が必要であり、実際の生没年は通説より数百年ほど新しくなる。次の拙論を参照されたい。

「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第七集、新泉社、2004年。
「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」『新・古代学』第八集、新泉社、2005年。
「A study on the long lives described in the classics」『Phoenix』No.1、国際人間観察学会、2007年。
「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2018年。
「二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』170号、2022年。
『二倍年暦』研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―」『古田史学会報』172号、2022年。
「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。
②『論語』顔淵篇に「夫達也者。質直而好義。察言而観色。慮以下人。」〔『達』とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり〕とある。
③古田武彦『邪馬一国への道標』(講談社、1978年)で『論語』顔淵篇を紹介し、『三国志』の著者陳寿を「質直にして義を好む」人物として次のように紹介した。
「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の“言葉”や表面の“現象”(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている」
この解説を読み、「達也」の出典が『論語』であることを知った。以来、わたしは名に恥じぬよう、「質直」を人生の指針とした。陳寿のような立派な人物になれそうもないが、古田氏や陳寿を尊敬することはできる。『邪馬一国への道標』は生涯忘れ得ぬ一冊となった。
④中国古典選『孟子 上・下』金谷治、古川孝次郎監修、朝日新聞社、1978年。
⑤新釈漢文体系『春秋左氏伝 一~四』明治書院、1971年。

〖写真説明〗孟子画、中小路俊逸先生、『孟子』岩波文庫。