『三国志』短里説の衝撃 (6)
―短里でも長里でも成立しない畿内説―
三国時代の魏とその後継王朝の西晋で公認使用された里単位(一里76~77m)で『三国志』が書かれたとする古田先生と谷本茂さんの研究(注①)を紹介しました。この検証は、『三国志』の里程記事と現在の実測値による簡単な計算(割り算)で実証的に確認できます。この短里説によれば、帯方郡(ソウル付近)から邪馬壹国までの総里程「一万二千余里」は900㎞強となり、博多湾岸付近までの距離とピッタリであることがわかります。
他方、短里では奈良県には全く届きませんし、かといって長里(435m)では奈良県を飛び越えて太平洋のはるかかなたに行ってしまいますので、「邪馬台国」畿内説は短里でも長里でも成立しません。ですから、そのことを知っている畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないのでしょう。仁藤敦史さんの次の主張がその一例です(注②)。
(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。(「倭国の成立と東アジア」142頁)
(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)
(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく……。(「倭国の成立と東アジア」143頁)
(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値……。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)
短里説を無視、乃至検討せず、倭人伝の行程(南、邪馬壹国に至る)や里程(長里で一万二千余里)は信頼できないとしながらも、仁藤さんの結論は畿内説が妥当とします。〝倭人伝の記事は信頼できないから、「邪馬台国」の位置は不明〟とするのであれば、その主張にはまだ一貫性があるのですが、結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とするのです。次回はその理由の是非について検討することにします。(つづく)
(注)
①古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
②仁藤敦史「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。