短里一覧

第3432話 2025/02/17

『三国志』短里説の衝撃 (6)

―短里でも長里でも成立しない畿内説―

 三国時代の魏とその後継王朝の西晋で公認使用された里単位(一里76~77m)で『三国志』が書かれたとする古田先生と谷本茂さんの研究(注①)を紹介しました。この検証は、『三国志』の里程記事と現在の実測値による簡単な計算(割り算)で実証的に確認できます。この短里説によれば、帯方郡(ソウル付近)から邪馬壹国までの総里程「一万二千余里」は900㎞強となり、博多湾岸付近までの距離とピッタリであることがわかります。

 他方、短里では奈良県には全く届きませんし、かといって長里(435m)では奈良県を飛び越えて太平洋のはるかかなたに行ってしまいますので、「邪馬台国」畿内説は短里でも長里でも成立しません。ですから、そのことを知っている畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないのでしょう。仁藤敦史さんの次の主張がその一例です(注②)。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく……。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値……。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

 短里説を無視、乃至検討せず、倭人伝の行程(南、邪馬壹国に至る)や里程(長里で一万二千余里)は信頼できないとしながらも、仁藤さんの結論は畿内説が妥当とします。〝倭人伝の記事は信頼できないから、「邪馬台国」の位置は不明〟とするのであれば、その主張にはまだ一貫性があるのですが、結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とするのです。次回はその理由の是非について検討することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
②仁藤敦史「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。


第3430話 2025/02/14

『三国志』短里説の衝撃 (5)

 ―『漢書』の中の短里―

 古田先生の短里説は「魏西晋朝短里」説と呼ばれ、三国時代の魏とその後継王朝の西晋で使用された里単位(一里76~77m。周代に使用された里単位に淵源する)で、西晋時代に陳寿が書いた『三国志』はこの公認里単位「短里」で書かれたことが古田先生により発表されています。その先駆的研究を古田先生とともになされたのが谷本茂さん(古田史学の会・編集部、注①)でした。古田先生亡き今、短里研究の第一人者です。

 谷本さんの短里研究は『三国志』以外の漢籍にも及んでいます。たとえば『漢書』は長里の時代(後漢代)に成立しており、里程は長里で書かれています。しかし、現存する『漢書』版本には後代の識者による「注」が挿入されており、その「注」の作者が短里を使用していた魏西晋代の人物の場合、そこに記された里程は短里で書かれるケースがあります。そのことに谷本さんが論究したのが次の諸例です。『古代史の「ゆがみ」を正す』(注②)の「『漢書』は短里なくして解読できない」より転載します。

 〝最近は、『漢書』は「短里」仮説なくしては解読できない、というテーマを強く感じているんです。
それは『漢書』自体というよりも、『漢書』にはいろいろな人の注が付いていますね。その人たちは、だいたい三国の魏の官僚なわけです。如淳にしろ孟康にしろ文穎にしろ。そうしますと、かれらが書いた「里数値」というのは、『漢書』の本文のなかの長里なのかという問題があるわけです。
そのなかでひじょうにおもしろい例がいくつか出てきたわけです。
たとえば、劉邦と項羽が会う「鴻門の会」という有名な故事がありますが、その場所がもちろん『漢書』の本文にも出てきまして、そのところの孟康の注に、新豊の東十七里のところに地名があると出ているんですね。ところが、後魏の酈(れき)道元が書いた『水経注』にも同じところが出てきまして、新豊の故城の東三里だと書いてあります。そして、『漢書』の孟康注では東十七里のところに鴻門というのがあると書いているけれども、いまわたしが実際に調べたらない、と書いてあるんですね(本書第Ⅲ章参照)。

 長里で三里と言いますと一二〇〇から一三〇〇メートルです。それぐらい短い距離で確定できるように、城壁と鴻門はだれが見ても明晰な指定ができたわけですね。そこが、孟康の注では十七里と書いてあるんですね。
もしかりに同じ場所だとすれば里単位がちがうわけで、十七対三になっているわけです。それで十七対三の比というのは五・七ですね。するともう短里と長里の比にぴったり合うわけです。あまりにも偶然すぎるので不思議な感じがするのですが。

 つまり、ひとつには「短里」と「長里」の比が五・七ぐらいであることと、もうひとつは孟康が魏の官僚であることが重要ですね。たしか中書省の長官だったと思いますが、そうした部署の長官が言っている。(中略)
そうした例が『漢書』注にはいくつかでてきます。

 古田さんも以前指摘しておられました、「山」の高さの問題でも、『三国志』のなかで天柱山の高峻二十余里がありましたが、『漢書』の武帝紀の注で文穎が、介山という山を周七十里、高三十里と書いています。これも短里なわけです。文穎も魏の官僚です。

 有名な『漢書』地理志の倭人の「歳事を以って来たり献見すという」のところで、如淳の注では帯方東南萬里にありと書いてあり、これも短里ですね。
このように魏の官僚たちがみんな「短里」らしいことをしゃべっているわけですね。これは単純に「短里」はなかったんじゃないかという話にはならない。恣意的に見つけてくるというのにはできすぎています。そうした里単位があったとしなければ説明がつかない。〟51~53頁

 以上の「短里」の痕跡の指摘は谷本さんの研究のごく一部です。倭人伝をはじめ中国史料中の里程記事や里単位研究に当たっては、谷本さんの先行研究を咀嚼した上で進めていただきたいと 後継者には願っています。(つづく)

(注)
①谷本茂氏は京都大学時代からの古田説支持者で、現在は古田史学の会『古代に真実を求めて』編集部。古田武彦氏との共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(1994年)の著者紹介欄には次のように記されている。〝谷本 茂(たにもと しげる)
1953年 生まれ。
1976年 京都大学工学部電気工学科卒業。現在、横河・ヒューレット・パッカッード株式会社電子部品計測事業部勤務。
主な論文 「『周髀算経』之事」(『数理科学』№177)、「古代年号の一使用例について」(『神武歌謡は生きかえった』新泉社)、「中国古代文献と『短里』」(『古代史徹底論争』駸々堂)ほか。〟
②古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。


第3429話 2025/02/13

『三国志』短里説の衝撃 (4)

    ―『三国志』の中の短里―

 仁藤敦史氏は〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟(注①)とするのですが、その大前提となるのが『三国志』が漢代の里単位「長里」(一里約400m強)により里程記事が書かれているとする解釈です。これで倭人伝などの里程記事が問題なく読めるのであればまだしも、実際の距離とは5~6倍近く異なるため、諸説が出されてきたのですから、研究者として魏代の里単位が何メートルなのかを確認する作業が不可欠なはずです。しかし、仁藤氏の論文や著書にはその作業がなされた形跡が見えません。

 他方、古田武彦氏は〝単位問題では、いつでも、「その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。」〟(注②)として、『三国志』に書かれている里程記事を調査して、実際の距離との比較により、一里を「七五~九〇メートルで七五メートルに近い値」とする短里説を提唱しました。なお、谷本茂さんによる『周髀算経』の研究(注③)により、短里は一里76~77mであることが有力となりました。長里は一里435mとされています。具体的には次のような史料根拠と計算に基づいています。古田先生があげた多数の例から一部を紹介します。

○(一大国)方三百里なる可し。〔魏志倭人伝〕
壱岐島は約20kmの正方形内に収まり、短里では概略妥当であり、長里ではまったく妥当しない。ちなみに、魏の張政が軍事司令官(塞曹掾史)として二十年間倭国に滞在していたことが知られている。その軍事報告に基づいて倭人伝は記されていると考えられ、小島の壱岐島を五~六倍(面積比で二五~三六倍)の大きな島と張政が見間違うはずがない。
○(韓)方四千里。〔魏志韓伝〕
韓半島の南辺約300km÷4000里=約75m。東夷伝中の韓伝で短里が使用されている例。
○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。
○北軍を去ること二里余、同時発火す。〔呉志周瑜伝〕
周瑜伝裴注に江表伝が引文されている。その赤壁の戦の描写中にこの記事がある。呉の軍船が揚子江の中江に至って「降服」を叫んだのち、「二里余」に至って発火した。この赤壁の川幅は約400~500mであり、短里なら適切だが、長里ではとうてい妥当しない。公表伝は西晋の虞薄の著作であるから、『三国志』と同じく、短里で書かれていたことが判明する。

 以上のように『三国志』は魏・西晋朝の公認里単位「短里」で書かれており、当然のこととして倭人伝の里程記事も短里で読むべきです(注④)。したがって、郡(帯方郡)から倭国の都までの総里程「万二千余里」も短里であり、その到着点は博多湾岸(筑前中域)となります。他方、当地は「弥生銀座」と称されているように、弥生時代の鉄器、漢式鏡の列島内最多出土地で、最大の都市遺跡比恵那珂遺跡群(福岡市博多区・他)もあります。短里による行程理解と考古学出土物の双方が、倭国の都として同じ地点を指し示しているのです。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。
③谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』177号、1978年。
④「古田史学の会」研究者により、『三国志』内に長里が使用されている例が発見されている。『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年)を参照されたい。


第3427話 2025/02/11

『三国志』短里説の衝撃 (2)

 ―「短里・里程」論争の研究史―

 「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。谷本さんが指摘された「里数値はまったく信頼できないものとして無視し、里数値以外の情報にもとづいて女王国の位置を求めようとする立場」に立っています。もちろん、自説成立のために短里説を否定するのはかまいませんが、それならば短里説を紹介し、根拠をあげて学問的に批判するのが学者や研究者のあるべき姿だとわたしは思います。

 短里説が取るに足らない仮説であるのならば、古田先生が『三国志』短里説を1971年に発表した後(注②)、あれほど長期にわたる論争が続くはずもありません。良い機会ですので、当時の短里・里程論争の関連著書を紹介します。
古田先生と谷本茂さんの共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(注③)で、谷本さんが次の書籍・論文を紹介しています。

【「魏・西晋朝短里説」への反論】
○山尾幸久『魏志倭人伝』講談社、1972年
○白崎昭一郎『東アジアの中の邪馬臺国』芙蓉書房、1978年。
○佐藤鉄章『隠された邪馬台国』サンケイ出版、1979年。
○安本美典『「邪馬壹国」はなかった』新人物往来社、1980年。
○『季刊邪馬台国』12号、梓書院、1982年。13号、1982年。35号、1988年。などに里程の特集。
○原島令二『邪馬台国から古墳の発生へ』六興出版、1987年。
○石田健彦「『三国志』の里単位について ―「赤壁の戦」を疑う―」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。

【里程論争について】
○三品彰英『邪馬台国研究総覧』創元社、1970年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位」『季刊邪馬台国』35号、1988年
○古田武彦『古代は沈黙せず』駸々堂出版、1988年。
○古田武彦編『古代史討論シンポジウム 「邪馬台国」徹底論争』第一巻 言語、行路・里程編、新泉社、1992年。
○秦政明「『三国志』における短里・長里混在の論理性」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。
○帯刀永一「短里説・長里説の再検討」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。

【『周髀算経』に基づく短里説批判とそれへの反論】
○篠原俊次「一寸千(短)里説批判」『五条古代文化』30号、五条古代文化研究会、1985年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位 ―その4―」『計量史研究』8号、日本計量史学会、1985年。
○谷本茂「『周髀算経』の里単位について」『季刊邪馬台国』35号、梓書院、1988年。

 このように50年以上前から、20年間にわたって続けられた「短里・里程」論争に一切触れない仁藤氏の論文・著書を、「時代を50年逆行している」と谷本さんが批評したのはもっともなことです。最後に、倭人伝中の里単位について言及した古田先生の著書『邪馬一国への道標』(注④)の次の一文を紹介します。

 「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。つまり、単位問題では、いつでも、〝その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。〟」同書一〇七頁 (つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。

【写真】『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』出版30周年記念講演会での谷本さんと古賀の祝賀講演。東京朝日新聞社ホールにて、2001年10月8日。


第3425話 2025/02/09

『三国志』短里説の衝撃 (1)

 ―短里説を避ける「邪馬台国」畿内説―

 〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟として続けてきた前話までの論点を〝『三国志』短里説の衝撃〟に変えて、「邪馬台国」畿内説論者、仁藤敦史氏の著書・論文(注①)が「時代を50年逆行している」ことについて詳述します。
短里説をテーマとした古田先生と谷本茂さんの共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(注②)には、谷本さんによる次の的確な分析が示されています。

 「『三国志』倭人伝には、魏の直轄地帯方郡(郡治は現在のソウル付近)から倭の女王の都する邪馬壹国までの行路里程が記されている。全体の行程は、郡(帯方郡)より女王国(邪馬壹国)に至る万二千余里とある。進行方向は大略南であるから、一里=四〇〇メートル強の通常の魏代の里単位で理解しようとすると、ソウル近辺から南へ五〇〇〇キロメートルの遠隔地が女王国の候補地となる。はるか熱帯のどこかの島に卑弥呼がいたのであろうか。(中略)一般の古代史研究者は、あくまでも女王国を日本列島内に求めようと努力している。
したがって、倭人伝の行路里程記事に対する態度は、論理的に二つに分かれざるをえない。里数値はまったく信頼できないものとして無視し、里数値以外の情報にもとづいて女王国の位置を求めようとする立場と、里数値を合理的に解釈しようと努力する立場とがある。」98ページ

 仁藤氏の場合は他者の研究や様々な解釈を並べますが、本質的には前者の立場をとります。氏の論文「倭国の成立と東アジア」と著書『卑弥呼と台与』では、自らの立場(里数値はまったく信頼できない)を表明し、「邪馬台国」畿内説へと結論づけます。その主たる論理構造は次のようです。ちなみに短里説には全く触れていません。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく、厳密な史料批判、東アジア的分析視角、考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっており、魏王朝の間接的な支配が及ぶ、限界の地という意味を持たされていたことになる。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 以上のような論理構造を持つ仁藤説ですが、ひとつずつ検証することにします。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。


第2314話 2020/12/08

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(5)

 景初元年短里開始説の論証に成功した西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」が収録された古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)は、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による編集の下、わたしたち「古田史学の会」が作り上げた渾身の一冊です。中でも短里の研究は白眉を為すもので、古田武彦先生の遺稿となった同書巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟で、次のような過分の評価をいただきました。

〝「古田武彦はなかった」 ―― いわゆる「学会の専門家」がこの四~五年とりつづけた〝姿勢〟である。
 けれども、この一書(『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』)が出現し、潮目が変わった。新しい時代、研究史の新段階が出現したのである。
 「短里」と「長里」という、日本の古代史の、否、中国の古代史の〝不可欠〟のテーマがその姿をキッパリと姿を現した。
 この八月八日(二〇一五)はわたしの誕生日だ。この一書は、永年の「待たれた」一冊である。

 〔中略〕

 やがてわたしはこの世を去る。確実に。しかし人間の命は短く、書物や情報のいのちは永い。著者が死んだ時、書物が、生きはじめるのである。

 今、波多野精一さんの『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでいる。
 この時期から今まで、ようやく「短里」と「長里」問題を、実証的かつ論証的に論ずることができる。具体的にそれを証明するための、画期的な研究史にわたしたちは、今巡り合うたのである。
 平成二十七年八月八日校了〟

 同書収録の拙稿「『三国志』のフィロロギー ―「短里」と「長里」混在理由の考察―」の原稿を読まれた古田先生からお電話があり、お褒めの言葉をいただきました。先生のもとで古代史を学び始めて三十年、叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、最後にいただいたこのお電話は忘れがたいものとなりました。
 同書の上梓を前に先生は亡くなられ(二〇一五年十月十四日、八九歳)、この巻頭文は遺稿となりました。同書を企画編集された服部さんとミネルヴァ書房の田引さんに感謝申し上げます。(おわり)


第2313話 2020/12/07

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(4)

わたしたち「古田史学の会」関西例会の研究者たちは、景初元年短里開始の論証方法の検討に入りました。そして、関西例会(2015/02/21)で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が〝短里と景初〟というテーマで次のような発表をされました。
西村さんは、魏朝における長里(約435m)から短里(約77m)への変更時期を明帝の景初元年(237)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』文帝紀延康元年(220)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、その後、明帝の景初元年(237)に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
そして西村さんはこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入され、それを検証されました。

〔作業仮説〕
1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。

2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。

3.その換算方法として、たとえば1000里や100里の場合、約6倍(435÷77=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。(古賀注:1000里とか100里のような「丸められた」数値にかけ算して出た端数は数学の有効桁数としては意味がありませんから、陳寿は「数千里」「数百里」という概算値表記にしたものと思われます。)

4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。

5.この作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有意の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有意の差があるかを見ればよい。

〔検証結果と帰結〕『三国志』本文の全数調査
1.『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
漢(長里使用)  21.3%(47例中10例)
魏 景初元年より前(長里の時代) 37.5%(16例中6例)
景初元年以後(短里の時代) 5.3%(39例中2例)←激減する!
蜀(長里使用)  33.3%(9例中3例)
呉(長里使用)  40.0%(10例中4例)

2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。

3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要がなかったと考えるのが妥当である。

4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。

5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。

以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この視点と『三国志』の「里」全数調査により明らかとなった景初元年を境とする〝有意の差〟は、景初元年短里開始説を強く指示しています。これは見事な証明方法と調査結果だと感服したことを憶えています。なお、この西村論証は論文化(「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」)され、古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)に収録されました。(つづく)


第2312話 2020/12/07

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(3)

 「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、次の記事の「三百餘里」を長里ではないかとされました。

 「青龍四年(中略)今、宛に屯ず、襄陽を去ること三百餘里、諸軍散屯(後略)」(王昶伝、「魏志」列伝)

 この「三百餘里」が記された部分は王昶(おうちょう)による上表文の引用ですが、正木さんは「これは王昶の『上表文』の転記であり、魏の成立以前(漢代)から仕えていた王昶個人は長里を用いていたことがわかる。」とされました。
 わたしは上表文という公式文書に長里が使われるというのは納得できないとしたのですが、その後、魏ではいつ頃から短里に変更したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが暦法を変更した明帝からではないかとされたことに触発され、この上表文が短里への変更以前であれば長里の可能性があることに気づいたのです。
 そこで『三国志』を調べたところ、明帝は景初元年(237)に景初暦を制定したようですので、このときに短里が公認制定されたとすれば、王昶の上表文が出されたのはその直前の青龍四年(236)ですから、「三百餘里」が長里で記載されていても矛盾はありません。もしそうであれば、陳寿は上表文の文面についてはそのまま『三国志』に引用し、短里に換算することはしなかったことになります。すなわち、魏を継いだ西晋朝の歴史官僚である陳寿はその上表文(あるいはその写本)を見た上で(見なければ『三国志』に引用できません)、皇帝に提出された上表文の文章は変更することはしないという編纂方針を採用したことになります。
 こうして、景初元年短里開始の〝状況証拠〟が確認されたことにより、関西例会の研究者は電話やメールで情報や意見交換を進め、論証方法の検討に入りました。誰が最初に論証に成功するだろうかと注視していたところ、翌月の関西例会(2015/02/21)で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が驚きの研究結果〝短里と景初〟を発表されました。(つづく)


第2311話 2020/12/06

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(2)

 「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)で正木さんが発表された〝「魏・西晋朝短里」は揺るがない〟で、『三国志』に長里が混在する可能性があるケースとして次の諸点をあげられました(古賀からの追加例を含む)。

(1)2定点(出発地と到着地の具体的地名)が示されない里数値の場合。陳寿自身もそれが短里による記録なのか、長里による記録なのかが不明な史料に基づいて引用した可能性があり、長里により記された史料を短里に換算せずに『三国志』に使用した場合。
(2)漢代成立の、あるいは魏朝が短里を公認する前の手紙や上表文、会話記録にあった里数値(長里)をそのまま『三国志』に引用した場合。
(3)長里により成立した成語の場合。短里による成語である「千里の馬」(1日に千里走る名馬)とは逆のケース。
(4)長里を使用していたと考えられる呉や蜀で成立した記録をそのまま引用せざるを得ない場合。たとえば手紙や会話記録。
(5)極めて短距離であり、陳寿自身も長里か短里か判断できない記録を引用した場合。

 これらのケースでは長里が混在する可能性があります。もちろん、その場合でも陳寿は公認の短里で『三国志』を編纂するという姿勢を貫いたはずです。長里記事をどのように引用・記載するべきか、編纂方針を考え抜いたことでしょう(短里に換算するべきか、そのまま記載するべきかなど)。
 正木さんからの、『三国志』長里混在の可能性という問題提起により、魏朝での短里採用時期へと関西例会の論議は進展しました。(つづく)


第2310話 2020/12/05

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)

 本年11月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」〟というテーマを発表されました。福岡市の比恵・那珂遺跡の紹介など多彩な研究成果や新情報が紹介され、好評を博しました。
 その質疑応答において、魏朝で短里が使用されたのはいつからかという質問に対して、明帝の景初元年(237)ではないかと正木さんは回答されたのですが、それには史料根拠がなく、論証されていないというような反論が出されました。時間がなかったので、わたしは発言しませんでしたが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が既に景初元年(237)短里開始説を論証し、論文発表されていることをご存じないようでした。良い機会ですので、同説の発表経緯も含めてあらためて紹介することにします。
 ことの発端は、約6年前の「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)での正木さんの発表〝「魏・西晋朝短里」は揺るがない〟でした。そのとき次のような論議が行われました。
 正木さんからは、「古田の短里説は『魏志』においてさえも成立不能」とする寺坂国之著『よみがえる古代 短里・長里問題の解決』に対して、地図を示し具体的にその誤りを批判されました。また『三国志』に長里が混在した場合、なぜそうなったかの個別の検討が必要とされました。そして、魏朝ではいつから短里を公認制定したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが「暦法を周制に変更した明帝の時ではないか」とする見解を示されました。(つづく)


第1541話 2017/11/18

倭人伝「周旋五千餘里」大論争

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。12月、来年1月もドーンセンターです。2月は福島区民センターで、関西例会としては初めて使用する会場です。お間違えなきよう。
 今回は倭人伝の「周旋五千餘里」について大論争となりました。「周旋五千餘里」を狗邪韓国から侏儒国までの陸地行程の合計とする野田説に対して、藤田さんは、「周旋」には「端から端までという意味はない」と批判され、「五千餘里」は倭国内陸地行程の合計ではなく、別の情報に基づくものとされました。正木さんは、狗邪韓国から邪馬壹国までの部分里程の合計とする従来の理解が妥当であるとされました。この三説に対して参加者から賛否の意見が出され、大論争となったものです。もちろん結論は出ませんが、初めて関西例会に参加された方からは、これほどの論争がなされるとは思わなかったとの驚きの声も聞かれました。この「周旋五千餘里」論争はまだまだ続きそうです。
 11月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔11月度関西例会の内容〕
①藤原不比等による歴史改ざん説の修正と補足(茨木市・満田正賢)
②近畿は「住吉神社」を設置した時点から九州王朝の治世下にあった(奈良市・原幸子)
③十七条憲法についての追加考察(八尾市・服部静尚)
④七〇一年以降の「倭」史料について(神戸市・谷本茂)
⑤出野正氏の所説への疑問と批評(神戸市・谷本茂)
⑥三国志の「接」の用法(姫路市・野田利郎)
⑦「周旋五千餘里」を考える(宝塚市・藤田敦)
⑧フィロロギーと古田史学【その6】(吹田市・茂山憲史)
⑨「周旋五千餘里」従来の理解(川西市・正木裕)
⑩栄山江流域における前方後円墳の出現過程(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 水野顧問の病状報告・例会初参加者のご挨拶・大津市歴史博物館企画展(大津の都と白鳳寺院)のご案内・狭山池博物館特別展(蓮華の花咲く風景 仏教伝来期の河内と大和)のご案内・兵庫県立博物館特別展(青銅の鐸と武器 弥生時代の交流)のご案内・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念松本市講演会(11/14)の報告(邪馬壹国研究会・松本と共催)・新入会員報告・会費入金状況・「古田史学の会」関西例会の会場、12月、1月(ドーンセンター)、2月(福島区民センター)・1/21「古田史学の会」新春講演会(i-siteなんば)・『古代に真実を求めて』21集の編集状況・筑前町から弥生時代の硯発見の報告・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(11/24「大宰府に来ていたペルシャの姫」正木裕さん)・その他


第1213話 2016/06/19

張莉さん正木さん講演会のご報告

 本日、大阪府立大学なんばキャンパスにて「古田史学の会」定期会員総会と記念講演会を開催しました。総会に先だって、張莉さん(漢字学者、大阪教育大学特任准教授)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)が講演されました。演題は次の通り。

 張莉さん:「食」と「酒」の漢字
 正木裕さん:漢字と木簡から魏志倭人伝の短里を解明する

 張莉さんは中国天津のご出身で、天津といえば天津飯と天津甘栗が有名ですが、張莉さんは天津飯は日本に来て初めて食べたとのことです。また、天津甘栗の栗は天津産ではなく河北省産で、天津港から出荷されたため「天津甘栗」と呼ばれたようです。
 講演では「食」や「飲」の字の意味と成立過程を金文や甲骨文字にまで遡って説明していただき、初めて知ることばかりでした。他方、日本語の「うまい」の語原が「熟(う)む」、「おいしい」は「美(い)し」、「まずい」は「貧しい」が語原であることなども初めて知りました。中国ご出身の張莉さんから日本語の語原を教えていただくのも不思議な感覚でしたが、張莉さんが白川静先生のお弟子さんであることを思えば、納得がいきます。最後まで興味深く聴講しました。
 正木さんからは『三国志』の里単位が1里=75〜77mの短里であり、里程記事が実際の地図でも短里で一致することが確認できるとされ、実例をあげて説明されました。さらに古代中国の数学書『周髀算経』や竹簡(張家山漢簡、1983年出土)に記された「二年律令」などからも証明でき、そして短里の成立が殷代以前に遡ることにも言及されました。これら正木さんの研究は古代中国における短里に関する最先端研究です。
 講演会後に行われた会員総会も全ての議案が承認され、新たに冨川ケイ子さんが全国世話人に選ばれました。場所を代えて行われた懇親会も盛り上がり、夜遅くまで親睦を深めました。参加された皆さん、お疲れさまでした。そして、ありがとうございます。これからも「古田史学の会」へのご協力をよろしくお願い申しあげます。