古賀達也一覧

第1842話 2019/02/20

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)

 前回までは『大宰府の研究』掲載の考古学論文を中心に紹介してきましたが、同書にはちょっと趣が異なる論文もあります。森弘子さん(福岡県文化財保護審議会会員)の「筑紫万葉の風土 ―宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか―」です。これは古代歌謡学とでもいうべきジャンルの論文ですが、わたしはこのサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」に興味を引かれ、読み始めました。

 というのも、わたしは『古今和歌集』に見える阿倍仲麻呂の有名な歌、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」の「みかさの山」は奈良の御蓋山(標高約二八三m)ではなく太宰府の東にそびえる三笠山(宝満山、標高八二九m)のこととする古田説を支持する論稿を発表し、その中で万葉集に見える「みかさ山」も、通説のように論証抜きで奈良の御蓋山とするのではなく、筑紫の御笠山(宝満山)の可能性も検討しなければならないとしていたからです。森弘子さんの論文のサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」を見て、わたしと同様の問題意識を持っておられると思い、その論証と結論はいかなるものか興味を持って読み進めました。

 論文冒頭に、「秀麗な姿で聳える『宝満山』」「宝満山は古くは『竈門山』とも『御笠山』とも称し」と紹介された後、「筑紫万葉」とされる『万葉集』の歌を分析されています。古代歌謡に対する博識をいかんなく発揮されながら論は進むのですが、論文末尾に結論として次のように記されています。

 「宝満山の歌が一首も万葉集にないのは、たまたまのことかも知れない。しかしやはりこの山が、歌い手である都から赴任した官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかったということであろう。」(557頁)万葉集になぜ宝満山が歌われていないのかという鋭い問題意識に始まりながら、論じ尽くした結果が「たまたまのことかもしれない」「官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかった」では、何のための論文かと失礼ながら思ってしまいました。宝満山が御笠山という別名を持っていたことまで紹介されていながら、『万葉集』に見える「みかさ山」の中に宝満山があるのではないかという疑問さえ生じない。すなわち、『万葉集』に「みかさ山」とあれば疑うことなく「奈良の御蓋山」のこととしてしまう、この〝凍りついた発想〟こそ典型的な大和朝廷一元史観の「宿痾」と言わざるを得ないのです。(つづく)

※「みかさ山と月」に関しては次の拙稿や「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

平城宮朱雀門で観月会 みかさの山にいでし月かも??(『古田史学会報』28号、1998年10月)
○「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』43号、2001年4月)
○〔再掲載〕「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』98号、2010年6月)
○三笠の山をいでし月 -和歌に見える九州王朝の残映-(『九州倭国通信』193号、2019年1月)
○「洛中洛外日記」
第731話 「月」と酒の歌
第1733話 杉本直治郞博士と村岡典嗣先生(1)


第1833話 2019/02/03

「実証主義」から「論理実証主義」へ(2)

 今朝は大阪へ向かう京阪特急の車内で書いています。本日、大阪市のドーンセンターで開催する「古田史学の会」新春古代史講演会の講師、山田春廣さんを宿泊ホテルまでお迎えに行きます。山田さんは昨日のうちに千葉県鴨川市から来阪されています。『日本書紀』景行紀の謎の記事「東山道十五国都督」について解明された山田さんの新説を講演していただくことになっており、わたしも楽しみにしています。

 今回、「洛中洛外日記」で新たに取り上げようとしている、〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡先生の言葉や思想の由来についてですが、20世紀前半にヨーロッパ(ウィーン学団など)で行われた哲学における「実証主義」批判と「実証主義」の対案として出された「論理実証主義」の影響を村岡先生は受けられたのではないかと、わたしは推察しています。というのも、村岡先生は早稲田大学で波多野精一教授の下で西洋哲学を専攻されており、当時のヨーロッパでのこうした哲学論争のことをご存じなかったとは考えられないからです。
 ウィキペディアなどによると、19世紀フランスの思想家オーギュスト・コントが提唱したとされる「実証主義」に対して、その限界が問題視された1920年頃から新たに「論理実証主義」(論理経験主義)が「ウィーン学団」と称される研究者たちから論議・提案されてきました。瞬く間に「論理実証主義」は西洋の哲学界や科学界に広まりました。その最中に村岡先生は欧州遊学されているのです。村岡典嗣著「日本學者としての故チャンブレン教授」(昭和10年。『続日本思想史学』〔昭和14年、1939年〕所収)によれば、次のようにスイス・ジュネーブでのチャンブレン教授との出会いが記されており、村岡先生がヨーロッパを訪問されていたことがわかります。

 「二月十五日、瑞西のジュネエヴで、八十五歳の高齢で永眠したチャンブレン教授については、我國でも十七日の諸新聞に訃が報ぜられて、すでに紙上に、ゆかりある追悼者によっての傳記、閲歴の紹介などを見た。吾人も亦、一九二三年の五月、獨逸遊學中伊太利に旅した途次ジュネエヴを訪うた時、恰かも教授の住まへるレエマン湖畔のホテル・リッチモンドに宿り合せ、二十一日の午後、日本風にいはば三階の、第三十六號の教授の居室を訪ねて、面談する幸ひを得た些かの機縁を有する。」(『続日本思想史学』357頁、岩波書店)

 この翌年の大正13年(1924)には、村岡先生は広島高等師範から東北帝国大学(法文学部教授、日本思想史科を開設)に移られるのですが、この「獨逸遊學」中に「論理実証主義」に触れられたのではないでしょうか。むしろ、ヨーロッパを席巻し始めた新たな思想潮流を学ぶために「獨逸遊學」されたのではないかとさえ思われるのです。そして、この「論理実証主義」との出会いが刺激となって、〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という言葉が生まれたのではないかと、わたしは推定しています。(つづく)

《ウィキペディアでの解説(抜粋)》
○「実証主義」(じっしょうしゅぎ、英: positivism、仏: positivisme、独: Positivismus)は、狭い意味では実証主義を初めて標榜したコント自身の哲学を指し、広い意味では、経験的事実に基づいて理論や仮説、命題を検証し、超越的なものの存在を否定しようとする立場である。

○「論理実証主義」(ろんりじっしょうしゅぎ、英: Logical positivism)とは、20世紀前半の哲学史の中で、特に科学哲学、言語哲学において重要な役割を果たした思想ないし運動。論理経験主義(英: Logical Empiricism)、科学経験主義とも言う。
 1920年代後半のウィーンでエルンスト・マッハの経験主義哲学の薫陶を受けたモーリッツ・シュリックを中心に結成したウィーン学団が提唱した。経験論の手法を現代に適合させ、形而上学を否定し、諸科学の統一を目的に、オットー・ノイラート、ルドルフ・カルナップなどのメンバーで活動したウィーンを中心とした運動である。その特徴は、哲学を数学、論理学を基礎とした確固たる方法論を基盤に実験や言語分析に科学的な厳正さを求める点にあり、その後の認識論及び科学論に重大な影響を与えた。


第1832話 2019/02/01

「実証主義」から「論理実証主義」へ(1)

 先月、多元的古代研究会の安藤哲朗会長と電話でお話しする機会がありました。年始のご挨拶を兼ねて、多くの意見交換を行うことができました。その中で〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡典嗣先生の言葉も話題となりました。安藤さんのお話によれば、〝このような言葉は古田先生の著書にも書かれておらず、古田先生から聞いたというのは古賀の嘘だ〟と信じておられる方がいるとのこと。このような虚偽情報を真に受けている方が未だにおられることに驚きました。と同時に、わたしの説明(反論)が不十分だったことを反省しました。
 今から三十数年前に古田先生の門を叩いて以来、わたしはこの〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡先生の言葉を古田先生から何度もお聞きしましたし、古くからの古田ファンや支持者(不二井伸平さん、西村秀己さん他)も聞いておられますから、まさか〝古賀の嘘〟と言われるとは夢にも思いませんでした。また、この言葉は古田先生の著作にも記されており、〝古田先生の著作に書かれていない〟と言われる方は、古田先生の著作を全て読んでおられないようです。多元的古代研究会の機関紙『多元』142号(2017年11月)の一面に掲載された拙稿「論証は学問の命(古田武彦)」でも次の古田先生の著書にこの言葉が記されていることを紹介しています。

○「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」1982年(昭和57年)、東北大学文学部『文芸研究』100〜101号所収。
 同論文はこの翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録。
【以下、当該部分を引用】わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。(村岡典嗣)』と。
○『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)巻末の「日本の生きた歴史(十八)」2013年。
【以下、当該部分を引用】わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。「実証より論証の方が重要です。」と。

 このように、先生は著作中でも30年の永きにわたり、この言葉を綴っておられるのです。古くからの古田先生の支持者や近年の「日本の生きた歴史」の読者であればこの事実を知らないはずはありません。
 しかし、今回「洛中洛外日記」で新たに取り上げたいのは、〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡先生の言葉や思想の由来についてです。安藤さんとの会話の中で、「この言葉の意味について関西ではどのような検討や論議が行われているのか知りたい」とのご要望をいただき、わたしは「今年になって面白い問題に気づきましたので、もう少し勉強してからご説明することにします」と返答しました。その面白い問題とは20世紀前半にヨーロッパ(ウィーン学団など)で行われた「実証主義」批判と「実証主義」の対案として出された「論理実証主義」の研究経緯についてでした。(つづく)


第1830話 2019/01/26

難波から出土した「筑紫」の土器(2)

 大阪府歴史博物館の寺井誠さんの論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)によれば、福岡市早良平野から糸島東部にかけて多く見られる「平行文当て具痕」のある須恵器が難波から出土していることが確認され、七世紀前半頃に筑紫と難波との交流があったことの痕跡とされました。紹介された須恵器はいずれも破片であり、その数もそれほど多くはありませんでした。ところが、後期難波宮の瓦堆積層出土坏Bが報告されていた『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)を精査していたところ、次のような難波宮下層遺跡出土須恵器の生産地についての記述があることに気づきました。

 「5.その生産地について
 これまで、難波宮下層遺跡出土の土器について、若干その編年的位相について述べたが、ここでは須恵器の生産地について述べてみたい。いうまでもなく、難波宮下層遺跡は須恵器の生産地でなく消費地であり、そこで使用した須恵器は単一の生産地のものだけではないことが想定されよう。もちろん、土器群の大部分は近畿の生産地によっていることもまた十分想定される。ただ、(B)の杯身中に際立った特徴をもつ一群があり、それらは他のものと生産地を異にすると考えられる。それは、158〜163で、たちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものである。これらは、個体数こそ少ないが稀有な例ではない。さらにそのうち、162・163は色調が灰白色を呈し、胎土も非常によく似ている。その色調・胎土の特徴は、(B)の坏蓋や、SK9343出土土器中の65・67にもみられ、特異な一群を形成している。
 杯身のたちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものは、管見の限りでは畿内地域より九州地方の窯跡出土の土器中に散見されるものに似ていると思われる。ただ、天観寺山窯出土土器の胎土とは肉眼観察の上では異なっており、現在のところこれら一群の土器が即九州等の遠隔地で生産されたとはいえない。しかし、その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。また、難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」(186頁)※(B):黒灰色粘質土層

 このように慎重な筆致ですが、難波宮下層遺跡から出土した九州地方の須恵器と類似する特徴的な須恵器の一群の存在を指摘され、「その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。」とされ、「難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」と締めくくられています。ここでの類似した九州地方の須恵器として次の報告書を紹介されています。

○北九州市埋蔵文化財調査会『天観寺山窯跡群』1977年
○太宰府町教育委員会『神ノ前窯跡-太宰府町文化財調査報告書第2集』1979年
○北九州市教育委員会「小迫窯跡」『北九州市文化財調査報告書第9集』1972年

 このように九州王朝の中枢領域の須恵器と類似していることは、先の寺井さんが報告した「平行文当て具痕」のある須恵器と同様です。難波宮下層遺跡からの出土ですから、7世紀前半頃には難波と筑紫とは交流があったことを疑えません。
 文献史学の研究によれば、『二中歴』に記された「難波天王寺」建立記事の他に、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)が「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』、『古代に真実を求めて』18集)で、九州王朝が河内の支配者(捕鳥部萬・ととりべのよろず)を滅ぼしたとする仮説を発表されています。これらによれば、九州王朝の天子・多利思北孤の時代に九州王朝は河内や難波を自らの支配領域とし、倭京二年(619)に「難波天王寺」を建立、白雉元年(652)には前期難波宮を造営したことになります。このように文献史学と考古学の成果が共に前期難波宮九州王朝副都説を支持する方向に向かっています。引き続き考古学の面からの調査研究を続け、古田先生からの宿題に答えていきたいと考えています。


第1829話 2019/01/25

難波から出土した「筑紫」の土器(1)

 前期難波宮九州王朝副都説にとって超えなければならない〝壁〟があります。この仮説を古田先生に最初に報告したとき、九州王朝の副都であれば神籠石山城など九州王朝との関係を裏付ける考古学的証拠が必要とのご指摘をいただきました。それ以来、古田先生の指摘はわたしにとっての宿題となり、今日まで続いています。更に、難波に九州王朝が副都を置くと言うことは、その地が九州王朝にとっての安定した支配領域であることが必要ですが、そのことについては文献史学の研究により既にいくつかの根拠が見つかっています。
 一例をあげれば、『二中歴』年代歴に見える九州年号「倭京」の細注の「倭京二年、難波天王寺を聖徳が建てる」という記事があります。九州王朝が倭京二年(619)に聖徳(利歌彌多弗利か)という人物が難波に天王寺を建立したという記事ですが、大阪歴博の調査により創建四天王寺の造営年が出土瓦の編年により『日本書紀』の記述とは異なり、620〜630年頃と編年されており、これが『二中歴』の細注記事と対応しています。このことから七世紀前半の難波は九州王朝が天王寺を建立できるほどの深い繫がりがあることを示しています。
 他方、考古学的痕跡として難波から「筑紫の須恵器」が出土していることが大阪歴博の寺井誠さんにより報告されています。そのことを下記の「洛中洛外日記」で紹介しました。抜粋して転載します。(つづく)

第224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
(前略)
 前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。
 それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないでしょうか。」と好意的に記されていました。(後略)

第243話 2010/02/06
前期難波宮と番匠の初め
(前略)
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。(後略)


第1828話 2019/01/23

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(5)

 前期難波宮天武朝造営説を提唱された小森俊寬さんが著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)で、「難波宮址整地層出土の土器」(91頁)として掲示された須恵器坏B「35」が、その出典調査により後期難波宮整地層出土であったことを明らかにしてきました。それ以外にも「51」「52」という坏Bも掲載されており、今回はその出典調査を行いました。
 その須恵器坏B「51」「52」は『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)で報告されていました。出土地は「MP-1区」と命名された「森ノ宮ランプ」の場所です。「難波宮跡」として報告された層位から出土しており、「Fig.44 難波宮整地層内出土須恵器」(94頁)にその断面図が「51」「52」として掲載されています。いずれも底部に高台を持ち、坏Bで間違いありません。この「51」「52」の出土地や出土状況について、次のように説明されています。

 「今回報告する調査地区は、難波宮跡の中枢部を断続的に横断しており、その内容は多岐にわたるので、瓦塼類の出土地点建物との関係については表4に示した。瓦塼類の総量はコンテナバットに約100箱で、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦・熨斗瓦・面戸瓦・塼がある。軒丸瓦は9型式47点のうち新型式が1、軒平瓦は10型式45点のうち新型式が2ある。
 内裏地域の瓦塼類の出土は瓦堆積や掘立柱抜き取り穴など後期難波宮の遺構に伴っている。MP-1区出土の瓦類は、掘立柱建物SB10021の柱抜取り穴とその直上層の瓦包含層からその大半が出土しており、それらは建物SB10021に葺かれた屋瓦と考えることができる。」(81頁)

 「51・52はこれらの蓋に伴う高台をもつ坏で、51は75次調査南トレンチ3区の瓦堆積出土、52は75次調査中央トレンチ11区難波宮整地層上堆積層出土である。」(93頁)

 このように坏Bの「51」「52」が出土した遺構と当該層位は、瓦がコンテナバットに約100箱も出土した瓦葺きの後期難波宮の「堆積層」であることが示されています。「52」に至っては「難波宮整地層上堆積層出土」と整地層の上の堆積層からの出土と説明されています。小森さんはこれらの説明を全て見落とし、両坏Bを前期難波宮整地層からの出土と誤解され、前期難波宮天武朝造営説を唱えられていたのです。
 わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対する批判の根拠として小森さんの天武朝造営説が利用されてきたのですが、この小森説が出土事実に対する誤解の産物(誤論)であったことがわかり、あの長期にわたったわたしへの批判や論争は何だったんだろうと残念な気持ちです。しかし、この経験により〝学問は批判を歓迎する〟という言葉が正しかったことを改めて確信することができました。この批判のおかげで、わたしは七世紀の須恵器編年を本格的に勉強することができ、考古学に関する知見を深めることができました。批判していただいた方々に感謝したいと思います。
 最後に、小森さんの誤解を誘発した『難波宮址の研究 第七』での「難波宮整地層出土」という表記ですが、このことについて、大阪歴博学芸員の松尾信裕さんにその事情をお聞きすることができました。およそ、次のような理由により「前期難波宮整地層」や「後期難波宮整地層」ではなく「難波宮整地層」という表記を採用されたことがわかりました。

①整地層からは様々な時代の土器が出土するために、整地層造営時の編年が出土土器からは困難なケースが多い。
②難波宮整地層の上には前期難波宮と後期難波宮が造営されており、その遺構や遺物が重層的に出土する。そのため、前・後どちらの造営時か不明な場合は、「難波宮整地層」という表現に留めるのが学問的に正確である。
③その「整地層」出土遺物の編年は個別の出土状況や共伴遺物から前期難波宮時代のものか後期難波宮時代のものかを判断しなければならない。
④今回の坏Bの出土状況や層位については、報告書に後期難波宮時代の「瓦堆積層」からのものとわかるように明確に記している。

 以上のように、考古学的に正確な表記を採用されていることがわかりました。こうした学問的に厳密な配慮により報告書が書かれているにもかかわらず、小森さんは考古学者としての当然の学問的配慮を理解されないまま、天武朝造営説を提起されたと言わざるを得ません。
 付言しますと、難波宮整地層上に「焼土」などが堆積していた場合は、それを『日本書紀』朱鳥元年(686)に見える前期難波宮火災の痕跡と見なすことができ、その「焼土」の下の整地層は686年以前に存在した前期難波宮整地層と判断できます。しかしながら、その整地層内からは様々な時代の土器が出土しますから、その土器を根拠に整地層造営年代の特定は困難です。
 結果として前期難波宮造営年代の最大の根拠となったのは、井戸がなかった前期難波宮の水利施設が宮殿近くの谷から出土し、その水利施設造営時期の層位から大量に出土した須恵器坏Hと坏Gが根拠となって、前期難波宮造営を七世紀中頃と編年することができました。更に、その水利施設から出土した桶の木枠の年輪年代測定が634年であることや前期難波宮のゴミ捨て場の谷から出土した「戊申年(648年)」木簡、前期難波宮北側の柵跡から出土した木柱の年輪セルロース酸素同位体年代測定による最外層年輪の年代(七世紀前半)などが土器編年とのクロスチェックとなり、ほとんどの考古学者の支持を得て、前期難波宮孝徳期造営説が通説となったことは、これまでも説明してきた通りです。(つづく)

 


第1826話 2019/01/14

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(4)

 小森俊寬さんの前期難波宮天武朝造営説は、その根拠とした須恵器坏Bの出土層位(後期難波宮再整地層)を前期難波宮の整地層と誤解していたことがわかり、わたしの疑問は氷解しました。前期難波宮九州王朝副都説(孝徳期造営)への批判の根拠の一つにこの小森さんの説が採用されていたのですが、他者の論文を精査することなく使用することの危うさが感じられた一件でした。自戒したいと思います。
 前期難波宮造営時期についての論争は改めて決着がついたのですが、わたしにとっては、このことにより更に重要な問題が自説に立ちはだかることになりました。それは九州王朝の都、太宰府条坊都市の造営を7世紀前半とする文献史学の研究に基づく仮説が出土土器の編年と一致しないという問題です。
 太宰府市や九州歴史資料館の考古学者の見解では、太宰府条坊から7世紀前半の土器の出土は確認されておらず、条坊都市造営を7世紀前半とすることには考古学的根拠がないとのことです。この考古学的事実が自説成立にとって最も困難な壁でした。なんとか土器編年の見直しができないものかと考え、前期難波宮整地層出土とされた「須恵器坏B」を根拠に、太宰府政庁Ⅰ期整地層出土「須恵器坏B」の編年を50年ほど遡らせることができるかもしれないと、わたしは考えたのですが、その可能性と構想が今回の発見により壊れ去りました。
 学問研究にとって大切なことの一つに、自説にとって最も不都合な事実に着目するという姿勢があります。自説に有利な事実のみに依拠し、不利な事実や見解は〝一元史観の考古学者の編年など信用できない。信用しなくてよい〟とする論者を見かけますが、この姿勢は学問的に危険です。自説に不利な事実から逃げることなく、研究を続ける精神力が学問には必要です。わたしはあきらめることなく、太宰府出土土器の編年研究を続けます。


第1825話 2019/01/12

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(3)

 前期難波宮整地層出土「須恵器坏B」を記した『難波宮址の研究 研究予察報告第四』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)の「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」に掲載されている坏B「35」の詳細な解説記事を探していたところ、『難波宮址の研究 研究予察報告第五 第二部』(昭和40年大阪市教育委員会1965年)に坏B「35」と思われる須恵器[7]とそれよりも大きい須恵器坏B[8]の図面(Fig.11 難波宮整地層出土土器、24頁)や写真(第一四次 東地区整地層下灰色土層出土遺物〔須恵器〕Fig.11-7、95頁)が掲載されており、次のように説明されていました。

 「坏(7・8) いずれも聖武朝難波宮造営時の再整地層と思われる部分から出土したもので、いずれも体部が外傾し、底部に高台のつく式である。(7)は口縁復元径14.4cm、器高4.6cmで、全体暗褐色を呈し、軟質である。(8)は口縁復元径19.3cm、器高5.3cmの大形で、堅緻なつくりのものである。」(26頁)

 更に坏7と坏8の年代について次のように説明されています。

 「その出土が聖武朝時の再整地層に限定せられることから、その存続年代の一点を聖武朝難波宮の造営期間--神亀3年(726年)から天平6年(734年)頃のうち、初期の段階に近い時期に想定することができる。」(31頁)

 このように、小森俊寬さんが前期難波宮天武朝説の根拠とされてきた整地層出土の須恵器坏Bは聖武朝の後期難波宮の「整地層(再整地層)」からの出土だったのです。報告書には聖武朝時の再整地層からの出土と記されているにもかかわらず、前期難波宮整地層からの出土品として、天武朝造営説の根拠とされていたのです。すなわち、出土層位の誤解に基づいて、前期難波宮の天武朝造営説が発表され、孝徳期造営説との論争が続けられてきたのです。(つづく)


第1824話 2019/01/12

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(2)

 昨年、「須恵器坏B」の編年とその学問的影響について、下記の「洛中洛外日記」で繰り返し論じました。短期間でこれほど同一テーマを論じたのは初めてと思いますが、これは7世紀における土器や遺構の年代が「須恵器坏B」の再編年により大きく変わる可能性があるため、念入りに論じたものです。

○1753〜1762話 2018/09/19〜29
7世紀の編年基準と方法(1)〜(10)
○1764〜1773話 2018/09/30〜10/13
土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)〜(9)
○1787話 2018/11/20
佐藤隆さんの「難波編年」の紹介
○1789〜1790話 2018/11/22
前期難波宮出土「須恵器坏B」の解説(1)〜(2)
○1793〜1795話 2018/11/30〜12/01
前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1)〜(3)
○1796〜1800話 2018/12/03〜07
「須恵器坏B」の編年再検討について(1)〜(5)

 前期難波宮整地層から出土した「須恵器坏B」を根拠に、前期難波宮を天武期の造営とする説(注)があるのですが、理化学的年代測定や前期難波宮の水利施設から大量に出土した7世紀前半から中頃と編年されている須恵器坏Hと坏Gにより、ほとんどの考古学者が孝徳期造営説を支持しており、それが通説となっています。
 その結果、従来7世紀後半頃と編年されていた須恵器Bですが、前期難波宮整地層からの出土により、7世紀前半頃の発生の可能性が出てきたのです。そうすると、太宰府政庁Ⅰ期の整地層から出土する須恵器坏Bの編年も7世紀前半頃と編年できる可能性があり、太宰府条坊都市の造営を7世紀前半とできるかもしれないと、上記の「洛中洛外日記」で指摘してきました。
 そこで、前期難波宮整地層出土「須恵器坏B」を記した報告書を捜しました。ようやく見つけたのが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)にあった「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と解説されている1個の坏B「35」でした。しかし、この坏B「35」についての解説がなく、そのことがずっと気になっていました。そこで新年になって大阪歴博に赴き、再度当時の報告書を精査したところ、思わぬ記述が別の報告書にあるのを発見したのです。(つづく)

(注)小森俊寬(元・京都市埋蔵文化財研究所)『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)


第1823話 2019/01/12

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(1)

 今朝は博多へ向かう新幹線車中で書いています。帰省を兼ねて、明日開催される「九州古代史の会」の新年例会と懇親会に参加する予定です。

 学問研究は一直線には進まず、右往左往・二転三転することが常です。ですから、自説が絶対に正しいなどとは思わず、自説に欠点や弱点はないだろうか、自説に最も不利な事実は何だろうか、もっと有力な他の説が成立する余地はないのか、などと用心する謙虚な姿勢が大切です。しかし残念ながら自説は正しいと思いこんでいますから、なかなかこうした弱点や欠点を自ら見つけることができないのが普通です。したがって論文発表の前に研究会などで口頭発表し、批判や意見を仰ぐことが重要となります。
 そうした場に恵まれず、一人で研究を続けるのは難しいものです。最初に間違ってしまうと、注意してくれる研究者が近くにいないので、その後はどんどん大きく間違ってしまい、他者から指摘されても今更後にも退けず、〝ドツボ〟にはまります。そのような研究者をわたしは何人も見てきましたから、自らがそうならないよう、遠慮なく辛辣に批判してくれる研究者が集う「古田史学の会・関西例会」には感謝しています。
 そんなわけで、新年早々に二転三転したテーマについてご紹介します。それは前期難波宮整地層から出土した「須恵器坏B」の編年についてです。昨年、「洛中洛外日記」で連載したテーマですが、大展開(転回)してしまいました。(つづく)


第1822話 2019/01/12

臼杵石仏の「九州年号」の検証(5)

 鶴峯戊申の『臼杵小鑑』の「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」との記事を信用するなら、次のような二つのケースを推論することができると考えました。

①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 ②のケースの場合、石仏の「正和四年」は九州年号と判断できるのですが、そのことを学問的に証明するためには、「正和四年卯月五日」と刻銘された石仏が鎌倉時代のものではなく、6世紀まで遡る石像であることを証明しなければなりません。しかし、現在では刻銘そのものが失われているようですので、どの石像に刻されていたのかもわかりません。そうすると、せめて満月寺近辺に現存する石仏に6世紀まで遡る様式を持つものがあるのかを調査する必要があります。
 臼杵石仏に関する研究論文を全て精査したわけではありませんが、今のところ臼杵石仏に6世紀まで遡るものがあるという報告は見えません。やはり多元史観の視点による現地調査が必要と思われますし、6世紀の中国や朝鮮半島の石仏の様式研究も必要です。
 更に、6世紀の倭国において「卯月」という表記方法が採用されていたのかという研究も必要です。10世紀初頭頃に成立した『古今和歌集』136番歌(紀利貞)の詞書に「うつき(卯月)」という言葉が見え、この例が国内史料では最も古いようですので、これを根拠に6世紀にも使用されていたとすることはできません。石仏の様式と「卯月」という表記例の調査も史料批判上不可欠なのです。
 以上のような考察の結果、わたしは臼杵石仏に彫られていたとされる「正和四年卯月五日」を九州年号と断定することは困難と判断しました。どれほど自説に有利で魅力的な史料や他者の仮説であっても、必要にして十分な史料批判や検証を抜きに採用してはならないと実感できたテーマでした。こうした研究姿勢は歴史学における基本的なものです。


第1821話 2019/01/11

臼杵石仏の「九州年号」の検証(4)

 『臼杵小鑑』の「正和四年」を九州年号史料とすることをわたしは一旦は断念したのですが、その後も気にかかっていましたので、他の可能性についても考察を続けました。幸いにも、『臼杵小鑑』の国会図書館本のコピーを冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)からいただいていたので、何度も精査することができました。
 その結果、鶴峯が「十三佛の石像に正和四年卯月五日とある」と記したことを信用するなら、五重石塔とは別の石仏(十三佛の石像)に彫られた「正和四年卯月五日」の文字を鶴峯は見たことになり、そこには年干支がありませんから九州年号の「正和四年」と理解したと考えることも可能であることに気づいたのです。また、『臼杵小鑑』の「満月寺」の次に「古石佛」の項があり、満月寺の近くに点在する石仏群のことが記されています。そこには「二十五菩薩十三佛」という記事が見え、「満月寺」の項の「十三佛の石像」の「十三佛」という表現と一致します。
 こうした考察が正しければ、鶴峯の時代(江戸時代後期)には臼杵の満月寺近辺には「正和四年乙卯夘月五日」と記された五重石塔と「正和四年卯月五日」の銘文を持った石仏が併存していたことになります。五重石塔の「正和」はその年干支「乙卯」の存在により鎌倉時代の「正和四年(一三一五)」と判断可能ですが、石仏の「正和四年卯月五日」は年干支がなく判断ができません。しかし、次のようなケースを推論することができます。

①鎌倉時代の正和四年(1315)卯月(旧暦の4月とされる)五日に石仏と五重石塔が造営され、石仏には「正和四年卯月五日」、石塔には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された。その後、石仏の文字は失われた。

②九州年号の「正和四年(五二九)」に石仏が造営され、「正和四年卯月五日」と刻銘された。鎌倉時代にその石仏の刻銘と同じ「正和」という年号が発布されたので、既に存在していた石仏の「正和四年卯月五日」と同じ月日に「正和四年乙卯夘月五日」と刻した五重石塔を作製した。その後、石仏の文字は失われた。

 このような二つのケースが推定できるのですが、②のケースの場合に石仏の「正和四年」は九州年号となります。それでは②のケースが成立するためにはどのような学問的根拠や論証が必要でしょうか。考察を続けます。(つづく)