古賀達也一覧

第1430話 2017/06/23

本居宣長「師の説にななづみそ」

 「師の説にななづみそ。本居宣長のこの言葉は学問の金言です。」と、わたしは古田先生から教えられてきました。古くからの古田ファンの方なら、講演会などで古田先生からこの話を聞かれたことがあるのではないでしょうか。
 六月の「古田史学の会」関西例会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のレジュメにこの言葉が記された本居宣長の『玉勝間』を紹介されていましたので、とても懐かしく思いました。学問を志す上で素晴らしい言葉ですので、その部分を転載します。
 なお、付言しますと、ある時期から古田先生はこの話をあまりされなくなりました。それは『東日流外三郡誌』などの和田家文書偽作キャンペーンが熾烈を極めた頃です。
 「古田先生は和田喜八郎氏にだまされている」「古田古代史は支持するが、和田家文書は偽作で支持しない」というような声が古田先生の支持者や「弟子」らの中から次々とあがり、そうした人々が先生から離反していきました。わたしが「兄弟子」として慕っていた人々の多くが古田先生を裏切り、偽作キャンペーン側についたり、“だんまり”“日和見”を決め込んだりしたのです。そのとき彼らは、「師の説にななづみそ」という言葉を自ら行為の「免罪符」に使いました。
 まだ若かったわたしは、あれだけお世話になった先生をこんな簡単に人々は裏切るのかと愕然としました。いわば、その人々は「師の説になづまず、他の人になづんだ」(中小路駿逸先生談)のでした。その頃から、古田先生はこの本居宣長の言葉をほとんど口にされなくなりました。わたしは今でも本居宣長のこの言葉は古田先生から教えられたとおり「学問の金言」と信じていますが、同時に古田学派にとって運命に翻弄された言葉でもあるのです。

 本居宣長『玉勝間』巻の二
師の説になづまざる事
 おのれ古典をとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろきことあるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかめれど、こはすなわちわが師(賀茂真淵)の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出来たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし、こはいとたふときをしへにて、わが師のよにすぐれ給へる一つなり、
 (中略)
 吾(本居宣長)にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有りける、道を思はで、いたずらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、


第1429話 2017/06/22

井上信正さんへの三つの質問(2)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)へ次の三つの質問をさせていただきました。

〔質問1〕大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺は8世紀初頭に創建されたとの井上説だが、観世音寺は天智天皇により建立を命じられたとの『続日本紀』の記事を信じるのであれば、天智天皇没後40年近くも造営されなかったことになり、不自然である。少なくとも地割だけでも天智期に開始され、全伽藍の完成が8世紀初頭というのなら理解できるが、この点をどのように考えらているのか。

〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に7世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭12条8坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。

〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。
 この三つの質問のうち、質問1に対する井上さんの回答は次のようなものでした。

〔回答1〕観世音寺の位置(南北中心軸)は政庁Ⅱ期の中心軸から小尺でちょうど東へ2000尺の位置にあることから、小尺が採用された8世紀初頭となる。出土土器も7世紀に遡る古いものは出土していない。

 講演会後の懇親会でも井上さんとこの問題について意見交換しました。わたしからは九州年号等の史料に白鳳10年(670)の観世音寺創建記事があることと、創建瓦の老司Ⅰ式が従来の編年では7世紀後半頃とされており、白鳳10年創建記事と一致していることを説明しました。
 井上さんも古い土器が出土していないことを不思議に思っておられるようでした。そこで、土器編年の精度に問題があるのではないかと指摘し、九州の7世紀頃の土器編年は遺跡によっては四半世紀(25年)ほどのずれがあるように思われると意見を述べたところ、井上さんも同様の感想を抱いておられるようでした。(つづく)


第1428話 2017/06/21

井上信正さんへの三つの質問(1)

 6月18日にエル大阪で開催した「古田史学の会」古代史講演会には太宰府条坊研究の第一人者、井上信正さん(太宰府市教育委員会)をお招きし、ご講演いただきました。太宰府条坊などの最新考古学成果などについて講演されたのですが、質疑応答ではわたしからは次の三つの質問をさせていただきました。

〔質問1〕大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺は8世紀初頭に創建されたとの井上説だが、観世音寺は天智天皇により建立を命じられたとの『続日本紀』の記事を信じるのであれば、天智天皇没後40年近くも造営されなかったことになり、不自然である。少なくとも地割だけでも天智期に開始され、全伽藍の完成が8世紀初頭というのなら理解できるが、この点をどのように考えらているのか。

〔質問2〕井上説によれば大宰府条坊と藤原京条坊の造営が共に7世紀末とされている。大宰府条坊整地層(右郭12条8坊)からの出土土器はレジュメによれば、須恵器坏HとBに見える。藤原京整地層出土土器は坏Bが主流であることから、両者を比較すると大宰府条坊整地層の土器の様相がやや古いよう思われるが、この点はいかがか。

〔質問3〕井上説によれば平城京や大宰府政庁Ⅱ期の「北闕」型の都城様式は8世紀初頭の遣唐使(粟田真人)によりその情報がもたらされたものであるとのことだが、7世紀中頃の造営とされている前期難波宮が「北闕」型であることをどのように考えられるのか。
 この三つの質問のうち、太宰府条坊都市造営時期に関しての通説や井上説の矛盾が端的に現れているのが質問1のテーマです。このことは井上さんも理解されており、お互いに相手の見解や立場を理解した上での質疑応答です。井上さんの回答は次のようなものでした。(つづく)


第1416話 2017/06/07

天草と草津(滋賀県)の地名由来新考

 昨晩は鹿児島市のホテルに宿泊し、今朝は鹿児島空港行きの高速バスの車中で執筆しています。今日のスケジュールは超ハードで、宮崎・熊本・鹿児島の三県を巡回し、夜は天草のホテルで宿泊です。

 「洛中洛外日記」425話(2012/06/12)で「天草」の語源について考察したことがあります(下記に転載)。それは「あまくさ」の意味を、海(あま)の日(くさ)とする新説です。今でも有効な仮説と考えています。同様に滋賀県の「草津」の地名も、日(くさ)の津(つ)、すなわち「太陽の港」「朝日で照り輝く港」を意味するのではないかという作業仮説(思いつき)に至りました。
 この場合、この地名は草津側で命名されたものではないと考えられます。なぜなら、草津の住民にとって太陽は更に東側の山々から昇るものであり、自らの居住地(草津)を「太陽の港」などとは受け止められないからです。従って、もしこの作業仮説(思いつき)が正しければ、「日津(くさつ)」と命名したのは琵琶湖の対岸(西岸)の人々ではないかと思われます。その地域の人々であれば、朝日が琵琶湖の対岸(東岸)の草津方面から昇ることになり、草津を日(くさ)に照り輝く津(つ)と表現したとしても一応の理屈が通るからです。
 しかし、地名というものは誰かがそう呼んだからそう決まるというものではなく、周囲の誰もが納得できる理由や動機が必要です。そこでわたしは草津の琵琶湖対岸に、「くさつ」と命名した権力者が居たのであれば、その地名を周囲や当地の住民も納得せざるを得ないのではないかと考えました。
 それでは草津の琵琶湖対岸には何があるでしょうか。そうです。錦織遺跡(近江大津宮)です。ここにいた天子あるいは天皇が、自らの宮殿から見て東対岸の港方向から昇る朝日にちなんで、その港(津)を日(くさ)津(つ)と命名したのではないかと考えました。
 この草津の地名由来を「日津(くさつ)」とする作業仮説(思いつき)を学問的仮説として成立させるためには、少なくとも次の手続きが必要です。それは近江大津宮から朝日を見たとき、草津方面が日(くさ)の津、すなわち朝日に照り輝く港と呼ぶにふさわしいかどうかを実地検証する必要があります。
 そのことが確認できれば仮説として成立するのではないでしょうか。もちろんその場合でも一つの「仮説」ですから、検証や論争を経て、他の仮説よりも有力と認証されれば「有力仮説」となり、その考えが多くの人々に支持されたときに「定説」の地位を得ます。さて、今回のわたしの作業仮説(思いつき)はどのような運命をたどるのでしょうか。皆さんのご批判を心待ちにしています。

【転載】洛中洛外日記
第425話 2012/06/12
「天草」の語源

 第422話で紹介しましたように、先週、出張で天草に行ったとき、ふと考えたのが「天草」の意味でした。もちろん漢字は当て字で、「天にはえている植物」の意味ではないと思います。
 この疑問はわりと簡単に「解決」しました。「天(あま)」は「海」のことで、「草(くさ)」は太陽のことです。すなわち「あまくさ」とは「海の太陽」のことではないでしょうか。天草島の地理関係から考えると、「海に沈む夕日」が適切かもしれません。
 ちなみに、現在では上天草島や下天草島など全体を「天草」と称していますが、もともとは下天草島の西海岸側の一部の地名だったようです。ですから、そこは海に沈む夕日がきれいな絶景の観光スポットだと思いますし、「あまくさ」=「海の太陽」(が美しく見える地)という地名にぴったりです。ホテルでもらった観光案内パンフレットにも天草の紹介文として「東シナ海に沈む夕日が日本一きれいなところ」とありました。偶然とは思えない表現の一致です。
 「あま」が「海」というのはよく知られていますし、今も「海」を「あま」と読む地名は少なくありません。しかし、「くさ」が何故「太陽」なのか疑問に思われる方もおられると思います。
 実は昔、古田先生から教えていただいたことなのですが、「日下」を「くさか」、「日下部」を「くさかべ」と訓むように、「日」のことを古代日本では「くさ」と訓んでいたのです。すなわち、太陽のことを「くさ」」と訓んだ時代や人々が日本列島にあったのです。
 「あまくさ」の語源に対応した正確な漢字を当てるとすれば、「海日」ではないでしょうか。「海に沈む夕日が美しい島」、天草は古代史研究(装飾壁画古墳)でも重要な島なのですが、そのことは別の機会にふれたいと思います。


第1415話 2017/06/06

原稿採否基準、新規性と進歩性

 福岡県での仕事を終え、鹿児島中央駅に向かう九州新幹線の車中で書いています。車窓からの景色はずいぶん薄暗くなりました。今日、九州南部が梅雨入りしたとのことです。

 先月の関西例会後の懇親会で、常連の会員さんから『古田史学会報』に掲載された某論文について、「古田史学の会」としてその論文の説に賛成しているのかという趣旨のご質問をいただきました。その質問をされた方は『古田史学会報』に採用されたということは編集部から承認されたのだから、その論文の説を編集部は賛成したものと理解されていたようです。こうした誤解は他の会員の皆様にもあるかもしれません。
 よい機会ですので、学術誌などの採用基準と学問研究のあり方について、わたしの考えを説明させていただきたいと思います。『古田史学会報』に採用する論稿の評価基準については、「洛中洛外日記」1327話(2017/01/23)「研究論文の進歩性と新規性」でも説明してきたところです。学術論文の基本的な条件としては、史料根拠が明確なこと、論証が成立していること、先行説をふまえていること、引用元の出典が明示されていることなどがありますが、もっと重要な視点は新規性と進歩性がその論文にあるのかということです。
 新規性とは今までにない新しい説であること、あるいは新しい視点が含まれていることなどです。これは簡単ですからご理解いただけるでしょう。次に進歩性の有無が問われます。その新説により学問研究が進展するのかという視点です。たとえば、その新説により従来説では説明できなかった問題や矛盾していた課題がうまく説明できる、あるいはそこで提起された仮説や方法論が他の問題解決に役立つ、または他の研究者に大きな刺激を与える可能性があるという視点です。
 こうした新規性と進歩性が優れている、画期的であると認められれば、仮に論証や史料根拠が不十分であっても採用されるケースがあります。結果的にその新説が間違いであったとしても、広く紹介した方が学問の発展に寄与すると考えるからです。
 『古田史学会報』ではそれほど厳しい査読はしませんが、『古代に真実を求めて』では採用のハードルが高く、編集部でも激論が交わされることがあります。しかし、その採否検討にあたり、わたしや編集委員の意見や説に対して反対か賛成、あるいは不利・有利といった判断で採否が決まることはありません。ですから、採用されたからといって、編集部や「古田史学の会」がその説を支持していることを意味しません。しかし、掲載に値する新規性や進歩性を有していると評価されていることは当然です。
 以上のように、わたしは考えていますが、抽象論でわかりにくい説明かもしれません。「洛中洛外日記」1327話ではもう少し具体的に解説していますので、その部分を転載します。ご参考まで。

【転載】
 (前略)「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文①の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 -正木新説の展開と考察-」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。(後略)


第1414話 2017/06/06

「太宰府」と「大宰府」の書き分け

 今朝は博多に向かう新幹線の車中で書いています。今週は仕事で九州5県(福岡・熊本・鹿児島・宮崎・長崎)を廻ります。若い頃とは違って、ハードな出張へのモチベーションを上げるのに時間がかかるようになりました。五十代の頃は海外出張で中国大陸をクルマに乗って1日に10時間移動できる体力と精神力があったのですが。

 「洛中洛外日記」1413話で紹介した、「文書化」の7つの基本原則の“継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う”に関して、最近の失敗談をご紹介します。それは「太宰府」と「大宰府」の書き分けについての失敗です。
 友好団体「九州古代史の会」の機関紙『九州倭国通信』に投稿した論文中に、「太宰府」と「大宰府」の書き分けにミスがあり、編集担当の方から拙宅までお電話をいただきました。わたし自身、かなり厳密に意識的に書き分けていたのですが、うっかり一カ所だけ変換ミスをしていたところを編集担当の方から指摘され、どのように対応すべきか問い合わせをいただいたのです。通常であれば見過ごしてしまうような箇所だったのですが、その方は的確に発見され、ご丁寧にお問い合わせの電話までくださったのです。さすがは九州王朝地元の研究会だと恐れ入りました。
 ご参考までに、わたしの「太宰府」と「大宰府」の書き分けの基準について紹介します。もちろん、わたしの考えに基づくものですから、他の基準とは異なるケースもありますので、この点、ご了解ください。

「太宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「太宰府」となっている。
○地名の「太宰府市」や神社名「太宰府天満宮」の表記。
○九州王朝の官職名や役所名としての「太宰府」「太宰」。
○九州王朝説に基づく文脈での使用。

「大宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「大宰府」となっている。
○考古学表記・用語として定着してる「大宰府政庁」など。
○一元史観の論稿や見解を要約するケース。

 他にもありますが、おおよそ上記の点に留意して書き分けています。中でも難しいのが「一元史観の論稿や見解を要約するケース」です。ここらへんになると、要約引用された側(人)への配慮と、九州王朝説を支持する読者への配慮とが矛盾することもあり、悩ましいところです。
 ちなみに、この「洛中洛外日記」の文章は複数の方のチェック(誤字・脱字・文章表現・論文慣習・事実関係・論理性等の当否)を受けた後にHPと「洛洛メール便」担当者に送るのですが、その際、「古田史学の会」役員へもccで送信しています。ですから、みなさんの目に留まる前に多数の関係者のチェックを受けているのですが、それでも文字や文章、論旨の誤りを完全には無くせません。中でも、今回の「太宰府」と「大宰府」の書き分けに至っては、チェック担当者から“当否を判断できない”と言われるほどの「難関」の一つなのです。「太」と「大」に、これだけこだわらなければならないのは、九州王朝説・古田学派の宿命ですね。
 なお付言しますと、「洛中洛外日記」の内容や仮説が学問的に誤りであったことが後に判明することがあります。その場合は、誤りであったことが判明した時点で、あるいは誤りとまでは言えないが他の有力説が登場したときに、あらためて「洛中洛外日記」で訂正記事を書いたり紹介することにしています。そうすることが学問的に真摯な対応であり、仮説の淘汰・発展を読者もリアルタイムで見ることができ、読んでいても面白いと思うからです。学問とはそうして発展するものだとわたしは考えています。


第1413話 2017/06/05

ノートの書き方と論文の書き方

 わたしが勤務先で使用しているパソコンには社内外からの様々な情報や連絡メールが届きます。多い日には数十件のメールが届くこともあり、そんな日は朝から緊急メールの返信作業だけで半日かかります。
 そのようなビジネスレターの中に、古代史論文執筆にも役立ちそうな解説がありましたので、転載し若干の説明をします。『古田史学会報』への投稿論文執筆のご参考にしていただければと思います。

《以下、転載》
(前略)つまり、ノートの書き方など、みんなバラバラなのだ。
 ただし、一言断っておくと、どんなノートを取っていようとも、最終的に外部に出す文書を作成する場合には、「人に理解される」内容に仕上げられる能力がある。「文書化」の基本を押さえているからだ。
 文書化の基本となるのは、以下の7つの基本原則である。

 チャンキングの原則:情報を小さなかたまり(チャンク)に分割する
 関連性確保の原則:1つのチャンクでは1つのテーマだけを扱う
 ラベル付けの原則:チャンクの内容の概略がすぐに分かるように見出しを付ける
 継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う
 グラフの統合化:グラフや図をその内容の側に添付する
 参照先の添付:興味を持った人がさらに調べることのできる先を記しておく

 これらの基本原則は、本来、学生時代の卒業論文などで担当教授から徹底的に指導されマスターしておくべきものである。その経験がなくとも社会人になったのちに、会社の基本となる文書フォーマットに、この基本原則が反映されていることから、自然とフォーマットなしでもきちんとした文書が作れるようになっていたわけだが、昨今はパワポ文書の氾濫により、原則が完全に崩れてしまっている。その結果、生産性が劇的に下がっていることは以前の記事でも述べた通りである。エグゼクティブたちは、このあたりの原則は、確実にマスターしている。(転載終わり)

 古代史論文に関わらず、“「人に理解される」内容に仕上げられる能力”が重要なことは言うまでもありません。自説を支持していない人が読んでも、その内容を理解してもらえるように書く文章力は実践の中で身につけるしかありません。
 また、あれもこれも論じるのではなく、なるべくテーマを絞り込み、何を論証するのか、どのように読者に読みとってもらいたいのかという「読者理解のシナリオ」も重要です。そして、そのシナリオにそった項目分けと項目を明確に表現する「小見出し」の選定は必須です。長い論稿ほど効果的な「小見出し」が読者の理解を促すだけでなく、自らの論証シナリオの再確認にも役立ちます。
 わたしもこうしたことを意識しながら執筆するのですが、残念ながら誤字・変換ミスは無くなりませんし、今でも失敗の繰り返しです。その点、比較するのもはばかられますが、古田先生の執筆力と校正力は素晴らしいものでした。古田先生からいただいた鉛筆書きの原稿にはいつも校正の跡でびっしりでした。先生がどのような点を意識しながら原稿校正されていたのかがよくわかり、わたし自身も論文執筆の勉強になったものです。そのため、文体が古田先生に似てしまい、先生との共著を出したとき、出版社から文体を変えてくれとクレームがついたこともありました。まだ三十代の頃のことで、懐かしい思い出です。(つづく)


第1402話 2017/05/20

前期難波宮副都説反対論者への問い(6)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」を発表以来、古田先生との意見交換が続き、ご批判やご指摘もいただきましたが、最後の八王子セミナー(2014年)では、参加者からの「前期難波宮副都説をどう思われるか」という質問に対して「検討しなければならない」と言っていただきました。発表以来、7年近くを経て、ようやく検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。
 そうした古田先生とのやりとりの中で、意見が一致したこともありました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」は大阪市中央区法円坂の前期難波宮ではないということでした。
 この指摘は古田先生のほかに西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からもなされていたもので、大阪市中央区法円坂の前期難波宮遺跡と大阪市北区の長柄豊崎とは場所が異なり、従って、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとされました。確かに、両者の位置は地下鉄でも5駅離れています(谷町線谷町四丁目駅、御堂筋線中津駅)。
 なお、北区長柄豊崎には豊崎神社が鎮座しており、同社の「由緒書」には、この地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と紹介されており、平安時代に遡る現地伝承などをその根拠とされています。しかし、現在の古代史学界や考古学界では法円坂の前期難波宮遺跡を「難波長柄豊碕宮」とする見解が通説となっています。
 わたしも古田先生や西村さんと同意見で、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとしてきました。ですから、この点については古田先生と見解が一致していました。その後、古田先生は「難波長柄豊崎宮」を博多湾岸の長柄川下流域とする説を発表されました。わたしは今のところ、『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」は大阪市北区長柄豊崎付近でよいのではと考えていますが、いずれも考古学的調査による7世紀中頃の宮殿遺構が発見されていませんので、今後の課題だと認識しています。(つづく)

〔参考〕昔書いた「洛中洛外日記」を付記しておきます。ご参考まで。

古賀達也の洛中洛外日記
第561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。


第1393話 2017/05/12

『二中歴』研究の思い出(6)

 『二中歴』九州年号細注には仏教に関する記事が多いのですが、その中で最も印象に残ったものが、次の一切経受容記事でした。

「僧要」自唐一切経三千余巻渡

 九州年号の僧要年間(635〜639)に唐より一切経三千余巻が渡ったという記事です。一切経は大蔵経ともよばれ、膨大な経典類を集成分類する方法として、インドで成立していた「三蔵」(テイピタカ。経・律・論の部立てからなる)をもとにして中国で案出された漢訳仏典・章疏・注釈を総集したものです。総集目録として最も早いものは、前秦の道安(314〜385)による『綜理衆経目録』(六三九部八八六巻)とされ、その後も漢訳仏典の訳出の増加により次々と衆経目録が編纂され、唐代以前のものだけでも二十種に及ぶといわれています。
 そこで、この細注の「三千余巻」に相当する一切経を調査したところ、隋代(開皇17年、597)に費長房により撰述された『歴代三宝紀入蔵録』(一〇七六部、三二九二巻)が時期的にも巻数においても相応していることを発見したのです。そのことを『古田史学会報』12号(1996年2月)に「九州王朝への一切経伝来 『二中歴』一切経伝来記事の考察」として発表しました(『「九州年号」の研究』に収録)。
 このことから、『二中歴』細注が九州王朝史や九州王朝仏教受容史の復元研究にとって貴重な史料であることがわかりました。細注記事にはまだ意味不明なものがあり、これからの研究が待たれています。そしてそれらが判明したとき、九州王朝研究は更に進展することを疑えません。全国の古田学派の研究者に共に『二中歴』細注記事の研究に取り組んでいただきたいと願っています。


第1388話 2017/05/09

『二中歴』研究の思い出(1)

 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』の出版記念講演会を東京・大阪・福岡で開催するにあたり、講演内容の検討を進めているのですが、『二中歴』の九州年号細注などによる九州王朝史の復元研究について紹介しようかと考えています。
 数ある九州年号群史料のうち、『二中歴』が最も史料価値が高いことを古田先生から教えていただいたのですが、それは学問の方法を深く理解する上でもとても役立ちました。古田先生が『二中歴』の史料価値に注目された理由は、成立年代が早い、近畿天皇家の年代記とは無関係に成立していること、その細注に記紀には見えない貴重な記事が残されていることなどでした。このことについては『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』に収録した拙稿「九州年号の史料批判 『二中歴』九州年号原型論と学問の方法」に詳述しましたので、ご参照ください。
 細注記事の分析については同じく正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「『二中歴』細注が明らかにる九州王朝(倭国)の歴史」がわかりやすくまとめられていますので、ご覧ください。
 『二中歴』九州年号細注については、古田先生が早くから注目されており、次のように紹介されています。(つづく)

『失われた九州王朝』ーー天皇家以前の古代史(ミネルヴァ書房)
   2010年2月刊行 古代史コレクション2

補章 九州王朝の検証

二中歴

 本書中の力説点の一つ、九州年号の問題についても、新たな局面が出現した。『二中歴』問題である。
 本書では「善記(善化)〜大長(大化)」の間、六世紀前半(「善記元年」は、五二二年)から七世紀末(「大長三年」は七〇〇年)までを、九州年号の時間帯とした。ところが、「九州年号」を伝える最古の文献『二中歴』のみは、右とは異なる年号群を記していた。
 「継体元年(五一七)〜大化六年(七〇〇)」の百八十四年間、三十一年号がこれである。検討の結果、わたしはこの形をもって原型本とせざるをえない、との判断に達した。なぜなら、この文献『二中歴』の成立は、堀河天皇の康和元年(一〇九九)、平安時代の中葉末、他の諸種の「南北朝・室町期・江戸時代の写本群」より、はるかに早い時期の成立なのである。次に、他の多くの「異年号」「古代年号」「九州年号」群が「近畿天皇家の『天皇名』と共に掲載されて、年表ないし年譜化されている」のに対し、この『二中歴』は、近畿天皇家の天皇名とは別個に、切りはなされた形の“独立型”である。この点も、見のがせない。なぜなら、前者の場合、「継体天皇十一年〔五一七〕」が「継体(九州年号)元年」となるため、いかにも“形が悪く”なってしまう。だから「継体(九州年号)何年」の形が“切り捨て”られた。そういう可能性が大なのである。三つめに、『二中歴』の方は、十八個の項目に、近畿天皇家側の文書に見られぬ、独自の文面がある。たとえば、

 鏡当四年、辛丑、新羅人来り、筑紫従(よ)り播磨に至り、之を焼く。

のように。現地(播磨)側伝承とも一致しているようである。以上のように、現在の写本状況からは、『二中歴』を「原型」として判断せざるをえないのである。


第1383話 2017/05/05

「倭の五王」の都城はどこか(2)

 「倭の五王」の都は筑後にあったのではないかと、わたしは考えているのですが、まだ克服すべき課題があります。
 「洛中洛外日記」第1363話「牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市」において、『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』に収録されている石木秀哲さん(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)の「西海道北部の土器生産 〜牛頸窯跡群を中心として〜」を紹介しました。そこで指摘された牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数が一気に急増している考古学的事実は、太宰府条坊都市造営時期の7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡としました。
 この理解が正しければ、同様に「倭の五王」時代(五世紀)の王都に土器を供給するため、大量の窯跡群が筑後から出土しなければなりません。ところが石木稿に掲載されている「第1表 西海道北部の須恵器窯跡群変遷表」によると、筑後の須恵器窯跡群は八女窯跡群(上妻郡)が最も古く、その始まりを六世紀中期からとされているのです。このデータが正しければちょうど筑紫君磐井の時代の頃からとなりますから、九州年号を建元した磐井の頃の九州王朝の都がこの地域にあったことはうかがえますが、「倭の五王」時代の窯跡群の記載がないのは不思議です。まだ未発見か、この表に掲載されていないだけなのかもしれませんが、六〜七世紀以降に太宰府に土器を供給した牛頸窯跡群の存在や変遷とは異なり、筑後の王都に対応する窯跡群が見あたらないのは、わたしの説の弱点と言えそうです。この点に引き続き留意し、調査研究を進めたいと思います。


第1382話 2017/05/04

「倭の五王」の都城はどこか(1)

 古田先生と論争的意見交換を続けたテーマの一つに、五世紀の「倭の五王」時代の都はどこかという問題がありました。二人の間でもっとも激しく論争したテーマの一つでしたので、当時のやりとりを今も鮮明に記憶しています。
 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」が中国南朝から都督を任じられていることから、その時代の九州王朝の都を「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)と、古田先生は当時考えておられました。
 それに対して、わたしは、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は規模が貧弱であり倭王の宮殿とみなすのは無理、かつ出土土器編年から見ても五世紀には遡らないと説明しました。それでも納得されない先生は「それでは倭の五王の都はどこだと考えているのか」と詰問され、「わかりません」と答えると、「だいたいでもよいからどこだと考えているのか」と質されるので、「筑後地方ではないかと思います」と返答しました。もちろんこの答えでも古田先生は納得されず、論争が続きました。結局、両者合意をみないままとなりましたが、『古田武彦の古代史百問百答』では「倭の五王」時代の都の所在地には触れられていませんから、晩年はどのような見解だったのかはわかりません。
 わたしが「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは、高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」『新・古代学』第四集、新泉社。1999年)によるものでした。それと、古田先生が1989年に発表された「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号)でした。この論文は古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたが、わたしは重要な論文と考えています。
 その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。これは主敵が南の薩摩(隼人)などの勢力だった弥生時代から、北の朝鮮半島の国々に変化した古墳時代になると、九州王朝(倭の五王、多利思北孤)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。
 わたしはこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井は筑後を都にしていたと考えています。そして多利思北孤の時代になって太宰府に遷都したと九州王朝史の大枠を理解しています。(つづく)