古賀達也一覧

第1743話 2018/09/03

「船王後墓誌」の宮殿名(5)

 古田先生は晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を次々に発表されました。その一つに今回取り上げた「船王後墓誌」もありました。今から思うと、そこに記された「阿須迦天皇」の「阿須迦」を福岡県小郡市にあったとする「飛鳥」と理解されたことが〝ことの始まり〟でした。
 この新仮説を古田先生がある会合で話され、それを聞いた正木さんから疑義(正木指摘)が出され、後日、古田先生との電話でそのことについてお聞きしたのですが、先生は納得されておられませんでした。古田先生のご意見は、「天皇」とあれば九州王朝の「天皇(天子)」であり、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないと考えられていることがわかりました。そこでわたしは次のような質問と指摘をしました。

①これまでの古田説によれば、九州王朝の天子(ナンバー1)に対して、近畿天皇家の「天皇」はナンバー2であり、「天子」と「天皇」とは格が異なるとされており、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」もナンバー2としての近畿天皇家の「天皇」と理解するべきではないか。
②法隆寺の薬師仏光背銘にある「天皇(用命)」「大王天皇(推古)」は、7世紀初頭の近畿天皇家が「天皇」を名乗っていた根拠となる同時代金石文と古田先生も主張されてきた(『古代は輝いていた Ⅲ』269〜278頁 朝日新聞社、1985年)。
③奈良県の飛鳥池遺跡から出土した天武時代の木簡に「天皇」と記されている。
④こうした史料事実から、近畿天皇家は少なくとも推古期から天武期にかけて「天皇」を名乗っていたと考えざるを得ない。
⑤従って、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」を近畿天皇家のものと理解して問題なく、遠く離れた九州の「天皇」とするよりも穏当である。

 以上のような質問と指摘をわたしは行ったのですが、先生との問答は平行線をたどり、合意形成には至りませんでした。なお付言しますと、正木さんは福岡県小郡市に「飛鳥浄御原宮」があったとする研究を発表されています。この点では古田説を支持されています。(つづく)


第1741話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(4)

 「船王後墓誌」の「阿須迦天皇」を九州王朝の天皇(旧、天子)とする古田説が成立しない決定的理由は、阿須迦天皇の末年とされた辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理とする「正木指摘」でした。
 すなわち、641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。641年やその翌年に九州王朝の天子崩御による改元がなされていないことから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないとされた正木さんの指摘は決定的です。
 この「正木指摘」を意識された古田先生は次のような説明をされました。

 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生は治世が長い天皇の場合、「末年」とあっても没年のことではなく晩年の数年間を「末年(末歳次)」と表記できるとされているわけです。しかし、この解釈も無理であるとわたしは考えています。それは次のような理由からです。

①「『阿須迦天皇の末』という表記から見ると、当天皇の『治世年代』は“永かった”と見られる」とありますが、「末」という字により「治世が永かった」とできる理由が不明です。そのような因果関係が「末」という字にあるとするのであれば、その同時代の用例を示す必要があります。
②「船王後墓誌」には「阿須迦 天皇之末歳次辛丑」とあり、その天皇の末年が辛丑と記されているのですから、辛丑の年(641)をその天皇の末年(没年)とするのが真っ当な文章理解です。
③もし古田説のように「阿須迦天皇」が九州王朝の天皇(旧、天子)であったとすれば、「末歳次辛丑(641)」は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続きますから、仮に命長七年(646)に崩御したとすれば、末年と記された「末歳次辛丑(641)」から更に5年間も「末年」が続いたことになり、これこそ不自然です。
④さらに言えば、もし「末歳次辛丑(641)」が「阿須迦天皇」の没年でなければ、墓誌の当該文章に「末」の字は全く不要です。すなわち、「阿須迦 天皇之歳次辛丑」と記せば、「阿須迦天皇」の在位中の「辛丑」の年であることを過不足なく示せるからです。古田説に従えば、こうした意味もなく不要・不自然で、「没年」との誤解さえ与える「末」の字を記した理由の説明がつかないのです。

 以上のようなことから、「船王後墓誌」に記された天皇名や宮殿名を九州王朝の天子とその宮殿とする無理な解釈よりも、『日本書紀』に記述された舒明天皇の没年と一致する通説の方が妥当と言わざるを得ないのです。(つづく)


第1740話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇」の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、晩年の数年間を指すと解釈できるとする古田先生は、西村秀己さんの次の指摘を根拠に「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説を否定されました。

 〝(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。〟

 すなわち、舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じており、船王後が没した12月3日は舒明在位期間中ではなく、墓誌の「阿須迦天皇の末」とは合致しないとされたのです。この西村さんの指摘はわたしも西村さんから直接聞いていたのですが、次の理由から賛成できませんでした。

①舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのは『日本書紀』によればその翌年(642年1月)であり、辛丑年(641)の10月9日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(641)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年とする表記は適切である。
②同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」と墓誌にあるように、戊辰年(668年)であり、その時点から27年前の辛丑年(641)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」年と表記するのは自然であり、不思議とするにあたらない。
③同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは「阿須迦天皇之末」という表記になっており、正確に使い分けていることがわかる。
④以上の理由から、「西村指摘」は古田説を支持する根拠とはならない。

 このような理解により、むしろ同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を正しく表現しており、同墓誌の解釈(「阿須迦天皇」の比定)は、古田説よりも通説の方が妥当であるとわたしは理解しています。(つづく)


第1738話 2018/09/01

「船王後墓誌」の宮殿名(2)

 今朝は東京に向かう新幹線車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。午後から東京家政学院大学のキャンパスで開催する『発見された倭京』出版記念講演会に出席するためです。
 車窓の外は雨空が続いていますので、東京のお天気がちょっと心配です。参加者が少なく講演会収支が赤字になると「古田史学の会」から補填することとなり、会計担当の西村秀己さん(全国世話人、高松市)からお叱りを受けるからです。もっとも、この厳しい「金庫番」のおかげで、「古田史学の会」財政の健全性が保たれています。

 さて、「船王後墓誌」の宮殿名や天皇名に関する古田説に対して、最初に鋭い指摘をされたのは正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)でした。それは、墓誌に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」の阿須迦天皇の末年とされる辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理というものでした。
 641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。九州王朝の天子が崩御して九州年号が改元されないはずはありませんから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないと正木さんは気づかれたのです。
 この正木さんの指摘を古田先生にお伝えしたところ、しばらく問答が続き、「阿須迦天皇の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、後半の数年間を指すと解釈できる」と結論づけられました。その解釈が次の文章となったわけです。

 〝(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。〟
 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生の論稿ではこの順番で論理を展開されていますが、当初、わたしとの問答では(七)の「解釈」がまずあって、その後に西村さんの意見(五)を取り入れて自説を補強されたのでした。しかし、それでもこの古田説は成立困難と、わたしは古田先生や西村さんに反対意見を述べました。(つづく)


第1708話 2018/07/18

所功さんの九州年号史料への誤解

 所功さんらの新著『元号 年号から読み解く日本史』には、一元史観による「建元」と「改元」の矛盾などが露呈していることを指摘しましたが、その他にも、『二中歴』や同時代九州年号史料に対する誤解や認識の無さが散見されます。最後にこのことについて改めて指摘しておきます。
 拙稿「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』)においても既に指摘したことですが、九州年号群史料として現存最古の『二中歴』を所さんは「鎌倉末期(十四世紀前半)成立」(53頁)とされています。しかし、これは所さんの誤解で、現存『二中歴』には後代における追記をともなう再写の痕跡があり、その再写時期の一つである鎌倉末期を成立時期と勘違いされています。現存最古の『二中歴』写本のコロタイプ本解説(尊経閣文庫)にも、『二中歴』の成立を鎌倉初頭としています。このような所さんの史料理解の誤りが、九州年号偽作説の「根拠」の一つとなり、その他の九州年号偽作説論者は所さんの誤解に基づき古田説を批判する、あるいは無視するという学界の悲しむべき現状を招いています。
 更に、わたしが繰り返し紹介してきた同時代九州年号史料についても未だにご存じないのか、次のように述べられています。

 「かような“古代年号”には、平安時代以前まで遡る確実な史料がない。」(54頁)

 『二中歴』の成立が鎌倉初頭ですから、当然のこととしてそこに記された九州年号は鎌倉初頭よりも前、すなわち平安時代以前の史料に基づいているわけですから、「平安時代以前まで遡る確実な史料がない。」とするのは誤解です。また、わたしが『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房)などでも紹介した次の同時代九州年号史料の存在も無視(無知?)されています。

○茨城県岩井市出土「大化五子年(六九九)」土器
○滋賀県日野町「朱鳥三年戊子(六八八)」鬼室集斯墓碑
○芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年(六五二)」木簡

 たとえば、この「元壬子年」木簡の発見により、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史観の研究者たちはこの木簡の存在に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、九州年号「白雉元年」を意味する「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。
 年号研究の大家で誠実な学者として知られる所さんが、「建元」と「改元」の論理や同時代九州年号史料の存在を真正面から受け止められ、多元史観に目覚められることを願うばかりです。そのとき、日本の古代史学は「学問の夜明け」を迎えることでしょう。


第1707話 2018/07/17

大化改元の真実と改元の論理

 「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』)において、わたしは所功さんが編集された『日本年号史大事典』(雄山閣)の「大化建元」とする次の記事を批判しました。

 「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、五四頁)

 このように大和朝廷最初の年号制定を意味する「建元」が「大化」年号とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と記されていました。しかし、『日本書紀』に見える「大化」年号制定記事は次の二ヶ所で、いずれも「建元」ではなく、「改めて」「改元」と表記されています。すなわち「大化」は「改元」とされているのです。

 「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする」(孝徳天皇即位前紀)
 「皇后(皇極天皇)、天皇位に即(つ)く。改元する。四年六月に天萬豊日天皇(孝徳天皇)に讓位し、天豊財重日足姫天皇曰皇祖母尊と稱す。」(斉明天皇即位前期)

 「建元」とは、ある王朝が初めて年号を建てることを意味し、その後に年号を改めることを「改元」といいます。すなわち、近畿天皇家は自らの史書で「大化」は改元であり、近畿天皇家にとっての最初の年号は「大宝」(建元)と主張しているのです。
 所さんは旧著『日本年号史大事典』では“「大化」建元”とされていたのですが、新著『元号 年号から読み解く日本史』では、どうしたことか「大化」について「建元」という表現を用心深く避けておられます。例えば次のような表現に変更されているのです。

 「改新の先駆け『大化』創建」(55頁)
 「日本で初めての公年号『大化』が創建された意味は、きわめて大きい。」(56頁)
 「この『大化』が、日本で最初の公年号だとみなされている。」(57頁)
 「『大化』という公年号を初めて定めたのである。」(58頁)
 「前述の『大化』は代始(天皇の代替わり初め)による改元の初例」(60頁)

 このように「大化」に対して「建元」という表記に代えて、「創建」「最初の公年号」「改元の初例」という表現を使用されています。恐らく、新著で「大宝」を正しく「建元」とされたため、旧著のように「大化」に対して「建元」を使用することの矛盾に気づかれたものと思われます。しかし、ある王朝が「最初公年号」を「創建」することを「建元」というのであり、新著での表記変更によっても、『日本書紀』の「大化改元」記事と『続日本紀』の「大宝建元」記事が近畿天皇家一元史観では説明できないことがますます露呈したと言わざるを得ません。(つづく)


第1706話 2018/07/15

大宝建元の真実と建元の論理

 わたしは「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』古田史学の会編・明石書店)において、次のように所功さんの論稿を批判しました。

【以下、転載】
 「建元」と「改元」の論理
 面白い本を読みました。所功編『日本年号史大事典』(平成二六年一月刊、雄山閣)です。所さんといえばテレビにもよく出られている温厚で誠実な学者ですが(その学説への賛否とは別に、人間としては立派な方だと思っています)、残念ながら大和朝廷一元史観にたっておられ、今回の著書も一元史観に貫かれています。しかし、約八百頁にも及ぶ大作であり、年号研究の大家にふさわしい労作だと思います。
 〈中略〉
 同書中、わたしが最も注目したのが「建元」と「改元」の扱いについてでした。まず、所さんは我が国の年号について次のように概説されています。
 「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、五四頁)
 すなわち大和朝廷最初の年号を意味する「建元」が「大化」とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と理解されています。そして、具体的な年号の解説が「各論 日本公年号の総合解説」(執筆者は久禮旦雄氏ら)でなされるのですが、その「大宝」の項には次のような「改元の経緯及び特記事項」が記されています。
 「『続日本紀』大宝元年三月甲午条に「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ」としており、対馬より金が献上されたことを祥瑞として、建元(改元)が行われたことがわかる。」(一二七頁)
 この解説を見て、失礼ながら苦笑を禁じ得ませんでした。『続日本紀』の原文「建元(元を建てて)」を正しく紹介した直後に「建元(改元)」と記されたのですから。いったい「大宝」は建元なのでしょうか、それとも改元なのでしょうか。原文改訂の手段としてカッコ書きにすればよいというものではないと思うのですが。
【転載終わり】(27〜28頁)

 「建元」とはある王朝が初めて年号を建てることを意味し、その後に年号を改めることを「改元」といいます(より正確に言えば、中国では前王朝からの「禅譲」を受けたとする次王朝の最初の年号制定は「改元」と表現されます)。日本国(近畿天皇家の王朝)でいえば、「建元」は『続日本紀』に記された大宝元年(701)であり、以後、現在の平成まで「改元」が繰り返されています。この単純自明の理屈「建元と改元の論理」に基づき、所さんの著書を批判したものですが、今年発行された所功さん等(久禮旦雄さん・吉野健一さん)の新著『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年3月刊)では、この『日本書紀』の“大化改元”と『続日本紀』の“大宝建元”の解説が“「大宝」建元の画期的意義”の項で次のように変更されているのです。

 「そこで、文武天皇五年(七〇一)三月二十一日、『対馬嶋より金を貢』したことにして、それを祥瑞とみなし『元を建てて大宝元年と為された』(『続日本紀』)。ここに『元を建て』と記すのは、単に改元するというだけではなく、従来断続的であった年号を、新たに制度化して永続させるスタートに立ったことを意味する。」(65頁)

 このように『続日本紀』の「大宝建元」記事の新「定義」として、「単に改元するというだけではなく、従来断続的であった年号を、新たに制度化して永続させるスタートに立ったことを意味する。」を提示されています。これはかなり苦しい強引な解釈と言わざるを得ません。もしこのような「定義」が正しいとされるのであれば、たとえば中国史書における「建元」に同様の使用例があることを史料根拠として提示することが学問研究としては不可欠でしょう。
 今回の所さんの「大宝建元」の「定義」は、近畿天皇家一元史観を「是」と先に決めてから、それにあうように近畿天皇家が編纂した史書の史料事実を解釈するという手法です。所さんは皇室を敬愛されるがあまり、学問として古代史料を見る目が曇られたと言っては、高名な碩学に対して失礼でしょうか。(つづく)


第1705話 2018/07/14

年号候補になっていた「大長」

 暑さと体調不良により、この一週間ほど古代史の勉強や研究が進みません。仕事の方も、中国の原材料メーカーの操業停止続発により、製品在庫が無くなり、対策検討とお客様への釈明に追われる日々が続いています。悪いときには悪いことが重なるものです。
 そんな中で少しずつ読んでいるのが所功さんらが書かれた『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年3月刊)です。古代から現代までの日本の年号の歴史を解説した好著ですが、7世紀の古代年号部分の解説は、執筆された所さんには失礼ですが、かなり「残念」な内容でした。ただ、九州年号について後代偽作とされながらも『二中歴』なども紹介されており、古田説を無視する他の一元史観論者とは異なり、誠実な学者と思いました。
 九州年号の説明について次のような表現があり、これはわたしたち古田学派のことを言っておられると思われます。

 「一部の論者が“古代年号”とか“九州年号”と呼んで、実在したに違いないと熱烈に主張する年号らしきもの」(33頁)

 熱烈に九州年号や九州王朝の実在を主張する「一部の論者」とは、おそらくわたしたちのことに違いないと、思わずにやりとしました(この一節があったので、同書を購入しました)。昨年、発行した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編・明石書店)には所さんの著書を批判した拙稿「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」が掲載されていますから、もしかするとわたしからの批判を意識して書かれたのではないかと思われる箇所もありました。
 このことについては別途紹介する予定ですが、今回、紹介するのは同書末尾に付されている「日本の年号候補・未採用文字案」です。古代から現代までの改元時に提案された未採用年号候補の一覧なのですが、その中に最後の九州年号「大長」(704〜712年)があり、1回だけ候補に挙がっているとされています。候補になった時代など詳細はわかりません。他の九州年号は未採用候補には見あたりませんでした。
 この「大長」を年号候補とした学者は九州年号の存在を知らなかったか、偽作として実在していなかったと考えていたものと思われます。古代における国内の別王朝(九州王朝)の年号と知っていたら、絶対に候補には挙げなかったはずだからです。(つづく)


第1703話 2018/07/01

佐藤弘夫『アマテラスの変貌』を再読

 この数日、佐藤弘夫さんの『アマテラスの変貌 -中世神仏交渉史の視座-』(法蔵館、2000年)を再読しています。著者の佐藤さんは東北大学で日本思想史を学ばれ、特に中世思想史・宗教史の分野では多くの業績をあげられている著名な研究者です。その佐藤先生との出会いについて、「洛中洛外日記」1104話(2015/12/10)で触れていますので再掲します。

「佐藤弘夫先生からの追悼文」
 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。
 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」
 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。【以下略】

 今回、佐藤さんの『アマテラスの変貌』を改めて読みはじめたのは、中世における「神仏習合」「本地垂迹」思想について詳しく知りたかったからです。というのも、現在、取り組んでいる太宰府観世音寺研究において精査した「観世音寺古図」に描かれた鳥居に強い興味を抱いたためです。この「古図」が創建時の観世音寺の姿を描いたものであれば、九州王朝の時代に仏教寺院の正門前に鳥居が付設されたこととなり、平安時代後期から盛んになる「本地垂迹」思想の淵源が古代の九州王朝にまで遡るかもしれないのです。
 この「観世音寺古図」の書写は室町時代の大永六年(1526)であることが判明しており、平安時代の観世音寺の姿が描かれているとされています。わたしは更に遡り、部分的には8世紀初頭の「養老絵図」を書写したのではいかと考えていますので、もし鳥居部分がそうであれば、九州王朝の宗教思想を探る手がかりとなるかもしれません。
 こうした九州王朝の宗教思想研究に入るに当たり、まず中世の「神仏習合」「本地垂迹」思想について勉強しておく必要を感じ、その分野の専門家である佐藤さんの著書を書棚から探し出し、再読を始めたものです。(つづく)


第1696話 2018/06/23

観世音寺古図の史料性格

 「洛中洛外日記」1694話の「観世音寺古図の五重塔『二重基壇』」で触れた「観世音寺古図」の史料性格については、拙稿「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」(『古田史学会報』No.50所収。2002年6月1日)で次のように説明していますので、転載します。

【以下転載】
養老絵図と大宝四年縁起
 古の観世音寺の姿を伝える大永六年(一五二六)写の観世音寺古図というものがある。法隆寺移築論を発表された米田良三氏はその著書『法隆寺は移築された』において、同古図を紹介され、古図と現法隆寺との伽藍配置等の一致から、法隆寺の移築元として観世音寺説を発表された。これに対して、同古図が創建当時の観世音寺かどうか不明であり、観世音寺移築説の根拠とすることに対して疑義が寄せられていた。
 既に観世音寺移築説が困難であることは述べて来たとおりであるが、同古図について言うならば、これは創建時の観世音寺が描かれたものと考えざるを得ない。何故なら、本稿で紹介したように、観世音寺の五重塔は康平七年に焼亡しており、以後、再建された記録はない。また、考古学的発掘調査でも金堂は新旧の基壇が検出されているが、五重塔は再建の痕跡が発見されていない。従って、五重塔が描かれている同古図は創建時の観世音寺の姿と考えられるのである。
 このことを支持する史料がある。観世音寺は度重なる火災や大風被害のため貧窮し、もはや独力での復興は困難となった。そのため、保安元年(一一二〇)に東大寺の末寺となったのであるが、そのおり、東大寺に提出した観世音寺の文書案文(写し)の目録が存在する。それは「観世音寺注進本寺進上公験等案文目録事」という文書で、その中に「養老繪圖一巻」という記事が見える。その名称から判断すれば、養老年間(七一七〜七二四)に描かれた観世音寺の絵図と見るべきものであり、それが一一二〇年時点で現存していたことを意味する。同目録には「養老繪圖一巻」の右横に「雖入目録不進」と書き込まれていることから、この養老絵図の写しは、この時、東大寺には行かなかったようである。
 こうした養老絵図が十二世紀に現存していたことを考えると、大永六年に写された観世音寺古図はこの養老絵図を写した可能性が高いのである。考古学的発掘調査の結果も、古図と同じ伽藍配置を示しており、この点からも同古図が創建観世音寺の姿を伝えていると見るべきである。
 そうなると、いよいよもって観世音寺を法隆寺の移築元とすることは困難となる。というのも、観世音寺古図と現法隆寺は伽藍配置は類似していても、描かれた建物と法隆寺の特徴的な建築様式とは著しく異なるからである。一例だけあげれば、中門の構造が現法隆寺は二層四間であり、中央に柱が存在するが、観世音寺古図の中門は一層五間であり、一致しない。従って、米田氏の思惑とは真反対に、同古図は法隆寺の移築元は観世音寺ではない証拠だったのである。
 同目録中には今ひとつ注目すべき書名がある。それは「大宝四年縁起」である。大宝四年(七〇四)成立の観世音寺縁起が一一二〇年時点には存在していたことになるのだが、先に紹介した『本朝世紀』康治二年(一一四三)の太宰府解文に記された、百済渡来の阿弥陀如来像の事などがこの「大宝四年縁起」には記されていたのではあるまいか。従って、『本朝世紀』の本尊百済渡来記事は信頼できると思われるのだ。
 なお現在、観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものでは延喜五年(九〇五)成立の「観世音寺資財帳」がある。九州王朝の中心的寺院であった観世音寺の縁起も近畿天皇家一元史観によって書き直され、あるいは破棄されたのであろう。
【転載終わり】

 観世音寺古図に描かれた五重塔の「二重基壇」と考古学的出土状況による「二重基壇」の可能性との一致は、この古図が創建観世音寺を描いた「養老絵図」を書写したものとする理解を支持しています。
 また、観世音寺の「大宝四年縁起」が存在していたということは、大宝四年(704)以前に観世音寺は創建されていたことになり、一元史観の通説のように観世音寺創建を8世紀前半とする見解よりも、九州年号史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)に見えるように白鳳10年(670)創建説を支持するようです。


第1695話 2018/06/20

安部龍太郎さん『平城京』を上梓

 今朝は梅雨前線の中、東京行き新幹線車中で書いています。京都でも昨日までは余震が続いていましたが、このまま収束してくれることを願っています。また、地震の前日に開催された「古田史学の会」全国世話人会や会員総会・記念講演会出席のため、各地から来阪されていた皆さんのご無事を祈っています。
 昨日、奈良新聞記者の竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長、facebookや「洛洛メール便」配信担当)から奈良新聞(6/14付)が送られてきました。直木賞作家の安部龍太郎さんが奈良県庁を訪問した記事が掲載されていました。それによると安部さんは本年五月に新著『平城京』を上梓され、更に「粟田真人」「阿倍仲麻呂」と三部作を目指されているとのことです。
 実は安部さんとわたしは遠い昔に少しだけご縁がありました。二人は国立久留米高専の同級生(安部さんは機械工学科、わたしは工業化学科。11期、1976年卒)で、しかも共に文芸部員だったのです。竹村さんはこのことを知っておられ、奈良新聞を送ってくれたのでした。
 わたしは文芸部に入部したものの、あまりの文才のなさにより、部員不足で困っていた新聞部に「出向」となりました。もちろん新聞部でも文才のないことが先輩にばれてしまい、「古賀君の書いたものは記事ではない。メモだ」と叱られ、記事は書かせてもらえず、広告取りとその集金担当になりました。久留米市内の書店や文具店などへ『久留米高専新聞』の広告募集に回りました。その広告収入はおそらく先輩たちの飲み代か学生運動用のヘルメット代に消えたような気がします。
 若き日のこうした情けない体験がトラウマとなり、未だに文才はないままです。この「洛中洛外日記」も複数の方から誤字脱字、文法チェックをしていただいているほどですし、「古田史学の会」役員からは内容もチェックしていただいています。他方、優れた文才に恵まれた安部さんは作家になるという夢を追い続け、大変な努力と苦労をしながらも見事に直木賞作家となられました。文才の有無が二人の少年の人生を分けたようです。
 安部龍太郎事務所のHPなどを拝見しますと、月刊『潮』で来月から連載スタートされるとのことで、大活躍のご様子。安部さんは京都市内にもお住まいを持っておられるようで、一度連絡を差し上げてみようかと思います。直木賞作家による「俾弥呼(ひみか)」「多利思北孤(たりしほこ)」「薩夜麻(さちやま)」の「九州王朝」三部作がいつの日か世に出されることを夢見て。


第1693話 2018/06/17

谷川清隆氏「七世紀のふたつの権力共存」

 講演報告

 本日開催した「古田史学の会」会員総会記念講演会では国立天文台の谷川清隆先生をお招きして、「七世紀のふたつの権力共存の論証に向けて」というテーマで御講演いただきました。
 谷川先生とのご縁は10年ほど前に遡ります。谷川先生から「七世紀の日本天文学」(国立天文台報、2008年)が送られてきたのですが、当時、毎日のように各地から原稿や論文、著書などがわたしのところへ送られてきており、その中に谷川先生からの郵便物が紛れ込んでしまい、中身を確認したのが2〜3ヶ月後になってしまいました。
 国立天文台からの郵便物でしたので、「一体何だろう」と遅ればせながら開封すると、古天文学による九州王朝説を支持する内容でした。これはすごい研究だと、急いで古田先生に電話でお知らせし、論文を転送しました。谷川先生とはそれ以来のおつき合いで、今回、ようやく「古田史学の会」の講演会にお招きすることができました。
 今回の谷川先生の講演の根幹は、『日本書紀』の7世紀における天体観測記事の内容を分析した結果、観測記録を行った「天群」の勢力と、観測しなかった「地群」の勢力が併存しているというものです。その結論として、「天群」とは倭国(九州王朝)であり、「地群」は日本国(近畿天皇家)とされました。『日本書紀』の記述を最新の天文学により検証され、7世紀には二つの権力が存在したとする谷川先生の講演は論理的であり、すばらしい内容でした。
 講演会後も夜遅くまで懇親会におつき合いいただき、親睦を深めました。また御講演の機会を持ちたいと願っています。