古賀達也一覧

第1273話 2016/09/17

洛陽発見の三角縁神獣鏡、国産特鋳説

 本日の「古田史学の会」関西例会の冒頭、初参加の方2名からの自己紹介の後、最初に発表された出野さんから「始皇帝と大兵馬俑展」(国立国際美術館・大阪中之島)の無料招待券10枚のプレゼントがありました(先着10名)。
 今回は正木さんの発表が短かったこともあり、時間が余りましたので、最後にわたしから報告をさせていただきました。その中で、狭山池博物館で西川寿勝さんから教えていただいた中国洛陽で発見された三角縁神獣について、その銘文の文字が比較的大きく、文字の字形も整っていることに注目し、このような三角縁神獣鏡は今まで見たことがなく、この鏡は中国の有力者に贈答するため倭国内で特別に丁寧に作られた「国産特鋳鏡」と考えるのがよいとの感想を述べました。ちなみに、西川さんからこの鏡のような銘文の文字の大きなものの同笵鏡は無いことも教えていただきました。わたしは鏡については不勉強ですが、現時点での感想(思いつき)として「倭国製特鋳三角縁神獣鏡」仮説として提起しました。皆さんからのご批判をお願いします。
 9月例会の発表は次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
①古田武彦氏の行程批判(奈良市・出野正)
②盗まれた天皇陵(八尾市・服部静尚)
③『続日本紀』研究の勧め(川西市・正木裕)
④難波宮址北辺出土の注根列の造営年代について(豊中市・大下隆司)
⑤大阪湾岸の古地理図について(豊中市・大下隆司
⑥皇位継承(京都市・岡下英男)
⑦記紀の真実4 四人の倭健(大阪市・西井健一郎)
⑧西川寿勝さん(狭山池博物館)との対話(京都市・古賀達也)
⑨中塚武さん(地球研)との対話(京都市・古賀達也)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 古田武彦著『鏡が映す真実の古代』発刊(ミネルヴァ書房、平松健編)・11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の計画(久留米大学福岡サテライト)・9/03 狭山池博物館 西川寿勝さん講演の報告・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・『古代に真実を求めて』20集の編集について・その他


第1270話 2016/09/14

京都府立総合資料館での爆読、「九州」調査

 京都府立総合資料館閉鎖の報に接し、数々の思い出が蘇るのですが、「空海全集」などの他にも全巻読破したものに「平安遺文」「鎌倉遺文」がありました。「寧楽(なら)遺文」は持っていましたので、自宅で読みました。この場合は「読む」というよりも、「検索」に近い作業で、検索ワードは「九州」でした。
 古代中国において「九州」とは天子の直轄支配領域を意味する政治用語で、中国史書にも「九州」という用語が散見されます。もちろん日本列島の九州島のことではなく、中国の天子の直轄支配領域、転じて自国のことを意味しています。ですから、日本列島の九州という地名は単に国が九国あるということではなく、その地の政治権力者により九州島を九分割して、意図して「九州」という名称に対応させたと考えられるのです。たとえば筑紫や肥、豊は「前」「後」に分割し、その他の日向・薩摩・大隅は分割せず、意図的に九分割した痕跡がこれら「前」「後」地名として残ったと見られるのです。
 こうした視点に立って、国内史料中に見える「九州」表記を調査し、いつ頃に九州島が九国に分割されたのか、そして「九州」と表記されるようになったのか、あるいは701年以降に日本の代表王朝となった近畿天皇家が自らの支配領域を「九州」と表記したのはいつ頃からかという調査を行いました。そのときに「平安遺文」などの膨大な史料調査を府立総合資料館で終日行ったのです。
 この調査結果に基づいて書いた論文が「九州を論ず -国内史料に見える「九州」の変遷-」「続・九州を論ず -国内史料に見える「九州」の分割-」です。両論文は古田先生等との共著『九州王朝の論理』(2000年、明石書店)に収録されています。この論文は古田先生からも高い評価をいただくことができ、自分でも自信作の一つです。休日の度に府立総合資料館に通い、昼食抜きで閉館時間まで爆読(検索)した日々が懐かしく思い出されます。


第1269話 2016/09/13

京都府立総合資料館、53年の歴史に幕

 京都市左京区にある京都府立総合資料館が本日をもって53年の歴史に幕を降ろしました。わたしも歴史研究において大変お世話になった所で、懐かしさと想い出がいっぱいです。
 特に三十歳代のころ、朝から閉館時間まで昼食もとらず、一心不乱に「空海全集」や「東寺百合文書」「大日本仏教全書」などを閲覧したことを思いだします。当時は若かったので体力も集中力もあり、そのような「爆読」が可能でした。
 そのとき書いた論文が「空海は九州王朝を知っていた 多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」(『市民の古代』13集、1991年)でした。若い頃の拙い論文で、今読むと論証も甘いのですが、結論部分は当たっているのではないかと思っています。古田先生からも少し誉めていただきましたし、仏教大学の某先生から講義に使用したいと許可を求めるお電話もいただきました。今ではあの膨大で難解な空海の全著作に目を通すなどということは不可能です。そういう仕事を若いうちに経験しておいてよかったと思っています。
 結婚前に妻とのデートにも総合資料館を利用しましたが、今から思うとひどい「デート」でした。よくもまあ、そんなわたしと結婚してくれたものだと、妻には感謝しています。
 総合資料館の南に新館が建設中で、早ければ年内にも一部がオープンし、来年には全面オープンするとのこと。名称は「京都府立京都学・歴彩館」。楽しみに待ちたいと思います。


第1262話 2016/08/24

「阿志岐城跡」調査報告書を読む

 今朝は東京に向かう新幹線車中で『阿志岐城跡』確認調査報告書(筑紫野市教育委員会、2008年)を読みました。小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からいただいたものです。小林さんは考古学に詳しく、全国の主要遺跡や有名古墳はほとんど実見されており、「古田史学の会・関西」では「古墳の小林」と呼ばれています。わたしも古墳についてわからないことがあれば、小林さんから教えていただいています。
 「阿志岐城跡」調査報告書はカラー写真や地図が収録されており、同遺跡の全体像や太宰府・大野城・水城・基肄城との位置関係がよくわかります。説明では「阿志岐城」山頂から、北は太宰府や水城・大野城、南は基肄城・高良山神籠石山城が見えるとのこと。防衛に適した位置にあることもよくわかります。
 神籠石山城には城内に谷などの水源を有しており、多くの人の長期に及ぶ「籠城戦」を想定して造営されています。唐や新羅の軍隊に水城を突破され、太宰府が陥落した場合、大野城や神籠石山城に住民も含めて籠城し、眼下の敵陣に「夜討ち朝駆け」を続け、延びきった兵站を寸断し、侵略軍を殲滅するという持久戦を想定したものと思われます。隋や唐による侵略の恐怖にさらされた倭国では、首都の住民も守るという設計思想の山城を築城したのですから、住民の協力も得やすかったのではないでしょうか。
 ここの神籠石列石は高良山神籠石のような直方体の一段列石ではなく、四角に整形された積石による列石のようです。しかも耐震強度を高めるために「切り欠き加工」が施されています(わたしのfacebookに写真を掲載していますので、ご参照ください)。素人判断では高良山神籠石よりも技術的に高度であり、時代も新しいように思われました。
 この「阿志岐山城」について、「洛中洛外日記」で触れたことがあります。以下、再録します。

古賀達也の洛中洛外日記
第815話 2014/11/01
三山鎮護の都、太宰府

 大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、全国に「○○三山」というセットが多数ありますが、古代史では都を鎮護する「三山鎮護」の思想が知られています。たとえば平城遷都に向けての元明天皇の詔勅でも次のように記されています。

 「まさに今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ふ。」『続日本紀』和銅元年二月条

 平城京の三山とは東の春日山、北の奈良山、西の生駒山とされていますが、軍事的防衛施設というよりも、古代思想上の精神文化や信仰に基づく「三山鎮護」のようです。藤原京の三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、まず防衛の役には立ちそうにありません。しかし、大和朝廷にとって、「三山」に囲まれた地に都を造営したいという意志は元明天皇の詔勅からも明白です。
 この三山鎮護という首都鎮護の思想は現実的な防衛上の観点ではなく、風水思想からきたものと理解されているようですが、他方、百済や新羅には首都防衛の三つの山城が知られており、まさに「三山鎮護」が実用的な意味において使用されています。日本列島においても実用的な意味での「三山鎮護」の都が一つだけあります。それが九州王朝の首都、太宰府なのです。
 実はわたしはこのことに今日気づきました。赤司さんの論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に、平成11年に発見された太宰府の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、太宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339m)、北の大野城(四王寺山、410m)、南の基肄城(基山、404m)です。
 九州王朝の首都、太宰府にとって「三山鎮護」とは精神的な鎮護にとどまらず、現実的な防衛施設と機能を有す文字通りの「三山(山城)で首都を鎮護」なのです。当時の九州王朝にとって強力な外敵(隋・唐・新羅)の存在が現実的な脅威としてあったため、「三山鎮護」も現実的な防衛思想・施設であったのも当然のことだったのです。逆の視点から見れば、大和朝廷には現実的な脅威が存在しなかったため(唐・新羅と敵対しなかった)、九州王朝の「三山鎮護」を精神的なものとしてのみ受け継いだのではないでしょうか。なお付言すれば、九州王朝の首都、太宰府を防衛したのは「三山(山城)」と複数の「水城」でした。
 これだけの巨大防衛施設で守られた太宰府条坊都市を赤司さんが「核心的存在に相応しい権力の発現」と表現されたのも、現地の考古学者としては当然の認識なのです。あとはそれを大和朝廷の「王都」とするか、九州王朝の首都とするかの一線を越えられるかどうかなのですが、この一線を最初に越えた大和朝廷一元史観の学者は研究史に名前を残すことでしょう。その最初の一人になる勇気ある学者の出現をわたしたちは待ち望み、熱烈に支持したいと思います。


第1261話 2016/08/23

『二中歴』明治17年写本の調査

 「洛中洛外日記」で紹介してきました『二中歴』国会図書館本(小杉氏写本、明治10年)は、「古田史学の会」関西例会でカラーコピーを杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査)からいただき、その存在を知りました。このことが契機となり、『二中歴』の他の写本についても調査したところ、国立公文書館に明治17年書写の『二中歴』があることをつきとめました。同写本はネットでは公開されていないため、いつも史料調査にご協力いただいている斎藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)にご相談したところ、早速、国立公文書館の『二中歴』の「年代歴」部分などの写真を撮影され、送っていただきました。
 現在、精査中ですので最終結論ではありませんが、同写本は前田家尊経閣文庫所蔵「新写本(実暁本)」、すなわち興福寺の実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したものを江戸時代の元禄14年(1701)に清書した「新写本」を明治17年に書写したもののようです。この国立公文書館本には次の奥書があり、明治17年に前田家所蔵『二中歴』を書写したことがわかります。

 「明治十七年二月一日華族前田利嗣蔵書ヲ寫ス
            三級寫字生松本寛茂
  明治十七年四月 五等掌記樹下茂国校 印」

 また別のページにも次のようにあります。

 「明治十七年十二月十日校〔前田利嗣 蔵書ニ拠ル〕
             御用掛前田利鬯 印」

 ※一部、旧字を新字体に改めました。〔〕内は二行の朱書き細注。(古賀)

 これらの内容から前田家蔵書の『二中歴』を書写したことは疑えませんが、前田家にある「古写本」と「新写本(実暁本)」のどちらを書写したのかを更に調べてみたところ、次の理由から国立公文書館本は「新写本(実暁本)」の写本と考えられます。

1.「弘治三年十二月六七両日」に書写したとする実暁による「奥書」が書写されている。
2.「古写本」では虫食いで読めない部分(「不記年号」「明要十二年」の一部分)も、虫食前の字が書写されており、これは「新写本(実暁本)」からの書写でなければ不可能。
3.国立公文書館本を実見された斎藤政利さんの報告によれば、第一巻が「上」「下」の二巻に分けられている。第一巻を「上」「下」で分けているのは「新写本(実暁本)」であり、「古写本」は第一巻としてまとめられている。

 これらの点から、明治17年書写の国立公文書館本は尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」を書写したものと考えられます。同写本の全体を精査したわけではありませんから、現時点での所見として報告しておきます。
 国立公文書館本の「年代歴」部分を見て、次のような感想を持ちました。

1.「古写本」では虫食いにより現在では読めない字があるが、実暁が弘治3年(1557)に「古写本」を書写したときはあまり虫食いが進んでいなかったようで、そのためその「新写本」を書写した国立公文書館本の「年代歴」もほとんどの文字が書写されている。
2,従来、論点となっていた「年代歴」末尾の「不記年号」の文字もはっきりと書写されており、「古写本」の虫食い前の文字をそのまま書写したと思われる。

 以上のようなことが、国立公文書館本の史料事実から推定されます。こうなると、是非とも尊経閣文庫の「新写本(実暁本)」も見てみたいと思います。尊経閣文庫に閲覧を申し入れるか、「新写本(実暁本)」の一部を影印本に収録した八木書店にその版元となった「新写本(実暁本)」の写真を見せていただけないか、頼んでみることにします。
 調査にご協力いただきました斎藤さんに改めて感謝申し上げます。


第1259話 2016/08/20

『続日本紀』の中の多元史観
    (もう一つのONライン)

 本日の「古田史学の会」関西例会では、学問の方法論に関する茂山さんの発表など重要な報告が続きました。中でも、西村さんと正木さんからの『続日本紀』に見える「もう一つのONライン」とでもいうべき痕跡についての報告は興味深いものでした。古代官道の南海道が四国内の阿波国府から土佐国府のルートが変更されており、その変更が九州王朝から大和朝廷への王朝交代によるものという、西村さんの発見は画期的でした。
 南海道旧道は阿波国府・讃岐国府・伊予国府・土佐国府(333km)でした。新道は阿波国府・土佐国府(148km)へと短縮されたのですが(『続日本紀』養老2年5月条〔718年〕)、この変更は中心王朝から出発して土佐国府への最短ルートとしたもので、その中心王朝が九州から大和へ変更になったためとされたのです。素晴らしい発見です。なお、古代南海道のルートが変更されているという指摘は今井久さん(古田史学の会・会員、西条市)からなされており、今回の西村さんの発見の契機になったとのことです。

 わたしからは「評」系図の史料批判として系図を史料根拠に使用する難しさについて報告し、「異本阿蘇氏系図」などを根拠に評制の開始時期を7世紀初頭以前にまで引き上げることはできないとしました。また、以前から問題となっていた『二中歴』「年代歴」の虫喰部分を「不記年号」とする明治10年書写の国会図書館デジタルコレクションの『二中歴』小杉写本を紹介しました。
 この他にも、茂山さんからの最新の論理学による「実証」と「論証」の解説など、普段はなかなか聞くことができない貴重な報告がありました。
 8月例会の発表は次の通りでした。

〔8月度関西例会の内容〕
①土左への交通路(南海道)の変更(高松市・西村秀己)
②巨大古墳は大和朝廷の政治的統一を表すものなのか(八尾市・服部静尚)
③定策禁中(その3)(京都市・岡下英男)
④記紀の真実3 神武東征は無った(大阪市・西井健一郎)
⑤岩波日本書紀の注に一つの疑問(相模原市・冨川ケイ子)
⑥前期難波宮造営の年代について(川西市・正木裕)
⑦古田先生の肉筆草稿新発見報告(奈良市・水野孝夫)
⑧「学問の方法」を整理して今後の「古田史学」を考える 〜パースの論理学をめぐって〜
 ※添付資料:『議論パターン』について(吹田市・茂山憲史)
⑨『二中歴』の「不記年号」問題の新史料(京都市・古賀達也)
⑩「評」系図の史料批判(京都市・古賀達也)
⑪『続日本紀』もう一つのONライン(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 7/23『邪馬壹国の歴史学』出版記念東京講演会の報告・9/03 狭山池博物館 西川寿勝さん講演の案内・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の案内・その他


第1257話 2016/08/17

続・「系図」の史料批判の難しさ

 「洛中洛外日記」635話「『系図』の史料批判の難しさ」で、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見に対して、わたしは次のように反論しました。

 「わたしは7世紀中頃より以前の『評』が記された『系図』の存在は知っていたのですが、とても『評制』開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、少なくともそれら『系図』を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。『系図』はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。」

 そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいとして、次の例を示しました。

 「『日本書紀』には700年以前から『郡』表記がありますが、それを根拠に『郡制』が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、初代の神武天皇からずっと『天皇』と表記されているからという理由で、『天皇』号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。」

 そして、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なので、それら「系図」がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠であると指摘しました。
 この指摘から3年が過ぎましたので、改めて「系図」の史料批判の難しさと、「評」系図の史料批判について、8月20日の「古田史学の会」関西例会にて報告することにしました。「洛中洛外日記」でも、その要点を紹介していきたいと思います。
 私事ではありますが、わたしの実家には畳二畳ほどの大きな「星野氏系図」があります。古賀家の先祖は星野氏で、「天小屋根命」に始まり、初代星野氏からわたしの曾祖父(古賀半助昌氏)までが記されています。その「星野氏系図」の途中から枝分かれした他家の部分を省いた「古賀家系図」を亡くなったわたしの父が三部作り、わたしたち兄弟三人に残してくれました。
 その「古賀家系図」を作成するにあたり、父は江戸時代の浮羽郡西溝尻村庄屋だった先祖の没年を古賀家墓地の墓石から読みとり、傍注として系図に付記しました。ところが、その注記に誤りがあることにわたしは気づきました。その原因は不明ですが、系図作成に於いて、こうした誤記誤伝が発生することを身を以て知ったものでした。
 古代に比べれば史料も豊富な江戸時代のことを平成になって誤り伝えるということが、系図のような「書き継ぎ文書」では発生してしまうのです。ましてや古代の部分に誤記誤伝が発生するのは避けられません。更に言えば、誤記誤伝ではなく大義名分による意図的な改訂、善意による改訂(原本の内容が誤っていると思い、その時代の認識で「訂正」する)さえも起こり得るのです。
 このような誤記誤伝、善意による原文改訂などを、わたしはこれまで何度も見てきました。ですから、「史料批判」抜きで、評価が定まっていない史料を自説の根拠にすることなどは恐くてとてもできないのです。(つづく)


第1252話 2016/08/12

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(14)

わたしが、九州王朝と摂津難波とは歴史的に関係が深いのではないかと気づいたのには、前期難波宮九州王朝副都説(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年4月)とは無関係に、次のような研究経緯があったからです。
2008年6月15日の「古田史学の会」関西例会で、わたしは「近江朝廷の正体 -壬申の乱の『符』-」という研究を発表しました。その目的は、2004年に『古田史学会報』61号で「九州王朝の近江遷都 -『海東諸国記』の史料批判-」という論文で、九州王朝が白鳳元年(661)に近江に遷都したとする仮説を発表したのですが、その仮説を傍証することでした。
『日本書紀』の「壬申の乱」の記事中に、近江朝廷側から「符(おしてふみ)」という上位者から下位者へ出す「命令書」が吉備や筑紫に発行されていることから、近江朝廷には筑紫や吉備よりも上位者がいたことになり、九州王朝説の立場からすれば、近江朝廷に九州王朝の有力者(筑紫や吉備よりも上位者)がいたことになり、この「符」という史料事実は九州王朝の近江遷都の傍証となり得るという研究発表でした。
その史料調査のとき、『日本書紀』中には「壬申の乱」以外には崇峻紀のみに「符」が現れることを知ったのです。それは「蘇我・物部戦争」の後に、河内で抵抗した捕鳥部萬(よろず)の遺骸を八つに斬れという何とも残酷な命令を「朝廷」が河内国司に出すという一連の記事中に「符」が現れます。先の近江朝廷の「符」が九州王朝からのものとすれば、この崇峻紀に見える「符」も九州王朝からのものとするのが、論理的一貫性と考えられ、いわゆる「蘇我・物部」戦争は九州王朝の命令により行われたのではないかと考えていました。
こうした研究経緯により、6世紀末頃に九州王朝は難波を制圧し、後に自らの直轄支配領域として天王寺を造営(倭京2年、619年)するに至ったと理解しました。そうした歴史的背景のもとに前期難波宮が副都として白雉元年(652)に造営されたものと思われます。このわたしの理解を強力に裏付ける衝撃的な論文が発表されました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の「河内戦争」(古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収。明石書店、2015年)です。(つづく)


第1242話 2016/07/31

『二中歴』年代歴の虫喰部分の新史料

 6月の「古田史学の会」関西例会にて、わたしは『二中歴』年代歴の九州年号記事末尾の「不記年号」問題を報告しました。この「不記年号」問題とは、『二中歴』の九州年号を列記した最後にある文章中の「不記年号」とされてきた部分が虫喰により「不記」の二字部分が読めないため、「不記」とする説と「記」とする説とで論争が続けられている問題です。
 『二中歴』の古写本は前田尊経閣文庫本があるだけで、他はその再写本という「天下の孤本」です。従って、虫喰などで不明な部分を他の写本で確認することができません。問題の記事は次のようなものです。

「已上百八十四年々号丗一代〔虫食いによる欠字〕年号只有人傳言自大寶始立年号而巳」

 わたしは虫喰の部分は「不記」とあったと考えており、「以上百八十四年、年号三十一代、年号は記さず。只、人の伝えて言う有り『大宝より始めて年号を立つのみ』」と訓んでいます。詳細は拙稿「『二中歴』の史料批判 — 人代歴と年代歴が示す『九州年号』」(『古田史学会報』No.30、1999年2月)をご覧いただきたいのですが、「不記」と理解した根拠は次の点です。

1.八木書店版『二中歴』の写真本を熟視したところ、やはり下半分は「記」と読める。ただし、前後の文字よりも小さな文字であり、従って上半分にも一字あったと見るべき。
2.同古写本は弘治三年(一五五七)興福寺の実暁により書写されており、更に元禄時代にそれを清写した新写本、いわゆる「実暁本」が現存しており、その「実暁本」には、問題の欠字部分が「不記」と記されているので、虫喰前の姿を表していると考えざるを得ない。
3,文章の意味からすれば「丗一代」の九州年号を記した後の文なので、「不記年号」では意味不明。本来「記年号」とあったのなら、わざわざ意味不明となる「不記年号」と書き換えたり、誤写することは考えにくい。従って、元々「不記年号」とあったと考える方が論理的である。

 以上のように尊経閣本の観察と「実暁本」の「不記年号」を重視した結果、わたしは虫喰部分を「不記」と理解したのですが、今回この理解を決定的に証明する新史料の存在を知りましたので、ご紹介します。
 その新史料とは国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている『二中歴』写本です(以下、国会図書館本と記す)。インターネットで閲覧可能ですので確認したところ、同写本は尊経閣本の虫喰の形まで書き込んであり、かなり正確に書写されたもので、まるでコピーのような写本なのです。虫喰の形まで書き込んだ写本など、わたしは初めて見ました。その国会図書館本の当該部分は「不記」とありました。そして、尊経閣本の当該部分と比較したところ、虫喰の形も正確に一致しており、かつ国会図書館本では明確に「不記」と読めるのです。すなわち、国会図書館本はまだ虫喰がそれほど進行していない時点の尊経閣本を書写したものだったのです。
 虫喰以前の姿を書写した国会図書館本の証明力は決定的です。こうして、『二中歴』年代歴の「不記年号」問題は最終的に完全に決着したと思います。なお、国会図書館本について国立国会図書館デジタルコレクションでは解題が付けられていないようですので、誰によるいつ頃の再写本か調査中です。ご存じの方がおられたらご教示ください。

 

 

申し訳ありません。初めに閲覧された方のみ、誤字がございます。
 
「不記年号」とされてきた部分が虫喰により   →  「不記年号」とされてきた部分が虫喰により
デジタルコレクションでは題が   →   デジタルコレクションでは解題が
 

第1239話 2016/07/28

理系の学会での論争

 今日は大阪で開催された繊維応用技術研究会に参加しました。同会の理事をしているので、座長なども仰せつかっています。
 今回の講演で最も面白かったのが、澤田和也さん(大阪成蹊短期大学教授)による「再生医療用材料としての動物毛由来タンパク質」で、豚の組織(心臓の弁など)を人間に移植する際に、界面活性剤で豚の細胞を構造タンパク(繊維質)から完全に除去しておくと免疫による拒否反応を押さえられるという研究でした。この「脱細胞化」した構造タンパクを人体に移植すると、その周りに人間の細胞が形成され、損傷した部位を再生できるというもので、この研究が完成すると、再生医療に大きく役立ちます。
 澤田さんの研究は更に進展し、豚の構造タンパクの代わりにコラーゲンやウールのケラチンを使用する方法、そして患者自らの毛髪から取り出したケラチンを使用することも検討されているとのこと。自らの毛髪ですとコストも安く、拒否反応も起こらないということでした。
 わたしは分子生物学は全くの素人ですが、とても刺激的な講演でした。分野が異なっても最先端研究は興味深く、面白いものです。本日の講演プログラムは下記の通りで、最後の上甲先生(椙山女学園大学教授、繊維応用技術研究会々長)のご発表で座長をさせていただきました。
 そこで発表された、繊維への染料の染色挙動に関する新仮説は、わたしが学んできた定説や実際の経験とは異なる部分を含んでいたので、その新仮説を証明する上において、提示された実験系の設定や実験条件は適切なのかという疑問をわたしはぶつけました。時間切れのため、その討論は二次会のお蕎麦屋さんでも続きました。
 このように理系の学会では理詰めの論争を行いますし、仮説と証明方法の因果関係の妥当性なども検討の対象とされます。しかし、実験データの改竄などはありえません。もし自説に都合良くデータを改竄したり、どうとでも言えるような都合の良いデータ解釈を行い、自説の根拠に使用するなどということは、まず起こりません。そんなことをしたら、即アウト、レッドカードです。ところが日本古代史学界は「邪馬壹国」を「邪馬台国」に、「南に至る」を「東に至る」にというデータ(倭人伝原文)改竄がほぼ全員で当たり前のように行われています。本当に不思議な学界というほかありません。

〔講演プログラム〕
①再生医療用材料としての動物毛由来タンパク質 澤田和也(大阪成蹊短期大学教授)
②静電気について(基礎編) 平井学(大阪府立産業技術総合研究所)
③X線による毛髪や羊毛の構造解析 伊藤隆司(花王株式会社)
④走査型プローブ顕微鏡による毛髪・羊毛の観察について 名和哲平(ホーユー株式会社)
⑤羊毛繊維の実用染色における染色温度と酸の作用 上甲恭平(椙山女学園大学教授)

 わたしのfacebookに、澤田さんの講演風景、澤田さん、上甲先生、京都大学原子炉実験所の川口昭夫さんらとの上本町のお蕎麦屋さんでの二次会風景を掲載していますので、ご覧ください。


第1238話 2016/07/28

拝読中『九州倭国通信』

  (No.182 2016.7.20)

 福岡市を中心に活動されている「九州古代史の会」(-「倭国」を徹底して研究する-九州古代史の会、代表:木村寧海氏)とわたしたち「古田史学の会」は双方の機関紙を交流することとなりました。昨日、同会のニュース『九州倭国通信』(No.182 2016.7.20)が送られてきました。「古田史学の会」からは8月発行予定の『古田史学会報』を同会に送付させていただく予定です。いただいた『九州倭国通信』は「古田史学の会」関西例会にて参加者に配布いたします。
 現在、『九州倭国通信』を拝読中ですが、特に注目した記事に、木村寧海さんによる同会の6月例会報告「榊原氏講演より」と中小路竣逸先生(故人)の学問の方法に関する論稿「古代史のカンどころノート」がありました。
 同例会報告では、伊都国歴史博物館元館長の榊原英夫氏が講演「海を渡った倭国王」で述べられた『後漢書』に見える倭国王帥升は使節団を率いて自ら訪中したとする説を紹介されました。興味深い説であり、この件について古田先生がどのように理解されていたのか調べてみたいと思います。
 中小路先生の「古代史のカンどころノート」を読んで、わたしが30代の頃に教えていただいたことを思い出し、とても懐かしく思いました。当時、論証とは何か、論証するとはどういうことか、という問題に悩んでいたわたしに、「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではない」という中小路先生の言葉がきっかけとなり、ようやく論証や学問研究の方法が見え始めました。中小路先生の論稿は連載されるようですので、これからも楽しみです。
 この度の機関紙交流が契機となり、両会の学問研究分野への交流も進められればと期待しています。


第1237話 2016/07/24

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(13)

 九州王朝が九州から遠く離れた難波になぜ前期難波宮(副都)を造営できたのかという問題について、わたしは九州王朝と摂津難波が何らかの事情で密接な関係があったと考えていました。それは現存最古の九州年号群史料『二中歴』に見える次の記事などが根拠でした。

 「倭京二年、難波天王寺を聖徳が造る。」『二中歴』「年代歴」(古賀訳)

 九州年号の倭京二年(619)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
 当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、7世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波」「天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
 また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が620年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」であるという結論に到達したのです。
 倭京二年(619)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。こうした論理展開により、多利思北孤の時代には難波は九州王朝が寺院を建立できるほどの、いわば直轄支配領域とする認識へと至ったのです。
 他方、九州王朝の天子が九州から瀬戸内海を行き来していたことを、古田先生は『万葉集』の史料批判により明らかにされていましたから、海上交通の要地である難波が九州王朝支配領域としても矛盾はありません。(つづく)