古賀達也一覧

第1109話 2015/12/21

入唐僧空海の持参金

 わたしは出社の日は自転車通勤(チャリ通)ですが(大半は直行直帰の出張)、今朝の京都は雨だったのでバスを利用しました。拙宅のある上京区から南区の会社へ行く途中、「九条大宮」のバス停を通過するのですが、そのおり京都市バスの運転手さんが「弘法さんに行かれる方はここでお降り下さい」と車内アナウンスされ、今日が「弘法さん」(空海の月命日に東寺で催される法会。境内や周辺に多数の露店が並びます)であることに気づきました。特に年末12月は「終い弘法」と呼ばれています。ちなみに、命日は3月21日(承和二年、835年)です。
 空海は青年の頃、遣唐使として入唐し、帰国時には大量の経典・法具類を持ち帰っています。この空海の帰国年次を「大同二年(807)」とする史料(『御遺告』他)があるのですが、帰国後に大宰府で書いた経典類の目録『御請来目録』(最澄による写本が東寺に現存)には「大同元年(806)」と記されており、これら空海帰国年の二説について永く論争がありました。
 この空海帰国年に関する論文「空海は九州王朝を知っていた」(1991年『市民の古代』13集)を、わたしは書いたことがありますが、そのとき何となく空海は入唐にあたり、旧九州王朝の有力者(筑前王太守?)のバックアップを得ていたのではないかと考えていました。もちろん明確な史料根拠や論証があったわけではありません。
 ところが先日の関西例会で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からとても面白い史料紹介がありました。その史料によると、空海は現在の金額で約8000万円を支払って、経典・法具などをもらったとされているのです。そのような大金を当初は一介の私度僧に過ぎなかった空海はどのようにして集めたのでしょうか。またその額に相当する貨幣はかなりの重量であり(絶対に空海一人では運べない)、どうやって運んだのだろうかと、西村さんは数々の疑問点を指摘されたのです。
 「香川県出身の唯一の偉人」(西村談)とされる空海には多くの謎があり、歴史研究者にはたまらない人物であり研究テーマです。


第1106話 2015/12/13

『壬申大乱』に古田先生のサイン

 来年1月17日の古田先生の追悼講演会で、わたしは古田先生の学問業績について解説することになっています。そのとき使用するプロジェクター映写に使用する先生の著作の写真撮影を行いました。限られた短時間での発表ですから、学問的に特に重要な著作を選んだのですが、いずれも重要な先生の多くの著作群から抜粋する作業は大変でした。
 その一冊に『壬申大乱』(東洋書林、2001年。後にミネルヴァ書房から復刻)を選んだのですが、そこに先生のサインがあることに気づきました。次のようなサインです。

 「三十周年の日に
      東京 朝日ホールにて
  古賀達也 様
   若々しく充実したお志と
   お力によって 求めつづけます。
   二〇〇一、 十月八日  古田武彦」

 このサインを、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊30周年記念講演会のときにいただいたことを思い出しました。東京古田会・多元的古代研究会・古田史学の会の三団体の主催で東京の朝日ホールで行われた記念行事ですが、このときわたしは「古田史学の過去・現在・未来」という演題で古田先生のご略歴や学問業績について講演しました。当初、「古田史学を学ぶ覚悟」という演題を申し入れていたのですが、実行委員会の事務局をされていた東京古田会の高木事務局長(故人)から、刺激的すぎるので演題を変更してほしいといわれました。わたしとしてはその理由がわからず納得できなかったのですが、何か事情があるのだろうと演題の変更に応じました。ただし、講演内容は変更せず、古田学派の研究者に対して「古田史学を学ぶ覚悟」を訴えました。
 おそらく来年の追悼講演会でも「古田先生亡き後の古田史学を学ぶ覚悟」を訴えることでしょう。


第1105話 2015/12/11

中山千夏さんからの追悼文

 古田先生の追悼文が「古田史学の会」へ続々と届いていますが、古くからの古田ファンの中山千夏さんからも追悼文をいただきました。古田先生との出会いから綴られた心温まる内容でした。
 わたしは中山さんと一度だけお会いしたことがあります。それは信州白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争のシンポジウム(1991年)のときでした。わたしは事務方を担当していましたので、御来賓の方のお世話もしていたのですが、そのシンポジウムのトークセッションに中山さんが参加されたのです。直接にはそれほど中山さんとお話しする機会は無かったように記憶していますが、中山さんのお付きの若い女性(マネージャーさんかも)がなかなかの美人で驚きました。
 その後、中山さんは『新古事記伝』という初心者にもわかりやすい『古事記』の解説本を出されたのですが、当時、「市民の古代研究会」にその出版記念パーティーの招待状をいただきました。会場が東京だったことと勤務の都合で出席できなかったので、かわりに関東の安藤哲朗さん(現・多元的古代研究会会長)に代理で出席していただきました。
 後日、パーティーの様子を録音したテープが届いたのですが、詩人で作家の辻井喬さん(つじい・たかし。1927-2013年)が出席され、お祝いのスピーチをされていたのです。わたしは大の辻井喬ファンでしたので、「しまった。無理してでも行けばよかった」と後悔したものです。
 辻井喬さんは詩集『異邦人』で室生犀星賞(1961年)、自伝的小説『いつもと同じ春』で平林たい子賞(1984年)、『虹の岬』で谷崎潤一郎賞(1994年)を受賞された優れた作家であると同時に、本名は堤清二という当時脚光を浴びていた経営者でした。西武セゾングループの代表で、バルコなど若者文化の最先端を切り開く文化人でもありました。とりわけ新進のコピーライター糸井重里さんを起用して「おいしい生活」(西武百貨店)という、その後の日本語にも影響を与えた名コピーを世に広めたことは有名です。
 出版記念バーティーに辻井喬さんが出席されたほどですから、中山千夏さんの交友関係の広さやお人柄がよくうかがえました。古田先生との出会いも、『「邪馬台国」はなかった』に対する質問のお手紙を先生に出されたことがきっかけでした。そうした経緯が追悼文には記されており、追悼会でご披露し『古代に真実を求めて』19集に掲載させていただきます。


第1098話 2015/11/28

『邪馬壹国の歴史学』のゲラ校正

 本日、「古田史学の会」編集(編集長:服部静尚さん)の『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の初校用ゲラがミネルヴァ書房から送られてきました。
 同書は古田先生が亡くなられて最初に「古田史学の会」が発行する本となりました。先生が亡くなられる前に執筆していた「はじめに」を急遽書き換えて、追悼の言葉を入れました。また、巻頭には古田先生の遺影を掲載することにしました。先生からもご寄稿いただきましたが、それは「古田史学の会」として先生からの最後の原稿となりました。
 わたしの論稿からは次のものが収録されますが、中でも「『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-」は先生からお褒めいただいた自信作です。

○はじめに --追悼の辞
○『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-
○『三国志』中華書局本の原文改訂
○纒向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず

 わたしが論文を発表するとき、いつも第一読者として古田先生を意識してきました。先生から褒められた論文はそれほど多くはありませんが、これからは先生から褒められることもお叱りをうけることもなく、亡師孤独の研究の日々が続きます。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の内容は古田先生から高い評価をいただいたもので、わたしたち「古田史学の会」の総力を結集して作り上げた一冊です。来年1月17日の「古田武彦先生追悼講演会」に発刊を間に合わせたいと願っています。そして、謹んで先生の御霊前に進呈したいと思います。


第1087話 2015/11/03

慟哭の10月

 今日は会社で『フリードランダー』(FRIEDLANDER  FORTSCHRITTE DER TEERFARBEN-FABRIKATION 1887-1890)を書庫から探し出して読みました。同書はドイツの有機合成化学の論文集で、現在進めている開発案件が暗礁に乗り上げたため、もう一度古典的合成ルートから確認する必要を感じて読んだものです。表紙もかなり痛んでいる貴重書で、国内で所蔵しているところはかなり珍しいでしょう。
 Dr.Rudolf Nietzki による1890年の論文を探すのが目的でした。日本で言えば明治時代の論文なのですが、今から120年以上も前にドイツではこれだけの化学研究水準だったのかと感動しました。その一部は今でも実際に工業的に使われている化学反応ですから、当時のドイツの工業力や化学技術力はすごいものです。これでは欧米列強により日本以外の有色人種の国々が植民地となり、奴隷状態におかれたのも残念ながらよく理解できます。本当に明治維新による近代化が間に合って、日本国民は幸福でした。
 同書はドイツ語で書かれていますから、最初はほとんど理解できませんでしたが、読んでいるうちに40年前に学校で習ったドイツ語(工業ドイツ語)の単語が少しずつよみがえり、何とか目的の論文であるかどうかは判断できるようになりました。10代の頃習ったドイツ語が還暦になって役立つとは、不思議な感じです。

 10月14日に古田先生が亡くなられ、「慟哭の10月」となりました。「慟哭」の出典は『論語』です。

 「顔淵死す。子、之を哭して慟す。従者曰く、子慟せりと。曰く、慟する有りしか。夫(か)の人の為に慟するに非ずして、誰が為にかせんと。」
              『論語』先進第十一

 「夫(か)の人」最愛の弟子、顔淵の死に、孔子が慟哭したというものです。わたしは尊敬する師を失い、「慟哭の10月」でした。

 その「慟哭の10月」に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される会員は担当(竹村順弘事務局次長)まで、メールでお申し込みください。

10月の「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル

2015/10/03 王仲殊さんご逝去
2015/10/10 映画「図書館戦争」(テレビ録画)の感想
2015/10/11 五戸弁護士からのお礼状
2015/10/13 金沢大学4年生、Kさんからのメール
2015/10/14 『歴史読本』休刊と出版事業の課題
2015/10/17 各界・各氏から弔意のお電話とメール来信
2015/10/22 学士会館での三団体協議
2015/10/27 学士会館での懇談余話
2015/10/31 フェスタ’15 JTCC近畿で講演


第1086話 2015/11/01

大好評! フェスタ’15 JTCC講演会

 昨日、大阪市中央区のエル・おおさかで開催された「フェスタ’15 JTCC近畿」(主催 JTCC近畿:日本繊維技術士センター)で、「理系が読む『倭人伝』 -「邪馬台国」女王卑弥呼の末裔-」というテーマで講演し、邪馬壹国説や九州王朝説、九州年号論までご紹介しました。わたし自身もおどろくほどのご好評をいただき、参加されていた他の団体役員の方から2件の講演依頼までいただきました(大阪・名古屋)。
 わたしの前にご講演された東洋紡株式会社・代表取締役会長の坂元龍三さんからも会場最前列でわたしの話をお聞きいただき、過分のお言葉をいただきました。その後の懇親会場でも、多くの方から次々とご質問をいただきましたし、名刺交換も多数させていただきました。
 染料合成化学の第一人者で大先輩の安部田貞治先生(住友化学OB。同氏の著書や論文で、わたしは若い頃、染料合成化学を学びました)からは、以前、わたしが講演した機能性色素の話よりも面白かったと、微妙なお褒めの言葉を賜りました。わたしの機能性色素の講演は面白くなかったのかと、ちょっと複雑な気持ちになり、苦笑いしました。11月末にも大阪中之島(繊維機械学会)で機能性色素の講演をするのですが、安部田先生から猛烈なプレッシャーをかけられてしまいました。
 「古田史学の会」の会合があるため、懇親会を途中で退席したいと申し上げたところ、司会の方がマイクで会場の皆さんに「講師の古賀さんが御用事で退席されますので、質問される方は今の内にお願いします。」とアナウンスまでしていただきました。
 古田説・九州王朝説をご存じない方はまだまだ多く、それだけにこうした講演で、初めて知った方々からの反響が大きいということでしょう。これからも、もっともっと積極的に講演活動を進めたいと思いました。主催者の方々をはじめ聴講していただいた皆様に心より御礼申し上げます。


第1081話 2015/10/24

古田先生から娘への贈り物

 古田先生からいただいた「宝物」の一つに、娘への贈り物があります。1992年11月に「市民の古代研究会」主催の全国研究集会を京都御所の西にある私学会館で開催したとき、当時3歳の娘を連れて先生にご挨拶しました。そのとき、新泉社から発行されたばかりの古田先生の著書『すべての日本国民に捧ぐ 古代史--日本国の真実』にサインをお願いしたところ、次の一文を記していただきました。

 「古賀小百合様
  いつもひとりで歴史の真実を求めて来た者です。わたしのいなくなった二十一世紀、あなたのいのちを見守っています。おしあわせに。
   一九九二.十一月二十九日 京都 私学会館にて
              古田武彦」

 このときの全国研究集会は「市民の古代研究会」の総力を挙げて取り組んだ一大イベントでした。当時、わたしは同会事務局長でしたので、成功させるために会場や宿泊施設の手配などを一手に引き受けていました。「市民の古代研究会」の会員数や影響力が最も華やかな一瞬でした。
 しかし理事会内部は一部理事による「古田離れ」がまさに開始される直前の時期でした。この二年後の1994年、「市民の古代研究会」は古田支持の少数派理事と反古田の多数派理事とで分裂に至り、わたしは水野孝夫さん(古田史学の会・前代表)らと共に「古田史学の会」を創立しました。このようなとき、娘にいただいた古田先生のサイン本は我が家の家宝となりました。


第1066話 2015/10/01

古田史学の会 facebook」のご紹介

 武蔵国分寺調査でお世話になった肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)のブログ「肥さんの夢ブログ」に、「上野(こうづけ)三碑」(山上碑・多胡碑・金井沢碑)が世界文化遺産候補になったことが紹介されていました。関東にはなぜか古代石碑が他地域よりも残っており、「上野三碑」はその代表的なものです。関東に多く残っていることは、九州王朝との関連がありそうですが、この問題は別の機会に考察したいと思います。
 世界文化遺産候補として「上野三碑」と共に「命のビザ」で有名な杉原千畝(すぎはら・ちうね)さんの遺品も候補になったとのことですが、第二次世界大戦中に外交官としてナチスドイツの迫害から大勢のユダヤ人を救った杉原さんの業績が注目されることは日本人としても誇らしいことです。
 20年ほど昔のことですが、わたしは杉原千畝さんの奥様の幸子さんの講演を聞いたことがあります。戦火の中、逃げまわっていたとき、ロシア軍の機銃掃射を受けたそうで、そのときドイツ軍青年将校が身を挺して守ってくれた思い出を語られていました。青年将校は奥様の上に覆いかぶさり、被弾して亡くなられたとのこと。とても紳士的な青年将校だったそうです。
 さて、「古田史学の会」ではfacebookを設置しました。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)が作られたものですが、関西例会や遺跡巡りハイキングの写真などが満載で、とても良い内容になっています。「古田史学の会 facebook」で検索してください。「いいね」やコメントも是非お願いします。
 9月に希望会員に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信希望される会員はこの機会に申し込んでください。

「洛中洛外日記【号外】」9月配信のタイトル
日付    タイトル
2015/09/01 百田尚樹『大放言』を読む
2015/09/07 「東京古田会」「多元の会」の皆さんと懇親会
2015/09/10 KBS京都放送「本日、米團治日和」オンエア!
2015/09/12 発刊記念東京講演会の反省会
2015/09/15 「古田史学の会 facebook」準備中
2015/09/20 青年時代の古田先生の憲法観
2015/09/23 『月刊 加工技術』連載コラム 日本列島発のコーティング技術「漆」
2015/09/26 「古田史学の会 youtuve」企画中
2015/09/27 facebookに悪戦苦闘中


第1041話 2015/09/02

東京オリンピック・エンブレム騒動に思う

 佐野研二さんの東京オリンピック・エンブレムが取り下げられましたが、今回のテレビニュースや新聞などの報道姿勢を見ていますと、ちょっと本質から離れた「芸能ニュース」のような違和感を感じています。わたしは芸術家ではありませんので、難しいテーマですが、仕事で開発や特許出願などに関わっていますので、そこでの常識やルールとは異なっているように感じています。
 エンブレムのデザインが模倣(パクリ)かどうかに焦点を当てた報道に終始している観がありますが、創造や発明で問題とすべき本質は「新規性(独創性)」の有無にあります。というのも世界中で行われている開発や創造作業と偶然に一致する、あるいは似てしまうことは起こり得ることですから、模倣の意志の有無とは無関係に、「新規性」がなければ(先行技術・発明が既にあった場合)、取り下げるか断念するしかありません。特許庁も「新規性」の有無を中心に審査します。ですから企業の研究開発においては先行技術・公知・特許などの有無を徹底的に調べますし、特許侵害に相当するか否か微妙な問題がある場合は特許事務所の弁護士や専門家の判断を仰ぎます。それだけ周到に事前調査をしていても、特許が拒絶査定されたり特許侵害で訴えられる可能性があり、その場合は裁判で争うか、話し合いで解決するか、特許出願を取り下げるなどの対応をとることになります。
 今回のエンブレム問題もマスコミはもっと芸術作品としての「新規性」の有無について解説して欲しかったと思います。もちろんそうした視点での専門家のコメントも見られましたが、圧倒的に興味本位の一般大衆受けする「模倣(パクリ)」騒動へとマスコミ報道はなされました。その方が視聴率や雑誌の売り上げが増える(お金になる)からでしょう。
 「古田史学の会」でも『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』での採用審査において、先行研究の有無も重要な判断基準になります。古田学派による研究も30年以上の歴史があり、その間に発表された研究もかなりの数にのぼります。ですから、それらを知らずに、あるいは忘れてしまって同じような投稿論文を掲載する恐れがあり、わたしもこの点について自信が持てないときは「古田史学の会」のホームページの検索機能を使って調べたり、他の研究者の意見を求めたりします。似たような結論や論理展開の論文はときおり見かけますが、その場合はその論文に「新規性」や「独創性」があれば、なるべく採用するか、先行説に触れるよう原稿の修正を執筆者に求めることもあります。
 8月の関西例会でも東大阪市の萩野秀公さん(古田史学の会・会員)より、先行説の存在を知らないで発表するリスクを心配する意見が出されました。わたしは、そうしたリスクは常にありますが、それでも例会等で発表することが学問研究にとっては大切であり、もし先行説があれば指摘してもらえるので、例会での発表を「自主規制」する必要はないと返答しました。また、論文として会報などに発表する場合は、その責任は採否を決める側にあるので、あまり心配しないで投稿することをお勧めしました。
 以上、今回のエンブレム騒動を機会に、学問研究のプライオリティーと投稿原稿採否の難しさについて再考してみました。この件、重要ですので、これからもよく考えてみることにします。


第1040話 2015/08/31

古田先生出演「本日、米團治日和」

 のオンエア日程

 先週、収録されたKBS京都放送の古田先生が出演される「本日、米團治日和」のオンエア日程ですが、いただいた企画表によれば、9月の9日、16日、23日の17:30〜18:00とありましたのでお知らせします。特段の事情がなければこれらの水曜日に放送されます。関西の皆さん、ぜひ聴いてください。なお、Radiko.jpプレミアムに登録すればパソコンやスマホで全国どこでも聴けるそうです(有料、要契約)。

「本日、米團治日和」での紹介です。
2015.09.09 《古田武彦さん登場 @ KBS京都ラジオ》

 希望される会員に「洛洛メール便」で配信しています「洛中洛外日記【号外】」の8月のタイトルをご紹介します。まだ発信申し込みをされていない会員の方は、ぜひお申し込みください。

「洛中洛外日記【号外】」8月配信のタイトル
日付    タイトル
2015/08/01 9月6日、東京講演会の打ち合わせ
2015/08/04 KBS京都ラジオ収録の打ち合わせ
2015/08/05 「インターネット例会」構想
2015/08/08 「国分寺」問題の服部さんとのメール
2015/08/10 古田先生から原稿いただく
2015/08/12 KBS京都放送で米團治さんと打ち合わせ
2015/08/17 古田ファン発見!「居島一平さん」
2015/08/18 東大で古代関東の研究例会開催
2015/08/20 『海路』12号「九州の古代官道」を読む
2015/08/21  9/06 東京講演のパワーポイント完成
2015/08/23  9月5日の「武蔵国分寺」現地調査プラン
2015/08/26 『月刊 加工技術』連載コラム「海の正倉院」沖ノ島の金銅製龍頭
2015/08/29  米團治さんからの問い


第1012話 2015/08/02

『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の

「はじめに」

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)が見えられ、9月6日に開催する『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会(東京家政学院大学千代田キャンパス)の打ち合わせなどを行いました。
また、ミネルヴァ書房から発行が予定されている『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の編集についても検討を進めました。当初予定していた論稿に加えて、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の論文を新たに収録することも確認しました。
 巻頭に掲載する「はじめに」をわたしが書くことになっていましたので、昨日急いで書き上げ、服部さんに提出しました。今後、修正するかもしれませんが、ここに「はじめて」をご紹介します。年内の出版を目指していますが、会員には割引価格で提供することを検討しています。
 古田先生の講演録をはじめ、会員による論文などを収録しています。なかなかよい本になっていますので、ご期待ください。

 

はじめに

   古田史学の会・代表 古賀達也

 昭和四六年(一九七一)十一月、日本古代史学は「学問の夜明け」を迎えた。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった 解明された倭人伝の謎』が朝日新聞社より上梓されたのである。この歴史的名著はそれまでの恣意的で非学問的な「邪馬台国」論争の風景と空気を一変させ、学問的レベルをまさに異次元の高みへと押し上げた。
 それまでの「邪馬台国」論争における全論者は『三国志』倭人伝原文の「邪馬壹国」を「邪馬台国」と論証抜きで原文改訂(研究不正)してきた。邪馬壹国ではヤマトとは読めないから「邪馬台国」と原文改訂し、延々と「邪馬台国」探しを続けてきたのである。それに対して、古田氏は原文通り「邪馬壹国」が正しいとされ、古代史学界の宿痾ともいえる、自説の都合にあわせた論証抜きの原文改訂(研究不正)を厳しく批判されたのである。
 また、帯方郡(ソウル付近)から女王国(邪馬壹国)までの距離が倭人伝には「万二千余里」とあり、一里が何メートルかがわかれば、その位置は自ずと明らかになる。そこで古田氏は『三国志』の記述から実証的に当時の一里が七五〜八〇メートル(魏・西晋朝短里説の提唱)であることを導きだし、その結果、「万二千余里」では博多湾岸までしか到達せず、およそ奈良県などには届かないことを明らかにされた。
 さらには倭人伝の記述から、倭人が南米(ペルー・エクアドル)にまで航海していたという驚くべき地点へと到達された。その後の自然科学的研究や南米から出土した縄文式土器の研究などから、この古田氏の指摘が正しかったことが幾重にも証明され、今日に至っている。
 こうした古田氏の画期的な邪馬壹国博多湾岸説は大きな反響を呼び、『「邪馬台国」はなかった』は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後、古田氏の学説(九州王朝説など)は古田史学・多元史観と称され、多くの読者と後継の研究者を陸続と生み出し、今日の古田学派が形成されるに至ったのである。
本年、古田氏は八九歳になられ、今なお旺盛な研究と執筆活動を続けておられる。名著『「邪馬台国」はなかった』が世に出て既に四四年の歳月を迎えたのであるが、その邪馬壹国論の新段階の集大成として、本書は古田氏の講演録・論文とともに、氏の学問を支持する古田学派研究者による最先端研究論文を収録した。『「邪馬台国」はなかった』の「続編」として、百年後も未来の古田学派の青年により本書は読み継がれるであろう。
 最後に『「邪馬台国」はなかった』の掉尾を飾った次の一文を転載し、本書を全ての古田ファンと古田学派に送るものである。(二〇一五年八月一日)

今、わたしは願っている。
古い「常識」への無知を恥とせず、真実への直面をおそれぬ単純な心、わたしの研究をもさらにのり越えてやまぬ探求心。--そのような魂にめぐりあうことを。
それは、わたしの手を離れたこの本の出会う、もっともよき運命であろう。


第1006話 2015/07/22

「愛知サマーセミナー」の反省点

 7月19日に開催された「愛知サマーセミナー」の私自身の反省点についても考えてみたいと思います。思いつくだけでも次の技術上の反省点があります。

1.どのような参加者層なのかの事前調査が不十分だった。そのため、中学生の参加という想定外の事態が発生し、講義途中に反応を見ながら、説明の内容やレベルを修正する事態となった。マーケットリサーチの欠如との批判を免れません。企業活動では絶対に許されないミスでした。

2.高校生を対象としてパワーポイントの映像を作成したつもりだったのですが、ビジュアル化が不十分であり、印象に残るような画像演出ができていなかった。ただし、これは改善が容易です。既に技術的には解決策が確立されていますので、事前の準備時間をどれだけ確保できるかという問題です。

3.講演者間の事前打ち合わせがなされていなかった。そのため、当日になって他者のレジュメを見て、内容の重複を知り、これも講義内容を変更して対応するという事態が発生しました。事前打ち合わせを今後は徹底的に行う必要があります。あるいは講演者を一人とするという解決方法もあります。

4.レジュメも中高生向けのテキストとしてパンフレット様式で作成したほうが効果的でした。パンフレットの方が、その後の保管や利用にあたり便利だからです。これは講演者個人の課題ではなく、「古田史学の会」の事業として作成すべきと思われました。

 他にも演出上の工夫、テーマの選定など、様々な克服すべき課題がありましたが、逆にこれらの対策を確立できれば、来年以降はもっと素晴らしいセミナーとすることが可能ですし、未来の古田学派研究者の輩出も期待できます。「古田史学の会・東海」のみなさんとも相談して、ぜひ、戦略的に取り組んでみたいと思います。