古賀達也一覧

第1819話 2019/01/09

臼杵石仏の「九州年号」の検証(2)

 『臼杵小鑑』の記事からだけでは、石仏に彫られているという「正和四年卯月五日」が九州年号か鎌倉時代の年号かは判断できません。鶴峯戊申は満月寺の開基を「四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり 然れば日羅が開山も此比(ママ)の事と見えたり」という現地伝承を根拠に九州年号の「正和四年(五二九)」と判断したようですが、日羅(?-583年)は『日本書紀』によれば百済王に仕えていた人物であり、敏達紀には583年に百済からの帰国記事が見えます。「正和四年(五二九)」とはちょっと離れすぎています。もちろん鶴峯もこのことに気づいており、『臼杵小鑑』ではいろいろと〝言いわけ〟を試みていますが成功していません。
 「十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。」とした鶴峯の見解は未証明の作業仮説(思いつき、意見)であり、鎌倉時代の「正和」ではないという反証(証拠を示しての反論)もできていません。従って、この鶴峯の「意見」を根拠に石仏の「正和四年卯月五日」を九州年号とすることはできないのです。どうしても鶴峯の「意見」を採用したいのであれば、その「意見」が正しい、あるいは鎌倉時代の「正和」とするよりも有力であることを史料根拠を示して論証する必要があります。(つづく)


第1818話 2019/01/08

臼杵石仏の「九州年号」の検証(1)

 わたしは三十年以上にわたり九州年号の研究を進めてきました。とりわけ、同時代史料の調査研究は最重要テーマでした。その中で、「大化五子年(六九九)」土器や「朱鳥三年戊子(六八八)」銘鬼室集斯墓碑、そして「(白雉)元壬子年(六五二)」木簡などの同時代九州年号史料について発表してきました。他方、九州年号史料として認定できずにきた史料もありました。そのひとつに大分県の「臼杵石仏」に関する「正和四年」刻銘があります。そこで、九州年号と認定できなかった理由について紹介し、史料批判という学問の基本的方法について説明します。
 比較的初期の頃の九州年号に「正和(五二六〜五三〇)」があり、九州年号史料として有名な『襲国偽僭考』を著した鶴峯戊申が十九歳のとき記した『臼杵小鑑』(国会図書館所蔵本。冨川ケイ子さん提供)にこの「正和」に関する次のような記事が見えます。

 「満月寺
 (前略)〈満月寺は宣化天皇以前の開基ときこゆ〉十三佛の石像に正和四年卯月五日とあるハ日本偽年号〈九州年号といふ〉の正和四年にて、花園院の正和にてハあらず。さて其偽年号の正和ハ継体天皇廿年丙午ヲ為正和元年と偽年号考に見えたれば、四年ハ継体天皇の廿四年にあたれり。然れば日羅が開山も此比の事と見えたり。(後略)」
 ※〈〉内は二行割注。旧字は現行の字体に改め、句読点を付した。(古賀)

 九州年号真作説に立つ鶴峯戊申のこの記事を読んで、九州年号「正和」が臼杵の満月寺の石仏に彫られていることを鶴峯は見ており、現存していれば同時代九州年号金石文になるかもしれないとわたしは期待しました。しかし、鶴峯も記しているように、「正和」は鎌倉時代にもあり、九州年号の「正和(五二六〜五三〇)」なのか、鎌倉時代の「正和(一三一二〜一三一七)」なのかを確認できなければ、九州年号史料とは断定できないと考えました。というのも、自説に都合が良くても、まずは疑ってかかるという姿勢が研究者には不可欠だからです。(つづく)


第1817話 2019/01/05

『続日本紀』研究の構想

 昨日は「古田史学の会・事務局長」の正木裕さんと電話で年始のご挨拶と新年のイベントやこれからの構想について意見交換しました。そのおり、久留米大学の福山教授から講演の演題を決めてほしいとのメールが届きましたので、何か講演依頼が「古田史学の会」に来ているのだろうかと正木さんにうかがったところ、久留米大学で毎年開催されている公開講座(7月初旬)への講演依頼をいただいているとのこと。相談の結果、『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集、仮称)の宣伝を兼ねて古代伝承を演題にすることにしました。正木さんは天孫降臨に関する諸伝承をテーマとされ、わたしは久留米大学での講演にふさわしい現地伝承をテーマとすることにしました。
 昨年は「古田史学の会」の役員や会員の方々が各地(大阪市・奈良市・豊中市)で古代史講演会を主宰されました。今年は服部静尚さんらにより京都市でも講演会がスタートします。平日夕方の開催ですので、出張や残業がなければわたしも参加したいと考えています。1回目は2月19日(火)18:30-20:00、会場は京都駅の北側にあるキャンパスプラザ京都(6F 演習室)です。
 これらとは別に、今すぐというわけではありませんが、『続日本紀』の勉強会を有志で行いたいと願っています。というのも、古田学派では『日本書紀』の研究は多くの研究者によって取り組まれていますが、『続日本紀』研究はまだ不十分だからです。『続日本紀』の文武紀は九州王朝から大和朝廷への交代期にあたりますし、その後の聖武天皇の頃までは王朝交替の影響が続いていますから、『続日本紀』に残されたそれらの痕跡を研究したいと以前から思っていました。わたしも「宣命」の研究などを少し行ったことはありますが、中途で放置したままとなっています。
 『続日本紀』に関心のある方があれば一緒に研究したいものです。


第1816話 2019/01/03

新年の読書『職業としての学問』(4)

 ソクラテスやプラトンの学問の方法について深く具体的に知りたいと願っていたのですが、マックス・ウェーバーが『職業としての学問』で触れていることに気づきました。次の部分です。

 〝かの『ポリテイア』におけるプラトンの感激は、要するに、当時はじめて学問的認識一般に通用する重要な手段の意義を自覚したことにもとづいている。その手段とは、概念である。それの効果は、すでにソクラテスにおいて発見されていた。(中略)だが、ここでいうその意義の自覚は、ソクラテスのばあいが最初であった。かれにおいてはじめていわば論理の万力(まんりき)によって人を押えつける手段が明らかにされたのであり、ひとたびこれにつかまれると、なんびともこれから脱出するためにはおのれの無智を承認するか、でなければそこに示された真理を唯一のものとして認めざるをえないのである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、37頁)

 ここに記された「学問的認識一般に通用する重要な手段」としての「概念」という表現は難解です。しかし、「いわば論理の万力によって人を押えつける手段」ともあることから、「論理の万力」とは論理による証明、すなわち他者を納得させうる「論証」のことではないかと思います。
 もし、この理解が妥当であればソクラテスやプラトンの学問の方法論とは「論証」に関わることではないでしょうか。そうであれば、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉や岡田先生の「論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも」、そして古田先生がよく語っておられた「論証は学問の命」という言葉に示された「論証」、すなわち「論理の力」(論理の万力(まんりき)こそがソクラテスやプラトンの学問の方法論の象徴的表現なのではないでしょうか。
 プラトンが著した『ポリテイア』、すなわち『国家』を新年の読書の一冊に選んだ理由はこのことを確かめることが目的でした。もちろん、まだ結論は出ていません。


第1815話 2019/01/03

新年の読書『職業としての学問』(3)

 古田先生が学問について語られるとき、東北大学時代の恩師で日本思想史学を創立された村岡典嗣先生(むらおか・つねつぐ、1884-1946)の次の言葉をよく紹介されていました。

 「学問は実証よりも論証を重んずる」

 この村岡先生の言葉は、近年では2013年の八王子セミナーでも古田先生が述べられ、注目を浴びました。『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』巻末の「日本の生きた歴史(十八)」にそのことを書かれたのも2013年11月です。1982年(昭和57年)に東北大学文学部「文芸研究」100〜101号に掲載された「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」にもこの村岡先生の言葉が「学問上の金言」として紹介されています。同論文はその翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録されましたので紹介します。

 「わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。〔43〕(村岡典嗣)』と。
 その意味するところは、思うに次のようである。“歴史学の方法にとって肝要なものは、当該文献の史料性格と歴史的位相を明らかにする、大局の論証である。これに反し、当該文献に対する個々の「考証」をとり集め、これを「実証」などと称するのは非である。”と。」(79頁)
 「〔43〕恩師村岡典嗣先生の言(梅沢伊勢三氏の証言による)。」(85頁)
(古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」『多元的古代の成立[上]邪馬壹国の方法』所収、駿々堂出版、昭和58年)

 このように、古田先生は30年以上前から、一貫して村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」を「学問の金言」として大切にされ、晩年まで言い続けられてきました。この「学問は実証よりも論証を重んずる」は〝古田先生の学問の原点〟である〝(二)論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。〟と意味するところは同じです。「論理の導き」とは「論証」のことであり、「たとえそれがいずこに到ろうとも」という姿勢こそ、「論証を重んずる」ことに他なりません。
 村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」と岡田先生の「論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも」が学問的に一致することに、昭和初期における両者の親交の深さを感じさせます。そしてその交流が古田武彦という希代の歴史家を生んだといっても過言ではありません。岡田先生は愛弟子の古田武彦青年を東北帝国大学の村岡先生に託されました。村岡先生も古田青年の入学を心待ちにされており、東北大学の同僚からは「君の〝恋人〟はまだ来ないのかね」と冷やかされていたとのこと。
 あるとき、古田先生になぜ村岡先生の東北大学に進まれたのですかとお訊きしたことがありました。「岡田先生の推薦であり、何の迷いもなく村岡先生のもとへ行くことを決めました」とのご返事でした。広島高校時代、古田先生は授業が終わると毎日のように岡田先生のご自宅へ行かれ、お話を聞いたとのことでした。ですから、その岡田先生の推薦であれば当然のこととして東北大学に進学されたのです。このような経緯により、東北大学で古田先生は村岡先生からフィロロギーを学び、ソクラテスやプラトンの学問を勉強するために、村岡先生の指示によりギリシア語の単位もとられました。こうして、古田先生の〝学問の原点〟の一つに「ソクラテスやプラトンの学問の方法」が加わりました。(つづく)


第1814話 2019/01/02

新年の読書『職業としての学問』(2)

 わたしは、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深める」と常々言ってきました。また、「異なる意見の発表が学問研究を進展させる」とも言ってきました。しかし、なかには自説への批判や異なる意見の発表に対して怒り出す人もおられ、これは〝古田先生の学問の原点〟の〝(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。〟とは真反対の姿勢です。
 わたしは化学を専攻し、仕事は有機合成化学(染料化学・染色化学)です。従って、自然科学においては、どんなに正しいと思われた学説も50年も経てば間違っているか不十分なものになるということを化学史の経験から学んできました。人文科学としての歴史学も、「科学」であるからには同じです。そのため、古代史研究においても新たな仮説を発表するときは、「今のところ、自説は正しいと、とりあえず考える」というスタンスで発表しています。これと同様のことをマックス・ウェーバー(1864-1920)は『職業としての学問』で次のように述べていますので、紹介します。同書は1917年にミュンヘンで行われた講演録です。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁)

 ここで述べられているマックス・ウェーバーの指摘は学問を志すものにとって、忘れてはならないものです。古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた、次の二つのこととも通底しています。〝(三)「師の説にななづみそ」(先生の説にとらわれるな)(本居宣長)、(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。〟(つづく)


第1813話 2019/01/01

新年の読書『職業としての学問』(1)

 みなさま、あけましておめでとうございます。

 年末から2019年の研究テーマなどを考えてきました。そして、古代史研究の他に、古田先生の「学問の方法」について、わたしが学んできたことや感じてきたことなどを「洛中洛外日記」などで紹介することをテーマの一つとすることにしました。
 古田先生の「学問の方法」については少なからぬ人が今までも述べてこられました。例えば昨年11月に開催された「古田武彦記念古代史セミナー」では大下隆司さん(古田史学の会・会員、豊中市)が具体的にレジュメにまとめて発表されており、参考になるものでした。特に次の4点を紹介され、わたしも深く同意できました。

 古田先生の〝わたしの学問の原点〟
(一)学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法論にある。
(二)論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。
(三)「師の説にななづみそ」(先生の説にとらわれるな)(本居宣長)
(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。

 いずれも古田先生から何度も聞かされてきた言葉であり、先生の研究姿勢でした。セミナーでは質疑応答の時間が限られていましたので、この4点については賛意を表明しただけで質問は差し控えました。しかし、わたし自身もまだよく理解できていないのが(一)の〝学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法論にある。〟でした。先生がこのように言われていたのはよく知っているのですが、〝ソクラテス、プラトンの学問とその方法論〟とは具体的に何を意味するのか、どのような方法論なのか、わたしは古田先生から具体的に教えていただいた記憶がありません。
 もしあるとすれば、(二)の〝論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。〟です。この言葉は古田先生の広島高校時代の恩師である岡田甫先生から講義で教えられたというソクラテスの言葉だそうです。ただ、プラトン全集にはこのような言葉は見つからないとのことでした。恐らくソクラテスの思想や学問を岡田先生が意訳したものと古田先生は考えておられました。わたしも『国家』や『ソクラテスの弁明』など数冊しか読んだことはありませんが、そのような言葉とは出会ったことがありません。ご存じの方があれば、是非、ご教示ください。
 こうした問題意識をずっと持っていましたので、この正月休みにプラトンの『国家』とマックス・ウェーバーの『職業としての学問』を久しぶりに読みなおしました。(つづく)


第1810話 2018/12/28

『倭国古伝』(仮称)の巻頭言

 明石書店から『古代に真実を求めて』22集の初校が送られてきました。編集部で決めた書名は『倭国古伝 -姫と英雄と神々の古代史-』です。巻頭言ではその書名について解説しました。しかしながら最終的には明石書店の同意が必要ですので、書名が変更になれば巻頭言も書き直さなければなりません。
 本の宣伝も兼ねて巻頭言原稿を紹介します。この年末年始は校正に終始しそうです。

【巻頭言】
勝者の歴史と敗者の伝承
     古田史学の会・代表 古賀達也

 本書のタイトルに採用した「倭国古伝」とは何か。一言でいえば〝勝者の歴史と敗者の伝承から読み解いた倭国の古代史〟である。すなわち、勝者が勝者のために綴った史書と、敗者あるいは史書の作成を許されなかった人々の伝承に秘められた歴史の真実を再発見し、再構築した古代日本列島史である。それをわたしたちは「倭国古伝」として本書のタイトルに選んだ。
 その対象とする時間帯は、古くは縄文時代、主には文字史料が残された天孫降臨(弥生時代前期末から中期初頭頃:西日本での金属器出現期)から大和朝廷が列島の代表王朝となる八世紀初頭(七〇一年〔大宝元年〕)までの倭国(九州王朝)の時代だ。
 この倭国とは歴代中国史書に見える日本列島の代表王朝であった九州王朝の国名である。早くは『漢書』地理志に「楽浪海中に倭人有り」と見え、『後漢書』には光武帝が与えた金印(漢委奴国王)や倭国王帥升の名前が記されている。その後、三世紀には『三国志』倭人伝の女王卑彌呼(ひみか)と壹與(いちよ)、五世紀には『宋書』の「倭の五王」、七世紀に入ると『隋書』に阿蘇山下の天子・多利思北孤(たりしほこ)が登場し、『旧唐書』には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の両王朝が中国史書に始めて併記される。古田武彦氏(二〇一五年十月十四日没、享年八九歳)は、これら歴代中国史書に記された「倭」「倭国」を北部九州に都を置き、紀元前から中国と交流した日本列島の代表権力者のこととされ、「九州王朝」と命名された。
 『旧唐書』には「日本はもと小国、倭国の地を併わす」とあり、八世紀初頭(七〇一年)における倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交替を示唆している。この後、勝者(大和朝廷)は自らの史書『古事記』『日本書紀』を編纂し、そこには敗者(九州王朝・他)の姿は消されている。あるいは敗者の事績を自らの業績として記すという歴史造作をも厭うことはなかった。
 古田武彦氏により、古代日本列島には様々な文明が花開き、いくつもの権力者や王朝が興亡したことが明らかにされ、その歴史観は多元史観と称された。これは、神代の昔より近畿天皇家が日本列島内唯一の卓越した権力者・王朝であったとする一元史観に対抗する歴史概念である。わたしたち古田学派は古田氏が提唱されたこの多元史観・九州王朝説の立場に立つ。
 本書『倭国古伝』において、勝者により消された多元的古代の真実を、勝者の史書や敗者が残した伝承などの史料批判を通じて明らかにすることをわたしたちは試みた。そしてその研究成果を本書副題に「姫と英雄と神々の古代史」とあるように、「姫たちの古代史」「英雄たちの古代史」「神々の古代史」の三部構成として収録した。
 各地の古代伝承を多元史観により研究し収録するという本書の試みは、従来の一元史観による古代史学や民俗学とは異なった視点と方法によりなされており、新たな古代史研究の一分野として重要かつ多くの可能性を秘めている。本書はその先駆を志したものであるが、全国にはまだ多くの古代伝承が残されている。本書を古代の真実を愛する読者に贈るとともに、同じく真実を求める古代史研究者が多元史観に基づき、「倭国古伝」の調査研究を共に進められることを願うものである。
     平成三十年(二〇一八)十二月二三日、記了


第1806話 2018/12/20

桂米團治師匠の還暦お祝いパーティー

 今日は大阪中之島のホテルで開催された桂米團治師匠の還暦お祝いパーティーに出席しました。噺家生活40周年のお祝いも兼ねており、とても華やかで楽しい宴でした。わたしは「古田史学の会」代表としてご案内いただいたものです。
 わたしと米團治さんのお付き合いの始まりは古代史が縁でした。上方落語の舞台としても登場する四天王寺について、地名は天王寺なのにお寺の名前は四天王寺ということを予てから不思議に思っておられた米團治さんが、「古田史学の会」HPでこの問題に触れていた「洛中洛外日記」を読まれ、わたしの名前と説(四天王寺は元々は天王寺だった)を御自身のオフィシャルブログに掲載されたのがきっかけでした。
 偶然、米團治さんのそのブログの記事がネット検索でヒットし、わたしは米團治さんの好意的な紹介を読み、お礼の手紙を出しました。その数日後に米團治さんからお電話をいただき、お付き合いが始まりました。始めてお会いし、京都ホテルオークラのレストランで食事をご一緒させていただいたのですが、もちろん話題は古代史、中でも古田説でした。米團治さんは古田先生の著作もよく読んでおられ驚いたのですが、そのときに米團治さんのラジオ番組(「本日、米團治日和り。」KBS京都放送)に古田先生に出演してもらえないだろうかと相談を受けました。先生はご高齢なのでテンポの速いラジオのトーク番組は無理ではないかと言ったところ、「古賀さんも一緒に出ていただき、先生をサポートするということでどうですか」とのことでしたので、古田先生と二人で米團治さんの番組に出ることになったものです。このときの内容を『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店)に収録しましたのでご覧ください。
 収録は2015年8月に2時間にわたって行われ、9月に三週にわたってオンエアされました。そしてその翌10月の14日に古田先生は亡くなられました。米團治さんのラジオ番組が古田先生最後の公の場となりました。ですから、米團治さんには不思議なご縁をいただいたものと感謝しています。
 四〇〇名以上の来客による華やかな還暦パーティーでしたが、来賓のご挨拶などから、今年から米朝事務所の社長に就任された米團治さんのご苦労も忍ばれました。パーティーの様子はわたしのFACEBOOKに写真を掲載していますので、ご覧ください。テレビでしか拝見したことのない有名人もたくさん見えられていました。それは米團治さんの人望の高さや人脈の広さを感じさせるものでした。何よりも米團治さんが大勢の来客の中からわたしを見つけられ、ご挨拶いただいたことにも感激した一夕でした。


第1803話 2018/12/18

不彌国の所在地(1)

 「洛中洛外日記」1791話「西新町遺跡(福岡市早良区)ですずり片五個出土」で、その地を魏志倭人伝に見える不彌国(ふみ国)とする作業仮説(思いつき)を紹介しました。そのことをFACEBOOKでも紹介し、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)にすずりが出土した早良地域を不彌国とすることの当否についてたずねたところ、当地は邪馬壹国内に相当し、不彌国は今津湾付近とのご意見が寄せられました。
 わたしは1791話で次のように不彌国の位置を考えていました。

 〝古田説では、糸島半島方面から博多湾岸に入り、不彌国に至り、その南に邪馬壹国があるとされています。その邪馬壹国の中心地域は春日市の須玖岡本遺跡付近と考えられていますから、博多湾岸に位置する西新町遺跡が邪馬壹国の北の玄関口に相当する不彌国の有力候補と考えられるのです。〟

 ですから、今津湾付近では西過ぎるのではないかと感じたのですが、正木さんの説明によれば、福岡市西区今宿付近から長垂山の南側を通って吉武高木遺跡がある早良方面に抜ける道が当時の主要ルートなので、倭人伝の「南到る邪馬壹国」とある行程記事と見なして問題ないということでした。この正木説に説得力を感じましたので、今津湾や今宿付近を不彌国とできる痕跡が地名などに残っていないか検討しました。たとえば「ふみ」という地名が当地に残っていないかを調べてみました。
 その結果、長垂山の南側を抜けた早良区に「上山門」「下山門」という地名があることを見いだしました。江戸時代の史料にも「下山門郷」という地名が記されていることを知ってはいたのですが、その地名の意味することに今回気づくことができました。それは「山(やま)」という領域の入り口を意味する「山門(やまと)」であるということです。そしてその「山(やま)」とは邪馬壹国の「邪馬」ではないかという問題です。(つづく)


第1785話 2018/11/15

「新・八王子セミナー2018」のハイライト

 11月10〜11日に開催された「古田武彦記念 古代史セミナー2018」(新・八王子セミナー。於:大学セミナーハウス)に参加しました。京都の拙宅から片道5時間ほどの旅程で、ちょっとハードでしたが、緊張感に満ちたとても刺激的なセミナーでした。なお、前日の夜、大阪で化学系学会の理事会があり、わたしは全国から集まった理事会のメンバーと夜遅くまで飲んでいたこともあって、初日はちょっと疲れ気味でした。
 同セミナーではハイライトともいうべきシーンがいくつかありました。最初は、会場に到着して食堂で昼食をとろうとしたとき、先に着かれていた東京古田会の橘高事務局長のお招きで、主催者・関係者用のテーブルに座ったのですが、そこに記念講演をされる山田宗睦さんがおられたのです。山田先生とはシンポジウム「邪馬台国」徹底論争(昭和薬科大学諏訪校舎)でお会いしたとき以来で、27年ぶりの再会でした。山田先生もわたしのことを憶えておられ、堅い握手を交わしました。とても93歳とは思われないほどお元気で、見た目も当時とあまり変わっておられないように思われました。同シンポジウムでは山田先生は総合議長を担当され、わたしは実行委員会で裏方でした。また機会があれば当時のエピソードについてご紹介したいと思います。
 一日目の研究発表では安彦克己さん(東京古田会・副会長)の和田家文書中の法然(源空)の「一枚起請文」(和風漢文。「建暦元年」の日付がある)の紹介と研究が優れていました。金戒光明寺(京都市左京区)に現存する「一枚起請文」(建暦二年〔1212年〕)に先だって成立したものではないかとする仮説は日本思想史のテーマとしても興味深いものでした。
 二日目は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が「七世紀末の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への権力移行」というテーマで、「大化改新」を多元史観により史料批判され、王朝交替期の実態について報告されました。内容も発表の仕方も優れたもので、今回のセミナーでも出色の研究発表ではないかと思いました。
 更に、司会の大墨伸明さん(多元的古代研究会)からの、改新詔を九州王朝が公布したとする古田説と正木説との〝齟齬〟についての指摘は重要な視点でしたが、質疑応答の時間がないため十分に討論できなかったことが惜しまれます。今回の正木仮説の本質は「大化改新詔(皇太子奏上)」を近畿天皇家主導によるものとした点にあり、これは九州王朝最末期において近畿天皇家が九州年号「大化」を用いて自らの詔勅を出した、あるいは『日本書紀』に記したことを意味します。是非とも論議を深めて欲しいテーマでした。このような優れた発表とそれに対しての鋭い指摘・質問は学問を深化発展させますから、古田学派のセミナーにふさわしいものと思われました。
 藤井政昭さんの「関東の日本武尊」も素晴らしい内容でした。景行紀の「日本武尊」説話に関東の王者の伝承が取り込まれているというもので、来春発行の『古代に真実を求めて』にも藤井論文を掲載予定です。
 この他にも信州関連の研究として、鈴岡潤一さん(邪馬壹国研究会・松本)の「西暦700年の〈倭国溶暗〉と地方政治の展開」、吉村八洲男さんの「『しなの』の国から見る『磐井の乱』」も面白い発表でした。
 閉会のご挨拶で、主催された荻上紘一先生(大学セミナーハウス前館長、古田先生の支持者)から、来年も開催したいとの提案がなされ、参加者の拍手で承認されました。次回も古田学派の全国セミナーにふさわしい研究発表が期待されます。


第1783話 2018/11/09

九州王朝と大和朝廷の難波と太宰府

 拙稿「前期難波宮は九州王朝の副都」(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)で前期難波宮九州王朝副都説を発表してから十年になりますが、今でも様々なご批判をいただくことがあります。最近でも、〝難波は九州ではない。だから難波に九州王朝の副都などあるはずがない〟という趣旨の批判があることを知りました。
 この種の批判は、わたしが副都説を発表する際に最初に想定したものでした。というよりも、わたし自身が副都説に至る思考の最中に自らに発した問いでもありました。ですから、こうした批判が出ることは当然であり、驚くには及ばないのですが、この種の批判に対してこの十年間に何回も説明・反論してきたにもかかわらず、未だに出されるということに、自らの説明の不十分さを思い知らされました。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えていますので、どのように説明したらこの種の批判に対して効果的かを考えてみました。
 ちなみに今までは次のように説明してきました。

①九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であれば自らの支配領域のどこに副都を置こうが問題はない。
②中国や朝鮮半島諸国・渤海国には副都(複都)を置く例があり、むしろ複都を持つことが当然のようでもある。従って九州王朝(倭国)が副都を置くのは当然でもある。
③新羅の例では、かつての敵地(百済)に副都を置いている。従って、九州王朝が難波に副都を置いても不思議とはいえない。
④『日本書紀』天武紀に信州に「都」を置こうとした記事があり、古田先生はこの記事を九州王朝の「信州遷都計画」とされた。従って、古田説支持者であれば、信州よりも九州に近い難波に九州王朝が副都を置くことはありえないとは言えないはずである。もちろん、学問研究である以上、古田先生と異なる説を唱えることに何も問題はない。わたしの副都説も古田先生の見解とは異なるのであるから。

 以上の説明では納得していただけない方があるため、わたしは新たに次の説明を加えることにしました。

⑤近畿天皇家は列島の代表王朝となった大宝元年に『大宝律令』を制定し、九州島支配のため「大宰府」を置き、難波には摂津職を置いた。
⑥〝福岡県太宰府市は大和(奈良県)ではない。だから大和朝廷が福岡県に大宰府を置くはずがない〟という批判は聞いたことがない。
⑦同様の理屈から、摂津難波に九州王朝が副都を置いたとする説に対して〝難波は九州ではない〟などという批判が成立しないことは当然であろう。
⑧大和朝廷が『大宝律令』に基づき、筑前に「大宰府」を置き、難波に摂津職(後の難波副都)を置いたように、九州王朝が九州王朝律令に基づき太宰府に都を置き、難波に副都(摂津職)をおいたとしても何ら不思議ではない。
⑨大和朝廷は九州諸国を監督する「大宰府」を筑前に置くことができるが、九州王朝は摂津難波に副都を置くことはできないとするのであれば、その理由の説明が必要。

 以上のような新たな説明を考えてみました。これなら理解していただけるのではないでしょうか。もし納得していただけないとすれば、どのような説明が必要なのか、わたしはあきらめることなく考えてみます。〝学問は批判を歓迎する〟のですから。