古賀達也一覧

第3123話 2023/09/25

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)

 合田洋一さんの調査(注①)により、愛媛県東部地域に「天皇」地名が散見されることは知られていますが、今回入手した『朝倉村誌』(注②)にも記されていました。愛媛県越智郡の朝倉村(現・今治市)に遺された「天皇」地名類が次のように紹介されています。

○車無寺(後の無量寺)建立のこと (中略)院号を斉明天皇の祈願所なるが故に、天皇院と呼び、また年月を経て後、伊予皇子を御養育申し上げたため、安養院ともいった。(上巻、198頁)
○須賀神社(天王宮) 旧村社
〔由緒沿革〕斉明天皇の御宇に創立されたという。(中略)もと朝倉天皇又は野田宮とも称した。(下巻、1312~1313頁)
○野田・野々瀬の須賀神社
・朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)。または野田宮ともいう。
・丸亀市本島の寺に「朝倉天皇宮」の鰐口がある。(下巻、1505~1506頁)
○與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事
(中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也 (下巻、1731頁)
○伊予国越智郡朝倉南村地誌
(中略)本郡孫兵衛作村ニ界ス其ヨリ天皇溝上流ニ至ル(中略)
西ハ天皇溝上流ニ起線シ風呂本拾六番地ニ至ル川ヲ以テ朝倉北村ニ界シ(後略) (下巻、1792頁)
○橋 天王橋 (下巻、1795頁)
○実報寺往還ノ選位朝倉北村飛地天皇橋ニ起リ(中略)同天皇橋前ニテ左右ヘ桜井往還ヲ岐ス (下巻、1796頁)
○社 須賀社村社ニシテ(中略)笠松山尾端字天皇ニアリ (下巻、1797頁)

 以上のように、車無寺(後の無量寺)の「天皇院」、朝倉南村の「天皇溝」「天皇橋」と字地名「天皇」の記事が見えます。斉明天皇との関係で由来が書かれている「天皇院」と、具体的な天皇名を付されていない「天皇溝」「天皇橋」「天皇」とがあり、なぜ朝倉村にこうした名称が現在まで伝わっているのか不思議です。北部九州でも神功皇后や斉明天皇、天智天皇の伝承が少なからずありますが、地名に「天皇」という表記が使われている例をわたしは知りません。701年、大和朝廷が成立した後に、こうした最高権力者の名称を大和から遠く離れた地で、誰かが勝手に命名使用するということはちょっと考えにくいのです。ですから、朝倉村など愛媛県東部地域に、こうした「天皇」地名が少なからず遺っているのは偶然ではなく、他地域とは異なる何らかの歴史的背景があったと考えるべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
②『朝倉村誌』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)。


第3122話 2023/09/24

『朝倉村誌』(愛媛県越智郡)を購入

 今日は久しぶりにご近所にある枡形商店街の古書店巡りをしました。あるお店の書棚の上の方に『朝倉村誌』の表題を持つ上下2巻セットの分厚い本を見つけました。どこの朝倉村だろうかと気になり、手にとって確認すると、愛媛県越智郡の朝倉村(現・今治市)でした。古田学派内では斉明天皇伝承で注目されている地です。価格も二千円と格安で、新品同様の良本ですので迷わず購入しました。同書は昭和61年(1986年)に出版されたもので、地元の伝承や寺社仏閣の史料などが収録されているのか心配でしたが、そこそこ掲載されていたので、お買い得でした。

 ざっと目を通したところ、朝倉村の字地名一覧が下巻末にありました。「ほのぎ」(注①)という一覧表で、その中の「朝倉上之村」に次の字地名がありました。

○「才明」  地番:1835 1836 地目:田
○「西明」  地番:1900 1901 1902 1903 地目:田
○「才明」  地番:2126 2127 地目:田
○「才明上」 地番:2128 2129 2130 2131 2132 地目:田

合田洋一氏の見解(注②)によれば、この字地名は九州王朝の天子、「斉明(サイミョウ)」が当地に来た痕跡とされています。

 末尾に「みょう(名・明)」がつく地名は、九州や四国を中心に西日本各地に分布し(注③)、関東や青森県にも見えます。明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「国」―「郡」―「町・村」―「小名」―「字」と区分けされ、「名」は「村」と「字」の中間にあるような行政単位です。表記例から判断すると、「名」の中に「字」があるというよりも、両者は併存しているようです。わたしは『朝倉村誌』に収録された「才明」「西明」は、この「みょう」地名ではないかと考えています。

(注)
①「ほのぎ」とは次のように説明されている。
「人の住む所には、おのずからその所有をはっきりするために、自分の持ち地を区画して、そこへ杭を立てて名をつけた。昔はこれをほのぎ(保乃木・穂乃木)といった。明治時代のはじめにほのぎを小字とし、小字を集めて村や町とした。」(愛媛県生涯学習センターHPによる)
②合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「洛中洛外日記」969話(2015/06/04)〝「みょう」地名の分布〟
同「九州・四国に多い『みょう』地名」『古田史学会報』129号、2015年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。


第3121話 2023/09/23

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (4)

 中国史書「百済伝」の百済王の名前を精査していて不思議に思ったのが、「扶餘」や「餘」の姓を持たない次の二人の百済王でした。

○『南斉書』:「百済王牟大」、「牟都」(牟大の亡祖父)。
○『梁書』:「牟都」(慶の子)、「牟太」(牟都の子)。
○『南史』:「牟都」(慶の子)、「牟大」(牟都の子)。

 理由はわかりませんが、この牟都(慶の子)と牟大(太)は姓が記されていません。また、牟都の父である百済王「慶」も何故か当該「百済伝」には姓が見えません。しかし、「慶」の父は「百済王餘映」(『宋書』)とあり、姓は「餘」です。そして、「牟太」の次に見える百済王は「王餘隆」(『梁書』『南史』)とあり、「餘」姓に戻っています。この件、引き続き中国史書を精査したいと思いますが、これら百済伝の記述を信用すれば、同一血族王権内での王位継承者(百済王)であっても、史書に「姓」が掲載されなかったり、中国風の名称表記と百済語名の漢字表記とで、史書上での扱いが異なるということかもしれません。

 百済王の名称表記や王統系図については異説もあり、今回の調査をもって、倭国の王姓理解について結論が出るわけではありません。古田学派での検証や論争、史料精査の動向に注目したいと思います。


第3120話 2023/09/22

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (3)

 中国史書「百済伝」の百済王の名前について見てきましたが、その出身地(故地)の国名(地名)「扶餘」、あるいはその一字「餘」を百済王は姓にしていることがわかりました。少なくとも当該中国史書編纂者はそのように認識していることを疑えません。次に『宋書』の百済国伝と倭国伝を比較してみます。

 『宋書』百済国伝での百済王の名前表記は次の通りで、「餘」を姓とし、名前は「倭の五王」と同様で、いわゆる中国風一字名称です。

○『宋書』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(餘毗の子)。
また、百済王の臣下の名前に冠軍将軍「餘紀」とあり、百済王と同じ「餘」姓です。この他にも、征虜将軍「餘昆」「餘暈」、輔國将軍「餘都」「餘乂」、龍驤将軍「餘爵」、寧朔将軍「餘流」、建武将軍「餘婁」という「餘」姓の将軍が記されており、いずれも王家と同族なのかもしれません。

 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」の名前表記は次の通りです。

○『宋書』:「倭讚」「讚」「珍」「倭國王濟」「興」「倭王世子興」「武」

 倭王の臣下に「倭隋」という名前も見え、倭国王の「倭讚」と同様に「倭」姓を名乗っていると理解できます。同じ『宋書』の夷蛮伝ですから、百済国伝と同様に倭国伝の場合でも国王と臣下の姓が同じ「倭」と捉えるのが穏当ではないでしょうか。この理解によるならば、百済王が自国の故地「扶餘」あるいはその一字「餘」を姓とし、倭王が自国名「倭」を姓としたことは、当時の東夷諸国の慣行だったのかもしれません。これは高句麗王も同様で、国名から一字を採り、姓を「高」としています(注)。(つづく)

(注)『魏書』高句麗伝に「號曰高句麗,因以為氏焉」、『周書』高麗伝には「自號曰高句麗,仍以高為氏」、『隋書』高麗伝には「朱蒙建國,自號高句麗,以高為氏」とある。


第3119話 2023/09/21

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (2)

次の中国史書(正史)に百済伝があります。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『旧唐書』『新唐書』(注①)。百済王の名前については次のように記されています。

○『宋書』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(餘毗の子)。
○『南斉書』:「百済王牟大」「大」、「牟都」(牟大の亡祖父)。
○『梁書』:「王須」、「王餘映」、「王餘毗」、「慶」(餘毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟太」「太」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『南史』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟大」「大」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『魏書(北魏)』:「百済王餘慶」「餘慶」。
○『周書(北周)』:「王隆」、「昌」(隆の子)。
○『隋書』:「王餘昌」「昌」、「餘宣」(餘昌の子)、「餘璋」「璋」(餘宣の子)。
○『北史』:「王餘慶」「餘慶」、「隆」、「餘昌」(隆の子)、「餘璋」(餘昌の子)。
○『旧唐書』:「王扶餘璋」「璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。
○『新唐書』:「王扶餘璋」「璋」「百済王扶餘璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘豊」「豊」(旧王子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。

この中で、百済王の姓について具体的に記されているのが『周書(北周)』と『北史』です(注②)。

○『周書(北周)』:「王姓は扶餘氏(注③)、於羅瑕と号し、民は鞬吉支と呼んでいる。」
○『北史』:王姓は餘氏、於羅瑕と号し、人々(百姓)は鞬吉支と呼んでいる。」

扶餘は百済の故地とされており(注④)、その国名(地名)「扶餘」、あるいはその一字「餘」を百済王は姓にしていることがわかります。例外としては『南斉書』の「牟大」「牟都」、『梁書』の「牟都」「牟太」、『南史』の「牟都」「牟大」で、何故かこの二人の百済王は「牟」を姓としているように見えます。(つづく)

(注)
①使用した版本は次の通り。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『新唐書』は汲古閣本、『旧唐書』は百衲本。
②訓み下し文は坂元義種『百済史の研究』(塙書房、1978年)による。
③百衲本による。汲古閣本は「大餘」とする。
④『魏書(北魏)』には「百済国其先出自扶余」とある。
『周書(北周)』は「百済者其先蓋馬韓之属国扶餘之別種」とあり、百済国を扶餘国の別種とする。
『旧唐書』は「百済国本亦扶餘之別種」とする。
『新唐書』は「百済扶餘別種也」とする。


第3118話 2023/09/20

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (1)

 「洛中洛外日記」3069話(2023/07/15)〝賛成するにはちょっと怖い仮説〟で日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)の研究を紹介しました。「古田史学の会」関西例会での「倭国の君主の姓について」という発表です。その要旨は、九州王朝王家の姓の変遷(倭姓→阿毎姓)を歴代中国史書から導き出し、九州王朝内で〝王統〟の変化があったとする仮説です。『宋書』に見える倭の五王は「倭」姓の氏族であり、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」姓の王家とは異なる氏族とするもので、これは従来の古田説にはなかったテーマです。

 この日野説は注目すべきものですが、疑義も出されています。例えば、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」は「姓」と記されているが、『宋書』に見える「倭讃(倭王)」の「倭」は姓とは記されておらず、「倭」を倭王の姓とするエビデンスはないとの谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)の指摘があります(注)。そこで、「倭讃」の「倭」が倭王の姓なのか、国名「倭」の援用なのかについて検討するために、中国史書東夷伝の隣国「百済伝」では、百済王の姓がどのような表記になっているのかを参考として調べてみることにしました。

 管見では次の史書(正史)に「百済伝」があります。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『旧唐書』『新唐書』。訓み下し文は坂元義種『百済史の研究』(塙書房、1978年)を採用しました。(つづく)

(注)「古田史学リモート勉強会」(2023年8月12日)での質疑応答にて。


第3117話 2023/09/18

「筑前國字小名取調帳」

    那珂郡横手村の字「国分寺」

 〝熊野神社社殿下に卑弥呼の墓がある〟とした古田先生の仮説を検証するために、明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注①)を精査していたら、那珂郡横手村に「国分寺」という字地名がありました。以前に気付いてはいたのですが、そのことが持つ意味まではわからず、筑前国の国分寺は太宰府にあるので、国分寺が所有する田畑でもあったのだろうかと考えていました。しかし、現在では多利思北孤による告貴元年(594年)の国府寺(国分寺)建立詔という仮説(注②)が成立していますので、この横手村の字地名「国分寺」は九州王朝(倭国)による筑前国府寺(国分寺)の痕跡ではないかと推測しています。

 そうであればその痕跡が筑前の地誌に残っていないかと調査したところ、『筑前国続風土記拾遺』(注③)の那珂郡井尻村に次の記事がありました。ちなみに、井尻村は横手村の隣村です。両村の位置は現在の福岡市南区内です。

 「地禄天神社
産神なり。所祭埴安命なり。祠は村の東二町斗林中に在。また村中に熊野社有。共に鎮座の年歴詳ならず。
○村の東南藤崎人家の後に大塚といふ塚あり。いかなる人を葬しや詳ならす。又熊野権現の後廣藪を開き溝を掘たりしか、百姓惣吉といふ者塚の際より鉾の鎔範を堀出たり。石型長三尺斗。上下合せてあり。石質温石の如し。須玖村にある鎔範の類なり。其側より炭屑多く出たり。然れはいにしへ此所にて銅鉾を鑄たりしなるへし。此辺土中より古瓦多く出る。むかし大寺なと有し址なるへきか。」『筑前国続風土記拾遺 上巻』325頁

 この最後にある「此辺土中より古瓦多く出る。むかし大寺なと有し址なるへきか。」が横手村の字地名「国分寺」の痕跡ではないでしょうか。古瓦が多く出土したという「(井尻)村の東南藤崎」とは、隣接する横手村の北側に当たることが次の両村の記事によりわかります。

 「横手村
(前略)村の西に那珂川あり。上ハ下曰佐・三宅兩村より流来り、下ハ三宅・井尻兩村の間にいる。」
「井尻村
(前略)村の西に那珂川あり。上ハ三宅・横手村より流れ来りて末は三宅・五十川兩村の境にいる。」

 従って、横手村と井尻村に跨がる大寺があったのではないでしょうか。その大寺こそ、字地名「国分寺」に遺された九州王朝による筑前国府寺(国分寺)ではないかと想像しています。現時点では断定することなく、引き続き調査したいと思います。

(注)
①『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。
②古賀達也「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
同「洛中洛外日記」1025話(2015/08/15)〝九州王朝の「筑紫国分寺」は何処〟
同「『告期の儀』と九州年号『告貴』」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
③広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(1993年)。


第3116話 2023/09/17

「筑前國字小名取調帳」須玖村の字「盤石」

 「洛中洛外日記」3114話(2023/09/15)〝『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓〟で、卑弥呼の墓の有力候補として須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本山)の山上にある熊野神社の地とする古田説を紹介しました。そしてその徴証として『筑前国続風土記拾遺』(注①)の須玖村「熊野権現社」の記事を指摘しました。

「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産土也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、320~321頁。

 ここに見える「皇后峯」が熊野神社が鎮座する「須玖岡本山」のことと思われるのですが、その場所は「バンシヤクテン」の「又其側皇后峰といふ山」とありますので、「バンシヤクテン」という地名を探すことにしました。なお、「バンシヤクテン」の意味はよくわかりません。漢字表記ではなく、カタカナで表記されていることから、『筑前国続風土記拾遺』編纂時点で既に意味不明となっていたのかもしれません。

 幸い、古田先生の著書(注②)に「福岡県須玖・岡本遺跡を中心として弥生期から古墳期までの遺跡分布図」(注③)が掲載されており、その地図によれば熊野神社の東側に「バンシャク」という地名が見え、これが「バンシヤクテン」のことか、それと関係した地名と思われます。その位置であれば「又其側皇后峰といふ山」という記述に対応でき、熊野神社がある「須玖岡本山」の山頂部が、その側にある「皇后峰」に相当します。

 更に明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「筑前國那珂郡須玖村」に字「岡本山」「盤石(バンジャク)」が並んでおり、この「盤石(バンジャク)」が「バンシヤクテン」のことで、須玖岡本山に隣接していることが推定できます。
以上の調査結果から、『筑前国続風土記拾遺』に記された「皇后峰」が熊野神社の地「須玖岡本山」の山頂を指していることがわかりました。そうであれば、「皇后峯ハ神后の御古跡」という村の古老の伝えは、此の地が神功皇后とされる女王がいたという伝承であり、卑弥呼の伝承が『日本書紀』成立以後に神功皇后に置き換えられたと考えるべきです。

 以上のように、〝熊野神社社殿下に卑弥呼の墓がある〟とした古田先生の推察は、考古学・文献史学・現存地名・現地伝承を根拠として成立しており、やはり最有力説と思われるのです。

(注)
①広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(1993年)。
②古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
③福岡県教育委員会・調査資料、1963年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。


第3115話 2023/09/16

『万葉集』「日本挽歌」

     は九州王朝のレクイエム

 本日、東淀川区民会館で「古田史学の会」関西例会が開催されました。10月例会は浪速区民センターで開催します。

 わたしは「喜田貞吉の批判精神と学問の方法」を発表しました。喜田貞吉が問題提起した三大論争(法隆寺再建論争、『教行信証』代作説、藤原宮長谷田土壇説)の経緯と結果、そして遺された課題について説明し、喜田の批判精神と古田先生の学問の方法をしっかりと継承したいと決意表明しました。

 今回の例会で特に注目したのが上田さんと正木さんの発表でした。上田さんの発表は、『万葉集』巻五「日本挽歌」は九州王朝のレクイエムとする新解釈で、確かに八世紀前半頃の太宰府で歌われた挽歌であれば、新王朝の日本国の挽歌では不自然であり、滅んだ九州王朝(倭国)の挽歌であればよく理解できます。それではなぜ「倭国挽歌」ではなく、「日本挽歌」とされたのかという問題があり、その説明は簡単ではありませんが、興味深い仮説と思われました。

 正木さんは、九州年号の朱鳥改元は倭王・都督である筑紫君薩夜麻崩御によるものとする仮説を発表されました。これには意表を突かれました。『日本書紀』朱鳥元年是歳条の「蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ。」の記事は、薩夜麻と天武が倶に崩御したことを風刺する歌ではないかともされました。実は、筑紫の有力者「虎丸長者」(藤原虎丸と伝える)が朱鳥元年に没したとする伝承があり、この虎丸が薩夜麻ではないかと考えたこともあったからです。ただし、伝承では朱鳥改元の七月二十日よりも後の十月に虎丸は亡くなったとされており、改元とのタイミングがあわないので九州王朝の天子とはできないと考えてきました。今回の正木説を知り、「虎丸長者」伝説を見直す必要を感じました。

 9月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔9月度関西例会の内容〕
①消された天皇 (大山崎町・大原重雄)
②「梅花の歌」と長屋王の変 (八尾市・上田 武)
③西井氏の問いかけに答える (八尾市・満田正賢)
④白鳳、朱雀、朱鳥、大化期の天子は誰か (八尾市・満田正賢)
⑤喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (京都市・古賀達也)
⑥藤原宮(藤原京)の名称と、その遺跡出土の評木簡について (東大阪市・萩野秀公)
⑦部曲は「私有民」なのか? 中村友一氏の研究を受けて (たつの市・日野智貴)
⑧九州王朝から新王朝への交代 ―その時期に関する考察― (姫路市・野田利郎)
天武崩御と倭国(九州王朝)の薩夜麻の崩御 (川西市・正木 裕)
仝レジュメ(pdf書類)ダウンロードできます。

○会務報告(正木事務局長) 令和六年新春古代史講演会(2024/1/21、京都市)の件、関西例会の会員向けライブ配信の取り組み、他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
10/21(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。
11/18(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。

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古田史学の会東淀川区民会館 2023.9.16

9月度関西例会発表一覧(参照動画)

 YouTube公開動画①②です。他にはありません。

1,消された天皇 (大山崎町・大原重雄)

2,「梅花の歌」と長屋王の変 (八尾市・上田 武)

3,西井氏の問いかけに答える (八尾市・満田正賢)

4,白鳳、朱雀、朱鳥、大化期の天子は誰か (八尾市・満田正賢)

5,喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (京都市・古賀達也)

6,藤原宮(藤原京)の名称と、その遺跡出土の評木簡について
(東大阪市・萩野秀公)

7部曲は「私有民」なのか? 中村友一氏の研究を受けて
(たつの市・日野智貴)

https://youtu.be/BYRNeh-VHY8

8,九州王朝から新王朝への交代 ―その時期に関する考察―
(姫路市・野田利郎)

https://youtu.be/ZDZfIhhV16c https://youtu.be/TooP9uL7qqQ

9,天武崩御と倭国(九州王朝)の薩夜麻の崩御 (川西市・正木 裕)

https://youtu.be/W122qfOPRS8


第3114話 2023/09/15

『筑前国続風土記拾遺』

     で探る卑弥呼の墓

 来年の1月14日、九州古代史研究会で講演させていただくことになりました。演題は下記の通りで、なるべくタイムリーで九州の皆さんに興味を持っていただけそうな内容にしました。

□演題 吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓
□副題 ―九州年号金石文・棟札の紹介―

 そこで改めて卑弥呼の墓について史料調査したところ、重要な記事を見つけましたので紹介します。
古田説では、著名な弥生遺跡である須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本山)の山上にある熊野神社の地を卑弥呼の墓の候補としています(注①)。その根拠は次のようです。
『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国名「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」とする古田説を「洛中洛外日記」1803、1804話で紹介しましたが、この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとしました。「須玖村岡本山」は「須玖村」の大字「岡本」の小字「山」という三段地名表記です。
この須玖岡本遺跡からは虁鳳鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土していることから、当地が邪馬壹国の中枢領域であるとされ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置します。そこには熊野神社が鎮座しており、そこに卑弥呼の墓があったのではないかと古田先生は指摘されました。また、日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないかとしました。
この古田説は、地名「須玖岡本山」とその地から出土した須玖岡本彌生遺跡と遺物(魏時代の虁鳳鏡)を根拠として成立していますが、更に文献に徴証がないかを調査しました。幸いにも筑前には江戸期に成立した地誌(注②)がいくつかあり、それらを精査したところ、『筑前国続風土記拾遺』(注③)に熊野神社について次の記述がありました。

 「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産土也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、320~321頁。

 この「熊野権現社」は熊野神社のことで、当地域から銅矛やその鋳型が出土したと記されています。さらにそこには「皇后峰といふ山」があり、「此皇后峯ハ神后の御古跡」とする伝承の存在も記しています。この「神后」とは神功皇后のことと理解されます。『日本書紀』神功紀には倭人伝の女王(卑弥呼、壹與)のことが記されており、あたかも神功皇后が卑弥呼・壹與と同一人物であるかのような記述になっています(注④)。この史料事実は次のことを指し示します。

(1) 須玖岡本に皇后の峯と呼ばれている山がある。
(2) その付近からは弥生時代の銅矛や鋳型が出土している。
(3) 皇后の峯は神功皇后の古跡と伝承されている。

 これらの史料事実は次の可能性を示唆します。

(4) 『日本書紀』神功紀には倭人伝の女王が記されており、当地には「皇后の峯」を倭国の女王の古跡とする伝承があり、『日本書紀』成立以後にその女王を神功皇后(神后)とする伝承に変化した。
(5) 須玖岡本にある峯とは、当地の小字地名「山」と解される。
(6) その須玖岡本山には熊野神社があり、当伝承が「熊野権現」の項に記されていることも(5)の理解を支持している。

 以上の考察から、当地の熊野神社の領域(具体的には社殿下の山頂部)に卑弥呼の墓があったとする古田先生の考察が最有力説と思われるのです。九州古代史研究会の新年講演会ではこのことを詳述します。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
②貝原益軒『筑前国続風土記』宝永六年(1709)、加藤一純・鷹取周成『筑前国続風土記付録』寛政十一年(1799)、青柳種信『筑前国続風土記拾遺』文化十一年(1814)、伊藤常足『太宰管内志』天保十二年(1841)。
③広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(1993年)。
④『日本書紀』神功皇后三十九年条に次の記事がみえる。
「魏志に云はく、明帝の景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣(いた)りて、天子に詣らむことを求めて朝獻す。」


第3113話 2023/09/14

〝興国の大津波〟は元年か二年か

 津軽を襲った〝興国の大津波〟を「東日流外三郡誌」には「興国二年」(1341年)の事件と、くり返し記されています。しかし、ごく少数ですが「興国元年」(1340年)あるいは同年を指す「暦応庚辰年」(「暦応」は北朝年号)とも記されています。管見では下記の記事です(注①)。

(1)「高楯城略史
(中略)
依て、安東氏は興国元年の大津浪以来要途を失せる飯積の領なる玄武砦を付して施領せり。(中略)
元禄十年五月  藤井伊予記」 (「東日流外三郡誌」七三巻、同①478頁) ※元禄十年は1697年。

(2)「十三湊大津浪之事
暦応庚辰年八月四日、十三湊の西海に大震超(ママ)りて、波濤二丈余の大津波一挙にして十三湊を呑み、その浪中に死したる人々十三万六千人なり。(後略)」 (「東日流外三郡誌」七五巻、同①488頁) ※「暦応」は北朝の年号。「庚辰年」は暦応三年に当たり、興国元年と同年(1340年)。

(3)「津軽安東一族之四散(原漢書)
十三湊は興国元年八月、同二年二月に起れし大津波に安東一族の没落、水軍の諸国に四散せることと相成りぬ。(中略)
寛政五年九月七日  秋田孝季」 (「東日流六郡篇」、同①514頁) ※寛政五年は1793年。本記事は興国の大津波が、元年と二年の二回発生したとする。

 この他に、「興国己卯年」「興国己卯二年」のような年号と干支がずれている表記も見えます。すなわち、「己卯」は1339年であり、年号は「延元四年(南朝)」あるいは「暦応二年(北朝)」で、興国元年の前年にあたります。次の記事です。

(4)「建武中興史と東日流
(中略)
亦、奥州東日流に於は(ママ)、興国己卯年十三湊の大津浪に依る水軍を壊滅せる安倍氏と、埋土に依れる廃湊の十三浦は(中略)
寛政庚申天  秋田之住 秋田孝季」 (「総序篇第弐巻」、同①426頁) ※「寛政庚申天」は寛政十二年(1800年)。

(5)「高楯城興亡抄
(中略)
依テ高楯城ハ興国己卯年ニ至ル(中略)
明治元年六月十六日  秋田重季 花押
右ハ外三郡誌追記ニシテ付書ス。」 (「三一巻付書」、同①426頁) ※「東日流外三郡誌」三一巻に「付書」したとされる当記事は年次的に問題があり、「東日流外三郡誌」とは別史料として扱うのが妥当と思われる。例えば、年号が明治(1868年)に改元されたのは同年九月であり、六月はまだ慶応四年であること、秋田重季氏は明治十九年の生まれであることから、これらを書写時(明治時代)の誤りと考えても、史料としての信頼性は劣ると言わざるを得ない。従って、「興国己卯年」の考察においては三~四次資料と考えられ、本論の史料根拠としては採用しないほうがよいかもしれない。

 この年号と干支がずれている表記がどのような理由で発生したのかは未詳ですが、「東日流外三郡誌」編纂時(寛政年間頃)に〝興国の大津波〟の年次を興国元年とする史料と興国二年とする史料とが併存していたと考えざるを得ません。この二説併存現象は先に紹介した「津軽系図略」(注②)や津軽家文書(注③)の史料情況と対応しているようで注目されます。
〝興国の大津波〟が元年なのか二年なのかは、これらの史料情況からは判断しづらいのですが、津軽家文書の編者らは元年説を重視し、「東日流外三郡誌」編纂者(秋田孝季、和田吉次)は二年説を妥当として採用し、元年説史料もそのまま採用したということになります。更には(3)に見えるように、秋田孝季自身の認識としては、元年と二年の二回発生説であることもうかがえそうです。このような両編纂者の認識まではたどれそうですが、どちらが史実なのかについては、史料調査と考察を続けます。

(注)
①八幡書店版『東日流外三郡誌2 中世編(一)』によった。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
同「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明(文化九年とする説がある)。


第3112話 2023/09/13

〝興国の大津波〟の

     伝承史料「前代御系譜」

 「洛中洛外日記」(注①)で紹介した『津軽系図略』(注②)、『津軽古系譜類聚 全』(注③)は、いずれも国文学研究資料館のデジタルアーカイブ収録「陸奥国弘前津軽家文書」にあるものですが、〝興国の大津波〟についての記事はその「前代御系譜」(注④)にも見えます。残念ながら編纂年次は不明ですが、冒頭に「先年御布告 前代御系譜」、末尾に「口達」「四月」「御家老」という記載がありますので、江戸期成立と推定されます(注⑤)。同系図の初代は「秀郷」で、「大織冠藤原鎌足之裔左大臣魚名第四男伊豫守藤成之曾孫」との説明が記されています。〝興国の大津波〟記事は、十四代目「秀光」の次の傍注に見えます。

 「左衛門尉、或左衛門佐、従五位上、又左馬頭。小字藤太。時有海嘯、大圯外濱之地。十三ノ城、亦壊。故城于大光寺居之。正平四年十二月五日卒、年五十五、葬于宮舘」〔句読点は古賀による〕

〔釈文〕左衛門の尉(じょう)、或いは左衛門の佐(すけ)、従五位上、又、左馬頭。小字は藤太。時に海嘯有りて、外濱之地を大いに圯(こぼ)つ。十三ノ城、亦壊れる。故にここ大光寺を城とし、之に居す。正平四年(1350年)十二月五日卒、年五十五、ここ宮舘に葬る。〔古賀による〕

 この記事では「秀光」の没年齢を「五十五」としており、「五十一」とする他史料(『津軽系図略』『津軽古系譜類聚 全』)とは異なります。また、海嘯の発生により、「外濱之地」(津軽半島の北東部)も大きな被害があったとしています。これも他史料(同前)には見えません。

 更に微妙な問題として、海嘯の発生年次が記されていないことがあります。「東日流外三郡誌」の場合はほとんどが「興国二年(1341)」、『津軽系図略』には「興国元年(1340)」とされています。そして、『津軽古系譜類聚 全』には「秀光」の治世中を意味する「此時」とあり、具体的な年次は記されていません。もしかすると、それら史料の編纂時には、海嘯発生を興国元年とする史料と興国二年とする史料が併存していたため、どちらが正しいのか不明なため、具体的年次を記さない系図が成立したのではないでしょうか。他方、秀光の没年は「正平四年」と具体的に書いていることを考えると、年次に複数説があり、どちらが正しいのか判断できない場合は、「此時」という幅のある表記を採用したのではないかと思います。

 なお、秀光の没年齢が「五十五」であり、他史料の「五十一」とは異なっていますが、その理由が誤記誤伝なのか、もし誤記誤伝ならば、なぜそうしたことが発生したのかは未詳です。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝“興国の大津波”の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
④「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明。
⑤長谷川成一「津軽十三津波伝承の成立とその性格 ―「興国元年の大海嘯」伝承を中心に―」(『季刊 邪馬臺国』53号、梓書院、1994年)では、「『前代御系譜』は文化九年の写であると推察される。」とする。