古賀達也一覧

第2961話 2023/03/07

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (6)

 山村信榮(太宰府市教育委員会)さんは、政庁Ⅰ期古段階の成立を六世紀の第2四半期頃とする論文「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」を発表しました(注①)。大宰府政庁Ⅰ期(古段階)整地層から出土した須恵器坏Hを古墳時代の土器が整地盛土に紛れ込んだとする説を否定し、坏H(九州編年ⅢA)の時代(六世紀第2四半期)に政庁Ⅰ期古段階が成立し、同新段階の成立を七世紀の第4四半期とするものです。いわゆる〝磐井の乱(528年)〟のすぐ後に政庁Ⅰ期古段階が成立し、政庁Ⅰ期新段階成立は通説通り七世紀第4四半期とする仮説です(注②)。

 この山村説は、六世紀前半の古墳時代から7世紀末までを大宰府政庁古新Ⅰ期の時代、そして八世紀初頭成立の政庁Ⅱ期までの遺構を、連続して廃絶・造営されたものとする歴史理解に基づいたもののようです。そうした認識が次の説明に表れています。

〝このように大宰府政庁地区ではⅢA型式(坏Hの古いタイプ)の土器群を主体とする時期に谷部が整地され、正方位を示す柵や掘立柱建物が建てられ、Ⅳ型式(坏Hの新しいタイプ)を消費する段階では政庁地区西の蔵司地区からさらにその西側の谷部にまで土地の利用が広がっている。調査報告書では政庁正殿Ⅰ期古段階の遺物は「古墳時代の遺物」とされ、遺構生成時の前代に当たる混入遺物として取り扱われる。Ⅰ期古段階の出土須恵器がⅢA型式、Ⅰ期新段階がⅥ(坏Bの古いタイプ)からⅦ型式(坏Bの新しいタイプ)であり、土器の型式的不連続がそういう結論を導き出したのかもしれない。(中略)古段階と新段階の建物群に連続性があった可能性は捨てきれない。古相段階の建物の柱が抜き取られて新相段階の整地がなされていることも見逃せない。(中略)このことから政庁Ⅰ期古新相の遺構群は後に大宰府政庁の中枢となるⅡ期政庁の遺構群と連続性を持つ可能性があると言える。(注③)〟※()内は古賀による補記。

 既に指摘しましたが(注④)、わたしは山村説よりも通説のように政庁Ⅰ期古段階整地層から出土した坏Hを古墳時代の古い土器が整地盛土に紛れ込んだとする理解が穏当と思いますが、これは考古学に関するテーマであり、発掘当事者たちによる論争の発展に期待しています。(おわり)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②同①の「第1表 土器のセリエーションとフェイズ」による。
③同①204~205頁。
④古賀達也「洛中洛外日記」2960話(2023/03/06)〝大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (5)〟


第2960話 2023/03/06

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (5)

 大宰府政庁Ⅰ期(古段階)整地層から古墳時代の土器(坏H)が出土しており、通説ではこれを古墳時代の土器が整地盛土に紛れ込んだとしますが、この通説とは異なる考古学者の見解があります。その紹介の前に、政庁出土土器と編年について簡単に説明します(注①)。

(1)〔政庁Ⅰ期古段階整地層〕須恵器坏Hが出土。
(2)〔政庁Ⅰ期新段階整地層〕須恵器坏B(蓋につまみがあり、坏身に脚があるタイプ)と坏Hが出土。
(3)〔政庁Ⅱ期整地層〕須恵器坏Bが出土。

 通説では(1)の坏Hを六世紀、(2)の坏Bを七世紀第4四半期、(3)の坏Bを7世紀末から八世紀初頭と編年しています。ここで重要なことは、政庁Ⅰ期古段階整地層出土の坏Hをどのように理解するのかということと、坏Bの発生を暦年(実年代)とどのようにリンクさせるのかの二点です。
問題となっている政庁Ⅰ期古段階整地層から出土した須恵器坏Hですが、整地盛土に周辺の古墳から紛れ込んだとする通説の根拠は、恐らく当該坏Hが六世紀と編年されていることから、七世紀の第4四半期と編年された政庁Ⅰ期新段階成立時期と約百五十年も離れていることです。というのも、政庁Ⅰ期の新旧両遺構は連続して廃絶・造営された痕跡を示していることや、同じく出土土器の最古と最新の年代差が約五十年(注②)であることとは整合しないからです。従って、暦年リンクの当否を別とすれば、当該坏Hは整地盛土に紛れ込んだものとする見解は穏当と思われます。

 更に言えば、六世紀前半頃に南北正方位の建物が成立したとするのも、他に例が無いと思われ、政庁Ⅰ期古段階の成立はやはり七世紀以降と考えざるを得ません。ところが山村信榮(太宰府市教育委員会)さんは、政庁Ⅰ期古段階の成立を六世紀の第2四半期頃とする論文を発表しています(注③)。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②同①385頁。
③山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2959話 2023/03/05

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (4)

 古田学派内では大宰府政庁の通説の編年を疑う意見は早くから出されていました。その理由として、政庁整地層から古墳時代の土器が出土しているが、通説では古墳時代の土器が紛れ込んだとするため、大宰府政庁が不当に新しく編年されているというものでした。土器編年について疑問視する意見は出されていたものの、具体的に土器編年のどの部分にどの程度問題があるのか、何を根拠にそう理解できるのかという考古学的な批判はほとんどなかったように思います。他方、少数意見でしたが、土器編年はそれほど間違ってはいないとする論者もいました。そのお一人が伊東義彰さん(古田史学の会・会員、生駒市)でした。

 伊東さんは考古学に造詣が深く、太宰府条坊が政庁Ⅱ期・観世音寺よりも先に造営されたとする井上信正説を「古田史学の会」関西例会で最初に紹介した方です。関西例会での太宰府研究の先駆的な存在でした。わたしたちが大宰府政庁Ⅱ期を九州王朝の天子の宮殿と考えていたとき、伊東さんはそれに対して批判的論評を発表され、考古学的事実を自らの願望よりも優先すべきと警鐘を鳴らされました。その代表的論文が「太宰府考」でした(注①)。同稿には次のような心境の吐露が見えますが、その内実は、検証抜きで大宰府政庁を倭王の宮殿と見なす古田学派研究者(わたしも含む)への誡めでした。

〝九州王朝説を信じる者の立場からすれば、太宰府からその可能性を示す遺構・遺物が出土することを願ってやまないのですが、それらしきものがなかなか見つからないのが現状ではないかと思われ、切歯扼腕の限りです。中でも政庁跡Ⅱ期遺構が九州年号「倭京」元年に造営された倭王の宮殿遺構であれば、という思いは、九州王朝説を信じる者の共通の願いではないでしょうか。その切なる願いと考古学的出土遺構・遺物とのギャップを埋めることの難しさを痛切に感じている今日この頃です。あれこれ埋めてみようといろいろ試みてみたものの、その都度ボロが生じ、なかなかうまくいかないのが現状です。〟

 そして、飛鳥宮や前期難波宮よりも規模が小さい大宰府政庁Ⅱ期は倭王の宮殿には相応しくないとされました。

〝内裏は一国の支配者が私的生活を営む一区画ですから、その規模が大きいのは当たり前で、飛鳥浄御原宮でさえ、南北約一九七㍍、東西約一五二~一五八㍍におよんでおり、その中に数多くの建物遺構が検出されていて、規模的には太宰府政庁跡Ⅱ期遺構よりも大きいのです。〟
〝前期難波宮の内裏・朝堂院遺構は南北約五三〇㍍(一部推定)、東西約二三三㍍ありますから、太宰府政庁Ⅱ期遺構はその約五分の一ぐらいの規模だということになります。(中略)
規模という点から見ても、Ⅱ期遺構が日本列島を代表する倭王(天子)の宮殿としてはいささか見劣りするのではないかという感を抱かざるを得ないのです。〟

 今から見れば、この伊東さんの指摘は妥当なものです。こうした考察を「古田史学の会」関西例会などで発表され(注②)、わたしは自説(注③)の修正を余儀なくされました。また、伊東さんは大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)については、次のように述べています。

〝思いつきではありますが、Ⅰ期遺構が多利思北孤の建設した内裏の跡ではないかという可能性も考えられなくもありません。〟

 こうした伊東さんの作業仮説は、その後のわたしの太宰府研究への大きな刺激となりました。(つづく)

(注)
①伊東義彰「太宰府考」『古代に真実を求めて』13集、明石書店、2010年。
②伊東義彰「太宰府の条坊」古田史学の会・関西例会での発表、2009年7月18日。
古賀達也「洛中洛外日記」216話(2009/07/19)〝太宰府条坊の再考〟
同「洛中洛外日記」218話(2009/08/02)〝太宰府条坊の中心領域〟
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ―観世音寺と水城の証言―」『古田史学会報』50号、2002年。


第2958話 2023/03/04

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (3)

 大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)の造営年代について、九州王朝説による新たな仮説を提起したのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)です。正木さんの論稿「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」(注①)では、政庁Ⅰ期を七世紀中頃、前期難波宮(白雉元年〔652年〕創建)と同時期の造営としました。そして、太宰府条坊都市草創期とされる通古賀(とおのこが)地区遺構(王城神社の地)を「大宰府古層」と名付け、七世紀前半の多利思北孤と利歌彌多弗利の時代と編年されました。

 この正木説の優れている点として感心したのが、政庁Ⅰ期の遺構の位置が太宰府条坊都市の北側にあり、言わば北闕式の王都になるとされたことです。しかも「南北正方位」の「掘立柱建物」であることから、これらは前期難波宮と共通した要素であり、両者の創建を同時期とする根拠とされました。その結果、各大宰府政庁遺構の年代が次のような位置づけとなりました。

〔大宰府古層〕条坊都市成立期 七世紀前半 ※条坊都市の中心領域、通古賀(とおのこが)地区、周礼式(注②)。 ※九州王朝の天子、阿毎多利思北孤と利歌彌多弗利の時代(618~646年)。
〔政庁Ⅰ期〕北闕式に相当 七世紀中頃。
〔政庁Ⅱ期〕北闕式 七世紀後葉(670年頃) ※観世音寺創建(白鳳十年)と同時期。

 この正木説による大宰府遺構編年は、出土土器の相対編年とも矛盾はなく(通説の暦年リンクとは異なる)、前期難波宮九州王朝複都説とも整合しており、有力説と思いました。(つづく)

(注)
①正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。
②『周礼』考工記に見える、条坊都市の中央に王宮を置く都市様式。


第2957話 2023/03/03

『多元』No.174の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.174が届きました。同号には拙稿「『先代旧事本紀』研究の予察 ―筑紫と大和の物部氏―」を掲載していただきました。同稿は〝物部氏は九州王朝の王族ではなかったか〟とする作業仮説に基づき、物部氏系の代表的古典である『先代旧事本紀』の史料批判を試みたものです。とりわけ、『記紀』に記された〝磐井の乱〟での物部麁鹿火の活躍が、なぜ『先代旧事本紀』には記されていないのかに焦点を絞って論じました。まだ初歩的な「予察」レベルの論稿ですが、筑紫物部と大和物部という多元的物部氏の視点が物部氏研究には不可欠であるとしました。本テーマについて引き続き考察を深めたいと考えています。
当号に掲載された新庄宗昭さん(杉並区)の「随想 古代史のサステナビリティ」は、法隆寺五重塔心柱などの年輪年代測定値が間違っているとして訴訟にまで至った事件を紹介し、これをセルロース酸素同位体比年輪年代測定で検証すべきとされており、我が意を得たりと興味深く拝読しました。
というのも、セルロース酸素同位体比年輪年代測定の研究者、中塚武さん(当時、総合地球環境学研究所教授)とは、九州王朝説の是非を巡って論争したことがあり(注①)、「古田史学の会」講演会で同測定法について講演して頂いたこともあったからです(注②)。
更には、奈文研の年輪年代測定値が間違っており、年代によっては史料記載年代よりも百年古く出ているとする鷲崎弘朋説に対して、前期難波宮水利施設出土木材や法隆寺五重塔心柱の年輪年代測定値は妥当とする異論を唱えたこともありました(注③)。
「洛中洛外日記」(注④)でも紹介したことがありますが、セルロース酸素同位体比年輪年代測定とは、次のようなものです。

〝酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。〟

この方法なら原理的に1年単位で木材の年代決定が可能です。新庄さんが言われるように、同測定方法で年輪年代測定値をクロスチェックすべきだと、わたしも思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟
②同「洛中洛外日記」1322話(2017/01/14)〝新春講演会(1/22)で「酸素同位体比測定」解説〟
③同「年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―」『東京古田会ニュース』200号、2021年。
④同「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
同「洛中洛外日記」672話(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟


第2956話 2023/03/02

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (2)

 大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)の造営年代について、通説では天智期から七世紀末頃とされてきました(注①)。そして、政庁Ⅰ期を古段階と新段階に分けて、古段階の最初と新段階の終わりが50年ほど開いており、政庁Ⅰ期新段階の廃絶から政庁Ⅱ期創建(八世紀初頭)は連続していると考古学的には見られています(注②)。

「Ⅰ期遺構はいわゆる大宰府の創設期の遺構であり、この遺構の年代とそのあり方は草創期の大宰府を考える上で極めて重要である。年代の手掛かりとして、最も良好な資料は、正殿周辺部で検出したⅠ期遺構である。以下、この調査結果を中心に検討してみよう。
Ⅰ期の開始期にあたるものとして、掘立柱建物SB122や柵SA111がある。SB122に関わる暗茶色土の整地層から出土した土器で主体となるものは、6世紀末から7世紀初頭に位置づけられるものがある。また、掘立柱建物SB120・SB121、柵SA110、溝SD125などはⅠ期の最終期に考えられる。そして、これらの遺構に関わる遺物の多くは、8世紀第1四半期初頭に位置づけられる。出土土器の様相からみた年代では、開始期の遺構と最終期の遺構には約半世紀の隔たりがある。」『大宰府政庁跡』385頁

 以上の見解が大宰府政庁を発掘調査した考古学者の共通認識と思われます(注③)。具体的にはⅠ期開始期の掘立柱遺構の整地層から主に6世紀末から7世紀初頭の土器が出土していることから、同建物は7世紀初頭以後(天智期)に造営されたとしているようです。そして、最終期の遺構からは8世紀第1四半期初頭の土器が検出されていることから、政庁Ⅰ期活動期の最終を8世紀第1四半期初頭とする通説の根拠となったわけです。

 土器相対編年の暦年リンク年代については賛成できませんが、政庁Ⅰ期の開始期から最終期、すなわち政庁Ⅰ期活動期間を約半世紀とする見解は興味深く思います。これを文献史学による政庁Ⅱ期創建期の670年(白鳳十年)頃から逆算すると、政庁Ⅰ期の造営開始期は620年頃となり、九州年号の倭京元年(618年)とほぼ一致し、注目されます。(つづく)

(注)
①田村圓澄編『古代を考える 大宰府』吉川弘文館、1987年。
②『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
③山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(『大宰府の研究』高志書院、2018年)では、政庁Ⅰ期古段階の成立を6世紀中葉から後半頃(牛頸窯跡群操業開始と同時期)とされている。この見解については後述する。


第2955話 2023/03/01

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (1)

 九州王朝研究に残された大きな課題に、大宰府政庁Ⅰ期の造営年代がありました。政庁Ⅲ期は藤原純友の乱(天慶四年、941年)で政庁Ⅱ期が焼亡した後に再建された礎石造りの朝堂院様式の宮殿です。Ⅱ期も礎石造りの建造物で、ほぼⅢ期と同規模同様式です。言わば、Ⅱ期の真上にⅢ期が再建されたことが調査により判明しています。Ⅱ期造営年代は通説では八世紀初頭とされ、その根拠はⅡ期築地塀の下層から出土した木簡が八世紀初頭前後のものと判断されたことによります(注①)。次の通りです。

「本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。」『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀初頭頃とする通説に対して、わたしは観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学の研究結果を重視し、観世音寺の創建瓦(老司Ⅰ式)と同時期の創建瓦(老司Ⅱ式)を持つ政庁Ⅱ期も670年頃としました(注②)。

 掘立柱建造物の政庁Ⅰ期については七世紀前半であり、九州年号「倭京元年(618年)」頃が有力とわたしは考えてきましたが(注③)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟(注④)を発表し、より踏み込んだ理解を示しました。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「太宰府条坊と宮域の考察」(『古代に真実を求めて』第十三集、明石書店、2010年)。
「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
「観世音寺考」『古田史学会報』119号、2013年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2669話(2022/01/27)〝政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)〟
同「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
④正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。


第2954話 2023/02/28

3月12日(日)、

「多元の会」でリモート発表します

3月12日(日)の「多元の会・発表と懇談の会」でリモート発表させていただきます。テーマは「王朝交代の新都 ―藤原京(新益京)の真実―」。午後2時から開催で、会場(文京区民センター)とSkypeによるハイブリッド形式です。
藤原宮(京)は大和朝廷による初めての本格的都城であり、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の舞台であったと思われ、両王朝の接点とも言えます。そうであれば、その考古学的痕跡が遺っているはずです。その舞台裏を明らかにすべく、古代貨幣や地鎮具、王都造営尺などの視点から王朝交代の実態に迫ります。
なお、「多元の会」での発表に寄せられるご批判やご質問などを参考にして、一般の古代史ファンにもわかりやすい内容に修正し、4月2日(日)に奈良県橿原文化会館で開催されるシンポジウム「徹底討論 真説・藤原京」(主催:古代大和史研究会 原幸子会長)でも同テーマを発表します。というわけで、現在、パワーポイント資料作成の真っ最中です。


第2953話 2023/02/27

7月9日(日)、久留米大学で講演します

 今年も久留米大学公開講座で講演させていただくことになりました。演題は「京都(北山背)に進出した九州王朝 ―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―」です。昨年の公開講座では、九州王朝(倭国)の両京制(太宰府〈倭京〉と前期難波宮〈難波京〉)を主テーマとしましたが、今年は九州王朝が列島の代表王朝となるに至った経緯や痕跡を紹介します。

 近年、研究が進展した京都市の七世紀の古代寺院群が九州王朝の東方進出と深く関係していたことなどを中心に説明します。具体的には次のような構想を抱いています。また、テレビや新聞報道で有名になった富雄丸山古墳の出土物(盾形銅鏡、蛇行剣)と九州王朝との関係についても触れたいと思います。

○出土した京都市(北山背)の古代寺院群
○「聖徳太子」伝承を持つ広隆寺と法観寺
○『日本書紀』に書かれなかった真実
○筑後の物部さんと秦さん
○『隋書』俀国伝の秦王国の場所
○『新撰姓氏録』の秦氏
○京都市太秦(うずまさ)の秦氏
○滋賀県(近江)の「聖徳太子」伝承

 講演日時は次の通りです。お問い合わせや参加申し込みは久留米大学御井キャンパスの地域連携センターまで。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も7月2日に「大宰府と九州王朝」というテーマで講演されますので、そちらも併せて受講されることをお薦めします。

□日時 2023年7月9日(日) 14:30~16:00
□会場 久留米大学御井キャンパス 500号館51A教室
□電話 0942-43-4413

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古田史学の会キャンバスプラザ京都 2023.1.21

1月度関西例会・講演会発表一覧(ファイル・参照動画
YouTube公開動画は①②③です。

午前の関西例会
1,垂仁記の日子坐王の系譜に関係する北方文化の説話
 追加資料 (1)ソグド人の葬送儀礼 (2)把手のついた棺での模倣

 YouTube動画①https://www.youtube.com/watch?v=oR-J5JFHpfQ
     ②https://www.youtube.com/watch?v=Wzo7qSGTLZ0

        ③https://www.youtube.com/watch?v=1qhmJpO02jA

2,太宰府の謎 正木裕

 奈良新聞 令和五年(2023年)1月 20日 金曜日企画6

太宰府の謎

 奈良新聞 令和五年(2023年)1月 20日 金曜日企画7

太宰府と白鳳年号の謎〜唐の駐留と都督薩夜麻

 YouTube動画①https://www.youtube.com/watch?v=41vNg1VT5c4

       https://www.youtube.com/watch?v=USL3IbsPOzs

午後の講演会

【令和5年 新春古代史講演会 よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院】
日時 2023121() 午後1時開場~5
会場 キャンパスプラザ京都 4階第3講義室 定員170
主催 市民古代史の会・京都、古田史学の会・他
演題
1,京都の飛鳥・白鳳寺院 平安京遷都前の北山背―
高橋潔氏(公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
    資料・講演記録はありません。

2,『聖徳太子』伝承と古代寺院の謎
日本書紀が伝えない真実が京都にもあった
古賀達也(古田史学の会・代表)
YouTube動画https://www.youtube.com/watch?v=5Pmic7O7Qg0
https://www.youtube.com/watch?v=4vMTb4OOM6w
https://www.youtube.com/watch?v=6IQBzhFyhFA


第2952話 2023/02/26

『東日流外三郡誌』真実の語り部たち

昨日、安彦克己さん(東京古田会・副会長)からお電話をいただき、1月、3月に続いて5月も和田家文書研究会での発表の要請を受けました。三十年前に古田先生と行った和田家文書調査の記録を『東京古田会ニュース』に掲載していただいており、それと併行してリモートでも発表させていただくことにしたものです。
1月は「和田家文書調査の思い出」(注)、3月11日(土)のテーマは「『東日流外三郡誌』真実の語り部たち」で、早くから和田家文書や『東日流外三郡誌』の存在を知る次の方々の証言を紹介します。

佐藤堅瑞氏(泊村浄円寺住職・青森県仏教会々長)
松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司・洗磯崎神社宮司)
白川治三郎(元市浦村々長)
藤本光幸氏(北方新社版『東日流外三郡誌』編集者)
和田喜八郎氏(和田家文書所蔵者)
和田章子氏(喜八郎氏の長女)
※肩書きは当時のもの。和田章子さん以外は故人。

5月の和田家文書研究会では、考古学的出土事実と『東日流外三郡誌』の整合について報告をします。青森県弘前市の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんもリモートで聴講されており、同会との交流を深めるため、久しぶりに津軽を訪問できればと願っています。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2917話(2023/01/15)〝「和田家文書調査の思い出」を発表〟


第2951話 2023/02/24

筑紫の月神「高良玉垂命」

過日の「多元の会」リモート研究会で「月読命」が話題に上りました。そのおり、筑後国一宮の高良大社(久留米市)は「月神」と呼ばれていることを紹介しました。同神社のご祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)ですが、『古事記』や『日本書紀』にも記されていない謎の神様です。わたしはこの玉垂命を九州王朝(倭国)の天子のこととする論稿「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」(注①)を発表したことがありますが、この神がなぜ「月神」と呼ばれているのかは知りませんでした。そこで、高良大社研究の碩学、古賀壽(こがたもつ、注②)氏の論文を精査したところ次の解説がありました(注③)。

「すなわち、『高良玉垂宮縁起』(注④)の説くところを要約すれば、高良神は藤大臣という神功皇后異国征伐の際の功臣(武内宿禰と混同される理由もここにある)であるが、実は皇后の祈請に応じて筑紫に降臨した月天子=月神であったというのである。降臨の日、遷幸の日が、ともに九月十三日とされるのも月神の故である。陰暦九月十三日が「後の月」、いわゆる「十三夜」であることはいうまでもなかろう。(中略)
現在のところ、高良と月神の関わりを示す史料の初見は、文治四年(一一八八)七月の『高良社施入帳』(後白河院のため、醍醐寺座主主勝賢権僧正が高良社に大般若経一部六百巻を施入した際の表白文)に、
右高良大明神ハ、内証ヲ金刹ノ雲ニ秘シ、応用ヲ西海ノ月ニ垂レテヨリ以降、久シク百王ノ洪業ヲ護リ、已ニ万代ノ霊祠ト為リタマフ(原漢文)。

とあるものである。この神を月神とする信仰が、古代以来のものであることが知られよう。」(高良山〈筑紫の月神〉)

古賀壽氏によれば、古代から高良神は月神とされていたようです。同稿の末尾には次の言葉が見え、氏の多元的な歴史認識と研究姿勢がうかがわれますので、最後に紹介します。

「高良大社が、その鎮座の地、歴史からしても、古代以来の筑後地方の宗祀であることは疑いを容れぬところである。その主祭神高良玉垂命が月神なのであるから、古代筑紫の最高神は、大和の日神天照に対する、月神玉垂だったのではあるまいか。」
「地方の神社の縁起など、正史を基に創作・捏造されたものと極めつけるのは、もはや時代遅れの中央集権的史観といわねばならないだろう。
本稿に於て私が最も主張したかったのは、実にこの一点に尽きるのである。」

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 — 高良玉垂命考」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2740話(2022/05/14)〝高良大社研究の想い出 (1) ―古賀壽先生からの手紙―〟
③古賀寿「高良山〈筑紫の月神〉」『高良山の文化と歴史』第3号、高良山の文化と歴史を語る会、平成四年(1992年)。
④鎌倉時代後期の成立とされる。


第2950話 2023/02/23

九州王朝(筑後)の日下部(草壁)氏

「洛中洛外日記」前話(注①)で、「古代における日下部氏は九州王朝の有力な軍事氏族ではないでしょうか」としました。そして、九州王朝の天子の一族と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫も日下部氏(草壁氏)を名乗っていたことを紹介しました。たとえば、平成九年に広川町郷土史研究会より発刊された『稲員家文書』五一通(近世文書)には、佐々木四十臣氏(同会顧問)による「稲員氏の歴史と文書」に次の解説があります。

「稲員氏の出自を同氏系図でみると高良大明神の神裔を称し、延暦二十一年(八〇二)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。」

康暦二年(一三八〇年)の奥書を持つ高良大社蔵書『高良玉垂宮大祭祀』にも「三種之神宝者、自草壁党司之事」「草壁者管長先駈諸式令職務也」とあり、稲員家が草壁を名乗っていた当時から三種の神宝を司る高良大社でも中心的な家柄であったことがわかります。
また、『周防国天平十年正税帳』にも筑後国介従六位上の「日下部宿禰古麻呂」の記事が見えます。

「四日、向従大宰府進上御鷹部領使筑後国介従六位上日下部宿禰古麻呂、将従三人、持鷹廿人、(中略)御犬壱拾頭(以下略)」

大宰府からの献上品(持鷹、御犬)とともに御鷹部領使の日下部宿禰古麻呂という人物が記されています。この筑後国の日下部氏は、高良大社官長職の日下部氏(草壁とも記される稲員家の祖先)と同族の可能性が高く、九州王朝王家一族の一人と思われます。
五〇年に一度執り行われる高良大社御神期大祭御神幸では、稲員家を中心に「三種の神器」などとともに、羽の付いた冠を被った「鷹鳶」と呼ばれる一団が行列に加わります。これも、九州王朝の天子、玉垂命らが鷹狩りをしていた名残ではないでしょうか。拙稿「九州王朝の鷹狩り」(注②)に関連史料を紹介しましたので、ご覧ください。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2949話(2023/02/20)〝甲斐国造の日下部氏と九州王朝〟
②古賀達也「『日出ずる処の天子』の時代 試論・九州王朝史の復原」『新・古代学』第5集、新泉社、2001年。