古賀達也一覧

第2949話 2023/02/20

甲斐国造の日下部氏と九州王朝

甲斐国造と但馬国造を日下部氏とする諸説(注①)を知り、わたしは赤渕神社史料のことを思い出しました。朝来市にある同神社調査については「洛中洛外日記」などでも報告したように(注②)、九州年号「常色」「朱雀」などを持つ『赤渕神社縁起』の成立は天長五年(828年)で、現存する九州年号史料としては最古級です。
『赤渕神社縁起』によれば、表米宿禰(ひょうまいのすくね)という人物の伝承が記されており、それは常色元年(647年)に丹後に攻めてきた新羅の軍船を表米宿禰が迎え討ち、勝利したというものです。表米宿禰は孝徳天皇の第二皇子という伝承もありますが、『日本書紀』にはこのような名前の皇子は見えません。そこで、これは九州王朝の王族に関する伝承ではないかと考えています。
この表米宿禰は現地氏族の日下部氏の祖先とされています。他方、九州王朝の天子の一族と思われる高良大社の祭神、高良玉垂命の子孫も日下部氏(草壁氏)を名乗っています。もしかすると、古代における日下部氏は九州王朝の有力な軍事氏族ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①関晃「付編1、甲斐国造と日下部」『関晃著作集二 大化改新の研究 下』吉川弘文館、1996年。
古川明日香「甲斐国造日下部氏の再評価 ―『古事記』・『国造本紀』の系譜史料を手がかりに―」『研究紀要 26』山梨県立考古博物館 山梨県埋蔵文化財センター、2010年。
②古賀達也「洛中洛外日記」604話(2013/10/03)〝赤渕神社縁起の「常色元年」〟
同606話(2013/10/06)〝「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号〟
同607話(2013/10/12)〝実見、『赤渕神社縁起』(活字本)〟
同608話(2013/10/13)〝『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰〟
610話(2013/10/17)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎〟
同611話(2013/10/18)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相〟
同613話(2013/10/20)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」〟
同614話(2013/10/22)〝『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」〟
同618話(2013/11/04)〝『赤渕神社縁起』の九州年号〟
古賀達也「『赤渕神社縁起』の史料批判」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
同「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。


第2948話 2023/02/19

甲斐国造と但馬国造の日下部氏

山梨県笛吹市の古刹、醫王山楽音寺の創建年代を調査していて、面白い論文を見つけました。古川明日香さんの「甲斐国造日下部氏の再評価 ―『古事記』・『国造本紀』の系譜史料を手がかりに―」です(注①)。同論文によれば、甲斐国造を日下部氏とする関晃氏の説(注②)が最有力とされており、その根拠として甲斐国造が記されている次の史料を紹介しています。

〈史料1〉『古事記』開化記 開化天皇の子・、ヒコイマス王の子、サホビコ王を「日下部連、甲斐国造之祖。」とする。
〈史料2〉『先代旧事本紀』国造本紀 「甲斐国造 纒向日代朝世。狭穂彦王三世孫臣知津彦公此宇塩海足尼。定賜国造。」とあり、この史料も甲斐国造は開化天皇系の系譜を持つことを示している。
〈史料3〉『粟鹿大神元記』「大彦速命児武押雲命 母曰甲斐国造等上祖狭積穂彦命女角姫命」 この系譜記事によれば、武押雲命は甲斐国造の祖、狭積穂彦の娘を母とする。

これらを根拠に甲斐国造が日下部氏であると関晃氏は主張します。ここで注目されるのが『粟鹿大神元記』(注③)の甲斐国造記事です。同史料を伝えた粟鹿神社の粟鹿大神(を祭る神部氏)と甲斐国造が、系譜上では〝大彦速命の児、武押雲命の母(角姫命)〟により繋がっているとしています。『古事記』開化記にあるように、甲斐国造の祖が日下部連であれば、粟鹿神社がある但馬國朝来郡(兵庫県朝来市)の有力氏族、但馬国造が日下部氏であることが知られており(注④)、両者の関係がうかがえます。(つづく)

(注)
①古川明日香「甲斐国造日下部氏の再評価 ―『古事記』・『国造本紀』の系譜史料を手がかりに―」『研究紀要 26』山梨県立考古博物館 山梨県埋蔵文化財センター、2010年。
②関晃「付編1、甲斐国造と日下部」『関晃著作集二 大化改新の研究 下』吉川弘文館、1996年。
③『粟鹿大神元記』は兵庫県朝来市の粟鹿神社で成立した古文書で、原本の成立は『古事記』より古く、和銅元年(708年)とされる。
④古川明日香「甲斐国造日下部氏の再評価」は、但馬国造としての日下部氏を記す次の史料を紹介している。
『田道間国造日下部足尼家譜大綱』(粟賀神社所蔵)、『田道間国造日下部足尼家譜大綱』(東京大学史料編纂所所蔵)、『多遅摩国造日下部宿禰家譜』(東京大学史料編纂所所蔵)、『日下部系図』(『続群書類従』第七輯、系図部所収)。


第2947話 2023/02/18

和田家文書偽作説への反証

 本日、大阪市福島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月は大阪市都島区民センター(JR京橋駅北口より徒歩10分)で開催します。初めて使用する会場ですので、ご注意下さい。

 今回、久しぶりに例会発表しました。30年ほど昔に古田先生と行った和田家文書調査の報告〝和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―〟です。古田先生と津軽行脚した当時、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書を、所蔵者により昭和四十年代以降に偽作されたとする説が、マスコミを巻き込んで喧伝されていました。そうした偽作キャンペーンがあまりに酷いため、わたしたちは現地調査を実施し、和田家文書が戦後間もなく当地の研究者たちにより学術誌『陸奥史談』第拾八輯(昭和26年)や『市浦村史』(昭和26年)などに発表されていたことを突き止めました。

 和田家文書の存在を早くから知っていた人々に聞き取り調査も実施しましたが、当時の証言者の殆どが物故されたこともあり、わたしの記憶が鮮明なうちに関西例会で報告することにしました。当時の経緯は「洛中洛外日記」などでも紹介してきたところです(注)。この報告は次回例会でも続ける予定です。

 今回の例会には、一月に京都市で開催した新春古代史講演会のおり入会された松田さん(京都市)が初参加されました。また、相模原市から冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)が参加され、研究発表されました。上田武さん(古田史学の会・会員、八尾市)は初発表です。

 2月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔2月度関西例会の内容〕
①ここまでわかった? 歴史教科書 (八尾市・上田 武)
②『新唐書』を再評価する (姫路市・野田利郎)
③『日本書紀』における「呉」について (たつの市・日野智貴)
④和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚― (京都市・古賀達也)
⑤系図研究から九州年号にも関心を持った大名・秋田実季 (相模原市・冨川ケイ子)
⑥三角縁神獣鏡研究の新展開 (京都市・岡下英男)
⑦天武天皇に関する一考察 (茨木市・満田正賢)
⑧『古事記』序文の理解 谷本氏からのご指摘に答える (東大阪市・萩野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
02/18(土) 会場:都島区民センター ※JR京橋駅北口より徒歩10分

(注)
「洛中洛外日記」2575~2578話(2021/09/20~23)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(1)~(4)〟
「洛中洛外日記」2580~2583話(2021/09/25~29)〝『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(1)~(3)〟
「和田家文書に使用された和紙」『東京古田会ニュース』206号、2022年。
「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」『東京古田会ニュース』207号、2022年。
「『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見―」『東京古田会ニュース』208号、2023年。

 

令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第2945話 2023/02/15

山梨県の鳳皇山と奈良法皇伝説

山梨県の地誌『甲斐叢記』(注①)に興味深い現地伝承が記されています。同書巻之七に「鳳皇山」の項目があり、次のような説明がなされています。

(1) 鳳皇山 駒岳の東南にて葦倉の北少し西に在り
(2) (その頂に)鳳皇權現の祠あり
(3) 土人云ふ 昔 奈良法皇當國に流され玉ひて此山に登り都を戀ひ玉ひしより法皇が嶽と云となん
(4) 委しくは前編奈良田の條に記せり 併せ見るべし
(5) 峡中紀行に曰く。鳳皇山を問へば、則ち神鳥来り栖し處。字、或は法王に作る。法王大日也。端を山上に現す。
(6) 或いは曰く、法王、東に謫(なが)せらるる時 此山に陟(のぼ)り京師を望む。予、其れを道鏡と爲すを疑う也

この(4)にある同書巻之一「巨摩郡 奈良田」條には次の説明があります。なお、わたしの読み取りや釈文に誤りがあるかもしれませんが、大意に影響はないと思います。

(7) その地山深くして種植熟らざる故 田租徭役を免すは里人相傅へて 昔時某の帝此所に遷幸なり 是を奈良王と称す皇居たる故に十里四方萬世無税の村ふりと云ふ
(8) 村の巽(たつみ)位に二町許りを平なる所 方三十歩なり 是を皇居の址なりと云 小詞一座を置 奈良王を祀る 然れども帝王の本州に遷座なりしこと國史諸記に見る所なし
(9) 或説に奈良法王ハ弓削道鏡なりと称すも続日本紀に道鏡法王と称せしあれど下野州に謫せられ彼所にて死(みまかり)たる事見えられし事

このように、甲斐國巨摩郡に鳳皇山(法皇山)という名前の山があり、その麓の奈良田(山梨県南巨摩郡早川町)には奈良法皇(奈良王)遷幸伝承が伝えられています。奈良法皇を弓削道鏡とする説も記されていますが、現在の早川町ホームページ(注②)などには奈良法皇を孝謙天皇のこととしています(注③)。
九州王朝説の視点から考えると、奈良法皇は上宮法皇(阿毎多利思北孤)と考えたいところですが、奈良田はかなり山深い地であり、多利思北孤が行幸したとは考えにくく、この伝承をどのような史実の反映と理解すべきかよくわかりません。いずれにしても不思議な伝承ですので、紹介することにしました。

(注)
①『甲斐叢記』大森善庵・快庵編、嘉永四年(1851年)~明治二六年(1893年)。
②早川町ホームページには「奈良王」伝承について次の解説が見える。
「奈良王とは第四十六代孝謙天皇で、奈良の都で僧道鏡と恋仲になられ、何時しか婦人病にかかられた。病気平癒を神に祈願されると一夜夢に、甲斐の国湯島の郷に、霊験あらたかな温泉があるので、奈良田の郷へ遷居するがよいとのお告げがあったので、供奉の者七、八人と供に、天平宝字二年五月、奈良田にお着きになり、王平の地に仮の宮殿を造られ、温泉に入浴されると旬日を経ずして、病は快癒されたが、都が穏やかになるまでの間八年を奈良田に過ごされ、天平神護元年還幸になられた。
なお、奈良王様(孝謙天皇)が奈良田に遷居された八年間、様々な伝説がありこれを【奈良田の七不思議】として今でも語り継がれている。」
https://www.town.hayakawa.yamanashi.jp/tour/spot/legend/king.html
③小西いずみ「『方言の島』山梨県奈良田の言語状況」(『文化交流研究』2021年)によれば、孝謙天皇伝承の出典について次の紹介がある。
「孝謙天皇滞在の伝説は、奈良田にある外良寺略縁記(成立年代未詳)に記載があるもので、明治20年代には外良寺の住職・志村孝学が『更許孝謙天皇御遷居縁起鈔』と題した冊子を編集して観光客に頒布しており、昭和期にもその簡約版現代語訳が作られたという。」
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/2000245/…


第2944話 2023/02/14

『甲斐叢記』のなかの九州年号「朱鳥」

山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代を九州年号の告貴元年(594年)に相当する推古二年創建とする史料調査のため、江戸期成立の地誌『甲斐国志』『甲斐名勝志』(注①)などを閲覧したことを「洛中洛外日記」で紹介してきました(注②)。その調査をしていて感じたことですが、たとえば戦国期成立の『勝山記』(注③)は九州年号が記された年代記なのですが、現時点までの調査では、甲斐国の他の地誌には九州年号がほとんど見えません。管見では、次の史料に朱鳥(686~694年)年号をようやく見つけました。

「熊野権現 北八代村 社領三十七石余 祭神三座 伊弉冊尊 事觧男 速玉男なり 社記曰 朱鳥年中 紀州より遷し奉りぬ 別當ハ熊野山千手院(後略)」『甲斐叢記』巻之三「熊野権現」(注④)

朱鳥年号は『日本書紀』に元年(天武紀の末年、686年)のみの年号として使用されており、この『甲斐叢記』編者は朱鳥を九州年号と認識していたとは思われません。当地で成立した『勝山記』が九州年号による年代記であることを考えると、当地の識者が九州年号の存在を知らないはずはなく、恐らく江戸期成立の地誌編纂において、意図的に九州年号を排除したのではないでしょうか。朱鳥については『日本書紀』に近畿天皇家の年号として記載されているため、『甲斐叢記』「熊野権現」では「社記曰 朱鳥年中 紀州より遷し奉りぬ」と、同神社「社記」の「朱鳥」記事を転載したと思われます。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)。
『甲斐名勝志』萩原元克編、天明三年(1783年)。
②古賀達也「洛中洛外日記」2940~2943話(2023/02/10~13)〝甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (1)~(4)〟
③『勝山記』戦国期成立。甲斐國勝山冨士御室浅間神社の古記録で、九州年号「師安」元年(564年)~永禄六年(1563年)の記録。
④『甲斐叢記』大森善庵・快庵編、嘉永四年(1851年)~明治二六年(1893年)。


第2943話 2023/02/13

甲斐の国府寺(醫王山楽音寺)か (4)

山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代調査のため、国会図書館デジタルコレクションに収録されている『甲斐国志』(注①)に続いて、山梨県立図書館山梨デジタルアーカイブの『甲斐名勝志』(注②)も精査しましたが、それには醫王山楽音寺の項目が見当たりません。そこで、改めてweb検索をやり直したところ、なんと同寺ホームページとは別に、ご住職(内藤睦雄さん)によるホームページ(注③)があり、そこに創建年を「推古二年」とする次の記事が紹介されていました。

【以下、要約して転載】
▶美代咲村史
醫王山楽音寺(塩田小新田九四四)
宗旨 臨済宗(恵林寺末)
本尊 地蔵尊菩薩
開山 不詳
中興開祖
推古天皇二年甲寅年創立 天平十戊寅年 行基新タニ本尊地蔵尊及ヒ薬師如来ノ木像ヲ彫刻安置ス、構造ヲ広メ妙亀山楽音寺ト号シ自ラ開祖トナル、嵯峨天皇ノ御于醫王山ト改メ、勅額ヲ賜ル 後衰廃ニ帰スル当リ文永八辛未年鎌倉建長寺開山大覚師堂宇ヲ再興ス、是ヨリ同寺末派トナル 天正年度火災ニ罹リ右記録ハ勿論殿堂悉ク焼失ス 慶長年度ニ至リ之ヲ運築シ旧ニ復ス 明暦年中妙心寺ニ転シ当国東山梨郡松里村恵林寺末ニ属ス(後略)

▶東八代郡史(ママ)
醫王山楽音寺(同村塩田 臨済宗恵林寺末)
本尊は地蔵尊菩薩。創立を詳にせず。寺記に曰く、聖武天皇の御宇天平十二年、行基菩薩関東巡錫の時、塩田長者寛高の邸に留りて、丈け八寸の薬師如来を手刻し、以て病苦に悩める長者の娘を救へり。長者その霊験に感じ、新に伽藍を築きて薬師如来を安置す。行基更に日光月光及び十二神二天等の仏像を彫刻して配祀す。これ當寺の草創なりと。(中略)

東八代郡御代咲村天神原
恵林寺末
臨済宗妙心寺派 楽音寺
一,本尊 地蔵尊菩薩
一,由緒 推古天皇二年甲寅年創立 天平十戊寅年 行基新タニ本尊地蔵尊及ヒ薬師如来ノ木像ヲ彫刻安置ス、構造ヲ広メ妙亀山楽音寺ト号シ自ラ開祖トナル、嵯峨天皇ノ御于醫王山ト改メ、勅額ヲ賜ル(中略)
一,堂宇 桁間九間半 梁間六間
一,庫裡 桁間七間半 梁間四間
一,仁王門 桁間三間 梁間弐間
一,仮仁王門 桁間三間半 梁間二間
一,通用門 桁間弐間 梁間壱間半
一,厠 桁間壱間半 梁間壱間
一,境内 千三拾五坪
一,境内仏堂 壱宇

薬師堂
本尊 薬師如来
由緒 不詳
建物 桁間六間 梁間四間

▶甲斐国史
巻之七十六
佛寺部 第四 八代郡 大石和筋
一,医王山 楽音寺 塩田村
臨済宗妙心寺末 同宗恵林寺末
御朱印 九百五十坪
本尊ハ薬師
共ニ行基ノ作 額ハ医王殿の三字聖武帝の勅額ヲ大覚ノ模寫ニ依る所。嘗テ夢想アリトテ、婦人血症ノ薬五香湯ヲ出ス(後略)

●臨済宗医王山楽音寺 東八代郡御代咲村字塩田
當寺は當国屈指の古刹にして其濫鷓を繹ぬるに人皇三十三代推古天皇の御宇甲寅二年塩田の長者上洛の際仏法興隆の叡旨を畏み法隆寺に詣りて精含建立の意志を述懐し佛像の得易からざるを歎息す偶々…
異人来りて其策志を遂行せしめんことを約す長者大に喜び匇々国に帰り経営惨憺土木の功を了り、一精舎を建立せり 時に異人飄然として来り一七日間夜を徹して七体の地蔵菩薩を彫刻し長者に興へ去て其行く所を知らず 是即ち當寺の本尊なり 其後聖武天皇の御宇天平一二戌寅年 行其菩薩関東巡錫の時塩田長者寛高の邸に滞留し丈八寸の薬師如来を手刻し病苦に悩める長者の娘を救ふ 長者其霊験に感じ新たに伽藍を増築して薬師如来を安置す 行基更に日光月光及び十二神二天等の仏像を彫刻して配祀す 長者嘗て黄金の寶亀を秘蔵せしを以て山号を妙亀山と命ず 後一醫生あり當山に参詣して薬師如来を信仰し一夜霊夢の中に薬剤の秘法を感得し上洛して衆人の病苦を救ふこと神の如し 時に聖武天皇不豫 醫薬寸効なし 偶々醫生の事天聴に達し詔して其薬を献ぜしむ 即ち霊薬の効空しからず 御全快ありしを以て御感斜めならず重賞あり 醫生之を固締し奉り當山薬師の霊験を上奏す 依て當寺を勅願寺に列し若干の荘園を下賜せらる 時に天平十七年十月なり 更に醫生を三位に叙し施築院に居らしむ 世人是を三位法眼と称す(以下略)
【転載、終わり】

出典が不明な引用文もありますが、『美代咲村史』(注④)には「推古天皇二年甲寅年創立」、〝東八代郡御代咲村天神原 恵林寺末 臨済宗妙心寺派 楽音寺〟の表題を持つ記事には「由緒 推古天皇二年甲寅年創立」とあります。
そして末尾の〝臨済宗医王山楽音寺 東八代郡御代咲村字塩田〟は最も詳しく、「當寺は當国屈指の古刹にして其濫鷓を繹ぬるに人皇三十三代推古天皇の御宇甲寅二年塩田の長者上洛の際仏法興隆の叡旨を畏み法隆寺に詣りて精含建立の意志を述懐し佛像の得易からざるを歎息す偶々・・・
異人来りて其策志を遂行せしめんことを約す長者大に喜び匇々国に帰り経営惨憺土木の功を了り、一精舎を建立せり 時に異人飄然として来り一七日間夜を徹して七体の地蔵菩薩を彫刻し長者に興へ去て其行く所を知らず 是即ち當寺の本尊なり」とあります。
『東八代郡誌』(注⑤)は「本尊は地蔵尊菩薩。創立を詳にせず。」として、創立年代ほ不詳としています。
以上のように、創建年代を記さなかったり不詳とする史料と、「推古二年甲寅年」(594年)とする史料の二系統の伝承があることがわかりました。江戸期成立の地誌『甲斐国志』『甲斐名勝志』には創建年代記事が見えず、より新しい大正・昭和期成立の郡誌・村史には「推古二年甲寅年」とありますから、その出典があるはずです。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)、全124巻。
②『甲斐名勝志』萩原元克編、天明三年(1783年)。
③「臨済宗妙心寺派 医王山楽音寺」《楽音寺について》
http://www17.plala.or.jp/gakuonji/gakuAbH.html#AbH1
④『美代咲村史』伊東英俊著、昭和十三年(1938年)。
⑤『東八代郡誌』山梨教育会東八代支会編、大正三年(1914年)。


第2942話 2023/02/12

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (3)

 山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代が同寺ホームページにあるように、「今からおよそ1400年ほど前」「飛鳥時代の推古天皇の御代」とする史料根拠の調査を行っています。そこで、国会図書館デジタルコレクションに収録されている江戸期の史料『甲斐国志』(注①)を閲覧しました。そこに次の記事がありました。

一〔護國山國分寺〕《國分村》臨済宗妙心寺末 御朱印七石六斗餘境内貳千八百坪 時記云天平年中勅ニヨリテ建ツル所ナリ 開山行基金光明四天王護國寺ト勅號アリ事ハ歴史ニ載セテ詳カナリ 但シ一州ノ國分寺ニ限ラサレハ盡ク記スルニハ及ハス(後略)
一〔醫王山樂音寺〕《鹽田村》同宗惠林寺末 御朱印九百五拾坪 本尊地蔵佛殿本尊薬師《共ニ行基ノ作、額ハ醫王殿ノ三字 聖武帝ノ勅額ヲ大覚ノ所模寫ト云》嘗テ夢想アリトテ婦人血症ノ藥五香湯ヲ出ス
『甲斐国志 下』巻之七十六 327~328頁、《》内は二行割注。

 最初の「〔護國山國分寺〕《國分村》」は、聖武天皇による八世紀創建の国分寺(笛吹市一宮町国分)のことと記されています。その次の「〔醫王山樂音寺〕《鹽田村》」は現在の楽音寺(笛吹市一宮町塩田)のことで、本尊の地蔵と薬師が共に行基の作とされており、お寺そのものの創建時期については記されていません。しかし、飛鳥時代に創建されたとも記されていませんから、九州年号の告貴元年(594年)創建「国府寺」(注②)とする史料根拠にはできません。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)成立、全124巻。甲陽図書刊行会、明治44~45年刊。
②九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保二年〔1318年〕頃成立)の告貴元年甲寅(594年)に相当する「聖徳太子二三歳条」に次の記事が見える。
「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)


第2941話 2023/02/11

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (2)

 井上肇さん(古田史学の会・会員、山梨県北都留郡)から教えて頂いた山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代調査の手始めとして、同寺のホームページ(注①)を拝見しました。ところが、具体的な創建年代は見えず、「楽音寺の由来」として次の不可解な説明がありました。

「楽音寺は禅宗の寺院で、臨済宗妙心寺派に属しております。
今からおよそ1400年ほど前、飛鳥時代に推古天皇の御代に行基菩薩によって建てられ、当時は岳音寺という名称で密教系の寺院でした。
山内の井戸よりくみ上げた水が嵯峨天皇の目のはやり病を治したことから醫王山の山号を賜り、のちに薬師如来を本尊として守られて参りました。
山門には仁王像、境内に3基の古墳を有しております。」

 「今からおよそ1400年ほど前」であれば、「飛鳥時代の推古天皇の御代」でよいのですが、「行基菩薩によって建てられ」たとありますから、時代があいません。行基(668~749年。注②)が活躍したのは八世紀前半で、推古の時代とは百年近くのずれがあるのです。それにもかかわらず、飛鳥時代に行基により創建されたとする寺伝があるとすれば、それは次のようなケースではないでしょうか。

(a) 楽(岳)音寺は推古の時代(九州年号の告貴元年、594年)に創建されたとする伝承があった。
(b) その寺は甲斐国の国府に建立され、「国府寺」と伝えられていた。
(c) 後に、その国府寺を造営した人物を、八世紀の聖武天皇の国分寺建立(注③)の時代に活躍した「行基」に置き換えられた。
(d) 八世紀になると、聖武天皇の命により、当地に国分寺が建立されたため、寺名の通称「国府寺」が消され、楽音寺とした。
(e) こうした後代における寺名や解釈の変更により、〝飛鳥時代に推古天皇の御代に行基菩薩によって建てられた〟とする、不可解な伝承へと変化した。

以上は作業仮説レベルにとどまりますので、引き続き実証的調査を進めます。(つづく)

(注)
「醫王山楽音寺」ホームページ
https://www.br-promotion.jp/gakuonji/
②行基の生没年は、天智七年(668)から天平二一年(749)とする「大僧正舎利瓶記」による。
③国分寺建立に関して『続日本紀』に次の記事が見える。
天平十三年(741) 聖武天皇が国分寺建立の詔を発布する。
天平十六年(749) 国ごとに正税四万束を割き、毎年出挙して国分寺造営の費用に充てる。
天平十九年(747) 国分寺造営について国司の怠惰を責め、郡司を専任として重用し、三年以内の完了を命じる。
天平勝寶八年(756) 聖武太上天皇一周忌斎会のため、使を諸国に遣わし、国分寺の丈六仏像の造仏、さらに造仏殿、造塔を促す。


第2940話 2023/02/10

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (1)

 本日の「多元の会」リモート古代史研究会で、井上肇さん(古田史学の会・会員、山梨県北都留郡)から興味深いことを教えていただきました。これまでも井上さんからは、九州年号史料として貴重な『勝山記』のコピーを頂くなど、何かと研究を支援していただきました。

 今回、教えて頂いたのは、山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺の創建が推古二年(594年)とする見解があるということでした。わたしは、推古二年創建寺院が山梨県(甲斐国)にあることに関心を抱きました。というのも、推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、その年に九州王朝が各国に「国府寺」建立を命じたことがわかっていたからです(注①)。ですから、推古二年創建伝承を持つ醫王山楽音寺は、九州王朝時代の国府寺だったのではないかと考えたからです。

 ちなみに、甲斐国分寺跡は同じ笛吹市一宮町国分にあり、そちらは八世紀の聖武天皇による国分寺と思われます。すなわち、甲斐国には九州王朝と大和朝廷の新旧二つの国分(府)寺があったことになります。管見では摂津国と大和国も新旧二つの国分(府)寺があり、こうした現象は多元史観・九州王朝説でなければ説明がつきません(注②)。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
同「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の「聖徳太子」伝説〟
同「洛中洛外日記」1022話(2015/08/13)〝告貴元年の「国分寺」建立詔〟
②古賀達也「洛中洛外日記」1049話(2015/09/09)〝聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察〟
同「洛中洛外日記」1676~1679話(2018/05/24~26)〝九州王朝の「分国」と「国府寺」建立詔(1)~(4)〟


第2939話 2023/02/08

九州王朝(倭国)の軍事氏族

天孫降臨時(弥生時代前期末~中期初頭)から王朝交代(701年)までの九州王朝史を概観すると、それは領土拡張の歴史と言っても過言ではありません。史料上明確な例外は阿毎多利思北孤の時代(七世紀初頭頃)だけのようです(注①)。私見ですが、次の時代の領土拡張や支配強化が想定できます。

(1)〔天孫降臨・国譲り期〕弥生時代前期末~中期初頭(金属器の出現)
(2)〔神武東征期〕紀元ゼロ年頃(古田説)
(3)〔銅鐸圏(近畿地方)侵攻期〕三~四世紀
(4)〔倭の五王期〕五世紀
(5)〔仏教による統治強化期〕六世紀~七世紀初頭
(6)〔評制による中央集権期〕七世紀中頃

それぞれの時代に九州王朝(倭国)の軍事氏族が活躍したはずですが、たとえば次のようではないでしょうか。

(1)〔天孫降臨・国譲り期〕天孫族。
(2)〔神武東征期〕久米氏・大伴氏・物部氏・他。
(3)〔銅鐸圏(近畿地方)侵攻期〕南九州の氏族(未詳)・他(注②)。
(4)〔倭の五王期〕南九州の氏族(未詳)・彦狭嶋王(東山道十五國都督)・他。
(5)〔仏教による統治強化期〕秦氏〔秦王〕(注③)。
(6)〔評制による中央集権期〕高向臣・中臣幡織田連等(『常陸国風土記』)・他。

以上の考察は初歩的なものですから、引き続き修正と調査をすすめます。

(注)
①『隋書』俀国伝に「兵有りと雖も、征戰無し」とある。
②古田武彦「沙本城の大包囲線」『古代は輝いていたⅡ』朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房より復刻。
正木裕「神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か」『古田史学会報』156号、2020年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2892話(2022/12/11)〝秦王と秦造〟
同「洛中洛外日記」2893話(2022/12/12)〝六十六ヶ国分国と秦河勝〟


第2938話 2023/02/07

倭王に従った南九州の軍事氏族

先週末、お仕事で京都大学に来られた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅によられたので、富雄丸山古墳の出土品について意見交換を行いました。そのとき、強く印象に残ったのが、南九州の豪族達は韓半島へも進出した痕跡(前方後円墳の形状近似)が遺っているという正木さんの指摘でした。韓半島で前方後円墳が次々と発見されたこともあって、その形状が「前方・後円」というよりも、「前三角錐・後円」であり、それと同型の古墳が宮崎県に散見されることを「洛中洛外日記」などで紹介したことがありました(注①)。
こうしたことから、正木さんは南九州の氏族は九州王朝の軍事氏族ではないかと示唆されたのです。『宋書』倭国伝に見える、五世紀に活躍した〝倭の五王〟の一人、倭王武の上表文によれば、倭国(九州王朝)は東西(日本列島)と北(韓半島)へ軍事侵攻してきたことがわかります。南九州と韓半島の前「三角錐」後円墳の編年は五世紀末から六世紀頃であり、富雄丸山古墳の被葬者の時代は四世紀後半と編年されていますから、南九州の軍事氏族による侵攻は長期にわたっていることがわかります。
その痕跡が『日本書紀』の歌謡にも遺されています。推古紀の次の歌です。

「推古天皇二十年(620年)春正月辛巳朔丁亥(7日)、(中略)
天皇、和(こた)へて曰く。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」『日本書紀』推古二十年(620年)春正月条(注②)

この歌は内容が不自然で、以前から注目してきました。推古天皇が「蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」と詠んだとするのであれば、この「大君」とは誰のことと『日本書紀』編者は理解していたのでしょうか。九州王朝説では、九州王朝の天子のこととする理解が可能ですが、そうであればなおさら『日本書紀』編者はそのことを伏せなければなりませんので、やはり不可解な記事なのです。
この問題は別として、わたしが注目したのは「馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀」の部分です。優れた軍事力の象徴として「日向の駒」「呉の真刀」と歌われており、この日向が宮崎県を意味するのであれば、その地にいた九州王朝の軍事氏族の大和侵攻が、七世紀になっても伝承されていたのではないでしょうか。この理解の当否を含めて、富雄丸山古墳からの盾形銅鏡や蛇行剣の出土は、九州王朝における南九州の政治的位置づけを考えるうえで、よい機会となりました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
同「古代のジャパンクオリティー 11 韓国で発見された前方後円墳
」繊維社『月刊 加工技術』、2016年4月。
同「前「三角錐」後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年。
②日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。


第2937話 2023/02/05

寺院の漢風名称と和風名称

 天皇の没後におくられる諡(いみな)に漢風諡号と和風諡号があることはよく知られています。寺院にも法隆寺や元興寺という漢風名と地名に基づく斑鳩寺や飛鳥寺のような和風名があります。観世音寺や薬師寺、浄土寺のように仏様や経典に由来する名前もあります。このことについて興味深い論稿を山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ(注)で発表されましたので、要点を紹介します。

 山田さんによれば天武紀の次の記事などを根拠として、天武は寺院の漢風名をやめ、和風名に統一したとされました。

「夏四月辛亥朔乙卯(5日)、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。」『日本書紀』天武八年(679年)四月条。

 もちろん、『日本書紀』の記事を史料根拠としているので、「この日、諸寺の名を定める也」をそのように解釈し、歴史事実と見なしてよいのかは、同時代史料(金石文・木簡)により検証する必要があります。管見では次の七世紀の「寺」史料があります。

○野中寺彌勒菩薩像台座銘(丙寅年、666年)
「柏寺」
○山ノ上碑(辛巳歳、681年)群馬県高崎市
「放光寺」
○観音像造像記銅板(甲午年、694年)
「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号945、遺構番号SK1153)
「飛鳥寺」
○山田寺出土木簡(木簡番号1464、遺構番号 黒灰色粘質土層)
「日向寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号181、遺構番号SD1130)
「軽寺」「波若寺」「涜尻寺」「日置寺」「石上寺」

 これらを見る限りでは、山田さんのご指摘は的を射ているようです。この寺号の和風名称への統一を天武が発案し命じたものか、『日本書紀』編者による九州王朝記事の転用かは、今のところ判断できませんが、この時期、飛鳥地方の最高権力者であった天武により、少なくとも同地域内では統一されたと考えてよいように思います。

 更に、山田さんの考察は九州年号「朱鳥」にまで及び、次のようなテーマへと進展し、わたしは驚きました。

「朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。」

 九州年号の「朱鳥」に「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という和訓を付記する『日本書紀』の記事については以前から注目されてきましたが、山田さんはこの記事を根拠にある結論へと向かいます。それは山田さんのブログでご確認ください。

(注)山田春廣〝倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―〟『sanmaoの暦歴徒然草』。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/