古賀達也一覧

第2811話 2022/08/18

九州年号金石文「朱鳥三年 鬼室王女」石碑

 将来の九州王朝や九州年号研究者のための資料作成を続けてきました。一応、知見の範囲の資料が完成しましたので、過日の多元的古代研究会リモート勉強会や、わたしが主宰している「古田史学リモート勉強会」で紹介させていただきました。しかし、未検討の九州年号金石文が残っていることに気づきましたので、逐次追加しています。
 その追加資料の一つが、「朱鳥三年 鬼室王女」石碑です。数少ない同時代九州年号金石文である「朱鳥三年 鬼室集斯」墓碑はこれまでも度々紹介してきましたが(注①)、百済人官人として近江朝に仕えた鬼室集斯の娘の石碑が滋賀県蒲生郡の山中にあるという記事や伝承が平野雅曠さん(古田史学の会・会員、故人、熊本市)から報告されています。それは「市民の古代研究会」の研究紙(隔月刊)『市民の古代研究』21号に発表された論稿「鬼室集斯の墓」(注②)です。それによれば、次の銘文を持つ石碑が蒲生郡の山中にあるという記事を紹介されています。

 「朱鳥三年戊子三月十七日
  鬼室王女 施主国房敬白」

 平野稿より関係部分を転載します。

【以下、転載】
 今は廃刊になっているが、『日本のなかの朝鮮文化』一九七〇年第八号に、「日野の小野」と題する鄭貴文氏の随筆が出ている。
 (抜粋)
 ……ところで綿向山であるが、その境の山深くに鬼室集斯の娘の石碑があった。「墳墓考」に、「蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に、古びた石碑あり、正面に鬼室王女、その下に施主国房敬白、右の傍に朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがあり。」とある。
 続いて、(要旨)………
「集斯が近江に来た頃、娘は十七才位だったらしい。四十才に近かった集斯は大学寮の長官になり、娘を秘書役として補佐させた。
 二年余りの頃、役所の少壮学士と恋愛問題が噂され、父の耳に入った。父は娘を厳しく戒めると共に解雇した。
 鬼室集斯は、白村江敗戦の百済王族の出身であり、娘の相手は、敵に当たる新羅の出でもあったからであろう。
 鬼室王女のことは、それからの消息がと切れている。そして忽然としてあるとき、日野川上流の熊野に現れる。ある日百姓の若者が吊り橋を渡ろうとしたところ、その吊り橋が真中から切れていた。その垂れ下がった片方に、えもいわれぬ美しい女が、ぶら下がったまま眠り込んでいるのを見た。若者は助ける。その若者が実は都で噂のあったあの少壮学士だったという。
 二人は百姓をしながら幸せに暮らしたが、やがて父の鬼室集斯の追手に知られてしまう。王女は逃れて竜王山に深く入り、五大の滝に立った。現在石碑の建っているところは、この滝からさらに登った台地にあった。すると飛瀑の中の王女は、三日三晩目に黒髪が白髪となっていた。それを見定めた追手は引揚げた。ところが、おさまらないのは若者の夫で、妻をもとの姿にかえそうとして禁を破ってしまった。若者はそれが祟って悶絶して死んだ。王女はしかし、白髪をそりおとすと、若い尼僧になっていた。死んだ夫の供養のため仏門に入り、後年蒲生郡の平林で入寂した。平林から近いあの石塔寺は、王女を慕った百済系の氏族が、王女の菩提寺として建てたものだろう、という。
 竜王山にある鬼室王女の石碑には、『朱鳥三年戊子三月十七日』と彫ってあるから、父の鬼室集斯が死ぬ七ヶ月前である。四十七、八才くらいで亡くなったらしい。」(後略)

 この印象に残る秘話がどのように伝承されてきたのか、鬼室王女の石碑がどこにあるのか、わたしはこれまで三回ほど現地調査に赴きましたが、未発見のままです。もし実見できれば、同時代九州年号金石文かどうかの調査を行いたいと願っています。

(注)
①古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『古代に真実を求めて』第二集(明石書店、1998年)。後に『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)収録。
 同「洛中洛外日記」2090~2105話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟
 同「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」『九州倭国通信』199号、2020年。
②平野雅曠「鬼室集斯の墓」『市民の古代研究』21号、1987年。


第2809話 2022/08/16

「ポアンカレとモデル」 茂山さんの見解

 「洛中洛外日記」2807話(2022/08/11)〝ポアンカレ予想と古田先生からの宿題〟で、古田先生から厳しく叱責されたことを紹介しました。九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注①)という名称に対して、「モデル」という用語の使い方が間違っているという叱責でした。そのことについて、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりメールが届き、古田先生の「モデル」の理解についての見解(推察)が記されていました。
 茂山さんは大学で哲学や論理学を専攻されておられ、その分野に疎いわたしは何かと教えを請うてきました。なかでも「古田史学の会」関西例会で連続講義されたアウグスト・ベークのフィロロギーの解説(注②)は圧巻でした。今もその講義レジュメを大切に持っています。今回は、これもわたしが苦手な数学と論理学の分野のポアンカレについて、メールで古田先生の考え方についての見解を説明していただきました。特に重要な部分を紹介します。

【以下、転載】
仮説とモデルについて(古田武彦先生に代わって)

 ポアンカレのことを書かれていましたが、それを読んで、古田先生のクレームがどういうものだったか、十分説明していなかったかな、と気になりました。(中略)
 モデルの語源は、modus物差し と-ulus小さい を合わせたラテン語「modulus小さい物差し」に由来します。「尺度」「基準」などの意味も持ち、「測定すること」と深く関わった言葉です。分かり易い例でいえば、自動車のミニチュアモデル、絵画や彫刻のモデルなど。本物を作る前に粘土やデッサンなどで成形しますから、「手本」「模型」「鋳型」などの意味に派生して広がります。応用された結果「規範」「模範」「基本」などの抽象言語にまで広がりました。
 これで分かるように、もともと物作りや測定など、自然科学系の言語です。論理学に応用されても、数学的な性格をもちます。その特徴を定義すれば、モデルは仮説ではありません。また究極の解答でもありません。しかし、反復繰り返しに耐える必要があります。自動車のモデルから現実の自動車を何万台も同じように作る必要がある、という意味合いの「反復」です。それがモデルの本質です。つまり、沢山モデルがあっては困る訳で、モデルはひとつの作業にひとつ、です。しかし、ふたつの作業にはふたつのモデルがあっても構いません。
 さて、古田先生のクレームを代弁してみれば、いくつかの言説がありえます。
 まず「仮説に過ぎないものをモデルと言ってくれるな。一体だれが、そんな権威を保証したのか」というクレームでしょう。「何も論証されていない」という評価です。
 もう一つ、実学の物作りではない歴史の学問では、求める答えは(古典的哲学では)ひとつ、真実はひとつと考えられているので、「文献学(フィロロギー)では、「仮説」と「論証が完了した理論」の間には、モデルなどという中間的な存在は許されない」というクレームでしょうか。
 自然科学では、実験や測定が幾らでも(技術が可能な限り)繰り返し出来ますし、反復することに絶対的な安定性があります。「『もの』のふるまい」を研究しているからです。そのため、仮説と理論の間に(中途半端な)モデルの介在が許されています。研究の便宜のためです。しかしこの場合も、モデルと広く認知されるためには、相当の実験、測定、論証が要求され、それこそ「権威」が求められます。
 一方、実験や測定という数学的方法を駆使する社会学や心理学、経済学などを別にすれば、「『ひと』のふるまい」を研究する「古代史学」では、反復も出来ませんし、測定もできません。つまり、反復・測定を本質とする「モデル」という方法論は、馴染まないのです。
 古田先生が、ポアンカレの本を貴方に渡し、九州年号の古代史学的な議論の問題とされなかったのは、「モデル」という思想が自然科学や実学のものだ、と考えられていたからではないでしょうか。「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。
【転載、終わり】

 この丁寧な長文の説明を読み、わたしには思い当たる節がありました。末尾に記された〝「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。〟という指摘は、古田先生の考えに近いように思います。この件、引き続き勉強します。

(注)
①「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。
②「古田史学の会」関西例会にて、「フィロロギーと古田史学」というテーマで2017年5月から一年間にわたり行われた。テキストはベークの『エンチクロペディーと文献学的諸学問の方法』(安酸敏眞訳『解釈学と批判』知泉書館)を用いた。


第2808話 2022/08/12

『旧唐書』『新唐書』地理志の比較

 「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介した足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)には、唐代里単位の大程(1里約530m)と小程(1里約440m)について次の説明があります。

「左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。」(44頁)
「舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。(中略)大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 足立氏によれば、「大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になった」とあるので、『新唐書』の里単位を調べるために地理志と夷蛮伝の里数を『旧唐書』と比較しました(注②)。ちなみに、『旧唐書』は五代晋の劉昫(887~946)、『新唐書』は北宋の宋祁(998~1061)による編纂です。
 『新唐書』地理志を一瞥して驚いたのですが、『旧唐書』には京師(長安)や洛陽(東都)から各主要都市や地域への距離、たとえば「天寶元年、改東都為東京也。(略)在西京之東八百五十里。」というように東京(洛陽)と西京(長安)間の距離が850里と記述されていますが、『新唐書』には各地域の戸数や人口、地名の変遷などは記されているものの、両都からの距離(里数)が書かれていないのです。これで正史の地理志として役に立つのだろうかと思うような「省略」ぶりです。ただし、国土の全領域については両書とも地理志冒頭に里数値を記しています。

〔『旧唐書』地理志〕
○漢 東西 9,302里 南北 12,368里
○隋 東西 9,300里 南北 14,815里
○唐 東西 9,510里 南北 16,918里

〔『新唐書』地理志〕
○漢 不記
○隋 東西 9,300里 南北 14,815里
○唐 東西 9,511里 南北 16,918里

 『新唐書』の里数値が、『旧唐書』の小程による里数値にほぼ基づいていることがわかります。それならば同様に各地域までの里程も『旧唐書』に基づいて記せばよいように思うのですが、それができなかった事情があるのではないでしょうか。おそらく、『新唐書』が成立した北宋代の里単位(大程)による国内各地の実測里数値と、小程により記された『旧唐書』地理志の里数値が異なっていたため、『新唐書』編者はあえて記さなかったのではないでしょうか。
 というのも、一旦、小程から大程へ里数を換算してしまうと、その影響が地理志冒頭の全国領域里数値にまで及び、果ては地理志以外の里程記事、たとえば夷蛮伝の里程まで書き改める必要が発生します。編纂時(11世紀)よりも数百年前の交流情報に基づく里数値の再検証など困難と判断したのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。
②『旧唐書』は中華書局本(1987年版)、『新唐書』はwebの「維基文庫」を使用した。


第2807話 2022/08/11

ポアンカレ予想と古田先生からの宿題

 昨晩のNHK番組「笑わない数学」は〝ポアンカレ予想〟がテーマでした。世紀の天才数学者アンリ・ポアンカレ(1854~1912)により提起された「単連結な3次元閉多様体は3次元球面と同相と言えるか?」という問題です。番組では、「宇宙の外に出ずに、宇宙の形がざっくり丸いか丸くないか、確かめる方法はあるか?」とも説明されましたが、わたしの数学力ではチンプンカンプンでした。
 「洛中洛外日記」(注①)で紹介したこともありますが、ポアンカレの名前を聞くたびに古田先生からいただいた二冊の本のことを思い出します。それはポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』(岩波文庫)で、古田先生から「勉強するように」といただいたものですが、わたしの学力では難しくて、少ししか読めていません。
 それは十五年ほど前だったと記憶していますが、九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注②)という名称について、科学や物理学での「モデル」という概念と比べて使用方法が間違っていると、先生から厳しく叱責されたことがありました。それでも、わたしが納得できずにいると、先生から二冊の岩波文庫が送られてきて、読んで勉強するようにとのことでした。それがポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』だったのです。
 この二冊は昭和36年版で、紙は黄変していますが、傍線や書き込みが一切なく、わたしは違和感を抱きました。古田先生からは多くの書籍をいただきましたが、新品のものはともかく、古い本には先生による書き込みや傍線が引いてあるのが常でしたので、この二冊だけは異質だったのです。それでも今回よく見ると、『科学と方法』の238~244頁の部分の上部の角が折り曲げられており、これも古田先生の蔵書によく見られたもので、その部分は特に留意されていたと思われます。それは第三篇「新力學」の第二章「力學と光學」に相当する部分です。なぜ古田先生がそこに興味を持たれたのかはわかりませんが、先生の勉強や学問の幅の広さに改めて驚いています。
 この二冊の勉強は、古田先生からの宿題なのですから、理解はできなくても、せめて完読だけはしておきたいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1977話(2019/08/31)〝古田先生からの宿題「ポアンカレの二著」〟
②「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。


第2806話 2022/08/10

九州年号「勝照二年」棟札の紹介

 「洛中洛外日記」2790話(2022/07/18)〝「九州年号棟札」記事の紹介〟で九州年号が記された棟札を紹介し、2803話(2022/08/07)〝二枚あった慈眼院「定居二年」棟札〟で、「定居二年(612年)」が記された泉佐野市日根野慈眼院所蔵の棟札を追加しました。その後、「勝照二年(586年)」と記された棟札が高知県高岡郡日高村の小村神社にあることを報告した別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)の論稿を思い出しました。それは『古田史学会報』146号に掲載された「実在した土佐の九州年号 小村神社の鎮座は『勝照二年』」 です。
 別役稿によれば、同棟札は貞和三年(1347年)の成立で、同時代九州年号史料ではありませんが、九州年号で由来を記す貴重なものです。現存しているようでので、実見してみたいものです。
 従って現時点の知見では、「九州年号棟札」記事は下記の通りです。

(1) 賢称(576~580年) 「賢称」『偽年号考』 神明社棟札 愛知県渥美郡大津村神明社
(2) 鏡當(581~584年) 「鏡常」 蓮城寺棟札 大分県大野郡三重町蓮城寺
(3) 勝照二年(586年) 「勝照二年」『土佐遺語』 土佐国二宮小村神社貞和三年(1347年)棟札 高知県高岡郡日高村小村神社
(4) 勝照四年(588年) 「勝照四年戊申」『山形県金石文』羽黒山棟札 山形県東田川郡羽黒町羽黒山本社
(5) 定居二年(612年) 「定居二年壬申四月二日」 日根神社棟札 泉佐野市日根野 慈眼院所蔵
(6) 定居二年(612年) 「古三韓新羅国修明正覚王」「定居二年壬申卯月二日」 日根神社棟札 泉佐野市日根野 慈眼院所蔵
(7) 白雉二年(653年) 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年に造営する由、書付けてありしと云」『太宰管内志』豊後之四・直入郡「建男霜凝日子神社」


第2805話 2022/08/09

足立喜六訳注『入唐求法巡礼行記』を再読

 足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)を「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介しましたが、わたしは足立氏のお名前に見覚えがありました。それは東洋文庫に収録されている円仁の『入唐求法巡礼行記』(注②)の訳注を施された人物として記憶していたのです。
 今から二十数年前に、『三国志』倭人伝の行程(里数)表記の様式が後代史料(主に旅行記)にどのような影響を与えているのかを調べたことがあります。そして『海東諸国紀』(注③)や『老松堂日本行録』(注④)などに倭人伝の行程記事の影響や関連性を見つけたりしました。そのときに『入唐求法巡礼行記』も読み、訳注者の足立氏の名前に触れたのです。今回、唐代の1里の調査をしていたら、懐かしい足立喜六氏のお名前に出会い、同書を久しぶりに読みました。
 同書は円仁(794~864年)の唐の五台山・長安への巡礼日記です。各旅程間の里数が事細かに記されており、唐代の里程研究にも使用できる史料です。こうした中国内の里数を日本から来た円仁に実測できるはずもありませんから、当時の中国人から聞いた、当地の里程認識が記されたものと考えざるをえません。当時の唐里は足立氏の研究によれば1里約440mの「小程」であり、円仁が記した里程もこの「小程」での値と思われます。ところが、この「小程」による里数が後の「大程」(1里約530m)での里数と異なるため、そのことを疑問視する記事が塩入良道氏による同書補注に見えます。

 「西京から二千来里については、〈小野本注〉では千三百―千六百の諸説を挙げ、実際は千五、六百里であろうとする。」(『入唐求法巡礼行記2』112頁)

 西京(長安)から北京(太原府)まで二千里とする『入唐求法巡礼行記』原文に対して、「実際は千五、六百里であろう」と、小野本の注者(小野勝年氏)は疑っているわけです。おそらく、小野勝年氏には唐代の「小程」の認識がなく、地図上の距離を「大程」で換算したのではないでしょうか。同時に、何の説明もなく小野本の注を補注で紹介した塩入良道氏にも足立氏が提起した「小程」の認識がなかったのかもしれません。ちなみに、「小程」で里程記事を理解していた足立氏は当該部分に注をいれていません。『入唐求法巡礼行記』の里程記事は『旧唐書』地理志と同様に、「小程」で理解しなければならないのです。

(注)
①足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。
②円仁『入唐求法巡礼行記』足立喜六訳注・塩入良道補注、平凡社・東洋文庫157・442、1970年・1985年。
③申叔舟『海東諸国紀』岩波文庫、田中健夫訳注、1991年。当書と倭人伝の行程表記の類似について、次の拙稿で指摘した。
 古賀達也「洛中洛外日記」2151~2153話(2020/05/12~15)〝倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)~(4)〟
④宋希環『老松堂日本行録 ―朝鮮通信使が見た中世日本―』岩波文庫、村井章介校注、1987年。当書と倭人伝の韓国内陸行行程の類似について、次の拙稿で紹介した。
 古賀達也「洛中洛外日記」997話(2015/07/09)〝老松堂の韓国内陸行〟


第2804話 2022/08/08

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)

 唐代の1里を何メートルとするのかについて、唐代の尺(モノサシ)を求め、その実測値から1里に換算するという方法がありますが、唐尺には小尺(約24cm)と大尺(約30cm)とがあるため、どちらの尺を採用したかで、「小里」(約430m)と「大里」(約540m)という大差が発生します。この問題の存在に気づいていましたので、『旧唐書』地理志の里程記事は「小里」で記されたのではないかと推定していました。しかし、そのことを結論づけるだけの史料根拠や正確な検証方法がわかりませんでした。そこで、京都府立図書館で先行研究論文を調査し、次の記事を見つけました。

 「唐尺に關しては徳川時代以來議論があつて、その大尺を棭齋の如く九寸七分とするものヽ外、曲尺と同じとし又は九寸八分弱とする説がある。近頃でも關野博士は後者を採り(平城考及大内裏考二二頁)足立氏は前者に與さる。(前掲書三〇頁以下)この両説に對して棭齋は本朝度考中に詳しく批判してゐるから茲には論究しない。足立氏は大尺を曲尺の一尺として、唐里は大程が曲尺の千八百尺、小程が曲尺の千四百九十九尺四寸とする。棭齋の考證より算出した里程とは五十尺前後の差があるが、小程は大約わが四町に、大程は五町に相當するといひうるであらう。而して大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。(足立氏前掲書四九頁)」森鹿三「漢唐の一里の長さ」(注①)

 ここに見える「小程」「大程」こそ、わたしが仮称した「小里」「大里」に相当します。そして、注目したのが「大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。」という指摘でした。そこで、この「小程」「大程」という概念の出典を調べたところ、足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注②)でした。そこでは次のように定義されています。

「左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。」(44頁)

 そして、『旧唐書』地理志などの里程記事は小程で記されていると、次のように指摘しています。

 「兎に角唐里の長安・洛陽間の八百五十里は小程の計算であって、事實に適合することが推定せられる。なほ又他の地方に就いても、舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。同時に漢書及び舊唐書に記載した里程は決して無稽の數字でないことが知られる。
 以上の諸例に就いて考へて見ると、大程は隋若くは初唐に制定せられて、之を両京の城坊に適用したが、一般に励行せられたのではなくて、地方の里程・天文又は司馬法の如き舊慣の容易に改め難いものは、なほ舊制に近い小程が用ひられたのである。茲にも前に述べた劃一的でなく、また急進的でない支那の國民性が窺はれる。我が大寶令雑令の
  凡度地五尺為歩、三百歩為里。
も亦此の小程を採用したものだと思はれる。大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 以上のように、わたしが悩み続けて至った「小里」「大里」という概念が、昭和八年に「小程」「大程」として既に発表されていたのでした。先達、畏敬すべきです。なお、足立喜六氏(1871~1949)は土木技術者・数学の専門家で、長安遺跡の実地踏破を行った人物です。(つづく)

(注)
①森鹿三「漢唐の一里の長さ」『東洋史研究』1940年。
②足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。


第2803話 2022/08/07

二枚あった慈眼院「定居二年」棟札

 九州年号「定居二年(612年)」記事が記された泉佐野市日根野慈眼院所蔵の「慶長七年(1602年)」棟札を紹介しましたが、その他にも多数の棟札が泉佐野市には現存しています。調査の結果、慈眼院には「定居二年(612年)」と記された棟札がもう一枚あることがわかりました。
 『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(注①)によれば、慈眼院には日根神社の三枚の棟札が所蔵されており、その内の一枚が「洛中洛外日記」(注②)で紹介した「慶長七年(1602年)」棟札です。今回、新たに見いだしたのは「天正八年(1580年)」成立の小ぶりの棟札(注③)で、次のように記されています。

(表)
  大井関
  正一位
  大明神
(裏)
  定居二年壬申四月二日備
  大井関正一位大明神雖然
  天正四年二月十八日煙焼故
  天正八年庚辰三月八日造立
  社頭者也則天正八年閏
  三月廿二日御遷宮有之導師
  十輪院政金法印也

 大井関大明神(日根神社)の由来を九州年号「定居二年壬申」で示し、その後の社殿の焼亡・再建年次などを記録した棟札です。この棟札で注目すべきことは、もう一枚の慶長七年(1602年)棟札(板札)よりも二十年ほど早く成立していることです。そして、同神社の由来を九州年号「定居」で記録した慶長七年棟札(板札)が孤立していないことを明らかにした点です。このことは、新羅国太子「修明正覚王」が定居二年(612年)に当地に来たという伝承の信憑性を高めます。
 今回、もう一枚の「定居二年」棟札の存在を知り、棟札以外にも当地の古記録などに同様の伝承が遺されているのではないかという心証を得ました。先に紹介した『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に見える「日根造」「新羅国人億斯富使主より出づる也」(注④)もその一つに違いありません。これから、現地調査を進めたいと思います。

(注)
①「日根神社資料三 慶長七年(一六〇二) 板札」『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年、71~72頁。
②古賀達也「洛中洛外日記」2796話(2022/07/24)〝慈眼院「定居二年」棟札の紹介〟
 同「洛中洛外日記」2797話(2022/07/26)〝慈眼院「定居二年」棟札の古代史〟
③「日根神社資料二 天正八年(一五八〇) 本殿棟札」『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年、70頁。
④『新撰姓氏録』和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記された「日根造」が見える。この日根造の祖先とされる新羅国人億斯富使主は、棟札に見える新羅国太子「修明正覚王」のことと思われる。慈眼院の隣にある日根神社は「億斯富使主」を祭神として祀っている。日根神社は棟札に記された「日根野大井関大明神」のことである。


第2802話 2022/08/06

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (12)

 唐代の1里を何メートルとするのかについて、先行研究を調査していますが、おおよそ次のような求め方が見られます。

(1)唐代の尺(モノサシ)を求め、その実測値から1里を換算するという方法。
(2)歴代史書に見える「尺」の変遷記事に基づき、より確かな時代の尺(モノサシ)の実測値から換算する。
(3)そうして得られた唐代の1里が長安城遺跡などの実測値に対応しているか確認する。また、『旧唐書』地理志などの里程記事との対応を検証する。

 この方法論で最初に問題となるのが、(1)の唐代のモノサシの実測値です。多数出土・伝存している唐尺には微妙に差(28cm~31.35cm。注①)があり、1800尺を1里と計算するため、その小差が1800倍に広がり、計算上の1里に更に差が生じるという問題があります。『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)補注〝『西域記』の「一里」の長さ〟に見える、「里数を計る基礎となる唐尺の現存するものは多数あるが、その長さには小差があり、従って一定の公認された数値としては今日なさそうである。」という解説はそのことを意味しています。
 しかも、唐尺には小尺(約24cm)と大尺(約30cm)という、もっと大きな差があります(注②)。この差が1800倍され、「小里」と「大里」(いずれも古賀による仮称)の発生原因となるわけです。(つづく)

(注)
①矩斎「古尺考」(藪田嘉一郎『中国古尺集説』綜芸舎、1969年)の「現存歴代古尺表」によれば、唐代の尺(モノサシ)14品が掲載され、その1尺の実測値は28cm~31.35cmである。
②山田春廣氏(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟によれば次の唐尺がある。
 唐小尺 金工 長さ24.3cm
 唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5cm
 唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4cm
  ※開元尺は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているもの。
 従って、どの尺単位を1800倍するかで1里の長さは大きく変わる。
 唐小尺  24.3cm×1800=437.4m
 唐玄宗開元小尺 24.5cm×1800=441m
 唐玄宗開元大尺 29.4cm×1800=529.2m


第2801話 2022/08/05

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (11)

 表記テーマは、「洛中洛外日記」2660話(2022/01/13)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (10)〟以来です。当研究をサボっていたわけではなく、『旧唐書』地理志に見える里程記事の理解が難しく、筆が進まなかったことによります。たとえば、実測距離計算が比較的可能なケースでも、下記のように一里の長さがバラバラで、この基本問題の解決が難しかったのです。

○京師⇒河南府(洛陽) 「在西京(長安)東八百五十里」 327km〔1里385m〕
○京師⇒卞州 「在京師東一千三百五十里」 497km〔1里368m〕
○東都⇒卞州 「東都四百一里」 170km〔1里424m〕
○京師⇒徐州 「在京師東二千六百里」 757km〔1里291m〕
○東都⇒徐州 「至東都一千二百五十七里」 435km〔1里346m〕

 このなかで、より安定した実測値が出せるのが京師・河南府(洛陽)間でした。唐が京師(長安)と東都(洛陽)の東西二京制を採用していたこともあり、両都間の距離を記した「在西京(長安)東八百五十里」の記事は信頼性が高いことと、その陸路が黄河南岸にほぼ沿ったルートであり、地図上の実測値と実際の道行き距離が大きくは異ならないと判断できるからです。この理解を補強する地理志の次の里程記事もあります。

○京師⇒華州 「在京師東一百八十里、去東都六百七十里」

 華州は京師(長安)と東都(洛陽)の間にあり、京師までの180里と東都までの670里の合計がちょうど850里です。
 そして、長安・洛陽間は水路として黄河も使用できますので、その南岸を通る陸路が大きく迂回したり、両京間が不必要なじくざぐ行程になっていたとは考えにくいのです。それこそ、東西の都を最短距離の軍用道路で繋いだとしても不思議ではありません。こうした理解から、地理志の里程記事が一里530mや560mで書かれているとは、わたしには考えられないのです。両京間は地図上では約327kmですが、もし一里を530mや560mとすれば、その距離は450.5kmと476kmになり、実測値と大きくかけ離れてしまいます。
 しかしながら、唐代の一里についての先行研究においては、約320m(注①)から約560m(注②)までの諸説があり、当問題がそれほど簡単には解決できないこともわかってきました。このように悩み抜いた末、ようやく問題の所在と解決の糸口が見えてきましたので、本テーマを再開することにしました。まだ研究途上ですが、わたしの理解したところを紹介することにします。(つづく)

(注)
①『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)補注の〝『西域記』の「一里」の長さ〟(416頁)に、「里数を計る基礎となる唐尺の現存するものは多数あるが、その長さには小差があり、従って一定の公認された数値としては今日なさそうである。その大略について言えば、唐代には大小二種の尺度がある(日本の曲尺と鯨尺のもと)。」として、唐代の一里を320m、441m、453m、454mとする説があることを紹介している。
②『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)巻末の「中国歴代度量衡基準単位表」には、「唐・五代」での一里は559.80mとある。


第2800話 2022/08/01

倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣

 羽黒山を開山したと「勝照四年」棟札(注①)に記された「能除大師」は「参仏理大臣(みふりのおとど)」という名前でも伝承されています(注②)。わたしはこの能除の別称に「大臣」という官職名が付いていることが気になっていました。「勝照四年」(588年)の頃ですから、羽黒山は蝦夷国内と思われ、それであれば能除は蝦夷国の大臣だったのだろうか、あるいは倭国(九州王朝)の大臣が布教のために蝦夷国内の出羽に派遣されたのだろうかと考えあぐねていたのです。ところが意外なことから決着が付きました。
 「洛中洛外日記」で連載した蝦夷関連の拙稿を読み返していたら、次のことを既にわたしは書いていました。それは「洛中洛外日記」2391話(2021/02/25)〝「蝦夷国」を考究する(8) ―多利思北孤の時代の蝦夷国―〟で紹介した次の『日本書紀』の記事でした。

○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
 十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
 是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
 是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約した、という内容です。
 すなわち、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのかもしれません。従って、能除の別称が「参仏理大臣」であることは、この『日本書紀』の記述通りであり、倭国の臣下として蝦夷国の有力者であろう能除の別称としてふさわしいのです。
 敏達十年(581年、九州年号の鏡當元年)は能除による羽黒山開山「勝照四年」(588年)の七年前であり、時期的にも対応しています。こうして、倭国(九州王朝)と蝦夷国との歴史が一つ明らかになったと思われます。ちなみに、『拾塊集』(注③)には「能除太子者崇峻天皇之子也」とあり、没年月日を「舒明天皇十三年(641年)八月二十日」(九州年号の命長二年)としています。

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②「出羽三山史年表(戸川安章編)」(『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版)によれば、能除の別称を「参弗理大臣」とする。
 『出羽国羽黒山建立之次第』(同)には「崇峻天皇の第三の御子、(中略)名を参弗梨の大臣と号し上(たてまつ)る。」とある。
③『拾塊集』(著者・成立年代ともに不明)『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版。


第2799話 2022/07/31

勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡

 「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟において、「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」記事を六世紀末頃の倭国(九州王朝)から蝦夷国領域(出羽地方)への仏教東流伝承の痕跡ではないかと指摘しました。この推定が妥当かどうかを判断するために、『日本書紀』の関連記事を調べてみました。
 九州年号の「勝照四年」(588年)は崇峻天皇元年にあたり、その付近の蝦夷や仏教関連記事を精査したところ、次の記事が注目されました。

  九州年号   天皇 年 『日本書紀』の記事要旨
584 鏡当 4 甲辰 敏達 13 播磨の恵便から大和に仏法が伝わる。
585 勝照 1 乙巳 敏達 14 蘇我馬子、仏塔を立て大會を行う。
586 勝照 2 丙午 用明 1
587 勝照 3 丁未 用明 2 皇弟皇子、豊国法師を内裏に入れる。
588 勝照 4 戊申 崇峻 1 大伴糠手連の女、小手子を妃とする。妃は蜂子皇子を生む。是年、百済国より仏舎利が送られる。法興寺を造る。
589 端政 1 己酉 崇峻 2 東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。
590 端政 2 庚戌 崇峻 3 学問尼善信ら、百済より還り、桜井寺に住む。
591 端政 3 辛亥 崇峻 4
592 端政 4 壬子 崇峻 5 大法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
593 端政 5 癸丑 推古 1 仏舎利を法興寺の柱礎の中に置く。是年、初めて四天王寺を難波の荒陵に造る。
594 告貴 1 甲寅 推古 2 諸臣ら競って仏舎を造る。これを寺という。
595 告貴 2 乙卯 推古 3 高麗僧慧慈、帰化する。是歳、百済僧慧聰が来て二人は仏法を弘めた。

 以上のように、「勝照四年」(588年)頃の『日本書紀』記事によれば、この時期は近畿天皇家や大和の豪族らにとっての仏教伝来時期に相当し、新羅や百済からの僧や仏舎利の受容開始期であることがわかります。おそらくは九州王朝を介しての受容であることは、九州王朝説の視点からは疑うことができません(九州王朝記事の転用も含む)。
 同様に、更に東の蝦夷国も九州王朝を介して仏教を受容したのではないでしょうか。その点、注目されるのが589年(端政元年己酉)に相当する『日本書紀』崇峻二年条の、「東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。」という記事(要旨)です。六世紀の九州王朝の時代での東山道や北陸道からの国境視察記事ですから、視察の対象は蝦夷国領域であり、それは九州王朝(倭国)によるものと考えざるを得ません。従って、これと同時期に能除による羽黒山開山がなされたという「勝照四年」(588年)棟札の記事は、九州王朝(倭国)から蝦夷国への仏教東流の痕跡と見なしてもよいと思われるのです。
 そうであれば、日本列島内の仏教初伝と東流の経緯は次のように捉えて大過ないと思いますが、いかがでしょうか。

【日本列島での仏教東流伝承】
(1)418年 九州王朝(倭国)の地(糸島半島)へ清賀が仏教を伝える(雷山千如寺開基)。(『雷山千如寺縁起』、注②)
(2)488~498年 仁賢帝の御宇、檜原山正平寺(大分県下毛郡耶馬渓村)を百済僧正覚が開山。(『豊前国志』)
(3)531年(継体25年) 教到元年、北魏僧善正が英彦山霊山寺を開基。(『彦山流記』)
(4)584年 播磨の還俗僧恵便から得度し、大和でも出家者(善信尼ら女子三名)が出たことをもって「仏法の初め」とする。(『日本書紀』敏達十三年条)
(5)588年 蝦夷国内の羽黒山(寂光寺)を能除が開山。(羽黒寂光寺「勝照四年」棟札)

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『雷山千如寺縁起』による。倭国への仏教初伝について、次の拙稿で論じた。
○古賀達也「四一八年(戊午)年、仏教は九州王朝に伝来した ―糸島郡『雷山縁起』の証言―」39号、市民の古代研究会編、1990年5月。
○同「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』1集、古田史学の会、1996年。1999年に明石書店から復刻。同稿の最新改訂版は未発表。