古賀達也一覧

第2907話 2023/01/04

古田先生が生涯貫いた在野精神 (2)

『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年)の末尾の資料紹介(古田先生の略歴・著作・論文・他)に、先生を紹介した新聞記事(発行日不明。朝日新聞か)「野に学者あり」のコピーが収録されています。「燃えたぎらす論争の炎」「批判できねば学問終わり」という見出しとともに次の記事が見えます。

〝古田氏の業績は古代の分野だけではない。親鸞研究では、早くからその名が知られていた。にもかかわらず、終始「素人」を名のる。大学からのさそいも、一貫してことわり続けている。
「現代の日本では、研究機関に所属すること、それはどこかの学閥の中に組み込まれることになる。となると、師や仲間うちの批判はきわめてむつかしい。非学問的理由で、先学を批判できないとしたら、学問の進歩もなければ面白味もない」
在野の弁を明快にこう語る。
(中略)
古田氏は、過去に一度だって、研究機関に職を得たことはなかった。それゆえ、学問のためとあらば、どんな大家であろうと、教えをこうた人であろうと、遠慮会釈なく俎上(そじょう)に乗せる。学問の本筋とは元来そうしたものであるべきだと固く信じている。しかし、あまりの批判の厳しさに、それとなく忠告してくれる人もいるが、彼はいつもそれに笑って答える。
「遠慮して批判を避けるようなときが来れば、在野にいる意味もない。私の学問も終わるときです」。〟(つづく)


第2906話 2023/01/03

古田先生が生涯貫いた在野精神 (1)

来週の14日(土)に東京古田会主催の和田家文書研究会で、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」を発表させていただくことになり、準備のために30年以上昔の資料を読み直しています。その手始めに読んだのが『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年。B5版68頁)です。同誌には「会員頒布」とあり、今でも入手困難な一冊です。同誌には古田説に出会った感動と悦びに満ちた会員の論稿で溢れており、当時の熱気が伝わってきます。
中谷義夫会長による「会報発行の所感」に続いて、古田先生の「母なる探求者 ―孤独の周円―」が掲載されています。その冒頭には次のように記されています。

「わたしには不思議である。
これはたった一人で歩みはじめた、孤独な探求の道であった。現代の学界はこれをうけ入れず、今までいかなる博学の人々も、このように語ったことはなかった。そういう断崖に切り立った小道を、わたしはひとり歩みつづけてきたのだ。
それが今、ふと見まわすと、わたしのまわりには、数多くのなつかしい人々が見える。そしてうしろからもヒタヒタと足音がする。いや、前にも、もう、一歩、二歩歩きはじめている若者たちの姿が見えているようにさえ思えるのである。荒野の中に多くの道を切り開きつつすすむ人々の群れのように。――これはどうしたことであろうか。
思うに、わたし個人は、とるに足らぬ一介の探求者である。長い時間の中で、うたかたのように浮んでは消えてゆくひとつのいのちだ。そのわたしをささえ、とりまいているこれらの人々こそ、真の探求者、真の母体なのではあるまいか。わたしは母なる探求者をこの世で代理し、いわばその〝手先〟をつとめる者にすぎぬ。わたしにはそのように思われるのである。」

この『古田武彦とともに』は『市民の古代 古田武彦とともに』から『市民の古代』へと変わり、「古田武彦を囲む会」は後に「市民の古代研究会」へと改名します。ちなみに、『古田武彦とともに』第1集には、「古田史学の会」という会名のもとになった「古田史学」という呼称が散見します。たとえば朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』を出版した米田保さんの「『「邪馬台国」はなかった』誕生まで」には次のようにあります。

「こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏(古田先生のこと)による第二作『失われた九州王朝』(四十八年)第三作『盗まれた神話』(五十年二月)第四作(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。」

「市民の古代研究会」で九州年号研究を牽引した丸山晋司さんの「ある中学校の職員室から」には次のように「古田学派」という言葉が使用されています。

 「自分がもし社会科の教師になっていたら、受験前の生徒達に古田説をどう教えられるのか考えただけでもゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試に出させない運動」は、我々古田学派にこそ必要なのではないかと思ったりもする。それでないと、社会科の教師の自由な研究はよほどの読書家・探求者にしか望めない。教師はそうであってはならない。けれど頭の中までかなり束縛されているのも教師だと思う。」

「古田史学」や「古田学派」の語は、この『古田武彦とともに』第1集が初出あるいは早期の使用例ではないかと思います。(つづく)


第2905話 2023/01/01

令和四年の回想「新時代の予感」

「古田史学の会」の皆さん、「洛中洛外日記」読者の皆さん、古田ファンの皆さん、古代の真実を愛する皆さん、新年のご挨拶を申し上げます。令和四年(2022)は内外ともに衝撃的で暗い事件が多く、恐らく歴史の転換点の年として記憶されるのではないでしょうか。ここでは古田史学と「古田史学の会」に焦点を絞って令和四年を振り返ってみます。
もっとも象徴的で印象に残ったことが二つあります。一つは、奈良新聞に正木さんの講演記事が大きく掲載されたことです。これは偶然でも僥倖でもなく、関係者による数年にわたる地道な努力の賜物です。このことに深く感謝しています。
二つ目は、インターネットを利用したリモート会議システム(zoom、skype)の研究会活動への採用です。このシステムのおかげで、わたしは多元的古代研究会や東京古田会の例会などに参加させていただくことができ、関東や東北他方の研究者と学問的交流と信頼関係を深めることができました。わたし自身も多くのことを学ぶことができ、今まで知らなかった優れた研究者との出会いも続いています。わたしも研究発表のご依頼をいただくこともあり(注)、自らの研究や認識を見直すよい機会にもなっています。また、「古田史学リモート勉強会」を開催し、今まで機会がなかった遠方の研究者との交流をわたしも始めました。
この二つの事例は、十年前であれば想像もできなかったことであり、わたしたちが歴史の転換点に立っていることを暗示しているように思います。今、このときが新時代なのかもしれません。
最後にわたし個人のことですが、定年退職後二年を経て、ようやく体調が改善しました。定年前十年間のハードワークがたたり、身体はぼろぼろでしたので、養生を続けて薬の服用を全てやめることができました。これからは学問研究と「古田史学の会」の運営、古田学派全体への貢献に尽力する所存です。皆さんのご支援、ご教導をお願いいたします。

(注)本年1月と3月の東京古田会主催「和田家文書研究会」で発表予定です。


第2904話 2022/12/31

『多元』No.173の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.173が届きました。同号には拙稿「宮名を以て天皇号を称した王権」を掲載していただきました。同稿は、『東京古田会ニュース』二〇六号(二〇二二年九月)に掲載された橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」での重要な指摘を受けて著したものです。それは次の指摘です。

「(古田説によれば、船王後墓誌に見える)宮は天皇ごとに違うので、九州王朝は国王が変わるたびに中心となる宮の場所が変わる制度をもっていたことになるわけです。国王が変わるごとに年号が変わることは一般的と思われますが、宮の場所まで変わるとなるとどういうことになるのでしょうか。『天皇の坐す宮』と大宰府などの政庁はどういう関係だったのだろうか」 ※()内は古賀による補記。

この橘高さんの問題提起を受けて、九州王朝(倭国)が七世紀前半頃に恒久的都城・宮として「太宰府」条坊都市(名称はおそらく「倭京」)を造営した後、そこで即位・君臨した天子は何と呼ばれたのかについて考証したものです。関東の研究者たちとの学問的交流により、わたしの問題意識が深められました。
当号には和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)による「一年を顧みて」が掲載されています。そこで七世紀の太宰府の編年研究について次のように述べています。

 「太宰府は九州王朝の首都の有力候補地と考えられます。しかし、その首都機能の成立年代はなかなか確定しません。(中略)新たな論拠、新たな物証が見つかった時点で議論を前に進めることが賢明なのではないかと愚考します。」

太宰府成立研究におけるエビデンス(出土物など)に基づく新たな研究を示唆されたものです。既存エビデンスの精査をはじめ、新たなエビデンスや視点に基づいた研究を進めたいと思います。


第2902話 2022/12/27

蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (2)

 和田家文書コレクション『奥州隠史大要 一』に収録されている「奥州佛法之事」には、六~七世紀頃の蝦夷国領域への仏教伝来記事があります。その中で、わたしが注目したのが次の福島県会津の高寺でした。

 「欽明天皇元年、梁僧青巌、来奥州會津蜷川根岸邑、高寺建立。」

 欽明天皇元年は西暦540年で、九州年号の僧聴五年に相当します。これが史実であれば近畿天皇家の受容(「仏法の初め」『日本書紀』敏達十三年条、584年)よりも早いことになり、わたしも研究を続けていました(注①)。同伝承の最古の出典を調査中ですが、『会津温故拾要抄』(宮城三平著、明治22年)に次の記事が見えます。

 「高寺恵隆寺千手観音縁起
一 茲ニ奥州大會津郡〔今、川沼ト云〕蜷河荘〔今、稲川ト云〕根岸村ト〔今、宇内ト云〕山ノ上草庵結〔昔、高寺、今、恵隆寺〕。人皇三十代欽明天皇即位元年庚申、唐梁國青岩ト云僧結庵。其頃日本ニテ寺ト云事ヲ不知、唯高處有故名高寺。自是百二十餘年過、人皇三十八代齊明天皇四年戊午、性空上人弟子蓮空上人、爰來、舊庵改大伽藍草創、號石塔山恵隆寺。本尊観音像(後略)」(注②)454~455頁。※〔 〕内は割注。句読点は古賀による。

 『会津温故拾要抄』に掲載されたこの「高寺恵隆寺千手観音縁起」の出典は未調査ですが、和田家文書「奥州佛法之事」と同内容が伝えられており、中国の梁から来た僧、青岩による高寺建立は、会津地方では古くから知られてきた伝承のようです。
 一つ不思議に思うのが、この伝承内容が九州王朝(倭国)時代のことであるにもかかわらず、そこに九州年号(継体元年・517年~大長九年・712年)が使用されていないことです。拙稿「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」(注③)で紹介した羽黒山への仏教伝来伝承では九州年号「勝照四年」(588年)のこととして伝えられており、同様に高寺への伝来記事も「欽明天皇元年」だけではなく、「僧聴五年」と九州年号もあってほしいところですが、管見では高寺伝承に「僧聴五年」は見えません。(つづく)

(注)
①北篤『謎の高寺文化 古代東北を推理する』(1978年)は、高寺への仏教伝来を「欽明天皇の元年(五四〇)のこと、と記録に出ている。梁国の僧で、青磐という人物である。『奥州会津蜷川荘の根岸村に来たり手』と続いている。」(29頁)と紹介する。
②国会図書館デジタルコレクション『会津温故拾要抄 四、五』による。
③古賀達也「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第2899話 2022/12/24

筑紫舞「翁」成立年代の考察

 倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります。「翁」には「三人立(だち)」「五人立」「七人立」「十三人立」がありますが、西山村光寿斉さん(注①)によれば「十三人立」は伝わっていないとのこと(注②)。この翁の舞は、諸国の翁が都(筑紫)に集まり、その国の舞を舞うという内容です。その国とは次の通りです。

《三人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」
《五人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」「出雲の翁」「難波津より上りし翁」
《七人立》「肥後の翁」「都の翁」「加賀の翁」「出雲の翁」「難波津より上りし翁」「尾張の翁」「夷(えびす)の翁」

 古田先生の解説によれば、翁の舞の原初形は「三人立」で、倭国(九州王朝)の領域拡大とともに「五人立」「七人立」と増え、それぞれの成立年代を次のように推定されました。

《三人立》弥生時代前期。筑紫を原点(都)として、東の辺境を越(後の加賀)、南の辺境を肥後とする時代。
《五人立》六世紀。翁の舞の中心人物が「三人立」では「都の翁」だが、「五人立」「七人立」では「肥後の翁」が中心となっていることから(注③)、肥後で発生した装飾古墳が筑紫(筑後)へ拡大した時代。
《七人立》七世紀前半。「夷の翁」(蝦夷国あるいは関東地方)が現れることから、多利思北孤の「東西五月行、南北三月行」(『隋書』俀国伝)の領域の時代。

 筑紫舞の「翁」の〝増加〟が倭国(九州王朝)の発展史に対応しているとする古田先生の理解に賛成です。また、その成立時期についても概ねその通りと思いますが、現在の研究状況を踏まえると次の諸点に留意が必要と思われます。

(1) 筑紫舞と呼ばれることから、「都の翁」の都とは筑紫であることは古田先生の指摘通りだが、「筑前の翁」でも「筑後の翁」でもないことから、多利思北孤による六十六国分国の前に成立した「舞」である。
(2) そうであれば、弥生時代や六世紀の成立とする「三人立」「五人立」に登場する「肥後の翁」の「肥後」の本来の国名は「火の国」であったと思われる。
(3) 同様に「加賀の翁」の「加賀」も分国後の名称であり、「三人立」「五人立」での本来の国名は「越の国」となる。
(4) 「五人立」になって登場する「難波津より上りし翁」は、倭の五王時代の九州王朝による難波進出に対応している。大阪市上町台地から出土した古墳時代の国内最大規模の大型倉庫群が考古学的史料根拠である。
(5) 分国後に成立したとされる「七人立」の「夷の翁」の「夷」は蝦夷国(陸奥国)とするのが穏当と思われる。
(6) 弥生時代成立の「三人立」に、天孫降臨の中心舞台の一つである「出雲国」(当時の「大国」)が登場しないことは、「出雲国」はまだ独立性を保っており、九州王朝への「舞」の奉納をしなていかったのではないか。
(7) 古墳時代に至り(倭の五王の時代か)、「出雲国(大国)」は九州王朝の傘下に入り、「五人立」「七人立」には「出雲の翁」が登場することになったと思われる。

 以上の考察の当否は今後の研究と検証に委ねますが、筑紫舞の「翁」の変遷が倭国(九州王朝)の歴史(版図)と対応しているようで、興味深く思っています。

(注)
①西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。
②古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に経緯が詳述されている。
③同②の「あとがきに代えて」に次の経緯が紹介されている。
 〝今年(一九八二)の十一月上旬、西山村光寿斉さんから電話がかかってきた。「大変なことに気がつきました」「何ですか」「今、翁の三人立を娘たちに教えていたところ、どうも勝手がちがうのです。これは、五人立や七人立とちがって、都の翁が中心なんです」「……」「前に、翁は全部肥後の翁が中心だといいましたけれど、えらいことをいうてしもて」「結構ですよ。事実だけが大切なのですから」「検校はんから三人立を習うとき、近所から習いに来てた子が、都の翁になって中心にいるので、わたし、すねたことがあるんです。今、手順を追うているうちに、ハッキリそれを思い出しました。……」〟ミネルヴァ書房版、264~265頁。


第2898話 2022/12/19

筑紫舞「翁」と六十六国分国

 「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝について調査したところ、正木裕さんの能楽研究に行き着きました。同研究によれば、世阿弥『風姿華傳』に見える秦河勝記事などに注目され、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」(『風姿華傳』)は九州王朝の多利思北孤(上宮太子)が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことを表現しているとされました。そして、次のように結論づけました。

〝本来、「六十六国分国」を詔し、「六十六番の遊宴、ものまね」を命じたのは九州王朝の天子多利思北孤であり、彼こそが世阿弥のいう「申楽の祖」だった。そして筑紫舞は、そうした諸国から九州王朝への歌舞の奉納の姿を今に残すものといえるのだ。〟(注①)

 世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』にも同様の記事があり、翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されています。

〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』

 この『明宿集』の記事で注目されるのが、「秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ」「翁一体ノ御面ナリ」とあるように、秦河勝が「翁」を舞ったという所伝です。倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります(注②)。西山村光寿斉さん(注③)により、現代まで奇跡的に伝承された舞です。正木さんが論じられたように、九州王朝の「六十六国分国」と筑紫舞の「翁」には深い歴史的背景があるようです。(つづく)

(注)
①正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
②『続日本紀』天平三年(731年)七月条に雅楽寮の雑楽生として「筑紫舞二十人」が見える。筑紫舞の「翁」には、「三人立」「五人立」「七人立」「十三人立」があるが、「十三人立」は伝わっていないという。
③西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に、その経緯が詳述されている。


第2896話 2022/12/15

『新撰姓氏録』巨勢楲田朝臣の伝承 (2)

 わたしの旧本籍は浮羽郡大字浮羽で、ご先祖のお墓も当地(うきは市御幸通り)にあります。そのうきは市北山には「天(あま)の一朝堀(ひとあさほり)」と呼ばれている大きな堀の跡がありました。「天の一朝堀」は山北の丘陵(大野原)を東西に延びる、深さ20m、幅68m、長さ240mの巨大な堀ですが、「天(尼)の長者」が造ったという以外、その使用目的も築造年代も不明の一大土木工事跡です。昭和57年(1982)、合所ダム工事の排土捨て場となり、現在は跡形もなくなっています。更に「こがんどい(古賀の土居)」と呼ばれる、山北中園から古賀の集落まで南北に延びていた土塁も農地整備で破壊され、これもまた消滅しました。この他、当地には天の長者にまつわる「竈の土居(溝尻)」「尼の捷道(ちかみち)」や一朝堀の排土で作ったとされる「男島」などの地名が存在します。
 拙稿「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(注①)で、『日本書紀』斉明紀に見える「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)」はこの「天の一朝堀」ではないかと論じたことがあります。正木裕(古田史学の会・事務局長)さんは、当地を流れる隈ノ上川を「狂心の渠」とする説を発表されており、この説も有力です(注②)。
 また、うきは市には巨瀬川が筑後川の南側を東西に流れており、筑後川よりも標高が高いうきは市の水田の重要な水源として利用されています。この巨瀬川には「天(尼)の長者」とは別に「カッパ伝説」があります。巨瀬川の水量が減ると巨瀬川の神「九十瀬(こせ)入道」(カッパ)にお願いをして、水量を増やしてもらい、その神の怒りに触れると増水して村民が溺死するという伝説です(注③)。
 うきは市のこうした遺構や伝承が『新撰姓氏録』に記された巨勢楲田朝臣(こせのひたのあそん)の荒人の灌漑記事と関係するのではないかと、わたしは考えています。巨瀬川の名前の由来とされる「高西」地名から(注④)、当地が古代の巨勢氏の支配領域だったと推定でき、灌漑に関する諸伝承も当地に遺っていることなどから、両者が無関係とは思えないのです。『新撰姓氏録』の記事の時代が「皇極」のときとされていることも、斉明紀の「狂心の渠」記事と時代が対応しており、この仮説の傍証とできそうです。更に、うきは市に隣接している大分県日田市の地名も、「楲田(ひた)」という名前と関係しているのではないでしょうか。そして、この伝承が七世紀中頃の倭国(九州王朝)の事績であったことから、『日本書紀』に記されなかったものと思われます。
 まだ、始めたばかりの研究テーマですので、断定は避けますが、興味深いものであり、史料調査を進めます。

(注)
①古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」『多元』39号、2000年。
 同「洛中洛外日記」905話(2015/03/22)〝筑後の「阿麻の長者」伝説〟
 同「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
②正木 裕「『書紀』斉明紀の『田身嶺と狂心(たぶれごころ)の渠』」古田史学の会・関西例会、2018年3月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1628話(2018/03/17)〝斉明紀「狂心の渠」は隈ノ上川(うきは市)〟
③『浮羽町史 上巻』(昭和63年)によれば「浮羽の平家伝説」として紹介されている。
④『倭名類聚鈔』によれば、生葉郡(うきは市と久留米市田主丸町)の郷は「椿子・小家・大石・山北・姫沼(治)・物部・高西」の七郷であり、この「高西」が「巨勢」のことと思われる。


第2895話 2022/12/14

『新撰姓氏録』巨勢楲田朝臣の伝承 (1)

 近年、研究史料として『新撰姓氏録』を使用することが増えました。おかげで『新撰姓氏録』に多元史観・九州王朝説でなければ、うまく説明できない記事があることに気づきました。その一つ、巨勢楲田朝臣(こせのひたのあそん)の記事について紹介します。同書の「右京皇別 上」に次の記事が見えます。

〝巨勢楲田朝臣
雄柄宿禰四世孫稻茂臣之後也。男荒人。天豊財重日足姫天皇〔諡皇極〕御世。遣佃葛城長田。其地野上。漑水難至。荒人能解機術。始造長楲。川水灌田。天皇大悦。賜楲田臣姓也。日本紀漏。〟『新撰姓氏録』右京皇別上(注①)

 要約すれば次のようです。

(1) 巨勢楲田朝臣の荒人は、雄柄宿禰四世の子孫稻茂臣の子である。
(2) 皇極天皇の時代、荒人は佃葛城長田の灌漑のために長楲を造り、川の水を田に引き、灌漑に成功した。
(3) それを天皇は悦び、楲田臣の姓を賜った。
(4) このことは『日本書紀』には記されていない。

 この記事から、巨勢という地域の有力者(灌漑技術を持つ)が水利が不便な地(佃葛城長田)の灌漑に成功し、当時(七世紀中頃)の天皇から楲田臣という姓を賜ったことがうかがえるのですが、久留米市出身(旧本籍は浮羽郡大字浮羽)のわたしには思い当たることがありました。うきは市に遺る「天(あま)の一朝堀(ひとあさほり)」伝承(注②)と当地を流れる巨瀬(こせ)川です。(つづく)

(注)
①佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、1962年。
②古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」『多元』39号、2000年。
 同「洛中洛外日記」905話(2015/03/22)〝筑後の「阿麻の長者」伝説〟
 正木 裕「『書紀』斉明紀の『田身嶺と狂心(たぶれごころ)の渠』」古田史学の会・関西例会、2018年3月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1628話(2018/03/17)〝斉明紀「狂心の渠」は隈ノ上川(うきは市)〟
 同「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。


第2894話 2022/12/13

『古田史学会報』173号の紹介

 『古田史学会報』173号が発行されました。一面には拙稿〝蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―〟を掲載していただきました。本稿は羽黒山神社にあった「勝照四年(588年)」銘棟札の史料批判の結果、勝照四年が倭国(九州王朝)から蝦夷国への仏教伝来年次を示すものであることを論じたものです。倭国(九州王朝)に仏教が伝来したのは418年とする研究(注)を発表したことがありますが、その170年後に蝦夷国(羽黒山)に仏教が東流したことになります。

 この他に、日野智貴さんの物部氏研究に関する論稿2編が掲載されました。いよいよ古田学派に於ける本格的な物部氏研究の始まりです。どのような展開となるのかはわかりませんが、重要テーマですので、多くの研究者に注目していただければと思います。

  173号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』173号の内容】
○蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言― 京都市 古賀達也
○新春古代史講演会(1月21日 キャンパスプラザ京都)のお知らせ
○九州物部氏の拠点について たつの市 日野智貴
○伊吉連博徳書の捉え方について 茨木市 満田正賢
○「丹波の遠津臣」についての考察 京丹後市 森 茂夫
○七世紀における土佐国「長岡評」の実在性 高知市 別役政光
○田道間守の持ち帰った橘のナツメヤシの実のデーツとしての考察 京都府大山崎町 大原重雄
○弓削氏と筑紫朝廷 たつの市 日野智貴
○「壹」から始める古田史学・三十九
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅰ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会・関西例会のご案内

(注)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第一集、古田史学の会編、1996年。1999年に明石書店から復刊。


第2893話 2022/12/12

六十六ヶ国分国と秦河勝

 聖徳太子の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝が、『隋書』俀国伝に見える秦王国の秦王に相応しいと「洛中洛外日記」で論じてきましたが、その根拠は次のようなことでした。

(1)『日本書紀』の記事の年次(推古十一年、603年)と『隋書』俀国伝の時代が共に七世紀初頭頃であること。
(2) 秦造河勝の姓(かばね)の「造(みやっこ)」が秦氏の長と考えられ、秦王国の王である秦王と同義とできる。『新撰姓氏録』にも秦氏の祖先を「秦王」と称す記事がある。
(3) 多利思北孤と秦王国の秦王、「聖徳太子」と秦造河勝という組み合わせが対応している。
(4) 古田史学・九州王朝説によれば、多利思北孤や利歌彌多弗利の事績が「聖徳太子」伝承として転用されていることが判明している。

 こうした古代文献による論証に加えて、中世の能楽書(注①)に記された聖徳太子と秦河勝の次の記事にも興味深いテーマがあります。

〝上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。橘の内裏紫宸殿にて、これを懃ず。天(下)治まり、國静かなり。(中略)上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟『風姿華傳』

 この記事などからは、次の状況が読み取れます。

(a) 多利思北孤が上宮太子の時、天下が少し乱れていた。『隋書』によれば、多利思北孤が天子の時代の俀国は「雖有兵無征戰(兵〈武器〉あれども、征戦なし)」とされており、〝天下少し障りありし時〟が太子の時代とする、この記事は妥当。
(b) その時、三十三ヶ国を六十六ヶ国とすべく、分国を秦河勝に命じた。〝上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟とあることから、「蘇我・物部戦争」において、秦河勝が活躍したことがうかがえる。また、『日本書紀』皇極三年(644年)条によれば、東国の不尽河(富士川)の大生部多(おおふべのおお)を秦造河勝が討っており、秦氏が軍事的氏族であることがわかる。分国実施に於いても秦氏の軍事力が貢献したと思われる。
(c) 分国を多利思北孤が太子の時代(鏡當三年、583年。注②)、あるいは天子即位時(端政元年、589年。注③)とする、正木裕さんやわたしの研究がある(注④)。

 上記の一連の考察(史料根拠に基づく論理展開)の結果、わたしは秦氏(秦王)を九州王朝(倭国)における軍事的実働部隊としての有力氏族と考えたのですが、秦造河勝のように、姓(かばね)に「造(みやっこ)」を持つ氏族は連姓の氏族よりも地位が低いと通説ではされているようです(注⑤)。そうした例の「○○造」があることを否定しませんが、秦氏や秦造河勝についていえば、『日本書紀』の記事や「大宝二年豊後国戸籍」に多数見える「秦部」の存在などからも、有力氏族と考えた方がよいと思います。たとえば平安京の造営も、通説では秦氏の貢献が多大と言われているのですから。(つづく)

(注)
①世阿弥『風姿華傳』、禅竹『明宿集』など。
②『日本略記』(文禄五年、1596年成立)に次の分国記事が見える。
〝夫、日本は昔一島にて有つる。人王十三代の帝成務天皇の御宇に三十箇國にわらせ給ふ也。其後、大唐より賢人来て言様は、此國はわずかに三十三箇國也、是程小國と不知、まことに五十二位に不足、いささか佛法を廣ん哉といふて帰りけり。其後、人王丗四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年癸卯六十六箇國に被割けり。郡五百四十四郡也。〟
③『聖徳太子傳記』(文保二年、1318年頃成立)に次の分国記事が見える。冒頭の〝太子十八才御時〟は九州年号の端政元年(589年)にあたる。
〝太子十八才御時
 春正月参内執行國政也、自神代至人王十二代景行天皇ノ御宇國未分、十三代成務天皇ノ御時始分三十三ケ國、太子又奏シテ分六十六ヶ国玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ作九ケ國、名西海道也〟
④古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
 正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
⑤日野智貴氏のご教示による。web上でも次の解説が見える。
〝古代の姓((かばね)の一つ。その語源は、御奴、御家ッ子など諸説がある。地方的君主の尊称などといわれる。古くは、国造や職業的部民の統率者である伴造がみずから称したものであろう。姓が制度化された5世紀頃以降、造姓をもつ氏族は200ほど知られている。その大部分は天皇や朝廷に属する職業的部民の伴造か、名代、子代の部の伴造で、中央の氏族が多く、連姓の氏族よりもその地位は低かった。天武朝の八色の姓(やくさのかばね)の制定で,造を姓とする氏族のうち有力なものは連以上の姓を賜わった。〟ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「造」の解説。


第2892話 2022/12/11

秦王と秦造

 古田説によれば『隋書』俀国伝に見える「秦王国」を〝文字通り「秦王の国」〟と理解されており、わたしも同意見です。

〝では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。〟(注①)

 このように古田先生は述べています。もし現地名の表音表記であれば、「しんおう」あるいはそれに近い音の地名に「秦王」という漢字を採用したことになり、他の表音表記の「邪靡堆(やまたい、やひたい)」「都斯麻(つしま)」「一支(いき)」「竹斯(ちくし)」「阿蘇(あそ)」とは異質です。それでは秦王とは誰のことでしょうか。七世紀初頭頃に秦王と呼ばれた、あるいはそれにふさわしい人物が国内史料中に遺されているでしょうか。この問題について考えてみました。
 「秦王国」という国名表記からうかがえることは、その領域規模は不明ですが、「秦王」という名称を国名に採用することが九州王朝から許されているわけですから、秦王は多利思北孤の〝右腕〟ともいえる氏族のように思われます。そこでわたしが注目したのが秦造河勝で、その姓(カバネ)の「造(みやっこ)」が根拠の一つでした。これはある地域や集団の長を意味する姓と考えられます。たとえば「○○国造」とか「評造」(注②)などのようにです。那須国造碑や「出雲国造神賀詞」(注③)は有名ですし、氏族名の姓としても『新撰姓氏録』に「○○造」が散見され、「秦造」もあります(注④)。この理解が正しければ、秦造河勝とは秦氏の造(長)の河勝とする理解が可能となり、当時の「秦王」にふさわしい人物ではないでしょうか。その痕跡が『新撰姓氏録』の「太秦公宿禰」(左京諸蕃上)に見えます。仁徳天皇が秦氏のことを「秦王」と述べています。

〝(仁徳)天皇詔曰、秦王所獻絲綿絹帛。朕服用柔軟。温暖如肌膚。仍賜姓波多。〟『新撰姓氏録』太秦公宿禰(左京諸蕃上)

 『日本書紀』皇極天皇三年(644年)に見える秦造河勝の記事からも、そのことがうかがわれます。

〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
 「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
 巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
 「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
 それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
 「新しい富が入って来た。」
 都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。(後略)〟『日本書紀』皇極三年条

 葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったという記事で、その行動範囲が東国(駿河国)にまで及んでいることから、広範囲に展開する軍事集団の長のように思われます。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②『常陸国風土記』多珂郡条に「石城評造部志許」の名が見える。
③『古事記 祝詞』日本思想体系、岩波書店、1958年。
④「秦造 始皇帝五世孫融通王之後也」『新撰姓氏録』左京諸蕃上。