二倍年暦一覧

第1661話 2018/04/30

『論語』二倍年暦説の史料根拠(5)

 今回は「周代」史料の「百歳」記事が、わが国ではどのようにとらえられていたのかについてご紹介します。
 わたしが、九州年号研究において江戸時代の学者たちが九州年号をどのようにとらえていたのかの調査で、筑前黒田藩の儒者、貝原益軒の著作を調べていたときに次の記事に注目しました(貝原益軒は九州年号偽作説)。

 「人の身は百年を以て期(ご)となす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ如此(かくのごとく)みじかきや。是(これ)、皆、養生の術なければなり。」(『養生訓』巻第一)

 この「人の身は百年を以て期(ご)となす」という益軒の認識は「周代」史料に基づいています。たとえば『礼記』に次の記事が見えます。

 「百年を期(ご)といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)

 また「上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり」も「周代」史料の『荘子』の次の記事によると思われます。

 「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)

 筑前黒田藩の儒者である貝原益軒が、これら儒教の古典を知らなかったとは万に一つも考えられません。『養生訓』の記事から判断すると、益軒は「周代」史料に見える「百歳」などの超長寿記事が二倍年暦とは考えもつかなかったようで、そのため「世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し」と記したのでしょう。
 先に紹介した『黄帝内経素問』の「年半百(五十歳)」という表現と同様に、ここでも「周代」史料の「百歳」記事に対してちょうど半分の「五十以下短命なる人多し」としており、江戸時代の日本人の一般的な寿命が50歳以下と認識されていたことがわかります。これら『黄帝内経素問』『養生訓』の記事によれば、中国の周代から日本の江戸時代に至るまで、人間の一般的な寿命が50歳と認識されており、現代日本という人類史上初の長寿社会に生きているわたしたちは、この寿命の推移に留意する必要があります。現代の寿命認識で古典の年齢記事を理解することは危険です。(つづく)


第1660話 2018/04/29

『論語』二倍年暦説の史料根拠(4)

 「周代」史料に散見する「百歳」記事により、周代では二倍年暦での百歳を人間の一般的な寿命と認識されていたと考えられますが、この「百歳」という表記は一倍年暦の時代になっても、一倍年暦の「五十歳」に換算されることなく、そのまま「一人歩き」した痕跡が後代史料などに少なからず残っています。たとえば、唐代の白楽天の詩にも次のような「百歳」が見えます。

 「人生百歳 通計するに三万日 何ぞいわんや百歳の人 人間(じんかん)百に一もなし」(対酒)

 二倍年暦の認識がない唐代において「人生百歳」という表現がそのまま残っているのですが、「そんな長寿の人は一人もいない」という詩です。同じ唐代の大詩人李白も「百歳(年)」という周代成立の表記を使用した次の詩を作っています。

 「百年三万六千日 一日すべからく三百杯を仰ぐべし」(襄陽歌)

 「白髪三千丈」と歌った李白らしく、「百年」を生涯の意味で用いた詩です。
 他方、周代成立の「百歳」という超寿命に疑義を示した史料もあります。中国の古典医学書『黄帝内経素問』に見える、黄帝から天師岐伯への質問です。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)

 このように、二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と理解したため、「今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」と質問したわけです。ということは、この記事の成立時は既に一倍年暦の時代になっており、そのときの人の一般的寿命が百歳ではなく五十歳と認識されていたことがわかります。
 なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』「芸文志」に見えることから、前漢代に編纂されたようです。同書はその後散逸しており、唐代に編集された『素問』『霊柩』として伝えられています。
 このような暦法の変化による後世への影響発生に似た事例として、里単位の変遷があります。たとえば、周代の「短里(1里約76m)」により成立した「千里馬(1日千里〔約76km〕を駆ける名馬)」という用語が、「長里(1里約435m)」の時代でも名馬を意味する「慣用句」として使用されるのですが、長里ですと一日435kmを駆ける空想上のペガサスの話になってしまいます。
 人間の寿命を「百歳」とした周代の二倍年暦の実在を認めなければ、「千里馬」と同様に、古代における人間の寿命記事に対しても正しい理解が得られないのです。同時に、『素問』のこの記事は、周代の二倍年暦実在の証拠でもあるのです。(つづく)


第1659話 2018/04/28

『論語』二倍年暦説の史料根拠(3)

 わたしは「周代」史料の年齢記事は基本的に二倍年暦で表記されていると考えていますが、同時に後代の編纂時に一倍年暦に書き換えられる可能性もあることを指摘しました。たとえば『春秋左氏伝』などは一倍年暦で編年表記されていると関西例会で述べました。この点は谷本茂さんからも指摘された通りです。そこで、「周代」史料に一倍年暦と二倍年暦のものがあることについて、その史料状況が何を意味するのかについて説明します。
 おおよその目検討ですが、わたしは二倍年暦から一倍年暦への公権力による暦法変更は秦の始皇帝による度量衡の統一の頃に行われたのではないかと推定しています(今のところ史料根拠は見つけられていません)。そのため、「周代」の記録や伝承が一倍年暦の時代の漢代で編纂される際に、暦日記事が書き換えられる可能性があります。
 そうしたことから、漢代成立史料に「百歳」とかの二倍年暦による「長寿」記事が散見されるという史料状況が発生します。逆から言えば、周代における二倍年暦の存在がなければ、そのような史料状況は発生しません。すなわち、もし周代からずっと一倍年暦であれば、漢代に成立した「周代」史料に「百歳」などという長寿記事は空想の産物でもなければ出現できないのです。
 ところが「周代」史料に散見する「百歳」などの超長寿記事は通常の会話(説話)部分にも出現しており、当時の人々の普通の認識として語られています。たとえば、孔子の弟子の曾子の会話として次のような記事が『曾子』に見えます。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 この記事は「曾子曰く」で始まり、曾子が親孝行について述べたもので、その普通の会話中に「人の生るるや百歳の中」という普通の人を対象にした発言です。従って、当時の一般的な人間の二倍年暦による「百歳(一倍年暦の五十歳)」の人生中に「疾病あり、老幼あり。」と記していることからも、孔子の弟子の曾子は二倍年暦により寿命や年齢を認識していたと考えざるをえません。この史料事実から、曾子の師である孔子も二倍年暦により年齢を認識をしていたと考えるのが真っ当な文献理解のあり方なのです。(つづく)


第1658話 2018/04/24

『論語』二倍年暦説の史料根拠(2)

 わたしは、『論語』(孔子〔紀元前552〜479年〕)の時代の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その「周代」に位置する『論語』も二倍年暦と考えるべきとしたのですが、史料根拠は次のような「周代」史料でした。

■『管子』(春秋時代〔?〜紀元前645年〕、管仲の作とされる)
「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」(大匡編)

■『列子』(春秋戦国時代〔紀元前400年頃〕の人、列禦寇の書とされる)
「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(「天瑞第一」第七章)
「林類年且に百歳ならんとす。」(「天瑞第一」第八章)
「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(「周穆王第三」第一章)
「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(「周穆王第三」第八章)
「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(「湯問第五」第二章)
「百年にして死し、夭せず病まず。」(「湯問第五」第五章)
「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)

■『荘子』(紀元前369〜286年頃の人、荘周の書とされる)
 「今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、志気は盈(み)たんと欲す。人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。病瘻*(びょうゆ)・死喪(しそう)・憂患(ゆうかん)を除けば、其の中、口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。時あるの具(ぐ)を操(と)りて、無窮の間(かん)に託す、忽然(こつぜん)たること騏驥(きき)の馳(は)せて隙(げき)を過ぐるに異なるなきなり。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)
 ※病瘻*(びょうゆ)の 瘻*は、強いて言えば、やまいだれ編に由の下に八。(表示できない。)

■『荀子』(周代末期の人、荀況〔紀元前313?〜238年〕の思想を伝えたもの)
 「八十の者あれば一子事とせず。九十の者あれば家を挙(こぞ)って事とせず。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】八十の老人がいる家ではその子供一人は力役につかなくてよい。九十の老人がいれば家中みな力役につかなくてよい。
 「古者、匹夫は五十にして士(つか)う。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠して治を聴く其の教至ればなり。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】むかし、一般の人民は五十歳になってから仕官したが、天子や諸侯の子は十九歳になると〔一人前の男子として元服して〕冠をつけ、冠をつけると政治をとったが、それはその教養が十分に身についていたからである。

■『礼記』(周代から漢代の儒教関係の書を編集したもの。前漢代の成立か。)
 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(曲礼上篇)

■『曾子』
 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(曾子立事)
 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(曾子疾病)
 ※各著者生没年はウィキペディアを参照したが、諸説あり、大まかな先後関係の理解のために記した。周代の二倍年暦採用が正しければ、これら年代の西暦との対応も見直さなければならない。

 以上の用例が示すように、『管子』をはじめ『荀子』『礼記』に至るまで、「周代」史料の「年齢記事」が基本的に二倍年暦で著されていることは、まず動かないとわたしは判断しました。したがって、“『論語』だけは一倍年暦で記述されていた”と理解する方が不自然であり、どうしても「不自然だが一倍年暦の可能性が高い」と主張したいのであれば、そう主張する側に論証責任が発生します。
 関西例会でも繰り返し説明したことですが、わたしは『論語』の年齢記事は二倍年暦とした方がよりリーズナブルであると考えていますが、『論語』の年齢記事だけから『論語』二倍年暦説を唱えたわけではありませんので、この点は誤解の無いようにお願いします。
 なお、ここで紹介した「周代」史料とは、必ずしも周代で成立したというわけではなく、周代の説話や史料に基づいて、後の漢代に成立した史料を含みますが、具体的な年齢記事は周代の記録をそのまま採用したと考えています。なぜなら、成立時代(一倍年暦の時代)の寿命の二倍の年齢にわざわざ換算し、当時としては不自然な長寿年齢(百歳など)に書き換える必要や必然性はないからです。逆に、その当時の一倍年暦の認識により、「百歳」とあった「周代」史料の年齢記事を不審として、「五十歳」と一倍年暦に換算することはあり得ます。その場合は、「周代」史料でありながら、年齢記事は換算修正された一倍年暦表記となります。(つづく)


第1657話 2018/04/23

『論語』二倍年暦説の史料根拠(1)

 先日開催された「古田史学の会」関西例会で、わたしから「『論語』二倍年暦説の論理構造」を発表したのですが、批判意見が出され激しい論争となりました。そのときの主な批判意見の一つとして、『論語』そのものからは二倍年暦との論証は成立しておらず、『論語』の時代の前後の「周代」史料(『管子』『列子』)に二倍年暦が採用されていても、『論語』が二倍年暦で記されているとは限らないというものでした。
 わたしの理解では、『論語』の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その間に位置する『論語』も二倍年暦と考えるのが「周代」史料に対する基本的理解であり、『論語』だけは一倍年暦のはずとする側に論証責任が発生すると考えています。しかし、関西例会での論争(わたしからの説明)では納得していただけなかったため、それではどのような史料や論理性を提示すれば説得できるだろうかと、帰りの京阪電車の車中で思案しました。
 関西例会では激しい論争がよく勃発するのですが、大半はわたしが論争の当事者です。論争の結果、わたしが間違っていると気づけば自説を撤回し、どちらが正しいか判断がつかない場合はペンディングして、勉強を続けます。また、自分が正しいと思うが、相手を納得させることができなかった場合は、一人で「反省会」を行い、どうすれば納得させることができるのか、自分の説明のどこが不十分・不適切であったのかを考えるようにしています。
 学問研究とはこのようにして深化発展するものと確信していますし、異なる意見が出され、論争や検証が行われることこそが大切と思っています。誰からも疑問や反対意見が出なければ、その学問・学説はその時点で発展が止まります。ですから、批判や異なる意見が出され、頻繁に論争が勃発する関西例会とその参加者をわたしは誇りに思っています。(つづく)


第1601話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(8)

 中村さんが「孔子の二倍年暦についての小異見」において、50歳を越える古代人が20%以上いたとされた考古学的根拠は次の二つの文献でした。その要旨を同稿の「注」に中村さんが引用されていますので、転載します。

【以下、転載】
注1 日本人と弥生人 人類学ミュージアム館長 松下孝幸 一九九四・二 祥伝社
p一六九〜p一七二 死亡時年齢の推定 要旨
【骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい。基本的には、壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度だと思った方がよい。ただし、十五歳くらいまでは一歳単位で推定することも可能。子供の年齢判定でもっとも有効な武器は歯である。一般的に大人の年齢判定でもっとも頼りにされているのは頭蓋である。頭蓋には縫合という部分がある。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いによって先ほど上げた三つのグループに分類するのである。これは単に壮・熟・老というだけではなく、「熟年に近い壮年」、「老年に近い熟年」といったレベルまでは推定することができる。

注2 日本人の起源 古代人骨からルーツを探る 中橋孝博 講談社 選書メチエ 二〇〇五・一
 中橋氏はこの本の中で、「弥生人の寿命」という項で大約次のように言います。
 『人の寿命の長短は子供の死亡率に左右される。古代人の子供の死亡状況を再現することは特に難しい作業である。寿命の算出には生命表という、各年齢層の死亡者数をもとにした手法が一般的に用いられるが、骨質の薄い幼小児骨の殆どは地中で消えてしまうために、その正確な死亡者数が掴めない。中略 甕棺には小児用の甕棺が用いられ、中に骨が残っていなくても子供の死亡者数だけは割り出せる。図はこのような検討を経て算出した弥生人の平均寿命である。もっとも危険な乳幼児期を乗り越えれば十五歳時の平均余命も三十年はありそうである。』
【転載終わり】

 そして、中村さんは根拠とされたグラフに次のような説明を付されています。
 「この生存者の年齢推移図からは、弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています。」

 わたしはこの「注」の解説を読み、中村稿に掲載された「生存者の年齢推移図」グラフを仮説の根拠に用いるのは危険と感じました。わたしの本職は有機合成化学ですが、研究開発などでデータ処理と解析を行う際、データが示す数値からの実証的な判断だけではなく、そのデータは何を意味するのかということを論理的に深く考える訓練を受けてきました。その経験から、同グラフに対して違和感を覚えたのです。理由を説明します。

①松下氏は「骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい」とされる。この点はわたしも同意見。
②そして、「壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度」とされる。
③弥生の出土人骨の年齢を三段階に大まかに分けるという手法も理解できる。
④しかし、その三段階の年齢は何を根拠に(二〇〜四〇)(四〇〜六〇)(六〇〜 )と設定されたのかが不明。
⑤出土人骨の相対的な年齢比較はある程度可能と思われるが、その人骨が何歳に相当するのかの測定が困難であることは、①の記事からもうかがえる。寡聞にして、出土人骨の年齢を的確に測定できる技術の存在をわたしは知らない。
⑥従って、弥生時代の壮年・熟年・老年の年齢設定が現代とは異なり、仮に(十五〜三〇)(三〇〜四〇)(四〇〜)だとしたら、この三段階にそれぞれの人骨サンプルを相対年齢判断によって配分すれば、その結果できるグラフは全く異なったものになる。
⑦他方、弥生時代の倭人の寿命を記す一次史料として『三国志』倭人伝がある。それには「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(二倍年暦)とある。これは倭国に長期滞在した同時代の中国人による調査記録であり、最も信頼性が高い。これによれば、倭人の一般的寿命は一倍年暦に換算すると40〜50歳である。
⑧また、周代の中国人の寿命を記す史料として、たとえば『列子』の次の記事がある。
 「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
 百年(一倍年暦の50歳)に達する者は千人に一人もいないとの当時の人間の寿命について述べた記事である。
⑨これら文字記録による一次史料と考古学による推定年齢が異なっていれば、まず疑うべきは考古学「編年(齢)」の方である。
⑩中村さんが依拠したグラフでは、50歳が約20%、60歳が約10%、70歳超で0に近づく。もしこれが実態であれば、倭人伝の記述は「その人寿考、あるいは百二十年、あるいは九十、百年」(二倍年暦)とあってほしいところだが、そうはなっていない。
⑪また、50歳と60歳の区別がつくほどの人骨年齢測定精度があるのか不審とせざるを得ない。

 以上のように考えています。しかしながら、わたしは人骨年齢測定の専門家でもありませんので、専門家の意見を直接聞いてみたいと願っています。こうした理由により、このグラフを仮説(一倍年暦)の根拠にすることや、それに基づく中村さんのご意見にも賛成できないのです。さらに指摘すれば、『論語』の時代(周代)の中国人の寿命を論じる際に、地域も時代も異なる弥生時代の倭人の人骨推定年齢データを判断材料に用いる方法論にも問題なしとは言えません。
 以上、多岐にわたり論じましたが、拙論を批判していただいた中村さんに感謝申し上げ、最初のご指摘から9年も経っての応答となったことをお詫びします。(おわり)


第1600話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(7)

 本シリーズも佳境に入ってきました。残された中村さんからの最大のご批判ご指摘にお答えします。これまでは文献史学の範囲内での応答でしたが、今回は考古学と文献史学の双方に関わる問題です。
 中村さんからの最大の指摘は、『論語』の時代の人間の寿命は50歳が限界ではなく、考古学的知見によれば日本列島の弥生人の寿命は「弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています」(中村通敏「孔子の二倍年暦についての小異見」『古田史学会報』92号。2009年6月)という点でした。もちろん、50歳を越える古代人がいたことはあり得るとわたしも考えていますし、「仏陀の二倍年暦」でもそのことを示す記事を紹介してきました。たとえば次の記事などです。

○「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧にして多智なり。」(『長阿含経』巻第四、第一分、遊行経第二)
○「昔、此の斯波醯の村に一の梵志有りき。耆旧・長宿にして年は百二十なり。」(『長阿含経』巻第七、第二分、弊宿経第三)
○(師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、一九九九年版。)

 わたしと中村さんのご意見との最大の相違点は、この二倍年暦で100歳(一倍年暦の50歳)を越える古代人の存在を希(まれ)と考えるのか、20%はいたとするのかにあるようです。もちろん、わたしには50歳を越える長寿古代人がどのくらいの比率で存在したのかはわかりませんが、中村さんが依拠したデータや研究に疑問を抱いていましたので、数年前にお会いしたときに「グラフというものは必ずしも実態に合っているとも言えない」と中村さんにお答えしたものです。(つづく)


第1599話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(6)

 ここまで『論語』二倍年暦説における史料根拠とそれに基づく論証方法などの論理展開について解説してきました。次に中村通敏さんの論稿「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない-『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」(『東京古田会ニュース』No.178)での、『論語』二倍年暦説へのご批判に対してお答えすることにします。
 今回の中村稿でわたしが最も注目したのは、『論語』の「託孤寄命章」と称される次の記事を一倍年暦の根拠とされたことです。わたしはこれまで『論語』を10回近くは読みましたが、同記事が二倍年暦や一倍年暦に関係するものとは全く捉えていなかっただけに、中村さんのご指摘を興味深く拝読しました。

 「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命。臨大節而不可奪也。君子人與、君子人也」(『論語』泰伯第八)
 【訳文】曾子曰く、「以て六尺(りくせき)の孤を託す可く、以て百里の命を寄す可し。大節に臨みて奪ふ可からざるなり。君子人か、君子人なり」と。
 【大意】曾子曰く、「小さなみなしごの幼君を(あんしんして)あずけることができ、一国の運命をまかせ(ても、りっぱに政治を処理す)ることができる。国家の大事に当たっても、(その人の節操を)奪うことはできない。(そういう人物は)君子人であろうか、(そういう人こそ、ほんとうの)君子人である」と。

 この一節を中村さんは一倍年暦の根拠とされました。その論旨は次の通りです。

①『新釈漢文大系1論語』(吉田賢抗著。明治書院)の語句説明に【「六尺」は十五、六歳以下のことで、身長で年齢を示した。周制の一尺は七寸二分(二十一センチ半)ぐらいだから、六尺は四尺二寸強(一メートル三十センチ弱)である。又年齢の二歳半を一尺という。】とある。
②『学研漢和大字典』(藤堂明保)には【六尺(ロクセキ):年齢が十四、五歳の者。戦国・秦・漢の一尺は二十三センチで、二歳半にあてる。六尺之孤(ロクセキノコ):十四、五歳で父に死別したみなしご】とある。
③六尺の子供(十四歳)の背丈は、日本人のデータでは一六二・八センチとされる(文科省の2015年度のデータ)。
④これを『論語』の世界は「二倍年暦」であったとすると、約七歳でありながら身長は一六〇センチ強であったということになり、これは常識外れの値である。
⑤結論として、『論語』の世界では「一倍年暦」で叙述されている。

 以上のような論理展開により、『論語』は一倍年暦で記されているとされました。しかしながら、この中村さんの説明は、失礼ですが学問的論証の体をなしていません。その理由は次の通りです。

(a)「六尺」を①「十五、六歳以下」、②「十四、五歳の者」とするのは、後代の学者の解釈です。『論語』そのものには、身長「六尺」の子供の年齢について何も記されていません。
(b)もし周代において、身長「六尺」という表記が「14歳」という年齢表記の代用だとされるのなら、『論語』か周代の史料にそうした用例があることを提示する必要があります。この学問的証明がなされていません。
(c)現代日本人の14歳の子供の身長(160cm)を、周代の身長「六尺」の子供の年齢を14歳とする根拠とはできず、その証明にも無関係な数値です。
(d)『論語』の当該記事は、身長「六尺」の「孤」(孤児)を託せる「君子」について述べたもので、その記述からは、『論語』が「一倍年暦」か「二倍年暦」かの判断はできません。

 なお、「中国古代度量衡史の概説」(丘 光明、楊 平。『計量史研究』18、1996年)によれば、殷の墓から出土した牙尺は1尺約16cm。戦国時代から漢代の出土尺は1尺約23cmとあります。殷代と漢代の間にある周代(春秋時代)は、『説文解字』「夫部」の記事「周制以八寸為尺」を信用すれば、漢代の1尺の0.8倍ですから約18.4cmとなり、時代と共に長くなる1尺の数値としては穏当です。そうすると『論語』の「六尺」は18.4×6=約110cmとなります。
 すなわち、当該記事は「六尺(身長約110cm)」と表記することにより、その孤児が幼い子供であることを示しているに過ぎず、そうした孤児を託せる人物こそ君子であると主張している記事なのです。この記事自体は、一倍年暦とも二倍年暦とも論証上は無関係です。(つづく)


第1598話 2018/02/03

『論語』二倍年暦説の論理構造(5)

 ここまで説明しましたように、周代では二倍年暦が採用されていたと考えざるを得ないのですが、周王朝の歴代天子の在位年数にもその痕跡がうかがわれ、「たまたま超長生きで在位年の長い天子が何人もいた」とは考えにくい状況です。特に『穆天子伝』で有名な穆王は百歳を生きたと伝えられており、これは二倍年暦によると考えざるを得ません。たとえ一人でも二倍年暦と理解せざるを得ない王がいる以上、その王朝では二倍年暦が採用されていたとするのが、史料理解の基本ですが、これだけ在位年数の長い王がいる以上、この史料状況を「誤記誤伝があったのでは」や「学者によって異論が存在する」という解釈の類で否定するのは、学問の方法として不適切です。

○成王(前一一一五〜一〇七九)在位三七年
○昭王(前一〇五二〜一〇〇二)在位五一年
○穆王(前一〇〇一〜九四七)在位五五年
○厂萬*王(前八七八〜八二八)在位五一年
○宣王(前八二七〜七八二)在位四六年
○平王(前七七〇〜七二〇)在位五一年
○敬王(前五一九〜四七六)在位四四年
○顯王(前三六八〜三二一)在位四八年
○赧王(前三一四〜二五六)在位五九年
 ※『東方年表』平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編による。「厂萬*」は「厂」の中に「萬」。

 以上、わたしは古代中国において二倍年暦を採用した王朝(当研究では周代)が存在していたこと確信するに至りました。そして二倍年暦の研究は更に進展し、西洋の古典にも及び、次の論稿を発表しました。いずれも「古田史学の会」ホームページに収録されていますので、ご参照ください。(つづく)

「ソクラテスの二倍年暦」(『古田史学会報』54号。2003年2月)
 古代ギリシア哲学者の死亡年齢
 プラトン『国家』の二倍年暦
 アリストテレス『弁術論』の二倍年暦
 『オデュッセイア』の二倍年暦
 ヘロドトス『歴史』の一倍年暦
 ソクラテスの二倍年齢
「荘子の二倍年暦」(『古田史学会報』58号。2003年10月)
「『曾子』『荀子』の二倍年暦」(『古田史学会報』59号。2003年12月)
「アイヌの二倍年暦」(『古田史学会報』60号。2004年2月)


第1597話 2018/02/03

『論語』二倍年暦説の論理構造(4)

 『論語』には他にも二倍年暦と思われる記事があります。一例だけ紹介しましょう。それは孔子の愛弟子で若くして没した顔淵についての孔子の述懐です。孔子が「後生畏るべし」と評した最愛の弟子、顔淵(名は回、字は子淵)が亡くなったとき、孔子は「天はわたしを滅ぼした」と嘆き、激しく慟哭したと『論語』には記されています。
 「顔淵死す。子曰く、噫、天予を喪ぼせり、天予を喪ぼせりと。」(『論語』先進第十一)
 「顔淵死す。子、之を哭して慟す。従者曰く、子慟せりと。曰く、慟する有るか。夫の人の爲に慟するに非ずして、誰が爲にかせんと。」(同前)
 哭とは死者を愛惜して大声で泣くこと。慟とは哭より一層悲しみ嘆く状態といわれています。孔子を慟哭させた顔淵は、『論語』によれば短命であったとされています。
 「哀公問ふ、弟子孰(だれ)か學を好むと爲すかと。孔子對へて曰く、顔回なる者有り。學を好む。怒を遷さず、過を貳(ふたたび)せず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ學を好む者を聞かざるなりと。」(『論語』雍也第六)
 『論語』には顔淵も孔子も、その没年齢は記されていませんが、孔子七二歳の時、顔淵は四二歳で没したとする説が有力なようです(孔子の没年齢は七四歳とされる)。もし、この年齢が正しいとすれば、それはやはり二倍年暦と見なさなければなりません。何故なら、顔淵の没年齢が一倍年暦の四二歳であれば、それは当時の平均的な寿命であり、ことさら「不幸短命」とは言い難いからです。従って、従来説を一倍年暦に換算すれば顔淵は二一歳で没し、その時孔子は三六歳ということになります。これであれば「不幸短命」と孔子が述べた通りです。『論語』は二倍年暦で読まなければ、こうした説話の一つひとつさえもが正確に理解できないのです。(つづく)


第1596話 2018/02/03

『論語』二倍年暦説の論理構造(3)

 「仏陀の二倍年暦」を発表した後、中国古典の二倍年暦調査に入りました。既に古代中国の伝説の聖帝、堯・舜・禹の長寿記事が二倍年暦とする古田先生の指摘がありましたので、わたしは主に周代史料を集中して調査しました。そうして発表したのが「孔子の二倍年暦」(『古田史学会報』53号。2002年12月)です。その中に次の調査報告を収録しました。
 『管子』の二倍年暦、『列子』の二倍年暦、『論語』の二倍年暦、『礼記』の二倍年暦、顔淵(回)の没年齢、周王朝の二倍年暦。
 論証の詳細は「古田史学の会」ホームページに掲載されている拙稿をお読みいただくことにして、拙論の論理展開は次のように進みました。

①春秋時代の管仲の作とされる『管子』は、その長寿記事から二倍年暦で記されていると判断できる。
(例)
「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」(大匡編)

②『列子』も同様に二倍年暦を採用していると判断できる。
(例)
「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(「天瑞第一」第七章)
「林類年且に百歳ならんとす。」(「天瑞第一」第八章)
「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(「周穆王第三」第一章)
「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(「周穆王第三」第八章)
「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(「湯問第五」第二章)
「百年にして死し、夭せず病まず。」(「湯問第五」第五章)
「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
「然り而して萬物は齊しく生じて齊しく死し、齊しく賢にして齊しく愚、齊しく貴くして齊しく賤し。十年も亦死し、百年も亦死す。仁聖も亦死し、凶愚も亦死す。」(「楊朱第七」第三章)
「百年も猶ほ其の多きを厭ふ。況んや久しく生くることの苦しきをや、と。」(「楊朱第七」第十章)

③これらの結果、時代的に『管子』と『列子』の間に位置する『論語』も二倍年暦が採用されていると推察される。
④そうした視点で『論語』を精査したところ、二倍年暦と判断せざるを得ない記事があり、『論語』も二倍年暦で記されていると考えられる。
(例)
「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞ゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(子罕第九)

⑤一旦そうした視点で『論語』の「年齢」記事を読んだとき、従来の一倍年暦による理解よりもリーズナブルな孔子理解が可能となる。
(例)
「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」(爲政第二)

 以上のように論理は展開しました。そして④で紹介した「後生畏る可し」では、『論語』は二倍年暦が採用されているとする論証が成立しました。たとえば、孔子の時代(紀元前六〜五世紀)より七百年も後の『三国志』の時代、そこに記されている者の平均没年齢は約五十歳であり、多くは三十代四十代で亡くなっています。従って、孔子の時代の四十歳五十歳(二倍年暦での八十歳百歳)という年齢は、『列子』にもあるように当時の人間の寿命の限界(百年は壽の大齊)と考えられており、一倍年暦での四十歳五十歳で有名になっていなければ畏るるに足らないと言うのではナンセンスです。従って、この表記は二倍年暦によるものと考えざるを得ず、一倍年暦の二十歳二十五歳と理解するほかありません。
 また⑤で紹介した孔子が述べた自らの生涯と類似する表現が『礼記』に見えます。
 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す(元服)。三十を壮といい、室有り(妻帯する)。四十を強といい、仕う。五十を艾(白髪になってくる)といい、官政に服す(重職に就く)。六十を耆(長年)といい、指使す(さしずして人にやらせる)。七十を老といい、伝う(子に地位を譲る)。八十・九十を耄(老衰)という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)
 『礼記』のこの記事は、人(役人か)の生涯の一般論を述べたもので、たまたま超長生きした人の具体例ではありません。この「人の生涯の一般論」か「たまたま超長生きした人の具体例」なのかは、史料に見える長寿年齢表記が二倍年暦の根拠として使用できるか否かの学問の方法論上の重要な視点です。「たまたま超長生きした人の例ではないのか」という批判に対抗するために、わたしが二倍年暦での表記であると論証する際に強く意識した問題です。
 『礼記』の次の記事も同様で、元気な老夫婦の特殊例ではなく、一般的な夫婦の関係を述べている記事であることから、これも周代における二倍年暦表記と見なしうると判断したものです。
 「夫婦の礼は、ただ七十に及べば同じく蔵じて間なし。故に妾は老ゆといえども、年いまだ五十に満たざれば必ず五日の御に与る。(夫婦の間柄は、七十歳になると男女とも閉蔵して通じなくなる。だから〔妻は高齢になっても〕妾はまだ五十前ならば、五日ごとの御〔相手〕に入るべきである)」(『礼記』内則篇)
 この古代の記事を、医療も生活環境も人類史上最高レベルの現代日本の高齢化社会での認識で理解するべきでないことは言うまでもありません。(つづく)

新・古典批判 二倍年暦の世界 古賀達也(『新・古代学』古第7集)

孔子の二倍年歴についての小異見 棟上寅七(古田史学会報92号)


第1595話 2018/02/02

『論語』二倍年暦説の論理構造(2)

 わたしが二倍年暦の研究に本格的に取り組んだのは2000年頃からでした。そのきっかけは、仏典中の里単位の変遷の調査をしていたときに読んだ鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』に、二倍年暦でなければあり得ないような記事(「信解品第四」の長者窮子の比喩)に気づいたことでした。更に原始仏教経典(『長阿含経』など)やパーリ語で伝わった仏典中に二倍年暦と考えざるを得ない長寿年齢(百歳、百二十歳など)や説話が少なからず存在していることも確認しました。
 また、仏陀の没年(実年代)について、北伝(インド・中国)仏教と南伝(セイロン)仏教では年代差があることから、この現象も一倍年暦で伝えられた北伝(前383年没)と二倍年暦を逆算してより古く伝えられた南伝仏教(前483年没)との差に基づくとすることで説明できることも判明しました。これらの発見を「仏陀の二倍年暦」(『古田史学会報』51号・52号、2002年8月・10月)で発表しました。
 学問の論証方法に関することですが、ある史料に長寿年齢、たとえば70歳とか80歳の記述があった場合、それを根拠に二倍年暦の証拠とするには論証上安定感に欠けます。というのも、古代においてもたまたま超長生きした人がいた可能性もある、という批判に応えにくいからです。これが100歳や120歳であれば、いくらなんでも古代でそれほど長生きできるはずがないという一般的常識論が有効となり、120歳とあるが半分の60歳とする方がよいという理解が有力となります。これは「仏陀の二倍年暦」で紹介したように、仏典に見える長寿記事を根拠としての実証が成立するからです。
 他方、仏陀没年において大きく異なる二説が発生した理由として、二倍年暦と一倍年暦のそれぞれの計算方法から発生したとする説明が、誤記誤伝とするよりも合理的であるという論理的証明(論証)も成立しました。こちらは論理性の問題ですから、「たまたま長生きの人がいた」という類の批判を排除できます。
 このように、わたしの古典における二倍年暦の当否の研究は、論証をより重視するという学問の方法を意識して行ったものです。論文発表後に、「古代でも長生きの人がいた可能性を否定できない」という批判が度々なされたのですが、それらはわたしが強烈に意識した学問の方法への無理解による批判と言わざるを得ませんでした。(つづく)