二倍年暦一覧

第2197話 2020/08/07

「大宝二年籍」断簡の史料批判(21)

 「大宝二年籍」の一つ、「御野国加毛郡半布里戸籍」に掲載された人々、あるいはその中の特定の家族は七世紀後半に至っても二倍年暦に基づく二倍年齢で自らの年齢を数えており、その年齢が「庚午年籍」に記録され、「大宝二年籍」にまで引き継がれたという作業仮説(思いつき)に基づき、同戸籍中の「寄人縣主族都野」家族中の三人の年齢を補正したところ、リーズナブルな年齢構成になりました。この新たな作業仮説の当否を検証するために、本シリーズ(19)で取り上げた四つの「戸」の人々の年齢を補正してみました。次の通りです。
 補正式:(「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢

○「中政戸務從七位下縣主族都野」戸
 「下〃戸主都野」(59歳→45.5歳)
 「戸主妻阿刀部井手賣」(52歳→42歳)
   ―「嫡子麻呂」(18歳)※33歳以下で補正対象外。41→27.5歳差。
   ―「次古麻呂」(16歳)※33歳以下で補正対象外。43→29.5歳差。
   ―「次百嶋」(1歳)※33歳以下で補正対象外。58→44.5歳差。
   ―「児刀自賣」(29歳)※33歳以下で補正対象外。30→16.5歳差。
     ―「刀自賣児敢臣族岸臣眞嶋賣」(10歳)※33歳以下で補正対象外。
     ―「次爾波賣」(5歳)※33歳以下で補正対象外。
   ―「次大墨賣」(18歳)※33歳以下で補正対象外。41→27.5歳差。
 「妾秦人意比止賣」(47歳→39.5歳)
   ―「児古賣」(12歳)※47→33.5歳差。
 「戸主姑麻部細目賣」(82歳→57歳)

   「戸主甥嶋薬」(33歳)※33歳以下で補正対象外。
     ―「嫡子安麻呂」(5歳)※33歳以下で補正対象外。嶋薬と28歳差。
     ―「次吉麻呂」(1歳)※33歳以下で補正対象外。嶋薬と32歳差。

○「中政戸守部加佐布」戸
 「下〃戸主加佐布」(63歳→47.5歳)
 「戸主妻物マ志祢賣」(47歳→39.5歳)
  ―「嫡子小玉」(19歳)※33歳以下で補正対象外。44→28.5歳差。
  ―「次身津」(16歳)※33歳以下で補正対象外。47→31.5歳差。
  ―「次小身」(10歳)※33歳以下で補正対象外。53→37.5歳差。

 「戸主弟阿手」(47歳→39.5歳)
 「阿手妻工マ嶋賣」(42歳→37歳)
  ―「児玉賣」(20歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と27→19.5歳差。
  ―「次小玉賣」(18歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と29→21.5歳差。
  ―「次大津賣」(15歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と32→24.5歳差。
  ―「次小古賣」(8歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と39→31.5歳差。
  ―「次依賣」(2歳)※33歳以下で補正対象外。阿手と45→37.5歳差。

 「戸主弟古閇」(42歳→37歳)
  ―「古閇児廣津賣」(3歳)※33歳以下で補正対象外。古閇と39→34歳差。

○「中政戸秦人山」戸
 「下〃戸主山」(73歳→52.5歳)
 「戸主妻秦人和良比賣」(47歳→39.5歳)
  ―「嫡子古麻呂」(14歳)※33歳以下で補正対象外。59→38.5歳差。
  ―「次加麻呂」(11歳)※33歳以下で補の対象外。62→41.5歳差。
 「妾秦人小賣」(27歳)※33歳以下で補正対象外。
  ―「児手小賣」(2歳)※33歳以下で補正対象外。71→50.5歳差。

 「戸主弟林」(59歳→45.5歳)
 「林妻秦人小賣」(42歳→37歳)
  ―「嫡子依手」(30歳)※33歳以下で補正対象外。林と29→15.5歳差。
  ―「依手子古麻呂」(8歳)※33歳以下で補正対象外。
―「次結」(24歳)※33歳以下で補正対象外。林と35→21.5歳差。
―「次伊都毛」(16歳)※33歳以下で補正対象外。林と43→29.5歳差。
―「次稲久利」(13歳)※33歳以下で補正対象外。林と46→32.5歳差。
―「次奴加手」(7歳)※33歳以下で補正対象外。林と52→38.5歳差。
○「中政戸秦人阿波」戸
 「下〃戸主阿波」(69歳→50.5歳)
  ―「嫡子乎知」(13歳)※33歳以下で補正対象外。56→37.5歳差。
  ―「次布奈麻呂」(11歳)※33歳以下で補正対象外。58→39.5歳差。
  ―「次小布奈」(8歳)※33歳以下で補正対象外。61→42.5歳差。
  ―「次根麻呂」(2歳)※33歳以下で補正対象外。67→48.5歳差。
―「戸主の児志祁賣」(33歳)※33歳以下で補正対象外。36→17.5歳差。

 「戸主甥小人」(57歳→44.5歳)
  ―「嫡子知加良」(30歳)※33歳以下で補正対象外。小人と27→14.5歳差。
  ―「次麻呂」(17歳)※33歳以下で補正対象外。小人と40→27.5歳差。

 「戸主甥志比」(49歳→40.5歳)
 「志比妻不破勝族阿波比賣」(22歳)※33歳以下で補正対象外。
  ―「嫡子牛麻呂」(22歳、兵士)※33歳以下で補正対象外。志比と27→18.5歳差。
  ―「次比津自」(19歳)※33歳以下で補正対象外。志比と30→21.5歳差。
  ―「次赤麻呂」(13歳)※33歳以下で補正対象外。志比と36→27.5歳差。
  ―「次赤安」(8歳)※33歳以下で補正対象外。志比と41→32.5歳差。
  ―「次吉嶋」(4歳)※33歳以下で補正対象外。志比と45→36.5歳差。
  ―「次荒玉」(3歳)※33歳以下で補正対象外。志比と46→37.5歳差。
  ―「児小依賣」(8歳)※33歳以下で補正対象外。志比と41→32.5歳差。
  ―「次忍比賣」(3歳)※33歳以下で補正対象外。志比と46→37.5歳差。

 以上の補正結果を概観しますと、「戸主」あるいは戸主以外の父親とその「嫡子」との年齢差が10歳代中頃から30歳代に収まっており、補正前の年齢差と比べるとかなりリーズナブルになっています。更に、高齢者の年齢も補正の結果、他の八世紀前半の古代戸籍と似たような状況に近づいており、わたしが疑問視していた二つの問題、①当時としてはかなり珍しい高齢者群、②戸主と嫡子の大きな年齢差、を解決しています。従って、わたしの作業仮説(思いつき)は有効であり、検討すべき学問的仮説と見なしてもよいのではないでしょうか。(つづく)


第2196話 2020/08/06

「大宝二年籍」断簡の史料批判(20)

 「御野国加毛郡半布里戸籍」の二つの疑問点、①当時としてはかなり珍しい高齢者群、②戸主と嫡子の大きな年齢差、という史料事実を合理的に解釈するためには〝七世紀における二倍年暦(二倍年齢)の採用〟という仮説を導入する他ないと、わたしは古代戸籍研究を始めた25年前から考えていました。しかし、戸籍年齢を単純に半分にするという方法では、母親や若年者の年齢が若くなり過ぎることによる年齢の齟齬という新たな問題が発生するケースもあり、その仮説と方法を採用することができませんでした。
 また、本シリーズの(18)で紹介した「寄人縣主族都野」家族の下記の年齢も、半分にすると母46.5歳、子22歳、孫1.5歳とリーズナブルになるのですが、「都野」家族全員が「大宝二年籍」造籍時まで二倍年齢で年齢計算し、「庚寅年籍」(690年)や「持統十年籍」(696年)に登録されることもなく、大宝二年になって初めて二倍年齢で戸籍登録したとは考えにくいのです。中でも「都野」は「兵士」であり、徴用時に年齢は登録されていたはずで、その後も二倍年齢で戸籍年齢を更新できたとは考えられません。

〈「寄人縣主族都野」家族中の三人の年齢〉
 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)

 そこで参考になったのが、「大宝二年籍」には「庚午年籍」(670年)造籍時に発生したと考えられる異常な年齢ピークが存在するという南部昇さんの下記の指摘でした。

 「とくに私は、岸氏の指摘した大ピーク・小ピークは庚寅年籍によって生み出されたものではなく、『自庚午年籍至大宝二年四比之籍』すなわち、庚午年籍・庚寅年籍・『持統九年籍』などによって重層的に生み出されたものと考えているので、この点、岸氏と大いに見解を異にしている。」(南部昇『日本古代戸籍の研究』361頁)※本シリーズ(11~15)を参照されたい。

 「大宝二年籍」の記載年齢に「庚午年籍」造籍時の影響が認められるということですから、もしかすると「御野国」では七世紀まで二倍年齢が採用されており、初めての全国的造籍とされる「庚午年籍」造籍時に、当時の二倍年齢で年齢申告し、その後の造籍ではその年齢に一倍年暦による年数が加算されたのではないでしょうか。もしそうであれば、「大宝二年籍」の年齢には次のような現象が発生します。

(1)「庚午年籍」造籍後は一倍年暦による年齢加算が造籍毎に行われるので、庚午年(670年)以後生まれの人は、それ以前の二倍年齢の影響を受けないので、「大宝二年籍」の年齢をそのまま採用できる。
(2)庚午年(670年)より前に生まれた人(34歳以上)は、それまでの二倍年齢とそれ以後に加算される一倍年齢の合計が「大宝二年籍」に記載される。

 従って、34歳以上の年齢は次の補正式により、大宝二年時点の一倍年暦による年齢を確定できることになります。

 (「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢

 この補正式を先の「都野」家族に適用すると次のようになります。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳→62.5歳)
 (子)「都野」(44歳→38歳)※母親の出産年齢は24.5歳となる。
 (孫)「川内」(3歳)※33歳以下なので補正の対象外。

 このように、「若帯部母里賣」の年齢は62.5歳となり、これは当時としては普通の老人年齢であり、「都野」出産年齢も24.5歳となり、補正前の49歳と比べるとかなりリーズナブルです。更に「都野」の年齢が38歳となることにより、嫡子「川内」との年齢差も35歳にまで縮まり、より穏当な年齢構成の家族になりました。(つづく)


第2194話 2020/08/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(18)

 わたしが25年ほど前から古代戸籍の研究を始めたとき、古代戸籍に当時としてかなり珍しい高齢者が少なからず存在することに驚きました。その後、本連載の(2)(3)で紹介した「偽籍」という概念を知り、一応の疑問は解決できたのですが、それでもなお違和感を持ち続けてきました。それは、「大宝二年籍」のなかでも御野国戸籍におけるもう一つの注目点、戸主と嫡子の年齢差が大きいという史料事実です。この傾向は、戸主が高齢である場合はより顕著に表れ、一つ目の注目点である高齢者が少なくないという御野国戸籍の特徴とも密接に関連していました。
 このことは古代戸籍研究に於いて、従来から指摘されてきたところでもあります。たとえば、南部昇さんの『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)には次のような指摘がなされています。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図(三三三頁)に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」(315頁)

 南部さんが非常に多いと指摘されたこの傾向は戸主以外にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人縣主族都野」家族の記載があります。

 「寄人縣主族都野」(44歳、兵士)
 「嫡子川内」(3歳)
 「都野甥守部稲麻呂」(5歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫縣主族部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。また、二代続けて年齢差が異常に離れているということも不可解です。当初、わたしは都野家族の年齢は二倍年暦による計算表記(二倍年齢)ではないかと考えたこともありました。二倍年齢なら、母46.5歳、子22歳、孫1.5歳となり、これであれば常識的な親子の年齢差となるからです。
 しかし、わたしはこの単純な二倍年齢による年齢表記とする理解を採用できませんでした。なぜなら、仮に都野が一倍年齢で22歳とすると、「大宝二年籍(702年)」以前の「庚寅年籍(690年)」や「持統十年籍(696年)」の造籍時に年齢が補足されており、一旦年齢が戸籍に登録されると、その後の造籍時に一倍年暦によりその間の年数が加算されますから、二倍年齢による更新登録は造籍手続き上不可能だからです。
 このような不可解な史料状況を合理的に説明できる仮説はあるでしょうか。それとも、たまたまこうした高齢者があり、たまたま超高齢出産により子との年齢差が大きく、たまたま子と孫の年齢差も大きかったという〝たまたま〟が〝偶然〟に三回重なったと理解するしかないのでしょうか。(つづく)


第2193話 2020/08/03

「大宝二年籍」断簡の史料批判(17)

 定年退職となり、ようやく古代戸籍について時間をとって研究できる環境になりましたので、「大宝二年籍」の史料批判を再開します。

 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。現存するのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけで、中でも御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されており、その戸籍年齢において注目すべき二つの史料事実があります。一つは当時としては考えにくいような高齢者が少なからず存在すること、もう一つは戸主とその嫡子の年齢差が大きい家族が多いことです。
 御野国戸籍には次の高齢者(70歳以上)が見えます。

〔味蜂間群春部里〕
「戸主姑和子賣」(70歳)

〔本簀群栗栖太里〕
「戸主姑身賣」(72歳)

〔肩縣群肩〃里〕
「寄人六人部身麻呂」(77歳)
「寄人十市部古賣」(70歳)
「寄人六人部羊」(77歳)
「奴伊福利」(77歳)

〔山方群三井田里〕
「下々戸主與呂」(72歳)

〔加毛群半布里〕
「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
「戸主兄安閇」(70歳)
「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
「都野母若帯部母里賣」(93歳)
「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
「戸主母秦人由良賣」(73歳)
「下々戸主身津」(71歳)
「下々戸主古都」(86歳)
「戸主兄多比」(73歳)
「下々戸主津彌」(85歳)
「下中戸主多麻」(80歳)
「下々戸主母呂」(73歳)
「寄人石部古理賣」(73歳)
「下々戸主山」(73歳)
「寄人秦人若賣」(70歳)
「下々戸主身津」(77歳)
「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)

 人類史上初の高齢化社会を迎えた現代日本であれば、上記の高齢者の存在は不思議ではありませんが、古代はおろか中近世でも珍しい高齢者群なのです。わたしはこれらの高齢者の年齢は二倍年暦による計算結果ではないかと疑いました。しかし、他の中年層や若年層の年齢は一倍年暦によると思われ、「大宝二年籍」全体は一倍年暦によると判断せざるを得ません。
 このような戸籍年齢という史料事実を従来の古代戸籍研究では無批判に採用してきたようです。しかし、古代における二倍年暦と二倍年齢の研究を続けてきたわたしの経験と直感は、「大宝二年籍」、なかでも同「御野国戸籍」の高齢層の存在という「史料事実」を「歴史事実」の実証として受け入れることは学問的に危険と感じました。(つづく)


第2154話 2020/05/16

八王子セミナー2020 発表タイトルと要旨

 本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)の発表タイトルと要旨を提出するようにと、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)から荻上実行委員長名による要請書が届きました。冨川さんには「古田史学の会」を代表して同セミナーの実行委員会に参加していただいています。
 本年のセミナーは、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念として開催されるので、同書で提唱された「二倍年暦」についての発表要請をいただきました。そこで、「洛中洛外日記」で連載中の最新テーマである古代戸籍への「二倍年暦」の影響と痕跡について発表することにしました。そのタイトルと要旨を紹介します。多くの皆様のご参加をお願いします。

【演題】
古代戸籍に見える二倍年暦の影響
―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―
【要旨】
 古田武彦氏は、倭人伝に見える倭人の長寿記事(八十~百歳)等を根拠に、二倍年暦の存在を提唱された。二倍年暦による年齢計算の影響が古代戸籍に及んでおり、それが庚午年籍(670年)に遡る可能性を論じる。


第2153話 2020/05/15

倭人伝「南至邪馬壹国女王之処都」の異論異説(4)

 『海東諸国紀』「日本国紀」の「道路里数」の里程表現が『三国志』倭人伝の行程記事に似ており、著者の申淑舟は倭人伝の表記を模倣したのではないかと、わたしは考えています。もちろん、〝偶然の一致〟あるいは行程を記載する場合の〝一般的な様式〟という可能性についても検討しましたが、やはり申淑舟は倭人伝を読んでおり、その影響を受けているという結論に至りました。
 『海東諸国紀』の冒頭には日本国や九州島、壱岐、対馬の地図が掲載されており、当時(15世紀)の朝鮮国が日本列島の位置や地形をどのように捉えていたのかがうかがえます。その中でわたしは、壱岐・対馬・九州島の形がほぼ四角に、または四角の枠内に描かれていることに注目しました。特に対馬に至っては強引に折り曲げて四角の枠内に描かれています。当初は本に掲載するために無理矢理に四角形のスペースに押し込めて描いたのかと思っていましたが、「道路里数」が倭人伝の里程記事を模倣していることに気づき、この強引で不格好な「四角形」の壱岐・対馬・九州の描き方は、倭人伝や『旧唐書』の次の表記の影響を受けたと考えるに至りました。

 「(対海国)方四百余里ばかり」「(一大国)方三百里ばかり」『三国志』倭人伝
 「四面に小島、五十余国あり」『旧唐書』倭国伝

 倭人伝では対海国(対馬)と一大国(壱岐)の大きさを「方」という面積表記方法、すなわち「四百余里」「三百里」の四角形に内接する面積表現(方法)が採用されており、申淑舟はこの「方」表記を意識して、『海東諸国紀』の「日本国一岐島の図」「日本国対馬島の図」として、四角の枠内に押し込めるように描いたのではないでしょうか。
 『旧唐書』では倭国を「四面」と表現しており、そのため「日本国西海道九州の図」には九州島がほぼ四角形に、その北・西・南の三面に小島が描かれています。なお、東面には島が描かれていませんが、別の「日本本国の図」に「四国島」が描かれており、四角形に描かれた「九州島」の四面に小島があることを示しています。
 このように、申淑舟は『海東諸国紀』の編纂にあたり、『三国志』倭人伝や『旧唐書』倭国伝を参考にしたことをわたしは疑えないのです。(つづく)


第2149話 2020/05/10

「大宝二年籍」への西涼・両魏戸籍の影響

 わたしが古代戸籍の研究をしていた三十年ほど昔に集めた先行論文のファイルを整理していたら、横山妙子さん(当時、市民の古代研究会・会員)からのお手紙(1991.12.01付)が出てきました。それには、『市民の古代・九州ニュース』No.18(1991年9月)に掲載された拙稿「『大宝二年、西海道戸籍』と『和名抄』に九州王朝の痕跡を見る」を読まれた増田修さん(同上)からのご依頼により、古代戸籍に関する論文コピーを進呈すると書かれていました(拙稿は「九州古代史の会」HPに収録されており、閲覧可能)。申し訳ないことに、この論文コピー入手の経緯をわたしはすっかり失念していました。
 その論文とは曾我部靜雄「西涼及び両魏の戸籍と我が古代戸籍との關係 ―附、課役問題の現狀―」(『法制史研究 7』1956年)という古い研究論文です。古代戸籍における中国から日本への影響関係を論じた専門性の高い論文で、いただいた当時(36歳)のわたしの学力では同論文の意義を深く理解できていなかったと思われます。今、読み直してみて、増田さんがわたしに提供された意味(同論文の重要性)がよくわかりました。
 同論文によれば、「大宝二年籍」の西海道戸籍と御野国戸籍には差異があり、御野国戸籍は西涼(五胡十六国時代、5世紀頃)の戸籍に似ており、西海道戸籍はその後の両魏(北魏が東西両魏に分かれた時代、6世紀頃)の戸籍に似ていることを指摘され、大宝二年(702年)当時の唐の戸籍の影響は受けていないと、次のように記されています。

 「我がこれ等の大寶や養老の戸籍を中国のものと比較するに、御野のものは西涼のものに似、筑前や下総のものは両魏のものに類することが直ちに判るのである。唐のものは戸口數の集計が記載されたものは一通もなく、西涼のものと両魏のものとはこれがあり、而もその記載の方法は西涼は御野に似、両魏は筑前や下総に類してゐる。(中略)我が大寶や養老の戸籍の源流は唐には無くて、それ以前の中国の制度にあることを示して居るのである。」(74頁)
 「我が大寶及び養老の戸籍に二つの異った形式が見られるのは、唐以前の中國の編籍制度が唐以前に既に我が國に流入し、我が國では大化以前からそれ等の制度に従って編籍が行はれ、大化改新によって唐制を採用するやうになっても、編籍の形式は従来のままで改正しなかったことを現はしてゐるのであらう。而もその編籍制度の流入は一度だけではなかったことは、西涼式も両魏式も存在することによって窺はれるであらう。西涼式の根源は西晋にある可く、両魏式の根源は北魏にある可く、従って我が古代の戸籍には西晋型と北魏型とがあると謂ひ得るであらう。(中略)従って御野式のものが我が國の最も古い戸籍の様式であり、筑前等の式のものはそれよりも後のものである。」(75~76頁)

 この曾我部靜雄さんの論文は六十年以上も昔のものであり、現在の戸籍研究水準においても有効かどうかは調べなければなりませんが、もし有効であれば、九州王朝時代の庚午年籍(670年)は、より古い西涼様式の影響を受けていた可能性が高く、その西涼の戸籍制度が中国南朝の西晋の制度を淵源としていたとする見解はとても興味深いものです。九州王朝は中国南朝の影響を受けていた時代があり、後に仏教伝来等と共に北魏の影響も受けたと考えてもよいように思われます。これらは九州王朝の造籍開始時期を研究する上でも重要な視点です。
 増田さんからいただいた論文コピーが三十年後の今になって役立つとは、学問の面白さであり、不思議さでもあります。


第2148話 2020/05/08

「大宝二年籍」断簡の史料批判(16)

 本シリーズも16回目になって、ようやくテーマの〝「大宝二年籍」断簡の史料批判〟に入ることができました。ですから、今までは〝前説〟であり、今回からが本番です。気持ちを引き締めて論じます。
 「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。その前年に成立した『大宝律令』「戸令」に基づき、九州王朝(倭国)から王朝交替したばかりの大和朝廷(日本国)により、全国的に造籍されたものです。残念ながらほとんどが失われ、残っているのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけですが、古代の戸籍や家族制度を知る上で貴重な史料(重要文化財)です。なお、今回の調査は『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)によりました。
 先行研究によれば、「大宝二年籍」において西海道戸籍と御野国戸籍には大きな差異が認められ、西海道戸籍は様式や用語が高度に統一されています。通説では西海道戸籍は『大宝律令』に基づき大宰府により統一的に管理され、御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されたためと考えられています。西海道戸籍は九州王朝による造籍の伝統と優れた地方官僚組織を引き継いだため、高度で統一性を持った造籍が可能だったとわたしは推測しています。いずれにしましても、この西海道戸籍と御野国戸籍の差異は史料批判上留意すべき点です。
 ちなみに、2012年に太宰府市国分松本遺跡から出土した7世紀後半頃(「評」の時代)の「戸籍」木簡の記述様式は、どちらかというと御野国戸籍に似ており、この点について「洛中洛外日記」445話(2012/07/21)〝太宰府「戸籍」木簡の「政丁」〟で少し触れました。更に、『古田史学会報』112号(2012/10)の拙稿〝太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―〟でも詳述しましたのでご参照下さい。(つづく)


第2147話 2020/05/07

「大宝二年籍」断簡の史料批判(15)

 わが国最初の全国的な戸籍とされる庚午年籍(670年)造籍時に存在したとされる、年齢が不詳・不審の人々とはどのような人々でしょうか。南部さんが推定された〝親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明(本人の申告は信用できない)な人々や、よるべき資料がなかった一般農民〟という理解では、わたしには今ひとつ納得できませんでした。
 そもそも初めての造籍であれば、人々が申告した年齢をとりあえず記す他なく、その年齢が正確か否かなどは、見た目と申告年齢がよほど異なっていない限りわからないのではないでしょうか。更に言えば、造籍にあたり戸籍調査を担当した地方役人にすれば、申告年齢をそのまま上級役人に報告しても何も問題とはならないようにも思います。上級役人も自らが一軒一軒戸別訪問して再確認でもしない限り、その報告を信用する以外ないのですから。
 しかし、「大宝二年籍」にはほぼ十歳ごとの特定年齢にピークが存在していますから、やはり何らかの事情があったと考えざるを得ません。そこで先に述べたように、見た目と申告年齢がよほど異なっているケースを想定するのであれば、その理由があるはずです。例えば、庚午年籍造籍(670年)当時の七世紀後半に至っても、古い「二倍年齢」が採用(併用)されており、その結果、自らの年齢申告に「二倍年齢」を用いた人々がある程度いたのではないでしょうか。
 具体的には、実年齢1歳の赤ちゃんを「2歳」、実年齢2歳の乳幼児を「4歳」、実年齢3歳の幼子を「6歳」と、「二倍年齢」で申告されたケースです。さすがに地方役人も、こうしたケースは不審として、それらの年齢不審の人々を全て「1歳」として登録したとすれば、その庚午年籍(670年)を基本として、32年後の「大宝二年籍」造籍時、あるいはそれまでの造籍時にその間の年数を加算することにより、大宝二年(702年)には33歳のピークが出現するわけです。他のピークも同様の理由により発生したとする解釈が可能です。
 今回わたしが示した、「大宝二年籍」中のピーク発生理由を「二倍年齢」の影響とする作業仮説(思いつき)ですが、これが学問的仮説として成立するかどうかを検証するために、「大宝二年籍」に記された人と年齢について全数精査を試みました。(つづく)


第2146話 2020/05/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(14)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由について、庚午年籍を始めとして庚寅年籍・「持統九年籍」などの造籍時に、十歳ごとにまとめて推定記入した結果、十歳ごとの年齢ピークが発生し、そのピークが「大宝二年籍」にまで遺存したとする南部昇さんの説は概ね納得できます。しかし、庚午年籍(670年)造籍時になぜ年齢が不詳・不審とされる人々が存在していたのでしょうか。この点について南部さんの次の説明だけでは不十分と思われるのです。

 「国郡司が『盗賊』や『浮浪』を把握し、これを庚午年籍に登録したとき、彼らが親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明である――本人の申告は信用できない――場合がしばしばあったのではないか、『盗賊』や『浮浪』ではない一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかったのであるから同様のことが生じたのではないか」(『日本古代戸籍の研究』382-383頁)

 南部さんは、「一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかった」とされますが、「大宝二年籍」にはピーク年齢以外の多くの人々の年齢が記載されており、この事実から「一般農民」は基本的に自らの年齢を把握しており、一部の農民に年齢不詳・不審のケースがあったと理解すべきです。
 さらに指摘されたピークを精査すると、次の疑問点が見えてきます。それは33歳の大ピークの存在です。南部さんの仮説によれば、大宝二年(702)の造籍時に33歳の人は、庚午年籍(670年)造籍時に年齢不詳・不審により、まとめて「一歳」として年齢認定されたということになります。それは当時、乳幼児年齢の人たちであり、母親や養育者が身近にいなければ生きていけない人たちです。そうであれば、その乳幼児の年齢は母親や養育者が知っていたはずであり、造籍を担当した地方役人たちもその申告をそのまま登録すればよいわけですから、年齢不詳・不審によるピークは少なくともこの年齢層には発生しにくいはずなのです。従って、南部さんの仮説だけでは「大宝二年籍」の33歳の大ピーク発生理由をうまく説明できないのではないでしょうか。(つづく)


第2140話 2020/04/23

「大宝二年籍」断簡の史料批判(13)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由について、「庚午年籍・庚寅年籍・『持統九年籍』などによって重層的に生み出された」と南部さんは考えられ、その異常分布発生の過程を次のように説明しています。

 「国郡司が『盗賊』や『浮浪』を把握し、これを庚午年籍に登録したとき、彼らが親族や故郷から離れていたため、その正確な年齢が不明である――本人の申告は信用できない――場合がしばしばあったのではないか、『盗賊』や『浮浪』ではない一般農民についても、それ以前はよるべき資料がなかったのであるから同様のことが生じたのではないか、と。そして男子の場合は、その年齢が賦課と密接にかかわるので、国家の側も真剣に実年齢を究明したであろうが、女子については、おおよその推定年齢で記入したことも多かったのではないか、と。八、九歳か十一、二歳かわからぬ女児は、『十歳』と記入し、十八、十九歳か二十一、二歳かわからぬ女子は『二十歳』と記入したことも多かったのではないかと推定するのである。また、たとえば、本人がいかに『二十三歳である』と申告してもそれが信用されず、『三十歳』と記入された場合もあったかもしれない。庚午年籍に(一)―十―二十―三十……歳というピークが存在したとすれば――私は存在した可能性が高いと考えているのだが――それはかくして生じたものと推定されるのである。
 かくして二十年後、庚寅年籍が作成されるが、庚午年籍に登録されて以来、死亡・逃亡することなく定住していた人々の年齢決定は簡単であった。本人を確定した後、庚午年籍に記入してある年齢に二〇を加算すればよかったからである。」(南部昇『日本古代戸籍の研究』382-383頁)

 このような年齢不詳女児や年齢詐称女子の年齢を、庚午年籍(670)造籍時に十歳ごとにまとめて推定記入した結果、十歳ごとの年齢ピークが発生し、そのピークが「大宝二年籍」にまで遺存したとされました。
 更に、庚寅年籍(690)造籍時にも同様の操作が行われた結果、大ピークが大きくなり、「持統九年籍」(695)での同様操作により小ピークが発生したことを精緻に論証し、「大宝二年籍」に見える女子の異常年齢分布についての説明に成功されました。そして、この異常分布の傾向は男子にも見られることを指摘されました。
 わたしはこうした南部さんの論証は有力と思うのですが、造籍時の「年齢推定記入」だけでは、「大宝二年籍」の異常年齢分布を完全には説明できないのではないかと考えました。(つづく)


第2139話 2020/04/22

「大宝二年籍」断簡の史料批判(12)

 「大宝二年籍」に見える女子の異常な年齢分布が生じた理由についての岸俊男氏の推定について、南部昇著『日本古代戸籍の研究』では次のように紹介されています。

 「岸氏はこれを造籍との関連で説明している。すなわち、日本の戸籍は最初は男丁のみを記載し、ある時期からこれに女子を付加するようになったのではないかという推定と、大ピーク・小ピークの各年齢が一二年前の庚寅年籍(六九〇年)においては、五歳・十歳・十五歳というように五歳ごとの完数に適合するという着眼によって、庚寅年籍作成のとき、『女子のみは年齢を五歳ごと、または十歳ごとに区切り、それを基準として記入するようなことが行われたのではなかろうか』というのである。」(南部昇『日本古代戸籍の研究』360頁)

 このような岸さんの推定について、南部さんは「女子年齢の異常分布を造籍との関係で説明しようとしたことは慧眼」と評価しながらも、自説を次のように説明しています。

 「とくに私は、岸氏の指摘した大ピーク・小ピークは庚寅年籍によって生み出されたものではなく、『自庚午年籍至大宝二年四比之籍』すなわち、庚午年籍・庚寅年籍・『持統九年籍』などによって重層的に生み出されたものと考えているので、この点、岸氏と大いに見解を異にしている。」(同書361頁)

 南部さんは古代の造籍年を、『続日本紀』宝亀十年六月条に見える「自庚午年籍至大宝二年四比之籍」などを根拠に、庚午年籍(670)・庚寅年籍(690)・「持統九年籍」(695)・大宝二年籍(672)とされ、それぞれの造籍時に行われた「操作」により、女子年齢の異常分布が発生したとされました。
 なお、通説では庚午年籍(670)・庚寅年籍(690)・「持統十年籍」(696)・大宝二年籍(672)の四回の造籍とされています。わたしは南部さんの「持統九年籍」(695)説の方が合理的と思いますが、本テーマとは直接関わりませんので、その理由についての説明は省きます。(つづく)