藤原京一覧

第485話 2012/10/20

大化改新詔の宮は何処?

 今日の関西例会も優れた面白い研究発表が続きました。初めての参加者も増え、初心者にも楽しんでいただけたようです。毎月の会場確保は大変です が、大下さん西井さんや正木さんらのご尽力もあり、何とか会場を確保しています。今回は初めて「エル大阪」という会場を正木さんに確保していただきまし た。関係各位には感謝にたえません。
 今回は木簡研究に関する報告が正木さんや冨川さんからなされ、理解が進みました。正木さんの発表では、藤原宮の回廊が完成するのは大宝三年(703)以 降であることが改めて指摘されたのですが、それを聞いた原幸子さん(古田史学の会々員・奈良市)から休憩時間に、「それでは大化改新詔が出された宮殿はどこなのですか」と問われ、わたしは考え込みました。
 わたしの説では大化二年の改新詔は九州年号の大化二年(696)のことであり、藤原宮で出されたと考えていたのですが、藤原宮出土木簡の研究から、大化二年(696)には藤原宮回廊が未完成であったことが判明したので、それではどこで大化改新詔が出されたのかわからなくなったのです。
 例会後の懇親会で、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)にこのことをたずねると、「回廊は未完成でも大極殿などは完成していたと考えれば問題ない」との返答が返ってきました。確かにそうかもしれませんが、まだよくわかりません。歴史研究には様々な説が「相対的」な論証力を持ち、優劣付けがたいケースがあります。結論を急がず、検討を続けたいと思います。
 こうした甲論乙駁により、自分一人で行う研究に比べ、例会などによる「論争」は自らの説の弱点や誤りにも気づかされることがあり、大変有意義です。関西例会の有り難みを噛みしめる今日この頃です。
 例会発表のテーマは次の通りでした。なかでも岡下さんの聖徳太子と九州年号の研究は刺激的でした。会報への投稿が期待されます。正木さんのプロジェクターを使用した発表は、九州王朝説への理解を助け、説得力のあるもので、ことのほか好評でした。

〔10月度関西例会の内容〕
1). 九州王朝の近畿侵入譚(木津川市・竹村順弘)
2). 人麿はジェノバラインを知っていた・2(明石市・不二井伸平)
3). 藤原京出土木簡について(川西市・正木裕)
4). 楽浪郡と平壌出土戸口簿(相模原市・冨川ケイ子)
5). 「真宗と九州年号」を読んで(京都市・岡下英男)
6). 「正法輪蔵」のなかの九州年号(京都市・岡下英男)
7). 久留米大学講演「九州王朝論の新展開 — 最近の考古学的発見と九州王朝」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・古田先生京都講演会「森嶋学と古代史」・TV大学市民講座「幕末維新期の鳩居堂」他・日本触媒姫路の爆発事故・別府市HPに水野孝夫の名前・その他


第442話 2012/07/15

藤原宮の完成年

 市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』を読み、自らの不勉強を痛感する昨今です。中でも、藤原宮の完成が大宝三年(703年)以降であったことが、出土木簡から明らかとなったという指摘には驚きました。

 同書(168頁)によると、藤原宮の朝堂院東面回廊の東南隅部付近の南北溝から7940点の木簡が出土しているのですが、この南北溝は東面回廊造営時に 掘削され、回廊完成とともに埋められました。出土した大部分の木簡は八世紀初頭のもので、記されていた最も新しい年紀は「大宝三年」(703年)でした。 このことから、東面回廊が完成したのは、703年以降となり、このことはとりもなおさず藤原宮の完成が703年以降だったことを意味します。

 このようなことまで判明するのも、同時代史料としての木簡のすごさですが、このことと関係しそうな記事が『続日本紀』慶雲元年十一月条(704年)にありました。

「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布を賜うこと差あり。」

 694年の藤原京遷都から10年もたっているのに、「始めて藤原宮の地を定む。」というのもおかしな話だったのですが、大宝三年(703年)以降に藤原宮が完成していたとになると、この記事も歴史の真実を反映していたことになりそうです。

 『続日本紀』慶雲元年十一月条(704年)のこの記事については、古田学派内でもいろんな見解が出されてきましたが、今後はこの出土木簡7940点を精査したうえでの再検証が必要ではないでしょうか。


第155話 2007/12/16

藤原宮の冨本銭

 昨日の関西例会で、藤原宮から出土した地鎮祭用と思われる壺に納められた9枚の冨本線について、わたしの見解を述べました。飛鳥池工房跡から出土した冨本銭の発見は、古代貨幣研究に重要な一石を投じましたが、今回の藤原宮跡から出土した冨本銭も、更に貴重な問題を提起しました。

 飛鳥池の冨本銭発見は、『日本書紀』天武12年条の銅銭記事が歴史事実であったことを指し示したのですが、ならば同時に記された銀銭の存在も歴史事実と考えざるをえません。しかし、今回の地鎮祭で用いられたと思われる壺にあったのは銅銭の冨本銭でした。なぜ、より価値の高い銀銭ではなく、冨本銅銭が用いられたのでしょうか。
 それは、その銀銭が大和朝廷ではなく九州王朝の貨幣だったからと思われます。先の天武12年条の記事は銀銭の使用を禁じ、銅銭を用いるようにと命じた記事なのですが、これは九州王朝の銀銭に変わって、自らが飛鳥池で鋳造した冨本銭を流通させるという意味だったのです。このように考えることにより、『日本書紀』の記事や藤原宮出土の冨本銭の意味が明らかになるのです。
 持統らは自らの宮殿建設にあたり、九州王朝の銀銭に代えて、自ら鋳造した冨本銭を用い、王権の安泰と新たな列島の代表者たらんとする意志と願いを込めたのではないでしょうか。9枚の冨本銭と、一緒に入っていた9個の水晶玉は、九州王朝にかわり、自らが「九州」(日本列島)を統治するという政治的野心の現れと思われるのです。
   なお、関西例会の発表内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 淡海乃海・近江の道(豊中市・木村賢司)
  2). 岐須美々命と石窟の土蜘蛛(大阪市・西井健一郎)
  3). 「実測値」と「机上の計算値」(交野市・不二井伸平)
  4). 「明日香村発掘調査報告会2007/12/08」に参加して(木津川市・竹村順弘)
  5). 「丁亥年」刻字紡錘車の史料批判(京都市・古賀達也)
  6). トロイの木馬(相模原市・冨川ケイ子)
  7). 書紀から導かれる「斉明死去」以降の歴史の真実(川西市・正木裕)
  8). 沖ノ島5(生駒市・伊東義彰)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・天草の古名「苓州」・他(奈良市・水野孝夫)