古田武彦著『古代の霧の中から — 出雲王朝から九州王朝へ』がミネルヴァ書房から復刊されました。同書は1985年に徳間書店から出版されたもので、『市民の古代』などに発表された論文が収録されています。各章は次の通りです。
序章 現行の教科書に問う
第一章 古代出雲の新発見
第二章 卑弥呼と蝦夷
第三章 画期に立つ好太王碑
第四章 筑紫舞と九州王朝
第五章 最新の諸問題について
日本の生きた歴史(二十二)
歴史の道
「日本の生きた歴史(二十二)」と「歴史の道」は復刊に伴って新たに書き下ろされたものです。本書の性格は「はしがき--復刊にあたって」で古田先生が次のように書かれていますように、「異色の一書」です。
「異色の一書だ。最初の出版の時から、“濃密な”内容をもっていた。「学問の成立」とその発展が具体例でしめされていた。今回のミネルヴァ書房復刊本では、新稿「歴史の道」を加え、わたしにとって決定的な意味を持つ本となった。幸せである。」
今回、改めて読み直してみて、面白い問題に気づきました。第五章にある「発掘が裏付ける『大津の宮』」において、大津市穴太2丁目から出土した「穴太廃寺」について、次のような考察が示されています。
「これほどの寺院跡、法隆寺級の大寺院跡が出土したにもかかわらず、その存在事実を示す文献記載のないことに不審がもたれている、という(朝日新聞〔大阪〕、一九八四・七・六)。」(252頁)
「これがもし、真に『寺院』であったとしたら、『日本書紀』にその記載のないのは、不可解だ。その、いわゆる『寺院』は、書紀の編者たちが知悉していたはずだ。そしてその存在や寺名を、“消し去る”べき必要が、彼等にあったとは、全く信じえないのである。」(253頁)
穴太廃寺遺跡を古田先生は天智天皇が遷都した「近江宮」と解され、大津市錦織から出土した朝堂院様式の宮殿を、同じく天智紀に見える「新宮」とされたのです。大変興味深い考察ですが、穴太廃寺遺跡はその後の調査から、やはり寺院跡と見なされています。しかし、古田先生の抱かれた疑問「何故、これほどの大寺院が『日本書紀』に記載されていないのか」という視点は有効です。しかも、大津宮遺跡(大津市錦織)の真北から出土した 「南滋賀廃寺」も、やはり『日本書紀』に記載されていません。
古田先生が疑問とされた『日本書紀』の「沈黙」こそ、わたしが提案している仮説「九州王朝の近江遷都」の傍証となるのではないでしょうか。大津宮が九州王朝による宮殿であれば、同時期に建立された九州王朝による大寺院が『日本書紀』から“消し去られた”理由も説明できそうです。
『古代の霧の中から』の復刊により、当初は気づかなかった問題が「発見」できました。他にも同様の「発見」があるかもしれませんので、しっかりと再々読しようと思います。