筑後国府一覧

第90話 2006/07/16

『筑後国正税帳』の証言

 筑後国府には考古学的に謎が多いことを述べてきましたが、文献上にも不思議な記事があります。既に古田先生が指摘されているテーマですが、天平10年(738)の正倉院文書『筑後国正税帳』に筑後国より都あるいは律令制下の大宰府に献上された品目が記されています。その中に他国の正税帳とは全く異なる品目が列挙されているのです。
 たとえば、銅釜工、轆轤工3人、鷹養人30人、鷹狩り用と思われる犬15匹です。そして何よりも驚きなのが、白玉113枚、紺玉71枚、縹玉933枚、緑玉72枚、赤勾玉7枚、丸玉4枚、竹玉2枚、勾縹玉1枚という大量の玉類です。これら全ての玉類が筑後地方から産出するとは考えられませんから、他国から筑後国に集められたと思われます。
 こうした史料事実は通説では説明不可能です。九州王朝説やわたしの筑後遷宮説でなければ説明できないと思います。すなわち、天子や王侯の遊びであった鷹狩りが行われていた証拠である「鷹養人30人」や「鷹狩り用の犬」の献上は、この地に九州王朝の都があった証拠なのです。大量の玉類も同様です。もしかすると、九州王朝の「正倉院」が筑後国にあったのではないでしょうか。そうすると、大量の玉類はそこに収蔵されていた可能性が濃厚です。
 第三期筑後国府跡に曲水の宴遺構が隣接していたことも、このことと関連して考察するべきでしょう。
古田史学会報36号「両京制」の成立 古田武彦 参照)

 話は変わりますが、昨日15日に古田史学の会・関西例会が行われました。残念ながら勤務の都合で私は欠席しましたが、テーマのみお知らせしておきます。
  〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕

 ○ビデオ鑑賞 歴史でたどる日本の古寺名刹「天台の道」

 ○研究発表
  1. 伊予の大族、越智・河野系譜にみる、国政とのかかわり伝承(豊中市・木村賢司)
  2. コバタケ珍道中・信州編(木津町・竹村順弘)
  3. 彦島物語・別伝(大阪市・西井健一郎)
  4. 九州年号古賀試案の検証(奈良市・飯田満麿)
  5. 大野城創建と城門柱の刻書(岐阜市・竹内強)
  6. 熊本県浄水寺の平安時代石碑群(相模原市・冨川ケイ子)
  7. 敵を祀る・旧真田山陸軍墓地(豊中市・大下隆司)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・教科書から消える聖徳太子・他(奈良市・水野孝夫)


第89話 2006/07/08

筑後国府跡の字地名

 第一期筑後国府跡は合川町枝光の南側にありますが、同地には「フルコフ」と呼ばれていた字地名があることが、『久留米市史』(昭和七年発行)に紹介されています。同書によれば「フルコフ」とは「古国府」のこととされ、そうであれば「古国府」と呼ばれるようになったのは、「新国府」である第二期筑後国府成立以後と考えられます。地名の遺存性の強さには本当に驚かされます。
 さらに、「フルコフ」の「西隈高隆の地を『コミカド』と称す」とあり、「小朝廷」の意味ではないかとしています。大変興味深い地名で、もし「小朝廷」であれば、九州王朝説や筑後遷宮説にとって貴重な傍証となるでしょう。
 この他にも「チョウジャヤシキ」などの地名も記されており、筑後国府跡地名の多元史観による調査検証が待たれます。


第88話 2006/07/07

筑後国府の不思議

 第87話で紹介した、久留米市の筑後国府跡から出土した大型建造物の柱穴について、この一週間検討を続けてきました。特に筑後国府に関する文献や発掘調査報告書を丹念に読み直したのですが、筑後国府には実に不思議な問題があることがわかりました。
 まず第一に、筑後国府跡は第一期から第四期まであり、通説でも第一期の国府(合川町古宮地区)は七世紀末の成立とされ、最古級の国府であること。なぜ、近畿ではなく九州の筑後国府が最古なのか、通説では説明困難です。
 第二に、律令体制が全国的に崩壊していた12世紀後半まで国府(第四期、御井町)が存続していたこと。このように500年も続いた国府は筑後国府だけです。
 第三に、第二期国府(合川町阿弥陀地区)は太宰府政庁と同じような配置を有していたこと。
 第四に、第三期国府(朝妻町三丁野地区)は全国最大希望の国府であったこと。
 第五に、第三期国府の東側に隣接して「曲水の宴」遺構が存在していたこと。
 第六に、国府跡の発掘調査報告を読むと、弥生時代の住居跡なども出土しているのに、古墳時代や飛鳥時代の遺跡がほとんど見当たらず、いきなり八世紀以後の遺跡となっていること。この地帯が古墳時代や飛鳥時代は無人の地だったとは考えられません。須恵器を中心とする土器編年がおかしいのではないでしょうか。

 以上、ちょっと考えただけでも不思議だらけなのです。おそらく、これらは九州王朝説に基づかなければ解決しないものと思われますが、それでも判らないことが多く、研究課題は山積しています。
 8月5日には愛媛県の松山市で講演しますが(古田史学の会・四国主催)、この問題をテーマにしたいと思います。それまでに、どれだけ解決している、今からワクワクするような研究テーマです。


第87話 2006/06/28

九州王朝の筑後遷宮

 わたしは「九州王朝の筑後遷宮」というテーマを発表したことがあります(『新・古代学』第4集、1999年)。4世紀後半から6世紀にかけて、九州王朝は筑前から筑後へ遷宮したという仮説です。九州王朝は、高句麗や新羅の北方からの脅威に対して、より安全な筑後地方に首都を移したと思われ、それはちょうど倭の五王や筑紫の君磐井の時代にあたります。また、筑後川南岸の水縄連山に装飾古墳が多数作られる時期とも対応します。そして、輝ける天子多利思北孤の太宰府建都(倭京元年、618年頃)により再び筑前に首都を移すまで、筑後に遷宮していたと考えられるのです。この論証の詳細は「玉垂命と九州王朝の都」(『古田史学会報』24号)、「高良玉垂命と七支刀」(『古田史学会報』25号)をご参照下さい。
 しかしながら、この仮説には解決すべき問題がありました。それは九州王朝の王宮に相応しい遺跡が筑後地方になければならないという考古学的な問題でした。一応の目途としては、久留米市にある筑後国府跡(合川町、他)や大善寺玉垂宮(三瀦町)付近にあるのではないかと推定していましたが、やはり5〜6世紀の王宮に相応しい規模の遺跡は発見されていませんでした。ところが、先週、ビッグニュースが飛び込んできたのです。
 福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から毎日新聞(6月22日、地元版)のコピーがファックスされてきました。「筑紫国の役所か」「7世紀後半の建物跡」「九州最大規模、出土」という見出しで、久留米市合川町から、ひさし部分も含めて幅18メートル、奥行き13メートルの建物跡の 柱穴(直径30〜60センチ)40本が出土したことが報じられていました。近くで出土した須恵器から7世紀後半の遺跡とされていますが、この時期の九州北部の編年はC14測定などから、土器編年よりも百年ほど古くなりますから、6世紀後半の遺跡と考えるべきでしょう。そうすると、筑後遷宮期の九州王朝の王宮の有力候補となるのです。なによりも、この時期の九州最大規模の建物という事実は注目されます。
 新聞記事からは遺跡の正確な位置や詳しい内容がわかりませんので、これ以上の推測はやめておきますが、わたしの筑後遷宮説にとって、待ちに待ったニュースでした。


第24話 2005/08/21

稲員家と菊の紋

 高良玉垂命の家系は七世紀末頃に五家に分かれます。その内の一つが草壁氏となり、後に稲員(いなかず)姓を名乗ります。この流れがAさんの家系へと続くのですが、この稲員家は八女郡広川村の大庄屋となり、近現代にまで至ります。
 稲員家には多くの古文書や記録がありますが、その中の一つに『家勤記得集』(江戸時代成立)という同家の歴史や由緒を記した書物があります。その末尾には次のような興味深いことが記されています。

 「稲員家の紋、古来は菊なり、今は上に指合うによりて止むるなり。」

 稲員家の家紋は皇室と同じ菊の紋だったが、「上」との関係で止めた、という内容です。九州王朝王家末裔の家紋が皇室と同じ菊だったということで、この事実も興味深い問題です。付け加えれば、Aさんのお話しでは皇室の十六弁の菊とは異なり、十三弁の菊だったとのこと。筑後国府跡から出土した軒丸瓦の十三弁の文様とも対応しており、偶然とは思えない一致ではないでしょうか。
 また、高良大社の御神幸祭では稲員家が主役ですし、その行列には皇室と同じ三種の神器が連なります。こうした伝統も稲員家が九州王朝の末裔であることの証拠ではないでしょうか。本当に歴史とは不思議なものです。歴史学界の大家がいかに九州王朝説を無視否定しようと、このように「真実は頑固」(古田武彦談)なのです。

参照
高良玉垂命の末裔 稲員家と三種の神宝(古田史学会報二十六号)