多利思北孤一覧

第1909話 2019/05/29

「日出ずる国」の天子と大統領(1)

 アメリカ合衆国のトランプ大統領が来日され、そのスピーチで万葉集や万葉歌人、そして「日出ずる国」などの日本古代史ではお馴染みの言葉を使われました。外交交渉においても、それぞれの国のトップが互いの国の歴史や文化を尊重することは大切と改めて思いました(仮にリップサービスであったとしても)。
 この「日出ずる国」の出典は『隋書』国(たいこく)伝の次の文章です。※この「」は「大委」(たいゐ)の一字表記。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 大和朝廷一元史観による通説や歴史教科書では、聖徳太子による倭国(日本)と隋国(中国)との対等外交を著した国書とされています。現在、中国との「貿易戦争」を戦っているトランプ大統領が、古代日本の中国への対等外交の際に用いられた国書の意味や背景を理解した上で、「日出ずる国」という言葉を用いたとすれば、かなり意味深長です。
この国書をもらった隋の皇帝(煬帝)は気分を害したらしく、次のような文が続きます。

 「帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
【読み下し文】帝、これを覧(み)て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く「蠻夷の書に無禮あり。復(ま)た以て聞くなかれ。」と。

 中華思想により世界に天子は自分一人でなければならないと煬帝は思っていますから、「日出ずる處の天子」などと名乗る国書に激怒するのはよくわかります。
 古田説(九州王朝説)では、この「日出ずる處の天子」は聖徳太子ではなく九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のことで、その国には阿蘇山が噴火していると『隋書』には記されています。この『隋書』の記述はどう控えめに読んでも大和の聖徳太子や推古天皇のことではありません。何よりも「阿毎の多利思北孤」という名前の天皇は近畿天皇家にはいません。ちなみに、多利思北孤の奥さんの名前は「キミ」、太子は「利歌彌多弗利」と記されています。もちろんこのような名前の妻や子供を持つ天皇は近畿天皇家にはいません。
 阿蘇山の噴火を隋使は見ており、その情景が次のように記されています。

 「有阿蘇山、其石無故火起接天者」
【読み下し文】阿蘇山あり。その石、故無くして火を起こし、天に接す。

 この表現は実際に阿蘇山の噴火を見ていなければ書けないリアルなものです。そしてこの国には昔「卑彌呼」が女王として君臨したことも記されています。

 「有女子、名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立爲王。」
【読み下し文】女子あり、名は卑彌呼。鬼道を以て能(よ)く衆を惑わす。ここに於いて國の人、共立して王と爲す。

 このように『隋書』の一連の記事は、イ妥国を女王卑彌呼(『三国志』倭人伝の邪馬壹国。博多湾岸にあった倭国の中心国)の時代から続いた、阿蘇山がある九州の国であると述べているのです。普通に文章読解力や土地勘のある日本人なら、そのようにしか読めないでしょう。ところが日本の古代史学界ではこの記事が「大和朝廷(奈良県)」の記事に見えてしまうというのですから、一元史観の宿痾は深刻です。(つづく)


第1895話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(4)

 日野さんへの返答の2回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答②】
 九州王朝(倭国)が摂津難波の支配権を有していた時期について、7世紀初頭とする史料があることから、それ以前に九州王朝は難波に進出していたと、わたしは考えていました。その史料とは「九州年号群」史料として最も成立が早く、信頼性が高いとされている『二中歴』所収「年代歴」の次の記事でした。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」 ※倭京二年は619年。

 「倭京」は7世紀前半(618〜622年)の九州年号です。ちょうど多利思北孤の晩年に相当する期間です。『隋書』に見える九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)は倭京五年(622年、「法興32年」法隆寺釈迦三尊像光背銘による)に没し、翌623年に九州年号は「仁王元年」と改元されています。
 この「難波天王寺」とは現「四天王寺」のことで、創建当時は「天王寺」と呼ばれていたようです。四天王寺のことを「天王寺」と記す中近世史料は少なからず存在しますし、当地から「天王寺」銘を持つ軒瓦も出土しています。
 また、『日本書紀』には四天王寺の創建を六世紀末(推古元年、593年)と記されていますが、大阪歴博の考古学者による同笵瓦の編年研究から、四天王寺の創建を620〜630年頃とされており、『日本書紀』の記述よりも『二中歴』の「倭京二年」(619年)が正しかったことも判明しています。こうしたことから、『二中歴』のこの記事の信頼性は高まりました。
 以上の考察から、九州王朝(倭国)は7世紀初頭には摂津難波に巨大寺院を建立することができるほどの勢力であったことがわかります。しかし、その難波支配がいつ頃から始まったのかは不明でした。(つづく)


第1892話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(1)

 FaceBookと「洛中洛外日記」で連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」を読んだ日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良市)からFaceBookにコメントが寄せられ、問答が続きました。
 日野さんは奈良大学の学生さんで国史を専攻する古田学派内でも気鋭の若手研究者です。今回、寄せられた質問やわたしの見解への鋭い疑問の提起など、学問としてもハイレベルで深い洞察力に裏付けられたものでした。その二人のやりとりを「河内戦争」問答と銘打って「洛中洛外日記」でご披露することにしました。もちろん日野さんの了承もいただいています。
 まずは発端となった日野さんからの質問とわたしの返答の序盤戦を転載します。

2019.05.09【日野さんからの質問】
 一応、「この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。」という部分については、古田学派でも統一見解とは言えないと思います。近畿天皇家の勢力範囲については、初期からずっと議論があり今でも決着を見ていないと思います。
 大和と山城の境界が確定したのは恐らく多利思北孤の時代である(それ以前には山背の一部が大和に編入されていた可能性も否定できない)わけですし。

2019.05.10【古賀の返答】
 日野さん、コメントありがとうございます。
 冨川ケイ子さんの論文「河内戦争」において、タリシホコの九州王朝が摂津・河内を制圧する前の当地の権力者は関西八国の支配者であり、それは近畿天皇家の勢力でもないとされています。わたしは冨川説は有力と考えており、それであれば山城国が近畿天皇家の影響下となるのは七世紀第四四半頃と考えています。壬申の乱以降ではないでしょうか。
 河内戦争の勝利後に九州王朝は全国を66国に分国したものと思いますが、いかがでしょうか。
(つづく)


第1875話 2019/04/14

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(7)

 『法隆寺縁起』に記された献納品に付記された「丈六分」や「佛分」について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から貴重なご意見をいただきました。それは次のような内容でした。

① 「丈六分」とあるからには、高さが丈六の佛像と考えるべきで、釈迦三尊像では寸法があわない。丈六佛が当時は存在していたのではないか。
② 経典に釈迦のことを「佛」と記す例は多く、「佛分」とあるのが釈迦三尊像を指すのではないか。
③ 光明皇后による「二月廿二日」の施入の目的や法隆寺の性格は古賀説(多利思北孤鎮魂の寺)でよい。

 この加藤さんのご意見は有力で、わたしも同様の可能性について考えました。しかし『法隆寺縁起』の他、当時の史料から法隆寺に丈六佛があったとする痕跡が見つからないことと、伝染病(天然痘)の猛威という国家的災難に対して、「二月廿二日」に施入していることから、法興32年(622)「二月廿二日」に崩御した上宮法皇をモデルとした「等身佛(尺寸の王身)」との銘文を持つ釈迦三尊像こそ施入対象の冒頭に記された「丈六分」と解さざるを得ないと考えたからです。
 そこで問題となるのが、加藤さんも指摘されたように「丈六」という仏像の高さを示す表記をどのように考えるのかということでした。当初、わたしは「丈六」というのは釈迦の身長を意味し、「丈六」という言葉そのものに「釈迦像」という意味を有していたと考えました。ところが、正木さんから釈迦三尊像は「丈六佛」ではなく「等身佛」であるとのご指摘を受けて深く考え、改めて調査したところ、同釈迦像は「周半丈六佛」であることに気づきました。
 佛像の大きさの基準として、仏典に見える釈迦の身長「丈六」(1丈6尺:約4.8m、座像の場合は約2.4m)と同じ佛像は丈六佛と呼ばれ、その半分の高さの佛像は「半丈六」とされます。更にその4分の3の尺度である「周尺」に基づいた佛像を「周丈六」(1丈6尺:約3.6m、座像の場合は約1.8m)と呼ばれ、その半分の「周半丈六」の座像は約0.9mとなります。法隆寺釈迦三尊像の釈迦像の身長(座像高)は0.875mですから、ほぼ一致します。ですから、この「周半丈六」を「丈六」と当時の法隆寺では呼ばれていたのではないでしょうか。
 以上のようにわたしは考えていますが、この場合、「周半丈六」という言葉や概念が7世紀前半頃に存在していたことを証明しなければなりませんが、今のところ史料根拠を発見できていません。ですから、このわたしの仮説は不安定なものです。先の加藤さんのご意見とどちらが良いのか、あるいはもっと優れた仮説があるのかを考えたいと思います。なお、同釈迦像を「周丈六像」とする見解を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のホームページ「sanmaoの暦歴徒然草」(2019.04.12)で詳しく発表しておられましたので、意を強くしました。(つづく)


第1870話 2019/04/06

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(6)

 釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの正木さんからの指摘に答える前に、なぜわたしは『法隆寺縁起』に記された「丈六」を釈迦三尊像のことと理解したのかについて説明します。
 『法隆寺縁起』に記されたほとんどの献納品は、たとえば「丈六分」の他には「佛分」「薬師佛分」「弥勒佛分」「観世音菩薩分」「法分」「聖僧分」「塔分」「通分」などのように何に対しての施入かが記されています。そしてその順番を見ると、「丈六分」は先頭に記されています。たとえば次のようです(「丈六分」そのものが含まれていない施入例もあります)。

 「(前略)
  合香鑪壹拾具
   丈六分白銅単鑪壹口
  佛分参具
  彌勒佛分白銅壹具
 法分白銅弐具
   塔分赤銅壹具
   通分白銅弐具
 (中略)
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城
 宮皇后宮者」

このように天平八年二月二十二日に光明皇后らから施入された献納品の筆頭の多くは「丈六分」とされており、この「丈六」を「二月廿二日」に没したことが記された唯一の仏像である釈迦三尊像と理解する他ないのです。『法隆寺縁起』には「薬師佛分」「彌勒佛分」「観世音菩薩分」とかの仏像は見えるのですが、釈迦三尊像を示す「釈迦分」という表記がないことも、「丈六」を釈迦三尊像のこととするわたしの理解を支持しています。
 『法隆寺縁起』の最初の方には当時の法隆寺にあった仏像について「合佛像弐拾壹具」とあり、その二十一体の仏像について記されています。最初の一体は「金埿銅薬師像壹具」でこれは光背銘を持つ有名な薬師如来像です。二番目に釈迦三造像が「金埿洞(ママ)釈迦像壹具」とあり、それ以外に光明皇后が「丈六分」として「二月廿二日」に大量の施入をするような発願者名などが特筆された仏像は見当たりません。こうした理由から、わたしは「丈六」を釈迦三尊像と理解しました。この二十一体の他にも献納された諸仏像が記されていますが、やはり「丈六」に相応しい仏像の記録はありません。
 他方、これは正木さんから教えていただいたのですが、法隆寺の西円堂には文字通りの丈六(座像で像高246.3cm)の薬師如来像が安置されています。寺伝では養老二年(718)に光明皇后の母、橘夫人の発願により行基が建立したとされていますが、仏像史研究によればこの薬師如来像は八世紀後半頃のものとされていますから、光明皇后らが施入した天平八年(736)の頃には西円堂の薬師如来像はまだ存在していなかったと思われます。
 更に『法隆寺縁起』には、養老六年(722)にも「平城宮御宇天皇(元正天皇)」による「丈六分」とする施入記事があることから、やはりこの「丈六」を八世紀後半頃と編年されている西円堂の薬師如来像とすることは困難と思われます。もし養老二年頃に西円堂が建立され、本尊の薬師如来像が安置されたのであれば、そのこと自体が『法隆寺縁起』に記されるはずですが、そのような記事は見えません。
 なお付言すれば、同薬師如来像の編年が八世紀初頭頃まで遡るとなれば、「丈六」の有力候補となります。この点、仏像史研究を調べてみたいと思います。(つづく)


第1869話 2019/04/03

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(5)

西村秀己さんに続いて、本連載を読まれた正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)からもまたまた鋭いご指摘をいただきましたので、ちょっと寄り道をしてご紹介します。
 拙論では、大和朝廷の人々が天然痘の脅威を九州王朝(倭国)や同じく伝染病で次々と病没した倭国王家の祟りと考え、その魂を沈めるために、病没した上宮法皇(多利思北孤)の命日である天平8年「2月22日」に法隆寺で法会を執り行い、大量の献納品を施入したと指摘しました。その一例として『法隆寺縁起』の次の献納記事を紹介しました。

 「丈六分銀多羅弐口〔一口重九斤 一口九斤二分〕
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城宮
 皇后宮者」(『寧楽遺文』による。〔〕内は細注)

 施主の「平城宮皇后」とは聖武天皇の后で藤原不比等の娘、光明皇后のことで、異父姉無漏王も同日に白銅鏡一面を「丈六分」として施入していることも紹介しました。この「丈六」を法隆寺の釈迦三尊像のこととし、その光背銘に記された上宮法皇の命日「二月廿二日」に施入したと説明したのですが、正木さんよりこの釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの指摘がありました。
  確かに、銘文には「造釋像尺寸王身(尺寸の王身の釈像を造る)」とあり、文字通り上宮法皇と寸分違わず作製された釈迦像と考えざるを得ません。どんなに誤差を想定しても「丈六」(一丈六尺=約4.85m。座像の場合は半分の2.43m)ではありません。言われてみればその通りで、意表を突かれた指摘でした。(つづく)


第1867話 2019/03/31

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(4)

 「洛中洛外日記」1866話〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)〟を読まれた西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、高松市)から重要なご質問メールをいただきました。それは、大宝元年(701)の王朝交替の80年も前に没した「上宮法皇」が大和朝廷に祟ったなどと大和の人々が考えるだろうかという疑問です。まことにもっともな疑問です。これに対して、わたしは次のような理由から、大和朝廷は天然痘の流行を九州王朝やその天子「上宮法皇」(古田説によれば『隋書』に見える阿毎多利思北孤のこと)の祟りと考えたのではないかと思います。

① 天智9年(670)に全焼した法隆寺(若草伽藍)の跡地に、王朝交代後の和銅年間に大和朝廷は多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院(場所や名称は不明。古田学派内でも諸説ある)とその本尊(釈迦三尊像)を移築している(現・法隆寺西院伽藍)。移築の痕跡は米田良三著『法隆寺は移築された』に詳しい。その寺院・仏像を簒奪した〝後ろめたさ〟を大和朝廷は抱いていたものと思われる。
② 光背銘によれば、九州王朝(倭国)王家の人々が相次いで没している。次の通りだ。

 法興31年(621)12月   鬼前太后
法興32年(622)2月21日 干食王后
 法興32年(622)2月22日 上宮法皇

 死因は「上宮法皇、枕病してよからず。干食王后、よりて以て労疾し、並びに床につく。」とあり、病没である。王家の人々が次々と没していることから、おそらく伝染病が倭国王家を襲ったものと思われ、この事実は一大事件として倭国内で伝承されていたことを疑えない。もちろん近畿天皇家にも伝わっていたであろうし、何よりも法隆寺に伝わった光背銘文に記されており、王朝交代後の大和朝廷の人々の目にも触れていた。
 こうした経緯から、同じく伝染病(天然痘)の脅威にさらされた大和朝廷にとって、病没した多利思北孤ら倭国王家の怨念を沈める必要を感じたのではあるまいか。
③ そして何よりも大和朝廷中枢を襲った天然痘が九州(大宰府官内)から発生したものであり、これを自らが滅ぼした「九州王朝の祟り」と考えても不思議ではない。
④ 他方、大和朝廷は未服従の九州王朝残存勢力を「隼人」討伐と称して、養老4年(720)まで南九州への軍事侵攻を続け、九州の人々の恨みをかってきた。

 以上のような理由により、大和朝廷の人々が天然痘の脅威を九州王朝や同じく伝染病で次々と病没した倭国王家の祟りと考え、その魂を沈めるために、多利思北孤の命日である天平8年「2月22日」に法隆寺で法会を執り行い、大量の献納品を施入したとする仮説をわたしは発表したのでした。(つづく)


第1866話 2019/03/30

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)

 拙稿「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)において、『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に集中していることを根拠に、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」の命日「法興三十二年(622年)」「二月廿二日」は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日の推古29年(621)2月5日とは明確に異なり、両者は別人です。他にも、光背銘には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されており、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。しかし、「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。
 以上のように、法隆寺の釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平8年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者や官僚たちがそのことを誰も知らなかったとは万に一つも考えられないのです。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院であり仏像であることをわかったうえで、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。その大量の施入を記した『法隆寺縁起』に不思議な施入記事があることに、わたしは気づきました。(つづく)


第1865話 2019/03/29

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(2)

 天平十九年(747)に成立した『法隆寺縁起并流記資財帳』によれば、次のような法隆寺へ献納物が奉納日・奉納者と共に記されています。

 「丈六分銀多羅弐口〔一口重九斤 一口九斤二分〕
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城宮
 皇后宮者」(『寧楽遺文』による。〔〕内は細注)

を筆頭に、「白銅鏡肆面」「香肆種」「白筥二合」「革箱肆号」が施入されています。
 『法隆寺縁起』によれば、光明皇后からの施入が際立って多いのですが、異父姉無漏王も同日に白銅鏡一面を「丈六分」として施入しています。この「丈六」とは丈六の仏像である釈迦三尊像のことと思われますから、ときの大和朝廷の光明皇后らが、九州から発生した伝染病の脅威を沈めるために、九州王朝の天子・多利思北孤の命日「二月廿二日」に、斑鳩に移築した九州王朝の多利思北孤を模した釈迦三尊像を本尊とする「法隆寺」に献納品を施入しているのです。
 この史料事実から、法隆寺を九州王朝の天子・多利思北孤鎮魂のための寺院とする仮説をわたしは発表したことがあります(「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)。このことを来月十九日開催(奈良県立情報図書館、古代大和史研究会主催・原幸子代表)の講演会で紹介しようと、『法隆寺縁起并流記資財帳』を読み直していたのですが、そこに不思議な記事があることに気づきました。(つづく)


第1325話 2017/01/21

九州年号「継躰」建元の追号説

 本日の「古田史学の会」関西例会では偶然にも九州年号「継躰」建元について二件の研究が報告されました。
 一つは西村さんによるもので、『二中歴』にのみ最初の九州年号「継躰」が見える理由として、九州王朝が梁の冊封から離脱して「善記」という年号を公布したとき、それ以前に「継躰」という年号も遡って「公布」、すなわち追号したとする仮説(アイデア)です。追号という事情により『二中歴』以外の史料には「善記」を「最初の年号」と記されることになったとされました。この仮説の成立や論証過程は西村さんから論文として発表されることと思いますが、単なるアイデアとは思えない説得力もあり、今後の論争が期待されます。
 二つ目は正木さんからの研究報告です。『聖徳太子伝暦』に見える「遷都予言記事」(九州王朝の多利思北孤の記事と思われます)の中に、「聖徳太子」46歳のとき(617年)から100年前(517年)に都を置いたというような記事があるのですが、この517年が九州年号の「継躰」建元の年に一致します。このことから、正木さんは筑後のある場所に筑紫君磐井が遷都し、それを記念して「継躰」建元した史料痕跡ではないかとされました。また、617年の翌年には九州年号が「倭京」と改元されるのですが、この年が太宰府遷都の年とする仮説をわたしは発表したことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号 2002年、「『太宰府』建都年代に関する考察」『古田史学会報』65号 2004年)。今回の正木さんの報告は「継躰」建元年にも遷都の痕跡を発見されたものです。この『聖徳太子伝暦』の「遷都予言記事」は、九州王朝の遷都関連記事を「聖徳太子」の事績としてまとめて記録したものとする理解が可能となり、とても興味深い発表でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
①『別府の風土と人のあゆみ』の宣伝(奈良市・水野孝夫)
②倭国年号建元を考える(高松市・西村秀己)
③古代九州の国の変遷(茨木市・満田正賢)
④倭国と狗奴国の紛争(相模原市・冨川ケイ子)
⑤出野正・張莉著『倭人とはなにか』-漢字から読み解く日本人の源流-(奈良市・出野正)
⑥洛陽発見の三角縁神獣鏡の銘文から(八尾市・服部静尚)
⑦文字伝来と北朝認識(八尾市・服部静尚)
⑧井上信正氏講演会の報告「大宰府 古代都市と迎賓施設」(京都市・古賀達也)
⑨九州王朝の王都の変遷と筑後勢力(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の準備・02.16 「大阪さくら会」で服部氏が講演・02.25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・7月久留米大学で古賀が講演・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・その他


第1237話 2016/07/24

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(13)

 九州王朝が九州から遠く離れた難波になぜ前期難波宮(副都)を造営できたのかという問題について、わたしは九州王朝と摂津難波が何らかの事情で密接な関係があったと考えていました。それは現存最古の九州年号群史料『二中歴』に見える次の記事などが根拠でした。

 「倭京二年、難波天王寺を聖徳が造る。」『二中歴』「年代歴」(古賀訳)

 九州年号の倭京二年(619)に聖徳という人物が難波に天王寺を造ったという記事で、九州年号によって記録されていることから、九州王朝系の記事と考えられます。
 当初わたしはこの記事の「難波」を博多湾岸付近ではないかと考え、7世紀初頭の寺院遺跡や地名を調査したのですが、見つかりませんでした。そこで「難波」「天王寺」とあるのだから摂津難波の四天王寺のこととする理解が妥当と気づき、四天王寺は元来「天王寺」と呼ばれていたことに気づきました(明治時代の地名は天王寺村、「天王寺」銘の瓦も出土)。
 また、当地(大阪歴博)の考古学者による四天王寺の創建年が620年頃とされている事実から、『二中歴』という九州年号史料と考古学編年(軒丸瓦の編年)が一致してることから、『二中歴』に倭京二年に創建されたと記されている難波天王寺は摂津難波の「天王寺」であるという結論に到達したのです。
 倭京二年(619)は九州王朝の天子、多利思北孤の時代ですから、難波天王寺を造営した「聖徳」と記された人物は九州王朝の有力者と考えられます(正木裕さんの説では多利思北孤の息子の利歌彌多弗利)。こうした論理展開により、多利思北孤の時代には難波は九州王朝が寺院を建立できるほどの、いわば直轄支配領域とする認識へと至ったのです。
 他方、九州王朝の天子が九州から瀬戸内海を行き来していたことを、古田先生は『万葉集』の史料批判により明らかにされていましたから、海上交通の要地である難波が九州王朝支配領域としても矛盾はありません。(つづく)


第1214話 2016/06/21

「須恵器杯B」発生の理由と時期

 今朝は朝一番の新幹線で九州に向かっています。熊本・島原・天草・鹿児島・宮崎・久留米・福岡とハードな行程が代理店により組まれました。熊本や天草は昨日からの大雨で被災している所もあり、やや心配です。

 「古田史学の会」関西例会では西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)が古代史関係の新聞記事の切り抜きコピー(古田史学の会・関西例会「古代史ニュース」)を配付されておられ、とても参考になります。先日の関西例会でもいただいたのですが、7世紀の土器の変化に関する興味深い記事があり、急遽、そのことに関して発表させていただきました(須恵器杯Bの発生事情と時期)。
 その記事は奈良文化財研究所研究委員の小田裕樹さん(35)へのインタビューコラム「テーブルトーク」(6月1日・朝日新聞夕刊)で、見出しに「土器が語る食卓の『近代化』」とあり、須恵器杯がH・GからBへ変化した理由と時期についてがテーマです。小田さんは7世紀の土器の変化について次のように語られています。

 「推古天皇や聖徳太子が活躍した7世紀前半は、丸底の食器を手に持ち、手づかみで食べる古墳時代以来のスタイル。しかし7世紀後半の天智・天武天皇の時代に、平底から高台つきの食器を机や台に置き、箸やさじで料理を口に運ぶ大陸風のスタイルに変わったようです」

 小田さんのこの発言に続いて、次のように今井邦彦記者は解説しています。

 「そのきっかけは663年に日本の派遣軍が朝鮮半島で唐・新羅連合軍に敗れた『白村江の戦い』だったとみる。日本はその後、唐をモデルにして律令制を導入するなど『近代化』を急速に進めた。それが宮殿での食事のスタイルにも及んだようだ。」

 この記事にある「丸底の食器」とは、古墳時代からある須恵器杯H(蓋につまみがない)と近畿では7世紀前半から中頃に流行する須恵器杯G(蓋につまみがある)のことと思われます。「高台つきの食器」とは底に脚がある須恵器杯Bと思われ、その発生を天智・天武の頃(660〜680年頃)とされています。この編年はいわゆる「飛鳥編年」と呼ばれている土器編年に基づいており、奈良文化財研究所の研究員である小田さんはその立場に立っておられるようです。
 他方、前期難波宮整地層から出土した須恵器杯Bが7世紀中頃以前のものとする大阪歴博の考古学者による「難波編年」とは「飛鳥編年」が微妙に異なっていることから、両者のバトルはまだ続いているのかもしれません。わたしは大阪歴博の考古学者の7世紀の難波の土器(須恵器)や瓦(四天王寺創建瓦:620年頃と展示。『二中歴』にも「倭京二年(619)の創建」と記されており、歴博の展示と一致)の編年は正確であると支持していますが、須恵器杯Bの発生について、九州王朝(北部九州、大宰府政庁1期下層出土など)において7世紀初頭頃と考えています。
 今回の記事でわたしが最も注目したのは、須恵器杯Bの発生理由として、中国(唐)文化の受容によるものとされた点です。確かに机の上に碗を置いてお箸を使って食事するのであれば、丸底丸底(須恵器杯H・G)よりも脚のある安定した須恵器杯Bの方が食べやすいのは当然です。そうした中国の文化を受容したという意見には説得力を感じるのですが、それなら白村江戦(663年)敗北後では遅すぎます。
 『隋書』にあるように7世紀初頭には倭国と隋は親密な交流を行っており、中国文化を真似て机の上で食べやすい須恵器杯Bを造るくらいは簡単なことです。また隋使は倭国(阿蘇山がある北部九州)を訪問しており、その隋使を饗応するさいに、丸底の碗で手づかみで食べろとは言わなかったと思います。国賓にふさわしい容器と豪華な食事でもてなしたはずです。それとも、法隆寺や金銅製の釈迦三尊像は造れても、須恵器杯Bは7世紀後半まで造れなかったとでもいうのでしょうか。わたしにはそのような見解は到底理解できません。
 以上のように、須恵器杯Bの発生理由を中国文化の受容とするのであれば、その時期は白村江戦後ではなく、遅くとも隋と交流した7世紀初頭頃であり、その交流主体であった九州王朝で近畿よりも先に発生したとするわたしの仮説を支持するのです。
 このような論理性と出土事実は九州王朝説とよく整合しますが、大和朝廷一元史観の呪縛から逃れられない真面目な論者は、これからも須恵器杯Bの編年に苦しみ続けることになるのではないでしょうか。

 今、列車は山口県内を走っています。あと30分ほどで博多駅に到着です。