多利思北孤一覧

第998話 2015/07/10

祇園山鉾、昔は66基

 京都の町も祇園祭の準備が本格的に始まり、鉾町では鉾の組立が進められています。今日乗ったMKタクシーのドライバーの方は観光課所属とのことで、祇園祭についてかなり詳しく解説していただきました。さすがは京都を代表するタクシー会社らしく、博学な方でした。
 そのお話しによれば、現在の山鉾は33基ですが、本来は66基とのこと。そこで、わたしは「66基とは日本国内の国の数ですか」とたずねると、「その通りです」とのご返事。「聖徳太子」が分国して66国になったとする論文「『聖徳太子』による九州の分国」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』収録)で、九州王朝の天子、多利思北孤が66国に分国したと書きましたので、それが京都の祇園祭にも影響を及ぼしていたことを知り、感慨深く思いました。
 祇園祭のクライマックス「山鉾巡行」は毎年7月17日に執り行われますが、鉾町に転居した新参者が商売の売り上げが増えるよう、土日に開催してはどうかと意見したところ、「祇園祭の伝統を何と心得る」と厳しい叱責を受けたとのエピソードもあったそうです。伝統文化を護る京都らしい話しです。
 なお、山鉾巡行が最も有名な行事ですが、一番重要な行事は御神体を乗せた3基の御神輿による八坂神社から御旅所への往復です。スサノオの命と奥さんと子供を乗せた3基の御神輿が祇園祭の「主人公」なのです。この御神輿の行列には厳しいしきたりがあり、少なくとも三年は参加しないと、担がせてもらえないと聞いたことがあります。
 祇園祭が終わると京都も梅雨明けします。そして本格的な夏を迎えるのですが、体調管理に気を付けて、今年も乗り切りたいと思います。


第984話 2015/06/20

九州王朝の御子孫が例会参加

 本日の関西例会には大阪市在住の隈(くま)さんが初参加されました。そのお名前が気になり、どちらのご出身ですかとお聞きしたところ、久留米市大善寺とのこと。やはりそうだったのかと思いました。というのも、九州王朝の王族と思われる高良玉垂命の9人の皇子(九躰皇子)の「長男」シレカシ命の御子孫が大善寺玉垂宮の神官の隈家とされており、その御一族のようです。隈さんのお話でも、久留米市大善寺には隈を名乗る家が多いとのことです。
 大善寺玉垂宮の史料には端政元年(589年)に玉垂命が崩御されたとあります。その次代の天子が有名な「日出ずる処の天子」阿毎多利思北孤ですから、隈さんは九州王朝の天子の一族の御子孫ということになります。関西例会で九州王朝の御子孫にお会いでき、とても驚きました。ちなみに、隈さんは「古田史学の会」ホームページに掲載されたわたしの「九州王朝の筑後遷宮」にある大善寺玉垂宮の隈氏に関する記事を読まれ、関西例会に参加されたとのことでした。
 6月例会の発表は次の通りでした。

〔6月度関西例会の内容〕
①元嘉暦が11年ずれたとしたら(高松市・西村秀己)
②再び、日本列島の「倭人」国と朝鮮半島の内の「倭」について(奈良市・出野正)
③中国の王朝は二倍年暦か?(奈良市・出野正)
④再び「倭人貢暢」論議(奈良市・出野正)
⑤相撲の起源(京都市・岡下秀男)
⑥推古紀が明かす近畿朝の真統譜(大阪市・西井健一郎)
⑦大化改新の論点を整理する(八尾市・服部静尚)(八尾市・服部静尚)
⑧「神武東征譚」はリアルか、また、ニギハヤヒ王朝からの「譲位・譲国」ではなかった?(東大阪市・萩野秀公)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(『三国志』短里問題の論文執筆。『古代に真実を求めて』次号に掲載予定、『隋書』「犬を跨ぐ」が原文、「志賀島の金印」出土地に疑義、神社の狛犬はライオンか犬か、来日した最初の僧はインドから?)・新年度の会役員人事・5/17会計監査実施・5/23「古田史学の会・四国」と大阪で懇親会・「船の科学館」で南極観測船宗谷を見学・テレビ視聴(NHK歴史ヒストリア「古代日本の愛の力」)・その他


第979話 2015/06/13

健軍神社「兄弟元年創建」史料

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市最古の神社とされる「健軍神社」の創建年がウィキペディアには「欽明19年(558年)」とされていることをご紹介しました。この年が九州年号「兄弟」元年に相当するので、史料根拠を探してみたところ、『田代之宝光寺古年代記』に次のように記されていることを発見しました。

(前略)
「戊刀兄弟 天下芒(暁)ト言健軍社作始也 老人皆死去云々」
「己卯蔵知」
(以下略)
※「戊刀」は「戊寅」のこと。「暁」は金偏に「堯」。「蔵知」は『二中歴』には「蔵和」とある。(古賀注)

 田代之宝光寺は「鹿児島県肝属郡田代村」にあったお寺のようで、わたしが持っている活字本コピーの解説によれば「島津図書館にあった本を写したものである」とされています。このコピーはかなり以前に入手したもので、残念ながら出典は不明です。『田代之宝光寺古年代記』は九州年号の「善記元年」(522)から延寶六年(1678)まで記されており、それ以後は切れていて残っていないとのことです。
 兄弟元年戊寅(558年)に「健軍社作始也」とありますから、九州年号により健軍神社の創建年が記された貴重な史料であり、九州王朝下により創建されたことがうかがわれます。
 「天下芒(暁)ト言」の意味はまだわかりません。ご存じの方があればご教示ください。
 「老人皆死去云々」は『二中歴』など他の九州年号群史料には「蔵和」の位置にありますが、『田代之宝光寺古年代記』には「兄弟」の位置に記されているようです。ただし、年代記の類は狭いスペースに記事が書き込まれているケースが多く、位置がずれたり混乱することもありますので、やはり他の九州年号群史料に従って、本来は「蔵和」にあったと考えた方がよいように思われます。
 老人が「皆死去」したというのですから、流行病でも発生したのかもしれません。また、「云々」とありますから、引用した元史料にはその様子がもっと詳しく書かれていたのでしょう。
 林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)の説によれば、「老人死」を老人星が見えなくなるという意味であり、国家に内乱が発生したことの暗喩であるとされています。しかし、「皆死去」とありますから、老人星なるものが「皆」というほど天空にたくさんあったとも思われませんから、やはりここは「老人が大勢亡くなった」と文章通り普通に理解したほうが良いように思います。
 いずれにしましても、健軍神社の縁起や伝承記録を引き続き調査し、九州王朝との関係を更に調べることにします。熊本市現地の方のご協力をお願いいたします。


第978話 2015/06/12

「兄弟」年号と筑紫君兄弟

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市の「最古の神社」とされる健軍神社が「欽明19年(558年)」の創建で、この年こそ九州年号の「兄弟」元年に相当することから、「兄弟統治」を記念して「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないかと述べました。
 この「兄弟」年号に関して興味深い論稿が林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)から発表されました。「『二中歴』年代歴の「兄弟、蔵和」年号について(追加)」(『東海の古代』第178号、2015年6月。「古田史学の会・東海」発行)という論文で、「兄弟」年号は6年間継続したとする新説が主テーマです。その中で『日本書紀』欽明17年条(556)に見える、筑紫君の二人の子供「火中君」(兄)と「筑紫火君」(弟)こそ、九州王朝の兄弟統治の当事者ではないかとされました。欽明17年の2年後が九州年号「兄弟」元年(558)ですから、その可能性は高そうです。わたしもこの兄弟のことは知っていましたし、論文でもふれたことがありますが、九州年号の「兄弟」と時代的に関係するものとは気づきませんでした。さすがは九州年号研究を永く続けられてきた林さんならではの慧眼です。
 わたしは九州王朝の兄弟統治における兄弟の一人が「肥後の翁」ではないかと考えてきましたが、筑紫君の兄弟の名前が共に「火」の字を持っていることから、「火国」=「肥国」と考えられ、どちらかが「肥後の翁」ではないでしょうか。肥後の古代史が九州王朝との関係から、ますます目が離せなくなってきました。


第965話 2015/06/01

九州王朝の兄弟統治と「兄弟」年号

今朝は菊池市のホテルにいます。鞠智城を見学するため、菊池市内のホテルを予約していただきました。昨日の菊水史談会(石山仁明会長)主催の和水町中央公民会での講演会には約100名の参加者があり、盛況でした。主催者の説明によると和水町外からの参加者も多く、インターネットを見て参加された人も少なくなかったそうです。2時間ほど講演しましたが、皆さん最後まで熱心に聴講され、持ち込んだ『盗まれた「聖徳太子」伝承』も完売しました。ありがとうございました。
講演終了後は菊水史談会の皆さんと懇親会があり、夕食をご一緒しながら、時間の都合で講演では話せなかった新「発見」について追加発表させていただきました。
今回の講演のキーワードは「兄弟統治」「二人の天子」です。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」によれば、イ妥国は夜は兄、昼は弟が統治するという兄弟統治という体制でした。九州年号にも「兄弟」(558年)があり、この「兄弟統治」との関係をうかがわせます。そして、天子(兄か弟)が筑紫(久留米)の多利思北孤であり、もう一人の天子(弟か兄)は筑紫舞に見える「肥後の翁」ではないかとする作業仮説が考察の出発点でした。
昨日、早く着いた新玉名駅で観光案内パンフレットを読んでいますと、熊本市の案内に「市内最古の神社」として健軍神社が紹介されていました。「最古」とあるだけで具体的年代は書かれていないので、スマホで調べてみると、ウィキペディアには「欽明19年(558年)」の創建とされていました。この創建年こそ九州年号の「兄弟元年」に相当するのですが、神社創建と改元には関係があるのではないかと考えています。「兄弟統治」を記念して、九州年号は「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないでしょうか。これから調査したいと思います。

もうすぐ菊水史談会事務局長の前垣芳郎さんと考古学者の高木正文先生がホテルまで迎えに来られます。両氏の御案内で鞠智城を初訪問します。とても楽しみです。


第951話 2015/05/13

鞠智城と

古代官道「車路(くるまじ)」

「蜑(アマ)の長者」伝説などを調べているうちに、肥後にあった古代の官道「車路(くるまじ)」の存在を知りました。鞠智城についてずっと気になっていたこととして、鞠智城の位置が古代官道「西海道」から離れており、このことが何とも理解しがたい疑問として残っていたのです。しかし、この「車路」の存在を知り、ようやく納得することができました。今回はこの問題について説明したいと思います。
「洛中洛外日記」944話「隋使行程記事と西海道」で述べましたように、隋使は筑後(久留米市)から大牟田へ抜けたのではなく、内陸部を通る官道「西海道」(現・九州縦貫道のルートにほぼ相当)の「十余国」を経て肥後の「海岸に達した」と、『隋書』の記事から理解したのですが、そうすると玉名郡の江田(和水町)から菊池川を下って有明海に出るか、そのまま南へ進み熊本市付近で「海岸に達した」と考えられるのですが、いずれの行程も更に東にある鞠智城には至りません。すなわち、西海道から離れ、江田付近から東へ向かわなければ鞠智城に至らないのです。
『隋書』の記事の通り隋使が「海岸に達し」かつ「噴火する阿蘇山」を見たのであれば、鞠智城経由では阿蘇山の噴火は見えても、「海岸に達する」ことはできませんから、うまく行路を説明できません。この問題がずっと疑問として残っていたのです。やや強引に理解すれば、江田から一旦東の鞠智城に向かい、その後、江田まで戻り菊池川を下って海岸に達したと理解することも可能ですが、『隋書』の行路記事を素直に読めば、これは隋使が鞠智城に行ったとするための強引な説明(こじつけ)に過ぎず、やはりわたし自身を納得させることはできませんでした。
ところが「蜑(アマ)の長者」伝説によれば、肥後国府(熊本市)から鞠智城に至る「車路」を「蜑(アマ)の長者」が造営したとあり、現地研究者の調査により、古代官道・西海道よりも東側を通るルートに「車路」に関わる地名が転々と存在していることが確かめられました。しかも、その「車路」は鞠智城から更に江田方面に延びており、西海道に合流しているのです。
こうした研究成果から、わたしは九州王朝の時代の「西海道」は江田から鞠智城を経過し肥後国府(熊本市)の「車路」のルートではなかったかと考えています。九州王朝が造営したあれほどの城塞都市(鞠智城)が、同じく九州王朝が造営した「西海道」とは無関係の位置にあったとは考えにくいからです。従って、九州王朝造営の古代官道「西海道」は、九州王朝滅亡後には鞠智城の存在価値が低下したり、あるいは存在目的が変わったため、筑後国府から肥後国府をより短距離で結ぶルートとして現「西海道」になったのではないでしょうか。なお、「西海道」という名称は701年以後の近畿天皇家の時代になって作られたものと思われますから、この「西海道」の本来の名称は不明です。あるいは、九州王朝副都・前期難波宮を「中心」と考えれば「西海道」でもよいのかもしれません。この点も今後の研究課題です。(つづく)


第950話 2015/05/12

肥後にもあった

「アマ(蜑)の長者」伝説

山鹿市の「米原(よなばる)長者」が九州王朝の有力者「肥後の翁」の伝承であり、もしかすると天子(弟)かもしれないと考えています。なお、「よなばる」の「よな」とは火山灰のことだそうです。阿蘇山のある肥後に相応しい地名のようです。
今回、肥後の長者伝承を調べていてとても興味深い伝承の存在を知りました。なんと肥後の国府(熊本市)に「アマの長者」がいたという伝承があったのです。正確には「蜑(アマ)の長者」と呼ばれており、この「蜑(アマ)」という字の意味は海洋民、すなわち「海人」のことなのだそうです。九州王朝は天孫族に淵源を持っていますから、まさにこの「蜑」の字義と一致しています。何よりも多利思北孤の姓が「阿毎(アメ・アマ)であり、肥後の「蜑(アマ)の長者」も九州王朝の王族と見なしてもよいと思われるのです。
しかも、この蜑の長者の娘が米原長者に嫁入りしたという伝承まであるようで、たくさんの贈り物を米原長者に送るため、国府から鞠智城まで「車路(くるまじ)」を造営したとされています。この伝承から考えると、上位者は娘や貢ぎ物をもらった米原長者のようにも見えます。
「蜑の長者」「米原長者」とは九州王朝のどのような人物だったのでしょうか。肥後の現地伝承を多元史観・九州王朝説により調査検討する必要を感じています。すごい発見ができそうな予感がしてなりません。(つづく)


第949話 2015/05/11

「肥後の翁」の現地伝承

筑後地方(うきは市)の「天の長者」伝説が九州王朝の天子・多利思北孤かその一族の人物の伝承ではないかと考えていますが、同様に肥後地方にも九州王朝の長者伝説があれば、それが「肥後の翁」ではないかと思い、調査しました。
まだ調査途中ですが、鞠智城がある山鹿市米原には「米原(よなばる)長者伝説」があり、同じく山鹿市には「駄の原(だのばる)長者」伝説もありました。この他にも肥後には「長者伝説」があり、この中に九州王朝に関係する長者がありそうです。
今回、わたしは「米原長者伝説」に注目しました。ウィキペディア等の解説によれば、同伝説は三段階に分かれており、一段目は菊池郡の四丁分村(現在の菊池市出田周辺)に住む貧乏な男に都から高貴なお姫様が嫁ぎ、その男は裕福な長者になるというものです。これは各地にある「炭焼き長者伝説」と同類の説話です。
二段目は、山鹿市あるいは山本郡(熊本市植木町周辺)に権勢を誇る駄の原(だのはる)長者と、お互いの宝物を比べあい、金銀財宝を並べた米原長者に対して、多くの子供(子宝)を持つ駄の原長者が勝ったというもので、同類の伝説は筑後のうきは市にもあります。
三段目は、用明天皇の頃に長者という称号を賜った米原長者が、その広大な領地の田植えが昼間の内には終わらなかったため、沈みかけた太陽を引き戻して強引に田植えを続けたことに、天が怒って火の輪(玉)を降らして米原長者の領地(日岡山)を焼き尽くしたというものです。
この米原長者伝説の三段目に、わたしは特に注目したのですが、その理由は「用明天皇の頃(在位585〜587年)に長者という称号を賜った」という年代設定を持つ伝承だからです。これは多利思北孤の時代とほぼ同時期で、九州年号の勝照1〜3年に相当し、多利思北孤が即位した端政1年(589年)の直前なのです。
さらに、沈む太陽を引き戻すという行為が「昼を司る天子(弟)」に相応しい説話と思われることと、最後は「天」の怒りに触れて滅んだということも、九州王朝の兄弟統治を「義理なし」として隋の天子により廃止させられたことを反映した伝承ではないかと思われるのです。
このような長者伝承は後世において脚色されたり、その時代(後世)にふさわしい人名や事件に変質するという性格があるので、どの部分がどの程度の歴史事実を反映しているのかを見極めることが難しいのです。しかし、この米原長者伝説のケースは、時代が特定でき、鞠智城という九州王朝の造営による山城がある地域が舞台となっており、その鞠智城遺跡も出土し、「長者原」「長者山」「米原」という地名も現存しているという点で、大変有力な九州王朝系伝承と見なすことができるのです。引き続き、同伝説を記したより古い出典史料を探索したいと思います。(つづく)


第948話 2015/05/10

「肥後の翁」の考古学

 わたしが「肥後の翁」を九州王朝の天子ではないかと考えた理由は次のようなことでした。

1.筑紫舞の「翁」で主に活躍するのが「都の翁」ではなく、「肥後の翁」であること。
2.肥後地方に「天子宮」が濃密分布すること。
3.『隋書』によれば隋使が阿蘇山の噴火が見える地域(肥後)まで行っていること。
4.(タイ)国では、兄と弟により兄弟統治していること。従って、多利思北孤とは別にもう一人イ妥王がいたことになる。

 以上のような理由から、肥後に九州王朝の有力者がおり、それが筑紫舞の「肥後の翁」ではないかと考えたのです。そこで、今回は「肥後の翁」の考古学痕跡について紹介します。
 まず一つは弥生時代の鉄器出土数です。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)の論稿「鉄の歴史と九州王朝」(『古田史学会報』124号2014年10月所収)によれば、福岡県と熊本県の鉄器出土数の変遷は次の通りで、両県が群を抜いた国内最多出土県です。

    弥生前期 弥生中期 弥生後期・終末期(本)
福岡県    50  411   984
熊本県    1   41  1565

 服部さんの表では「鉄鏃」と「その他鉄器」を分けて表示されていますが、転載にあたり合計しました。このように、弥生後期・終末期になるとそれまでトップだった福岡県を抜いて、熊本県がダントツのトップとなるのです。その理由や出土状況の詳細は知りませんが、肥後が九州王朝内で重要な地域であったこと、すなわち有力者がいたことをこのデータは指し示しています。
 ちなみに、奈良県は前期0、中期0、後期・終末期6と、全国や近畿の他県よりも「圧倒的に貧相」な出土状況なのです。これは「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者や歴史学者の常識や理性を疑うに十分な考古学的出土事実と言わざるを得ません。
 二つ目の考古学的痕跡は、装飾古墳の出現が肥後地方が国内で最も多く、時期も早いという点です。昨年、玉名郡和水町にうかがったおり、当地の考古学者の高木正文さんからいただいた報告書「肥後における装飾古墳の展開」(高木正文著。『国立歴史民俗博物館研究報告』第80集、97-150頁、1999年3月発行)によれば、次のように肥後における装飾古墳の変遷が説明されています。抜粋します。

 「肥後(熊本県)には、現在約190基の装飾古墳が確認されており、数の上では全国一を誇っている。」
 「(八代市・天草島地域は)肥後で最も早い段階で朝鮮半島から横穴式石室が導入された所の1つでもある。肥後の装飾古墳はこの地域で出現し、他の地域へ波及したものと考えられる。」
 「八代・天草地域で出現した装飾古墳は、5世紀半には宇土半島に広がり、5世紀後半には熊本平野へも波及する。」

 このように装飾古墳が肥後の八代・天草地域から発生し、宇土半島・熊本平野へと波及しているのですが、全国的にも原初的発生地域と考えられ、また宇土半島で産出する石棺用のピンク石が他県や近畿の古墳でも使用されていることは有名です。こうした考古学的事実も肥後に九州王朝の有力者がいたことを指し示しているのです。(つづく)


第947話 2015/05/09

「肥後の翁」考への批判2件

「洛中洛外日記」で展開した「肥後の翁」考に対して、早速厳しいご批判2件をいただきましたので、紹介します。
本日、正木裕さん(古田 史学の会・全国世話人)が拙宅に見えられ、わたしの「肥後の翁」考に対して次の理由から間違っているのではないかとされました。すなわち、「肥後の翁」が 天子(兄)であり、隋使が肥後まで行って接見したのなら、『隋書』にそのことが書かれるはずである。しかし、全く書かれていない。従って、仮に隋使が肥後 で九州王朝の有力者に会ったとしても、それは天子(兄)ではない。『隋書』の文脈からも多利思北孤こそ天子(兄)であり、「肥後の翁」はむしろ「弟」と考 えるべきとされました。
その上で、多利思北孤は大善寺玉垂宮にいたと思われ、当地の地名に「夜明」があり、これこそ「夜明けまで政務を執ってい た夜の天子、多利思北孤(兄)」に相応しいのではないかとのこと。更に「日出ずる処」というのも、それまで「夜」だったということであり、これも「夜の天 子(兄)」に対応した呼称との考えも示されました。
なるほどもっともな批判だなあと恐れ入っていたところ、ちょうどそのとき高松市の西村秀己さ ん(古田史学の会・全国世話人)から電話があり、次の理由から「肥後の翁」考の根拠が不適切との、これまた厳しい批判がなされました。その不適切な根拠と は、「秦王」が「天子の弟」という記事は『隋書』にはなく、正しくは天子(高祖)の息子楊俊が秦王であり、兄の煬帝が天子に即位する前に亡くなっていると のこと。楊俊の子供も煬帝が天子に即位してから秦王に任ぜられており、いずれも「天子の弟」のときではないとのことでした。ちなみに、このことは古田先生 が『古代は輝いていた3』に記されていると指摘されました。
たしかに秦王国を「天子の弟の国」と理解し、そこに多利思北孤がいたことを前提に「肥後の翁」天子(兄)という「思いつき」を展開したのですから、その根拠が間違っていれば、「思いつき」も間違っている可能性大です。
このように、厳しいご批判2件の登場により、わたしの「思いつき」も見直しが必要かもしれません。まことに恐れ入りました。よくよく考えてみることにします。やはり持つべきものは、率直な学問的批判をしてくれる友人です。ありがとうございました。

第946話 2015/05/05

鞠智城の「肥後の翁」

 「肥後の翁」考も今回で最後の考察です。ここまで論理の飛躍や論理構成に無理や矛盾がないか、研究仲間の意見も聞きながら進めてきましたが、いよいよ最後の局面です。皆さんも「本当かいな」と批判的に読んでください。
 秦王国にいた昼を司る天子(弟)が多利思北孤とすれば、夜を司る天子(兄)はどこにいたのでしょうか。ここからは全くの推論ですが、筑紫舞の「翁」におい て、「都の翁」よりも中心人物(主役)とされる「肥後の翁」こそ、天子(兄)だったのではないでしょうか。そうであれば隋使がわざわざ阿蘇山の噴火が見え る肥後まで行った理由がわかります。天子(兄・肥後の翁)に接見するためだったのです。
 それではなぜ隋使は肥後まで行き、天子(兄)に会う必要 があったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、一つだけ考えられる理由と史料根拠があります。『隋書』の次の記事です。開皇20年(600年)国の使者が九州王朝の兄弟統治を説明したところ、隋の天子は次のように言って、その制度をとがめています。

「高祖曰く『此れ、はなはだ義理なし』と。是に於いて訓令して之を改めしむ。」

 兄弟統治などには「義理」がないので、止めさせたというのです。この高祖の訓令に従って、大業四年(608年)に九州王朝を訪れた隋使、裴清は秦王国で多利思北孤に会った後、更に十余国を経て、阿蘇山が見える地まで行ったのです。そしてその地で天子(兄)に接見し、兄弟統治をやめろという高祖の訓令を伝え たのではないでしょうか。
 隋使は肥後のどこで天子(兄)に接見したのかは不明ですが、あえてその候補地として「長者原」という地名を持つ城塞都 市・鞠智城をあげたいと思います。あの大規模な大野城をはじめ各地の神籠石山城に、その域内に「長者原」という地名が残っているのは、管見では鞠智城だけ です。また、鞠智城には九州王朝の他の山城には見られない八角堂の遺跡が発見されています。八角堂といえば九州王朝の副都前期難波宮にもあることが注目さ れます。両者の一致は、鞠智城が他の山城とは異なり、天子(兄)がいたことの傍証になるかもしれません。また、肥後に濃密に分布する天子宮の存在理由も、 「肥後の翁」である天子(兄)に淵源したと考えれば、うまく説明できそうです。
 以上のように、筑紫舞の「翁」で主役として活躍する「肥後の翁」 を、九州王朝の兄弟統治における天子(兄)とする考察を続けてきました。細い一筋の論理性と推論に依拠した仮説ですので、絶対に正しいとは言いませんが、 少なくともこの仮説により今まで疑問とされてきた様々なことが説明できるようになりました。他に有力な仮説がなければ、相対的に有力なものとして、今後検 証していただければと思います。


第945話 2015/05/04

「秦王国」の多利思北孤

今回も「肥後の翁」考の続きで、いよいよ核心部分の考察に入ります。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」に記された国名で、その所在地について古田学派内でも意見が分かれており、具体的な有力説が出されていない「秦王国」についての考察です。
秦王国は竹斯国の東と記されていますから、単純に考えれば福岡県の東部、あるいは更に東の瀬戸内海沿岸にあったとする理解も不当ではありません。しかし、 その後に「更に十余国進んで海岸に至った」とありますから、秦王国は内陸部にあったと考えなければなりません。そうすると豊前や瀬戸内海沿岸に秦王国が あったとする説は成立しません。従って、筑豊地方(飯塚市・田川市など)であればこの点はクリアできますが、ただ筑豊からは阿蘇山の噴火は見えません。
このように、秦王国を竹斯国(博多湾岸・太宰府付近)の真東とする理解よりも、古代官道の西海道を東南に進み、杷木付近で筑後川を渡河した先にある筑後地 方説が相対的に有力な説と考えられるのです。「九州王朝の筑後遷宮」という説をわたしは発表していますが、今の久留米市・うきは市に九州王朝が遷宮してい た、「倭の五王」時代から条坊都市太宰府造営(倭京元年、618年)までの期間に、『隋書』に記された多利思北孤の時代(600年頃)は入っていますか ら、そのとき都は筑後にあり、秦王国と称されていたことになるのです。
そして、真の問題はここから発生します。古田先生はこの「秦王」につい て、『隋書』には「隋の天子の弟」のこととして表れていると紹介されています。もしこの用例が倭国でも同様(模倣)であれば、多利思北孤は「日出ずる処の 天子」であると同時に「天子の弟」でもあることになってしまいます。この矛盾した「天子」概念が九州王朝ではあり得ることが、『隋書』「イ妥(たい)国 伝」に次のように記されています。

「(開皇20年、600年)使者言う。イ妥王天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聴くに跏趺して坐す。日出ずればすなわち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」

このように九州王朝では国王兄弟で夜と昼に分けて統治していたとあるのです。従って、「日出ずる」天子・多利思北孤は昼間の政治を担当していた「弟」と考 えられ、このことは既に古田先生も言及されておられたことです。従って、天子であり、弟でもある多利思北孤が秦王国(天子の弟の国)に居たとする理解は決 して荒唐無稽なものではないのです。なお、古田先生によれば、九州年号の「兄弟」(558年)も、こうした倭国における兄弟統治を背景に成立した年号とさ れています。(つづく)