九州王朝(倭国)一覧

第2470話 2021/05/24

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(11)

 ―古田説の変遷とその論理構造―

 「倭の五王」時代の倭国王都や領域についての古田説は研究の進展に伴って変化してきたことを説明してきました。そこで、本シリーズのまとめとして、古田説成立の論理構造と変遷した理由について解説します。これは学問の方法論を知る上でも重要な検証でもあります。まずは、「倭の五王」時代の倭国王都についての古田説の変遷を著書でたどります。

(1)『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。
〝五世紀末には、太宰府南方の基肄城あたりを中心としていた時期があったように思われる。なぜなら、このころ成立したと思われる『百済記』(三六七~四七六年の間、直接引用)が「貴国」(「貴倭女王」も、『百済記』の中に引用されていたと思われる晋の起居注に出現する)という表現を用いているからである。(中略)
 以上が文献上の微証から知りえたところであるけれども、「博多湾岸――基肄城――筑後」(ただし、「博多湾岸」は基肄城をもふくむ)という単線的な移行を想定すべきではない。なぜなら、のちの近畿天皇家の場合をモデルとして見ればわかるように、奈良県内の各地に都を転々とし、時には滋賀県(大津)、大阪府(難波)と、広域に都を遷しているからである。
 その点、九州王朝も、筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象として可能性をもっていた、といわねばならぬ。
 今、文献外の徴証を見よう。
 筑後の石人山古墳、人形原の古墳群、さらには筑後を中心としておびただしい壁画古墳(いわゆる「装飾古墳」)も、当然、この九州王朝との関連から、再び注目されねばならない。(中略)
 しかし、それらについては、わたしがこの本で採用した、外国史書による「文献の史料批判」という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属するであろう。〟同書「第五章 九州王朝の領域と消滅」「遷都論」、557~558頁

(2)『古代の霧の中から 出雲王朝から九州王朝へ』徳間書店、昭和六十年(1985)。
〝以上の分析によってみれば、この倭国の都、倭王の居するところ、それは九州北岸、すなわち博多湾岸以外にありえないのではあるまいか。
 ここで問題を整理してみよう。
 『宋書』夷蛮伝の「倭国」と「倭の五王」、それは五世紀の時間帯(四二一~四七八)だ。これに対する、この朴堤上説話の「倭国」と「倭王」、これも四世紀から五世紀にかけての存在だ。(中略)
 すなわち、讃―珍―済―興―武という、倭の五王、それは「筑紫の王者」、「博多湾岸の王者」であった。――これが帰結だ。〟同書「第五章 最新の諸問題について」、308頁

(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、平成元年(1989)。
〝これに対し、もし、遠く時間帯を「五世紀後半~七世紀」の間にとってみれば、いわゆる装飾古墳が、まさに、「筑後川以南」に密集し、集中している姿を見出すであろう。弥生と逆の分布だ。これはなぜか。この時期、倭国は北方の高句麗・新羅と対抗し、緊迫のさ中にあった。直ちに北方より「侵入」されやすい北岸部を避け、「筑後川という、大天濠の南側」に“神聖なる墳墓の地”を「集中」させることになったのではあるまいか、吉野ヶ里にしめされた「墳墓を『濠』で守る」という、同一の思想だ。弥生と古墳と、両時代とも、同じき「筑後川の一線」を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは「主敵方向」のみだ。
 この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」〟同書115~116頁

(4)『古田武彦の古代史百問百答』東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、ミネルヴァ書房、平成二六年(2014)。
〝「博多湾岸が中心であったのは弥生時代。高句麗からの圧力を感じるようになってからは後退していきます。久留米中心に後退します。玉垂命がおいでになったのが三一六年とか。高良山で伝えているわけです。筑後川流域に中心が移るわけです。移ったからと言って、太宰府を廃止して移ったのではなく、表は太宰府、実際は久留米付近となるわけです。二重構造になっているわけです。」〟同書「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁

 古田先生の著作を精査したところ、上記の著書で「倭の五王」の王都について論じられていました。見落としがあるかもしれませんが、古田先生の王都論・遷都論の変遷やそれを支えている論理構造が読み取れます。
 中でも最も論理的にその大枠を押さえながら、用心深く詳述されているのが初期三部作の一つ、(1)『失われた九州王朝』です。ある意味では、終生を貫く基本的な学問の方法が示されたものであり、感慨深いものがあります。特に、「筑紫(筑前・筑後)を中心として、時には九州全域が遷都の対象」という指摘は今日でも有効であり、示唆に富んでいます。この視点から、宮崎県の西都原古墳群も検証すべきでしょう。
 そして、学問の方法として、「文献史学の徴証」から「文献外の徴証」へ、すなわち「わたしがこの本で採用した、外国史書による『文献の史料批判』という方法ではなく、他の方法による追跡の領域に属する」という教導こそ、本シリーズでわたしが目指したものに他なりません。
 次いで(2)『古代の霧の中から』昭和六十年(1985)では、文献史学に基づき、「倭の五王」の王都を博多湾岸とされました。もっとも、同書の主要論点は「倭の五王」を大和朝廷とする通説への批判ですから、こうした結論を強調されたものと思われます。
 その点、「文献外の徴証」「他の方法による追跡の領域」に踏み込まれたのが、(3)「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」平成元年(1989)です。考古学という学問分野の結論として、「直ちに北方より『侵入』されやすい北岸部を避け、『筑後川という、大天濠の南側』に“神聖なる墳墓の地”を『集中』させることになったのではあるまいか」として、筑後遷都を示唆されたものです。
 この後、古田先生は「倭の五王」王都を大宰府政庁(Ⅰ期)とする見解に傾かれ、わたしとの〝論争的対話〟に至ります。そして最晩年での認識を示されたのが(4)『古田武彦の古代史百問百答』平成二六年(2014)でした。それは従来の「文献史学の徴証」と「文献外の徴証」(考古学)とを折衷されたとも思われる表現「表は太宰府、実際は久留米付近」で「倭の五王」王都を示されました。
 この結論は、本シリーズでわたしが推定した〝筑後川の両岸付近〟(注)と重なるものです。本年11月に開催予定の八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー、大学セミナーハウス)では「倭の五王」王都の所在がテーマの一つとされるようですので、今回、紹介した古田先生の著書・所論の成果や到達点を見据えた論議が望まれるところです。(おわり)

(注)筑後川北岸の夜須郡・朝倉郡と南岸の浮羽郡・三井郡・三潴郡。


第2469話 2021/05/22

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(10)

 ―「毛人五十五国」と仙台市の前方後円墳―

 神武東征やその後の銅鐸圏への侵攻により、近畿は「衆夷六十六国」に含まれたとわたしは捉えていますが、東方への侵攻は弥生時代に限らず古墳時代でも断続的に続いたのではないでしょうか。たとえば『日本書紀』景行天皇55年条に見える「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の記事もその一端のように思われます。ただ、この記事からは時代を特定しにくいため、「倭の五王」以前の事件なのかどうか慎重な検討が求められます(注①)。
 なお、彦狭嶋王は関東の大王であり、その伝承が『日本書紀』に転用されたとする仮説(注②)もあり、まだ研究途上のテーマです。従って、文献史学の分野からは、「衆夷六十六国」の領域(東限)がどの程度の範囲なのかは現時点では判断できません。その結果、「衆夷六十六国」の東にある「毛人五十五国」の領域もまた推定できていません。他方、考古学の分野では前方後円墳の分布がヒントになるかもしれません。
 「毛人五十五国」の領域を検討するうえで、わたしが注目してきたのが仙台市にある遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)と隣接する名取市にある東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)です。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。
 また、仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、当地は「蝦夷国」の中心領域だったのではないかと考えています(注③)。この理解が正しければ、「毛人五十五国」とは東北地方の「蝦夷国」を含む領域だった可能性があります。倭王武の「上表文」には「東征毛人五十五国」とありますから、倭国の軍事勢力が「毛人」領域に進駐(東征)しているはずですから、その痕跡としての前方後円墳や須恵器窯跡の証言力は小さくありません。また、「蝦夷国」の領域であれば「毛人」と称するにふさわしいと思います。しかしながら、「毛人五十五国」の正確な領域(全体像)は未だ不詳とせざるを得ません。(つづく)

(注)
①次の拙論で検討を続けたが、未だ結論は出ていない。
 古賀達也「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2002話(2019/09/28)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)〟
②藤井政昭「関東の日本武命」『倭国古伝』古田史学の会編、明石書店、2019年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1494話(2017/09/03)〝須恵器窯跡群の多元史観(5)〟
 古賀達也「須恵器窯跡群の多元史観 ―大和朝廷一元史観への挑戦―」『古田史学会報』144号、2018年2月。


第2468話 2021/05/21

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(9)

 ―倭王武「上表文」と大阪上町台地倉庫群―

 倭王武「上表文」の「東征毛人五十五国」の範囲について、古田先生は『古代通史』(注①)で「近畿の銅鐸圏中心の部分」と修正されました。その理由として、神武東征により倭国の支配地域が拡大したことをあげられました。『宋書』倭国伝の「上表文」にあるように、先祖代々から支配地を拡大したと倭王武は主張しています(注②)。「倭の五王」時代の旧銅鐸圏は既に倭国の支配領域になっていますから、「毛人五十五国」を銅鐸圏の中心領域としたことは、『失われた九州王朝』(注③)での「中国地方・四国地方(各、西半部)」とする理解よりも妥当と思います。こうした古田先生の修正方針には賛成なのですが、今のわたしには不十分な修正のように見えます。
 たとえば『日本書紀』の神武東征説話によれば神武兄弟は安芸や吉備勢力の支援を受けた後、大阪湾に突入していますから、その当時(弥生時代)の安芸・吉備は倭国の勢力圏内と見られます。そうであれば、その地域は古墳時代には「毛人五十五国」ではなく、「衆夷六十六国」に含まれていたと考えられます。更に神武東征後、銅鐸圏中枢の近畿が倭国の勢力範囲に入ったわけですから、「倭の五王」時代の五世紀(古墳時代)には近畿も含めて「衆夷六十六国」と理解した方がよいと思います。
 その考古学的根拠の一つとして、古墳時代における列島内最大規模の大阪上町台地の都市遺構の存在があります。この都市遺構について次のように報告されています。

 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(注④)
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(注⑤)

 古墳時代における最大規模の都市遺構である大阪上町台地倉庫群は「当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関」とする考察は重要です。おそらく同遺跡は古墳時代における九州王朝の「最重要の出先機関」ではないでしょうか。この理解が正しければ、「倭の五王」時代の近畿は「衆夷六十六国」に含まれていたとする、先の仮説を支持する考古学的出土事実になります。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
②倭王武「上表文」には、「自昔祖禰、躬擐甲冑、跋涉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。」とあり、歴代の倭王たちが軍事侵攻により支配領域を拡大させたと主張している。
③古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
④杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
⑤南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月。


第2467話 2021/05/20

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(8)

 倭王武「上表文」に見える倭国の領域「毛人」

 『宋書』の倭王武「上表文」に記された「東征毛人五十五国」の範囲について、古田先生は『失われた九州王朝』(注①)では「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされていましたが、『古代通史』(注②)では次のように修正されました。

〝倭王武がいっている「東のかた毛人」というのは、近畿銅鐸圏の支配のことだ、「毛人」というのは銅鐸圏の人々のことだ、というふうに私は理解すべきだったんです。(中略)
 要するに、「神武東行」にもとづく銅鐸圏の支配を「毛人、五十五国」といっている。この場合なお一言申しますと、たとえば吉備であるとか伊予であるとか、そういう所は入らなくていいわけです。そこは占領支配したわけじゃないですから。近畿の銅鐸圏中心の部分を「毛人」と呼び「五十五国」と呼んでいる。これも九州を「六十六国」というバランスでみれば、近畿でどれくらいの範囲を呼んでいるのかのだいたいの見当はつく、という話でございます。〟『古代通史』原書房版、234~235頁

 『失われた九州王朝』では、衆夷(九州島)の「六十六国」と比較して毛人の「五十五国」の範囲を「中国地方・四国地方(各、西半部)」とされたのですが、『古代通史』では神武東征により支配した銅鐸圏を「毛人五十五国」の範囲と修正されたものです。わたしはこの修正の視点(神武等による勢力拡大を重視)には賛成ですが、その領域を国数によって比較判断(注③)することと、衆夷(九州島)と毛人(銅鐸圏)の間に位置する吉備や伊予がどちらに属するのかについてが不鮮明であることには疑問を持っています。なお、『古代通史』において古田説が修正されていたことを日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)よりご教示いただきました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)編、2014年)によれば、国数比較による領域推定はできないと次のように回答されている。
〝そうすると倭の五王のところに書いてある国名も九州、筑紫を中心とした数です。しかしそれが、どこどこであるかということは、あの数からして割り振ることはできません。割り振ってもそれは小説のようなもので、歴史学とは関係ないわけです。「割り振ることができない」というのが歴史学です。ただ原点が筑紫であることは動かない、という立場です。〟345頁、第八回八王子セミナー(2011年)での回答。


第2466話 2021/05/19

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(7)

 倭王武「上表文」に見える倭国の領域「衆夷」

 今回は、『宋書』の倭王武「上表文」に記された倭国の支配領域と5世紀の考古学的事実(古墳)との対応について論じます。同「上表文」には次のように倭国の支配領域が記されています。

 「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国。」
〔釈文〕東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。

 古田先生の『失われた九州王朝』(注①)によれば、この領域(毛人・衆夷)について次のように説明されています。

 〝日本列島の西なる「衆夷」とは、みずからの都を中心として、それをとりまく九州の地の民それ自身をさすこととなる。すなわち、中国の天子を基点として、「東夷」なる、みずからを指していることとなろう。そして東夷の地たる九州のさらに東の辺遠(中国から見て)に当たる中国地方・四国地方(各、西半部)の民を「毛人」と呼んだこととなろう。〟『失われた九州王朝』ミネルヴァ書房版173頁

 このように古田説では「上表文」にある「衆夷六十六国」を九州島に、「毛人五十五国」を中国地方・四国地方(各、西半部)とされました。もちろん「海北九十五国」とは百済・新羅を含む朝鮮半島の国々です。この古田説は有力と思いますが、その上で他の可能性も考えられます。この点は後述します。
 「上表文」には東西と北の支配領域の国数は記されていますが、南の記事はありません。このことから、九州島より海を渡った南方の島国へは倭国は侵攻していないと考えられます。より精確に言えば、九州島の南端領域(薩摩地方)まで支配していたのかは、「上表文」からは判断できません。他方、考古学的出土事実から判断すれば、薩摩川内市の端陵(はしのりょう)古墳(四世紀中頃か、墳丘長54mの前方後円墳)や日本最南端の古墳として薩摩半島最南端に位置する指宿市の弥次ヶ湯古墳(5世紀末前後の円墳、径18m)があることから、九州島全域が「衆夷六十六国」に含まれているとする古田説は妥当と思われます。
 なお、宮崎県南部や鹿児島県東部には南九州独自の地下式横穴墓が分布しており、九州王朝に併合された在地勢力・文明の存在がうかがわれます(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四十八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②宮崎県えびの市の島内地下式横穴墓群114号墓(六世紀前半)から、龍の銀象嵌がある長さ98cmの大刀が出土している。倭国に併合された南九州在地勢力の王墓ではあるまいか。古賀達也「洛中洛外日記」1502話(2017/09/17)〝「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理〟を参照されたい。


第2465話 2021/05/18

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(6)

   ―西都原古墳群の事実と解釈―

 九州王朝説にとって、「倭の五王」時代(5世紀)における〝不都合な事実〟の中でも、わたしが最も深刻に感じたのは、全国屈指の規模とされる西都原古墳群の存在でした。河内や大和の巨大古墳群の存在に対しては、これまで古田学派の解釈は次のようなものでした。

(1)中国史書に見える倭国とは北部九州の九州王朝のことである。
(2)従って、高句麗や新羅と戦っていた倭国とは九州王朝である。
(3)長期にわたり戦争を続けていた九州王朝に巨大古墳を造り続けることはできない。
(4)九州王朝があった北部九州に巨大古墳群がないのは当然であり、むしろ倭国が九州王朝であったことを証明している。
(5)この点、巨大古墳群がある河内や近畿の勢力(後の大和朝廷)は高句麗や新羅とは戦っていなかったことの反映であり、倭国を大和朝廷のこととする通説が間違っていることを示している。

 この理解は妥当と思いますが、通説論者への説得力としては十分ではありません。というのも、〝国内最大規模の古墳群を造営できるのは国内最大の権力者であり、それを大和朝廷(倭国)とすることは最も有力な理解である〟という主張を否定しにくいからです。また、〝北部九州の権力者が高句麗や新羅と戦ったのは、大和朝廷の命令によりなされたもの〟という通説も簡単には揺らぎません。
 西都原古墳群にも同様の解釈により、日向地方の勢力は参戦していなかったので巨大古墳群造営が可能だったという説明ができないこともないのですが、次のような問題があります。

(ⅰ)倭王武の上表文によれば、倭国の領域は九州全域が含まれていると考えられ、その中で西都原だけが巨大古墳造営が許された理由が不明である。
(ⅱ)日向の勢力が参戦しなかった理由を説明できない。
(ⅲ)西都原古墳群に次いで隣国の大隅にも唐仁古墳群が登場するが、南九州での巨大古墳造営の背景について説明できていない。

 このような〝なぜ西都原の巨大古墳が「倭の五王」の時代(五世紀)に登場したのか〟という疑問に、わたしたち古田学派は説得力ある説明に成功していません。(つづく)


第2464話 2021/05/17

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(5)

 ―考古学の実証(出土事実)と論証(出土解釈)―

 「倭の五王」時代(5世紀)の考古学的出土事実について紹介してきましたが、それら出土事実が何を意味しており、どのような解釈が可能かという点について考えてみます。言わば、学問における実証と論証に関するテーマです。
 例えば、古田先生は「筑後川の一線」という概念を提示され(注①)、弥生時代と古墳時代(正確には5世紀後半以降)では、墳墓の分布領域が筑後川以北から以南に移動するという考古学的事実を実証的に示され、その理由を、主敵が南九州の〝隼人族〟から北の高句麗・新羅に替わったためとする解釈により説明されました。そして、弥生時代の邪馬壹国(博多湾岸)とその後継王朝の「倭の五王、多利思北孤」が、共に「筑後川の一線」を防衛ラインとして利用していることは、いずれをも筑紫の王者と見なす九州王朝説と相対応しているとされました。
 あるいは、王都に消費財(須恵器)を大量に供給する、5世紀の須恵器窯跡群が筑後川北岸地域に分布している考古学的事実を根拠として、「倭の五王」の王都候補地として筑後川両岸地域が有力ではないかとする仮説をわたしは提起しました(注②)。詳述すれば、筑後川以南の水縄連山に装飾古墳が密集するのは5世紀後半であることから、「倭の五王」時代の前半は筑後川北岸領域(朝倉・夜須)に、後半になって以南の筑後地方(浮羽・三井・三潴)に王都を置いたのではないか。そして、7世紀(多利思北孤の時代)になると、再び筑後川以北(太宰府条坊都市)に遷都したのではないかと考えています(注③)。
 これらの仮説は九州王朝説にうまく整合しており、比較的有力な説と思われるのですが、一方で、5世紀最大の都市遺構は北部九州ではなく、大阪上町台地であることや、九州島内だけでも5世紀の最大古墳群は南九州の西都原古墳群であることなどは、従来の九州王朝説ではうまく説明できません。しかし、自説に不都合な事実を無視・軽視するのは学問的態度ではありませんし、そもそもエビデンスを無視したり明示しない議論は不毛です。これらの〝不都合な事実〟を九州王朝説の視点でどのように解釈・説明できるのかという、わたしたち古田学派の論証力(考古学や文献史学の史料事実に基づき、論理的に説明する姿勢と説得力)が試されているのです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2461話(2021/05/14)〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(3) ―須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」―〟
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年6月。
 古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第2463話 2021/05/15

関西例会、奈良市で初開催!

 本日、奈良新聞社本社ビルで「古田史学の会」関西例会が開催されました。大阪府での緊急事態宣言が延長され、予定していたドーンセンターが使用できなくなったためで、奈良市での関西例会開催は初めてのことです。会場を提供していただいた奈良新聞社に感謝しています。
 6月は福島区民センター(参加費1,000円)で開催します。午後は恒例の古代史講演会(共催)を開催、その後、「古田史学の会」会員総会を予定しています。しかしながら、コロナ禍により変更・中止の可能性もありますので、ホームページの告知欄をご確認下さい。
 今回のリモートテストには、西村秀己さん(司会担当・高松市)、杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査、伊丹市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)、別役政光(古田史学の会・会員、高知市)、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)ら10名が参加されました。
 今回の発表では、正木さんの天武紀の史料批判と『海東諸国紀』の九州年号記事との比較検証は圧巻でした。その主たる仮説は、九州王朝による常色年間(647~651)の改革記事が『日本書紀』天武10年から14年の五年間に見える大改革記事へと移動させられているというものです。この九州王朝による「常色の改革」は『日本書紀』に見える「大化の改新」に匹敵するとして、『日本書紀』の造作過程を推定されました。
 中でも、『海東諸国紀』中の九州年号記事がこの正木仮説に整合していることを明らかにされたことに驚きました。『日本書紀』が転用した九州王朝記事と『海東諸国紀』の九州年号記事が、同系列の九州王朝系史料に基づいていることをも推定させ得る仮説でした。正木さんが提唱されてきた『日本書紀』の〝34年遡り現象〟が前提にある仮説ですが、この方法論の有効性を改めて認識できた研究でした。論文発表が待たれます。
 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔5月度関西例会の内容〕
①天武紀の大改革記事の虚構(川西市・正木 裕)
②リンクする倭の五王と百済王の謎(大山崎町・大原重雄)
③近畿に残る金石文に関する考察(茨木市・満田正賢)
④国生み神話の再検証(八尾市・服部静尚)
⑤天孫降臨についての考察(奈良市・原幸子)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日)

参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
06/19(土) 10:00~12:00 会場:福島区民センターより会場変更

会場変更 奈良新聞本社西館3階

〒630-8001 奈良県奈良市 法華寺町2番地4
   ※午後は古代史講演会と会員総会を開催します。
   ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新の情報をホームページでご確認下さい。

◎古代史講演会《共催》 参加費:無料
 共催:古代大和史研究会、誰も知らなかった古代史の会、市民古代史の会・東大阪、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会
06/19(土) 13:00~16:00 会場:福島区民センターより会場変更

会場変更 奈良新聞本社西館3階

〒630-8001 奈良県奈良市 法華寺町2番地

「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚功さん
 「考古学から見た邪馬壹国 ―博多湾岸説―(仮題)」 講師:正木 裕さん
 ※講演会終了後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会員の皆さんのご参加をお願いします。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 05/17(月) 13:00~17:00 会場:壽光寺コンサートホール(大阪市西成区)
 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)
 「能楽の淵源と筑紫の舞楽」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/25(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王③」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 06/22(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社本社西館3階
 「伊勢王④」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 05/21(金) 中止

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 06/26(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―神話と歴史―」 講師:服部静尚さん
 07/24(土) 14:00~16:30 「邪馬壹国と卑弥呼の世界」 講師:服部静尚さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 《未定》

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第2462話 2021/05/15

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(4)

 ―九州最大の西都原古墳群(日向国)―

 消費財である土器(須恵器)を都市へ供給する須恵器窯跡群の分布という視点から、「倭の五王」の王都候補地として筑後川両岸の地(朝倉郡・夜須郡・浮羽郡・三井郡・三潴郡)を挙げました。次に王墓(大型古墳群)の分布という視点から、王都候補地を検討してみます。「倭の五王」の陵墓ですから、少なくとも他地域よりも大型の古墳が五基以上存在する地域が候補地となります。
 吉村靖徳さんの『九州の古墳』(注①)によれば、北部九州においてこの条件をクリアできるのは筑後の八女古墳群とその西側に続く三潴の古墳群です。八女古墳群には九州王朝(倭国)の王、筑紫君磐井の岩戸山古墳(墳丘長138m)があり、その祖先の墓と推定されている石人山古墳(墳丘長110m、5世紀中頃の前方後円墳)があります。三潴には御塚古墳(墳丘長78m、5世紀後半のホタテ貝式古墳)と権現塚古墳(墳径51m、6世紀前半の円墳)があり、今は消滅していますが銚子塚古墳(墳丘長80m、前方後円墳)がありました。
 このように北部九州では5世紀の大型古墳は筑後地方に分布していますが、九州全体を見たとき、様相は一変します。宮崎県(日向)南部に規模・数量とも筑後地方を圧倒する巨大古墳群があるのです。それは西都原古墳群(注②)です。時代も5世紀が中心です。お隣の鹿児島県東側(大隅)にも5世紀の唐仁古墳群(注③)があります。その代表的な古墳を紹介します。

《宮崎県(日向)》
女狭穂塚(176m、5世紀前半の前方後円墳) ※九州で最大の古墳。
男狭穂塚(155m、5世紀前半の帆立貝式前方後円墳) ※九州で2番目の規模の古墳。
児屋根塚(110m、5世紀前半の前方後円墳)

《鹿児島県(大隅)》
唐仁大塚(墳丘長154m、5世紀初頭頃の前方後円墳) ※九州で3番目の規模の古墳。
横瀬古墳(墳丘長134m、5世紀初頭頃の前方後円墳)

 5世紀における九州王朝の王都の場所を考える上で、倭国王にふさわしい大型古墳の分布という視点から判断すると、王都の最有力候補地は南九州の西都市地域となってしまいます。もちろん、その探索範囲を日本全体にまで拡大すると、河内の古墳群へと落ち着きます(注④)。(つづく)

(注)
①吉村靖徳『九州の古墳』海鳥社、2015年。全ページカラー写真付きの好著。
②宮崎県西都市にある、3世紀末から6世紀代にわたって造営された300基を越す古墳群。前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基、地下式横穴墓、横穴墓からなる。国内最大級の古墳群として知られ、5世紀前半代には九州最大規模の前方後円墳・女狭穂塚を擁する。
③鹿児島県肝属郡東串良町にある。前方後円墳4基と130基を越す円墳からなる鹿児島県内最大の古墳群。唐仁大塚(墳丘長154m、5世紀初頭頃)は西都原古墳群の女狭穂塚・男狭穂塚に次ぐ九州内3番目の規模。
④この視点を重視した結果、河内の巨大前方後円墳群を九州王朝の王墓とする論者(吉田舜『九州王朝一元論』葦書房刊、1993年)もある。古賀達也「洛中洛外日記」1498話(2017/09/09)〝大型前方後円墳と多元史観の論理(4)〟を参照されたい。


第2461話 2021/05/14

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(3)

 須恵器窯跡群、筑後・肥後・豊後「空白の5世紀」

 「倭の五王」の王都を筑後とする仮説(注①)をわたしは発表していますが、それは主に文献史学の研究によるものでした。他方、考古学的にはその王宮にふさわしい5世紀の遺構が当地からは出土しておらず、また王都に大量に供給したであろう土器(須恵器)の窯跡群が筑後地方に現れるのは6世紀の八女窯跡群からであり、5世紀の窯跡群は見当たらないようなのです。こうした考古学的遺構の未発見という弱点を持つ仮説でもありました。そこで、今回は北部九州における須恵器窯跡群について紹介し、「倭の五王」の王都について改めて検討することにします。
 石木秀哲さんの「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」(注②)に掲載された、5~9世紀における北部九州における須恵器窯跡群の変遷表によれば、「倭の五王」時代(5世紀)の須恵器窯跡群が筑後・肥後・豊後にはなく、肥前(神籠池窯跡・後期)と豊前(居屋敷窯跡・中期)はそれぞれ一カ所だけで、活動時期は5世紀の一時期となっています。筑前は五カ所と多いのですが、太宰府に須恵器を供給した九州最大の牛頸(うしくび)須恵器窯跡群(注③)の活動は6世紀からであり、6世紀末から7世紀初頭に急拡大します。他方、わたしの研究では太宰府が九州王朝の首都として成立するのは7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)からです(通説では7世紀末)。従って、牛頸須恵器窯跡群の発生と太宰府条坊都市の造営・活動時期と対応しています(注④)。
 このような北部九州の須恵器窯跡群の活動時期という視点からは、太宰府を5世紀の「倭の五王」の王都とすることは困難です。5世紀の前期から中期・後期の間、継続して須恵器を製造した窯跡群は筑前夜須郡の小隈・山隈・八並窯跡群だけなのです。筑後川北岸部に位置する同窯跡群は日本列島中最古の須恵器窯跡の可能性があると見られています(注⑤)。この考古学的出土事実を重視すれば、「倭の五王」の王都はこの地域か近隣地域と考えることができます。筑後川を渡河すれば筑後への提供がそれほど困難ではありませんから、王都の候補地は筑後川北岸の夜須郡・朝倉郡と南岸の浮羽郡・三井郡・三潴郡となります。(つづく)

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第4集、新泉社、1999年。
②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』(2017年2月、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集)
③牛頸須恵器窯跡群は、堺市の陶邑窯跡群、名古屋の猿投山(さなげやま)窯跡群と並んで、古代日本の三大須恵器窯跡群とされる。
④古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟において、次のように論じた。
〝牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数は一気に急増するとあり、まさにわたしが太宰府条坊都市造営の時期とした7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡と考えられます。
 また7世紀中頃に編年されているⅤ期に牛頸での土器生産が減少したのは、前期難波宮副都の造営に伴う工人(陶工)らの移動(「番匠」の発生)の結果と理解することができそうです。〟
⑤中村浩『須恵器』柏書房、1990年。
 中村浩『古墳時代須恵器の編年的研究』柏書房、1993年。


第2460話 2021/05/13

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(2)

 ―古墳時代の最大都市、大阪上町台地―

 弥生時代最大の都市遺構、比恵・那珂遺跡群(福岡市)の出土事実は邪馬壹国博多湾岸説や九州王朝説にとって有利な考古学的エビデンスですが、同遺跡群が衰退する5世紀の古墳時代になるとその様相が変化します。その一つは河内や大和の巨大古墳群の存在です。他地域を圧倒するほどの規模と数であり、このことは通説(大和朝廷一元史観)に有利で、わたしは〝九州王朝説に突き刺さった三本の矢〟の一つと表現しました(注①)。〝三本の矢〟とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》六世紀末から七世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》七世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 国内最大規模の巨大古墳が近畿に最密集するということは、それだけの権力と労働力・生産力を有する王権が近畿に存在していたことを示しています。更に、巨大古墳だけではなく、5世紀になると国内最大規模の倉庫群を有す大都市が大阪上町台地に登場します。

 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(注②)

 なお、この上町台地(法円坂)から、7世紀中頃の日本列島最大規模の宮殿と官衙群が出土します。すなわち、5世紀の都市化と7世紀の巨大宮殿《三の矢》が当地に出現することは無関係ではないと考えています(注③)。
 上町台地の都市化について、次の報告(注④)もあります。

 「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した。」
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」(南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」)

 このように、5世紀の考古学は従来の九州王朝説にとって〝不都合〟な出土事実も少なくありません。ですから、規模の比較だけで倭国の王都の位置を論じられるほど問題は単純ではありません。(つづく)

(注)

①古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢(前編)」『古田史学会報』135号、2016年8月。
 古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)」『古田史学会報』136号、2016年10月。
 古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢(後編)」『古田史学会報』137号、2016年12月。

②杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
③古賀達也「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年12月。
④南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月。


第2459話 2021/05/12

「倭の五王」時代(5世紀)の考古学(1)

 ―最重要エビデンスは「筑後川の一線」―

 「洛中洛外日記」2458話(2021/05/11)〝九州王朝と大和朝廷の「都督」(2)〟において、「倭の五王」の王都の場所を論じるとき、見解が異なる論者に対しても説得力のあるエビデンス(考古学的出土事実)の明示が不可欠であると、次のようにわたしは述べました。

 「太宰府遺構を5世紀の『倭の五王』の王都とする見解についても、〝考古学的根拠(5世紀の王宮の出土)がない〟と一蹴されて終わりでしょう。日本古代史学が人文科学である以上、こうした批判(エビデンスの明示要請)は避けられないのです。」(「洛中洛外日記」2458話)

 そこで、「倭の五王」時代(5世紀)の考古学的出土状況を概観し、「倭の五王」の王都を推定するためにはどのようなエビデンスが存在するのかについて解説し、王都の位置について論究します。
 その場合、古田学派として参考とすべき指針は古田先生の論文「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」(注①)です。その論旨は次の通りです。
 〝弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に移動する。それぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷している。その理由は、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられる。〟
 この論文は古田学派内からもほとんど注目されてきませんでしたが、「倭の五王」の王都が博多湾岸から筑後方面へ移動したことを示唆しており、貴重です。
 次いで、近年の研究で明らかになった比恵・那珂遺跡群(福岡市)の時代的変遷も重要な考古学的事実として注目されています。博多湾岸に位置する比恵・那珂遺跡群は弥生時代最大規模の都市遺構です。ところが5世紀以降になると衰退し、再び都市化するのは6世紀後半以降です。2018年12月、大阪歴史博物館で開催されたシンポジウム(注②)の資料集には次のように説明されています。

 「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた比恵・那珂遺跡群は5世紀以降衰退期を迎える。それが再び、都市化していくのは6世紀後半以降で、官家の設置が大きな契機と考えられる。」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、76頁。(注③)

 ここで指摘されているように、弥生時代最大の都市、比恵・那珂遺跡群は5世紀から6世紀後半頃まで衰退していたとあり、この衰退期間に〝「倭の五王」の時代〟がスッポリと入るのです。この考古学的事実は、古田先生の「筑後川の一線」説と見事に対応しており、「倭の五王」の王都を探る上で貴重なエビデンスとなります。更に、〝弥生時代最大規模の都市〟というからには、その地は俾弥呼が都とした邪馬壹国内にあったことを指示し、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を証明する遺構でもあります(注④)。従って、この比恵・那珂遺跡群の盛衰は、「三世紀から五世紀、『倭国』の都城・首都は移動していない」とする見解(注⑤)とは相容れない考古学的事実のようです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『筑後川の一線』を論ず ―安本美典氏の中傷に答える―」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
②総括シンポジウム『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』2018年12月22日~23日、大阪歴史博物館講堂、大阪市博物館協会大阪文化財研究所主催。
③菅波正人「那津官家から筑紫館―都市化の第二波―」『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』
④邪馬壹国と比恵・那珂遺跡については、次の論稿を参照されたい。
 正木 裕「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集、明石書店、2021年)
⑤草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。