九州王朝(倭国)一覧

第2440話 2021/04/22

「倭王(松野連)系図」の史料批判(7)

 ―祖先は天照大神か太伯か―

 多元史観・九州王朝説を支持する、わたしたち古田学派の研究者が「倭王(松野連)系図」を扱いにくかった理由として、史料批判の難しさがありましたが、より根源的には倭王の始祖を呉王夫差とする同系図の基本姿勢が、九州王朝の祖神を天照大神とする古田説と相容れなかったことにあります。すなわち、天孫降臨による〝建国〟なのか、中国からの移動による〝転国〟なのかという歴史の大枠に対する理解の問題があったのです。
 この問題は国家権力側にとっても、自らの権威の正統性にかかわる重要問題です。大和朝廷は『古事記』『日本書紀』で主張しているように、天照大神による「天壌無窮の神勅」(注①)による天孫降臨を自らの権威や支配の正統性の根拠としています。他方、日本の神々や皇祖と異国の君臣が混雑した系図系譜を厳しく取り締まっていることが『日本後紀』(注②)に記されています。

 「勅、倭漢惣歴帝譜図、天御中主尊標為始祖、至如魯王・呉王・高麗王・漢高祖命等、接其後裔。倭漢雑糅、敢垢天宗。愚民迷執、輙謂実録。宜諸司官人等所蔵皆進。若有挾情隠匿、乖旨不進者、事覚之日、必処重科。」『日本後紀』平城天皇大同四年(809年)二月五日条

 天御中主尊を始祖とし、中国や朝鮮の王家との繋がりが記されている『倭漢惣歴帝譜図』を「禁書」とする詔勅が記されています。この『倭漢惣歴帝譜図』の始祖伝承は、呉王夫差や太伯を始祖とする「倭王(松野連)系図」や『晋書』『梁書』の記述とは倭漢の関係性が真逆です。このような例もあることから、呉王夫差を始祖としながら、九州王朝の「倭の五王」へと繋がる「倭王(松野連)系図」の信頼性(史実性)を調べる作業、すなわち史料批判は困難を窮めるのです。(つづく)

(注)
①『古事記』「上巻」に次の記事がある。
 「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ。」
 『日本書紀』「神代下 第九段(一書第一)」に次の記事がある。
 「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就(い)でまして治(し)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌と窮(きわま)り無けむ。」
②『日本後紀』は『続日本紀』に続く正史で、六国史の第三にあたる。成立は承和七年(840年)で、延暦十一年(792年)から天長十年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。全40巻(現存10巻)。


第2439話 2021/04/21

「倭王(松野連)系図」の史料批判(6)

 ―「呉王夫差」始祖伝承の痕跡―

 前話に於いて、「倭王(松野連)系図」の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたとしました。次に、同系図のもう一つの主張、「呉王夫差」始祖伝承について検討します。
 鈴木真年氏の稿本「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」(注①)の冒頭部分には次の人物名が並びます。

 「夫差《呉王》 ― 公子慶父忌 ※― 阿弓《怡土郡大野住》 ― 宇閇《》 ― (後略)」《》内は傍注。
 「※― ○ ― ○― (中略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され、「阿弓」へと繫ぐ。)
 「※― 順《》 ― (八代略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され九代続き、同系図の「卑弥鹿文」の子供の位置に繫ぐ。)

 このように鈴木真年氏の稿本には複数の所伝が書き込まれており、複数の「松野連系図」に基づいて、異伝も加筆書写された姿を示しているようです。このことから、同系図のいずれかが現代も御子孫に伝わっている可能性があります。全国の松野姓の分布状況などを調査すれば、系図をお持ちの御子孫が見つかるのではないでしょうか(注②)。
 鈴木真年氏と親交のあった中田憲信氏による稿本「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」(注③)の冒頭部分は次のようです。

 「松野連 姫氏
 呉王夫差 ― 忌《字慶父》《孝昭天皇三年来朝 住火国山門菊池郡》 ― 順《字去□》《居于委奴》 ― 恵弓 ― (後略)」 《》内は傍注。□の字は、わたしの持つコピーからは読み取れない。

 鈴木真年氏の稿本とは異なっており、別の異本によるのかもしれません。しかし、呉王夫差を始祖とする点は同じですから、九州王朝内にこうした伝承を持ち、それを誇る氏族がいたと考えられます。このことを示唆する史料が中国史書にあります。唐代に成立した『晋書』と『梁書』です。

 「(前略)男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身(顔や身体に入墨)している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。(後略)」『晋書』倭人伝

 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身(入墨)がある。(後略)」『梁書』倭伝

 『晋書』は3~5世紀の西晋・東晋、『梁書』は6世紀の梁を対象とした史書ですが、その著者は『晋書』が房玄齢(578~648年)、『梁書』が姚思廉(?~637年)。成立は『晋書』が648年、『梁書』が629年です。この7世紀前半に成立した両書に、「呉の太伯の後裔」記事が現れ、倭国からもたらされた情報であると記されています。
 史書ではありませんが、同じく唐代成立の『翰苑』(注④)の「倭国」条にも次の記事が見え、同条に引用されている『魏略』(注⑤)にも「自謂太伯之後」の記事があり、それによれば同伝承史料の存在が3世紀まで遡ることになり、注目されます。

 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」

 「(前略)自帯方至女國万二千余里。其俗男子皆黥而文。聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 これらの中国(唐)側の認識に対応しているのが、「倭王(松野連)系図」に記された〝主張〟です。同系図に遺された始祖伝承と通じる伝承(注⑥)が、7世紀前半成立の『晋書』『梁書』に記されていることから、同伝承の成立が7世紀前半以前であることがわかります。このことも、同系図の始祖伝承が後代の造作ではないことを指示しています。(つづく)

(注)
①尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、1頁。
②例えば、柿本人麻呂の御子孫「柿本氏」が佐賀県に分布しており、人麻呂を含む同氏の系図が伝わっている。その内の一つのコピーを古田先生からいただいている。機会があれば「洛中洛外日記」でも紹介したい。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、4頁。
④唐代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は、日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。
⑤中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。著者は魚豢(ぎょかん)。成立年代は魏末から晋初の時期と考えられている。
⑥呉は中国の春秋時代に存在した国の一つで、国姓は姫(き)である。周王朝の祖の古公亶父の長子の太伯(泰伯)が次弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国とされ、紀元前12世紀から紀元前473年、7代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。従って、「倭王(松野連)系図」で始祖を呉王夫差とすることは、太伯を始祖とすることにもなる。


第2438話 2021/04/18

「倭王(松野連)系図」の史料批判(5)

 ―傍注「評制」記事の証言―

 「倭王(松野連)系図」に記されている傍注記事中に「評」や「評督」が見え、同系図の成立過程の一端をうかがうことができます。先に同系図傍注に次の評制(評督)記事があることを紹介しました(注①)。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
    ※「 」内は人物名。《》内はその傍注。

 これは7世紀頃の人物に付記されたもので、7世紀後半が評制期であることがわかっている現代のわたしたちにとっては当然の表記です。しかし、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に伴い、8世紀から郡制に変更となります。この郡制は近代まで続いており、歴史学上の〝郡評論争(注②)〟以前の人々(系図蒐集者の鈴木真年を含む)には、そもそも評制という歴史概念さえありません。ですから後代(郡制の時代)において、「評」を「郡」に書き換えることはできても、「評」への改変造作は不可能なわけです。従って、同系図に見える「評制」記事は、7世紀後半時点であれば執筆可能な表記であり、すなわち、その記事原文は九州王朝時代に成立した可能性が高いのです。遅くとも、「評」の記憶が系図編纂者に残っている時代の成立と考えざるを得ません。
 こうした視点に立ったとき、同系図の次の傍注にわたしは着目しました。「倭の五王」の三世代前の「宇也鹿文」という人物の傍注です。

 「火国菊池評山門里住」(注③)

 「倭の五王」の三世代前なので、3世紀末から4世紀初頭に相当しますから、地名表記として「火国」は妥当ですが、「菊池評」という評制期の行政区画は存在しません。従って、この傍注は7世紀後半に成立したと考えられます。こうした史料状況により、少なくとも「宇也鹿文」から「牛慈」「長堤」までの系図部分は7世紀後半に成立したと考えることができます。同時に、このような「評制期」記事の後代造作は困難であるため、歴史事実を反映した傍注記事を持つ系図としての評価が可能です。
 こうした理解により、同系図の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたことになります。この理解は、「倭の五王」が近畿ではなく、北部九州(少なくとも肥後から筑後に至る範囲)を拠点とする王権(倭国)であったことを強く示唆します。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2436話(2021/04/16)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(4) ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―〟。
②7世紀以前の行政区画名が『日本書紀』に見える「郡」とするのか、金石文や古代史料に遺る「評」とするのか、戦後の日本古代史学界で続いた学問論争。出土木簡などにより、650年頃から700年までは「評」、701年からは「郡」であることで決着した。古田武彦先生は、評制を九州王朝(倭国)が制定したものであり、王朝交替により大和朝廷が郡制に変更したとした。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、63頁。「火国菊池評山門里」は熊本県菊池市付近が対応する。『和名抄』に「肥後国菊池郡山門郷」が見え、古代に遡る地名であることがわかる。


第2437話 2021/04/17

進展する7世紀の九州王朝研究

 本日、ドーンセンターにて「古田史学の会」関西例会が開催されました。5月もドーンセンター(参加費1,000円)開催です。今回はZoomシステムによるリモートテストとして、西村秀己さん(司会担当・高松市)、杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査、伊丹市)、松中祐二さん(九州古代史の会・北九州市)、萩野秀公さん(古田史学の会・会員、東大阪市)が参加されました。「古田史学の会」会員でもある松中さんは二十年来の友人で、「古田史学の会」と「九州古代史の会」との交流開始にあたっては両会の橋渡し役をしていただきました。お昼休みの役員会もリモートで実施しました。
 今回の発表はいずれも7世紀の九州王朝を対象としたもので、ハイレベルで新たな視点があり、『日本書紀』や『万葉集』を読み込んでいなければ深く理解できないようなテーマでした。特に刺激を受けたのが、服部さんと正木さんの研究でした。服部さんは、九州王朝(倭国)が受容した仏典(法華経、無量寿経)の差異に着目され、十七条憲法は女性の推古よりも、男性の多利思北孤が公布したとする方が妥当と説明されました。このような着眼点は今までにはなかったもので、新鮮でした。
 正木さんは、『日本書紀』に見える持統の伊勢行幸記事(692年)は、その34年前の九州王朝の伊勢王による糸島半島「伊勢」行幸と蝦夷国への軍事行動記事が改変転記されたものとする仮説を発表されました。持統6年の伊勢行幸記事は矛盾や誇張が大きく、言われてみればおかしな内容でした。正木説はそれらを解決できる一つの仮説と思われました。

 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔4月度関西例会の内容〕
①日本書紀の前から作られた太子伝説 (大山崎町・大原重雄)
②仏教と聖徳太子 ―法華経と無量寿経― (八尾市・服部静尚)
③蘇我氏の時代の近畿に関する考察 (茨木市・満田正賢)
④柿本人麻呂「近江荒都歌」の解釈について (たつの市・日野智貴)
⑤「伊勢王」の呼称と糸島なる伊勢 (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
05/15(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
06/19(土) 10:00~12:00 会場:福島区民センター
      ※午後は古代史講演会と会員総会を開催します。

◎古代史講演会 参加費:無料
 共催:古代大和史研究会、誰も知らなかった古代史の会、市民古代史の会・東大阪、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会
06/19(土) 13:00~16:00 会場:福島区民センター
「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚功さん
 「考古学から見た邪馬壹国 ―博多湾岸説―(仮題)」 講師:正木 裕さん
 ※講演会終了後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会員の皆さんのご参加をお願いします。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 「古代大和史研究会」特別講演会のご案内
◇日時 2021/04/24(土) 13:00~17:00
◇会場 奈良新聞本社西館3階
◇参加費 500円
◇テーマ 卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会
◇講師・演題(予定)
 古賀達也(古田史学の会・代表) 九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―
 大原重雄(『古代に真実を求めて』編集部) メガーズ説と縄文土器
 満田正賢(古田史学の会・会員) 欽明紀の真実
 服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長) 日本書紀の述作者は中国人ではなかった
 正木 裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師) 多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた

 04/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/17(月) 13:00~17:00 会場:壽光寺コンサートホール
 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)
 「能楽の淵源と筑紫の舞楽」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/25(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王③」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 05/21(金) 18:30~20:00 「『神武東征説話』の再検討② 盗まれ地降臨神話」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 05/08(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―神話と歴史―」 講師:服部静尚さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 04/29(火) 13:00~16:00開催中止
開催中止 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん
開催中止「九州王朝官道の終着点」 講師:古賀達也

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第2436話 2021/04/16

「倭王(松野連)系図」の史料批判(4)

 ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―

 「松野連系図」と呼ばれている「倭王(松野連)系図」を初めて読んだとき、わたしは不思議に思ったことがありました。前話で述べたように、〝「長堤」は「筑紫前国夜須郡」の「松狭野」に住んでいたとあるが、松狭野(まつおの)あるいは「松野」という地名は管見では夜須郡やその付近には現存していないようである。江戸期の地誌にも見えない。〟のです。
 同系図にある「夜須評」「夜須郡」は福岡県朝倉郡筑前町の「夜須」地名に対応しますが、現代の地図や江戸期の古地図・地誌(注①)には、「松野」や「松狭野(まつおの)」(注②)という地名が見つかりません。似たような地名には「松延」(注③)がありますが、そのものずばりの「松野」地名が見つからないのです。このことをずっと不思議に思ってきました。ところが25年ほど前に「松野」という地名を記した本を目にしました。開米智鎧編『金光上人』(注④)という本で、次の記事が見えます。

 「上人は、筑後国松野郷、筑紫西海辺船関守、長安寺国平安直、其の室女平小路良子を父母として、松野城に御生まれになりました。時に寿永「久寿の誤り」二年(一一五五)一月一日。幼名を白龍丸と称しました「疑問状」。松野城「実は館」は地名に因み、弥生館は旧名、白雲城は、唐風に新築してからの名で、松野の地は秋風録に太刀洗郷だとあります。」(同書10頁)
 「略年表
 久寿二年 一一五五 当才
  一・一 筑後国松野郷「太刀洗、秋風録」、弥生館に生まる。父は長安寺国平、母は平小路良子「要」。」(278頁)

 金光上人の両親と誕生についての所伝を記したもので、ここに見える「疑問状」「秋風録」「要」とは「和田家文書」(注⑤)と思われます。同書によれば、松野郷は「筑後国太刀洗(たちあらい)」(注⑥)にあったとされ、そこは「夜須郡(評)」と隣接する筑後川北岸の地です。金光上人生誕伝承はその年次を平安末期(久寿二年、1155年)と伝えており、平安末期には当地に松野郷という地名が存在していたことをうかがわせます。現在、地元でも見つからない松野連の故地名「松野郷」が、平安末期頃の伝承として遺されている和田家文書の史料価値は高いのではないでしょうか。
 このように、松野連の名前の由来となった「松野郷」が平安末期に存在していたことを示す史料が見つかり、「倭王(松野連)系図」の地名に関する7世紀段階の傍注記事の信頼性が高まったことは、史料批判における一定の成果です。(つづく)

(注)
①杉山正仲・小川正格『筑後志』(1777年成立)、貝原益軒『筑前国続風土記』(1709年成立)、他。
②地名ではないようだが、筑前町栗田に「松狭(まつお)八幡宮」があり、注目される。天徳四年(960年)の創建と伝えられている。
③福岡県朝倉郡筑前町松延。当地には松延池もある。
④開米智鎧編『金光上人』1964年、藤本幸一発行、非売品。
⑤青森県五所川原市の和田家(和田喜八郎氏)に伝わった大量の史料群。江戸期成立の『東日流外三郡誌』を代表とする伝承史料集。
 『金光上人』巻末に収録された「新出史料」(和田家文書のこと)一覧に「建保四年(一二一六) 甲野 秋風録」が見える。
⑥現、福岡県三井郡大刀洗町。


第2435話 2021/04/15

「倭王(松野連)系図」の史料批判(3)

  — 庚午年籍と松野連(まつのむらじ)

 鈴木真年氏が収集した「倭王(松野連)系図」は、通常「松野連系図」と呼ばれています。今回は松野連について検討します。同系図では松野連の始祖を呉王夫差としますが、9世紀初頭に成立した『新撰姓氏録』(注①)の「右京諸藩上」には、松野連について次の様に記されており、自らを呉王夫差の末裔とする松野連が古代に於いて存在していたことは確かなようです。

 「松野連 出自呉王夫差也」(『新撰姓氏録の研究 本文篇』295頁)

 同系図(注②)によれば、「倭の五王」の「武」の後に「哲」(傍注「倭国王」)、次に「満」と〝中国風一字名称〟の人物が続き、その後に「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」へと続きます。ここで注目されるのが次の傍注です。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
 「津萬呂」《甲午籍負松野連姓》
  ※《》内が傍注。「大野」「廣石」には傍注なし。

 これらの傍注が系図原文にあったものか、鈴木真年氏による付記なのかという問題はありますが、「牛慈」が夜須評督になったこと、「長堤」が「筑紫前国夜須郡松狭野」に住んでいたこと、「津萬呂」が甲午籍により「松野連」姓になったことを示しています。この傍注から次のことが想定できます。

①夜須評督になった「牛慈」は評制が施行された7世紀中頃の人物と思われる。「金刺宮御宇」とは欽明期を意味するが、これは『日本書紀』の認識に基づき、後世になって付記されたものである。
②「長堤」は「筑紫前国夜須郡」の「松狭野」に住んでいたとあるが、松狭野(まつおの)あるい「松野という地名は管見では夜須郡やその付近には現存していないようである。江戸期の地誌にも見えない。
③筑前国を「筑紫前国」と古い表記が使用されており、この部分は系図原文にあったと考えられる。それとは逆に、「夜須郡」という表記は「評」が「郡」に書き換えられたもので、本来は「夜須評」だったと思われる。「小治田朝」も推古期を意味するが、これも『日本書紀』成立以降の後代に付記されたと考えられる。
④「津萬呂」が「甲午籍」により「松野連」姓をもらったとあるが、「甲午」は694年だが、この年に造籍があったとする史料痕跡はない。同音の「庚午」(670年)の年に造籍された庚午年籍があり、「甲午」は「庚午」の誤写と考えるのが妥当である。
⑤以上のことから、「牛慈」「長堤」「大野」「廣石」「津萬呂」は7世紀の人物であると推定できる。

 なお、『埋もれた古代氏族系図』2頁掲載の〝稿本〟(注③)には「大野」は見えず、7頁の別筆跡の〝稿本〟(注④)では、「大野」が割り込み加筆された跡があり、このことから「大野」は鈴木真年氏とは別人(注⑤)による加筆と思われます。従って、本来形では「牛慈」「長堤」「廣石」「津萬呂」の四代が7世紀の人物と考えられます。(つづく)

(注)
①佐伯有清『新撰姓氏録の研究 本文篇』吉川弘文館、1962年。
②尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年。(64~65頁)
③「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」との表記がある。
④「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」との表記がある。
⑤『埋もれた古代氏族系図』(34頁)によれば、鈴木真年の協力者として親交のあった中田憲信(よしのぶ)の名前をあげており、『諸系譜稿』(国立国会図書館所蔵)に収録された「松野連倭王系図」は、中田が「鈴木の蒐集本をさらに筆写したもの」とする。


第2433話 2021/04/13

「倭王(松野連)系図」の史料批判(2)

 ―鈴木真年氏の偉業、膨大な系図収集―

 「倭王(松野連)系図」の史料批判に入る前に、同系図を収集した鈴木真年(すずき・まとし)氏について紹介します。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からいただいた尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)の「鈴木真年年譜」によれば、氏の経歴は次のようです。要事のみ抜粋します。

1831年(天保二年) 1歳 江戸神田鎌倉河岸に生まれる。幼名房太郎、のち今井源太また真年と改める。(古賀注:ウィキペディアによると、煙草商橘屋の主・鈴木甚右衛門(今井惟岳)の嫡子として生まれる。)
1849年(嘉永二年)19歳 紀州滞在中、古代来朝人考・御三卿系譜の草稿成る。
1861年(文久元年)31歳 栗原信充に入門の礼をとる。主に系譜の学を学ぶ。
1864年(元治元年)34歳 栗原信充薩州に赴く。師を送り専ら独学。
1865年(慶應元年)35歳 紀州藩の懇請を受け藩士となり系譜編集事業の任につく。熊野本宮に居を定める。熊野神社の関係事業にも参画する。
1866年(慶應二年)36歳 この頃織田家系草稿成る。
1867年(慶應三年)37歳 この頃諸系譜草稿成る。
1868年(明治元年)38歳 この頃諸家譜草稿成る。
1869年(明治二年)39歳 七月弾正台設立。紀州藩を去って弾正台に入る。
1870年(明治三年)40歳 この頃諸国百家系図草稿成る。
1871年(明治四年)41歳 百家系図六十四冊版本完成。九月弾正台廃止となり、司法省が設置される。十一月八日弾正台より宮内省に転ず。内舎人を奉仕。俳号を松柏と称う。
1872年(明治五年)42歳 四月五日雑掌に任ぜられる。この頃諸氏家牒・武家大系図(真年稿)成る。
1873年(明治六年)43歳 五月二十五日宮内省を辞す。七月三日司法省に入る。十一等出仕に補せられる。
1874年(明治七年)44歳 浅草蔵前の文部省所管の図書館員を兼務する。十一月五日名法中属に任ぜられる。
1875年(明治八年)45歳 この頃諸家系譜(二十六冊)成る。五月四日司法権中権に任ぜられる。
1876年(明治九年)46歳 十二月二十一日司法省を辞す。
1877年(明治十年)47歳 古家大系図(真年稿)草稿なる。
1878年(明治十一年)48歳 華族諸家伝草稿成る。明治新版姓氏録二冊完成。十月玉養堂より苗字盡解明二冊を出版。引続き名乗字盡略解、諸家系図取調所を出版。
1879年(明治十二年)49歳 史略名称訓義(版本)二冊出版。十一月十三日印刷局に入り巡回事務取調掛となる。
1880年(明治十三年)50歳 五月三十日華族諸家伝三巻出版。十月二十日印刷局を辞し十二月二十七日参謀本部編纂課に入り当省御用掛を申し付られ月俸五十円を受ける。住居は浅草区浅草小島町八番地。
1881年(明治十四年)51歳 この頃三才雑録成る。
1882年(明治十五年)52歳 九月十三日東京地学協会社員となる。
1883年(明治十六年)53歳 六月二十四日亜細亜協会賛成会員に推薦さる。古事記正義三冊草稿成る。
1884年(明治十七年)54歳 九月日本事物原始第一集を古香館より出版。十一月皇族明鑑(二冊)を博公書院より出版。十一月八日陸軍省御用掛を辞す。住居は牛込区簞笥町十六番地。
1885年(明治十八年)55歳 五月八日陸軍省総務局庶務課に転ずる。十月三十日陸軍省を辞す。
1886年(明治十九年)56歳 この頃系図叢・松柏遺書草稿成る。
1887年(明治二十年)57歳 山縣有朋・田中光顕邸にて古事記の講義を一週に二回行う。又交詢社に於ても講義をする。古事記正義(一巻)を出版。交詢社の名誉会員に推される。十二月二十六日修史局に入る。
1888年(明治二十一年)58歳 皇族明鑑(二冊)版本成る。十月十三日帝国大学における大日本編年史の編纂に従事し総裁重野安繹氏の下で働く。日本外史正誤成る。
1889年(明治二十二年)59歳 六月八日皇族明鑑増補再版。十月十一日爵位局戸籍課を兼務す。十一月八日辞す。
1890年(明治二十三年)60歳 十一月一日藤島神社の依頼により新田族譜を編集出版。住居は牛込区横寺町一〇番地。
1891年(明治二十四年)61歳 この春鴻池家その他知人の懇請により三月三十一日帝大を辞し単身大阪に赴く。大阪にて国学校の設立等を計画、熊野神社復興にも力を盡す。裾野狩衣を大阪朝日新聞に連載。
1892年(明治二十五年)62歳 大阪積善館より裾野狩衣を出版。住居を大阪市南区東清水町三百九十七番地に定めて東京より家族を呼ぶ。
1893年(明治二十六年)63歳 主として系譜の編集に従事し傍ら熊野神社を中心として国学校設立を運動する。専ら国教達成に努める。
1894年(明治二十七年)64歳 四月十五日胃弱にて大阪市南区東清水町三百九十七番地に逝去。葬儀は大阪の自宅にて仏式を以て行い、一年祭も同様大阪の地で行う。遺骸は後東京雑司ケ谷甲種四号地に葬る。戒名は松柏院頼誉天鏡真空居士。

 この「鈴木真年年譜」によれば、幕末に系図学を学んだ鈴木真年氏は明治新政府において国家的事業としての系図収集や編纂に携わっていたことがうかがえます。
 生涯をかけて収集・編纂した系図は膨大な数にのぼり、代表的な系図集として『百家系図稿』(21冊)、『百家系図』(63冊)、『諸氏家牒』(3冊)、『諸氏本系帳』(8冊)、『諸国百家系』(2冊)などがあり、今回、史料批判を試みようとする「倭王(松野連)系図」は『百家系図稿』(静嘉堂文庫所蔵)と『諸系譜稿』(国会図書館所蔵)に収録されているとのことです。
 わたしは鈴木真年氏はもとより、氏のこうした業績を全く知りませんでした。尾池誠さんも『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』において、次のように述べています。

 「言語に言いつくせないほどの業績を残しているにもかかわらず、鈴木真年らは不当な評価を受けたまま注目されることもなく現在に至ったというわけである。」(42頁)

 非力ではありますが、鈴木真年氏の業績の一部(「倭王(松野連)系図」)でも、多元史観・九州王朝説の視点から再評価できればとわたしは考えています。(つづく)


第2432話 2021/04/12

「倭王(松野連)系図」の史料批判(1)

 ようやくこの日がやってきました。今までその重要性を疑ったことはないものの、史料批判の方法がわからず、手をつけてこなかったテーマがありました。真偽不明、かつ魅惑的な史料、「倭王(松野連)系図」の研究です。
 今から16年前のことです。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)のコピーをいただきました。そのときのことを「洛中洛外日記」29話(2005/09/18)〝松野連系図と九州王朝系譜〟で次のように記しています。

 〝9月17日、古田史学の会関西例会が行われました。(中略)
 今回、興味深かった発表の一つが、飯田満麿さん(本会会計)の「九州王朝の系譜」でした。九州王朝、倭王の系譜復原の試みとして、高良玉垂命系図と松野連系図、それに『二中歴』の九州年号を重ね合わせた試案を提示されました。ベーシックな研究ですが、こうした基礎的で地道な研究も大切です。
 九州王朝系系図の中でも、以前から注目されていたものが「松野連系図」です。倭の五王の名前なども見え、他方、近畿天皇家の天皇は含まれないという系図ですが、そのまま全面的に信用できたものか、疑問点も少なくありません。いずれ、しっかりとした史料批判を行って、当系図の研究を進めたいと願っています。なお、例会当日、松野連系図のコピーを幸いにも竹村順弘さん(会員・京都府木津町)からいただくことができました。この場をおかりして御礼申し上げます。〟

 呉王夫差を始祖として、倭の五王(讃、珍、済、興、武)の名前が記されている同系図は古田学派の研究者に早くから注目されてきました。しかし、古田先生が本格的な研究対象とされることはありませんでした。わたしも、このような真偽不明の史料に手を出すのは危険と感じていましたし、何よりもどの程度信頼できるのかという史料批判の方法さえもわかりませんでした。もしかすると、『日本書紀』や『宋書』の記事を自家の系図に取り入れた、後代に造作された系図かもしれないからです。
 しかし、この系図のことが気になったまま何年も過ぎたのですが、永年勤めてきた化学会社を昨年定年退職し、ようやく研究時間がとれるようになり、この系図に真正面から向かい合うことにしました。どのような結論に至るのかはまだわかりませんが、しばらく思考実験にお付き合い下さい。(つづく)


第2426話 2021/04/08

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その4)

正木 裕

 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)には「総括論文」として、先に紹介した谷本 茂さんの「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」と並んで、正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)の「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」が掲載されています。
 この正木論文では、最新の考古学的発見が古田説の正しさを証明しているとして、福岡市の比恵・那珂遺跡が弥生時代最大規模の都市遺構であることや、近年立て続けに発見されている弥生の硯が福岡県を中心に数多く分布していること、銅鏡の鉛同位体分析の結果から三角縁神獣鏡が国産であることなどが紹介されています。更には『三国志』の里程記事の実証的な分析から、短里説(1里=約76m)の正しさを改めて証明されました。
 また、『俾弥呼と邪馬壹国』に収録された正木さんの別の論文「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」では、倭人伝に見える用語や漢字が周王朝に淵源していることに論究されており、倭人伝研究の最先端テーマを次々と手がけられていることがわかります。
 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」の最後に書かれた「まとめ」を以下に転載します。〝「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になる〟という指摘は、まさに学問(古田史学)の真髄です。

【以下、転載】
 『「邪馬台国」はなかった』発刊五十年を迎える。依然としてヤマト一元説は広く喧伝されているが、本稿で述べたように、近年の考古学や諸科学の発展により、五十年前に古田氏が唱えられた「博多湾岸邪馬壹国説」の正しさが、改めて証明されることとなった。
 また一方で、単なる砥石状の破片と見られていたものが、弥生期に遡る文字使用を示す硯だったことがわかった。これは「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になることを示している。
 私たちの前にある「モノ」や「文献」を、一元史観による思い込みにとらわれず、もう一度多元史観により解釈することで『「邪馬台国」はなかった』で示された古田氏の事績をさらに豊にできることになろう。(54頁)


第2425話 2021/04/07

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その3)

–谷本 茂「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)には「総括論文」として、谷本 茂さんの「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波 ―『「邪馬台国」はなかった』に対する五十年間の応答をめぐって―」が掲載されています。編集部に送られてきたこの谷本稿を読んで、わたしは予定していた巻頭言の内容を大きく変更することにしました。
 当初、巻頭言には、『「邪馬台国」はなかった』の研究史的位置づけと発刊後の影響について紹介する予定でしたが、谷本稿にはそれらが詳しく書かれており、わたしが巻頭言で触れる必要などないほどのみごとな内容でした。まさに渾身の論文と言えるものです。
 谷本さんはわたしの〝兄弟子〟に当たる古田学派の重鎮であり、京都大学在学中から古田先生と親交を結ばれており、『「邪馬台国」はなかった』創刊時からの古田ファンです。研究者としても、短里問題の論稿「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」(『数理科学』1978年3月号)を発表されたことは著名です。古田先生の『邪馬一国の証明』(角川文庫、1980年)にも、「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 ―『周髀算経』の里単位―」を寄稿されています。
 今回の「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」には、いくつもの示唆に富む指摘が見えますが、論文末尾に記された「邪馬壹国の位置論」に関する〝考古学的主張〟に対する次の警鐘は秀逸です。

【以下、転載】
 最近の「邪馬台国」位置論は、『魏志』倭人伝の正確な解読よりも、考古学的遺物の出土分布と年代推定の結果に依拠する傾向が強まっている。しかし、「邪馬壹国」「卑弥呼」「壹与」は、『魏志』倭人伝の記事に依拠して言及されるべき研究対象であり、「倭人伝の正確な読み方をひとまず棚上げにして、考古学的見地からだけ「邪馬台国」の位置を論じる」という研究姿勢は、一見、科学的で慎重な姿勢の様で、実は総合科学の見地からはほど遠いものである。基本として『魏志』の記事に依拠しなければならない「邪馬壹国」研究が、文献を離れて「考古学的な独り歩き」をしている非論理的な現状が、「邪馬台国」「台与」の使用に象徴的に発現しているといっても過言ではないであろう。つまり『「邪馬台国」はなかった』の書名そのものが古代史学界の現状への鋭い問題提起の象徴であること、その状況が残念ながら依然として続いている。
 (中略)
 「邪馬壹国の位置論」が科学的検証に耐える理論として古代史学界の共通認識になる水準に進んでいくための、輝かしい道標の一つとして、刊行後五十年の『「邪馬台国」はなかった』は、現代においても不朽の価値を有するのである。〈29~30頁〉


第2424話 2021/04/06

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その2)

〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟

              を部分転載

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の「巻頭言」草稿の後半部分にあたるのが〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟です。副題として「―古田武彦氏が用いた論理と系―」があったのですが、〝系〟という言葉の意味が分かりにくいのではとの懸念もあって、削除しました(本文中には使用しました)。この〝系〟という概念は、ある頃から古田先生が論証方法の説明に使用され始めたものです。わたしの本職の有機合成化学では一般的に使用される用語ですが、人文科学ではあまり見かけない言葉(概念)かもしれません。
 以下、〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟を部分転載します。

『「邪馬台国」はなかった』のすすめ
            古賀達也

 『「邪馬台国」はなかった』をまだ読まれていない方へ

 『「邪馬台国」はなかった』をこれから初めて読まれる方は、同書の結論だけではなく、その結論を導きだす実証的な学問の方法にきっと驚かれるはずだ。たとえば、『三国志』倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼(ひみか)が都とした国が「邪馬臺(やまたい)国」ではなく、邪馬壹(やまい)国と倭人伝原文にはあること。そして、この「壹」は〝字形が似ている「臺」の字の誤り〟としてきた従来の「邪馬臺(台)国」説に対して、著者は『三国志』の「壹」と「臺」の全用例を調査され、両者が混同されたり、取り違えて使用された例が無いことを明らかにした。この『三国志』内の特定文字の全数調査という、それまで誰も行ってこなかった画期的かつ実証的な方法を駆使して、倭人伝研究を異次元の高みへと古田武彦氏は引き上げた。
 あるいは、『三国志』で使用されている距離単位「里」の全調査により、一里が約七六メートルであることを実証的につきとめ、倭国の都である邪馬壹国(女王国)の中心地が博多湾岸であることを算出した。ここでも、従来説が採用してきた一里約四三五メートルの漢代の「長里」ではなく、一里約七六メートルの「短里」で『三国志』が書かれていることを実証的な方法により明らかにした。後に、この短里の存在が中国最古の天文算術書『周髀算経』でも確認された。
 このように学問の方法を示しながら結論へと導く『「邪馬台国」はなかった』は、優れた推理小説を読むような、あるいは理知的な自然科学論文を読むような感動を読者に与えるであろう。わたし自身も、そうした感動をもって同書を読み終えた多くの読者の一人だ。あなたが古代に真実を求めるのであれば、「古田武彦の世界」(古田史学)への扉をぜひ開けていただきたい。その体験は、あなたのこれからの人生を変えることになるかもしれない。

 『「邪馬台国」はなかった』を既に読まれた方へ

 あなたの書架に『「邪馬台国」はなかった』が既にあれば、冒頭の「はじめに」を開いてみて欲しい。その末尾にある次の文に、同書における学問の方法(論理とその系)の出発点が示し尽くされている。

 「しかし、だれも本当に信じなかった。『三国志』魏志倭人伝の著者陳寿のことを。
 シュリーマンがホメロスを信じたように、無邪気に、そして徹底的に、陳寿のすべての言葉をまじめにとろうとした人は、この国の学者、知識人の中にひとりもいなかったのである。(中略)
 はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。
 その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社版、四~五頁

 「陳寿を信じとおす」という学問の方法

 「陳寿を信じとおす」という学問の方法とは、著者が東北帝国大学法文学部で村岡典嗣(つねつぐ)氏(一八八四~一九四六)から学んだフィロロギーに他ならない。(中略)
 論理的に考えて、おおよそ以上のような情報の移動・交信という背景のうえに倭人伝は書かれている。従って、「陳寿を信じとおす」とは、こうした論理展開(いわゆる「系」)を前提として成立した陳寿の認識(倭人伝原文)を再認識するということであり、それは倭人伝読解において、「すなおに理性的に原文を理解」することに他ならない。

 論理の導く所へ行こうではないか

 「はじめから終わりまで陳寿を信じ切った」結果得られた邪馬壹国説、短里説、博多湾岸説、二倍年暦説、倭人の太平洋横断説などが、従来の大和中心史観(「邪馬台国」畿内説)と異なっていようが一致していようが、おそらく著者にとってはどうでもよいことであったはずだ。なぜなら、わたしには古田氏に私淑した三十年のなかで、幾度となく聞かされてきた次の言葉があったからだ。
 いわく、「論理の導く所へ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」。いわく、「学問は実証よりも論証を重んずる」。いわく、「論証は学問の命」。
 これらの言葉は古田氏の生涯を貫いた学問研究の道標だ。『「邪馬台国」はなかった』においても、巻末の「あとがき」冒頭に次の文が記されている。(中略)
 この「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である」という言葉に、先の「論証は学問の命」と通底する著者の気迫と学問精神がうかがえるのではあるまいか。であれば、「陳寿を信じとおす」という学問の方法の行き着く先がどこであっても、著者が怯(ひる)むことはありえない。著者を師と仰ぎ、本書を上梓したわたしたちもまた、同様である。(後略)


第2423話 2021/04/05

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その1)

「巻頭言 読者の運命が変わる瞬間(とき)」を転載

 先月末に刊行した『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の読みどころをシリーズで紹介します。まずはわたしが書いた「巻頭言 読者の運命が変わる瞬間(とき)」を転載します。本書の構成や位置づけを説明した短文です。
 元々は後半部分の〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟と一体をなすものでしたが、編集部からのご意見により分割しました。特に茂山憲史さんからは、「もっと情熱的な文章に」と叱咤していただいたことが思い出されます。

〔巻頭言〕読者の運命が変わる瞬間(とき)
     古田史学の会 代表 古賀達也

 読む人の運命を劇的に変える本があります。もし、あなたが日本古代史に関心があるならば、次の本を心からお薦めします。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』(朝日新聞社、一九七一年。ミネルヴァ書房より復刻)です。
 昭和四六年(一九七一)に発行され、ベストセラーとなった著者の古代史処女作である同書の発刊五十周年を記念して、わたしたちは本書『卑弥呼と邪馬壹国 ―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五十周年―』(『古代に真実を求めて』二四集)を上梓しました。収録した特集論文は、いずれも「古田史学の会」の研究者による最新の研究成果から精選されたもので、先に出版した『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房、二〇一六年)の続編の性格も持っています。この機会に併せ読んでいただければ幸いです。
 本書の特集は総論・各論・コラムからなり、総論では『「邪馬台国」はなかった』発刊以来の歴史、著者の学説と学問の方法、提起された諸仮説の発展の高みを概観できます。各論では、その高みから諸仮説の深層をのぞき見ることができます。そして、コラムにより諸仮説の広がりを感じ取ることができるよう、工夫がこらされています。
 古田武彦氏は二〇一五年十月に鬼籍に入られましたが(享年八九歳)、その学問と学説は本書執筆陣に脈々と受け継がれています。本書を読まれたあなたにも、真実を愛する精神と情熱を共有できることでしょう。そのとき、あなたの運命は大きく変わるはずです。わたしたちがそうであったように。
  〔令和二年(二〇二〇)十二月一日、筆了〕